解離と愛着から考える空想の友だち―イマジナリーコンパニオンに「出会う」人「作る」人の違い


■幼児期の子どもの半数近くに見られる空想の友だち
■小学校高学年ごろに一部の子どもに現れるイマジナリーコンパニオン
■アスペルガー症候群の子どもがしばしば持つイマジナリーコンパニオン
■遭難事故などの極限状況で現れるサードマン
■自ら願って作りだすイマジナリーフレンドやタルパ

のブログでは、解離や愛着について扱う中で、それらと深く関係していると思われるイマジナリーフレンド(空想の友だち)という現象についても取り上げてきました。

ひとえに空想の友だちと言っても、上にリストアップしたように、様々なタイプが存在しています。幼児期に現れるもの、学童期に現れるもの、果ては遭難した大人が出会うものまで様々です。

このブログで主に扱ってきたのは、健常な発達の過程で現れる幼児期のイマジナリーコンパニオン、そして少数ながら青年期にまで存在するコンパニオンです。いずれの場合も、どこからともなくいつの間にか現れる、という性質が共通しています。

ところが、ネット上を調べてみると、イマジナリーフレンドを「作りたい」、と思っている人たちが少なからずいることに気づきました。タルパとして知られる概念も、これに類するものでしょう。

様々な時期ごとに現れるイマジナリーコンパニオンや、望んで作ったイマジナリーフレンドは、それぞれ同じものなのでしょうか。それともケースごとに異なる特徴があるのでしょうか。

この記事では、どれが本物か、どれが正しいか、といった意味ではなく、似ているように見えても、それぞれ成り立ちの部分に大きな違いがある、という観点から、さまざまなタイプの空想の友だちと、解離・愛着のつながりについて整理してみたいと思います。

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これはどんな本?

今回の記事は、おもに、岡野憲一郎先生の解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合と、柴山雅俊先生の解離の舞台―症状構造と治療という、国内の解離の専門家として双璧を成しているともいえるお二人の書籍に基づいています。

前者は脳科学に基づく客観的な分析、後者は患者の体験に基づく主観的な分析からなる、趣の異なる二冊ですが、いずれも解離について並外れた洞察が感じられるところは共通しています。

そして、どちらの本でも、解離の周辺体験として、イマジナリーコンパニオンについての記述がいくらか出ており、その意味を読み解くヒントを与えてくれます。

「出会う」と「作る」の違いはなぜ大切なのか

まず、冒頭でリストアップした様々なタイプの空想の友だちを、大きく2つのグループにわけて考えたいと思います。

簡単にいえば、上の4つはいずれも無意識のうちに勝手に現れ「出会う」もの、最後の1つは自分で意識的に「作る」ものという違いがあります。

一見したところ、「出会う」も「作る」も、たいした違いではないように思えます。

しかし、以前の記事で、両者はあくまでも別個のものとして分けて考えるべきではないか、と説明しました。このブログで扱っているイマジナリーコンパニオンは、基本的に「出会う」ものであって「作る」ものではありません。

イマジナリーフレンドは自分で「作る」ものなのか「作り方」があるのか
イマジナリーフレンドに「作り方」はあるのか。イマジナリーフレンドとタルパはどう違うのかを説明しています。

イマジナリーコンパニオン、すなわち空想の友だちという現象について考えるにあたり、いつの間にか「出会う」、つまり無意識のうちに現れる、といった性質を重要視するのはなぜでしょうか。

それは、最も典型的かつ一般的なイマジナリーフレンドといえる、幼児期の空想の友だち現象が、そうした無自覚の現れ方をするからです。

幼児期のイマジナリーフレンドは、だいたい2-3歳ごろに出現することが多いと言われます。当然ながら、幼児は、イマジナリーフレンドを作ろうと思ってあれこれ考えるわけではなく、どこからともなく空想の友だちが現れ、いつの間にかその存在を受け入れます。

このブログで過去に取り上げてきた青年期のイマジナリーフレンドも、いつの間にか勝手に存在するようになることがほとんどです。

イマジナリーフレンド(IF) 実在する特別な存在をめぐる4つの考察
成人・大人のイマジナリーフレンド・イマジナリーコンパニオン(Imaginary Friend/Imaginary Companion:空想の友だち/想像上の仲間)に関する詳しい考察

つまり、無意識のうちに出会う、という要素は、幼児期のイマジナリーフレンドと青年期のイマジナリーフレンドをつなぐミッシングリンクであり、両者が無縁のものではなく、何かしら共通の基盤を持っているのではないか、とうかがわせるゆえんとなっています。

このブログでは、発達心理学や精神医学におけるイマジナリーフレンド(専門的に言えばイマジナリーコンパニオン)を扱った文献を数多く取り上げてきましたが、いずれの場合も、それらは「出現」するものだとされています。意図して「作る」という説明は見かけません。

独りでに現れるという共通点があるからこそ、幼児期に現れるものも、青年期に現れるものも、同じイマジナリーコンパニオンという呼び名でくくることができるのだといえます。

解離によって「出会う」3種類のイマジナリーコンパニオン

では、幼児期のイマジナリーコンパニオンと、青年期のイマジナリーコンパニオンとに共通する、独りでにいつの間にか現れるという性質はいったい何を示唆しているのでしょか。

それは、どちらにも、解離という脳の防衛機制が関係している、ということを意味しています。

解離の働きの中には、まったく健康なレベルのものから、病的なものまで、さまざまな程度があります。

たとえば物語の世界に没入して時間を忘れたり、だれかの気持ちになりきったりするのは、だれでも経験しうる範囲の解離です。しかし、記憶が飛んだり、慢性的に現実感を喪失したりするのはトラウマ患者に生じやすい解離でしょう。

いずれの場合も共通しているのは、圧倒されるような感覚刺激から脳を守るために、何かしらの感覚を遮断して切り離す、という働きが生じていることです。つまり、解離というのは、刺激に圧倒されてしまうないよう、脳が自動的に起動するセーフティシステムのようなものです。

解離を含め、あらゆる防衛機制は無意識のうちに自動的に生じます。本人が意識していないところで生じるので、誰かに指摘されたり、客観的に振り返ったりしない限り、気づくことができません。

無自覚に生じるというその性質ゆえに、解離は、葛藤とは両立しないものです。 解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合にこう書かれているとおりです。

スターンの解離理論からすれば、葛藤よりもさらに深刻な状況があり、それは葛藤が成立しない状況、心の一部が体験として成立していない解離された状態であるということになる。(p77)

葛藤なしにいつの間にか生じるのが解離であり、ああするべきか、こうするべきか、という葛藤が生じているとしたら、それは無意識の防衛機制ではありません。

それゆえに、解離によって生み出されるイマジナリーコンパニオンは、いつの間にか勝手に存在するという形をとります。作ろうか否かという葛藤が生じるとすれば、それは解離らしくありません。

解離によって生み出されるイマジナリーコンパニオンは、勝手に現れ、何のためらいもなくいつの間にか存在を受け入れていることが多いでしょう。幼児のイマジナリーコンパニオンの場合は、そのまま葛藤もなく自然に消えていきます。

児童期以降も残るイマジナリーコンパニオンの場合は、最初、自分にとって当たり前と思って受け入れていた空想の友だちが、周りの人にとっては当たり前ではなく、奇妙なことをしているのではないか、と気づいたときに始めて、困惑を含んだ葛藤を感じるようになります。

ですから、「出会う」イマジナリーコンパニオンと「作る」イマジナリーコンパニオンは、解離的なものかそうでないものか、という大きな違いをはらんでいることになります。

どうやら、イマジナリーフレンドと「出会う」人たちと、イマジナリーフレンドを「作る」人たちとでは、互いに連続性はあれど、根本のところでは正反対の傾向があるようです。

ここからは、まず、「出会う」イマジナリーコンパニオンを3種類に分けて考え、それから「作る」タイプのイマジナリーコンパニオンについて考察していきましょう。

(1)幼児期のイマジナリーコンパニオン

わたしたちは誰でも、幼児のころは感覚が未分化で、周囲の刺激が取捨選択されずに飛び込んできます。たとえば、複数の感覚が絡み合って感じられる共感覚は、幼児のころは、だれでもみんな持っていると言われています。

そのため、幼児のころは、みな感覚刺激に圧倒されやすく、それゆえに防衛機制としての解離も働きやすいのでしょう。HSPのようなひときわ感覚に敏感な子どもが、幼児期にイマジナリーコンパニオンを経験しやすいのもそのためだと思われます。

