なぜ子ども虐待のサバイバーは世界でひとりぼっちに感じるのか―言語も文化も異なる異邦人として考える


ある若い男性が自らの暗い経験を次のように記述している。

「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる……自分が存在しているのかどうかさえわからない……みんなは花の一部なのに、僕は未だに根っこの一部だ」(p133)

日、わたしは とある講演の中で、性的虐待のサバイバーである女性のエピソードについて話されるのを聞き、戸惑いと違和感を覚えました。

講師は、その女性が自殺衝動と闘いながらひたむきに生き抜いていることに触れ、わたしたちはみな、こうした憂鬱な気分や苦悩に見舞われるとしても、それを乗り越えていくことができる、と聴衆を励ましていました。

確かに勇気づけられるエピソードかもしれません。しかし、わたしはその話に困惑して、同意も共感もできませんでした。

性的虐待をはじめ、子ども虐待のサバイバーが感じる苦悩は、多くの人がふだんの生活の中で感じる憂うつさや不安とは、あまりに異質で種類の違うものです。

冒頭に引用したのは、神経生理学者ピーター・A・ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で述べている言葉です。続く記述にはこうあります。

トラウマを受けた人の多くがいくら頑張っても、善意のセラピストからの援助や思いやりを受け取ることがほぼ不可能なのは驚くにはあたらない

―それを欲していないからではなく、不動状態という原始的な根幹に閉じ込められ、表情やからだの動きや情動を読み取る能力が著しく低下しているからである。

彼らは人類から切り離された存在となってしまうのだ。

子供のころに常識では考えられないような経験をしてきた人は、あまりに普通でない世界に順応して育ち、異質な思考パターンを身に着け、それどころか脳さえもが常人とは違うかたちに発達し、極めつけは、自分が何者なのかさえわからなくなります。

その結果、「彼らは人類から切り離された存在となって」しまいます。サバイバーたちの苦痛は、理解「されない」ことではなく、だれも理解「できない」ほど異質なものであることから生じています。

この記事では、子ども虐待のサバイバーたちの苦痛が、家族にも医者にも理解されず、しばしば否定され、攻撃さえされてきた理由として、サバイバーたちが異なる言語を話し、異なる文化を持ち、異なる世界で育ってきた異邦人である、ということを見ていきたいと思います。

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これはどんな本?

今回の記事では、子ども虐待のサバイバーたちが経験する異質な世界を、サバイバーたちの目線で知るために、さまざまな資料から引用しています。

中心となっている身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法は、このブログで何度も引用してきたトラウマ研究の権威ヴァン・デア・コークの本で、当事者たちの気持ちが生き生きとした言葉遣いで表現されています。

また冒頭でも引用した身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアは、神経生理学者また心理学者のピーター・A・ラヴィーンが、身体の仕組み、心の仕組みの両面から、トラウマの本質を明らかにしていく本です。

本のタイトルが似ていることからもわかるように、この二冊の著者は、同じ分野で共に切磋琢磨してきた友人同士であり、それぞれの本の中で相手の名前を出して、感謝を述べています。

しかし本の内容は、重複したり似通ったりしているわけではなく、それぞれ独自の視点から、個性を発揮してトラウマの問題を掘り下げているので、二冊とも読むなら、多角的な理解が深まります。

(1)異邦人―味方はいない、どこにもいない

「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる」。

冒頭で引用したように、トラウマを負ったある若い男性は、そのような気持ちを抱いていました。

わたしたちはだれしも、孤独を感じることがあります。大きな悩みや問題を抱えて、到底だれもわかってくれない、と孤立無援に感じる瞬間は、多かれ少なかれ、だれでも味わうものでしょう。

一人ぼっちに思えたり、孤独に打ちひしがれたりするのは、どんな場合も辛いものです。それでも、たいていの人は、家族や友だちから気遣いを示してもらうことで、自分が一人ではない、ということを実感できます。

たった一人で闘っているように思えても、だれかが温かい共感と気遣いの手を差し伸べて、深い穴から引き上げてくれるなら、手を取り合って困難に立ち向かっていける。それが本来の人間の姿です。

しかし、子ども虐待のサバイバーが感じる孤独感は、それとは一線を画するたぐいのものです。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ヴァン・デア・コークはある患者との会話を回想しています。

助けを求めて、その教官を訴えたかどうかを私が尋ねると、「道を渡ってクリニックに行くことが、どうしてもできませんでした」と彼女は答えた。

「なんとしても助けが欲しかったのですが、道のこちら側に立ち尽くしたまま、もっと傷つくだけだと心の奥底で感じました。

実際、きっとそうなったでしょう。もちろん、この出来事は隠さなければなりませんでした。親にも、他の誰にも」(p222)

この女性は、子ども時代の性的虐待のサバイバーであり、その後、大学でも性被害を受けました。

しかし、どちらの被害についても、助けを求めて親や友人に頼ることも、医師に相談することもできませんでした。

そうする気力がないほど痛めつけられていたからでしょうか。打ち明けるのが恥ずかしく感じられたからでしょうか。

いいえ、そうした気持ちもあったかもしれませんが、なんとしても助けがほしかったのに、だれにも相談できなかったのは、そうしたところで、「もっと傷つくだけだと心の奥底で感じ」たからでした。

子ども虐待のサバイバーにとって虐待されたときの痛み、当惑、恐怖、悲しみ、怒り、それらはいずれもひどくショッキングなものですが、それよりもはるかに大きな爪痕を残すのは、だれも味方になってくれず、どこにも逃げ場所がない、という孤立感です。

安全な世界に適応した大多数の人たち

通常、わたしたちは、だれも味方がいない、どこにも逃げ場がない、というほどの絶望感にとらわれることはありません。

人間はもともと社会的な生き物だと言われます。 身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、他の人を支えたり親切にしたりすることは、わたしたちに広く見られる特徴です。

私は数年前、ハーヴァード大学の名誉教授で著名な児童心理学者であるジェローム・ケーガンがダライ・ラマに、この世の残虐行為の一つにつき、親切とつながりの何百という小さな行為があると語るのを聞いた。

ケーガンはこう締めくくった。「おそらく、意地の悪さではなく善意こそが、私たちの種の特徴なのでしょう」。

他者といっしょにいて安全だと感じられることが、おそらく、メンタルヘルスの最も重要な一面だろう。(p131)

大部分の人は、本質的なところにおいて、「他者といっしょにいて安全」だと感じています。心の底では、「親切とつながりの何百という小さな行為」が、この世界では当たり前だと理解しているからです。

もし、本当に他の人が信頼できず危険な存在だと思っていたなら、わたしたちは皆、家を出るときには戦闘服を身に着けて、武器を携帯し、なによりもまず人と出会わないよう細心の注意を払うでしょう。電車でだれかの隣に座るなんてもってのほかです。人に近づけば殺されるかもしれません。

しかし、この社会の大多数を占める人たちは、決してそうではなく、進んで他の人と関わります。さまざまな問題を抱えることはありますが、全体としてみれば そこそこ恵まれた環境で育ち、安全な世界に適応した人たちです。

日々の生活の中でそんなことを自覚しない人がほとんどですが、当たり前だからこそ気にも留めないのだ、と言えます。

基本的信頼感のない世界で育つ

ところが、子ども虐待のサバイバーたちは、それとはまったく違う異質な世界で育ちます。

「この世の残虐行為の一つにつき、親切とつながりの何百という小さな行為がある」のだとすれば、世の中の大半の人が、親切やつながりを感じられる まずまず良い環境で育つのに対し、 ごく一部の人は、幼いころに残虐行為の一つに遭遇するはずです。

不幸にも、そのような残虐行為に出くわしてしまった人、その最たるものこそが、子ども虐待のサバイバーだといえます。

子ども虐待のサバイバーたちは、生後間もないころから、親のまともな世話を受けられないことが少なくありません。生まれてすぐに、親から愛情に満ちたふれあいを得られないなら、人間一般に対する安心感が育まれません。

大多数の人が、武器も持たずに外出して、見知らぬ人の隣に座ることもできるのは、本質的なところにおいて、「他者といっしょにいて安全」だと感じているからだと先に書きました。この安心感は「基本的信頼感」と呼ばれ、ごく幼い時期の養育によって育まれます。

誰も信じられない、安心できる居場所がない「基本的信頼感」を得られなかった人たち
だれも心から信じられない、傷つくのが怖い、安心できる居場所がない。そうした苦悩の根底にある「基本的信頼感」の欠如とは何か、どう対処できるのか、という点を「母という病」という本を参考

基本的信頼感が育っていないということは、この世の中のありとあらゆる人に対して危険を感じ、一時たりとも自分をさらけ出したり、安心して心を通わせあったりできない、ということを意味しています。

「基本的信頼感」を持っている大多数の人が「ひとりぼっちに感じる」気持ちと、「基本的信頼感」がないサバイバーが「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる」気持ちはまったく異質な物です。

それはちょうど、インフラが整った大都市で生まれ育った人が、突然の災害によってひどい不自由を味わうことと、インフラも何もない発展途上国で生まれ育った人が、長引く乾季によって、飢えや渇きに苦しむことの違いのようなものかもしれません。

どちらの人も、紛れもなく苦しさを感じていますが、前提がまったく違っているので、同列に置いて比較することはできません。大都市で災害に見舞われた人の経験は、発展途上国で飢えや渇きを乗り越えてきた人の経験と同じものではありません。

世の中の大多数の人が感じる気持ちと、子ども虐待のサバイバーが感じる気持ちもまた、それと同様に異質なものです。

冒頭で触れた、わたしが聞いたある講演の話し手は、その違いを見過ごしていました。

その講演者を含む世の中の大多数の人に比べれば、子ども虐待のサバイバーは、まったく生まれ育った世界が違う異邦人のようなものなのに、それに気づいていませんでした。

小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)の中で、混乱した家庭で育ったジョンという男性が述べていた次の経験は、サバイバーたちが感じる異邦人のような孤独を悲痛に物語っています。

30代前半で心から愛せる女性と出会った。付きあいはじめて一年がたったころ、彼女の家に招かれて家族を紹介された。ジョンは滞在中の出来事を語る。

「僕が耐えてきた恥辱や非難とは縁のない世界で育った子どもたちは、まったく違うことを思い知らされました」。

ある晩、彼女と姉妹、そのボーイフレンドたちが踊りに出かけることになった。

「みんな食卓を囲んで楽しい夜の計画を立てていました。いまでも覚えています。彼女の家族の顔を見ながら、そのとき僕が思ったのは“自分はここにいるべき人間ではない”ということだけでした。

