人間と動物は同じ、と言われることもあれば、人間と動物はまったく違う、と言われることもあります。前者は科学的、後者は宗教的と考えている人もいるかもしれません。
しかし最新の研究によれば、人間はやはり独特なのです。他の生物と似ているところはもちろん多くありますが、他の生物にはない複雑さや独特な能力も持ち合わせています。
人間と動物を異ならせているのは、ほかでもない「脳」です。
宇宙と同じほど複雑、と言われることもある脳はどのように研究されてきたのでしょうか。脳の研究はわたしたちにどんな益をもたらしてきたでしょうか。わたしたちが何者であると明らかにしたでしょうか。
脳の科学史 フロイトから脳地図、MRIへ 角川SSC新書 (角川SSC新書) を紹介します。
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これはどんな本?
「脳科学」の本はちまたに多くなってきましたが、脳について研究してきた生粋の学者が書いた、脳本来の機能、全体像、歴史などを網羅した本はあまりありません。
この本では、わたしたち病気の患者にとって今や身近になった、MRIやfMRI、近赤外光トポグラフィーといった最先端の技術の開発に関わった小泉英明博士が、脳の歴史と可能性を立体的に解説しています。
科学史や数学史の書籍が好きな人であれば、フロイトとヤツメウナギの話から始まる、少し意外な「脳の科学史」に惹かれるかもしれません。
非常に博学な方が書かれたので、話題が飛躍しているかに思える部分がけっこうあります。説明不要なつながりを省いているだけですが、何も知らないわたしのような読者にとっては、論議についていくだけで必死です。
理解できた部分はわずかですが、それでも脳科学が描き出す、人間とは何か、という研究の成果にとても感銘を受けました。
人間とは何か
非常に広い話題を扱った本ですが、個人的に興味深く思ったところを7つ紹介したいと思います。本書の論議の進行とは随分異なりますが、人間は動物とどう異なるのか、そして人間が人間であるためには何が大切か、というところにポイントをしぼってみました。
1.知能指数がすべてではない
不思議なことに、ボールをうまく投げたりするのは知能指数と関係ありませんが、ボールをぶつけられたときに避けるなどの反射神経は、知能指数に比例する、という論文が出ています。
アインシュタインは劣等生と言われていました。反射神経が鈍かったのでしょう。頭がいいという判断は難しいものです。
知能指数は、反射神経がいい人が高く、頭がいいこととイコールではない、といったほうが喜ぶ人が多いかもしれません。 (p73-74)
かつて、子どもの価値が知能指数によって測られた悲しい時代がありました。しかし脳の研究が進むにつれ、人の賢さは簡単には測れないことがわかっています。
この本によると、極端な話、知能指数で人間を測るのは、神経の太さで測っているようなものなのかもしれません。そうすると人間より神経が太い動物だっているのです。人間を動物と同様に測ることはできません。
2.人間だけが未来を考える
時間というのはすごく重要で、脳の場合にも時間という視点で、本当は考えるべきだと思います。例えば、時間神経科学とかそのような分野が出てきてもいいと思うのです。…そういう意味で、サーカディアンリズムが原点です。 (p94)
私は、ネズミやサルは10年後のことや死ぬことなどは考えられない可能性が、非常に高いのではないかと考えています。脳科学者の人たちに言うと、「そうだ」、と同意してくれます。
…虫も食べものを用意したり、巣づくりをしますが、それが未来を予測して巣づくりをしているかというと、そうとは思えないのです。(p175)
人間は他の動物と比べてユニークな存在です。特に未来を考える能力は人間にしかないそうです。サルは20秒先までしか考えられませんが、人間は、たとえば宝くじに当たったとき、まだ紙切れを手にしているにすぎないのに、将来を予測して喜びます。(p177)
人間が未来を予期できるのは、言葉を持っているからではないか、と小泉さんは推測しています。人間は未来を考えられるからこそ、成長し、希望を抱き、夢を実現させることができるのです。その点は以前も別の本の感想で書きました。
3.人間だけが憎しみを抱く
「憎しみ」は、人間の大きな感情の一つですが、『心理学大事典』に、その記載がないというのはエアポケットのようなものなのでしょう。(p184)
…チンパンジーの子殺しがよく研究されます。自分の子どもがボスザルに殺されても、そのあとボスに従って一緒になると、もう殺された子ザルのことは忘れてしまう。憎しみの感情がないのです。…人間特有の感情の一つが憎しみなのです。(p210)
人間が際立っているのは、何も良い面だけではありません。憎しみもまた、動物には見られず、脳の奥のほうで働く人間特有の複雑な現象なので、研究が進んでいないそうです。
思えば人間の歴史は「未来」と「憎しみ」が大きなキーワードになってつむがれてきたように思います。「未来」を思い描くからこそ、文明は発展し、いわれなくだれかを憎むからこそ数々の惨劇が繰り返されてきたのではないでしょうか。
4.病気の源を「測る」
私たちの研究グループは、それを応用してゼーマン原子吸光分析法というものを作りました。…そのあと、偏向ゼーマン原子吸光法という、水銀だけでなく、どんな元素でも使えるものに拡張しました。
