■テレビで科学者が言っていたから、これが体に良いというのは間違いない。
わたしたちは、ときどき、このような短絡的な思考をしていないでしょうか。
日本のノーベル賞受賞者2人が対談している、「大発見」の思考法 iPS細胞 vs. 素粒子 という本を読んでみました。
「大発見」の思考法というだけあって、世の中のいろいろな物事を観察し、検証するのに、役立つ考え方が載せられていました。その中でも特に印象に残った(そしてときには議論になりそうな)部分を、あえて紹介してみたいと思います。
それは、宗教と科学という、二つの分野で、人々がよく陥りがちな思考について、率直に警鐘を鳴らしている部分です。
この記事は、特定の宗教や思想、理論を批判するものではなく、世の中に広く見られる誤った思考や妄信という「考え方」を批判するものです。
むしろ、宗教を持っているかいないか、科学に通じているかいないかにかかわらず、役に立つ思考方法だと思います。
目次 ( 各項目までジャンプできます)
これはどんな本?
この本は、トップクォークの存在を予言し、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英博士と、iPS細胞を生み出し、ノーベル医学生理学賞を受賞した山中伸弥博士による対談を収録した本です。
お互いの研究の裏側についての話や、子ども時代の様子、記憶や思考の方法、お二人とも「うつ」との付き合いがあること、生命の起源という残された科学的問題に関する考察など、数々の興味深い話が載せられています。
その中でとりわけ興味深く感じたのは、宗教と科学に対するお二人の考え方でした。
「神のせい」という短絡的思考
益川博士は、自分のほうから、宗教を意識したことがあるか、という一見 科学者にとっては答えづらいのではないかとも思えるデリケートな話題について、山中博士に尋ねます。
山中博士は自分は節操がなく、ときには神頼みもすると述べ、その理由について、こう答えます。
生物学をやっていると、それこそ、「これは神様にしかできない」と思うようなことがたくさんありますから。(p183)
それに対し、益川博士は、自分が宗教を信じない理由を次のように述べ、こう批判します。
益川 僕が積極的無宗教なのは、「神」というのが、自然法則を説明する時によく出てくるからです。
たとえば、「雪の結晶には一つとして同じものがない。実に不思議だ。なぜこんなものが存在するのだろう」と誰かが言った時、「神様がお作りになったのだ」と、神を引き合いに出して説明するのが、いちばん手っ取り早い。
…(中略)…
僕が言う積極的無宗教とは、「雪の結晶は神様がお作りになったのだ」と言う人達に対して、「その答えを神様に求めなきゃいかんほど、あなたの理性は単純なのですか? それぐらいの答えだったら、いくらでも考えられますよ」と、異議を申し立てることなのです。(p184-185)
これは考えさせられる意見です。
自然界の生物のつくりや、人間の脳の仕組み、あるいは宇宙の成り立ちや、病気の原因など、わたしたちのまわりには、まだ理解できていないことが非常に多く転がっています。
それらがなぜ、どのように、どうやって機能しているか分からないとき、ある人たちは「神がそうした」と述べて思考停止してしまうというのです。
本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかの中で宗教学教授のディヴィッド・セトレは、宗教にみられるそうした態度を「偽の明快さへの執着」と呼んでいます。
その公的な立場をよそに、セトレは組織的な宗教に対して賛否の入り混じった感情を抱いている。
「キリスト教や体系化された宗教の大半に対して私が困難を感じているのは、それがあまりに多くを語ろうとしていることです。
明らかだと考えられていることに関しては、とくにそう言えます。過度に主張をすることで、必要なあいまいさを破壊しようとしているのです」。
彼はそれを「偽の明快さへの執着」と呼ぶ。(p226)
体系化された宗教の多くは、すべてを明快に説明する真理を教えます。わからないことを残したままでは沽券に関わるので、本来、宗教が踏み込むべきでない領域にも口出しして説明を試みます。
有名なガリレオ・ガリレイの裁判の対立の原因になったのは、まさにこの「偽の明快さへの執着」でした。
神は数学者か?―ー数学の不可思議な歴史 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫〈数理を愉しむ〉シリーズ)によれば、ガリレオが異議を唱えたのは、聖書そのものではなく、神学者たちが聖書の字句を強引に科学に当てはめた解釈に対してでした。
彼はコペルニクスの理論と聖書の内容には、〈表面的な点を除けば〉食い違いがないと訴えたが、当時の神学者たちはガリレオの主張を、“自分たちの縄張りへの不当な侵入”ととらえた。
皮肉なことに、当の神学者たちは、科学の問題に遠慮なく口出ししていたのだが。(p122)
これは宗教の側の傲慢さを物語る一例です。世の中のあらゆる真理を明快に説明しようとするあまり、僭越にも、宗教を超えた領域にまで口出ししてしまうのです。
しかしながら、今この記事を読んでおられる方の大半は、こう言うかもしれません。「たしかにそれは愚かなことだ。しかし自分は宗教を信じていないので関係ない」。
本当にそうでしょうか。
思考停止のポジティブシンキング
最近の記事で、わたしは自己啓発としてのポジティブ・シンキングの問題点を取り上げました。これは、日常生活の中で、だれもが行ってしまいがちな「偽の明快さへの執着」だといえます。
偽りのポジティブ・シンキングは、いろいろな形をとりますが、そのひとつは、不幸なことを「神様が与えた試練だ」とみなす姿勢です。
この種の偽のポジティブ・シンキングは広く浸透していて、文化によっては子どもが病気で亡くなったときに神のおぼしめしだと述べたり、災害を天罰だという人がいたます。日本でも震災のときにそうした発言がありました。
先日読んだ、寄生虫なき病という本には、こんな話が載せられていました。
六百年以上前のことである。リドウィナという15歳のオランダ人の少女がスケートをしていて転倒し、肋骨を折った。
この転倒が、彼女の生涯にわたる慢性病の最初の徴候だった。病は進行し、彼女は長時間にわたるめまいや四肢の脱力、視力障害の発作を繰り返すようになった。
…リドウィナの転倒から500年経った19世紀末…彼女はスケートの守護聖人となった。
彼女の生前、ある司祭は、彼女の病気は神から与えられたものであり、その苦しみは神の目的にかなっているのだと述べた。(p180)
今では、この少女は神からの賜物を持っていたのではなく、記録に残る「多発性硬化症」の最初の症例だったと考えられています。