みんなごく当たり前のように楽しそうだった。そして、自分も調子を合わせて幸せな家族の一員になれるふりをすることを考えて、ふいに怖くなりました」(p27)

ジョンは急に泣きはじめて、涙が止まらなくなりました。彼女は慰めようとしてくれましたが、ジョンは気持ちを打ちあけることができませんでした。彼の抱えている苦悩と孤独はあまりに複雑すぎて、最愛の女性でさえ理解しえないと悟ったからです。

逃避不能ショック、そして学習性無力感

子ども虐待のサバイバーたちは、単に一度や二度、孤立感を感じるだけでなく、虐待されたときから、その後の家族関係、さらには学校生活、ひいては人生のありとあらゆる段階で、孤立感を味わうことになります。

子ども虐待を経験した人たちは、まず、虐待のさなかに、自分は本質的にひとりぼっちで、この世界には、味方が誰もいないのだ、ということをまざまざと脳裏に刻みつけられます。

ポジティブ心理学の生みの親であるマーティン・セリグマンと共同研究者のスティーヴン・マイヤーは、「学習性無力感」という現象を発見したことでも知られています。

以下の記事で説明したように、学習性無力感とは、どれだけ努力しても成果が得られない経験を繰り返したせいで、最初から努力するのをあきらめてしまうようになる、という現象です。

難病や試練を乗り越える人の共通点は「統御感」ー「コップに水が半分もある」ではなく「蛇口はどこですか」
難病など極めて困難な試練から奇跡の生還を遂げる人たちは、共通の特徴「内的統制」を持っていることが明らかになってきました。「がんが自然に治る生き方」「奇跡の生還を科学する」などの本か

マイヤーとセリグマンは、動物の学習性無力感について研究したとき、それがどうやっても逃げられない極限状態のもとで脳に刻みつけられることに気づきました。 

残酷な実験ですが、逃げられないよう檻の中に閉じ込められ、電気ショックを繰り返し与えられた犬たちは、扉を全開に開けても、もはや逃げようとしなかったのです。

マイヤーとセリグマンは、このような極限状況を「逃避不能ショック」と呼びました。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、この危機的状況は、ただ実験室の中だけで起こる特別なものではありません。

「逃避不能ショック」は現実の世界で、家庭という密室の中で、人間の子どもたちに対してなされる虐待と同じものです。

彼とセリグマンたちが哀れな犬たちにやったのとまさに同じことが、トラウマを負った人間の患者たちの身に起こっていた。

私の患者たちも、恐ろしい害―避けようのない害―を彼らになす人(あるいはもの)にさらされたのだ。(p58)

わたしたちは、危険にさらされたとき、おおまかに言って二種類の選択肢のどちらかを選びます。ひとつは戦ったり逃げたりする活動的な反応、もうひとつは、すべてをあきらめ、凍りついたり気絶したりする無活動な反応です。

戦争や災害、事故などの場面では、どちらかというと前者の活動的な反応が生じやすいでしょう。動き回ることで、生き残れる可能性があるからです。

しかし、強制収容所体験や拷問、性的暴行など、逃げ場がない状況、つまり「逃避不能ショック」では、後者を選ぶしかなくなります。そして、そのような状況の最たるものが、家庭という密室で行われる子ども虐待です。 

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアにはこう書かれているとおりです。

レイプの場合、戦うことと屈服することのどちらが最善かは明らかでない。

しかし、扶養下にある子どもが性的虐待を受けた場合、屈服する以外の選択はほぼ存在しない。(p110)

子ども虐待の被害者は、子どもであるがゆえに、そして加害者が大人であるがゆえに、さらには、加害者が自分の命のすべてを左右する扶養者であるがゆえに、どうあがいても逃げられないことに気づきます。

助けを求めようとするかもしれませんが、だれも何が起きているか気づきません。その「逃避不能ショック」によって、サバイバーは、実験室の犬たちと同じように、「学習性無力感」に至ります。

サバイバーたちは、何を学習するのでしょうか。助けを求めても無駄なこと。そして、この世界には、自分を助けてくれる味方など、どこにも存在しないことをです。

追い打ちをかける否定と裏切り

子ども虐待のサバイバーに加えられる仕打ちは、まだ終わっていません。むしろ、ここまではほんの入口にすぎません。

たとえ子ども時代に、性被害のトラウマや、衝撃的な体験をしたとしても、それだけで生涯続くほどの苦悩がもたらされるわけではありません。

PTG 心的外傷後成長―トラウマを超えての性的虐待のサバイバーについての章には、次のように書かれていました。

前述のように、外傷的出来事を体験した子どもすべてにゆがみや心身反応・症状が表出するわけではない。

今回の事例では、彼女は特段専門家の援助を受けてきたわけでもなく、中学校・高校・大学と性的虐待に対する目立った心身反応・症状を表出することなく社会適応してきた。

それは、彼女の優れた自我機能、知的能力によって高度な防衛機制を働かせてきたに加えて、高校時代からの唯一無二の女友だちが彼女を支えてきたからだと思われる。(p123)

信頼できる人やサポート環境等によってトラウマやPTSDに至らないことや、むしろ、その体験を通して人間的な成長が促進されることさえある。(p126)

ショッキングな経験をした子どもでも、その後、愛情に満ちたケアを受けられれば、生来の回復力を発揮し、傷を癒やしていくことが可能です。

マイヤーとセリグマンは、ひとたび逃避不能ショックを経験した犬たちも、そこから逃げられるということを体で実感できるようにしてやると、学習性無力感から抜け出せることを発見しました。

子どもたちもまた、虐待を受けている最中は逃避不能で助けが現れなかったとしても、それが特殊な状況にすぎなかったことを理解できれば、人への信頼を取り戻していけるでしょう。

しかし、子ども虐待で最も悲劇的なのは、虐待されている密室の中で味わう孤独よりも、そこから出た広い世界で味わうことになる否認と裏切りです。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法には、子ども虐待のサバイバーが味わう否認と裏切りについて、こう書かれています。

ローランド・サミットは、彼の古典的論文「児童性的虐待順応症候群」にこう書いている。

「イニシエーション、脅迫、汚名、孤立、無力感、自己非難は、児童の性的虐待の恐ろしい現実に基づいている。

子供がその秘密を漏らそうとすれば必ず、大人たちの沈黙と不信の共謀に出くわす。

『そんなことは、心配しなくていいよ。うちでは絶対起こるはずがないから』

『いったいどうやったらそんな恐ろしいことを考えつくんだろうね』

『二度とそんなことは口にするんじゃありません!』

普通の子供は、けっして尋ねたり語ったりしない」(p218)

虐待者の密室から出た子ども虐待のサバイバーたちを待ち受けているのは、大人たちの裏切りと共謀です。

大人たちからしてみれば、子どもが勇気を出して打ち明けた、胸の悪くなるような話は、大人をかつごうとして考えだした悪趣味な冗談のようにしか感じられません。それできつく注意したり、聞く耳を持たなかったりします。

その実態については、こちらの記事にも詳しく書かれています。

誰も語らない、子どもの「性的虐待」の現実 | 家庭 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

植田:被害は認識できて初めて被害になると思います。でも、子どもだと、何が起きているのかわからないことが多いのです。

勇気を振り絞って親や友達に話しても、嘘だと思われ信じてもらえなかったり、「汚い」と言われたり 、ますます傷が深まって本当のことが言えなくなる。

被害者は口をそろえて「普通の子でいたい」「重いからと引かれたくない」と言うのです。被害を受けた側が周囲に気を使っている。

「魂の殺害」である性虐待・性暴力の7つの後遺症―子どもが性被害を受けた時の対処法とは?
性被害の後遺症としての愛着障害やPTSD、解離性障害について、そして子どもが性的被害に遭ったときに保護者ができる対処についてまとめました。

大人たちの大多数は、「親切とつながりの何百という小さな行為」が当たり前の世界で育ってきました。

自分の身近なところで、自分の家庭で、「残虐行為の一つ」が生じるなど、信じられないし、想像することも汚らわしく感じられます。ましてや子どもが加害者として告発したのが、親族や尊敬されている人ならなおさらです。

勇気を出して打ち明けたにもかかわらず、拒絶され、傷つけられた子どもたちは、大人に助けを求めてはいけないのだ、ということを悟ります。

そもそも、これは助けを求めるような問題ではなく、自分が受けて当然の仕打ちだったのだ、と思うようになることもあります。自分が何か悪いことをしたから、あるいは生まれつき価値がなかったから罰せられているだけなのだと。

子ども虐待のサバイバーたちは、否認と裏切りに直面したとき、狭い密室の中で経験した逃避不能ショックと学習性無力感は、決して例外的なものではなかったのだ、と考えます。

つまり、この広い世界のどこにおいても、自分は逃避不能であり、この世にいる幾千幾万の人の中にさえ、助けを求めたときに答えてくれる人はいないのだ、ということを学習します。

自分の経験したことを誰かに打ち明けるなら、慰めてもらえるどころか、罰せられたり、否定されたり、叱られたりするのを実感しました。何度やってもそうでした。

だからこそ、ヴゥン・デア・コークの患者となった女性はこう言っていたのです。

「なんとしても助けが欲しかったのですが、道のこちら側に立ち尽くしたまま、もっと傷つくだけだと心の奥底で感じました。

実際、きっとそうなったでしょう。もちろん、この出来事は隠さなければなりませんでした。親にも、他の誰にも」(p222)

彼女は、これまでの人生のすべてをかけて、逃避不能ショックの中で無力感を学習してきたのです。

味方はいない。どこにもいないと。

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(2)母語―「トラウマと虐待の言語を理解しないかぎり」

子ども虐待のサバイバーが育ってきた世界は、世の中の大多数の人が育ってきた世界とは別ものです。

世界が違えば、当然、言葉も違います。

愛着障害の克服~「愛着アプローチ」で、人は変われる~ (光文社新書)という本の中で、幼少期の経験から愛着の不安定さを抱えた人は、あたかも「異なる言語と文化をもつ異国人のようなもの」だと書かれていました。

愛着スタイルは、パーソナリティのさらに土台ともいえる部分を動かしている。つまり異なる愛着スタイルの人は、異なる言語と文化をもつ異国人のようなものである。

この点を理解しておかないと、言語や文化の違いを無視して、コミュニケーションをしようとするような無茶なことになってしまう。

すれ違いや誤解が起きてしまうことは必定だ。実際に、いたるところでそうしたことが起きている。

それぞれの愛着スタイルに備わった認知や思考の様式、感情や行動の表出方法の特性を知らないと、相手の真意をとらえ損なってしまう。(p221)