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通常、感覚の未分化は、発達とともに統合され、組織化されていきます。入ってくる情報が取捨選択されるようになるので、感覚刺激に圧倒されることはなくなり、解離も生じにくくなります。それで、幼児期のイマジナリーコンパニオンはいずれ消えていきます。

こうした幼児期のイマジナリーコンパニオンは、まったく健全なものであり、成長してからの病気とは無関係だというデータが報告されています。

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(2)学童期のアスペルガー症候群のイマジナリーコンパニオン

しかし、感覚が統合されないまま成長していく子どももいます。それはアスペルガー症候群などの自閉スペクトラム症(ASD)の子どもで、感覚統合障害を抱えているため、成長しても大量の情報の洪水に圧倒されがちです。

それゆえに、アスペルガー症候群の子どもは、青年期になっても、さらには大人になっても、強い解離を経験しやすいと言われています。

こうした子どもの中にも、解離傾向が強いため、イマジナリーコンパニオンを持つ子がいます。

しかし、アスペルガー症候群の子どものイマジナリーコンパニオンは、そうでない子どものイマジナリーコンパニオンとはいくぶん異なる性質があるようです。

アスペルガー症候群では生まれつき感覚刺激が強すぎて、人の目のコントラストがきつすぎる人の声が心地よく感じられないといった理由から、コミュニケーション能力の発達が妨げられるようです。

結果として、人間への興味が育たなかったり、人の気持ちを想像する心の理論の発達が遅れたりするので、イマジナリーコンパニオンは比較的現れにくいか、学童期などに遅れて現れる傾向があるようです。

以下の記事で取り上げたように、アスペルガー症候群の子どもが持つイマジナリーコンパニオンは、遊び相手というよりも、社会に適応するための仮面のような役割が見られやすいと言われています。コミュニケーションの難しさを補う必要があるからでしょう。

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また、アスペルガー症候群は、男女で症状の現れ方に違いがあると言われています。おそらくは女性のアスペルガー症候群のほうが、男性のアスペルガー症候群よりいくらか他の人への関心が育つせいで、イマジナリーコンパニオンを持ちやすいのではないかと思います。

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(3)学童期の居場所のなさからくるイマジナリーコンパニオン

一方、自閉スペクトラム症のような感覚統合障害がなく、感覚が組織化された通常の子どもたちの場合は、日常生活の感覚刺激に圧倒されて頻繁に解離が生じるということはなくなります。

しかし、特殊な環境のせいで、許容量を越えた刺激にさらされてしまうと、防衛機制として脳を守るために解離が働くことがあります。

成長期の子どもの脳にとって、逆境によってもたらされる強い刺激は、ときに耐えられないほど大きく感じられることもあり、それが解離を起こすきっかけとなりえます。

たとえば、虐待、災害、いじめ、病気などの強いストレスに、長期間、慢性的にさらされることが含まれるでしょう。解離の舞台―症状構造と治療によると、こうした解離を引き起こす逆境に共通しているのは「安心していられる居場所の喪失」です。

解離性障害の外傷として特徴的なことは、それらが共通して〈安心していられる居場所の喪失〉に結びついていることである。

本来、そこにしかいられないような場所で、逃避することもできないような状況に立たされ、きわめて不快な圧力や刺激が反復して加えられること、このような場の状況が解離を発生させ、増悪させるのである。(p140)

虐待のような鮮烈な体験に限らず、「安心していられる居場所の喪失」はさまざまな要因が絡み合ってもたらされることがあります。

たとえば、以下のような場面は、いずれも虐待ほどセンセーショナルではありませんが、子どもが「安心していられる居場所の喪失」を感じ取る可能性があるものです。

■きょうだいの誰かが病気になって家族がそちらにかかりっきりになってしまうこと
■特殊な病気や障害のため、ひとりきりで入院したままの日々を過ごすこと
■両親の不仲やステップファミリーにより、家庭内に居場所がなくなること
■親がアルコール依存症や精神疾患などを抱えていて、家庭内が緊張していること
■生まれつき感受性の強いHSPのため、学校や家庭で人いちばい緊張した空気に敏感なこと

こうした「安心していられる居場所の喪失」に直面したとき、子どもは、大人のように自分から家を出て環境を変えたり、家庭外の信頼できる大人や相談機関に助けを求めたりすることはできません。

どこらも居場所がないのに、逃げ出すことができない。そんな「逃避不能ショック」とも呼ばれる環境に置かれたとき、脳を守る最後の手段が、解離、つまり感覚を切り離して感じないようにしてしまうことです。身体が逃げられない以上、意識を逃避させるしかありません。

幼児期ではなく、学童期に生じるイマジナリーコンパニオンの多くは、こうした居場所のなさによって引き起こされる解離の働きの一つとして、無意識のうちに現れるのではないかと思われます。

家族にも友だちにも、気持ちを打ち明けられなかったり、寂しさを分け合ってもらえなかったりする場合、その孤独感をやり過ごすには、信頼できる空想の他者を作るしかないからです。

そうした事情があるからか、以前の記事で取り上げたように、施設の子どもたちに見られるイマジナリーコンパニオンは、単なる遊び相手としての「空想の友だち」ではなく、保護者、守護者といった役割があることが多いと言われています。

そうした相談できる相手としてのイマジナリーコンパニオンは、愛着理論における「安全基地」としての役割を担っています。

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「安心していられる居場所の喪失」によって架空の他者がありありと現れる、というのは何も学童期の子どもに限ったことではなく、雪山や海上で遭難した大人の場合でも報告されています。

遭難などの極限状態で現れる頼れる空想の他者は、冒頭のリストに含めたとおり、「サードマン」として知られていますが、これは学童期のイマジナリーコンパニオンと同じものだと考えられています。

つまり現実の社会で「安心していられる居場所の喪失」に陥った子どものそばに現れるのがイマジナリーコンパニオンなら、雪山などで「安心していられる居場所の喪失」に陥った大人のそばに現れるのがサードマンだということです。

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突き詰めて言えば、アスペルガー症候群のイマジナリーコンパニオンも、目立ったトラウマ環境などに遭遇せずとも、アスペルガー症候群という少数派としての脳の特性それ自体が、居場所のなさをもたらすと解釈することもできます。

そして、いずれの場合も、やはり意識して作りだすものではなく、どこからともなく勝手に現れるという点が共通しています。両者ともに、自動的に作動する脳のセーフティシステムである、解離が空想の他者を生み出しているからです。

無意識のうちに「空気を読みすぎる」傾向

こうして説明するとしばしば誤解されてしまうのは、イマジナリーコンパニオンは、内向的で引きこもりがちな、社交性に欠けた子どもが持つものではないか、ということです。

確かにアスペルガー症候群のイマジナリーコンパニオンはそういった一面を持っています。しかしそれ以外のタイプにおいては、まったく逆のことがわかっています。

まず以前の記事で見たとおり、幼児期のイマジナリーコンパニオンは、孤独であるどこか、社交性が強い子どもに多いと言われています。

また、家庭や病気などの事情によって、「安心していられる居場所の喪失」に陥って現れるイマジナリーコンパニオンの場合も同様です。

こうした子どもが感じる孤独とは、文字どおりの孤独ではなく感情的な孤独であり、外から見れば一見とても社交的で、友だちもそれなりにいる子がイマジナリーコンパニオンを持っていることも多いのです。

すでに見たとおり、コミュニケーションの難しさと関係しているアスペルガー症候群のイマジナリーコンパニオンは社会とのやりとりを助ける仮面のような役割を果たします。

アスペルガー症候群の子どもは、イマジナリーコンパニオンという仮面をかぶることで、やっと多数派をなす定型発達者の社会に入っていけるようになる場合もあります。

しかし、「安心していられる居場所の喪失」からくるイマジナリーコンパニオンの場合は、コミュニケーションの障害を伴っているわけではありません。

こうした子どもは、友だちが少ないどころか、むしろ空気を読むのが上手で、他者配慮に秀でていて、一見したところ、友だちも多く、むしろコミュニケーションが巧みだと思われるかもしれません。

それもそのはず、人いちばい他人の気持ちに敏感で、場の空気を読み取りすぎ、気を使いすぎることが、両親や友だちの板挟みになって、居場所のなさを感じてしまう原因のひとつになりうるからです。