ここで、彼女の病気が、「神から与えられたもの」だとされていたことは、偽りのポジティブ・シンキングの長い歴史を示しています。
病気の原因を調べようとせず、あるいは調べたものの全く見当がつかなかったので、何かもっともらしい説明をしなければならないと思い、「神のせい」にしたのです。
これは、益川博士が述べている問題点と同一のものです。
つまり、物事が生じた理由や原因や意味を明らかにできないとき、ある人たちはそれを追求しようとするのをやめてしまい、もっともらしい答えとして「神のせい」にしてしまいます。
わたしのある友人は、ふだんは神を信じていないと公言していますが、自分が不幸なできごとに直面したとき、「なぜ神は自分にばかり試練を与えるのだと」、しきりに悪態をついていました。都合の悪いときだけ「神のせい」なのです。
これは一種の「学習性無力感」なのかもしれません。考えてもわからない、理解できない経験が続くと、答えを追求しようとしても無駄だと思い込んでしまい、理由や意味を追求する努力をやめてしまうのです。
しかし、何かが生じたのなら、必ず原因があるはずです。その原因は「神」ではなく「自分」にあることも多いでしょう。あるいは、いろいろな原因が重なりあったことで生じたのかもしれません。
少なくとも自然界の驚異にせよ、不幸なできごとにせよ、短絡的に「神のせい」としてしまうのは、真実に行きつく機会を閉ざしてしまうだけで、何の解決にもなりません。
それは、わからないこととわからないことの間を「神」という万能の都合の良い言葉で説明しているだけで、いわゆる「隙間を埋める神」と呼ばれる安易な考え方にすぎません。
とりわけ、「苦しみは神様が与えた成長するための試練だ」的な考え方については、チャールズ・ダーウィンが、ダーウィン自伝 (ちくま学芸文庫)の中で語っている次の反証を挙げるだけで、不合理であることがわかるはずです。
世界に多くの苦痛があるということは、だれでも認める。ある人たちはこのことを、人間にかんしてだが、それはモラルの改善に役立つというふうに想像して説明しようと試みた。
しかし、世界中の人間の数は、他のすべての知覚的生物の数と比較すればなにほどのものでもなく、そしてこれらの生物はしばしば、モラルの改善はなしにいちじるしく苦痛を受けているのである。
全世界を創造することができた、神のように力と知識にみちた存在は、われわれの限られた知力にたいしては、全知全能であるわけだが、その神の慈悲が無限でないと仮定することはわれわれの理解に反する。
というのは、ほとんど無限の時間をつうじて無数の下等生物が苦痛を受けるということに、どんな利益もありえないからである。(p107-108)
要約すれば、現実には、試練を通して成長する人より、著しい苦痛にあえぎつづけている人のほうが多い、もし全知全能の神がいるなら、試練を与えて我々を成長させたりしなくても、もっと慈悲ある方法で助けることができるはずではないか、ということです。
わたし個人の意見からしても、言語を絶する虐待や拷問、全身の激痛に死ぬまでさいなまれる線維筋痛症や、筋肉がまったく動かなくなり 意識を保ったまま身体に閉じ込められるALSなどの病気が、神から与えられた成長のための試練だとは思えません。
たとえどんな教育的な理由があろうと、親が子に体罰を与えるなら、脳科学的に深刻な後遺症が生じることが研究でわかっています。
よって、もし父なる神が子どもである人類に教育という名目で苦痛を与えているとしたら、神は愛ある親どころか、冷酷無慈悲でサディスティックな児童虐待者になってしまうでしょう。
「病気や苦しみは神様から与えられた成長するための試練だ」という考え方は、都合よく「神」の概念を利用することで、実際には「神」の評判を貶めているとさえ言えます。
また、「神のせい」と同様の思考停止は、「悪魔のせい」という形を取ることもあります。こちらの場合は、悪いことが起こったら、すべて悪魔のせいにして、原因について考えようともしなくなる、いわば「隙間の悪魔」的な思考です。
本当は、自分の行動のせいで蒔いたものを刈り取っているにすぎないのに、あるいはたまたま不幸にも悪い偶然に見舞われただけなのに、すべて問題は「悪魔のせい」だと片付けてしまいます。
架空の「悪魔」に責任転嫁しているうちはまだ良いものの、歴史において度重なる悲劇をもたらしてきたのは、特定の人間を悪魔呼ばわりして、すべての責任を押し付けてきた人たちです。
雨の自然誌に書かれているように、その種の思考停止のうち最も残虐だったのは中世の魔女狩りでしょう。その時代、悪いことが起これば、すべて「魔女のせい」だとされ、相当数の人が事実無根の罪を帰せられて拷問され火あぶりにされました。
迷信では、魔女は嵐を呼ぶだけでなく、病気をまき散らし、子供を殺し、男も女も、家畜も生殖能力を失わせることができるとされた。
「こうした類の不幸が偶然に起こるという考えは、当時のヨーロッパ人の多くにとっては異質なものだった」と、ベーリンガーは言う。「魔女は、この時代が惨事に見舞われる理由を説明するうえで、人びとが必要とした身代わりだったのだ」(p58)
このような思考停止は、しばしば宗教と関連づけられますが、実際には無神論の国の弾圧や民族浄化などでも生じてきたので、宗教を信じているかどうかに関係なく作られる強力な偏見(バイアス)の産物とみなすべきでしょう。
ニュートンやケプラーに学ぶ、思考停止しない方法
問題や疑問に直面したとき、本当に正しい考え方は、思考停止したり、「神のせいだ」と決めつけたりすることではなく、時間がかかろうとも、いろいろな可能性を探究しつづける姿勢なのではないでしょうか。
アイザック・ニュートンは神を信じた科学者として知られていて、宗教的著作も多くあります。しかし、科学的な物事を「神のせい」にして思考停止するという間違いは犯しませんでした。
アイザック・ニュートンは、次のような名言を遺したことで知られています。
世界の人達がわたしのことをどうみなすか知らないが、わたしに言わせれば、わたしは、ときおり、普通よりもなめらかな小石や、かわいい貝殻を見つけて夢中になっている、海辺で遊んでいる少年のようなものだ。その間も、真理の大海原は、すべてが未発見のまま、わたしの前に広がっているのだ。
'I don't know what I may seem to the world, but as to myself, I seem to have been only like a boy playing on the sea-shore and diverting myself in now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me.'