以前の記事に書いたように、子ども虐待のサバイバーたちは、4種類ある愛着パターンの中でも、もっとも異質で混乱した、無秩序型という愛着パターンを身につけることで知られています。

「異なる愛着スタイルの人は、異なる言語と文化をもつ異国人のようなものである」とするならば、虐待のサバイバーの言語と文化は、世の中の大多数の人からは想像もつかないほど異なっているということになります。

同様に、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中でヴゥン・デア・コークも「トラウマと虐待の言語を理解しないかぎり」虐待のサバイバーたちの生きている世界を理解することはできない、と書いています。(p233)

時間の概念がない言語

世の中には、さまざまな種類の言語があります。一説によるとその数は7000種類近くになるそうです。

言語の中には、互いによく似ているものもあります。身近なところでいえば、日本語と中国語は漢字という文字を共有していますし、ヨーロッパの各言語も互いに似通った単語を持っています。

こうした言語の違いは、不思議なことに、文化ごとの思考の違い、概念の違いにも深い影響を及ぼします。

たとえば脳の中の時間旅行 : なぜ時間はワープするのかによると、言語体系の違いは、時間という概念の捉え方を形作るのに一役買っています。

アラビア語やヘブライ語は、右から左に書く。それならアラビア語やヘブライ語を話す人は、過去、現在、未来を、どのような順番で並べるのだろうか? その答えは、過去が右、現在は真ん中、未来は左だった。英語を話す人とは対照的だ。(p113)

中国語を話す人は、住まいが台湾でもカリフォルニアでも、英語を話す人の八倍も、時間を垂直に並べることが多く、過去の出来事を示すときは上を、未来のことは下を指さした。…中国語はもともと縦書きで、右から左に進んでいく言語だった。(p113)

時間という抽象的な概念がどちらからどちらに流れるか直感的に理解するとき、わたしたちはどうやら無意識のうちに書き言葉の方向に影響されているようです。

主要な言語だけをとってみても、さまざまな概念の違いを生み出しますが、中には極めて異例な言語も存在しています。

たとえば、アマゾンのアモンダワ族には、なんと時間を表す言葉がありません。

またピダハン族(ピラハ族)の言語にも、過去や未来を表す語彙がありません。語彙がないということは、そのような概念もない、ということを意味しています。

意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス)には、こう書かれています。

興味深い例外は、ブラジル・アマゾナス州に住む辺境の民、ピダハンだ。

伝道師のダニエル・エヴェレットは、彼らの言語を学び、聖書を彼らの言葉に翻訳するために現地に赴任した。

彼は、ビダハン人の言葉が、西洋文化圏の基準から見て貧しいことを発見する。語彙が少なく、過去や未来について話すときには間接的な表現しかできないのだ。

エヴェレットによれば、彼らは架空の話をせず、天地創造の伝説も神話ももたない。

ピダハン語には、過去や未来を表す言葉がないゆえに、彼らは架空の話をせず、物語も持っていません。それはつまり、彼らの思考や生活もまた、わたしたちとはかけ離れたものであることを意味しています。

もちろん、この記事の論点は、特殊な言語や、それを操る民族についてではありません。そうした話はこちらの記事に譲ります。

ダニエル・タメットが語る「ぼくと数字のふしぎな世界」―人間の本質は無限の多様性の中にある
ダニエル・タメットのエッセイ集「ぼくと数字の不思議な世界」から人間が持っている多様性について考えてみました。

しかし、言語が違えば思考や概念が異なり、生活の仕方までまったくの別物になってしまう、というアモンダワ族やピダハン族の例は、比喩的な意味でサバイバーたちに当てはまります。

永久にトラウマの瞬間に閉じ込められる

この本の続く部分で、ピダハン語がこの特殊な特殊を持つようになったことには、奇妙な理由があるのではないか、と推測されています。

ところが、ピダハン語はムーラという別の言語と関係していて、ムーラ語には明らかに過去にかかわる記録が多い。

ということは、ピダハンがある時点でムーラ人から分かれて共通の歴史を失い、自分たちの過去まで抑圧しているように思われる。(p124)

彼らの話す言語において、過去や未来の概念がなくなってしまったのは、何らかの過去を記憶から抹消するためだったのかもしれません。

つまり、過去に何らかの強烈な民族的なトラウマを経験したせいで、過去や未来について話すことが無意識のタブーになってしまい、いつしか、そうした語彙が消え失せたのだともみなせます。

トラウマを負った人々は、個人として、これと似た現象に直面します。

ピーター・ラヴィーンは トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復「トラウマのただなかでは、過去と違う未来を想像できない」と書きました。(p153)

彼は身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアでも次のように書いています。

人生が短縮した感覚、言葉を失うほどの絶望の感覚は、深刻なトラウマの中心的な性質である。

この人は過去の恐ろしい痕跡の中にすっかり閉じ込められてしまっていて、過去とは違う未来を想像することができないのである。(p205)

トラウマのサバイバーたちは、時間についての正常な感覚が働かず、過去や未来について、理性的に考えることができなくなります。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法では、このとき、トラウマ患者の脳で、背外側前頭前皮質という領域が停止しているとされています。

この領域が作動しなくなると、人は時間の感覚を失い、過去、現在、未来の感覚がないまま、今の瞬間に閉じ込められてしまう。(p116)

私たちは背外側前頭前皮質のおかげで、現在の経験が過去とどう関係しているかや、将来にどう影響するかもしれないかがわかる。

したがって、背外側前頭前皮質は、脳の時間管理者と考えてもいい。何が起こっていようと、そこには自ずと限界があり、遅かれ早かれ終わりが来ることがわかっていれば、たいていの経験には耐えられる。

その逆も正しい。すなわち、状況は、いつ果てるとも知れぬように感じられれば耐え難くなる。…トラウマは「これが永遠に続く」という究極の体験と言える。(p116)

トラウマを負った人たちは、時間感覚が麻痺し、凍りついた時のさなかに閉じ込められています。

サバイバーたちは、虐待から解放され、もう危機が去った後でさえ、あたかも今まさにトラウマのさなかにいるかのような反応を示します。つまり、過去や未来という概念が存在せず、トラウマにとらわれた今が永遠に続いています。

永遠にトラウマのさなか、密室の中で虐待されている時間に閉じ込められているせいで、サバイバーたちは、大多数の人とはまったく違った視点で世の中を見ています。

ロールシャッハテストからは、トラウマを負った人は他の人とは根本的に違うふうに世の中を眺めていることもわかった。

たいていの人にとって、道をやって来る人は、ただの歩行者にすぎない。だがレイプの被害者は、今にも自分を性的に虐待しようとしている人と捉え、パニックを起こすかもしれない。

厳格な教師は、平均的な子供にとっては威圧的な存在かもしれないが、継父にさんざん殴られている子供には拷問者のように見えかねず、その子は急にかっとなって襲いかかったり、恐れおののいて部屋の隅で身をすくめたりするかもしれない。(p36)

サバイバーたちは、脳の時間管理者が機能停止しているせいで、永久に逃避不能ショックの状況から抜け出せないでいます。彼らの身体は、自分が今まさに虐待されているかのように振る舞いつづけます。

フリーズした記憶は過去の物語にならない

永久にトラウマ体験の時間に閉じ込められてしまうのは、あまりに衝撃的なトラウマ記憶を自分のものとして統合できず、「解離」が生じているせいです。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法には、フロイトと同時代の医師ピエール・ジャネによる、次のような説明が引き合いに出されています。

ジャネは、自分の患者に見られるような、記憶の痕跡の分離や孤立を表すために、「解離」という言葉を造った。

…「彼らはトラウマ記憶を統合できないため、新たな経験を取り込む能力も失ってしまうらしい。

それは……あたかも彼らの人格がある時点で完全に凝り固まり、新たな要素を加えたり取り込んだりしてそれ以上拡大することができないかのようだ」。

彼らが分離された要素に気づき、過去に起こったものの今はもう終わった出来事としてそれらを一つの物語に統合しないかぎり、個人生活でも職業生活でもしだいに正常に機能できなくなっていくことを、ジャネは予想した。(p297)

トラウマ記憶を統合できないために「ある時点で完全に凝り固ま」る、つまりフリーズしてしまうのが、解離の状態です。

トラウマをヨーガで克服するにも、やはり解離によって時間感覚が失われ、時が停止してしまうことがこう書かれています。

解離もまた、その人の“時間を無駄にさせてしまう”が、それは本人には自覚がないままに時が過ぎ去る現象である。

ヴァン・デア・コークは、「時間の〈外〉に住み、繰り返しトラウマの再現の中にはまり込んで、決して終わることがないように感じられる」地点にまで至るトラウマ・サバイバーに、しばしば言及している。(P90)

この、時間が停止し、「決して終わることがないように感じられる」状態は、パソコンを使っているとき、ファイルの処理の途中で、何らかのエラーが生じて、フリーズしてしまうことにたとえられるでしょう。

サバイバーは、トラウマ記憶が、あまりに危険で処理できないがために、永久に「処理中」、つまりフリーズ状態にあります。

危機は去っているはずなのに、処理が凍結されているので、今まさに逃避不能ショックのただ中にあるかのように身体が反応してしまいます。永久にトラウマの瞬間の中に閉じ込められてしまうので、過去や未来といった概念がなくなり、「時間の〈外〉に」閉め出されます。

処理が完了していないファイルは開けません。トラウマ記憶も正常に処理できてはじめて過去の物語になりますが、いつまでも「処理中」だと、記憶に統合されないので、思い出すことができません。この状態が記憶の「解離」です。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際によれば、トラウマのサバイバーが経験するさまざまな身体症状は、脅威に面した瞬間のまま時間が止まっていて、未完了に終わった同じ処理を繰り返していることからくると書かれています。

動きをともなう防衛反応ができなかった体験により、人は失敗した防衛行動をくり返し、トラウマの解決を延ばし、トラウマの苦しい症状を悪化させることになります。

あたかも時間がそのときの脅威のまま止まったかのようであり、そして、身体はトラウマ時の出来事を再現し続けます。

すなわち、脅威が認められ、動きのある防衛システムが刺激され、それから突然停止して、持続性の調節不全の覚醒と、凍りつき防衛、虚脱と麻痺が続くのです。

トラウマ的記憶が活性化するたびに、クライエントは、防衛的な反応が身体的に開始されそうになり、そのまま止まってしまうのを体験するかもしれません。(p349)