前述のさまざまな状況、ステップファミリーや機能不全家庭、幼少期からの慢性病などと付き合ってきた子どもたちは、年相応の無邪気さが欠けていて、大人びていることが多いものです。

これは以前ブログで取り上げた、空気が読めないコミュニケーション障害とは正反対の傾向、つまり、過剰に気を使いすぎ、他の人の責任まで引き受けてしまいがちな いい子特有の「過剰同調性」と呼ばれる特性でしょう。

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過剰同調性は、解離性障害の人に見られる特徴的な病前性格であり、やはり解離傾向を土台としているイマジナリーコンパニオンを持つ青年にも見られやすい性格だといえます。

空気を読みすぎる子どもたちは、こんなことを言ったら親や友だちはどう反応するだろうか、どう思われるだろうか、何と言われるだろうか、と先読みしすぎるせいで、自分の気持ちを正直に打ち明けられず、相手が望むようなことをつい言ってしまいがちです。

そうすると、だれにも素直な気持ちを打ち明けられないので、臆面なく相談できる、絶対的に信頼できる他者が現実には見いだせなくなります。

そのニーズを満たすために、解離という防衛機制によって作り出されるのが、保護者や友のようなイマジナリーコンパニオンです。

他人の気持ちがわかりすぎるために現実の親や友人に気持ちを打ち明けるのをためらってしまい、精神的な意味での孤独感を深めてしまうということ。

そして他人の気持ちを想像できすぎるために、つまり、いわゆる「心の理論」に長けているがために、架空の他者をありありと作り上げてしまえること。

この二重の意味において、過剰同調性は、イマジナリーコンパニオンが現れる土台をなしているといえます。

過剰同調性もまた葛藤が成立しない

興味深いことに、この過剰同調性という空気を読みすぎる性格特性もまた、無意識のうちに、いつの間にか発揮される、という特徴を持っています。

一般的に、気を使いすぎるとか、顔色を見て話すとか言うと、無理にへつらって、自分の気持ちを抑え、気苦労している人を思い浮かべるでしょう。

会社では、上司の顔色をうかがって、相手に気にいられるようなお世辞を並べ立て、仕事帰りに同僚と立ち寄った飲み屋で鬱憤を爆発させる。そんな苦労人をイメージするかもしれません。

しかしこれは過剰同調性ではありません。というのも、本心では相手のことをよく思っていないのに、口ではお世辞を言う、という本音と建前を使い分けている人は、葛藤が成立しているからです。

本当は言いたくもないことを言っているという自覚があるからこそ、つまり葛藤があるからこそ、影では不満を爆発させたり、愚痴ったりするわけです。

葛藤が生じている時点で、それは解離的ではありません。しかもどこかで愚痴ったり不満を爆発させたりできるのなら、居場所のなさには陥りません。ストレスのはけ口という逃げ場がある以上、無意識の最終手段として、解離が働く必要もありません。

解離の舞台―症状構造と治療によれば、こうした葛藤や裏表を抱えている状態は、過剰同調性ではなく、ある種の対人過敏です。

対人過敏では不安、混乱、嫌気、怨み、自罰、他罰など苦悩の色彩が概して強い。そしてそれらですぐに自分が一杯になる。

それに対して解離性の過剰同調性においては、こうした感情や同調をめぐる苦悩はあってもそれほど目立たない。

また必ずしも周囲に同調していることを意識しておらず、気づいたときにはすでに「自分が目の前の相手に合わせてしまっている」ことが多い。(p143)

この本が述べるように、本音を無理やり押し込めて、表面上だけ相手に合わせる対人過敏は、「気分障害、パーソナリティ障害、対人恐怖などに限らず、現代の若い女性たちにも見られる一般的な傾向」です。もちろん男性にも見られるでしょう。(p142)

しかし、イマジナリーコンパニオンや解離と関係している過剰同調性のほうは、無理して合わせる、という苦労をほとんど伴っていません。「こうした感情や同調をめぐる苦悩はあってもそれほど目立たない」のです。

この本の中で、ある女性は、自分の過剰同調性について、こう説明しています。

相手に合わせるというよりも、そういった自分が出て来る。相手によって色が変わる。コアは変わらないが、それを覆う膜が変わる。それがいつか破綻する不安がある。

読書をすると、その世界に入ってしまう。夢にも影響を受ける。

さまざまな状況に合わせることがそれなりにできてしまう。合わせることに疲れるということはない。いろんな人の気持ちがわかる。

裏表ではなくサイコロです。どの面が出ても私。(p143)

注目したいのは「合わせることに疲れるということはない」という点です。

過剰同調性を持つ人は、自分から意識して相手に合わせようと思う必要はありません。「相手に合わせるというよりも、そういった自分が出て来る」からです。

自分から主体的に行動するのではなく、いつの間にか勝手にそうなってしまっている、という特徴は、おわかりの通り、解離的なものです。

最初に見たとおり、解離とは葛藤が生じていない状態のことですが、過剰同調性も、相手に合わせるかどうか、といった葛藤を感じるまでもなく、いつの間にか相手に勝手に合わせてしまいます。

自分の意見がないから、誰にでも合わせてしまう、というわけではありません。「コアは変わらない」、つまり自分の考えはしっかり持っています。でも、気づいたら、相手のペースに合わせてしまっています。

本音と建前があるわけでも、裏表があるわけでもなく、相手に合わせて、無意識のうちに空気を読んで気を使ってしまう。すると、葛藤が生じないせいでストレスの理由がわからないので、うまくはけ口を作ることができません。

事実、解離傾向が強い人は、子ども時代に逆境的な体験をしたり、あまり恵まれない家庭で育ったりしても、ストレスを自覚しておらず、「幸せな子ども時代だった」と淡々と語ることがよくあります。自覚していないので不平も不満もほとんど言いません。

ではどうやって、ストレスから脳を守ることができるか。本人がストレスを意識できないのであれば、脳に備わる無意識のセーフティシステムが作動するしかありません。

つまり意識的に逃げ場が確保できないがために、無意識の解離によって、ストレスを切り離すしかなくなってしまうということです。

解離の根本原因は乳幼児期にある

それにしても、過剰同調性を抱える人たちは、なぜ、無意識のうちに周りに合わせてしまい、葛藤さえ生じないのでしょうか。

それは、さらにさかのぼれば、幼少期の体験に由来するようです。

以前の過剰同調性の記事でも説明しましたが、過剰同調性の土台が作られるのは、生後わずか半年から数年ごろの乳幼児期だと思われます。

乳幼児期に養育者がころころ変わったり、親が精神的に不安定で養育態度がころころ変わったりすると、赤ちゃんは、その場その場に応じて自分の対応を変化させる必要に迫られます。

そうした赤ちゃんが身につける生存戦略は、無秩序な養育環境に合わせて適応するので、「無秩序型」のアタッチメント(愛着)と呼ばれています。

人への恐怖と過敏な気遣い,ありとあらゆる不定愁訴に呪われた「無秩序型愛着」を抱えた人たち
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一般的に無秩序型のアタッチメントは、虐待と関係していると言われがちですが、解離の舞台―症状構造と治療に書かれているように、一番の原因は予測できない無秩序な養育態度です。

虐待された幼児の80%が無秩序型愛着を呈したとする報告もあるが、はっきりとした虐待がなくても、養育者自身が子どもの体験に調子を合わせていなかったりコミュニケーションに食い違いが見られたりすると、無秩序型愛着が見られることがある。

ヘッセとメイン(Hesse and Main 1999)は、明らかな虐待がなくても、両親の脅しや怯え(fightening or frightened)の行動が無秩序型愛着をもたらしうることを報告している。(p138)

通常の子どもが身につける「秩序型」のアタッチメントとは異なり、「無秩序型」のアタッチメントは、場面ごとに性格がころころと変わるような一貫性のなさが特徴です。

親の養育態度に一貫性がなかったので、自分もまたその都度 空気を読んで、その時々の親の状態に合わせて振る舞う傾向を身につけるというわけです。

この無秩序型のアタッチメントの延長線上にあるのが、どんな相手に対しても無意識のうちに空気を読んで、いつの間にか合わせてしまう過剰同調性であるのは言うまでもありません。いわば、それは赤ちゃんのときから染み付いている対人関係ののクセのようなものです。