彼は、自然界の理解できない現象について、思考停止したりはしませんでした。むしろ、それがどのような法則にしたがって働いているのか、丹念に検証しました。
彼は、自然界にはまだ分からないことが多くあり、「真理の大海原」が未発見のまま広がっていることを知っていました。
しかし今は十分理解できないとしても、貝殻や小石のような手元にある手の届くものから調査を始め、地道に考えつづければ、少しでも未知なる科学的真理に近づけると考えていました。
同様に、天文学者ヨハネス・ケプラーは、当時としては少数派宗教のルーテル派に属し、カトリック教会の教義とは異なるかたちで、神に対する信仰を持っていたようです。
しかし、ビジュアル図鑑 自然がつくる不思議なパターンによればケプラーもまた、自然界の不思議に対して、安直に思考停止して「神の御業」という言葉で片付けたりはせず、納得のいく理由を突き止めようとしました。
17世紀初め、ドイツ人天文学者ヨハネス・ケプラーは、結晶の形の成因として、神の御心よりもっと確かなものはないのだろうかと考え続けていた。
雪の結晶が必ず六角形なのはなぜだろう。砲弾を船倉に隙間なく詰め込むには、1個の砲弾のまわりを6個の砲弾で六角形に囲むように詰めるのが一番効率的だ。それと関係があるのだろうか。雪の結晶が6回対象なのは、凍った水の「小球」が詰め込まれているからなのだろうか。
ケプラーは答えを突き止めるところまでは行かなかった。この問題が解明されるようになったのは4世紀も後の最近のことである。だが、結晶が規則的な形をしている理由について、ケプラーの直感は正しかった。(p190)
彼は、益川博士の言うような、「雪の結晶は神様がお作りになったのだ」というような短絡的で行き詰まる思考は決してしませんでした。
これは神を信じるかどうかの問題ではありません。ニュートンもケプラーも、神を信じていたとはいえ、何かの理由付けとして安易に「隙間を埋める神」を持ち出すという思考をしなかったのです。
わたしたちの場合も、何か理解しにくい問題が生じたときは、もっともらしい理由をつけて片づけようとするのではなく、じっくり腰を据えて調査することが大切だと思います。
科学上の疑問だけでなく、なぜ自分は病気になったのか、なぜ自分は結婚生活がうまくいかないのか、というような身近な問題についてもそうです。
神のおぼしめしだ、こうなる運命だったのだ、というような安易な責任転嫁をせず、集められる限りの情報を集めて、原因を検証するなら、徐々にではあれ、真実に近づくことができるでしょう。
「科学的な」進化論だからという妄信
益川博士は科学的なうそを教える宗教を痛烈に非難したあと、話題を宗教から進化論へと移します。
日本ではあまり馴染みのない話ですが、キリスト教の国などでは、宗教と進化論が対立していて、人口の約半分が進化論を信じていないそうです。
それを聞いて、思わず冷笑しがちな日本人の読者に対し、益川博士と山中博士は次のように警鐘を鳴らします。
益川 そういう話を聞くと日本人は、「進化論」を信じないなんて怖いな、と思うかもしれませんが、実は、「進化論」を信じるのも、ある意味では怖いことなんですよね。
山中 はい。なぜなら、「進化論」はまだ誰にも証明されていないからです。なぜか日本人は、人間はみんな猿から進化したと信じていますが、証明はされていない。
益川 ちなみに最近は、「進化論」と言うと怒られちゃう。今やれっきとした学問なのだから、「進化論」ではなく「進化学」と呼ぶべきだ、と。
それはさておき、「ヒトは猿から進化したのか、それとも神が作ったのか」と訊かれれば、日本人はなんとなく「猿から進化した」というほうを信じますが、それは何の根拠もないわけです。(p189)
個人的な感想を言えば、わたしは進化論が全く正しいとも誤っているとも思っておらず、多くの仮説と同様、一部は正しく、一部は不正確だと思っています。
進化論の問題点を取り上げた本として特に有名なのは、生化学者マイケル・ベーエによるダーウィンのブラックボックス―生命像への新しい挑戦でしょう。その冒頭でベーエはこう書いていました。
科学の自然支配によって、多くの人々は、自然と生命の起源も科学で説明できるし、事実説明しなければならないと思うようになった。変異に自然選択が作用することによって生命は説明できるというダーウィンの提唱は、1世紀以上も、圧倒的なまでに知識人たちに受け入れられてきた。
…多くの科学者は説明をすでに手に入れたとか、いずれ説明されるだろうと勇ましく主張してきたが、こうした主張を裏付けるものは、科学の専門文献中には見当たらない。
さらに重要なことに、こうした分子系の構造そのものに基づくことだが、生命のメカニズムに対するダーウィン流の説明は永久に捉えどころがないものだと考えざるを得ない理由がある。(p8-9)
大まかにいえば、「進化」という概念には、種が環境に適応してわずかに形態を変えるミクロ進化(小進化、適応進化)と、何もないところから生命が生まれ、あらゆる種へと分化していったとするマクロ進化の二種類が含まれます。
ミクロ進化のほうは、自然淘汰によって起こることが疑問の余地なく証明されていますが、マクロ進化については、だれも観察したこともなく、生化学の近年の発見からしても道理に合わない点が多い、と批判されています。(p30)
ベーエがこの本を書いて以降、マイクロバイオーム(体内の微生物群集)の研究が進むなど、より複雑な仕組みが次々と明らかになっています。
ベーエが書いている「予期しなかった微小世界の発見によって、生物とは何かという固定した概念が覆され始めた」という説明は、現代にこそ特に当てはまるものであり、進化の基本概念はこれからさらに激動を迎えるかもしれません。(p23)
もちろん、進化が間違っているなら すべて神の御業だ、と短絡的に飛びつくべきではありません。先に書いたとおり、それは「隙間の神」をこしらえるだけです。
かといって、進化もまた、「隙間の神」の役割を果たしています。ベーエが述べているように、進化という言葉は「神秘に対する杖の一振り」であり、いまだ未知なる部分の説明として「神」を当てるか「進化」を当てるかの違いでしかありません。(p253)
進化論が正しいかどうかはともかくとして、こうした説明から、わたしたちが考えるべきなのは、科学は絶対ではない、ということです。
