難病を抱える人も社会に貢献している(下)病気の人が果たすべき分

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130121病床2半のエントリでは、難病のために働くことができない人であっても、立派に社会に貢献しているといえる3つの理由を考えました。難病のため、目に見える働きができない人にも、健康で働くことのできる人たちと同等の価値があるのです。

しかし、健康であれば必ず社会に貢献しているとは言えないように、病気の立場の人も、自己中心的に生きるのではなく、自分の分を果たしてはじめて、社会的に評価されます。

わたしたち病気の患者はどのようにして自分の分を果たすことができるでしょうか。状況は一人ひとり異なるので、特にわたし個人について書いた私的なものと思って読んでいただけたら幸いです。

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病気の人たちが果たすべき

慢性疲労症候群(CFS)を研究している名古屋大学の伴信太郎先生らの論文には、「休業補償などのある種の疾病利得が回復を遅らせているかもしれないと思われる患者」もいると率直に書かれています。その落とし穴を避けることは大切です。

「働かざるもの食うべからず」という慣用句のことを考えてみましょう。これはレーニンがマルクス主義に基づき、「働かない者は害悪なので見捨てればよい」という意味で用いた標語とされています。日本でもよく聞く言葉として浸透しました。

しかし皮肉なことに、この言葉は、マルクスが「人民のアヘン」としていた宗教の一部である、キリスト教の新約聖書に基づいており、意味もまったく異なるそうです。というのは、原文では「働かない者」ではなく「働きたいと思わない者」という意味合いがあるからです。(参照:志村建世のブログ: 働かざるもの食うべからず)

 この歴史ある言葉の考えに基づけば、健康な人たちは、働けないからといって、病気や障害を抱える人たちを社会から切り捨てるべきではありません。同時に病気や障害を抱える人たちは、働けないとしても、何らかの仕方で社会に貢献したいと思う意欲を失うわけにはいきません。

福祉制度は、病気や障害を持つ人を支えるものであって、その人たちが果たすべき責任を取り去るものではないのです。定職を持つ人が、責任を果たすときに、一定量の賃金をもらえるのと同様です。福祉制度を正しく活用することは当然の権利ですが、乱用するなら、それは盗みに等しくなってしまいます。

病気の人が自分の責任を果たすにあたって、望ましいのはもちろん公の仕事につくことですが、そうできる人はわずかです。前半のエントリで述べたように、社会に貢献するとは、単に定職について働くということだけを指すわけではありません。

もし治療する方法があるのなら それに精一杯励む、毎日少しでも周りの人のためにできることをやってみる、ひとたび絶望から立ち直ることができたなら闘病をあきらめない、それが病気の人の果たすべき分だと思います。

あるオールブライト症候群の少年の話

病気の人が自分の分を果たすということの一例として、あるとき友人から聞いた話を書き留めておきたいと思います。友人が話してくれたのは、重症の多骨性線維性骨異形成、オールブライト症候群の少年の話です。

その少年は、非常に重い骨の変形や異常増殖のため、車椅子で生活していました。特に顔の骨の異常増殖がひどく、頭蓋骨の外部に骨がどんどん形成されて、(このような言葉は使いたくないのですが) およそ人間とは思えない容貌になってしまっていました。

当然ながら異常増殖した骨のせいで激しい痛みが生じるので、何度か顔の骨を削るという手術を受けたそうです。一度に1kgも削ったと聞いています。あまりの悲惨さに看護婦さんが泣きだしてしまうほどでした。

重い症状は顔だけにとどまらず、体ではかえって骨粗鬆になり、簡単に骨折する危険があったといいます。骨がゆがむので、内臓も圧迫されて、いろいろなひどい症状が生じていました。

この少年について話してくれた友人は健康な人です。しかしかわいそうで悲惨な話としてこの話をしてくれたわけではありません。むしろ、とても大きな励みを与えてくれたすばらしい友として彼のことを話してくれたのです。どういう意味でしょうか。

たとえ小さな働きでも

彼の病気は幸いにも(彼の場合には幸いと言ってよいと思うのですが)、彼の思考力を一切損ないませんでした。頭蓋骨の内部には骨の異常増殖はなかったため、彼は明晰な思考を保ち、とても考え深い人に成長しました。

彼は決して生きることをあきらめませんでした。夢を追い求め、積極的にできることを行いました。外出するなら、その容貌ゆえひどい扱いを受けることは分かっていましたが、彼はいろいろな人のため進んで出かけました。

あるとき、いつも支えてくれるお母さんにプレゼントをしたいと思い、手を動かすだけでできる簡単な方法でお父さんの仕事を手伝いはじめました。お金としての稼ぎとしてはほんの僅かでしたが、後にお母さんと一緒にデパートに出かけ、日傘をプレゼントしました。

彼について友人が語ってくれたことはほかにも多くありますが、わたし自身、個人的な面識がないので、この程度にとどめておきます。ただひとつ明らかだったのは、彼の存在は、今なおわたしの友人に忘れがたい励みを与えているということでした。

彼は残念ながら、およそ20歳で亡くなったそうです。しかしそれからかなりの歳月が経っているのに、友人は今なお、彼から励みを得ているのです。彼は定職に就けませんでしたが、だからといって社会に貢献しなかったとはだれもいえません。堂々と闘病し、感謝と優しさを忘れず、難病患者として自分の分をりっぱに果たしたのです。

人間の価値とは

この話は一例に過ぎず、だれもが同じようにできるというわけではありません。追い詰められて精神的に余裕がなく、身動きが取れなくなってしまう状況も多くあります。しかし重い病気があっても、周りの人のためにできることがある、という一例にはなると思います。

彼と同様、およそ人間とは思えない外見の問題で非道な扱いを受けた「エレファントマン」ことジョセフ・メリックは、こう語ったそうです。

私の姿がどこかおかしいのは事実だ
しかし私を咎めることは神を咎めることだ

…私は精神によって測られるべきである
精神こそが、人間のもの差しなのだから

人間の価値は、必ずしも目に見える働きの量で測られるわけではありません。小さな働きでも、そこに深い愛情や熱意がこもっているなら、周りの人に忘れがたい印象を残します。

アルベルト・アインシュタインは、「人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる」と述べたと言われています。

難病の人も、他の人のために、与えることのできるものを何がしか必ず持っています。それゆえに、社会において健康な人に劣るどころか、かけがえのない価値があるのです。

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