そして、続く部分に書かれているように、乳幼児期の混乱した養育体験は、解離の根本原因でもあります。

ライオンズ=ルース(Lions-Ruth 2003,2006)によれば、虐待や外傷などは後の解離症状を予想しなかったのに対し、幼児の18ヶ月における母親の混乱した感情的コミュニケーションは19歳における解離症状をかなり予想したという。

貧困、片親、母親の解離症状などとの関連は見出せなかったという。(p139)

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にも、同様の点がこう書かれています。

ライオンズ=ルースの研究から、解離は幼少期に学習されることが明らかになった。

のちの虐待やその他のトラウマでは、若年成人に見られる解離の症状は説明がつかなかったのだ。

虐待やトラウマは、他の多くの問題のおもな原因だったが、慢性的な解離や自分に対する攻撃性の原因ではなかった。(p201)

つまり、幼少期に無秩序な養育を受けていないかぎり、その後の人生で虐待や外傷などのトラウマを受けようが、強い解離症状は生じにくいということです。

言い換えれば、学童期以降も解離症状を示す人たちは、アスペルガー症候群などの特殊な事情がある場合を除いて、乳幼児期に混乱した養育を経験している可能性が高いということになります。

すでに見たとおり、通常、解離傾向は、幼児期特有のものです。だからこそ、イマジナリーコンパニオンは、成長するとともに消えていきます。感覚が組織化され、解離が生じなくなるからです。

しかし学童期以降もイマジナリーコンパニオンが現れる人は、何らかの理由で、解離が生じやすいのではないか、ということでした。

ひとつの理由はアスペルガー症候群であり、感覚の統合障害のせいで、明確なトラウマがなくても、強い解離傾向が大人になっても残ります。

もうひとつのケースはさまざまな環境要因による「安心できる居場所の喪失」とのことでした。

しかし単に逆境的な環境に面した子どもがみな居場所のなさを感じるわけではありません。なぜなら、普通の子どもは、逆境に面したとき、ストレスを意識でき、葛藤を抱えるために、何かしらの行動をとるからです。

ある場合は、友だちや親に愚痴って発散します。別の場合は非行や暴力などの問題行動に出て、怒りや不満を発散するかもしれません。

しかし、過剰同調性をもつ子どもはストレスそのものを自覚していないのでそれができません。葛藤を意識できず、どんな場面でも周りの人に合わせてしまいます。乳幼児期から、問答無用で周りに合わせる生き方が染み付いているからです。

ストレスを意識できず、葛藤を経験できない子どもは、自分の行動によってストレスを発散できないため、成長してもずっと、意識を切り離す解離という無意識の防衛機制に頼り続けます。ストレスがたまるとぼーっしたり空想世界に意識を逃したりします。

そうして、本来はなくなるはずの解離傾向が残り続けるため、学童期以降、強い慢性的なストレスにさらされると、泣いたりわめいたりして助けを求める代わりに意識を切り離します。

その切り離された意識は、別人格として、つまりイマジナリーコンパニオンとして、その子の前に現れることになるのです。

3つの条件が重なったとき空想の友だちが現れる?

こうして筋道立てて考えてみると、アスペルガー症候群ではない子どもの場合、学童期以降にイマジナリーコンパニオンが現れるには、3つの特徴的な条件が重なり合う必要があるのではないか、と思われます。

まずひとつは、乳幼児期の無秩序な養育体験です。これはすでに見たとおり、虐待のような状況はもちろんですが、それ以外にも、親の精神疾患や、やむを得ない理由による養育者の交代などによっても生じるものです。

無秩序型のアタッチメントは、単に養育者側の問題ではなく、子どもの側の過敏さがリスクとなる場合もあるようなので、生まれつきのHSP傾向の有無も関係しているでしょう。

これが一つ目の必須条件であり、もしこれがなければ過剰同調性が形成されません。

過剰同調性がなければ、学童期以降にストレスを受けたとしても、解離という無意識の防衛機制で対処することはなく、問題児になったり、別の何らかの精神疾患を発症したりするだけでしょう。

二つ目の条件は、成長してから慢性的なストレス環境にさらされ、「安心できる居場所の喪失」を経験することです。

解離の舞台―症状構造と治療が先ほどの文脈の続きでこう述べています。

カールソンほか(Carlson et al.2009)によれば、早期幼児期において無秩序型愛着が見られてもその後の生活が標準的であれば、解離傾向は高くなるがサブクリニカルな水準にとどまり、ストレス状態において解離的行動が表面化する潜在的素質を抱えることになる。

その後の生活において重度あるいは慢性的な外傷が見られ、かつそれに対する情緒的な援助がなければ、病的解離として発症する危険性は高くなる。(p139)

幼児期に身に着けた無秩序型のアタッチメントは、それ単独で解離を発症させることはありません。

しかし潜在的な解離傾向として潜伏し、のちに慢性的なストレスにさらされ、「安心できる居場所の喪失」に直面したときに解離として表面化します。

そして三つ目の条件は、慢性的なストレス体験の時期です。

幼児期に無秩序型のアタッチメントを身に着けた人が、その後の人生のどの時期にストレスを経験しても、たとえば成人になってから慢性的なストレスにさらされた場合でもイマジナリーコンパニオンが現れるのかというと、どうもそうではないようです。

以前に取り上げたように、イマジナリーフレンドが最も頻繁に観察されるピークは、2歳半から3歳半の時期と、9歳半から10歳半にかけての時期の2回だとされてます。

一回目のものは健常な幼児のイマジナリーコンパニオンですから、ここで関係しているのは、二度目の9歳半から10歳半のイマジナリーコンパニオンだということになります。

それ以降の時期、例えば成人後のサードマン現象などの場合、イマジナリーコンパニオンと呼べるほどまとまった人格としては現れにくく、しかも一過性にすぎないように思えます。

なぜ9歳半から10歳半という短い限られた期間が関係しているのか、当初は謎でしたが、いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳には興味深い情報が書かれていました。

性的虐待を受けた時期(年齢)の違いによる被虐待者の局所脳灰白質容積を多重回帰解析にて検討したところ、被虐待ストレスによってさまざまな局所脳の発達がダメージを受けるには、それぞれに特異な時期(感受性期)があることが示唆された。

海馬は幼児期(3~5歳頃)に、脳梁は思春期前期(9~10歳)に、さらに前頭葉は思春期以降(14~16歳頃)と最も遅い時期のトラウマで重篤な影響を受けることもわかってきた。(p78)

脳の発達には順番があり、年齢ごとに成長している場所が異なります。子どもの場合、強いストレスは、脳にいつも一様なダメージを与えるわけではなく、ストレスを受けたときの年齢に応じて、その時ちょうど発達中だった場所がピンポイントで発達不良を起こすということです。

上記の研究は、性的虐待を受けた子どもについてのものですが、性的虐待は「安心できる居場所の喪失」の体験の最たるものです。

そうした子ども時代の「安心できる居場所の喪失」は、3から5歳ごろなら海馬に、9から10歳ごろなら脳梁に、14から16歳ごろなら前頭葉の発達に大きな影響を及ぼすことがわかりました。

このうち注目すべきは9から10歳ごろに脳梁の発達の感受性期があるということです。脳梁というのは、左脳と右脳をつなぐ橋の部分ですが、そこの発達が妨げられるとどうなるのか、子ども虐待という第四の発達障害 (学研のヒューマンケアブックス)に、こう書かれています。

ド・ベリスらの研究では、脳梁体部から脳梁膨大部にかけての脳梁4~7の体積が、被虐待児では健常な対照群に比べて小さかったのである。

さらに脳梁の体積と子どもの解離症状とは負の相関を示していた。つまり脳梁の体積が小さいほど、強い解離症状が認められたのである。

脳梁という右脳と左脳をつなぐ橋の体積が小さければ、右脳と左脳の共同作業が滞り、別々に働く傾向が強くなると予想される。

従って、そのような脳の状態において、解離症状が強くなることは当然考えられることである。(p104-105)

脳梁の発達不良は解離症状の強さと相関関係にあったのです。しかも、その結果として生じるのは、「右脳と左脳の共同作業が滞り、別々に働く傾向が強くなる」ことです。

イマジナリーコンパニオンを持つ子どもや大人は、別人格が囁きかけてくる声を実際に聞くことがよくあります。書きたがる脳 言語と創造性の科学が述べるように、そうした内なる誰かの声は、左右の脳が同期していないことで生じるようです。