ベーエが述べていたように、現代は「科学の自然支配」のもとに置かれた時代です。わたしたちは(特に日本人はそうなのかもしれませんが)「科学的である」ということに絶対的な信頼を置きがちです。
しかし、「科学的である」ということだけで信じてしまうのは、宗教的妄信と何ら変わりありません。「科学」という名の神をあがめているにすぎないのです。
興味深いことに、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアには、劇作家ジョージ・バーナード・ショーの次のような言葉が載せられていました。
科学は私たちの新しい宗教であり、その聖水には殺菌効果がある。(p272)
ここでは科学が宗教に例えられていますが、それも当然です。「科学か宗教か」というよく知られた表現が暗に示すように、科学と宗教はある面では競合関係にあるからです。
しかし、すでに見たアイザック・ニュートンのように、わたしは必ずしも科学と宗教(人知を超えた何かを認めること)は競合しているとは考えていません。
むしろ、アインシュタインが「宗教抜きの科学は足が不自由で、 科学抜きの宗教は目が不自由だ」と述べたように、徹底的に追求した科学者の中には、科学と宗教は補いあう関係にある、と考えるようになった人たちもいます。
しかし、大半の人の認識においては、科学と宗教は相容れないものであり、科学的な見方をしながら、神や超自然の出来事を信じるのは不合理だとみなされがちです。特にここ日本ではそうかもしれません。
科学を学べば宗教はもう信じるに値しない、というこの二者択一の価値観こそが、大衆にとっては科学が一種の宗教になっている、というジョージ・バーナード・ショーの言葉を裏づけています。
テレビや権威者が「科学的な裏付けがある」と述べるだけですんなり信じ込んでしまう人たちは、宗教指導者が「これは真理である」と述べるだけで信じている人たちと何ら変わりなく、どちらも妄信しているにすぎません。
けれども、宗教指導者が述べるのは人間的な憶測にすぎず、科学者が述べるのは、実験で確証された事実なので、それらを同等に置くのは間違っている、と考える人も多いでしょう。
しかし、科学の歴史を見れば分かるとおり、科学は、これまで何度も過ちを犯し、覆されてきました。3つほど例を挙げましょう。
天動説と地動説
古くは天動説があります。天動説は、ガリレオの裁判のイメージのため、一見、宗教の誤りと考えられがちですが、もともとはギリシャの数学者・哲学者らが考えだした概念であり、特に人類史初の天才科学者とも評されるアリストテレスによって有名になったそうです。
しかし科学的に正確とみなされていた天動説は、コペルニクスやガリレオ・ガリレイの登場によって覆され、今では地動説が正しいことが明らかになりました。
静的宇宙と膨張する宇宙
20世紀にも、宇宙は静的であるという誤りが信じられていた時期がありました。アルバート・アインシュタインも、宇宙は膨張も収縮もしていないと固く信じていたので、その考えが自分の一般相対性理論の方程式と食い違うことに動揺し、自分の考えではなく、方程式のほうを修正しました。
しかしその後、宇宙にはビッグバンという始まりがあったことが明らかになり、現在では宇宙は膨張しているとされています。
微生物病原説と微生物不在
先日このブログで取り上げた話題に、「微生物病原説」と「微生物不在」があります。人類は病原菌や抗生物質を発見して以来、微生物はすべて病気のもとだと考えて、微生物の根絶を誓ってきました。
店に行くと商品には「無菌」「滅菌」「清潔」といった言葉が並んでいて、微生物を除去するためにさまざまな化学物質や添加物が使われています。
しかし、近年、自己免疫性疾患やアレルギーが増えているのは、微生物を根絶しすぎた“清潔な環境”のせいではないか、と言われていて、「衛生仮説」や「マイクロバイオータの消失」が注目されています。ほんの数十年前、絶対的に正しいと考えられていた科学がゆらいでいるのです。
チャールズ・ダーウィンから学ぶ謙虚さの大切さ
これらの例は科学的な妄信が覆された、非常に多くの例のごく一部にすぎません。科学の世界では、実験によって裏づけられ、教科書に載せられたような説明でさえ、覆されることが頻繁にあります。
今回で話題に上っている「進化論」は、だれもが知っているとおり、チャールズ・ダーウィンによって考えだされたものです。
ダーウィンは進化論の考え方について説明した著書人間の由来(下) (講談社学術文庫)の巻末でこう述べていました。
ここで展開した考えの多くは、純粋に理論的な推論であり、そのうちのいくつかはおそらく間違っていることがそのうちわかるだろう。
…間違って認識された事実はしばしば長く持ちこたえるので、科学の進歩に大きな害を及ぼす。しかし、間違った考えは、それが何らかの証拠に支えられていたとしても、それほどの害は及ぼさない。
なぜなら、誰もがその間違いを証明することに健全な喜びを感じるからであり、それがなされたときには、誤りへと続く道が一つ閉ざされると同時に、真実への道が開かれるからである。(p470)
ダーウィンは、自分の理論について、それが唯一絶対の真理だ、といったうぬぼれは抱いていなかったことがわかります。
そして、まだ十分に証明されていない仮説が誤って事実とされてしまった場合、科学の進歩にとって、極めて有害だということを認識していました。もちろん自身の「進化論」がそのように扱われることは望んでいなかったでしょう。
ガリレオ・ガリレイやチャールズ・ダーウィンは、宗教の狭量な見方を打ち崩し、科学の時代の礎を築いた英雄のように扱われることがあります。
しかし、ガリレオ・ガリレイもチャールズ・ダーウィンも、決して科学が万能で、知り得ないことは何もないと信じていたわけではありません。
神は数学者か?―ー数学の不可思議な歴史 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫〈数理を愉しむ〉シリーズ)によれば、ガリレオは教会や神学者たちの教えと対立しましたが、個人的には「数学を神の母語と見なし」、人知を超えた物事を解き明かしたいと願っていました。(p119)
興味深いことにダーウィンは、ダーウィン自伝 (ちくま学芸文庫)の中で、自身の宗教観について詳しく語っています。彼はまず、感情的な妄信を批判していますが、次いで生涯のある時点で次のように考えていたことを述べています。
