住む人が健康になる“本物の家”。
この言葉は、先日読んだ本、住む人が健康になる「本物の家」の建て方 (小学館101新書)のキーフレーズです。住む人の健康を損なうような劣悪な住宅が増加している中、“本物の家”を大切にすることには意味があります。
ところで、この言葉は、文中では文字通りの家に関して用いられています。“本物の家”として建てられた家は魅力にあふれています。
しかしわたしは、この言葉をわたしたちの比喩的な家、地球そのものに当てはめて考えてみました。
目次 ( 各項目までジャンプできます)
地球―“本物の家”
先日紹介したように住む人が健康になる「本物の家」の建て方の著者である嘉村さんは、“本物の家”のポイントについてこう述べています。
では、“本物の家”とは、いったいどんな家なのか。
私が考える本物の家とは、消費財としての家ではなく、創造物としての家、つまり次の3条件を満たす家です。(1)「健康」に暮らせること
(2)「長持ち」すること
(3)「デザイン」がすぐれていること (p20)
わたしたちの比喩的な家である地球は、当初から、この3つの条件をすべて満たしていた、“本物の家”であったのではないでしょうか。
(1)環境汚染のない自然環境は、基本的に人間の健康に寄与します。
(2)地球は自らの出す廃棄物を100%リサイクルできますが、それほど優れたシステムは類例がありません。
(3)色とりどりの風景や数学的調和は、わたしたちの心を癒し、目を飽きさせない、きわめて美しいものです。
住む人のことを考えてオーダーメイドで造られた“本物の家”はこの世に2つとないものですが、この地球もまた、かけがえのないものに違いない、とわたしは思います。(p4,20,113)
“本物の家”は外観も美しいものですが、JAXAが提供している指導教材導入教材<国語編> -宇宙飛行士の言葉によると、宇宙飛行士たちは、地球という我が家を“外”から眺めたとき、こう述べたそうです。
宇宙の深淵は、退屈になるほど一様な暗黒だ。私たちの注意を引きつけるのは、その暗黒ではない。暗黒の中で青い光輝に包まれて浮かぶ地球なのだ。
―マリョーグ・マカロフ遠ざかるにつれ、地球は小さくなって、とうとうビー玉ほどに縮んでしまった。想像できないほど美しいビー玉である。美しく、暖かく、そして生きている。それは非常に脆くてこわれやすく、指を触れたら粉々に砕け散ってしまいそうだった。
―ジェームス・アーウィン月の縁の背後からきらきら輝く青と白の宝石が現れる。たとえようもなく荘厳な瞬間が、スローモーションのように長く続く。
―エドガー・ミッチェル
地球という家は、まさに“本物の家”と呼ぶにふさわしい魅力を兼ね備えています。
破壊者も被害者も人間
ところが、文字通りの家の場合と同じように、地球という住みかも、今や危機に瀕しつつあります。
嘉村さんは序文でこう述べています。
現代の日本の住宅は、その大切な基本を忘れているように思えてなりません。効率とコストダウンを追い求めた結果、一番大切な、住まう人の健康がないがしろにされてきたのではないでしょうか。 (p4)
住む人の健康をないがしろにし、飽くことなく利益を追求する態度が、家の質を劣化させ、シックハウス症候群を招いていることが分かります。
もしかすると、これは、もっと大きなレベルで見た場合にも、当てはまるのかもしれません。
すなわち、他の人の健康を度外視し、貪欲にも利益を追い求める態度が、地球という家の環境を損ない、化学物質過敏症や電磁波過敏症を生み出しているのではないでしょうか。
だれかの健康より自分の便利さを優先する社会が、効率とコストダウンの追求を加速させ、そのひずみとして環境病が生み出されているのではないでしょうか。
こうした問題は、単一の理由によって測ることはできないでしょう。しかし社会的な傾向が関与していることは確かです。大局を見たところで具体的な解決策があるわけではありませんが、決して目をそらしてよい問題ではありません。
1990年、日本で開かれた国際花と緑の博覧会のテーマは「花と緑と人間生活のかかわりをとらえ 21世紀へ向けて潤いのある豊かな社会の創造をめざす」というものでした。
この万博では、地球という住まいがいかに危機に貧しているかに注意が向けられ、さまざまなパネルが展示されたそうです。メイン会場のひとつとなった咲くやこの花館の出口には「地球の破壊者も被害者も人間です」という表示が掲げられていました。
それから20年が経ちましたが、人類今なお地球という住まいの“破壊者”です。その結果、さまざまな環境病に苦しむ“被害者”が増えているとしても驚くにはあたりません。
リノベーション
「21世紀へ向けて潤いのある豊かな社会の創造をめざす」という理念はどうなってしまったのでしょうか。
住む人が健康になる「本物の家」の建て方の筆者、嘉村さんは「家は“選ぶもの”ではなく“つくりあげるもの”」だと述べています。家を作る責任が住む人にあるように、この地球を、“本物の家”として大切にし、住みよくするのはわたしたち一人ひとりの責任です。(p14)
“本物の家”は、古くなって劣化しても、リフォームしなおすことによって、さらに長く住み続けることができます。特に、設計者と協力して、「デザインを重視し、付加価値をつけてバリューアップする改修」のことをリノベーションというそうです。良いところを残しつつ、すべてを新しくするのです。(p87,113)
地球という家もまた、もともとすばらしい特徴を兼ね備えた“本物の家”であるからこそ、リノベーションの余地が十分にあるといえるでしょう。取り返しがつかないというにはまだ早すぎます。
自分はワインを持っていくか
地球に住む70億もの住人の、ほんの一人に過ぎないわたしが、地球という壮大な家の行く先を案じた所で、無意味に思えるのは確かです。問題の解決は一人間のレベルを超えています。
史実か作り話かは定かではありませんが、フランスに「水になったワイン」という話があります。村の牧師の転任にあたって、村人がワインを持ち寄って樽に入れようと決めたのですが、後日牧師が樽を開けてみると中身は水だったそうです。
村人のほとんどが、自分ひとりくらい水をもっていっても大丈夫だろうと考えた結果、良質のワインは跡形もなくなってしまったという物語です。
少数の人が、努力したところで、事態は変わらないのかもしれません。
しかし社会環境が関わる病気を発症した者の責任として、自分だけでもワインを持っていくかどうか、すなわち自分の居心地の良さだけでなく、同じ“家”の住人の福祉も大切にするかどうか、ということは大切だと思います。
決して簡単なことではありませんが、この地球を一つの家、わたしたちを同じ家の住人と見たときに、住む人が健康になる“本物の家”の大切な基本とは何か、ということをいつも覚えておくよう気をつけたいと思いました。