本当の「無条件の愛」は「無制限の愛」ではない―バランスのとれた愛着関係は包むことと区切ること


「無条件の愛」とは果たして何なのでしょうか。

前回の記事で、わたしは「条件付きの愛」「無条件の愛」の違いについて書きました。その内容についてある方に話したところ、「わたしは無条件の愛というのがよくわからない」という答えが返ってきました。

その方のお父さんは厳格で愛を示せない人でしたが、逆にお母さんは、どんなときも見捨てず、ひたすら父親に、子どもに尽くし続ける人だったといいます。そのお母さんの愛が「無条件の愛」なのだとしたら、自分にはとても無理だと言っておられました。

わたしがそのときに感じたのは、それは本当の意味での「無条件の愛」だったのだろうか? ということでした。

「無条件の愛」は、親が子どもに与えられる最善の贈り物、友が友と結ぶ強力な絆の源、そして自分が自分に注ぐことのできる貴重な思いやりです。

しかし「無条件の愛」という言葉だけが一人歩きして、別の意味を帯びてしまうとしたら、それは望まない結果をもたらすものとなるでしょう。

この記事では、慢性疲労症候群や愛着、解離などの研究者の複数の本から引用しながら、本当の無条件の愛とは何なのか、そして 良かれと思いながら悪い結果を呼び込んでしまう愛とはどんなものなのか、という点を考えます。

 

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「無条件の愛」とは

一般に、「無条件の愛」とは、親が子どもに与えられる最も貴い贈り物の一つであるとされています。

端的に言えば、それは、無条件で子どもの存在そのものを受け入れることです。自分はここにいても良いのだ、と思わせてあげることです。

子どもの慢性疲労症候群の背景を解説している、三池輝久先生の学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)という本には、無条件の愛とは何かがこう書かれています。

彼ら[不登校の慢性疲労症候群子どもたち]を守るのはまず家族しかない。苦しくとも彼らと正面から向かいあっていかなければならない。逃げるわけにはいかない。

精神的なダメージから入院が必要になることももちろんあるのだが、たとえ入院を余儀なくされた場合であっても、

「あなたに何事があろうと、どういう状態であろうと、他人からどのように思われていようと、私たち両親はあなたのほうが大事です」

「自分たちの命をかけてもあなたを守ります」

というメッセージこそが彼らに必要なものである。(p137)

つまり、「無条件の愛」とは、たとえ相手が苦悩に飲み込まれて絶望的な状態になろうと、あるいは病気などで本来あるべき状態でなくなろうと、それでもその人のために最善を尽くし、決して見捨てず、あきらめない強い意志を伴う愛情です。

「無条件の愛」は何も親子関係のみのものではありません。親友同士が互いに示すものでもあり、自分で自分を受け入れるときにも不可欠な要素です。

ここでは主に親が子どもに注ぐ愛として説明していきますが、親の立場でない人も、自分が友だちや自分自身に対して抱いている態度に置き換えて読んでくださればと思います。

「条件付きの愛」ではない

残念ながら、世の中には、無条件ではなく、「条件付きの愛」が広く見られます。

それは、たとえば、親の期待に従ったときだけ認め、良い子とみなすような愛情の注ぎ方かもしれません。

あるいは、順調なときだけ可愛がり、うまくいかなくなると突き放し、見捨てるような態度かもしれません。

さきほど引用した、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)には、「条件付きの愛」が当たり前となっている現状について、こう書かれています。

[現代社会では] 子どもたちは自らがこの世に生まれ出たそのことを無条件に祝福されるのではなく、心身ともに標準以上に育つこと、学校でよい成績をとることで両親(教師やまわりの大人も含めて)に認められ愛されるものであることを学ばなければならない。

人は、自分の存在そのものを無条件に喜んでくれる人がいるだけで、生き生きと生きることができるのであるが、子どもたちは両親や周囲の人たちが喜ぶ顔をみることにより、自らが生きている意味(意義)を感じなければならなくなってくる。(p95)

つまり、存在そのものをありのままに受け入れるわけではなく、あくまで自分にとって利益となるときだけ愛を注ぐ、それが「条件付きの愛」です。

確かに、子どもが親の期待に答えてくれたり、親の言葉に耳を傾けてくれたりするなら、それは親にとって嬉しいことです。もちろん親は喜びます。

しかし「無条件の愛」を注ぐ親は、たとえそうならないとしても、子どもを我が子と認め、子どもを助けたり、支えたりすることをやめません。

それは傷ついた美術品を修復する人と似ています。有名な芸術品を愛する人たちは、何かの原因でそれらに傷がついてしまっても、もう価値がないと手のひらを返すようなことはしません

