ノーベル賞科学者が語る、宗教という思考停止、科学という盲信―「神のせい」と「進化論」

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■わたしがこんな苦しみに遭うのは、きっと神様が与えた試練に違いない
■テレビで科学者が言っていたから、これが体に良いというのは間違いない。

たしたちは、とぎどき、このような短絡的な思考をしていないでしょうか。

日本のノーベル賞受賞者2人が対談している、「大発見」の思考法 iPS細胞 vs. 素粒子  という本を読んでみました。

「大発見」の思考法というだけあって、世の中のいろいろな物事を観察し、検証するのに、役立つ考え方が載せられていました。その中でも特に印象に残った(そしてときには議論になりそうな)部分を、あえて紹介してみたいと思います。

それは、宗教と科学という、二つの分野で、人々がよく陥りがちな思考について、率直に警鐘を鳴らしている部分です。

この記事は、特定の宗教や思想、理論を批判するものではなく、世の中に広く見られる誤った思考や盲信という「考え方」を批判するものです。

むしろ、宗教を持っているかいないか、科学に通じているかいないかにかかわらず、役に立つ思考方法だと思います。

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これはどんな本?

この本は、トップクォークの存在を予言し、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英博士と、iPS細胞を生み出し、ノーベル医学生理学賞を受賞した山中伸弥博士による対談を収録した本です。

お互いの研究の裏側についての話や、子ども時代の様子、記憶や思考の方法、お二人とも「うつ」との付き合いがあること、生命の起源という残された科学的問題に関する考察など、数々の興味深い話が載せられています。

その中でとりわけ興味深く感じたのは、宗教と科学に対するお二人の考え方でした。

「神のせい」という短絡的思考

益川博士は、自分のほうから、宗教を意識したことがあるか、という一見 科学者にとっては答えづらいのではないかとも思えるデリケートな話題について、山中博士に尋ねます。

山中博士は自分は節操がなく、ときには神頼みもすると述べ、その理由について、こう答えます。

生物学をやっていると、それこそ、「これは神様にしかできない」と思うようなことがたくさんありますから。(p183)

それに対し、益川博士は、自分が宗教を信じない理由を次のように述べ、こう批判します。

益川 僕が積極的無宗教なのは、「神」というのが、自然法則を説明する時によく出てくるからです。

たとえば、「雪の結晶には一つとして同じものがない。実に不思議だ。なぜこんなものが存在するのだろう」と誰かが言った時、「神様がお作りになったのだ」と、神を引き合いに出して説明するのが、いちばん手っ取り早い。

…(中略)…

僕が言う積極的無宗教とは、「雪の結晶は神様がお作りになったのだ」と言う人達に対して、「その答えを神様に求めなきゃいかんほど、あなたの理性は単純なのですか? それぐらいの答えだったら、いくらでも考えられますよ」と、異議を申し立てることなのです。(p184-185)

これは考えさせられる意見です。

自然界の生物のつくりや、人間の脳の仕組み、あるいは宇宙の成り立ちや、病気の原因など、わたしたちのまわりには、まだ理解できていないことが非常に多く転がっています。

それらがなぜ、どのように、どうやって機能しているか分からないとき、ある人たちは「神がそうした」と述べて思考停止してしまうというのです。

ここで、今この記事を読んでおられる方の大半は、こう言うかもしれません。「たしかにそれは愚かなことだ。しかし自分は宗教を信じていないので関係ない」。

本当にそうでしょうか。

思考停止のポジティブシンキング

わたしは、つい先日、このブログで、同じような考え方について疑問を差し挟んだばかりです。

前回の記事で、わたしは自己啓発としてのポジティブ・シンキングの問題点を取り上げました。ポジティブ・シンキングは、いろいろな形をとりますが、そのひとつは、不幸なことを「神様が与えた試練だ」とみなす姿勢です。