神の存在への信念へのもう一つの源泉は、感情にではなく理性に結びついたものだが、それは、もっとずっと重みをもつもののように、私は印象づけられている。
これは、遠い過去やはるかな未来までも見る能力をもつ人間を含めて、この広大で不思議な宇宙を盲目的な偶然や必然の結果として考えるのが極度に困難である、むしろ不可能であるということからの結論である。
このように考えたときには、人間とある程度似た知性的な心をもった第一原因に目を向けることを余儀なくされるように感じる。
この場合、私は有神論者と呼ばれてもいい。(p110)
その後この結論は、「たびたび強くなったり弱くなったりしながら徐々に弱まって」いきましたが、かといってダーウィンは無神論者となったわけでもありませんでした。
彼は、低次の知能から発達してきたにすぎない「人間の心を、それがこのように偉大な結論をひきだせるものだと、信用してよいのであろうか」と疑問を提起しています。そしてこう結論しています。
私は、このような深淵な問題に少しでも光を投じえたかのようによそおうことはできない。
あらゆる事物のはじめという神秘は、われわれには解きえない。
私個人としては不可知論者にとどまらざるをえない。(p111)
この言葉から伝わってくるのは、科学者としてのダーウィンの謙虚さです。彼は、自分には知りえない領域があることを認めていました。
科学的な思考というのは、何かの理論を絶対的なものだと妄信することではなく、短絡的に結論に飛びつくことでもなく、もっと広い目を持って、さまざまな可能性を謙虚に認めることではないかと思います。
わたしもできればそのようにありたいと思っています。このブログのプロフィールの「正確さ」の項では、ダーウィンの言葉を引用しつつ、信ぴょう性について半信半疑の気持ちで読んでほしいと書いています。
科学や医学は、進歩とともに覆されることがよくありますし、現在声高に理論を提唱している研究者が正しいとも限りません。天動説だって、信じられていた当時はだれから見ても、もっともらしかったのです。
耳を傾けるという楽観主義
ここまで考えた益川博士と山中博士の論議は、わたしたちが何かを考えるとき、短絡的に判断せず、よく考えることの必要性を説いた思考法だと思います。
理解しにくい事柄に直面したとき、原因や意味を調査するのをあきらめて、考えることをやめてしまうのは、短絡的であり、愚かです。
科学者や著名人など、権威のある人が述べているからといって、100%鵜呑みにしてしまうのもよくありません。(もちろんそれは、ノーベル賞受賞者としての益川博士、山中博士の発言についても言えることです)
むしろ、わたしたちは自分自身で幅広く調査したり、いろいろな意見に謙虚に耳を傾けたりすることによって、自分の意見を発展させ、前進しつづけることが大切だと思います。
前回の記事で、うわべだけのポジティブ・シンキングではなく、現実的な楽観主義を貫いている例として取り上げた俳優のマイケル・J・フォックスは、いつも上を向いてという本の中で、こう述べていました。
自分のものとはちがう信念を信奉している人の話を聞くことは、脅威ではなく知識を増やすことだ。
なぜなら自分の世界観を変えることができる唯一のものは、新しくかつ否定しがたい真実なのだから。(p187)
彼は「耳を傾けることが楽観主義のひとつの表現である」とも述べています。(p188)
もちろんこれは、悪意をもってこき下ろそうとしている人の話に耳を傾ける、というわけではなく、誠実に意見を持っている人と、建設的なコミュニケーションをするということです。
そうするなら、自分が気づいていなかった物事の新しい一面が見えたり、事情をよく知らず誤った理解をしていたことがわかったりして、より正しい答えへと近づくことができるかもしれません。
いろいろな可能性を探り続けたアイザック・ニュートンやヨハネス・ケプラー、ガリレオ・ガリレイ、自説に固執しなかったチャールズ・ダーウィンのように、柔軟で発展性のある思考をしていきたいところです。
この「大発見」の思考法 iPS細胞 vs. 素粒子という本は、ノーベル賞受賞者という思考の巨人を通して、ものの見方を考えさせられる面白い本でした。
補足 : 確信についての脳科学
文中で引用したアインシュタインの言葉が暗に示しているように、科学は神の存在などのテーマには、良くも悪くも何も証拠を提出しません。どちらにも解釈できるような事実を明るみに出してきただけです。
神は数学者か?―ー数学の不可思議な歴史 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫〈数理を愉しむ〉シリーズ)に書かれているように、神を信じるかどうかは、たとえ本人が自分は「科学的に」判断していると確信しているとしても、結局は信じたいほうを信じているにすぎないとわたしは思います。
宇宙論的証明、目的論的証明、あるいはそのほかの主張が神の存在の証明として妥当かどうかについては、何世紀にもわたって哲学者のあいだで議論が交わされている。
結局のところ、有神論者は証明などなくても神を信じるし、無神論者はどんな証明を提示されても納得しない、というのが私の個人的な印象だ。(p167)
科学はすべてを明らかにするにはほど遠いのが現状であり、有神論を唱えるにしても、無神論を唱えるにしても、いまだわかっていない溝を個人の価値観によって埋める必要があります。
有神論者と無神論者の違いは、つまるところ、いまだわかっていない未知なる溝を、宗教という名の隙間の神で埋めているか、科学という名の隙間の神で埋めているかの違いでしかないのです。
これは言い換えれば、別の記事で説明している脳の解釈システムの話題に行き着きます。事実と事実の隙間をうめ、もっともらしい、納得のいくストーリーや一貫性を生みだすことに関わっている脳の領域です。
この解釈システムがあるおかげで、たとえば過去に辛い思いをしたとしても、「あれは私が成長するために必要な試練だったのだ」「色々あったけど、あの出来事があったおかげで今の私がいる」などと自分を納得させることができます。
しかし同時に、「あの健康食品を試したから私は病気が治った」とか、「前の日に合格祈願をしたから試験に合格できた」とか、「神様の助けで事故を免れた」といった、都合のよいストーリーをいくらでも考え出すことができます。
