年をとったらイマジナリーフレンド(IF)は消えてしまうのか


マジナリーフレンド(想像上の友だち:IF)は、普通、子ども特有のものです。解離の専門家である岡野憲一郎先生の著書わかりやすい「解離性障害」入門には、「4,5歳から10歳ごろまでの20-30%にみられる」一時的なものだと書かれています。(p19)

しかし一方で、こんな記述もあります。

子どもたちにとってはイマジナリーコンパニオンは、心の慰めや話し相手としての役割を持ち、発達や適応を促す存在として機能します。

イマジナリーコンパニオンが登場する背景には、ストレスや淋しさがある場合もみられますが、通常は成長とともに消えていくことが多いようです。

しかし解離性障害の患者さんでは、大人になってもイマジナリーコンパニオンの存在によって心のバランスを保っている場合があります。(p40)

つまり、なかには大人になってもイマジナリーフレンドを持ち続けている人がいるのです。その人たちは、解離性障害かどうかはともかく、イマジナリーフレンドの存在によって、心のバランスを保っています。

そうした人たちは、次のように考えることも多いようです。

■もしイマジナリーフレンドがいなくなったらどうしよう
■イマジナリーフレンドに消えてほしくない。
■イマジナリーフレンドと自分を統合したくない
■ずっと一緒にいてほしい
■イマジナリーフレンドは親友・恋人

イマジナリーフレンドによって心のバランスを保っているわけですから、それがいなくなることは、耐え難い苦しみであり、恐怖さえ覚えるのです。

では実際のところ、大人になるまで残ったイマジナリーフレンドは、死ぬまで一緒にいるものなのでしょうか。それとも年をとるにつれ、消えていき、統合されていくものなのでしょうか。

岡野憲一郎先生の別の本解離性障害―多重人格の理解と治療の中にヒントといえる情報がありましたので、紹介したいと思います。

スポンサーリンク

これはどんな本?

この本は、解離の第一人者である岡野憲一郎先生が、解離性障害の仕組みについて持論を熱く語っている本です。

少々専門的ですが、解離の歴史やメカニズム、統合失調症との相違、創造性など、ひと通りの話題が扱われています。この本の続きとして、続解離性障害も発刊されています。

特に興味深いと思ってしまうのは、巻末の、岡野憲一郎、柴山雅俊、奥田ちえの三氏による鼎談です。解離の専門家三名による豪華な対談であり、それぞれの先生の人柄も伝わってくるので、解離に興味のある人は必読の部分です。

その鼎談の中で、柴山雅俊先生が次のようなことをおっしゃっています。

▼柴山雅俊先生について
解離の専門家の柴山雅俊先生についてはこちらをご覧ください。

宮沢賢治の創造性の源? 「解離性障害―『うしろに誰かいる』の精神病理」
「後ろに誰かいる」「現実感がない」「いつも空想している」。こうした心の働きは「解離」と呼ばれています。『解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 』という本にもとづいて、解離と創

「ちょっと残念だけどよくなっちゃうんだよ」

以下の対談部分を読む前に、まず、いくつかの点は銘記しておいてください。

一つ目に、柴山先生と岡野先生は、とてもラフに話していますが、こう見えても(?)解離に関しては国内では右に出るものはいないほど詳しく、臨床経験も豊富な方々です。

二つ目に、このブログで扱ったとおり、お二人ともご自分の書籍で大人のイマジナリーコンパニオンについて取り上げており、その現象はいくらか解離と関係があることを認めています。

最後に、突然ボーダーライン(境界性パーソナリティ障害)の話から始まりますが、その前の文脈を見ると、解離の話題の流れなので、ボーダーラインに限らず、解離全般に当てはまる話として読んでいただいて構いません。

それでは、お二人の対話に耳を傾けてみてください。

柴山:ボーダーラインの人にはね、僕は「おばさんになったらよくなる」と言いますけれどね。(一同爆笑)

岡野:それそれ。先生のお言葉として今拾わせていただきましたよ。先生、おばさんというのはちょっと失礼じゃないですか。

柴山:「40になりましたけど、まだ十分よくなっていません」と言われるわけです。

岡野:つまり40ぐらいになったら、ずい分枯れてくるだろうけどと。

柴山:人によっては30ちょっとですけれど。要するに何か吹っ切れるというか。40くらいになって「先生、明日誕生日なんですけれど、まだ私解離やってます」と言われる。

「あ、そうですか」と答えると、「先生は40歳までにはよくなりますっていったでしょ」。「いや、ごめん。40歳ていうか、おばさんになったらね。君はまだ夢見る少女だから」とか言って。(一同笑い)

岡野:そっちだ。そっちで使うんだ。つまり、もう少女でなくなったら、という言い方。

柴山:もう少女でなくなったら、ちょっと残念だけどよくなっちゃうんだよと。(p182-183)