むしろ、美術品を修復し、もとの輝きを取り戻せるよう辛抱強く取り組むのてはないでしょうか。

同様に、「無条件の愛」を注ぐ親は、子どもが望ましくない状態に陥ったとしても、決して見放すことなく、辛抱強く支えます。

「無制限の愛」ではない

「無条件の愛」は「条件付きの愛」ではない、という考えは比較的理解しやすいものです。しかし別の対極にあるもの、つまり「無制限の愛」を「無条件の愛」と混同してしまう人がいます。

「無制限の愛」とは何でしょうか。愛情を注ぐ量や期間に関して、無制限であることが悪いのではありません。確かに「無条件の愛」は、尽きない愛情を特色としている点では無制限です。

しかし、たとえば、以下のような「無制限の愛」は「無条件の愛」とは本質から異なるものであり、むしろ子どもに悪い影響を及ぼすことがあります。

1.何でも許容する「溺愛」ではない

まず「無条件の愛」とは、「放任」「溺愛」ではありません。

さきほどの美術品のたとえでは、傷ついた美術品を、そのままでも構わないと考えてほっておいたわけではありませんでした。そうではなく、あるべき状態に修復できるよう手をつくしました。

同様に、何か子どもが問題を抱えているとき、また危険な物事に首を突っ込んでいるときに、それを大目に見る態度はただの放任であって、本当に子どもの将来を考えている「無条件の愛」ではありません。

なんでも許容する態度には、歪んだ愛情どころか、実はもっと根深い問題が潜んでいることもあります。

たとえば、毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)という本には、次のような例が書かれています。

最近の研究では、そういう家庭環境におけるアルコール中毒ではないほうの親の果たしている役割についてよくわかってきている。その親は、アル中の親の“協力者”であり、“共依存”の関係にあるのである。

…この“飲まないほうの親”は、アル中の夫(または妻)が引き起こしているさまざまな問題の被害にあっているという事実にもかかわらず、自分では意識せずに相手の飲酒に協力しているということなのだ。

…共依存者は相手の面倒をみていることによって自己を保っているということを思い出していただきたい。(p108)

アルコール依存症の夫の妻は、アルコール依存症の夫を支えることが存在意義となってしまい、回復させようとする努力を払わなくなる場合があるとされています。このような歪んだ愛情は「共依存」と言われています。

「共依存」は、そもそも愛ではないともいえます。本当に相手を思いやる愛であれば、家族が泥沼から抜け出せるように苦痛を覚悟で助けるはずです。

しかし、共依存に陥っている人は、自分が弱い人を助けてあげているという満足感を得るために、悪い状況をそのまま容認しているのです。

つまり他人を気遣っているように見せかけ、自分でもそう思い込んでいますが、結局は自分の自己満足のためにやっているのです。

暴力的な環境で育ち、虐待された子どもの中には、自分を虐待した親だけでなく、そのときに、命をかけて自分を守ってくれず、嘆きつつも結果的に状況を容認していたもう一人の親に対して、怒りや恨みを抱えている人が多いそうです。

2.際限なく何でもやってあげる「過保護」ではない

「無条件の愛」とは、子どものためになんでもやってあげる「過保護」な親の愛でもありません。

愛着理論に詳しい岡田尊司先生の、愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)という本には、良い安全基地となる人の5つの特徴が書かれています。安全基地とは、バランスのとれた無条件の愛を注いで、心の拠り所となる存在のことです。

その5つの特徴のうちの一つは「応答性」というものです。特にこう書かれています。

三つ目は応答性である。相手が求めているときに、応じてあげることである。それは、いざというときに「相談できる」「守ってもらえる」という安心感につながる。

相手が求めていないことや、求めていないときに余計なことをするのも、応答性から外れている。

相手の主体性と同時に、責任を侵害しないことも大事だ。相手がするべきことまで肩代わりすることは極力避けねばならない。(p263)

つまり、無条件の愛を示す親は、子どもの主体性を奪うことはありません

もし親が子どものためになんでもやってあげて、あらゆることを決めてあげたり、あるいは逆に言いなりになったりしてしまうなら、それは一個人としての子どもの尊厳を認めておらず、あたかもペットのように扱っていることになります。