この種の偽のポジティブ・シンキングは広く浸透していて、文化によっては子どもが病気で亡くなったときに神のおぼしめしだと述べたり、災害を天罰だという人がいたりするそうです。

先日読んだ、寄生虫なき病という本には、こんな話が載せられていました。

六百年以上前のことである。リドウィナという15歳のオランダ人の少女がスケートをしていて転倒し、肋骨を折った。

この転倒が、彼女の生涯にわたる慢性病の最初の徴候だった。病は進行し、彼女は長時間にわたるめまいや四肢の脱力、視力障害の発作を繰り返すようになった。

…リドウィナの転倒から500年経った19世紀末…彼女はスケートの守護聖人となった。

彼女の生前、ある司祭は、彼女の病気は神から与えられたものであり、その苦しみは神の目的にかなっているのだと述べた。(p180)

今では、この少女は神からの賜物を持っていたのではなく、記録に残る「多発性硬化症」の最初の症例だったと考えられています。

ここで、彼女の病気が、「神から与えられたもの」だとされていたことは、偽りのポジティブ・シンキングの長い歴史を示しています。

病気の原因を調べようとせず、あるいは調べたものの全く見当がつかなかったので、何かもっともらしい説明をしなければならないと思い、「神のせい」にしたのです。

これは、益川博士が述べている問題点と同一のものです。

つまり、物事が生じた理由や原因や意味を明らかにできないとき、ある人たちはそれを追求しようとするのをやめてしまい、もっともらしい答えとして「神のせい」にしてしまうのです。

わたしのある友人は、ふだんは神を信じていないと公言していますが、自分が不幸なできごとに直面したとき、「なぜ神は自分にばかり試練を与えるのだと」、しきりに悪態をついていました。都合の悪いときだけ「神のせい」なのです。

これは一種の「学習性無力感」なのかもしれません。考えてもわからない、理解できない経験が続くと、答えを追求しようとしても無駄だと思い込んでしまい、理由や意味を追求する努力をやめてしまうのです。

しかし、何かが生じたのなら、必ず原因があるはずです。その原因は「神」ではなく「自分」にあることも多いでしょう。あるいは、いろいろな原因が重なりあったことで生じたのかもしれません。

少なくとも自然界の驚異にせよ、不幸なできごとにせよ、短絡的に「神のせい」としてしまうのは、真実に行きつく機会を閉ざしてしまうだけで、何の解決にもなりません。

それは、わからないこととわからないことの間を「神」という万能の都合の良い言葉で説明しているだけで、いわゆる「隙間を埋める神」と呼ばれる安易な考え方にすぎません。

アイザック・ニュートンに学ぶ、思考停止しない方法

問題や疑問に直面したとき、本当に正しい考え方は、思考停止したり、「神のせいだ」と決めつけたりすることではなく、時間がかかろうとも、いろいろな可能性を探究しつづける姿勢なのではないでしょうか。

アイザック・ニュートンは神を信じた科学者として知られていて、宗教的著作も多くあります。しかし、科学に対して、「神のせい」にするという間違いは犯しませんでした。

アイザック・ニュートンは、次のような名言を遺したことで知られています。

世界の人達がわたしのことをどうみなすか知らないが、わたしに言わせれば、わたしは、ときおり、普通よりもなめらかな小石や、かわいい貝殻を見つけて夢中になっている、海辺で遊んでいる少年のようなものだ。その間も、真理の大海原は、すべてが未発見のまま、わたしの前に広がっているのだ。
'I don't know what I may seem to the world, but as to myself, I seem to have been only like a boy playing on the sea-shore and diverting myself in now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me.'