…水俣病の水銀から始まって、イタイイタイ病のカドミウム、四日市のぜん息、環状七号線の大原交差点の排気ガスによる鉛の中毒とか、こういう公害が続々出てきて、偏向ゼーマン原子吸光法が公害の原因物質特定に活躍しました。 (p109)
小泉さんは、「測る」ということに興味が持ち続けていて、水俣病の原因を特定する技術を作り、特許を取りました。この本には、水俣病との関わりが8ページほどにわたり詳しく書かれています。
やがて、その同じゼーマン効果を応用した別の医療機器MRIを世に送り出します。そのMRIの「故障」から、血液の流れを見ることができるMRA(磁気共鳴血管描画)が開発されます。(p128)
血液の流れがわかれば、血液の量が多いところほど脳が活性化しているとわかるので、fMRI(機能的磁気共鳴描画)が開発されました。しかし音がうるさく、ストレスがデータを変えてしまうので、まったく別の方法、NIRS(光トポグラフィー)も開発されました。(p134)
「測る」ことに情熱を燃やしてきた小泉さんが開発した数々の技術は、わたしたち病気の患者にとって今やなくてはならないものになっています。
5.ブレイン・マシン・インターフェース
本当にびっくりしましたが、帰りがけに玄関を出ようとしたら、旦那さんが、「ちょっと家内を見てやってください」と言うので、戻って奥さんの部屋に入ると、寝ている奥さんの頬が紅潮していました。
「何年もこんな家内を見たことはない、よほど感激したのだろう」と言っていました。自分に意識があることを、それまで2年半も誰もわかってくれなかった、伝えようがなかった。意識があってわかっていることをやっと気づいてもらえた。それで感激されたのです。 (p202)
筋萎縮性側索硬化症(ALS)は、難病中の難病であり、最も悲劇的な病気の一つです。本書では、いわゆるロックトイン状態になってしまった方の話が出てきます。その人は小泉さんの装置を使うまで、まったくコミュニケーションができない暗闇に閉じ込められていました。
ロックトインは話には聞いていましたが…実際に話を読むと言葉を失います。脳科学の進歩は、こうした凄惨な病気に苦しむ人たちの力になり、尊厳を保つのを助けてきました。これからもそうなってほしいと思います。
さらに小泉さんは、医療よりも人の尊厳に寄与するものについて述べています。
6.教育は医療に勝る
松沢先生は、チンパンジーの場合、子どもに教育することはないと言っています。…道具を作ったりはできますが、それを教えるということはしないのです。(p89)
教育自体が人間にしか存在しないことも、まだそれほど研究されていません。(p90)
新しい医療装置というのは、先進国の一部でしか使われていません。世界中でいえば、ごく一部の人にしか役立っていません。
…これに対して、教育は途上国を含めて、どんな国にも同じように役立ちます。それが、私が教育についても一生懸命研究している理由です。(p212)
さまざまな医療機器を作り出して、難病の人を助けてきた小泉さんの言葉だからこそ、この言葉は心に響きます。「未来」、「憎しみ」に加え、この本では「教育」も人間特有と言われています。
科学の進歩によって病気に苦しむ人を助けることは大切ですが、それだけではどうにもならないほどこの世界には悲劇があふれています。小泉さんは、それを解決する大きな手段は教育だと考えています。
わたしもこのことはよく考えます。優れた医療を受けることができても、生きることに幸せを見いだせない人は多くいます。それに対して、劣悪な環境にいても、幸せを感じて生きている人もいます。小泉さんはその点について、最後にこう述べています。
7.価値観が幸せを感じさせる
幼い頃からの価値観、周りからどう育まれたかで、その人の幸福感はできあがるのではないでしょうか?
人のためになるのはすごくうれしいというように育った人なら、自分が損をするようなことをしていても、幸せを感じられるということです。同時に満足感も得られます。
たとえ物質的に恵まれていなくても、幸せ感は得られます。ここのところが、人間の尊厳と直結しているのでは、と考えています。(p210)
この映画[わたしは幸せ~I am Happy]は、人間はチンパンジーと違い、物質的な報酬以外にも幸福感を得られるという、確かな証左であると思います。 (p217)
わたしが病気になってよく思うのは、幸せの秘訣はモノやお金でもなければ、名誉や学歴、社会的立場でもない、ということです。
自分には…がない、自分は…をしてもらえていない、と考えているなら、いつまでも満たされることがありません。どんな状況でも、だれかのためにほんの少しでもできることをする、物事の良い面に注目するといった価値観が大切だと思います。
脳科学の進歩は、人間は動物とどう異なるか、そして人間が人間らしくあるためににはどうすればよいかを少しずつ解き明かしてきました。人間は、「未来」「教育」といった独特の特性をもっていて、それゆえに「憎しみ」を克服し、どんな環境においても「幸せ」を感じることができるのです。
脳の科学史 フロイトから脳地図、MRIへ 角川SSC新書 (角川SSC新書) を読んで、この興味深い分野にこれからも注目していきたいと思いました。