トラウマのサバイバーが苦しむ症状の多くは、トラウマの瞬間のまま時間が止まってしまい、永久に未完了の防衛行動が繰り返されて「処理中」のままフリーズしていることで生じます。

ある人は脅威に直面したとき、パニックになって過覚醒に陥ります。そのまま時間が止まったのがPTSDです。

別の人は、脅威をやり過ごすため、意識を飛ばして身体を麻痺させます。そのまま時間が止まったのが解離性障害です。

こうして虐待のサバイバーの脳で起こっている時間の凍りつきについて考えてみると、それはどうやら、ピダハン語が置かれていた状況によく似ていることがわかります。

ぼくと数字のふしぎな世界に書かれているように、ピダハン族の文化には物語という概念がありません。彼らの世界では、過去の記憶が物語にならないために、終わりのない「いま現在」が永久に続いています。

だから彼らは物語を語らず、神話を持たないのだ。物語には、少なくともぼくたちが理解している「物語」には、時間の流れがある。

…しかし、ピラハの人たちはいま現在のことしか話さない。彼らの行動に影響を与える過去がない。考えを刺激する未来がない。

過去では「なにも起こらない、だからあらゆることが同じだ」と彼らはエヴェレットに語っている。(p39)

子ども虐待のサバイバーたちもまた、自身の体験を統合して過去の物語にすることができません。

トラウマ記憶は、処理が完了してはじめて過去の物語として保存されます。永久に「処理中」でフリーズしているなら、脳はそれがもう終わったものだと認識できず、いま現在の脅威とみなし続けます。

だからこそ、虐待のサバイバーの治療法のひとつは、衝撃的な経験をすでに終わった過去の物語として統合できるよう、記憶の処理を助けることだと言われています。

人は戦争が集結すれば、戦没者の慰霊碑を立てます。家族が死ねば、喪の儀式を執り行い供養します。そうした儀式は、いずれも、辛い体験にけじめをつけ、もう終わった過去のものとして区切りをつける役割があります。

トラウマ体験は、もう終わった過去の物語として処理され、記憶に統合され、供養され、けじめをつけられたときにやっと終わりを迎えます。それがなされなければ、永遠にトラウマ体験の「今」が続いてしまいます。

もしも、ピダハン語から未来や過去といった語彙が消え去ったのは、過去の何かしらの衝撃的な出来事が処理できず、民族の歴史から切り離されて凍結された結果なのだとすると、子ども虐待のサバイバーが身につける「虐待の言語」は、それと似たようなものかもしれません。

衝撃的なトラウマ記憶を、自分の過去の一部として統合できないために、過去や未来について考えられなくなってフリーズしてしまう、そしてそれゆえに、異質な思考パターンにはまり込んでしまった状態が、子ども虐待のサバイバーたちだといえます。

覚えておきたいのは、この時間感覚の凍りつきが異常また病気と呼べるかどうかは疑問が残る、という点です。おそらく、この過去も未来もない状態は、異常ではなく適応とみなすほうが理にかなっています。

解離とは脳を守るための防衛機制であり、トラウマのサバイバーが未来や過去を考えられなくなってしまうことも、脳を守るための働きの一つとみなせます。

受けたトラウマが、今の自分にとってあまりに危険で処理できず、脳が耐えられないと無意識のうちに判断されたがゆえに、あえて処理しないまま凍結することで身を守っているのでしょう。

子ども時代に凄惨な虐待を経験した解離性同一性障害(DID)の当事者オルガ・トゥルヒーヨが、私の中のわたしたち――解離性同一性障害を生きのびての中で述べているように、解離とは「治療で回復し、十分に受け入れられるようになるまで」あえて記憶に鍵をかけ、処理を凍結する機能なのです。(p18)

とはいえ、それが自ら身につけた適応であったとしても、トラウマのサバイバーたちが、普通とは異なる時間を生きていることは疑いようがありません、

言ってみれば、世の中の大多数の人と、子ども虐待のサバイバーとの間には、日本語や英語のような主要な言語を話す人と、アマゾン奥地の極めて異例な言語を話す人との間にある文化や概念のギャップほどの大きな隔たりがある、ということです。

仮にもし、アマゾンの奥地で生まれ育った少数民族の人が、いきなり日本の大都市のど真ん中につれてこられて、何の助けもないまま置き去りにされたとしたら、どう感じるでしょうか。

子ども虐待のサバイバーたちが、この広い世界の中で感じる孤独と絶望は、それと似ているのかもしれません。サバイバーたちはまさに「異なる言語と文化をもつ異国人のようなもの」なのです。

個人レベルの解離と、民族レベルの解離がとてもよく似ているということについてはこちらでも扱っています。

(3)文化―それでもそこが生まれ故郷

内戦などで祖国を追われ、難民になった人たちは、しばしば、生まれ育った国で、想像を絶する辛い思いをしてきました。

それでも、何の妨げもなく祖国を捨てて、逃れた先の国にすぐ馴染んで、新しい人生を始められるわけではありません。たとえ辛い記憶があろうと、自分たちが生まれ育った場所は特別なものです。

子ども虐待のサバイバーたちにとってもそうです。外部の人たちから見れば、どれほど異常な環境に思えても、子どもたちにとっては、生まれ育った環境は唯一無二のものです。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にはこう書かれています。

子供は、たとえ養育者に虐待されたとしても、その養育者に基本的には忠実であるようにプログラムされてもいる。

恐怖は愛着の必要性を増大させる。慰めのもとが恐怖のもとであるときでさえ、そうだ。

家庭で痛めつけられたにもかかわらず(そして、それを物語る骨折や火傷を抱えていながら)、選択肢を与えられたら、里親に預けられるよりも自分の家族のもとにとどまることを選ばないような10歳未満の子供に、私は出会ったためしがない。(p221)

子ども虐待のサバイバーたちは、特に低年齢である場合、たとえ虐待する家庭から引き離されても、その環境へ戻ろうとします。どれほど異常な家庭、また親であっても、そこで生まれ育った子どもにとっては、それが当たり前、普通のものだからです。

例えば、食べ物の文化について考えてみてください。日本の大都市で生まれた人の中には、いなごや幼虫を炒って食べるアフリカや南米の食生活を見て、拒否感を覚える人もいるかもしれません。

けれども、外国で生まれた人にとっては、逆にエビやシャコ、生魚などを食べる日本の食文化のほうが異様に思えるかもしれません。

どちらの場合も、外から見れば奇異に思えるかもしれませんが、そこで生まれ育った当人にとっては、ごくごく当たり前のもので、違和感もありません。大人になっても、自分が慣れ親しんだ文化には疑問を感じないものです。

それと似たことが、子ども虐待のサバイバーにも生じます。外から見れば、奇異な環境で育ったのに、自分ではそれが普通だと思ったまま成長し、大人になっていくのです。

いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳に、こう書かれているとおりです。

親の「しつけ・教育」が虐待であるならば、それは幼児が生まれてきてからの生活そのものが虐待という現象の中に組み込まれているということを意味する。

つまり、幼児にとって虐待とは“非日常”ではなく、紛れもない“日常”の姿なのである。森田はこれを家庭内の“文化”であると表現している。

われわれからみたら、虐待というのは非日常的で普通ではない状態である。

しかし被虐待児は「日常的で普通の生活」を経験したことのない者がほとんどであるから、たとえそれがストレスフルな状況であっても、その環境を疑うことができない。(p107-108)

ごく普通の家庭で生まれ育った人たちから見れば、子ども虐待の家庭は異常な環境に思えるとしても、そこで生まれ育った人にとっては、その文化こそが当たり前であり、祖国なのです。

平和な日常に適応できない

わたしたちが、自分の国の文化に馴染んで、たとえ外国から見れば奇異に思える習慣でも、疑問を抱くことなく受け入れているのは、生まれ育った環境に適応する力を持っているからです。

異常な家庭で生まれ育った人たちもまた、時たつうちに心身ともに異常な環境に馴染んでいきます。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法には、虐待された子どものストレスホルモンの変動についてこう書かれています。

最初の評価のときには、参加者全員がストレスホルモンであるコルチゾールの値の上昇を見せたが、三年後には、虐待を受けた参加者が一年間で最もストレスを感じた出来事を報告したとき、コルチゾール値は下がった。

時がたつうちに、体が慢性的なトラウマに順応するのだ。

麻痺状態に陥ったときの結果の一つは、本人は気が動転しているのに、教師や友人、その他の人がなかなか気づかなくなることだ。本人さえもが認識していないかもしれない。

麻痺状態に陥ると、たとえば身を守る行動をとりそこなうなど、苦悩に対してしかるべき反応をしなくなる。(p271)

虐待された子どもは、最初はその異常な環境に激しく反応してストレスホルモンが上昇するかもしれませんが、「時がたつうちに、体が慢性的なトラウマに順応」していきます。

別の記事で書いたように、コルチゾールの値が低下することは、トラウマ反応に終止符を打てなくなることを意味しています。言い換えれば、トラウマ下の身体の反応が、日常的なものへとすり替わるのです。

順応するのは身体だけではありません。心もまた麻痺してしまい、異常な環境を当たり前と感じてしまうようになります。

それは、たとえば性的虐待では、子ども虐待という第四の発達障害 (学研のヒューマンケアブックス)に書かれているように、性的虐待順応症候群(「ストックホルム症候群」とも)として知られています。

性的虐待が近親者との間で長年にわたって生じたときには、被虐待児が加害者を擁護しようとする行動をとることが少なくない。

これは性的虐待順応症候群として知られ、虐待の事実を開示した直後に虐待を否認するといった行動が、頻繁に認められることになる。(p98)

異常な環境にあまりに長いことさらされすぎたせいで、脳が異常な環境こそ“日常”、ごく普通の環境を“非日常”とみなして、適応してしまうのです。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによると、このストックホルム症候群は動物実験でも観察されており、単なる「心」の順応ではなく、もっと生物学的な深いレベルの順応であると思われます。(p292)

異常な環境に対して生物学的に順応するということは、裏を返せば、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法が説明するように、ごく普通の子どもたちが順応していく学校や社会での日常には、逆に適応できなくなっていくということを意味します。

性的虐待を受けた女子は、それとはまったく異なる発達の道筋をたどる。

彼女らは人を信頼できないので、同性の友人も異性の友人も持たない。自己を嫌悪していて、生物学的機能も本人に不利に働くため、過剰な反応を見せたり、逆に麻痺状態に陥ったりする。

