難病を抱える人も社会に貢献している―その3つの理由と病気の人が果たすべき分


130121病床気を抱えて生活している人、事情ゆえに働くことのできない人への差別意識はいつの時代も存在します。また病気の人が、じゅうぶん働けないことから抱いてしまう劣等感も、同じほど古くから存在します。

先日のニュースで、国の難病対策である障害者総合支援法について取り上げました。その中で難病の人たちの訴えに対して厚労省が述べていた「財源は税金」という端的な言葉に考えさせられることがありました。

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社会的な価値が劣るのか?

「財源は税金」。この言葉には、財源が限られている、という意味以上の感情が込められているように感じます。つまり、福祉制度のお金は今まさに働いている人たちの税金から来るのであって、その人たちの意見をまず尊重しなければならないという考えです。

しかし定職を持ち、お金を稼いでいる人だけが社会貢献しているのではありません。これまで社会に貢献してきた人、また病気のもとで、見過ごされやすい形で社会に貢献している人たちの意見も同様に尊重されてしかるべきです。

確かに憲法25条で最低限の生活をする権利は保証されています。しかし、難病で働くことのできない人たちは、健康に働いている人たちと比べ、社会的な価値が劣るのでしょうか。難病ゆえに働けない人はただ支援を受けるだけの存在なのでしょうか。

異論もあるでしょうが、わたし個人の意見をしたためておきたいと思います。

難病の患者も社会に貢献している

見過ごされやすい形で社会に貢献している人たち。そのような表現を用いましたが、これは何も難病の人たちだけではありません。ごく身近な例を考えてみましょう。

例えば、共働きではない家庭の主婦のことを考えてみましょう。夫は仕事を持ちお金を稼いでいますが、主婦はそうではありません。では夫は妻よりも高い立場にいるのでしょうか。

そのようなことは決してありません。主婦の働きは一見見過ごされがちですが、お金に換算すれば非常に控えめに見積もっても年収200万円以上の価値があるとされています。

目に見える形で働いている夫も、見えないところで働いている妻も、同様に社会に貢献しており、両者は同等の立場なのです。

では病気の人の場合はどうでしょうか。健康な人に比べ、社会に貢献していないのでしょうか。わたしはそうは思いません。両者は同等の立場にあると考えます。

多くの人は病気になるまでの間、りっぱに社会の一員として役割を果たしてきました。そして重要なこととして、今病気である人もまた、社会に貢献しています。3つの点を考えてみましょう。

1.安心できる社会を構築してきた

まず社会福祉の制度について考えてみましょう。こうした制度は、おもに病気や障害のある人の活動によって整備されてきました。

健康であれば、社会福祉制度の価値は感じないかもしれませんが、ある日突然難病にかかったり、経済危機によって失業したりする可能性は十分あります。それに、だれでも年齢を重ね、やがて他の人に頼らざるを得なくなることは避けがたい事実です。

社会福祉制度は、落下しやすい崖に設けられた柵に似ています。柵はすでに事故に遭った人のためではなく、まだ落下していない人の安全のために設けられます。柵があって初めて、安心して景色を楽しむことができます。

同様に、社会福祉制度は、まだ病気になっていない健康な人たちが安心して暮らすのに役だってきました。病気の人たちは、社会が安心して暮らせるところになるように貢献してきたのです。

2.医学が進歩してきた

病気を抱える人が声を上げることで、医療が進歩し、社会全体に還元されることもあります。たとえば今まさに開拓されている抗疲労の研究は、慢性疲労症候群(CFS)の患者の協力によって進展しています。慢性疲労症候群(CFS)の患者の存在が、疲労大国日本の将来を変える可能性もあるのです。

多くの場合、健康な人たちが重症になる前に病気を予防したり治療したりできるのは、すでに発症した重症の人たちが進んで研究に協力してきたからにほかなりません。

3.励みを与える存在になれる

病気の人は、もっと個人的なレベルで、社会に貢献していることも少なくありません。「週4時間」だけ働く。の著者ティモシー・フェリスは、難病の子どもからもらった次の詩をきっかけに、人生においてより重要なものに気づいたそうです。

メリーゴーランドに乗っている子どもをみたことがありますか?
地面をたたいている雨音を聞いた事がありますか?
さまよいながら飛んでいるちょうちょを追ったことは?夕日が沈むのを眺めたことは?


