病名・診断名にアイデンティティを求めないということ―慢性疲労症候群の場合

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なたにとって、病名はどれほど大切ですか?

社会的な支えのためにないと困る、という程度でしょうか。それとも、交友関係や、患者会としての活動を支える大切なものでしょうか。

本来、病名は治療のための名札にすぎないはずですが、さんざん苦労を経験した末に診断された人の中には、病名にアイデンティティを求めてしまう人がいます。

慢性疲労症候群という病名にアイデンティティを求めるという不思議な話は、いろいろな人にあるものなのかはわかりません。実際わたし自身がそうしていたかというと、もしかしたらそうだったのかもしれない、と思い当たる程度です。

しかし、昨日この点について、少し考える機会があったので、個人的な思考の経過として、内容をまとめておきたいと感じました。

きっかけとなったのはアスペルガー症候群のブログの次のような記事を読んだことです。

発達障害であるというアイデンティティについて-アスペルガー症候群の人がよりよく生きるために

 

ここでは『診断までに適応に非常に苦労して、診断名によって「自分が悪かった訳ではない」と安堵する人もいる』ことによって、診断名にアイデンティティを求めるという行為が発生する過程が書かれています。

発達障害と慢性疲労症候群はぜんぜん違いますが、診断されるまで、非常に苦労して、自尊心を失ってしまい、慢性疲労症候群と診断されたときにすごくホッとするというのは、よく聞く話です。全く無縁の話とは思えません。

しかしそのことは問題を生む可能性があり、京都大学こころの未来研究センターの井芹聖文氏による自らの病の名を知ること、つけること 自己診断を手がかりにでは、

「病名の付与という診断が自身の抱える苦痛を軽減させ、その困難さとの関わり方を見出していく契機となる一方で、その名前の認識がかえって症状やその人自身を見失わせる可能性があること」に関する先行研究に触れられています。

これから書くことは、あくまで、個人的な感想の覚えがきであり、わたし自身、まだしっかりと考えをまとめられているわけではありません。もちろんだれかを非難したりするものでもありません。主にわたし自身の記憶の助けとして書いているものだということを覚えておいてください。

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病名にアイデンティティを求めてしまうということ

病名にアイデンティティを求めてしまうとはどういうことでしょうか。簡単に言うと、本来、人は一人ひとり個性的で独自のアイデンティティをもっているはずなのですが、なぜか病名を基準に自分を説明したり、解釈したりしてしまうようになることです。あるいは、自分の存在意義のなかで、病名が果たす役割が大きくなりすぎていることです。

■病気が自分の生活の一部になる

臨床心理士のカウンセリングで「自我同一性拡散」の状態に近いと指摘さ... - Yahoo!知恵袋 の回答者は、(特に精神的な疾患についてであるとはいえ)「一人の人間を一つの診断名や疾患名で括ることが、不自然かつ無意味であり、ややもすると治療に悪影響を及ぼすことが分かって来た」と述べています。

人は一人ひとり違うので、たとえある病気だと診断されたとしても、当てはまらない部分やはみ出ているところがあってもそれは当たり前のことです。病名は治療するための、または社会的保証を得るためにグループ化する、おおまかなくくりにすぎません。

しかし、やっと診断名がついたことにほっとして、その診断名を失うまいとするあまり、意識的にか無意識にか、自分をその病気の定義に合わせようとしてしまうことがあるかもしれません。

その病気らしくあろうと振る舞ってしまったり、その病気に当てはまらない症状があることをかえっておかしいことだと考えるのです。

臨床が変わる! PT・OTのための認知行動療法入門にという本によると、患者会などに入って、病気に関連した活動に忙しく携わるようになると、それによって助けられる部分も多いのですが、逆に予後不良の要因になるという研究もあるそうです。

慢性疲労症候群の場合、終生の障害ではなく一時的なものであるはずですが(少なくとも今のわたしは、そうとらえているのですが)、あまりに病気に関連して活動していると、それがアイデンティティの一部となり、病気の自分がふつうになってしまうのかもしれません。

■もし違う病名だった場合受け入れにくい

診断名は「確定診断」と誇張されたりしますが、実情を考えると仮の名前にすぎない可能性があります。

たとえば慢性疲労症候群の場合、疲労をもたらす病気はいろいろあり、現時点では専門医が慢性疲労症候群という診断名が妥当と判断しても、症状が変化したり、特殊な検査を受けたりしたことがきっかけで、別の病気だとわかる可能性があるかもしれません。