…これらの女子はあまりに変わっているため、他の子供たちはたいてい、いっさいかかわり合いになりたがらない。

子ども虐待のサバイバーは、異常な家庭に順応するよう脳が最適化され、他の子どもたちとは「まったく異なる発達」を遂げます。

普通の友だち付き合いができず、あたかも命が脅かされている戦場にいるかのように、ときには用心深く、ときには過敏に振る舞うようになります。

そうした子どもは、まわりから「あまりに変わっている」とみなされます。

サバイバーたちが置かれた状況は、数学で生命の謎を解くに書かれている深海魚たちに関するエピソードとよく似ています。

私は深海魚を展示していたある博物館を思い出す。その展示の脇には、「この奇妙な形には、棲んでいる奇妙な条件が反映されている」といったような説明書きがあった。

意味が通っているように思える。奇妙な条件が奇妙な形に反映される。通常の条件であれば通常の形になる。わたしたちのように。しかし、それでは論理が逆転している。

ここでいう通常の条件とは、わたしたちが慣れ親しんでいる条件のことだ。通常の形もしかり。

しかし形に関しても行動に関しても、わたしたちから見てそれらの深海魚が違っているのと同じく、深海魚から見てもわたしたちは違っている。深海魚にとっては、わたしたちのほうが奇妙であって、自分たちが通常だ。(p400)

深海魚の造形は、わたしたちの常識からすれば、「あまりにも変わっている」ように見えます。どうして深海魚はあんなに奇怪でグロテスクなのだろう、と感じる人もいます。

しかし実際にはそうではなく、わたしたちも深海魚も、それぞれ異なる環境に適応して発達を遂げてきたために、お互いから見て「あまりにも変わっている」ように思えてしまうだけです。

子ども虐待のサバイバーも、「あまりに変わっている」ように見えるかもしれませんが、それはあたかも深海の高圧下のような、大半の人の日常とはかけ離れた環境に適応して生き抜いてきたからにほかなりません。

高圧下に適応してきた深海魚が、水面付近まで釣り上げられると、通常の水圧に適応できず死んでしまうように、異質な日常に適応したサバイバーたちは、大半の人にとってごく普通の平和な環境に置かれると、かえって適応不良を起こします。

悲劇的なのは、なぜその子が「あまりに変わっている」のか、本人もまわりも誰一人として理由に気づけないことです。

異常な環境に順応して麻痺してしまうと、表面上は何も問題がないように見えるため、周囲の先生や友人は何が起こっているのか気づけません。本人でさえも自分が子ども虐待のサバイバーであることを認識できなくなります。

特に、子ども虐待のサバイバーの中には、「解離」という脳の機能が働いているせいで、自分が経験したトラウマの記憶をすっかり忘却している場合もあります。

記憶の喪失は、自然災害や事故、戦争トラウマ、誘拐、拷問、強制収容所、身体的虐待、性的虐待を経験した人について報告されている。

完全な記憶喪失が最も多いのが子供時代の性的虐待で、発生率は19~28パーセントだ。(p315)

それはつまり、自分が違う国、違う文化で生まれ育ったにもかかわらず、自分の出自を知らないまま、異国の地で生活しているようなものです。あるいは、普通の魚たちのいる水槽に、深海魚が紛れ込んでいるようなものです。

本当は生まれ育ちが違うために周りから浮いているのに、その理由を知りません。

そうすると、だれからも理解してもらえず、孤独を深めていく中で、人間とはこういうものなのだ、人はわかりあえなくて当然なのだ、という不信感を抱くようになるのも当然です。

極限状況下で生き生きする「サバイバル脳」

トラウマのサバイバーたちが「あまりに変わっている」のは、脳が故障したからでも、障害を負っているからでもありません。

大多数の子どもたちの脳が、平和な日常に順応しているのに対し、サバイバーたちの脳は、虐待する家庭という非日常に順応しています。その違いが「あまりに変わっている」とみなされるだけです。

それはちょうど、戦争に適応した兵士たちが、戦場では生き生きと振る舞うことができるのに、平和な日常では不適応を起こすのと同じです。

アメリカの海兵隊は戦闘で見事に任務を遂行した。問題は、彼らが祖国に戻ってからの暮らしに耐えられないことだ。

オーストラリアの戦闘期間兵に関する最近の研究は、彼らの脳が緊急事態を警戒するように配線し直されているために、日常生活の細部に的を絞れなくなっていることを示している

…トラウマを負った患者に、仮想現実セラピーよりも必要なのは、地元のスーパーマーケットっで買い物をしたり、わが子と遊んだりするときに、バグダードの通りで感じたのと同じくらい生き生きとした気分になれるようにしてくれる、「現実世界」セラピーなのだ。(p363)

戦争でトラウマを負った帰還兵たちは、生々しい記憶のフラッシュバックのような後遺症に悩まされ、ごく当たり前の日常生活すら送れなくなることもあります。

しかし、不思議なことに、あれほど忌み嫌ってきた戦争の体験について語るときには、日常の生活では久しく感じられなかった生気がよみがえり、生き生きと多弁になります。

たとえ戦争を憎んでいようが、帰還兵たちの脳は戦時下に適応していて、異常な環境の中でだけフル稼働するよう最適化されているからです。

トラウマが生じたのが10年前であろうと40年以上前であろうと、私の患者たちは戦時体験に囚われてしまい、現在の人生をしっかりと歩むことができなかった。

あれほどの痛みを引き起こしたまさにその出来事が、彼らにとって存在意義の唯一の源泉になってしまったのだ。

彼らが思う存分生きていると感じるのは、トラウマを引き起こした過去に立ち返っているときだけだった。(p38)

帰還兵たちの脳は戦時下に最適化されているので、たとえ本人が戦争を憎んでいようとも、戦場にいるときだけ「思う存分生きていると感じる」身体になってしまっていたのです。

興味深いことに、サックス博士の片頭痛大全の中で、神経科医オリヴァー・サックスは、戦時下の収容所体験にまつわる、次のような奇妙な事実を明らかにしています。

55歳の男性。かつてナチスによってアウシュヴィッツの強制収容所に入れられていた。七歳から収容所に入れられるまでの間、一ヶ月に一度は典型的片頭痛の発作を起こしていた。

収容所にいた六年間―その間に妻、両親、そして近い親戚はみな殺された―発作は一度も起こらなかった。

…強制収容所に入れられていた間の片頭痛の消失については、動揺のことを他の数人の患者からも聞いた。

心身症的な病気や明らかな精神病は、強制収容所のような環境ではごくまれにしかみられない。(p318)

ここで挙げられているのは片頭痛の症例ですが、片頭痛は小児期トラウマを抱えた人に多い症状であり、解離と同じく、凍りつき(フリーズ)反応によって起こる症状の一つです。

ふつう、強制収容所のような過酷な環境に入れられたら、かえって症状は悪化すると思うかもしれませんが、片頭痛のような凍りつき症状は非日常の極限状況だと消失するとされています。

戦時中に強制収容所に入れられた人であれ、血まみれの戦場に出向いた兵士であれ、あるいは虐待のサバイバーであれ、これらの人たちが辛い症状に悩まされるようになるのは、過酷な非日常のただ中にいるときではなく、日常生活に戻ってきた後です。

言い換えれば、これらの人たちはみな、ふつうの日常生活の中では凍りついて死んでいるかのようになりますが、過酷な非日常に身を置けば、とたんに生き生きしはじめます。

他の大多数の人たちが平和だと感じる日常生活のさなかでは“精神病”になりますが、サバイバル生活の極限状況下に身を置くと“健康”になります。

このような不可思議な現象を説明する答えは一つしかありえません。脳がサバイバル環境に最適化されているのです。

戦時下に適応した兵士たちが抱える問題と、子ども虐待のサバイバーの抱える問題が似ている、というのは、単なる比喩ではなく、近年の研究によると両者の脳は類似しています。

虐待受けた子どもとPTSD兵士の脳が類似=研究 - BBCニュース

家庭内暴力や虐待などを経験した子どもの脳と、戦闘で心的外傷後ストレス障害(PTSD)となった兵士の脳の動きが類似していることが研究で明らかになった。ユニバーシティ・コレッジ・ロンドンのマクロリー教授が解説する。

このような、極限状況に対して最適化された脳は、ベッセル・ヴァン・デア・コークによって適切にも「サバイバル脳」と名づけられています。

「虐待的絆」に引き寄せられる

子ども虐待のサバイバーたちが家庭を出てもなおトラウマから逃れられないのは、帰還兵たちと同様、どれほど過去を憎んでいようと、潜在的にトラウマ的な環境を求めてしまう傾向があるからです。

発達障害の薬物療法-ASD・ADHD・複雑性PTSDへの少量処方では、それが「虐待的絆」と表現されています。

この歪んだ愛着を虐待的絆と呼ぶ。

父親のDVなど、暴力が常在化した家庭に育った娘が、その家庭を憎み嫌い、高校を卒業と同時に家でのように家から遠く離れ、仕事につき、そこで結婚をする。

するとなぜかかつての父親のような暴力的な夫と一緒になっている。この反復が起きる理由こそ虐待的絆の存在に他ならない。

いくら忌避される記憶であっても、子どもたちにはそれこそが生きる基盤になっているからなのだ。(p34)

幼い子どもは親から虐待されても、親のもとにとどまろうとします。もっと年長になると、自分の身を守るために異常な環境から逃れようとしますが、それでも、いつの間にか同じような環境にたどり着いてしまいます。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、1万人以上を対象にしたACE研究(Adverse Childhood Experiences:逆境的小児期体験)では、幼少期に虐待を受けたサバイバーは、その後の人生で、さらに同じようなトラウマを経験する率がとても高いことがわかっています。

研究に参加した女性は、成人してからレイプされたことがあるかどうか訊かれた。

ACE得点が0点の人では、レイプされた人は5パーセントだったのに対して、四点以上の人では33パーセントだった。

子供のときに逆境的あるいはネグレクトの犠牲になった女性は、のちの人生でなぜそれほどレイプされやすいのか。この疑問に対する答えは、レイプ以外のじつに多くの面にも密接に結びついている。

たとえば、幼少期に家庭内暴力を目撃した女性は、大人になったときに自らも暴力的な関係に巻き込まれる危険が大幅に増し、家庭内暴力を目撃した男性は、自分の伴侶を虐待する危険が7倍になることを、多くの研究が示している。(p245)

虐待のサバイバーたちが、子ども時代に受けたトラウマを再体験しやすいのは、脳に刻み込まれた虐待的絆によって、そうした状況に自ら飛び込んでいきやすいためです。

PTSDを負った兵士たちと同じく、サバイバーたちは、命の危険を感じる状況では生き生きしたエネルギーを感じられるのに、平和な日常では凍りついてしまいます。

虐待を受けた人やトラウマを負った人のあれほど多くが、真の危険に直面したときに思う存分生きているように感じ、誕生パーティや家族でのディナーのように、生か死かの二者択一よりは複雑ではあるものの客観的には安全な状況では麻痺状態になるのも、このせいだ。(p138)