彼は、自然界の理解できない現象について、思考停止したりはしませんでした。むしろ、それがどのような法則にしたがって働いているのか、丹念に検証しました。

彼は、自然界にはまだ分からないことが多くあり、「真理の大海原」が未発見のまま広がっていることを知っていました。

しかし今は十分理解できないとしても、貝殻や小石のような手元にある手の届くものから調査を始め、地道に考えつづければ、少しでも未知なる科学的真理に近づけると考えていました。

彼は、益川博士の言うような、「雪の結晶は神様がお作りになったのだ」というような短絡的で行き詰まる思考は決してしませんでした。

これは神を信じるかどうかの問題ではありません。アイザック・ニュートンは、神を信じていたとはいえ、何かの理由付けとして安易に「隙間を埋める神」を持ち出すという思考をしなかったのです。

わたしたちの場合も、何か理解しにくい問題が生じたときは、もっともらしい理由をつけて片づけようとするのではなく、じっくり腰を据えて調査することが大切だと思います。

科学上の疑問だけでなく、なぜ自分は病気になったのか、なぜ自分は結婚生活がうまくいかないのか、というような身近な問題についても、集められる限りの情報を集めて、原因を検証するなら、徐々にではあれ、真実に近づくことができるでしょう。

「科学的な」進化論だからという盲信

益川博士は科学的なうそを教える宗教を痛烈に非難したあと、話題を宗教から進化論へと移します。

日本ではあまり馴染みのない話ですが、キリスト教の国などでは、宗教と進化論が対立していて、人口の約半分が進化論を信じていないそうです。

それを聞いて、思わず冷笑しがちな日本人の読者に対し、益川博士と山中博士は次のように警鐘を鳴らします。

益川 そういう話を聞くと日本人は、「進化論」を信じないなんて怖いな、と思うかもしれませんが、実は、「進化論」を信じるのも、ある意味では怖いことなんですよね。

山中 はい。なぜなら、「進化論」はまだ誰にも証明されていないからです。なぜか日本人は、人間はみんな猿から進化したと信じていますが、証明はされていない。

益川 ちなみに最近は、「進化論」と言うと怒られちゃう。今やれっきとした学問なのだから、「進化論」ではなく「進化学」と呼ぶべきだ、と。

それはさておき、「ヒトは猿から進化したのか、それとも神が作ったのか」と訊かれれば、日本人はなんとなく「猿から進化した」というほうを信じますが、それは何の根拠もないわけです。(p189)

この説明から、わたしたちが考えるべきなのは、科学は絶対ではない、ということです。

わたしたちは(特に日本人はそうなのかもしれませんが)「科学的である」ということに絶対的な信頼を置きがちです。

しかし、科学の歴史を見れば分かるとおり、科学は、これまで何度も過ちを犯し、覆されてきました。3つほど例を挙げましょう。

天動説と地動説

古くは天動説があります。天動説は、ガリレオの裁判のイメージのため、一見、宗教の誤りと考えられがちですが、もともとはギリシャの数学者・哲学者らが考えだした概念であり、特に人類史初の天才科学者とも評されるアリストテレスによって有名になったそうです。

しかし科学的に正確とみなされていた天動説は、コペルニクスやガリレオ・ガリレイの登場によって覆され、今では地動説が正しいことが明らかになりました。

静的宇宙と膨張する宇宙

20世紀にも、宇宙は静的であるという誤りが信じられていた時期がありました。アルバート・アインシュタインも、宇宙は膨張も収縮もしていないと固く信じていたので、その考えが自分の一般相対性理論の方程式と食い違うことに動揺し、自分の考えではなく、方程式のほうを修正しました。

しかしその後、宇宙にはビッグバンという始まりがあったことが明らかになり、現在では宇宙は膨張しているとされています。

微生物病原説と微生物不在

先日このブログで取り上げた話題に、「微生物病原説」と「微生物不在」があります。人類は病原菌や抗生物質を発見して以来、微生物はすべて病気のもとだと考えて、微生物の根絶を誓ってきました。

店に行くと商品には「無菌」「滅菌」「清潔」といった言葉が並んでいて、微生物を除去するためにさまざまな化学物質や添加物が使われています。

しかし、近年、自己免疫性疾患やアレルギーが増えているのは、微生物を根絶しすぎた“清潔な環境”のせいではないか、と言われていて、「衛生仮説」や「マイクロバイオータの消失」が注目されています。ほんの数十年前、絶対的に正しいと考えられていた科学がゆらいでいるのです。