現代では自我異和的な声を聞く主たる例は統合失調症だが、患者は両半球の連携に欠陥があるらしい。また分離脳手術を受けた患者も基本的に失感情症に陥る。

このような欠陥は病理的な事例に限らない。幼い子どもたちは左右の半球の電気的活動が比較的に同期してない。成熟するにつれて、脳梁が左脳と右脳を効果的に連携させるようになる。

最後に両半球の連携はふつうの人々が自我異和的な存在を感じるときにも一役買っているらしい。(p318)

右脳と左脳が別々に働くことが、人格の多重化と密接に関係しているというのは、以下の記事で詳しく考察したとおりです。

心は複数の自己からなる「内的家族システム」(IFS)である―分離脳研究が明かした愛着障害の正体
スペリーとガザニガの分離脳研究はわたしたちには内なる複数の自己からなる社会があることを浮きらかにしました。「内的家族システム」(IFS)というキーワードから、そのことが愛着障害やさ

もし、無秩序型の人がこれとは別の時期に慢性的なトラウマを経験した場合は、たとえば3から5歳の頃なら海馬へのダメージによる解離性健忘といったように、イマジナリーコンパニオンとは別の形の解離症状として現れやすいのではないかと思います。

ここまで考えれば、9歳半から10歳半にピークを迎えるという、学童期以降に見られるイマジナリーコンパニオンの正体が見えてきたように思います。

この遅い時期のイマジナリーコンパニオンは、ひとつのグループをなしているとはいえ、一般的な乳幼児期のイマジナリーコンパニオンに比べれば、かなり少数です。

なぜなら、それは、3つの条件が重なり合って始めて生じる特殊な現象だからです。その3つの条件とは、

(1)生後半年から数年ごろの乳幼児期に何かしらの混乱した養育を経験する
(2)その後の人生で「安心できる居場所の喪失」に遭遇する
(3)およそ9-10歳頃(小学校高学年ごろ)に経験する

の3つであり、おそらく、このいずれが欠けても、学童期以降のイマジナリーコンパニオンが明確に出現することは難しいのでしょう。

(1)の無秩序型のアタッチメントを抱える人は、人口の約15%に上るとされていますが、学童期以降にイマジナリーコンパニオンを持つ人はそれよりもかなり少ないので、やはり複数条件を満たす必要があるように思えます。

例外としてアスペルガー症候群のケースがありますが、自伝でイマジナリーコンパニオンがいたことを公言しているドナ・ウィリアムズは3歳ごろの幼児期に、ダニエル・タメットやテンプル・グランディンは学童期に空想の友だちが出現していて、やはり似たような時期的な条件があるようです。

ここまで考えてきたのは、このブログで過去からずっと取り上げてきた、いつの間にかイマジナリーコンパニオンと出会う人たちについての考察です。

しかし、冒頭で触れたように、このグループよりもはるかに多い人数の人たちが、イマジナリーフレンドを持ちたい、作りたいと考えているようです。

そうした人たちが「作る」イマジナリーフレンドとはいったい何者なのでしょうか。ここまで見てきた解離が無意識のうちに生み出すイマジナリーコンパニオンとはどのような違いがあるのでしょうか。

イマジナリーフレンドを「作る」人たち

これまでの論議から明らかなように、イマジナリーコンパニオンを語る上で、無意識のうちに生み出されるという性質は欠かせません。

幼児期のイマジナリーコンパニオンも、雪山でのサードマン現象も、そして9から10歳ごろにピークを迎える遅い時期のイマジナリーコンパニオンも、いずれも解離というメカニズムが色濃く関わっており、解離の本質は無意識のうちに生じることだからです。

ひとたびイマジナリーコンパニオンと「出会った」人たちは、その後の人生で創作に親しむなどして、空想の存在を「作る」かもしれませんが、それはあくまでも、自分から欲したものというより、空想世界が先にあって、その延長線上にあるものだと考えます。

それに対して、いちからイマジナリーフレンドを「作りたい」と考える人たちは、明らかに、はじめから意識してそうした存在を欲しています。

これは、解離とは正反対の状態、つまり葛藤が認識されている状態だとみなせます。

寂しい、一人ぼっちだ、だれか話し相手がほしい、などといったストレスがはっきり意識されているので、その解決策として、意識的に空想の人物を作りたいと願うのでしょう。

こうした対人関係のストレスが意識されている状態は、すでに見たとおり、過剰同調性にも当てはまりません。過剰同調性は対人関係における「感情や同調をめぐる苦悩はあってもそれほど目立たない」からです。

そうすると、イマジナリーフレンドを「作りたい」と考える人たちは、過剰同調性のおおもとにある無秩序型のアタッチメントにも当てはまらないことになります。

ということは、イマジナリーフレンドと「出会う」人と、イマジナリーフレンドを「作りたい」と思う人は、どうやら、乳幼児期の経験からして異なっているのではないか、ということになります。

イマジナリーフレンドを「作りたい」と思う人の特徴を挙げるとすれば、葛藤にとらわれ、人間関係に悩み、孤独を強く意識する人たち、ということになるでしょう。

こうした特徴は、乳幼児期に「無秩序型」とは別の、「不安型」と呼ばれるアタッチメントを身につけた人たちに見られるものです。

寂しさと空虚感はどこから来るか

「不安型」のアタッチメントの特徴については、以前の記事で詳しく扱いました。

このタイプは、過干渉を受けて育った人や、養育者を突然喪失した人などに見られます。

見捨てられ不安にとらわれる「不安型愛着スタイル」―完璧主義,強迫行為,パニックなどの背後にあるもの
岡田尊司先生と咲セリさんの「絆の病」を参考に、「不安型」「とらわれ型」の愛着スタイルを持つ人の感情や葛藤の原因についてまとめました。

「不安型」のアタッチメントを持つ人は、常に構われていた体験や、喪失体験のせいで、見捨てられ不安に敏感で、孤独を人いちばい強く感じやすく、他の人を慕い求める気持ちが強いという特徴を持っています。

「無秩序型」のように、混乱した養育を受けたわけではないので、無意識のうちに他の人に合わせることはできません。

しかし、見捨てられ不安が強いため、他の人に嫌われたり、拒絶されたりすることに強い恐れを持っていて、そのために相手に気に入られるような振る舞いをして、「良い子」を演じてしまいがちです。

人に合わせていることさえ意識していない過剰同調性とは違って、無理をして周りに合わせているという自覚があるので、対人関係でストレスが溜まりますし、孤独感を強く意識します。つまり、先ほど出てきた対人過敏の状態です。

この、対人過敏からくるストレスや、慢性的な寂しさ、空虚感などのために、それを満たしてくれる存在を求めるようになり、ときにイマジナリーフレンドのような存在を持ちたい、と考えるようになるのでしょう。

こうした人たちは、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合に書かれている次の例に相当するといえます。

解離に興味を持ち、「そのような症状を持ってみたい」という願望や空想を持つ人は少なからずいるということを患者さんたちから聞くことがある。

私は「解離にはなりたいと思っても簡単にはなれない」という立場である。「解離になりたい」人たちは「解離になりたい」けれどもそうなれない人のはずだ。(p5)

こうした人たちは、解離の現象の一種であるイマジナリーコンパニオンに興味を持ち、そのようなものを持ってみたい、という願望や空想を持ち、そしてある程度の形でそれを実現させることができます。

しかし、それは解離によって無意識のうちに存在するようになった一般的な意味でのイマジナリーコンパニオンとは、少し異なるものでしょう。

すでに見たとおり、「解離は幼少期に学習される」ゆえに、「解離にはなりたいと思っても簡単にはなれない」からです。

こうして成り立ちを考えてみると、どちらが本物だとか優れているといった意味ではないものの、その性質が異なっている、というのは確かであるように思えます。

無秩序型の人の閉じた世界

ここまで見てきたように、いつの間にかイマジナリーコンパニオンが存在するようになった人たちと、自分の心を満たすために意識してイマジナリーフレンドを作った人たちとでは、振る舞いや性格がかなり異なる可能性があります。

つまり、同じように空想の友だちに親しんでいる人でも、「出会った」人たちと、「作った人」たちとでは、この現象の受け止め方や解釈、そしてコミュニティの文化といった点に至るまで、性質が異なっているのではないかと思います。

たとえば、無秩序型のアタッチメントを土台とし、イマジナリーコンパニオンと「出会った」人たちは、自分の空想の友だちとの交流について、ただ自分の心のうちにだけとどめているか、ごく一部の信頼できる人以外には打ち明けていないことが多いでしょう。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合には、解離性同一性障害をはじめ、解離傾向の強い人たちの特徴として、次のような点が書かれています。