サバイバーたちは、慢性的なトラウマを生き抜く中で、兵士たちと同様に、脳や身体がトラウマ的状況に適応して配線され、最適化されていきます。

たとえば性的虐待のサバイバーたちは、年齢不相応な性的交渉を持たされた結果、体がそれに適応するせいで性的成熟が早まってしまうばかりか、自分でも望まない性的な欲求の高まりを感じるように発達してしまいます。

だが、これも苦難の序の口にすぎない。

近親姦の過去を持ち、虐待されて孤立した女子は、虐待されていない女子よりも一年半早く性的に成熟する。

性的虐待のせいで体内時計が進み、性ホルモンの分泌が早まるからだ。

思春期初期には、虐待された女子は対照群の女子とくらべて、性欲を掻き立てるホルモンであるテストステロンとアンドロステンジオンの値が3~5倍高かった。(p272)

その結果、子ども虐待という第四の発達障害 (学研のヒューマンケアブックス)に書かれているように、成人してからも、自己破壊的な性関係から抜け出せない人もいます。心では望んでいなくても、脳はそうした環境に適応して配線されてしまっているからです。

例えば性的虐待の被害者が、その後の対人関係において、虐待的な性的関係を反復し、先の母親のようにDV被害を何度も受けることになる。

結果としては、性的行動で周囲の人間を操作するといったことも生じてくる。(p98)

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、特に若い時期にトラウマを再体験しやすく、その後の人生では、恐れのあまり親密さを避けるという逆の極端にとらわれる傾向がありました。

彼らは親密な人間関係を築いて維持するのが非常に苦手で、見境がなくて危険が大きく不満足な性的関係から、性的活動の完全な停止へと転じることが多かった。

異常な環境に適応した脳の配線は、手続き記憶、つまり身体の動きや反応のパターンとして現れます。

別の文化圏で生まれ育った人は、一見、うまく新天地に溶け込んでいるようでも、ちょっとした仕草や癖から異邦人だとわかってしまいます。生まれ育った文化で学んだ身のこなしは、骨の髄まで染み込んでいます。

戦場に適応した兵士は、現代社会で生活しているときも、兵士らしい身のこなしを取ってしまうものです。映画やフィクションでは、そうした無意識の身のこなしから正体や経歴がバレる、といったシーンがよくあります。

トラウマ環境に適応してしまったサバイバーたちも同じ問題を抱えます。平和な現代社会に生きていようとも、トラウマのサバイバーたちは無意識のうちにトラウマ環境下の身のこなしを再現してしまいます。

トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復によれば、その無意識の身のこなしのパターンのせいで、トラウマのサバイバーたちは、犯罪者たちから目をつけられやすく、再被害に遭いやすいことがわかっています。

今や古典的といわれている研究だが、暴力事件で起訴された犯罪者に、ニューヨーク市内の混み合う交差点を行きかう人々のビデオを見せると、犯罪者たちは数秒以内に、狙いやすい人を割り出した。

さらに犯罪者たちは同じ人を選ぶ傾向があり、それは体型や性別、人種、年齢には関係なかった。なぜ特定の人だけに狙いを定め、他の人々には見向きもしないのか、犯罪者たちには自覚はなかった。

しかし研究者たちは、いくつかの非言語的な信号を特定することができた。姿勢、歩幅、歩くペースおよびまわりへの意識の向け方などで、その人が簡単に圧倒されてしまうということがわかるのだ。

2009年のこの研究の論文で、チャック・ハストマイヤとジェイ・ディキシットは、「主な見分け方としては『相互作用的同調性』の欠如と、『一体性』を欠いている歩き方である」と論じている。(p202)(p202)

たとえサバイバーたちが口で過去の被害体験を語らずとも、無意識の手続き記憶の動作が代弁してしまっています。自分は過去に被害を受けたサバイバーであり、群れからはぐれたままの手負いの動物である、ということを。

異常な環境という非日常の中では理由もわからずに生き生きしてしまい、安心できる平和な日常ではかえって適応障害を起こしてしまう。

しかも、自分では望んでいないはずなのに、無意識のうちに危険な状況に身を晒し、犯罪者に目をつけられやすく、トラウマを再体験しやすくなる。

生まれ育った文化の呪縛は、どれほどそこから逃れようとしても、そう簡単に断ち切れるものではないのです。

(4)歴史―いつの時代も居場所がなかった

子ども虐待のサバイバーという「民族」は、個人として異邦人のような居場所のなさを感じますが、集団としても、社会から追われ、迫害されてきた長い歴史があります。

子ども虐待の後遺症として、特に顕著なのは、解離性障害という病気です。この病気は、歴史上古くから存在していて、古代から「ヒステリー」として知られていました。

ヒステリーの元となったギリシャ語「ヒステラ」は子宮を意味する言葉で、紀元前5世紀のギリシャの名医ヒポクラテスは、ヒステリーを「子宮の病」と表現しました。哲学者プラトンも、子宮が体の中を暴れることで、奇妙な症状が引き起こされていると考えました。

信じがたいことですが、ヒステリーは、性的に満足できていない女性に引き起こされるものとみなされ、治療のために性交渉が勧められることさえありました。

おそらくは、性的虐待のサバイバーたちが、理由もわからずに自己破壊的な性衝動を抱えたり、逆に性的関係を極端に避けたりすることから、そうした解釈が生まれたのでしょう。

その結果、何が引き起こされたかは想像にかたくありません。 続解離性障害にはこう書かれています。

従来のヒステリーに関する俗説は、女性蔑視につながるだけでなく、女性の性被害を助長し、かえって女性の解離性障害を生み出していた可能性が高いとも言えるだろう。(p41)

愕然とする事実ですが、古代ギリシャの時代から、20世紀直前まで、解離性障害は、性的虐待の結果ではなく、性的な欲求不満の病だとみなされていたのです。そしてそれは、かのジークムント・フロイトも同じでした。

フロイトの「裏切り」

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているように、フロイトは、当初、ヒステリーの患者たちは、幼少期のトラウマを抱えているのではないかと正しく推理しました。

フロイトは、この方法を採用して、引き金となる出来事は多くの場合、幼少期に受けた性的虐待、たいていは父親が娘に対して行う性的虐待であると信じるようになった(フロイトの患者の大多数はいわゆるヒステリー症の女性だった)。(p366)

しかし当時の男性中心社会の圧力や、自身の抱えているセクシュアリティの問題から、フロイトは自説を180度転換させ、原因は、性的虐待ではなく、性的願望である、と主張するようになりました。

言うまでもないが、フロイトの理論は、医師、銀行家、法律家など、専門家のコミュニティにはあまり受け入れられなかった。彼らのほとんどが父親でもあった。

性的虐待の広まりが現在ほど知られていなかったことから、彼らの中にも、近親姦の罪を犯した者がいることはほぼ確実だった。

そのため、また他の理由もあって、フロイトは誘惑理論から離れ(皮肉なレッテルが貼られたため)、また、抑圧された記憶を明らかにし 強い感情的なカタルシスを通じて記憶を再現する自分の治療方法からも離れた。

患者の多くは深刻な裏切りと感じたであろうが、フロイトは、患者の症状を性的暴力に起因するものとしてではなく、幼少期の「エディプス的」な願望、異性の親と性的交渉を持つファンタジーに根付くものとしてという解釈を与えた。(p366)

フロイトはそれ以降、虐待の存在をときおり認めつつも、基本的には、抑圧された性的な欲動がヒステリーを引き起こしているとする持論を展開しました。それはかつてのギリシャの哲学者たちの延長線上にある考え方でした。

その一方で、フロイトと同時代のピエール・ジャネは、ヒステリーの患者たちを偏見のない目で見て、患者たちの話に真摯に耳を傾け、その本当の姿を理解しようと試みました。

ジャネは「解離」という新たな言葉を作り出し、性的不満の病とされていたヒステリーが、トラウマによる解離性障害であることを明らかにする最初の一歩を据えました。

しかし、ヴァン・デア・コークがトラウマティック・ストレス―PTSDおよびトラウマ反応の臨床と研究のすべてで書いているように、フロイトは解離という概念を否定し、精神医学全体もまたそれに追随しました。

フロイトは「ヒステリーの病因」で「防衛ヒステリー」の概念を展開し始め、ここにおいてフロイトは初めて、トラウマに関連した中心的病理過程としての解離を放棄した。

…フロイトの見解では、意識から切り離されるのは、子どもの頃の実際のトラウマの記憶ではなく、子どもの受け入れがたい性的攻撃的欲求であり、それが自我を脅かしこれらの欲求の意識化に対する防衛を発動させるのである。

…学問としての精神医学は、正常な人間の精神がどのように機能するかについてのフロイトの探求の後に従うことになった。

幻想を擁護するために現実のトラウマは無視された。

…精神分析理論を受け入れることで、子どもの生活のなかで現実に起きたトラウマ性の出来事の影響についての研究は完全に欠如することになった。(p76-78)

フロイトの新しい理論は、「実際のトラウマと一致させることはできな」い机上の空論でした。しかし、「心的現実と主観的経験に焦点を当てることが、外的事実への興味を締め出し」ました。要するに、事実より仮説が優先されたのです。

こうして、「幻想を擁護するために現実のトラウマは無視され」、精神分析理論という科学の皮をかぶった哲学が浸透していきました。

偽りの記憶の論争

その後、フロイトの理論が注目を浴び、精神医学のバイブルのようにみなされるようになるとともに、解離についての理解は停滞しました。ヒステリーは情緒不安定な女性の詐病とみなされるようになりました。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、1974年に発刊された「精神医学の総合参考書」には、近親姦は非常にまれで、110万人に1件程度しか起こらず、もし生じたとしても、当人の精神状態によい影響を及ぼし、適応能力を向上させる、とまで書かれていたといいます。(p312)

事態が変化したのはベトナム戦争後、後遺症としてのトラウマの研究が活発になってからでした。女性解放運動の機運もあって、子ども虐待や性被害のサパイバーが勇気を出して名乗り出すようになり、埋もれていた解離の理論がにわかに注目を集めます。

しかしここでも、過去と同様の激しい攻撃にさらされます。解離性障害の存在を真っ向から否定する医師は少なくなく、解離に関わろうとした医者は同僚から嘲笑されたり、追放されることさえありました。