バランスの取れた親は、アドバイスや助けをさしのべるものの、子どもの主体性や、意思を尊重します。

親としての自分の限界に慎み深くあり、自分にできることとできないこととをしっかり「区切り」ます。

親には親の負うべき責任があるのと同様、一人の尊厳ある人間である子どもにも、自分で負うべき責任があるということを、よくわきまえています。

3.自分の限度を超えて愛を注ぐ「犠牲」ではない

「無条件の愛」とは自分の限界を超えてまで尽くしつづける「犠牲」ではありません。

自己犠牲的な愛情は確かにすばらしいものですが、度を超えてしまうと、それは本物の犠牲、自殺的ともいえる愛になりかねません。

一般に無私の愛という言葉が用いられますが、それは自分の必要をないがしろにしてまで他の人に奴隷のように仕えるようなものではないはずです。

解離に詳しい柴山雅俊先生の、解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論という本には、心の傷によって解離性障害になってしまった人たちが、安心感を得るために必要な愛情の特徴として、「包む」ことと「区切る」ことが挙げられています。

解離における断片化した魂は、現実世界において包まれ、居場所を見つけることによって自らの存在を認めてもらう必要がある。

ここで包むものとは自らの身体に限らない。社会、家族、他者の心、ときには神もまた患者の魂を包むものとしてある。

それらは必ずしもやわらかく包むわけではない。ときにはしっかりと力強く包み込むこともあり、このことは「区切る」ことにも通じている。(p235)

「包む」こととは、疲れ傷ついたときに温かく迎えることです。無条件の愛で包み、「存在を認め」ることを意味しています。

一方で「区切る」こととは、自分で抱え込めるものと、そうでないものとを分けることです。自分が負うべき責任と、他の人が負うべき責任との線引きをすることです。

確かに親は子どもへの愛情から、自分の必要を後回しにして、家族の必要を優先することがあるかもしれません。しかし自分の必要やプライベートをことごとく犠牲にしてまで、家族をいたわり、費やし尽くすとしたら、それはもはや家族関係ではなく、奴隷労働者です。

そもそも、もし自分自身を顧みることができないなら、どうして家族を顧みることができるのでしょうか。自分を思いやれない人がどのようにして他人を思いやることができるのでしょうか。

自分と相手が同じものになってしまっていて、自分と相手とを「区切る」ことができないならば、当然「包む」ことはできません。

また、自分が「包まれ」て始めて、外と内とが「区切られ」るのがわかります。ですから、「包む」と「区切る」はどちらか一方では成り立たないのです。

必要なのは、一人ですべてを引き受ける「犠牲」つまり「身代わり」になることではなく、互いが協力して、各々の責任をまっとうできるよう助け合うことです。

「条件付きの愛」「無制限の愛」がもたらすもの

もう一度、「無条件の愛」とは何か、という点を思い出してみましょう。

「無条件の愛」は、その子、あるいはその人の存在そのものを認め、わたしはここに存在してもいいんだ、と思わせてくれる愛情でした。

それに対し、「条件付きの愛」は、もし期待に答えるなら、もし失敗しないなら、もし優秀であれば、そこにいても構わない、とするものであり、あなたは条件を満たさねば存在してはならないと思い込ませる歪んだ愛情でした。

そして「無制限の愛」とは、その子、あるいはその人の主体性を奪い、自分で意思決定し、選択するという自由を侵害するものでした。つまり、あなたは一人では存在することはできず、わたしなくして存在してはいけないのだ、と感じさせる歪んだ愛情だったのです。

このような「条件付きの愛」そして「無制限の愛」が有害なのは、それは、子どもに間違った形の愛着を植えつけてしまうからです。

もし「条件付きの愛」こそが普通の愛だと思うなら、自分に厳しいルールを課してしまい、それを満たせなかった場合に、自分には価値がないという自責感を抱いてしまうようになるかもしれません。