私はおそらく多くの「見事な多重人格」に出会っているが、彼女たちの大半は、症状により自己アピールをする人たちとは程遠いということだ。

彼女たちの多くは解離症状や人格交代について自分でもあまり把握していないことが多い。

…そして多くはそのことを他人にはできるだけ隠そうとするのだ。なぜなら彼女たちは他人から「おかしい」と思われることを非常に恐れるからである。(p5)

解離性障害など、強い解離傾向を持つ人たちは、自分の経験している症状を「他人にはできるだけ隠そうとする」傾向があります。

これは、土台となっている無秩序型のアタッチメント、そして過剰同調性を考えれば当然のことといえます。

これは、予測不可能な状況に自分を合わせることを特徴としていて、周りからおかしいと思われたり、人目を引いたりすることを極端に避け、空気を読みすぎる特性だからです。

自分には空想の友だちがいるとか、見えないものが見える、といった奇妙な体験を、さほど親しくもないだれかに積極的に打ち明けて、空気の読めない振る舞いをすることなどほとんどありえないでしょう。

解離傾向の強い人たちは、そもそもだれかに理解してほしいとか、わかってもらいたい、経験を共有したい、という気持ちをほとんど表に出さないことがしばしばです。

根底ではそうした気持ちを持っているのでしょうが、「安心できる居場所の喪失」を経験して空想の世界に意識を飛ばすことが当たり前になったせいで、現実の他者にはほとんど期待しなくなっていくのでしょう。

その代わりに、長年にわたって構築してきた内的な空想世界を持っており、空想世界にたくさんの仲間がいるおかげで、現実世界の交友には固執しなくなります。

現実の他者への執着がないせいで、自分の空想の友だちについて誰かに理解してほしい、気持ちを共有してほしいという思いはほとんど抱いていません。どちらかというと共有したくない、踏み込まれたくないという気持ちのほうが大きいかもしれません。

リアルでもネット上でも、人間関係でトラブルを引き起こすことは少なく、いざこざに巻き込まれても自分から身を引いてしまうような人たちです。

おおよそのところ、この人たちは、解離の舞台―症状構造と治療に書かれている次のような性格に近いことが多いでしょう。

解離性障害の患者の多くは、演技的でも、露出狂的でも、虚言的でもない。

内気で人にうまく合わせ、控え目で、どこか怯えを抱えている。単に「健康」とは言えず、「一見健康に見える」と言うのがふさわしい。(p19)

解離傾向の強い人たちは、だれか他者を求めるより、一人きりになって自分の空想世界に親しみ、絵や小説などを創作するのに忙しくしている傾向があるように思います。

自分自身の経験を世に送り出すとしても、ちょうど、愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)に書かれている夏目漱石がそうしたように、創作作品に織り込むなどして、はっきりと目立たないようカモフラージュするかもしれません。

漱石は、自分のことを表現するのが、とても不器用だった。それゆえ、文学作品という体裁をとって、間接的に自分の傷ついた心を表そうとしたとも言える。

漱石の作品は、いかに自分の正体を見破られないよう隠蔽しつつ、かつ自分を表現するかという二つの相反する要求の微妙なバランスの上に成り立っていた。(p238)

この人たちは、人間関係も孤独の解消も自分の内側でほぼ完結してしまっていて、閉じた世界、ある意味 自給自足の内部循環システムのある世界に住んでいるのだといえます。

青年期の解離や空想の友だちについての研究があまり進んでいないのは、こうした事情から、当事者が自分の経験を語ることに消極的であるせいなのかもしれません。

不安型の人の開けた世界

他方、「不安型」のアタッチメントを持っていて、寂しさや空虚感を埋めるためにイマジナリーフレンドを「作りたい」と考える人たちは、まったく逆の特徴を示すかもしれません。

この人たちは、慢性的な空虚感や寂しさを抱えているので、現実の他者を求める傾向が強くなります。

その空虚感を埋めるためにイマジナリーフレンドを「作りたい」と考えるのでしょうが、たとえ空想の他者を作ったとしても、現実の人間関係を求める気持ちは変わらないでしょう。

自分が作った空想の存在に癒やされるかもしれませんが、それだけでは満足できず、現実のだれかと、あるいはSNS上の人たちと、この空想を共有したい、わかってもらいたい、と考えるかもしれません。

そうした積極的な行動は、「他人にはできるだけ隠そうとする」傾向を持っていた解離傾向の強い人たちとは正反対です。

おそらく、インターネット上のブログやSNSで活発に発信されているイマジナリーフレンド関係の体験の多くは、こちらのタイプの人たちによるものかもしれません。

自分の内的世界の中だけで完結せず、どうしても現実の他者を巻き込もうとしてしまうのは、解離傾向の強い人たちが有していたような巨大な内的世界を持っていないからです。

解離傾向の強い人たちは、子どものころから空想の世界に意識を飛ばすことが習慣だったせいで、空想傾向や持続的空想と呼ばれる内的世界を構築しています。

だからこそ、危機に直面したとき、あたかも内側からだれかが助けに来てくれるかのようにイマジナリーコンパニオンと出会います。

一方、不安型のアタッチメントを持つ人たちは、現実の他者への執着が強いために、空想世界に心を飛ばすようなこともほとんどなく、空想世界を構築してきませんでした。

そのため、自分の内側が空っぽだと気づいたとき、自分でイマジナリーフレンドをどこからか作る必要に迫られます。

内側から呼び出せないものは、外側から手に入れるしかありません。もともと現実の他者ありきの開けた世界に住んでいるため、たとえイマジナリーフレンドを作ったとしても、それだけでは完結できません。

現実の人間関係を切り捨てることはできず、対人過敏傾向はそのままなので、リアルでもネット上でも、しばしば過剰反応したり、意見を闘わせたりと、活発で起伏の激しいやりとりをしがちです。

ここまで見てきたイマジナリーフレンドといつの間にか「出会う」人たちと、イマジナリーフレンドを「作りたい」と考える人たちの性格特性の違いは、おおまかにいえば、以前に記事で取り上げた、解離性障害と境界性パーソナリティ障害の違いと共通しています。

境界性パーソナリティ障害と解離性障害の7つの違い―リストカットだけでは診断できない
境界性パーソナリティ障害(ボーダーライン:BPD)と解離性障害はどちらもリストカットなど共通点があり区別しにくいとされています。その7つの違いを岡田憲一郎先生の「続解離性障害」など

青年期にイマジナリーフレンドを持つ人たちの多くは、解離性障害や境界性パーソナリティ障害と診断できるほど顕著な症状を示さないかもしれませんが、基本的な性格特性は、このいずれかに相当すると思われます。

つまり、無秩序型のアタッチメントや、過剰同調性を土台として、いつの間にかイマジナリーフレンドが存在するようになる解離傾向の強い人たちは、解離性障害に近い存在でしょう。

他方、不安型のアタッチメントを土台として、対人過敏を抱え、心の空虚感や寂しさに敏感で、イマジナリーフレンドを作りたいと考える人たちは、境界性パーソナリティ障害に近い性格特性を有しているといえます。

解離の舞台―症状構造と治療には、境界性パーソナリティ障害(ボーダーライン)と、解離の違いが次のように簡潔に書かれていますが、それはここまで考えてきたことと一致します。

ボーダーラインでは身近な他者と自己とのあいだ、解離では自己内の他者と自己とのあいだで、病理が展開する。(p190)

境界性パーソナリティ障害(ボーダーライン)傾向のある人では、現実の他者やSNS上の誰かを巻き込んだ世界が必須で、気持ちを共有したいという気持ちが強いのに対し、解離傾向の強い人たちは、自分の内部で人間関係が完結しているので、かえって踏み込まれたくないという気持ちのほうが強いのでしょう。

回避型の人のさばさばした世界

ここまで無秩序型アタッチメントによってイマジナリーフレンドと「出会った」人たちと、不安型アタッチメントによってイマジナリーフレンドを「作った」人たちの性格特性や振る舞いの違いを考えましたが、中には、どちらにも当てはまる中間的な人がいるかもしれません。

もともと無秩序型のアタッチメントは、内部に不安型のアタッチメントを含んでいるので、ときには人を求めすぎ、ときには人を恐れすぎるという両極端に振り回されることは十分にありえます。