多重人格治療のパイオニア ラルフ・アリソンの素顔―患者のために涙を流した医師
多重人格治療のパイオニアとして、医療から見放されていた解離性同一性障害(DID)の患者の苦悩と向き合い、患者を助けるために命をかけた医師ラルフ・アリソンの人柄と、彼の独特な洞察につ

それだけでなく、著名な心理学者たちは、解離されたトラウマ記憶、という概念を否定し、子ども虐待のサバイバーたちは偽りを語っていると非難し始めました。

1990年代初期には、アメリカとヨーロッパの主要な新聞や雑誌に多くに、いわゆる「虚偽記憶症候群」に関する記事がすでに登場し始めていた。

この症候群は、精神疾患患者が性的虐待の手の込んだ虚偽の記憶をでっち上げたうえ、その記憶が長年眠っていたあと、蘇ったと主張するというものだ。(p313)

のちに、多くのサバイバーたちが勇気をもって教会の指導者を告発し、性的虐待の事実を公の場に引きずり出したときには、大勢の権威ある専門家たちが、教会側に立って、被害者を攻撃しました。

教会側に立って証言する専門家は、子供時代に性的虐待を受けたという記憶は、贔屓目に見ても当てにならず、被害者とされる人の主張は、過剰に同情したり、物事を鵜呑みにしやすかったり、自分の立場を優先させたりするセラピストによって頭に植えつけられた虚偽の記憶に由来する可能性のほうが高いと証言した。(p314)

ヴァン・デア・コークは、トラウマティック・ストレス―PTSDおよびトラウマ反応の臨床と研究のすべての中で、この異様な論争の裏には、科学的な理解の欠如のみならず、強力な利潤関係が存在していると指摘しています。

「偽りの記憶」論争は、トラウマになるようなストレスの重要性の認識に対する「信奉者」と「懐疑論者」の意見をさらに分裂させる。論争が過熱するなかで、臨床的、科学的な疑問が徐々に見失われつつあるのだ。

毎年25万人の子どもが性的に虐待されているという連邦法務局の見積もりからすれば、加害者は虐待や性的暴力の影響を覆い隠そうとやっきになっていると言えよう。

さらに、…保険会社や軍隊などのような強力な社会組織もまた、莫大な金銭が損害賠償請求と保険料償還として支払われる可能性があるため、人の生活におけるトラウマの影響を軽いものだとすることによって利益を得ることになる。

残念なことに、トラウマの現実を否定することで得られる多方面の利益があまりにも強大であり、弱みにつけ込まれることに対する恐れはあまりにも根深く、自分の災厄の責任を追究すべき特定の個人や組織を見つけようとする人間の要求はあまりにも広く行き渡っている。(p54)

児童虐待などのトラウマ当事者と、告発される側の大人(親や権威者)のどちらが権力や資金を持っているかは言うまでもないことです。

たとえば近年も、カトリック教会が300人以上の聖職者による1000人以上の子どもへの性的虐待を組織的に隠蔽していたとしてペンシルベニア州から告発されたり、カトリックのローマ法王に辞任を求めるデモがアイルランドでも起きたりしています。

解離やトラウマ記憶など存在しない、という疑い深い見方は、いまだに幅を利かせています。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合によれば、いまだ医師たちの間でさえ、「解離否認症候群」というべきものが蔓延していて解離性障害は演技にすぎないという偏見が存在している、と書かれています。(p3)

しかし、以前の記事で説明したとおり、解離が演技だということはありえません。

多重人格の原因がよくわかる8つのたとえ話と治療法―解離性同一性障害(DID)とは何か
解離性同一性障害(DID)、つまり多重人格について、さまざまな専門家の本から、原因やメカニズムについて理解が深まる8つのたとえ話と治療法についてまとめました。

また、トラウマ記憶は偽りだとする見方に関しても、サバイバーたちの実情に即したものではありません。

身体に刻まれた「発達性トラウマ」―幾多の診断名に覆い隠された真実を暴く
世界的なトラウマ研究の第一人者ベッセル・ヴァン・デア・コークによる「身体はトラウマを記録する」から、著者の人柄にも思いを馳せつつ、いかにして「発達性トラウマ」が発見されたのかという

実験室で偽の記憶を脳に植え込むことは確かに可能です。しかしそうして作られた虚偽の記憶には、子ども虐待のサバイバーが経験するような、魂が砕け散るほどの身体の芯から凍りつく恐怖は伴いません。

無意識に作り出された虚偽記憶は、宣言的記憶(言葉で表現できる記憶)のレベルで起こります。しかし本物のトラウマ記憶は、手続き記憶(身体の感覚運動的な記憶)に刻み込まれます。

だからこそ、本物のトラウマ記憶を持っている人は、ちょうど異国の文化で生まれ育った人や、戦場を生き抜いた兵士のように、単なる言葉の上ではなく、無意識下の身体の動きや反応によって、トラウマの後遺症を示します。

サイコロジカル・トラウマの中でヴァン・デア・コークは、ときに偽りの虐待記憶を主張する人がいることを認めつつも、実際に虐待を受けたサバイバーたちは異なる様相を呈していると述べています。

Freudが、女性の中には児童期に性的暴行を受けたというような、歪んだ記憶を生み出す過剰反応的空想を示す人がいると考えたのはおそらく誤りではないだろう。

しかし実際のところ、近親姦被害者たちに接している現代の臨床家たちは、被害者たちがトラウマ記憶を隠そうとし、さらには必死になって虐待者たちを守ろうとしたり、虐待者に詫びようとすることに驚きを隠せないでいる。

この問題について、Shengoldは次のように述べている。

「実際に近親姦の既往がある患者のほとんどは、自分の記憶が空想の産物にすぎないものであってくれと強く願っているのだ」(p36)

無意識に作り出した妄想的な記憶と、現実の虐待によって刻み込まれた記憶はまったく異なっています。現実のサバイバーは自分の記憶を強硬に主張するどころか「空想であってくれ」と願うほど苦しめられてもいます。

これは、解離性同一性障害(DID)が誤解されていることとも共通しています。DIDはしばしばメディアで面白おかしく脚色されますが、現実のDIDの人たちは、悪夢の中をさまよっていて、自分の体験を見せびらかすどころか必死になって隠そうとさえします。

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普通の文化で育ち、虚偽記憶を本物だと思いこんだり、ただ見せかけで多重人格を演じたりしているケースと、虐待の文化で生まれ育ち、本当に記憶が解離して異質な振る舞いをしているケースとが本質的に違うのは当然です。

この記事で書いてきた内容そのものが、本物のサバイバーと、ただの演技とを見分ける決定的な手がかりになります。どれだけうまく演じようと、異なる文化で生まれ育った異邦人のようになれる人はいません。

生まれ育った国の文化、言語、習慣、それらはいずれも、奴隷生活の焼き印のように身体に刻まれていて、たとえ本人が変えようとしても変えられないほど強力なのです。

しかし、多くの専門家たちは、演技的な一部の例に過剰反応しすぎるあまり、異なる文化で育った異人種のようなサバイバーたちが現実に存在していることを見落としてしまっています。

以下の記事が述べるとおり、“戦場”に足を踏み入れることもなく、実験室にこもり、机上の空論を積み上げている医師や心理学者たち、記憶の専門家たちが、サバイバーの苦悩を理解することはできません。

「PTSD」を解明するためには、科学者を戦争に派遣しなければならない|WIRED.jp

ストレスがどのように肉体的ダメージをもたらすかに関する研究はほとんど行われていない。

その理由は明らかで、本当にトラウマを研究しようと思ったらそれが起きている場所、つまり戦場に行かなければいけないからだ。

…科学者たちにも戦場に降りるためのブーツが必要なのだ。

本当にサバイバーたちの苦悩を理解しているのは、ジャネのように真摯に患者たちと向き合い、その混乱した振る舞いを観察し、“戦場”にまで赴いて、何が起こっているのか理解しようとしてきた稀有な医師やセラピストたちだけです。

虚偽記憶とトラウマ記憶をめぐる記憶システムの詳しい説明については以下の記事をご覧ください。

HSPの人が知っておきたい右脳の役割―無意識に影響している愛着,解離,失われた記憶
HSPの子は右脳が活発、という知見にもとづき、右脳と左脳の役割や二つの記憶システム、愛着、解離など、HSPの人が知っておくと役立つ話題をまとめました。
原因不明の身体症状に苦しむ人のための「記憶」の科学の10の考察
全身に散らばる原因不明の身体症状の謎を、記憶の科学から読み解きます

多数派向けの医療の落とし穴

サバイバーたちの受難はさらに続きます。たとえ医療にかかることができても、異なる文化についての理解の不足によって、かえって悪化させられるという問題です。

かつて「ヒステリー」の当事者たちは、医師たちの誤った理論に基づいて真逆の治療にさらされていましたが、悲しいことに、それは今日でも変わっていません。

今日、トラウマの治療として一般的に用いられている心理療法は、認知行動療法や曝露療法です。

これらはいずれも、トラウマ的な恐怖を「再体験」させることで、圧倒されずに耐えられるようになることを目的としています。

問題なのは、子ども虐待のような幼少期からのトラウマ・サバイバーの場合、こうした標準的な治療法を受けると、かえって悪化してしまう危険が伴うことです。

ヴァン・デア・コークは、トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復 の序文で、曝露療法のような、トラウマを「再体験」させる治療法に触れて、こう警鐘を鳴らしています。

トラウマ体験からの生還者に、トラウマを繰り返し詳細にわたって再体験させ、彼らを恐怖と生理学的活性の状態に留置し、当然のこととして過去の激しい苦痛がさらに強化される状態を生み出す危険を冒している治療方法が見受けられる。

このようなことをしてしまうと、トラウマの記憶は、新たな戦慄体験と結びついて固定化され、内面の世界によって圧倒されている感覚が強化されていく恐れがある。(p xii)

トラウマの「再体験」を繰り返す治療法は、「過去の激しい苦痛がさらに強化される状態を生み出」し、患者の感覚を麻痺させます。

このようなやり方は、確かにPTSDの人が抱えるような鮮烈な症状を、見かけ上、軽減することができます。たとえば激しいフラッシュバックに悩まされている人の場合、感覚が麻痺すればおとなしくなるかもしれません。

しかし、子ども時代からの慢性的なトラウマのサバイバーたちの場合は、もともとひどい解離によって感覚が麻痺して凍りついているので、「再体験」による治療は、さらに解離を悪化させる結果になりかねません。