身も蓋もない表現ですが…

解離は「おばさん」になったら治ってしまうのです。しかし「夢見る少女」のままでいるうちは、解離したままなのです。

文脈で、柴山先生は、自分の外来の解離性障害の患者は、もっばら10代から30代であり、特に20代後半がピークだと述べています。最年長は50代の人ですが、1人か2人ほどしか存在しません。

たとえば26歳のときに診察に来た人が、32歳になったら、治療が効いたかどうかにかかわりなく、自然治癒的に治ってしまう人も多いというのです。(p190)

その理由として、「おばさん」になると、一種の強さを持つようになり、現実から逃げないで、ファンタジーの世界に入らなくても生きていけるようになるから、という、なんとも率直な意見を述べています。(p183)

そういえるのは、解離には、もともとファンタジーの中に入り込みやすい素因、BarberとWilsonの言うところの空想傾向(fantasy-proneness)が関係している場合が多いからです。またはH.シュピーゲルのグレード5とも関係しているそうです。(p190)

小さいときから非常に空想的で、幻視や離人症も経験している場合があり、その一環としてイマジナリーフレンドも生まれている場合があるのです。

ですからもし、年を重ねるにつれ、「夢見る少女」の空想傾向を失い、「おばさん」として地に足をつけるようになるなら、イマジナリーフレンドという解離の現象も「ちょっと残念だけどよくなっちゃう」のかもしれません。

老年期のイマジナリーフレンドは存在するのか

それにしても、本当に年をとると、イマジナリーフレンドは消えてしまうのでしょうか。

麻生武博士による、ファンタジーと現実 (認識と文化)という本では、解離とは違った角度から、イマジナリーフレンドについて考察されています。この本ではイマジナリープレイメイトという表記です。

老年期のイマジナリーフレンドについてこう書かれています。

老人期(第Ⅳ期)

この時期に関する「想像の遊び友達」の研究は、現在のところ皆無である。しかし、仏壇に向かって老人が先立った妻や夫や子どもたちや友人と対話するということは決して少なくない現象のように思われる。

…このような亡き人の霊や神や仏といった(想像上の)人格的存在も、彼らが私たちに語りかけてくれたり、見守ってくれたりするという意味において、充分に「想像の遊び友達」と呼ぶにふさわしい現象であると言えるだろう。(p125)

この説明が、青年期のイマジナリーフレンドと同等のものを表しているのか、まったくの別物を示唆しているのか判断するのは難しいところです。

確かに、亡くなった人の霊や、仏壇の仏様を信じている年配の人は大勢います。それは見えない人格的存在と定期的に交流するという意味ではイマジナリーフレンドと同質のものにも思えます。

イマジナリーフレンドを持つ人が、IFと会話しながら食事を楽しむように、年配の人も、亡くなった人と会話しながら食事を仏壇に供えます。

しかし一方で、典型的な解離のイマジナリーフレンドにみられるような、頭の中に声が自発的に聞こえてくる、といった現象はみられないでしょう。同様に、姿を見たり、身体に触れたりすることもないでしょう。

つまり、同じ「想像の遊び友達」ではあっても、解離にみられるような、生々しいまでの具体性や、実在しているような雰囲気は伴っていないことになります。

この点も麻生博士は抜かりなく説明していて、「現前性」(リアリティ)と「実在性」(存在を信じていること)という二つの尺度で測ろうと考えています。(p204)

青年期のイマジナリーフレンドは「現前性」が高く、「実在性」は低いといえます。つまり、リアリティはありますが、実際に生きて存在しているとは信じていません。

老年期の神や仏は、「現前性」が低く、「実在性」は高いといえます。つまり確かに存在していると信じてはいますが、リアリティはありません。

このように考えると、あらゆる年代の想像の遊び友達は性質が少し異なるとはいえ、どれも本質は同じだというわけです。

この理論は、青年期のイマジナリーフレンドが老年期にどう変化するかを示してはいませんが、あえて言うと、解離によってもたらされていたリアリティは失われてしまう可能性を示唆しているのかもしれません。

たとえば、イマジナリーフレンドを恋人のように大切に思っている人であっても、年齢とともに、そのリアリティが失われ、やはり現実の人間と結婚する道を選ぶようになってしまう可能性がある、ということでしょうか。

しかし必ずしもイマジナリーフレンドと暮らし続けるという道は閉ざされているわけではありません。青年期における「想像上の仲間」に関する一考察 : 語りと体験様式からの著者 山口智は次のような可能性も示唆しています。

一方で青年期だけでなく,一生涯その存在と人生を共にしていく場合もありうるだろう。それは時として想像の世界から出られず,精神病理の世界へと向かう兆しとなりうるかもしれない。

しかし「想像上の仲間」について語る被調査者の言葉からは, 「想像上の仲間」との関わりを通して,現実世界や外界に向かい合って生きる姿がうかがわれた。そのように, 「想像上の仲間」との関わりを保ち,独自の内的世界を抱えながら現実を生きるという在り方も十分に考えられよう。(p117)