チャールズ・ダーウィンから学ぶ検証の大切さ

ここで話題に上っている「進化論」は、だれもが知っているとおり、チャールズ・ダーウィンによって考えだされたものです。

脳のなかの天使という本によれば、ダーウィンは著書「人間の由来」の中でこう述べたそうです。

誤って事実とされたことは、長くそのままになりがちなので、科学の進歩にとってきわめて有害である。

しかし誤った見解は、たとえなんらかの証拠によって支持されていようと、ほとんど害をなさない。誤りを立証するという有益な楽しみをだれもが実行したがるからだ。

そして誤りが立証されれば、まちがいに向かう一つの道が閉ざされて、真実に至る道がしばしば同時に開かれる。(p344)

ダーウィンは、自分の理論について、それが唯一絶対の真理だ、といったうぬぼれは抱いていなかったことがわかります。

そして、まだ十分に証明されていない仮説が誤って事実とされてしまった場合、科学の進歩にとって、極めて有害だということを認識していました。もちろん自身の「進化論」がそのように扱われることは望んでいなかったでしょう。

科学的な思考というのは、何かの理論を絶対的なものだと盲信することではなく、もっと広い目を持って、さまざまな可能性を謙虚に認めることではないかと思います。

わたしもできればそのようにありたいと思っています。このブログのプロフィールの「正確さ」の項では、このダーウィンの言葉を引用しつつ、信ぴょう性について半信半疑の気持ちで読んでほしいと書いています。

科学や医学は、進歩とともに覆されることがよくありますし、現在声高に理論を提唱している研究者が正しいとも限りません。天動説だって、信じられていた当時はだれから見ても、もっともらしかったのです。

耳を傾けるという楽観主義

ここまで考えた益川博士と山中博士の論議は、わたしたちが何かを考えるとき、短絡的に判断せず、よく考えることの必要性を説いた思考法だと思います。

理解しにくい事柄に直面したとき、原因や意味を調査するのをあきらめて、考えることをやめてしまうのは、短絡的であり、愚かです。

科学者や著名人など、権威のある人が述べているからといって、100%鵜呑みにしてしまうのもよくありません。(もちろんそれは、ノーベル賞受賞者としての益川博士、山中博士の発言についても言えることです)

むしろ、わたしたちは自分自身で幅広く調査したり、いろいろな意見に謙虚に耳を傾けたりすることによって、自分の意見を発展させ、前進しつづけることが大切だと思います。

前回の記事で、うわべだけのポジティブ・シンキングではなく、現実的な楽観主義を貫いている例として取り上げた俳優のマイケル・J・フォックスは、いつも上を向いてという本の中で、こう述べていました。

自分のものとはちがう信念を信奉している人の話を聞くことは、脅威ではなく知識を増やすことだ。

なぜなら自分の世界観を変えることができる唯一のものは、新しくかつ否定しがたい真実なのだから。(p187)

彼は「耳を傾けることが楽観主義のひとつの表現である」とも述べています。(p188)

もちろんこれは、悪意をもってこき下ろそうとしている人の話に耳を傾ける、というわけではなく、誠実に意見を持っている人と、建設的なコミュニケーションをするということです。

そうするなら、自分が気づいていなかった物事の新しい一面が見えたり、事情をよく知らず誤った理解をしていたことがわかったりして、より正しい答えへと近づくことができるかもしれません。

いろいろな可能性を探り続けたアイザック・ニュートン、自説に固執しなかったチャールズ・ダーウィンのように、柔軟で発展性のある思考をしていきたいところです。

この「大発見」の思考法 iPS細胞 vs. 素粒子という本は、ノーベル賞受賞者という思考の巨人を通して、ものの見方を考えさせられる面白い本でした。

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