どこに行くにも急ぎすぎると到着するまでの楽しみを見逃してしまいます
気ぜわしく1日を過ごすことは贈り物を開けずにほおっておくようなことです
人生はレースではありません
ゆっくり生きていきましょう
耳を傾けてください
その歌がやむまで

健康で順調な毎日を送っていると、こうした視点を見逃してしまうかもしれません。彼のように病気の人のストーリーを励みにして、人生を見直し、新たな活力を得る健康な人は少なくありません。

元国連事務総長でノーベル平和賞受賞者のダグ・ハマーショルドは道しるべの中でこう述べています。

「あいつが俺にものを教えてくれるんだって?」―いいではないか。おまえになにかしら教えることができないような者は、だれひとりとしていないのである。万人をつうじて語りたもう神にとっては、おまえはいつまでも幼稚園の最低学級の子どもなのである

病気の人は、決して弱者、またはお荷物ではありません。健康な人が病気の人から学べることが確かにあるのです。

病気の人を劣った存在としかみなせない社会は貧困です。国連人間居住センターも「ホームレスの人々、ストリート・チルドレン[などのいわゆる社会的弱者]は、社会の重荷ではなく、今後開発されうる社会的資産とみなすべきだ」と述べています。

これら3つの点から、たとえ目に見える形で働くことはできなくても、難病の人たちが、社会の役にたっている分野はいろいろあることがわかります。

もっとも、難病の人たちが社会に貢献していると言うためには、病気を抱える立場の人も、自己中心的に生きるのではなく、自分の分を果たすことが不可欠です。

健康であれば必ず社会に貢献しているとは言えないように、病気の立場の人も、自己中心的に生きるのではなく、自分の分を果たしてはじめて、社会的に評価されます。

わたしたち病気の患者はどのようにして自分の分を果たすことができるでしょうか。状況は一人ひとり異なるので、特にわたし個人について書いた私的なものと思って読んでいただけたら幸いです。

病気の人たちが果たすべき

慢性疲労症候群(CFS)を研究している名古屋大学の伴信太郎先生らの論文には、「休業補償などのある種の疾病利得が回復を遅らせているかもしれないと思われる患者」もいると率直に書かれています。その落とし穴を避けることは大切です。

「働かざるもの食うべからず」という慣用句のことを考えてみましょう。これはレーニンがマルクス主義に基づき、「働かない者は害悪なので見捨てればよい」という意味で用いた標語とされています。日本でもよく聞く言葉として浸透しました。

しかし皮肉なことに、この言葉は、マルクスが「人民のアヘン」としていた宗教の一部である、キリスト教の新約聖書に基づいており、意味もまったく異なるそうです。というのは、原文では「働かない者」ではなく「働きたいと思わない者」という意味合いがあるからです。(参照:志村建世のブログ: 働かざるもの食うべからず)

 この歴史ある言葉の考えに基づけば、健康な人たちは、働けないからといって、病気や障害を抱える人たちを社会から切り捨てるべきではありません。同時に病気や障害を抱える人たちは、働けないとしても、何らかの仕方で社会に貢献したいと思う意欲を失うわけにはいきません。

福祉制度は、病気や障害を持つ人を支えるものであって、その人たちが果たすべき責任を取り去るものではないのです。定職を持つ人が、責任を果たすときに、一定量の賃金をもらえるのと同様です。福祉制度を正しく活用することは当然の権利ですが、乱用するなら、それは盗みに等しくなってしまいます。

病気の人が自分の責任を果たすにあたって、望ましいのはもちろん公の仕事につくことですが、そうできる人はわずかです。さきに述べたように、社会に貢献するとは、単に定職について働くということだけを指すわけではありません。