アタッチメントスタイルはある程度変動しうるもので、その時々の環境の影響を受けるので、年齢を経るとともに振る舞い方が変わっていく人もいるかもしれません。

他方、ここまで見てきた傾向のどちらにも当てはまらない中間的な人もまた存在しているはずです。

特にアスペルガー症候群の人たちは、他者を過度に恐れて避けることも、他者に執着してとらわれることもなく、そもそも他者に関心が乏しい失感情症傾向が強い場合があります。

この場合は、無秩序型でも不安型でもなく、回避型と呼ばれるアタッチメントの振る舞いに近くなるかもしれません。

きっと克服できる「回避型愛着スタイル」― 絆が希薄で人生に冷めている人たち
現代社会の人々に増えている「回避型愛着スタイル」とは何でしょうか。どんな特徴があるのでしょうか。どうやって克服するのでしょうか。岡田尊司先生の新刊、「回避性愛着障害 絆が稀薄な人た

そうした人たちは、イマジナリーフレンドの存在を他者に理解してもらおうと執着することもなければ、踏み込まれたくないと過剰に恐れることもなく、淡々と空想世界と付き合っていくことでしょう。

解離の舞台―症状構造と治療に書かれているように、アスペルガー症候群の人たちが解離しやすいのは、定型発達者のような対人関係の過剰同調性または対人過敏によるものではありません。

解離型ASD者も同じように、そのほとんどが幼少時から「居場所はなかった」と訴える。

しかしASD者にとって辛いのは、こういった定型発達者の他者の攻撃性に由来する「居場所のなさ」とは異なり、そもそも自分はこの社会に落ち着くところがない、馴染むところがないという発達的問題としての「居場所のなさ」である。

定型発達者とASD者では、同じ「居場所のなさ」でもその内実が異なっている。(p104)

アスペルガー症候群では、そもそも他者に対してはあまり関心がなく、生まれ持った感覚統合の弱さのために、社会そのものに対する居場所のなさが生まれ、解離してしまいます。

もともと他の人への関心に乏しく、良くも悪くも空気を読まない、つまりマイペースに振る舞いがちなので、イマジナリーコンパニオンの存在についても、過度に隠すことも、過度にアピールすることもなく独自路線を行くのかもしれません。

しかしアスペルガー症候群でない定型発達者たちの場合は、あくまでも他の人の気持ちに鋭い関心がある上で、それでも現実の他者への不信感や失望から回避的になる場合に、心が分裂するような解離状態が生じ、人格の多重化の土台になるのだと思います。

ところで、イマジナリーコンパニオンや空想世界を有している無秩序型の定型発達者は、一見、回避型に近い性格であるように感じられることがあります。

おそらく空想世界の存在が安全基地として働いているおかげで、不安傾向が弱まり、見かけ上、クールな回避型に近い性格で安定しているのではないかと思います。

わかりやすい「解離性障害」入門によると、青年期にイマジナリーコンパニオンを持っていることで、かろうじて精神のバランスを保っている人たちがちらほらいると書かれていました。

解離性障害の患者さんでは、大人になってもイマジナリーコンパニオンの存在によって心のバランスを保っている場合があります。(p40)

ある意味、その存在が安全基地として支えになっているおかげで、本格的な解離性障害や解離性同一性障害が発症するのを食い止めている状態にあるのかもしれません。

しかし、もしそれらの空想上の安全基地が取り去られるようなことがあれば、安定性が損なわれ、典型的な無秩序型の性格に近づくことでしょう。

これに対して、純粋な回避型の定型発達者は他の人の気持ちにあまり共感しないクールさが特徴なので、たとえ解離症状を経験するとしても、イマジナリーコンパニオンのような空想の相談相手は現れにくいのかもしれません。

自身のアタッチメントスタイルは愛着スタイル診断テストなどである程度判別できますが、あくまで空想世界やイマジナリーコンパニオンがない場合を仮定して設問に回答するなら、見かけ上の補正されたアタッチメントではなく、生まれ育った本来のアタッチメントが判別しやすいと思います。

上記テストだと、この記事で考えてきた解離傾向の強い無秩序型の人は「恐れ・回避型」、不安感の強く境界性傾向のある人は「不安型」や「未解決型」に相当します。

「強い解離」と「弱い解離」は文化が異なる

以前の記事の中で、イマジナリーコンパニオンと「出会う」人と「作る人」は、ちょうどある言語を第一言語として話す人と、成長してからバイリンガルの第二言語として学んだ人のような違いがあるのではないかと書きました。

この記事で扱ったことからすると、それは具体的には、幼少期から解離傾向を持つ人と、成長してから「解離になりたい」と感じる人の違いと言うこともできるのでしょう。

アスペルガー症候群や無秩序型のアタッチメントの人が持っている解離傾向は「強い解離」と呼ばれる一方、境界性パーソナリティ障害の人が示すような軽度の人格のスイッチングは「弱い解離」と呼ばれることを以前の記事で書きました。

PTSDと解離の11の違い―実は脳科学的には正反対のトラウマ反応だった
脳科学的には正反対の反応とされるPTSDと解離。両者の違いと共通点を「愛着」という観点から考え、ADHDや境界性パーソナリティ障害とも密接に関連する解離やPTSDの正体を明らかにし

とすると、イマジナリーコンパニオンといつの間にか勝手に出会ってしまう人は「強い解離」の持ち主であり、心の空虚感や寂しさからそうした存在を求めて作る人は「弱い解離」の持ち主だと言い換えることもできます。

解離という現象はスペクトラム(連続体)なので、あらゆる人に程度の差こそあれ存在しています。

アスペルガー症候群の感覚統合障害や、幼少期の無秩序型のアタッチメントを持つ人は、その傾向がかなり強く、それゆえに自動的に人格が解離され、多重化する傾向があるのでしょう。それがイマジナリーコンパニオンとの「出会い」です。

このタイプの人たちは、もちろん「出会う」ことも「作る」こともどちらもできます。しかし解離が無意識のうちに働きやすいことを考えると、少なくとも最初にイマジナリーコンパニオンと接するときは「出会い」から始まり、その後、別のだれかを「作る」としても、やはり無意識的な性質が強いはずです。

一方、それほど解離傾向の強くない人たちは、無意識のうちに解離して人格が作り上げられることはないのでしょう。だからこそ、意識して自分の心の中の多面性に目を向け、自分の手でイマジナリーコンパニオンを「作る」しかないのだといえます。

この両者は「強い解離」か「弱い解離」かという、同じ解離のスペクトラム上にいるとはいえ、 解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合で書かれているとおり、「強い解離」と「弱い解離」はかなり異なった振る舞いを見せます。

解離性障害における「解離」(強い解離)とは、輪郭が鮮明であり、しばしば健忘障壁があったり別の主体により担われたりしている。

スターンたちの論じる解離はむしろ緩やかな解離(「弱い解離」)である。

…そこで出てくる解離は、もっぱら「弱い解離」であり、解離されている心はいずれ治療その他を通して主体に取り入れられる。そしてあくまでも主体は一つということになる。

つまりスターンの解離理論はそもそも人格部分という考え方を前提としていない。その意味ではまだまだ「精神分析的」なのである。

そのため「強い解離」すなわち解離性障害に悩む人にとっては必ずしも助けにはならないかもしれない。(p82)

ここでのポイントは、「弱い解離」の場合、「あくまでも主体は一つ」ということです。たとえ自分からイマジナリーコンパニオンを作って人格を独立させたように思えても、根本のところで一つです。だからこそ、現実の他者をどうしても必要とします。

他方、「強い解離」の持ち主は、はっきりと別の人格部分の存在を意識しており、「輪郭が鮮明」です。自分はもともと複数であり、自己の内側で世界が完結してしまうのはそのためです。現実の他者にほとんどこだわりません。

「出会う」人と「作る」人の文化の違い

わたしは空想の友だち現象に興味を持ってから、さまざまな本を調べたり、ネット上の当事者たちのブログやSNSを見てきましたが、「出会う」人たちと「作る」人たちの文化には何かしら違いがあるように感じていました。

「出会う」人たち、つまりこのブログで取り上げてきた、精神医学や発達心理学の本の中に出てくる純粋な意味でのイマジナリーコンパニオンを持つ人は、その存在を、自分とははっきり違う他者として認識しているように思えます。

