小児CFSの本「学校過労死―不登校状態の子供の身体には何が起こっているか」(上)

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なぜ彼らの訴えが多彩なのだろう?
なぜ朝起きることができないのだろう?
なぜ1日のうちに極端な体調不良と好調の波があるのだろう?
なぜ昼夜逆転の睡眠が起こるのだろう?
なぜ暴力的になる人がいるのだろう?
なぜうつ状態が現れるのだろう?
なぜ集中力が落ちているのだろう?
なぜ知識が頭に入らなくなるのだろう?
家ではニコニコと元気にしているのに、なぜ学校に行けないのだろう?
ゲームは何時間でもできるのに勉強がなぜできないのだろう?  (p8)

学校過労死―不登校状態の子供の身体には何が起こっているか登校の子どもの親であれば、例外なく、こうした疑問を毎日のように感じておられると思います。

学校過労死―不登校状態の子供の身体には何が起こっているかはこれらの疑問に医学的な観点からあますところなく答えてくれる、不登校を科学的に研究した最初の書籍です。

しばしば言われるように不登校は、「生き方の選択」「学校嫌い」「怠け」「心の未熟さ」「能力の欠如」「根性が足りない」「親の育て方のせい」なのでしょうか。それらの考え方には本当に根拠がありますか。前半のエントリでは不登校に対する誤解について考えます。

▼シリーズ記事「小児CFSの本」

小児CFSの本では、子どもの慢性疲労症候群に直接言及している本を紹介しています。

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これはどんな本?

過労死。とても悲惨な言葉です。日本初の言葉であり、今や外国の辞書にまでKaroshiとして載るまでになった、日本の文化であり病理です。

大人の過労死は生体リズムの破綻によるものと考えられていますが、そのおおもとには自律神経機能のバランスの破綻があるそうです。交感神経の過緊張状態が、副交感神経を抑えこみ、体が休まらなくなるのです。

不登校になる子どもたちは、文字通り死ぬわけではありませんが、そこには過労死に似た生体リズムの破綻がみられるようです。なぜなら、ある子どもたちは…

彼らの労働時間は1日10時間をはるかに越え、大人たちの労働時間短縮の掛け声など無関係に増え続けている事実がある一方で、

…日曜・祝日は、試験だ! 部活だ! と登校し、がんじがらめの校則のなかで極めて“禁欲的”で“休みのない”生活を強いられているからです。  (ⅲ)

さまざまな精神的・身体的・生物学的ストレスが重なりあうと、脳機能が常に興奮した状態になります。その結果、過労死のように死に至る代わりに、思春期の発達途上の睡眠相が破綻し、成人の慢性疲労症候群と似た状態になるとされています。

このブログでは、不登校の子どもに生体リズム障害や激しい疲労がみられることをずっと書いてきました。それらは今は小児慢性疲労症候群(CCFS)と呼ばれるようになっています。

しかしこの本は、まだ、小児慢性疲労症候群(CCFS)という言葉も国際診断基準もない時期に書かれました。この本は今に至る不登校状態の子どもの医学的研究の最初期に位置し、不登校と慢性疲労症候群を結びつけた画期的な書籍なのです。

この学校過労死―不登校状態の子供の身体には何が起こっているかをリメイクしたものが、近年出版された不登校外来―眠育から不登校病態を理解するです。

今になって古いほうの書籍を読む必要があるのだろうか、という思いはありますが、古い時代の書籍だからこそ、現代に至る研究の流れをつかむことができ、わかりやすく感じる部分もありました。

不登校とは…ではない

不登校について話す人たちは、不登校は「生き方の選択」「学校嫌い」「心の未熟さ」「能力の欠如」「根性が足りない」「親の育て方のせい」などと、さまざまな心情的な理由をつけて説明しようとします。しかしそれは本当に正しいのでしょうか。

不登校をさまざまな言葉で説明しようとしてきたのは「医学が無力である時期に子供たちを支えた大人たちの必死の頑張りだったと高く評価」されるべきものです。

本書の著者も「私たちも先人たちのおかげでいつも不登校状態の彼らを立派な人格をもった人たちであるという思いで見まもってくることができた」と書いています。(p6)

しかし今や時代は変わりました。不登校の子どもを科学的・医学的な観点で調査し、彼ら一人ひとりと向き合って話を聞いてきた結果、まったく異なる事実が浮き彫りになりました。

生き方の選択ではない

不登校の子どもに「なぜ学校に行かないのか」と尋ねても、明確な答えが返ってくることはめったにありません。それで大人たちは自分を納得させようとして、不登校は生き方の選択だ、つまり学校に行って勉強するより、家で気ままに過ごすことを選んだのだと考えました。

とんでもない誤解です。不登校状態の子どもを調べると、その多くは不登校より「前」から極めて高度な全身の倦怠感、昼夜逆転の睡眠、脳血流の低下などの身体症状が表れているからです。こう書かれています。