これは残念ながら、科学の分野でも同じです、科学者は、ときに限られた証拠をもとに推理する探偵のように解釈システムをフル稼働させます。予定調和的な推理小説では探偵の推理は当たりますが、現実ではそうはいきません。
進化論や考古学、精神医学などの見解がころころ変わるのは、限られた研究結果や発見を手がかりに、残りの隙間は旺盛な想像力で埋めてつむぎ出された、もっともらしいストーリーだからです。
本来、科学が明らかにする事実というのは単調で無味乾燥なデータにすぎず、それをどう解釈するかによって意味づけが変わってきます。科学的事実の寄せ集めを面白いストーリーや物語にできる人ほど、解釈システムによってうまく「味付け」しています。(これはわたしも例外ではありません)
科学は有神論にも無神論にも決定的な答えを提供していませんが、あたかもどちらかが証明されたかのように熱意をこめてもっともらしく説明する人がいたら、解釈のバイアスがかかっているとみて間違いないでしょう。
ダーウィンのブラックボックス―生命像への新しい挑戦の中で、マイケル・ベーエが、現代の無神論者の急先鋒であるリチャード・ドーキンスについて、こう書いているとおりです。
進化生物学者の中には、リチャード・ドーキンスのように豊かな想像力の持ち主もいる。出発点を仮定すると、彼らは望みのどんな生物構造にもたどりつくストーリーを、ほとんどいつでもつむぎ出せる。
この才能は貴重なこともあるが、両刃の剣である。他の人なら見逃してしまう可能な進化の道筋を考えつく可能性はあるが、自分たちのシナリオの誤りを突くような細部と障害物を無視しがちでもある。
しかし科学というものは、究極的には関連する細部を無視することはできないし、分子レベルでは「細部」のすべてが不可欠だ。(p97)
ベーエは、この本の中でドーキンスの才能にかなり敬意を払っていますが、同時にその奔放な解釈能力でつむがれたストーリーは、たとえもっともらしく見えても穴がたくさんあると論破しています。
これは無論、対極の立場にいる有神論者たちにも当てはまります。まだすべてがわかっていないにもかかわらず、そしてもしかすると永久にわからないかもしれないにもかかわらず、科学的事実の幾つかを神の存在の直接的証拠とみなすのは、やはり解釈システムの勇み足です。
ドーキンスを批判しているベーエ自身も、同じ過ちにいくらか足を踏み入れています。彼はこの本を記した時点で、生物の分子構造を解き明かす証拠はそろっているとみなしていました。
しかし、その後の科学の進展はマイクロバイオーム(人体は数えきれないミクロの微生物群集によって形成されているという発見)のような予想もつかない分野を切り開いています。ベーエが本を書いた時点では、おそらく想像だにできなかったような発見です。
どちらの立場の人たちも、手持ちの知識がすべてだという幻想(行動経済学ではWYSIATIと呼ばれる)にとらわれて、まだ未発見の知識、それも自分の理論を根底から覆すものかもしれないような知識が眠っているかもしれない、という可能性を見過ごし、過剰な確信を込めて推論を語ろうとします。
しかし、本文で書いたように、科学上の理論はどれほど真実味を帯びたものであっても、すべて、いつか根底から覆されるかもしれない暫定的なもの、とみなすべきです。絶対的な真理だと「確信」してよいものはひとつもありません。
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳によると、わたしたちが何かを「確信」するかどうかには、少なくとも島皮質の活性化の度合いが関与しているようです。
2006年、マーティン・ポーラスとマリー・スタインの二人は、慢性不安は前部島皮質が機能不全を起こし、通常より予測エラーが増えることが原因だとする説を発表した。
それと正反対のことが起きているのが恍惚発作かもしれないとピカールは考える。前部島皮質に電気の嵐が発生して誤作動を起こし、予測エラーがほとんど、あるいはまったく出なくなった状態だ。
そのため世界に問題は何ひとつなく、すべてが理解できるという絶対的な確信感が生じるのである。
この前部島皮質説はかなり有効だとアニル・セスは言う。「現象学的に考えると、恍惚発作は慢性不安の対極です。
恍惚発作ではすべてが完璧であり、平穏な確信に満ちているのに対し、慢性不安は身体状態に反映されるあらゆることに不穏なざわめきを覚えるのです」(p292)
ここでは、絶対的な確信が生じるてんかんの恍惚発作と、何も信じられなくなる慢性不安が比較されていて、脳の島皮質が正反対の活動状態にあると書かれています。
島皮質は、体の内外の感覚刺激をモニタリングし、それが予測どおりか、予測エラーを起こしているか監視している脳領域です。予測どおりなら身体は安全だと把握できますし、予測エラーがあれば危険を回避するために行動する必要があるとわかります。
この予測システムの働きの結果として、わたしたちが主観的に体験するのが、「確信」や「不安」という感情です。
脳が刺激を予測どおりだとみなす度合いが高ければ高いほど、確信感が生まれ、脳が予測エラーを感知すればするほど、不安感(つまり何も確信できないおぼつかなさ)が生まれているのではないか、ということです。
もしそうなら、脳のこのシステムの活性化の度合いが変化するだけで、物事の確信度が変わってきてしまいます。
おそらく、もともと島皮質の活性が高めの人ほど直感的に信じやすい傾向があり、低めの人ほど疑り深い傾向があるでしょう。そうした脳活動の傾向は、先天的な影響だけでなく、子ども時代の経験によっても形作られるはずです。
その極端な例がてんかんの恍惚発作と慢性不安ですが、その両者のあいだには、比較的信じやすい人たちと比較的疑り深い人たちが、幅広い連続性をもって分布しているでしょう。
脳のなかの天使で神経科学者のラマチャンドランが書いているように、最も極端な例として、側頭葉てんかんなどで島皮質やその周辺の機能が過剰に活性化した場合、「宇宙とそこにあるあらゆるものが深い意味や意義をもつようになる。それは神との合一のように感じられる」ようになります。(p395)
非常に熱心なキリスト教徒だったフィンセント・ファン・ゴッホをはじめ、敬虔な宗教家のなかには側頭葉てんかんを持っていたと推定できる人が多く、「ゲシュヴィンド症候群」と呼び習わされています。