「夢見る少女」のままでいた人

最後に、私的なことですが、わたしが親しくしていた、あるおばあちゃんの話をしましょう。その人は、もう80歳を過ぎて亡くなりましたが、最後まで想像力豊かで、少女のような心を忘れない人でした。

いわゆる「おばさん」のような達観して割り切ったようなところはなく、純粋に夢を持ち続けていました。部屋はぬいぐるみで埋め尽くされていて、若い20代の友だちも大勢いる、小柄でかわいいおばあちゃんだったのです。

そのおばあちゃんは長い間、視野がかなり欠けていたのですが、おそらくCharles Bonnet(シャルル・ボネ)症候群だったのだと思います。

視野が欠けている部分に妖精さんや小人が見えると言うのです。もちろんその存在は信じていないのですが、実際に目に見えていて、その光景を楽しんでいました。

シャルル・ボネ症候群とは、精神的には健康で、目の視力をいくらか失った老人が、実際には存在しないとわかっている複雑で生き生きした幻視を見ることだとされています。

もちろんこれは、イマジナリーフレンドとは別物ですが、もともと小さい子どものイマジナリーフレンドは、こうした小人や妖精、精霊といった形をとることも多いのです。子どもたちはそれが目に見え、触ることもできたといいます。

老人になっても、同じように妖精さんが見えて、それを楽しむこともできる人がいた、ということは、人は幾つになっても、「夢見る少女」のままでいられるものなのかもしれない、と思わせてくれます。

それで、次のような結論にまとめることにしたいと思います。

イマジナリーフレンドはおそらく「おばさん」になるとリアリティが失われて消えていく。
しかし人は死ぬまで「夢見る少女」のままでいることもできる。
どちらを選ぶかは、その人次第である。

▼愛する故人との対話とイマジナリーフレンド (2015/08/04追記)
その後、麻生武博士が触れていた、老年期の愛する故人との対話に見られるイマジナリーフレンド現象との類似性について、さらなる調査をしてみました。

すると、青年期と変わらないほど、強い解離の特徴、すなわち声が聞こえたり、そこにいるという感覚を伴ったりする例が少なくないことが分かりました。

もちろん、そのような実在感を伴わない場合も多くありますが、この新しい事実からすると、本文中で述べた現前性のあるイマジナリーフレンドは、必ずしも若い人だけのものではない、ということがわかります。

おそらく、死別という耐えがたい体験が、現実から逃げない強さを得ているはずの大人の心をさえ揺るがしてしまうからなのでしょう。いわば喪失体験は、「おばさん」になった人を、亡くなった愛する人と再び会いたいと願う「夢見る少女」に引き戻すことがあるともいえます。

年をとれば、確かに現実的になって、解離しにくくなることは事実でしょうが、解離しなくなるというわけではない、という、この記事で述べた論旨を裏づける情報と思われます。

愛する故人の思い出と、イマジナリーフレンドを同等に考えるこのような考え方にある人たちは不快感を示すかもしれません。現実に存在したわたしの愛する人を、空想の産物と同じように扱ってほしくないというわけです。

しかし逆の立場からいうと、イマジナリーフレンドの保持者は、イマジナリーフレンドを単なる空想ではなく現実の存在とみなしていますし、現実の人間に対するのと同じほどのリアリティと存在感を抱いています。

もしも愛する家族を亡くした大人に見られる故人との想像上の対話が、イマジナリーフレンドと同等の現象であるとすると、リジリエンス―喪失と悲嘆についての新たな視点という本に載せられている、娘を亡くしたある母親の次の言葉は、いつかはイマジナリーフレンドが消えてしまうのか、という問題に対する一つの答えかもしれません。

それは消えかかっている火と少し似ています。炎は薄暗いけれど、けっして消えません。けっして、完全には消えないのです。

そのことに私はとても安心します。以前はいつか火が消えてしまうのではないかと心配していました。私が忘れてしまうのではないか、私が本当にクレアを失ってしまうのではないかと心配していたのです。

でも、今はそんなことは起きないとわかっています。起きるはずがありません。いつも火はちらちらとそこで燃えています。それはまるで燃え盛った火がおさまった後に残っている小さな残り火のようです。

私はいつもそれを一緒に持ち歩きます。その小さな残り火を。

そして、私がもしも必要ならば、もしも傍らにクレアがいてほしいと思えば、それにそっと息を吹きかけると、また明るく燃え始めるのです。(p263)

愛する故人との想像上の対話とイマジナリーフレンドの類似性について詳しくは以下の記事をお読みください。

脳は絶望的状況で空想の他者を創り出す―サードマン,イマジナリーフレンド,愛する故人との対話
絶望的状況でサードマンに導かれ奇跡の生還を遂げる人、孤独な環境でイマジナリーフレンドと出会い勇気を得る子ども、亡くなった愛する故人と想像上の対話をして慰めを得る家族…。これらの現象
スポンサーリンク

スポンサーリンク
イマジナリーコンパニオン