その感じ方は、「強い解離」の最も極端な例である、解離性同一性障害(DID)の人が、自分の別人格に対して感じる気持ちとかなり近いものだと思われます。

以前に書いたとおり、DIDや純粋な意味でのイマジナリーコンパニオンとして別人格を持つ人たちは、別人格を自分と同等の尊厳を持つ一個の人間として捉えています。

別人格を自分の望みに応じて作ろうとしたり、使役しようとしたり、無理やり消そうとしたりはしません。あくまで同等の他人だからです。

解離性同一性障害(DID)の尊厳と人権―別人格はそれぞれ一個の人間として扱われるべきか
解離性同一性障害(DID)やイマジナリーコンパニオン(IC)の別人格は、一人の人間として尊厳をもって扱われるべきなのか、という難問について、幾つかの書籍から考えた論考です。

解離の舞台―症状構造と治療に書かれているとおり、DIDの別人格と純粋な意味でのイマジナリーコンパニオンは、おそらく「強い解離」を土台とした、かなり近い部類の現象なのでしょう。

多くの場合、ICは幼少時だけに見られて思春期になるとほとんど消滅してしまい、以降出現することはない。

しかし、DIDではICと交代人格が密接に関係しているケースも散見され、実際にそうした報告もいくつかある。

DIDとICの関係については、幼少期のICと交代人格の連属性がまったく見られないケースや、ICが幼少期に一過性に見られなくなるが思春期に交代人格としてふたたび出現するケース、幼少期のICが成人期の交代人格へとそのまま連続しているケースなどさまざまである。

DIDに見られる幼少期のICは、困難な状況において本人の身代わりを演じていたり、助言を行なったり、本人を守ったりしていることが多い。

こうしたICの役割傾向は、交代人格に見られる救済者ないしは守護者などへとつながっているように思われる。(p161)

以前に書いたとおり、心の中の別人が、互いに親密な関係にあり、しっかりコミュニケーションできる状態がイマジナリーコンパニオンであり、何かのあつれきのために互いに口を利かなくなっている状態がDIDではないかと思います。

現実の他人が、親友として意思疎通することもあれば、気持ちのすれ違いから秘密を作ってしまうこともあるのと同じです。解離傾向が強くて、別人格が明確な輪郭を持つ他人のように分離しているからこそ、現実の人間と同様の振る舞いを見せます。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中に書かれているように、「強い解離」による別人格は、はっきりとした別人であり、当人の一面としてではなく、「個別に」扱う必要があります。

「強い解離」を扱う場合は、やはり解離された個の人格部分を「個別に」、もう少し言えば「別人として」扱う必要はどうしても出てくる。

解離された側は、主観にとっては「なんとなく」「繭に包まれたように」感じ取られるだけかもしれない。

でも「なんとなく」感じさせている側は、独自にある明確な体験を持っている。

…精神分析における「弱い解離」では、解離している部分からの囁きを問題にする。

ところが解離性障害における「強い解離」では、囁き手と直接かかわる必要が生じるのである。(p90)

他方、ネット上で見かけたイマジナリーフレンドやタルパを「作る」人たちの中の場合、創作の延長線上にあるかのように別人格の設定を考えたり、対等な人間というよりも、うちの子、使い魔といった捉え方をしたりしている人たちもいました。

作成した空想の他者は、自律化していく必要がある、とする説明もありました。これは、現れた瞬間から一個の人格として意志をもって動いている純粋な意味でのイマジナリーコンパニオンにはまったく必要ない過程でしょう。

また、自分自身はハンドルネームを使っているのに、自分の別人格の名前はSNSやブログで公開している人もいました。

もし同等の個人としての尊厳をはっきり意識していれば、別人格のプライバシーを意識して自分と同じように本名を伏せるか、あるいは自分も別人格も両方とも本名を公開するように思います。

扱いに差があるというのは、つまり同等の個人ではなく、あくまで上下関係があるということになります。

もちろん、そうした扱いがおかしい、間違っているというわけではなく、単に認識の違いがある、という意味においてです。

そうした上下関係は、すでに見たとおり、創作に近いもので、作家が自分はペンネームを使いながら、登場人物たちには本名を使って語らせるのと似ているでしょう。

そもそも、別人格との具体的なやり取りを、ブログやSNS上に積極的に公開しているのは創作作品との親和性を感じます。ふつう、現実の友だちとのやりとりは、個人的な日記に残すことはあるとしても、ネット上で不特定多数の人に公開したりはしないからです。

以前の記事で扱ったとおり、作家が作るキャラクターと、イマジナリーコンパニオンは連続した性質を持っているのは確かです。

しかしその連続性は「弱い解離」か「強い解離」かという違いにつながるので、同じものとして論じることはできません。

「弱い解離」によって作られたイマジナリーフレンドは、「強い解離」の人のイマジナリーコンパニオンほど独立した別人としての輪郭を持っていないせいで、自分で設定して作ることもできれば、自分の望みに合わせて変更することもできるのでしょう。

「弱い解離」と「強い解離」には、はっきりと境目があるわけではありませんが、それでも、内なる人格に対する扱い方が、対等な尊厳を持つ他者に似ているか、それともある程度創作的なキャラクターに似ているかは、わりとはっきり現れるのではないでしょうか。

解離の文化を知るために

同じ空想の友だちといっても、これほど「出会う」人と、「作る」人との間に認識の差があるのだとすれば、やはり、それをひとまとめにして扱うのは適切でないように思えます。

空想の友だち現象を、創作の登場人物まで含むものとして定義を広げてしまうと、解離性同一性障害の別人格や本来のイマジナリーコンパニオンを持つ人たちの独特な体験が覆われてあいまいになってしまう可能性があります。

もし意識的に「作る」ものを解離の範疇に含めてしまうと、解離性同一性障害の人格交代は意識的に演じ分けている演技や詐病、自己アピールなのではないか、という批判にもつながりかねません。

それが現に生じている極端な例が、アニメやドラマに出てくる、現実にはありえないキャラ付けとしての多重人格者だったり、イマジナリーコンパニオンをエア友や脳内彼氏(彼女)と同列にみなしたりする風潮でしょう。こうした混同は、解離という体験の本質を歪めて伝えてしまっています。

もちろん、作家が空想の友だちのようにして登場人物を「作る」のは事実ですし、イマジナリーフレンドを意識して作り、その空想を楽しむ人たちには、その人たちなりの体験世界があります。

この記事で考えたとおり、「強い解離」を持つ人たちに独特な世界や文化があるのと同様、「弱い解離」を持つ人たちにも特有の文化がありました。それらは、どちらも興味深いもので、掘り下げて調べる価値があります。

しかし、どちらを掘り下げて調べるにしても、やはり両者をはっきり区別しておかないと あいまいになってしまい、本質を捉え損なうでしょう。

「強い解離」と「弱い解離」の違いは、この記事で考えたように、源流をたどれば幼少期のアタッチメント(愛着)の違いに行き着くのではないか、と考えられます。 

愛着障害の克服~「愛着アプローチ」で、人は変われる~ (光文社新書)とでは、アタッチメントスタイルが違えば、あたかも別の人種のような違いが生じるとされています。

愛着スタイルは、パーソナリティのさらに土台ともいえる部分を動かしている。つまり異なる愛着スタイルの人は、異なる言語と文化をもつ異国人のようなものである。

この点を理解しておかないと、言語や文化の違いを無視して、コミュニケーションをしようとするような無茶なことになってしまう。

すれ違いや誤解が起きてしまうことは必定だ。実際に、いたるところでそうしたことが起きている。

それぞれの愛着スタイルに備わった認知や思考の様式、感情や行動の表出方法の特性を知らないと、相手の真意をとらえ損なってしまう。(p221)

異なるアタッチメントを持つ人たちの文化をまぜこぜに扱ってしまうと、「相手の真意をとらえ損なってしまう」ことになります。

たとえばヨーロッパの文化をひとくくりにしてとらえると、そこにある多様性の本質を捉え損ないます。本当にヨーロッパの文化を理解したいなら、ヨーロッパの各国家や各民族それぞれの文化を個別に理解し、その上で、それらが混じり合った世界について考えなければなりません。

そのようなわけで、やはりこのブログでは、解離とその文化を扱う以上、イマジナリーコンパニオンに「出会う」人と、「作る」人は、別個に分けて考えるのが不可欠だ、ということになるでしょう。

結局のところ、多様性が混じり合った文化を尊重するには、まずそこに含まれる小さなグループそれぞれの文化を尊重し、個々の違いを理解していく必要があるのです。

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