同じ中枢神経疾患で、検査ではなく主に症状で判別される病気にパーキンソン病や筋萎縮性側索硬化症がありますが、慢性疲労症候群はそれらと比べてもまだまだ曖昧な疾患概念な気がします。本当にすべてがすべて同じ病気なのかわたし自身疑問に思いますし、疲れる理由にも軽症患者と重症患者とで同じ病気なのか議論があることについて書かれています。

簡単な例として、仮に(あくまで仮の話です)、ずっと慢性疲労症候群に関連して、率先して活動してきた人がいるとします。その人にとっては、慢性疲労症候群の認知を広めることが生きがいであり、ライフワークであり、患者会もつくりました。ところが長年CFSとして活動してきた末に、実は別の病気だと判明した場合、どう思うでしょうか。

すんなり受け入れて治療に励む人もいれば、今まで確立したCFS患者としての人間関係を失うのを恐れる人もいるかもしれません。

■身体疾患であるであるということに固執する

ほかに、慢性疲労症候群の場合の特徴として、身体疾患という概念にこだわってしまう可能性もあります。「わたしは慢性疲労症候群と診断された、慢性疲労症候群は身体疾患である、ならばわたしには精神的な問題はないはずだ」、という三段論法に陥ってしまうと肝心な点を見落とすかもしれません。

双子の遺伝子――「エピジェネティクス」が2人の運命を分けるという本にはこんなくだりがありました。外国のCFS/MEの問題としては時折聞くタイプの話です。

IBSの患者の多くは、心身症という診断を極めて不名誉なことだと感じている。慢性疲労症候群を研究していたわたしの同僚の中には、患者から「殺すぞ」と脅され、研究領域を変更した人もいる。

もちろんこれは極端な例ですが、CFSに心の問題が幾分かでも関わっている、ということを受け入れがたく思う人たちがいます。

確かに精神的な症状は出ていないのは事実であるにしても、慢性疲労症候群の発症の原因には精神的なストレスが関与している場合があると疲労研究班は述べていますし、幼少期のトラウマが関係しているというヘイム氏の報告もあります。ストレスを抱え込みやすい思考パターンが存在している場合もあります。

実際には、精神的な症状と身体的な症状は深く関連している場合があり(心身相関)、両者を厳密に分けて考えることはできないかもしれません。

身体症状に注目した慢性疲労症候群という診断名にアイデンティティを求めるあまり、自分の心に存在するかもしれないストレスやトラウマから目を逸らしてしまうことがありえるのです。

しかしながら、こうした問題が生じるのは、やむを得ないことではあります。なんといっても、それまでずっと医師や周りの人から、気のせいだ、怠けている、仮病だ、などと非難されてきた辛い過去があるのですから。

今まで原因不明の疲労感でさんざん生きづらさを体験してきたので、病名がついたことはそれだけでとてもありがたく感じるものなのです。病名はとても重要な意味を帯びているので、病名を広く認知してもらうための活動にも携わりたいと思うのも自然なことです。

ですから、これらの例のように反応してしまうことが悪いわけではありません。ただ最初に引用したように「かえって症状やその人自身を見失わせる可能性がある」のです。

なお、こうした話について考えると、疾病利得に関する指摘も出てくるのですが、体調が悪いのは事実なのであり、病気であることでむしろいろいろな苦労もしているわけなので、個人的には疾病利得があまり問題であるとは思えません。利得なんてほんのわずかです。

疾病利得が問題になるのは、体調がよくなったあとに、まだ病気でいようとすることですが、CFS患者はもともと活動的な人が多いので、元気になったらむしろ働き過ぎるくらいでしょう。

わたしの場合

わたしの場合を考えてみると、ある程度、診断名にアイデンティティを求めていたような節はあります。

わたしは学生時代に、突然、学校に行けなくなるほど体調が悪くなり、頭ももうろうとして、ほぼ寝たきりになりました。一日の大半を苦痛のうちに寝て過ごし、何がなんだかわからず、混乱状態にありました。

それが数年続いて、その間にかかった医者にはひどい目に合わされ、仮病だと言われ、やる気が足りないと叱咤され、学校の担任にはうつ病だと決めつけられ、友だちは不登校だと誤解しました。家族との軋轢もありました。