また「無制限の愛」こそが貴いものだと誤解したまま大人になってしまうなら、なんでも許容して、友人や恋人に「ノー」といえなくなってストレスを溜め込むかもしれません。

良かれと思って、人のために身を粉にして尽くしすぎてしまい、過労や燃え尽きやストレス性疾患を抱えてしまうかもしれません。

そして、いずれの場合も、自分が親になったとき、やはり同じような形の愛を子どもに注いでしまうかもしれません。

愛着(アタッチメント)に関する研究によると、厳格さや放任、溺愛、過保護は、子どもが不安定な愛着スタイルを身につけてしまう一因になります。

人との適切な距離感が保てなくなり、人を温かく包んであげることも、人と自分との関係を区切って対等なコミュニケーションをすることも難しくなるのです。

「無条件の愛」がもたらすもの

それに対し、「無条件の愛」がもたらすものは、安定した愛着スタイルです。

安定した愛着スタイルを持つ人は、人を温かく包み込むことができますし、自分と相手をしっかり区切って、適度な距離感を保つこともできます。

しかしながら、子どものころに、そうした無条件の愛に恵まれなかったという人は少なくないでしょう。

この記事は、そのような人たちに、恥ずかしい思いをさせたり、過去を悔やませたりする目的で書いたものではありません。

いつかきっと、だれか無条件の愛を注いでくれる人と巡りあうことができる、といった、無責任な希望を差し伸べるために書いたわけでもありません。

わたしたちは他人をコントロールすることは不可能です。だれかに無条件の愛を示してもらうことも、そのようなだれかと出会うことも、わたしたちにコントロールできるような物事ではありません。

自分が無条件の愛を示す側になる

わたしたちにできることがあるとしたら、それは、自分自身が、そうした愛情を身に着けていくことです。

中には、子どものころに自尊心を育めなかったがために、自分で自分に思いやりを示すのが難しく、常に自分には価値がない、という思いに悩まされている人もいます。

あるいは、親の立場になって子どもを育てたり、友だちとして悩んでいる人を支えたりしている人もいるでしょう。そうした場合、どのように愛情を示せばよいのか、ということは、努力せず自然に身につくものではなく、あくまで学んでいく必要があるものです。

無条件の愛の示し方には、すでに述べたように「包む」ことと「区切る」こととによって、辛抱強くもバランスのとれた愛情を示せるよう、徐々に訓練していくという点が関係しています。

「無条件の愛」は、共依存のように、自分の喜びだけを目的とした自己満足でもなければ、犠牲のように、自分だけが苦痛を一手に引き分ける身代わりでもありませんでした。

無条件の愛は、各々が自分の意志で自分の責任を果たすよう促すものです。そして、時には苦しみを分けあって一丸となり困難に立ち向かうこと、そして喜びを共有して共に笑顔になることにつながります。

「無条件の愛」はだれかから示してもらうことにだけ価値があるものではなく、自分で示すことにも大きな意味があるものなのです。

自分を「包む」ということ

もちろん、自己啓発を説きたいわけではないので、ここまで書いたことが、単なる表面上の精神論でしかないことは重々承知しています。

この記事を書くに至った主要な目的は、単に、前回の記事に書いた、無条件の愛の「定義」をはっきりさせておくことでした。

燃え尽きや、完璧主義、過剰適応と言われているものの背後には、人に対しては無条件に示すことができている思いやりを自分には示せないことが関係していて、そこには根深い問題が潜んでいる、という話の、あくまでも補足です。

いつも頑張っていないと自分には価値がないと感じてしまう人へ―原因は「完璧主義」「まじめさ」ではない
全力を尽くしていないと自分には価値が無いと思ってしまう。休んだり、遊んだりすることに罪悪感を抱いてしまう。そのように感じてしまう人は、自分の限界を超えてやりすぎてしまいます。その原

そもそも「無条件の愛」を経験したことのない人は、それがどんなものかを想像できないと前回書きましたが、現実に知り合いと話してみて、やはりそれを感じたので、とりあえずわたしが知っているところの「無条件の愛」の定義について書こうと思ったにすぎません。

今まで包まれた経験のない人が、自分を包むというのは、簡単ではありません。そして包まれなければ区切ることも学べません。

それこそ、プレゼントをラッピングする方法を文章で読んだだけではピンとこないのと同様、目の前で、だれかが実際にそうするのを見よう見まねで模倣したり、試行錯誤したりして、学んでいくしかないのかもしれません。

「無条件の愛」という言葉もまた、以前に書いた、「スーツケースの取っ手」のようなものでしかありません。大切なのは、それが意味するものをよく考え、実践することで、経験に落とし込んでいくことです。

わたし自身も、その点でまだまだ何もわかっていないも同然ですが、こうした考察について記事に残しておくことで、成長への足がかりとしたいと思いました。

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子どもの慢性疲労 / 愛着 / 解離