もし治療する方法があるのなら それに精一杯励む、毎日少しでも周りの人のためにできることをやってみる、ひとたび絶望から立ち直ることができたなら闘病をあきらめない、それが病気の人の果たすべき分だと思います。

あるオールブライト症候群の少年の話

病気の人が自分の分を果たすということの一例として、あるとき友人から聞いた話を書き留めておきたいと思います。友人が話してくれたのは、重症の多骨性線維性骨異形成、オールブライト症候群の少年の話です。

その少年は、非常に重い骨の変形や異常増殖のため、車椅子で生活していました。特に顔の骨の異常増殖がひどく、頭蓋骨の外部に骨がどんどん形成されて、(このような言葉は使いたくないのですが) およそ人間とは思えない容貌になってしまっていました。

当然ながら異常増殖した骨のせいで激しい痛みが生じるので、何度か顔の骨を削るという手術を受けたそうです。一度に1kgも削ったと聞いています。あまりの悲惨さに看護婦さんが泣きだしてしまうほどでした。

重い症状は顔だけにとどまらず、体ではかえって骨粗鬆になり、簡単に骨折する危険があったといいます。骨がゆがむので、内臓も圧迫されて、いろいろなひどい症状が生じていました。

この少年について話してくれた友人は健康な人です。しかしかわいそうで悲惨な話としてこの話をしてくれたわけではありません。むしろ、とても大きな励みを与えてくれたすばらしい友として彼のことを話してくれたのです。どういう意味でしょうか。

たとえ小さな働きでも

彼の病気は幸いにも(彼の場合には幸いと言ってよいと思うのですが)、彼の思考力を一切損ないませんでした。頭蓋骨の内部には骨の異常増殖はなかったため、彼は明晰な思考を保ち、とても考え深い人に成長しました。

彼は決して生きることをあきらめませんでした。夢を追い求め、積極的にできることを行いました。外出するなら、その容貌ゆえひどい扱いを受けることは分かっていましたが、彼はいろいろな人のため進んで出かけました。

あるとき、いつも支えてくれるお母さんにプレゼントをしたいと思い、手を動かすだけでできる簡単な方法でお父さんの仕事を手伝いはじめました。お金としての稼ぎとしてはほんの僅かでしたが、後にお母さんと一緒にデパートに出かけ、日傘をプレゼントしました。

彼について友人が語ってくれたことはほかにも多くありますが、わたし自身、個人的な面識がないので、この程度にとどめておきます。ただひとつ明らかだったのは、彼の存在は、今なおわたしの友人に忘れがたい励みを与えているということでした。

彼は残念ながら、およそ20歳で亡くなったそうです。しかしそれからかなりの歳月が経っているのに、友人は今なお、彼から励みを得ているのです。彼は定職に就けませんでしたが、だからといって社会に貢献しなかったとはだれもいえません。堂々と闘病し、感謝と優しさを忘れず、難病患者として自分の分をりっぱに果たしたのです。

人間の価値とは

この話は一例に過ぎず、だれもが同じようにできるというわけではありません。追い詰められて精神的に余裕がなく、身動きが取れなくなってしまう状況も多くあります。しかし重い病気があっても、周りの人のためにできることがある、という一例にはなると思います。

彼と同様、およそ人間とは思えない外見の問題で非道な扱いを受けた「エレファントマン」ことジョセフ・メリックは、こう語ったそうです。

私の姿がどこかおかしいのは事実だ
しかし私を咎めることは神を咎めることだ

…私は精神によって測られるべきである
精神こそが、人間のもの差しなのだから

人間の価値は、必ずしも目に見える働きの量で測られるわけではありません。小さな働きでも、そこに深い愛情や熱意がこもっているなら、周りの人に忘れがたい印象を残します。

アルベルト・アインシュタインは、「人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる」と述べたと言われています。

難病の人も、他の人のために、与えることのできるものを何がしか必ず持っています。それゆえに、社会において健康な人に劣るどころか、かけがえのない価値があるのです。

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