あの日わたしは深い霧に包まれた醒めない悪夢に迷い込んだ


ME/CFS(筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群)の映画「アイ・リメンバー・ミー」の冒頭で、次のような体験が語られます

「冷や汗が出たのです。自分の名前さえ思い出せませんでした」

「その日はとても奇妙な日で忘れることができません」

「朝目が覚めた時に何かが起きて、人生を永遠に変えてしまうとは思ってもみませんでした」

それを見た時、わたしも発症当時のことを思い出しました。

実を言えば、わたしは、このブログに、病気を発症して不登校になった当時のことについて書くつもりでいました。原稿も、ブログを始めるずっと前にほとんど完成しています。そもそも、このブログを始めたのは、そのような記事を書きたいからでした。

それなのに、このブログには、いまだに、わたし自身の闘病生活について詳しく振り返った記事がほとんどどこにもありません。わたしは、このブログでさまざまな病気について調べて、詳しい情報を発信しているというのに、まるでドーナツの穴のような状態です。

中心にあるべきエピソードが抜け落ち、その周囲ばかり充実してきています。これは、ブログをはじめた当初に、わたしの意図していた状態ではありません。

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ドーナツの穴

この現状は、わたしの心境を鏡のように如実に映しだしてしていると言えます。わたしは、これまで、自分の過去の経験を語ることに大きな心理的抵抗を感じてきました。

成り行き上、わたしの友人はほぼすべてわたしの病気のことをよく知っていますが、それは家族や友人が話すきっかけを作ってくれたからです。自分が不登校になった経緯を明かしたり、体調について詳しく話したりするのは、今でもためらいを感じます。

数年前、わたしは、手話の講座に通っていました。でも、結局最後まで自分の病気について話せませんでした。最後の最後に、どうしても行けなくなったとき、やっとの思いで数人の人に「内部障害がある」という遠回しな表現で言い訳しただけでした。それほどカミングアウトするのは恐ろしいことです。

このブログで、わたし自身に関わること以外のコンテンツが充実していくのは、自分について語ることに はばかりを感じてきた、わたしの投影でもあるのでしょう。

一応のところ、ブログには遠回しな表現で、わたし自身のことを非常に多く書いています。「わたしが」という表現が冒頭から末尾までまったく出てこないような記事でも、いえむしろ、そういう記事こそ、じつは第三者について書いているようでいて、本当はわたしの経験を客観的に分析しているものだったりします。

ただ体調を整えるだけであれば、わざわざ自分のことを語らずとも、いつの間にか治ってしまうのを期待すればよいかもしれません。

しかしわたしは、喉元をすぎれば辛かった時期の経験を忘れてしまうようなことにはなりたくありません。心身を切り刻まれズタズタにされた日々を永久に日の目を見ないまま、封印しておくのではなく、苦しんだ経験を活かせるようでありたいと思います。

そうであれば、今、まだ傷跡が残っているうちから、自分の過去と向き合い、ドーナツの穴を埋めていく必要があるでしょう。断片化して散り散りになったわたしの心境は、今書かなければ、書く機会が失われてしまうかもしれません。

醒めない悪夢

わたしは、未だに、自分が何か病気になって、不登校に追い込まれて、人生が変わってしまったということを信じられないでいます。

世の中には、自分が病気てあることをかたくなに主張する患者もいて、「モンスターペイシェント」などと呼ばれたりもしますが、わたし自身についていえば考えられないことです。

病気というものは自分の胸に飾って主張するようなエンブレムでもなければ、決して発症して嬉しい成長のための試練のようなものでもありません。それは悪夢そのものです。

わたしはずっと、自分が得体のしれない病気を発症して、社会から置き去りにされてしまったこことが、悪い夢なのではないかと思ってきました。

わたしは、ある朝起きると突然、異世界に迷い込んだかのように感じました。あらゆる常識が通用しない世界にいたのです。つい昨日までわたしのものだったすべてのもの…身体能力や、思考や、アイデンティティさえも、あらゆるものがどこかへ溶けいってしまいました。

その日を境に、わたしの当たり前の日常は失われ、時間は凍てついてしまいました。わたしはいまだに、自分の年齢を書くとき、発症当時の年齢を書きそうになることがよくあります。その日以来歳を重ねてきた実感がないのです。

実は悪い夢を見ているだけなのではないか、目が覚めれば、「昨日」と同じように、何の不安もなく、はつらつとして、友だちとバカげた会話ができる「今日」が始まるのではないか。

目が覚めれば、あの頃の姿のままで、何事もなかったかのように、新しい一日を始められるのではないか。壮大な悪夢を見て、少し気分が優れないにしても、すぐにどんな夢だったかさえ忘れてしまい、「なんか今日一大スペクタクルな夢を見たんだけど、思い出せないんだ」と笑い話ができるのではないか。

もっと小さな取り留めのないことについ頭を悩ませてしまう、ごく普通の日常が始まるのではないか。

今になってもそう思います。もはやわたしの理解できる範疇を超えているように思えます。わたしは、自分の境遇を受容できていないというわけではありません。キューブラー・ロスの5つの段階を経て、病気を受け入れて生きていこうと決めました。

そうです、この病気や、この人生を受け入れがたく思うわけではありません。ただ信じがたく思うのです

自分が睡眠障害や慢性疲労症候群を発症し、長い期間をその闘病に費やしてきたというのは、理性では理解できるのですが、感情では、あまりに突拍子もないことすぎて現実味がないのです。

夢から覚めることが叶わないのなら

冒頭で、ME/CFSの映画「アイ・リメンバー・ミー」で大勢の患者が発症当時のことを語っている様子を引用しました。

それはできれば忘れていたい、夢であってほしいことです。多くの患者が、自分の病状を吐露する様子を見ていると、この病気が現実のものだと思い知らされて、切ない気持ちになります。

この現実味がないという思いは、単に感情的な問題ではなく、ブレイン・フォグのような、霧がかかったような感覚を伴う、離人症や解離が関係しているのでしょう。

悪夢から覚めることを願ってばかりを願って、ただまどろんでいれば、いずれ目覚ましのアラームが朝を告げ知らせてくれるのでしょうか。

それとも、あたかも明晰夢を見ているかのように、おそらくこれは夢ではないと自分で気づき、悪夢に立ち向かっていくことが必要なのでしょうか。

今わたしがするべきなのは、悪夢から覚めることではなく、病気を直視し、病気を乗り越えて、力に変えることでしょう。そうするなら、苦しんだ歳月は、決して無駄にはなりません。

しかしたとえ、目を背けるのではなく、しっかり向き合っていこうと決意したとしても、その道程は平坦ではありませし、ましてや数日、数週間かければ踏破できるようなものでもありません

幸いわたしはブログを書き始めて、ようやくに少しずつ気持ちが整理されてきたと感じています。常日頃書いているように、書き出すことには、大きな力があります。

それは果てしない道程を一歩ずつ、自分の足で歩いて地を踏みしめるようなものです。わたしにとってその一歩一歩とは、このブログに書き綴る一文字一文字なのでしょう。

一歩一歩歩けば、必ず目的地へと近づけるように、一文字一文字書くごとに、わたしは迷い込んだ霧に覆われた悪夢の出口へと近づくのです。

書いて形にすれば、風のように流れる言葉が霧を払い、本当に目の前に広がっている現実の景色が少しずつ分かってくるはずですから。

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子どもの慢性疲労