書きたがる脳 言語と創造性の科学では、慎重な書き方ながら、神からの啓示とみなされているような宗教体験の多くは脳機能に起因したものだと指摘されています。
神経学者らは多くの有名な宗教指導者の行動の原因を直接的に側頭葉てんかんに求める。だがこれは循環論法に陥ることがある。
ある宗教指導者は宗教的ビジョンを見るし「きわめて宗教的」だから側頭葉てんかんだと言われ、つぎに側頭葉が宗教的体験の基本にあることの証拠としてその人の存在が提示されるというわけだ。
しかし明らかに発作を起こした、あるいはゲシュウィンド症候群や発作後の一時的麻痺や失語症を経験している宗教者は驚くほど多い。(p335)
宗教に関わる人すべてが側頭葉てんかんを起こしているはずはありません。しかし神と一体になったかのような恍惚感を経験し、とりわけ熱心に宗教に打ち込み、指導的立場に就任するような人たちは、てんかんまでいかずとも、脳の過剰活動からくる一種の錯覚としての絶対的確信が背景にあるかもしれません。
サックス博士の片頭痛大全には、そうした例のうち、とりわけ興味深いものが載せられていました。
あらゆる時代を通じて、宗教書には「ヴィジョン(幻視体験)」の記述があふれている。
…大半の場合はそれらの体験がはたしてヒステリーあるいは精神病性の恍惚感、または中毒症状、癲癇あるいは片頭痛の症状ではなかったのかどうか、確かめることは困難である。
そうした中できわめてまれなケースといえるのが、ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098-1180)のものである。
当時の女性としては例外的な高い教養と修辞学を身につけた修道女で神秘主義者であったヒルデガルトは、幼少時から死に至るまでに数えきれないほどの「ヴィジョン」を体験し、詳細な記述および挿絵を二冊の書物に残した。
…その中の描写や挿絵をくわしく調べた結果、ヒルデガルトの「ヴィジョン」の本質が片頭痛症状であること、本書で述べたさまざまな視覚的前兆に相当することは疑いないことがわかった。
…こうした恍惚感に包まれ、神の顕現と哲学の深みをもって燃え盛るヴィジョンを見たヒルデガルトは、神の名を称え神秘を求める人生を歩んだのである。(p531-537)
(このエピソードは、妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)のp301-307にもまとめられている)
片頭痛発作では、しばしば前兆(アウラ)や、てんかん発作と類似した恍惚感が伴います。特に前兆として起こる視覚性幻覚には特定のパターンがあり、今日ではそれをコンピューターモデルで再現することもできます。
ヒルデガルト・フォン・ビンゲンという12世紀ごろの神秘主義者の女性は、自分が見た幻覚を、神からの啓示とみなして忠実に記録していましたが、それらは片頭痛の前兆の幻覚のパターンに一致していました。
つまり、彼女のヴィジョンは神からの啓示ではなく、てんかん発作と同様、確信に満ちた恍惚感が伴う脳科学的現象だったわけです。
もちろん、書きたがる脳 言語と創造性の科学で指摘されているように、ある種の宗教体験が脳の特別な部分で体験されているとしても、神は脳が作り出した幻想だ、という意味にはなりません。(ここは無神論者たちが勇み足を犯しやすいところです)
神経学者のV・S・ラマチャンドランは、神経解剖学的な宗教中枢があるという考え方を「神モジュール論」と呼ぶ。
神モジュールが存在するからといって、神の存在を否定することにはならないのは、視覚野が存在することが視覚的対象の存在を否定することにならないのと同じだ。(p332)
とはいえ、もしそうした領域があるなら、脳の過剰な働きによって、神を感じたり、確信したりする錯覚を覚えることは十分にある、ということになります。
大多数の信者は、そこまで確信を抱いているわけでも、恍惚感を体験したことがあるわけでもないでしょう。しかし、カリスマ的な指導者が確信を込めて語るもっともらしいストーリーを信じるという意味で、それに追随します。
そして、この構図は、有神論者たちからなる宗教だけではなく、進化論に基づいて無神論を唱道する科学者たちもまた同じです。ベーエはダーウィンのブラックボックス―生命像への新しい挑戦でこう指摘していました。
世界中の科学者全員で投票を行ったら、大多数がダーウィニズムは正しいと思うと答えるだろう。だが科学者も他の人々と同様、自分の意見の基礎を他人の言説に置いているのだ。
ダーウィニズムを受け入れている大多数の人(全員とは言わない)は、権威者をよりどころにしてそうしている。
また不幸なことに、創造主義者に鬼の首を取られるのを恐れて、学会が批判をやめてしまうことも多かった。
科学を保護するという名のもとに、自然選択に対する科学的な強力な批判が回避されてきたのは皮肉なことである。(p53)
科学者もまた、どれだけ理性的思考を信条としていても、コンピューターではない以上、解釈システムにまどわされ、振り回される人間にすぎません。
科学者もやはり人間だから、彼らが知っていると言っていることを、どのように知ったのかと問いつめることができる。
科学者も自分自身の経験か、権威によって物事を知る。…科学者はみな、自分の科学的知識のほとんどすべてを権威に頼っている。(p258)
科学者たちの中にも、科学的事実の枠組みを踏み越えて、無神論を証明したかのように主張し、熱心にもっともらしいストーリーを紡ぎ出すカリスマ的な人たちがおり、他の大多数の科学者は「権威者をよりどころに」して追随しています。
領域は違えど、宗教の名のもとに強硬に唱えられる有神論と、科学の名のもとに強硬に唱えられる無神論は、相反するものに思えて実際には同じ穴のムジナです。
リン・マーグリスは、マサチューセッツ大学の生物学の特任教授である。
動植物細胞のエネルギー源であるミトコンドリアが、かつては独立の細菌細胞であったという彼女の理論は広く受け入れられており、マーグリスはそれで高い評価を得ている。
さらにまた彼女によれば、歴史は最後には結局ネオダーウィニズムを「アングロサクソン生物学がまき散らした宗教的信条のうちのマイナーな20世紀の宗教セクト」と判断するだろうと言う。(p46)