「学校に行かないで生きる生き方」の選択により学校に行かなくなったために、二次的に身体症状が現れるという説明は当を得たものではありません。

もし自分の生き方を選んだのであれば、どうしてこのように体調を崩さなければならないのでしょうか。

彼らはこの多彩な症状のために、「ドクターショッピング」とよばれる数多くの病院受診をした経験をもっています。

…彼らの体調が悪いことは誰も疑う余地はないのですから、その異常がどう医学的に説明できるのかが残された問題なのです。

「どこも悪くない」というのは、「医療サイドが診断技術をもっていない」というだけのことなのです。 (p10-11)

体調が悪いと訴える子どもを、「お医者さんで異常が出なかったのだから」と仮病扱いし、心の問題呼ばわりするのは、子どもの気持ちを度外視したことです。

学校嫌いではない

不登校になるのは学校嫌いだからだ、という人もいます。わたしの友人は、不登校になったとき、精神科の医師から、「学校、好きか?」と聞かれて怒りが爆発したそうです。

確かに不登校の子どもは「学校なんか行くもんか」と言うときもあります。しかし医学的にみると、それは学校嫌いではありません。こう説明されています

精神的・肉体的疲労が著明になって学校に行けなくなった時点では、ともかく学校から離れたいという気持ちが強く、そのことだけに気持ちが集中されていたとしても、

休養が取れ、少し自分を振り返る気持ちが戻ると同時に、学校に行けなくなった自分を責める気持ちは強くなる一方になってきます。(p22)

学校に行けなくなったこと自体が様々な身体症状をさらに憎悪させることがありますが、これらの症状は二次的なものというよりも、「学校に行けないことによる不安が症状を一層強くしたもの」と解釈すべきであると考えます。

それほど学校に通うことは彼らにとって「すべて」であるのです。不登校状態にある彼らこそが、最も学校に通いたがっているのです。 (p28)

不登校の子どもたちが学校に行けないのは、学校を離れて体を休めようとする脳の回避行動です。それは反射的、トラウマ的な反応であるため、本人はなぜ学校に行けないのか自分でもよく分からず説明できません。

学校嫌いであるどころか、学校に行くことにむしろ執着しているため、なぜか学校に行けない自分がもどかしくてたまりません。それを不登校、学校嫌いなどと呼ぶのは不適当です。

怠けではない

不登校の子どもたちの大部分は「怠け」と言われて傷ついた経験を持っています。これは正しい評価でしょうか。

彼らは周囲に「怠け」だと考えられていることも多く、自らもまた「怠け」だと感じているように思われます。

しかしこれらの人たちの身体状況を詳しく診てみると、慢性疲労症候群の診断基準を満たすことが少なくないことは先に述べましたし、検査の上でも多彩な異常を示すことがわかっています。

…そのような状況にありながら、自らを「怠け」と判断している彼らの「けなげさ」を大人たちはどうみているのでしょうか。(p22,24)

不登校状態の子どもの多くは、自分のふがいなさや周囲の期待を敏感に感じています。なんとかしてみんなと遊び、勉強したいと思っていますが、どれだけやる気があっても体はいうことを聞きません。

なぜ学校に行けないのか自分では理解できないので、「みんなそれくらい我慢している」と言われると、自分は特別ダメな人間なのだと感じ、自尊心を失い、自分を責めるようになります。(p112,116)

意欲はあっても脳機能のため動くことができず、「怠け」と言われて傷つくのは成人の慢性疲労症候群と共通する特徴です。

心の未熟さではない

不登校状態の子どもは、ときにひどく幼稚さを示すことがあります。ゲームばかりやってゴロゴロしていたり、被害意識が強くなったり、ちょっとしたことでわめいたりするかもしれません。

身の回りのことができなくなったり、自分で判断しなくなったり、言うことがコロコロ変わったり、異性になれなれしくなったりするかもしれません。

そのため、不登校になった子どもは心が未熟だったのだ、という人が多くいます。しかし本書ではその理由が医学的に説明されています。

現代の脳科学においてはこのような状態は未熟だからと考えるのではなく、納期の絵の一時的故障によると考えるべきです。

この故障状態では、最も高次な脳機能がまず低下するので、未熟な脳が表面化すると考えられるのです。(p65)

感受性の強い彼らにとって現代の学校社会のもつ様々な問題点は彼ら自身の生き方の模索とともに大量の情報となって脳内に溢れていきますので、海馬を中心とした脳機能のオーバーワークの原因となって情報処理が困難に…なります。

つまり脳機能の一部に異常興奮状態が起こることになり思考過程に混乱が生じます。…いろいろと時には人格的に首を傾げる状態をみることが多くなります。

…肝臓や腎臓と同じように脳だって人の臓器です。疲れることもあります。少し故障することもあります。このような症状、状況は脳機能の疲労による二次的な症状にすぎないのです。(p68-70)

未熟さは、情報過多や経験したことのない不安のために脳機能が疲弊するため現れる、不登校の結果であり、不登校の原因ではないのです。

能力の欠如ではない

不登校になる子どもは、学校教育についていくだけの能力がなかったのだ、と述べる人がいます。しかしそうではありません。こう書かれています。

不登校状態の彼らと話をしているときにしばしば感じることは物事を考えるタイプの人たちが多いということです。

…不登校状態の彼らは早押しクイズは苦手ですが、じっくりと理論を展開する学問には向いていると常々思います。

おそらく自らのリズムを守ることができていれば学校で十分に力を発揮することが可能であった人たちであり、また社会に出れば創造的な仕事や、社会の発展に寄与できる才能を発揮できる人たちであると感じるのです。 (p81)