そんな出来事の末にやっと辿り着いたのが慢性疲労症候群(CFS)だったわけです。

診断名がつくと心の底からほっとして、自分自身が理解できたような気がしました。そうか、慢性疲労症候群こそが今の自分なのだと思ったのです。

それから、だれかと知り合ったり、自己紹介するときには、必ず自分は慢性疲労症候群という病気だと述べてきました。慢性疲労症候群という病名を用いれば、自分自身のことをとても適切に説明できると思いました。

10年経って、ある程度よくなったものの治りきらなかったときには、これからは慢性疲労症候群の自分として生きていくしかないと思いました。今思えば、病名は、いつの間にか病名の枠を越えてアイデンティティになっていたのかもしれないと感じます。

病名の外にアイデンティティを求める

しかし、去年は、ひょんなことから、あまり慢性疲労症候群に関わらない日々を送りました。

意図的ではなかったのですが、絵を描くことに没頭して、慢性疲労症候群に関連したことは二次的な位置を占めるようになりました。

あるSNSにずっと参加していたのですが、そこでは、慢性疲労症候群であることを一度も明かしませんでした。そこでの人たちは、わたしをCFS患者としてではなく、絵を描く人として見ていました。

もちろん、わたしが健康な人と足並みを揃えて活動できるわけではありません。情報量の少ないSNS上では健康な人のようにふるまえても、影では弱音を吐きたくなることはよくありました。

現実ではそうはいかないでしょう。ですから慢性疲労症候群という病名が不必要になったわけではありません。もしほかに病名があるなら、喜んでそれを用いたいと思いますが、少なくとも、主治医が言うように、わたしの体調不良を説明するには、今のところ、この病名を用いるしかないのですから。

しかし、絵を描くようになって、他人との接し方が変わってきたのは事実です。昨年は、現実で自己紹介をするとき、慢性疲労症候群であることを明かさないことがしばしばありました。病名を持ちださなくても、絵を見せれば、自分のことを十分説明できるように思えたからです。

長い期間付き合う人には、慢性疲労症候群について話しますが、その説明は二次的なものです。少なくとも去年知り合った人は、わたしを「CFSの人」ではなく、「ちょっと体調が悪いなかで創作をしている人」と考えたことでしょう。

いつのまにか、慢性疲労症候群というアイデンティティは、少なくとも日常の対人関係ではそれほど重要ではなくなっていました。

そのようなわけで、わたしのTwitterのプロフィールには慢性疲労症候群のことは書いていませんし、絵を載せているブログにもCFSの話は一切出てきません。隠しているわけではなく、必要ないと思えるからです。

慢性疲労症候群という病名を通して形成したアイデンティティは確かにあるので、それを否定するわけではありませんが、アイデンティティ全体に対して占める位置が小さくなってきたということだと思います。

治療のために必要な過程?

病名がアイデンティティでなくなるというのは、治療の役に立つのでしょうか。前述の臨床が変わる! PT・OTのための認知行動療法入門に挙げられていた例からすると、そうかもしれません。

この本に登場する線維筋痛症の女性は、自分は線維筋痛症であるという信念を持っていました。身体疾患であり、車いすが必要であり、運動をすれば悪化する重症患者である、という信念です。

しかし、それを認知行動療法で修正していくうちに、線維筋痛症が治ったわけではないですが、少し楽になりました。また地域の車椅子ダンスという生きがいを見つけることができました。(もっとも、彼女は望むなら車椅子を手放すことも可能だっただろうとは書かれています)

やはり、慢性疲労症候群にしても線維筋痛症にしても、決して気のせいではないので、考え方を変えたくらいで治るとは思えません。

とはいえ、病名に対するこだわりを捨て、あくまで病名は社会的支援を受けるためのピンバッジ、飾りにすぎないように思えるようになるなら、また、病名に合わせて自分を解釈することがなくなり、病名の外に自分の生きがいを見つけ、アイデンティティを確立するならば、本当の自分自身と向き合えるようになるかもしれません。

できればわたしは慢性疲労症候群という病名を過去のものとしたいのです。それはわたしがCFS患者としてではなく、自分らしく生きていくためです。

この病名とアイデンティティをめぐる問題については、わたしも考え始めたばかりで、詳しい知識があるわけではありません。おそらく、いろいろな研究があるのでしょうが、今のわたしは知りません。

ですが、知らないなら知らないなりの生の感想を書いておくことも大事かもしれないと思って、記事に残しました。

そのため、今後、まったく違う意見を持つかもしれませんし、より詳細に理解できるかもしれません。あくまで現時点の考えにすぎないことは明記しておきます。

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