有神論者であれ、無神論者であれ、究極的には決して証明できないはずのことを信じているとしたら、確信を込めてもっともらしいストーリーを語るいずれかの権威に影響され、自分の信じたいほうを信じているにすぎないのです。
別の記事で考えたように、脳の解釈システムは、わたしたちが無意識のうちに自動的にやってしまった行動や思考を、あたかも自分の意思でやったかのように都合よく解釈するよう働いていることもわかっています。
ベーエもこう書いているとおりです。
私たちの大多数は、自分の考えは自分のものであり、他人から言われたことも、少なくとも自発的に再考し、認めた上で初めて同意すると思っている。
ブルームが主張したように、世界の動きについての私たちの重要な考えの多くが、自分の置かれている文化環境から無分別にただ拾い上げたものだと考えると、がっくりさせられるのである。(p217-218)
わたしたちが何を信じるにしても、本当は、生まれ育った文化による解釈のバイアスや、確信の深さを左右する脳の働きの度合いが関係しているはずです。
それなのに、自分の意思で理性的に考えた上で有神論あるいは無神論を確信した、と都合よく解釈し、錯覚している人は、科学・宗教の分野を問わず多いでしょう。(錯覚が行き過ぎた場合は「妄想」や「偏見」と呼ばれます)
もちろん、こうした信念のすべてを特定の脳機能に帰すことはできないでしょう。ここでもまた、わかっている科学的事実は、最終的な結論を出すには到底足りません。
脳と確信の関係についても、今のところ科学で明らかにされているのは相関関係であり、因果関係ではないことに注意が必要でしょう。脳の活動が変化するから確信度が変わるのか、確信度が変化するから脳の活動が変わるのかはわかっていません。
おそらくは、両方のパターンが絡み合って、無神論や有神論が強化されていくようには思えます。確信しやすい脳だからこそ何かを確信し、確信を抱くからこそ、その脳ネットワークが強化される、というようなフィードバックループです。
数学者マリオ・リヴィオが述べていたように、「結局のところ、有神論者は証明などなくても神を信じるし、無神論者はどんな証明を提示されても納得しない」ことが多いのは、それらの信念がある程度、本人の理性ではなく脳活動の傾向や解釈に基づいて形成されているからだとすれば納得がいきます。
そもそも神経科学者アントニオ・ダマシオの研究によれば、理性と感情は対立するものではなく、脳障害によって感情を持てなくなった人たちは正確な理性的判断ができないことがわかっています。
ダマシオは、人間の自己意識を研究する中で、まず身体の感覚があり、次いで情動や感情が生み出され、そこから理性的な認知が生じていることを発見しました。
言い換えると、理性というのは、じつは身体の感覚や情動、感情といった材料からできているのです。人間のつくりからして、環境由来の感覚や、個人的な感情を抜きにした完全に理性的で合理的な判断は不可能です。
一方でダーウィン自身は、もともと有神論者でしたが、ときどき無神論者へと揺らいだりしつつ、最終的には不可知論者に落ち着きました。つまり、どちらの立場も妄信しませんでした。
脳のなかの天使には、ダーウィンが1860年および62年に書いた、次のような見解が載せられていました。
創造という問題は深すぎて、人知の及ばないものだと感じています。犬がニュートンの精神を推論するのと同じようなものかもしれません。自分に何ができると願い、信じるかは各人にまかせようではありませんか。(p409)
私は、ほかの人たちのように明白には、またそう願うべきほどには、神の設計や慈悲がいたるところにあるという証拠を見ることができません。私には、世界にあまりに多くの不幸があるように思えます。
慈悲深い全能の神が、生きているイモムシの体内で彼らを養うというはっきりとした意図をもって、故意にヒメバチ[寄生バチ]を創造されたとはとても思えないのです。あるいは、ネズミをもてあそぶべくネコを創造されたとは……。
その一方で、このすばらしい宇宙を、とくに人間の本性を、すべて荒々しい力の結果とみなし、そう結論づけて満足することもできません。(p409)
この二つの言葉からわかるのは、ダーウィンはつねに身の回りの事実を中立的な眼差しで評価していたということです。彼は「人知の及ばないもの」があることを認めていて、性急な判断は下しませんでした。
わたしとしては、それが一番自然な帰結のように思えます。科学はいわゆる「神の存在証明」に関しては、肯定も否定もできないという意味で無力です。
それはあたかも「犬がニュートンの精神を推論するのと同じ」です。仮にこの世界がマインクラフトのような、何者の手によって作られた箱庭だとしてみましょう。
わたしたちはマインクラフトの内側にいる住人が意思を持ったようなものだといえますが、いくらその世界にあるものを研究したところで、その世界の外側にいる製作者については何も証明できないでしょう。それはもはや哲学や宗教、あるいは芸術の領域です。
わたしたちが科学を実践し信頼できるのは、この世界に一貫した法則が存在しているからです。それはつまり、科学は一貫した法則を超えた外の世界に関しては無力だということを示唆しています。
ハードの限界を超えた挙動はプログラムすることも解析することもできないように、この世界に通底する法則を超えた、マインクラフトの外の世界が存在するとすれば、たとえそこに「製作者」なる神がいるとしても、もはや科学の力では調査することも証明することも不可能なのです。犬がニュートンについて理解できないのと同じように。
最終的にはやはり、アインシュタインの「宗教抜きの科学は足が不自由で、 科学抜きの宗教は目が不自由だ」という言葉のとおり、科学には限界があり、宗教を肯定したり否定したりするほどの影響力はない、というところに行き着きます。
科学か宗教か、という二項対立の考え方をやめ、それぞれにそれぞれの領域があることを認める、つまり、科学にも宗教にも限界があり、両者は互いに補い合うべき存在だとを認める必要があるのではないでしょうか。
科学や宗教それぞれの枠組みを超えて過度に確信したり、かたくなに否定したりする態度は、人類の進歩にとってはかえって有害であり、ダーウィンが述べていたようないつでも誤りを認め軌道修正できる柔軟な思考こそが最も有用な態度だとわたしは思います。