社会はさまざまな個性の人が集まり、豊かになっていくものです。しかし、偏った教育というフィルターにより特定の個性の子どもがはじかれ、不登校として取り残されてしまいます。

創造性に関する最近の研究からすると、不登校になる子どもは、他の子どもが気にとめない多くの情報を意識的に処理する傾向があるのかもしれません。

【4/25】アインシュタインは認知的脱抑制の傾向があった【4/25】アインシュタインは認知的脱抑制の傾向があったはてなブックマーク - 【4/25】アインシュタインは認知的脱抑制の傾向があった

根性が足りないからではない

親は我が子が不登校になると、「同じように育ててきたはずなのに、なぜうちの子だけが…」と感じます。「みな同じ条件で頑張っているのに、根性が足りないんだ」と叱咤する人もいるかもしれません。

不登校になった人に対して、「甘えている」「責任転嫁している」「腹が立つ」と感じる人は多いようです。かくいうわたしも、不登校になった同級生を怠けであり、甘えであり、弱さの現れだと思って見下していました。

しかし本書にはこうあります。

偏差値教育を乗り越えたようにみえる人たちのなかに、危うく不登校になりそうな状態を経験し、根性で乗り越えたといっている人も多いことに注目していただきたいと思います。

…同じ麻疹に罹っても軽くてすむ人もいれば亡くなってしまう人もいるのです。自分も麻疹に罹ったが根性で治した、死んだ人は情けない、甘えている、ばかだ、といっているのと同じことなのです。 (p88-89)

個々の子どもの遺伝的特性は異なります。教育のあり方に疑問を感じない、考えない子どもほど不登校とは無縁かもしれません。環境はひとそれぞれ違うので、不登校になった人は根性が足りないということはできません。

むしろ労働災害のハインリッヒの法則によると、発症した子どもは学校という労働環境のひずみのほんの一角にすぎません。一人の生徒が不登校になるということは、他にも多くの生徒が危うく不登校になりかけるほど疲弊していることを示唆しているのです。

根性や気合、というものは、科学的に何ら根拠のない言葉です。「根性が足りなかったのだ」といっている人は、「運が足りなかったのだ」と言っているようなものです。それははたして意味のある指摘でしょうか

親の育て方のせいではない

子どもが不登校になると、必ず「家庭に問題があるのでしょう」という短絡的な人が現れます。それに対し、本書ではこう反論されています。

「大事に育てすぎたのでしょう」などと皮肉をいう人がいたりするものですが、温かい家庭に育ったことがどうして非難されなければならないのでしょうか。(p17)

私たちがお会いしてきた多くの人々の家族が特別な問題を抱えた人々であるということはほとんどなく、むしろ温かみのある優しい両親であることが多いとさえ感じており、

育ち方としては彼らは愛情に恵まれたいい育ち方をしている場合がむしろ多いといっても過言ではないと思っています。(p85)

ある人は子どもを過保護に育ててきたために、心が弱くなったというかもしれません。しかし、確かにそれが原因の一端に関わっているとしても、愛情深い親を責めることは間違っています。子育てを完璧に行える人などこの世には誰ひとりいないのです。

さらに、家庭環境の悪化は、原因ではなく、二次的なものであることが多いと書かれています。

学校は彼らの生活の場でありますから、彼らにとって学校は否定する対象にはなりえません。

そのために両親や家族、本人との関係に極めて病的な要素がでてくることも多く、この状態を家族関係テストなどで捉えた場合は二次的な問題を増幅して捉えることになり、家族にこそ病理があると周囲は結論してしまうことになってしまい、本質を見誤ることになります。(p86)

慢性疲労症候群や過労死した大人たちをつかまえて、「親の育て方が悪い」とでもいうのでしょうか。

家族の病理に本症の基本を求める姿勢は科学的とはいえない、状況証拠に基づくのみでいわば個人の価値観を持ち込んだ、親たちの苦悩を逆手に取るやり方であり、明らかに間違っていると考えます。(p87)

親は我が子が不登校になると、育て方が悪かったのだろうか、と不安な気持ちになり、自分を責めることがあります。悩んでいる親を励ますのではなく、純粋な心配に付け込んで非難するのは、確かに思いやりの欠けたことです。

子どもの問題、家庭の問題ではない

ここまでのところで、不登校は子どもの問題、また家庭の問題だといえない理由を学校過労死―不登校状態の子供の身体には何が起こっているかから引用してきました。

部分的に考えれば、子どもにも親にも、いくらか不登校につながるような特性はあったかもしれません。しかし原因をすべてそこに求めるのは、論理的ではなく、まったく無責任なことといえます。だれも完全な人などいないのです。

むしろ、原因のおおもとは別にあります。不登校の身体症状が過労死に酷似しているという事実はそれを強く裏付けています。子どもの不登校の原因はどこにあるのでしょうか、後半のエントリで取り上げます。

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