かつて、大人になってからトラウマを体験した人と、子ども時代から虐待などの慢性的なストレスにさらされたサバイバーたちは、どちらも同じ「心的外傷後ストレス障害」(PTSD)の当事者だとひとくくりにされていました。

しかしトラウマをヨーガで克服するに書かれているように、ヴァン・デア・コークらは、子ども時代からの慢性的なトラウマを抱えるサバイバーたちが、成人後にトラウマを経験した従来のPTSDとは、ほとんど別物といってよいほど異なっていることを発見しました。

過去20年間、ベッセル・A・ヴァン・デア・コークやジュディス・ハーマンといった、外傷的ストレスの分野におけるパイオニアが、トラウマにかかわる状態に適用される診断について存在した制約、すなわちこれを〈PTSD〉という単独の診断カテゴリーに分類することの難しさに挑んできた。

彼らは、慢性的に人間関係のトラウマにさらされると、特にそれが発達初期である場合、PTSD診断法に記述されているよりも深く広範囲の衝撃を受けることが多いということを発見した。

慢性的な、あるいは繰り返されるトラウマを生き延びた人びと、特に発達の臨界期にトラウマにさらされた人びとは、存在全体、すなわち心・体・魂に影響をこうむる。

…「複雑性トラウマ(コンプレックス・トラウマ)」は、こうした長期にわたる虐待とネグレクトの環境で生活することによって起こった、より深刻な結果を現すために作られた言葉である。

複雑性トラウマには、感情の調節不全、解離、肉体的な撹乱、「否定的または歪んだ自己イメージ」、「新しい人間関係をスタートさせたり、押し進めたり、維持したりする能力の障害」、「基本的信条や意味体系の崩壊」などの一群の症状がある。(p24)

大人になってからのトラウマによるPTSDと、子ども時代からの慢性的な複雑性トラウマによる症状は別物です。今日では、後者はPTSDとは別の「発達性トラウマ障害」という概念に整理されています。

子ども虐待のサバイバーたちは、トラウマ医療においてさえ、多数派を占める通常のPTSD患者とは異なる文化また歴史を持つ異邦人なのです。

発達性トラウマ障害(DTD)の10の特徴―難治性で多重診断される発達障害,睡眠障害,慢性疲労,双極II型などの正体
子ども時代のトラウマは従来の発達障害よりもさらに深刻な影響を生涯にわたってもたらす…。トラウマ研究の世界的権威ヴァン・デア・コーク博士が提唱した「発達性トラウマ障害」(DTD)とい

続けて書かれているように、曝露療法のような標準的治療法は、多数派であるPTSD患者にはある程度効果を見せますが、少数派である複雑性トラウマ(発達性トラウマ障害)のサバイバーにとってはかえって症状を悪化させる危険をはらんでいます

曝露療法はPTSDに苦しんでいる人びとに効果があると広く信じられているが、曝露ベースの療法に耐えるのが困難な人ぴともいる。

外傷的な記憶にさらされると、しばしば生理的あるいは感情的な(またはその両方の)苦痛が増すという結果になり、その後、題材への慣れによって感情の高まりが徐々に減退する。

ただ、複雑性トラウマを持つ多くの人びとは、曝露の時にたびたび現れる生理的・感情的経験に耐えるために必要な、内的または外的資源(リソース)を育てていない。

医療者たちはしばしば「クライアントの症状が悪化する」、「治療が未完成な状態のままで脱落する」あるいは「治療に耐えることが困難である」などの理由で、曝露療法を用いないと報告している。(p24)

大人になってからPTSDを発症した人たちは、少なくとも子ども時代には愛され認められる経験をしています。それで、トラウマの「再体験」をさせるような治療法でも、内なる強さ(リソース)をよりどころにして耐えることができるかもしれません。

しかし、子ども時代からのトラウマ・サバイバーは、「曝露の時にたびたび現れる生理的・感情的経験に耐えるために必要な、内的または外的資源(リソース)を育てて」いません。これまでの人生の中にそんな機会などなかったのです。

このような人たちは、曝露療法のような治療法でトラウマを再体験させられた場合、到底耐えることがてきないので、今まで用いてきた唯一の方法を活用するしかなくなります。

闘うことも逃げることもできない環境をやりすごすべく身につけた能力、すなわち解離です。治療を受ければ受けるほど、解離が悪化して、自己の統合がばらばらになっていき、治療から脱落します。

残念ながら、トラウマ関連の課題についての治療効果研究のほとんどが、複雑性トラウマに苦しむ人びとが特に必要としているものを反映していない。

多くの標準的治療の効果研究が、症状が激しく複雑な症例を多数除外しており、さらに、これらの研究の多くで、脱落者が大きな割合を占めている。

そういうわけで、これらの研究から引き出された結論を、複雑性トラウマを持つ人びとに適用することはできないと思われる。(p24)

医療情報を調べていると、トラウマ治療には認知行動療法や曝露療法が効果がある、という研究を見かけるかもしれませんが、そこには統計の落とし穴が隠されています。

そのような研究では「症状が激しく複雑な症例を多数除外して」おり「脱落者が大きな割合を占めている」ことが多い、つまり複雑性トラウマのサバイバーたちは度外視されている可能性が高いのです。

統計をとって平均化してしまうと、多数派の傾向だけが浮き彫りにされ、その中に含まれる少数派のニーズとは真逆の結果が出てしまうという現象は、統計学では「シンプソンのパラドックス」と呼ばれています。

当事者研究や統計調査で気をつけたい「基準率錯誤」と「シンプソンのパラドックス」
ネット上で行われる当事者研究のアンケートを読むときに気をつけたい基準率の錯誤、サンプリングレベルの偏りについて。

トラウマ研究でも、このシンプソンのパラドックスが起こっていて、多数派のPTSDのニーズに合わせた医療が構築され、少数派の複雑性トラウマの当事者のニーズが度外視されてきたようです。

このことを知らない名ばかりの専門家にかかると、慢性的なトラウマのサバイバーは、治療によってかえって症状を悪化させられ、「脱落者」として放り出されることになります。

治療によって改善しないのは、治療法が間違っているせいなのに、あたかも患者側に落ち度があるかのようにみなされ、医療から締め出されてしまいます。

トラウマを再体験させる治療法によって、より症状が悪化させられてしまう、というのは、かつてヒステリー患者が欲求不満の病とみなされ、治療と称して性的行為をさせられていたのとまったく同じ図式です。

時代が変わろうが、科学が進歩しようが、医師や専門家を名乗る人たちのほとんどは、依然として子ども虐待のサバイバーの苦悩をまったく理解できていないのです。

とはいえ、一部の先進的なトラウマ専門家たちは、この問題を理解しており、発達性トラウマ障害のサバイバーのため新しい療法の開発に取り組んでいます。

研究者たちは、悪化した人びと、治療効果研究の多数派から締め出された人びとに目を向け始め、こうした人びとにとって、もっと効果のある新しい治療法を見極めようとしている。

…たとえばマリレーン・クロアトアは「感情や対人コントロールの技能訓練(STAIR)」という治療モデルを開発したが、これは“語り”によるトラウマ治療より、自己調節力の育成に焦点を当てることを優先する。

…マーシャ・リネハンによって開発された「弁証法的行動療法(DBT)」は、慢性的トラウマ・サバイバーにはしばしば欠落していたり極めて未発達だったりする多くの重要な心的能力とスキル(たとえばマインドフルネス・苦痛に耐える力・感情調節力・人間関係において発揮される力)の育成に焦点を当てている。

…より新しい、多くの医療が、リソースの育成と、体を治療に組み込む“ボトム・アップ”の手法を使うことに力を入れている。

たとえば「感覚運動精神療法」は、クライアントのリソースと未処理のトラウマ記憶に分け入るための通路として、体を使うタイプの治療法である。(p25-27)

現状の治療法の問題点を認識し、慢性的トラウマのサバイバーのための治療法を研究している専門家は多数いることは事実です。

カウンセリングではトラウマを治療できないのはなぜか―物語ではなく経験が必要な理由
トラウマの治療において、従来の対話を中心としたセラピーに限界があり、身体志向の方法が必要な理由をさまざまな研究をもとに考察しました。

しかしながら、これらの治療法はどれも主流とはいいがたいものであり、ここ日本においては、熟達した専門家を見つけることすら簡単ではありません。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法でヴァン・デア・コークが嘆いているように、こうした治療法は、代替療法として医学界から無視されてしまっているからです。

薬から多額の利益が挙がるようになったので、主要な医学専門誌は、メンタルヘルス上の問題のための非薬物治療に関する研究はめったに掲載しない。

さまざまな治療法を探求する専門家は、主流から外れた「代替療法」(オルタナティブ)としてたいてい無視されてしまう。

非薬物療法の研究はほとんど資金提供を受けることがない。

例外は、いわゆる「マニュアル化された手順」を伴う(もので、その場合、個々の患者の必要性に応じた微調整の余地がほとんどない、詳細まで規定された手順を患者とセラピストが踏むことになる。(p71)

医学界が認めているのは、利益の挙がる薬物療法や、マニュアル化された心理療法だけです。複雑性トラウマの治療のような、一人ひとりのニーズに応えなければならない治療法の研究は、今後もおそらく主流にはならないでしょう。

人類史の長き歴史において、いつの時代も、子ども虐待のサバイバーたちは少数派の異邦人であり、それは医学の世界においても例外ではないのです。

その文化は「カルダーノの輪」の外にある

 この記事を通して考えてきたように、子ども虐待のサバイバーたちは、異なる世界に生まれ、異なる言語、異なる文化、異なる歴史を持つ異邦人に例えることができます。

■異なる世界
幼いころに普通の家庭で育ち、人間一般に対する基本的信頼感を育んだ普通の人と、異常な環境で育ち、逃避不能ショックにさらされ、だれ一人味方はいないという無力感を学習してきたサバイバーたちとでは、生まれついた世界が異なっているようなもの。

■異なる言語
言語が異なれば思考パターンも異なる。「トラウマと虐待の言語」を話すサバイバーたちは、凍りついた時間に閉じ込められており、物事の受け止め方が大多数の人とは異なっている。

■異なる文化
子ども虐待のサバイバーは、体に染み付いた手続き記憶が作り出す「虐待的絆」によって、自分では望んでいないのに、生まれついた祖国の文化ともいえる危険な状況に引き寄せられ、トラウマを再体験するという矛盾した行動をとってしまう。

■異なる歴史
子ども虐待のサバイバーが抱える苦悩は、長きにわたり、「ヒステリー」や「虚偽記憶」として偏見や攻撃にさらされてきた。また複雑性トラウマを理解していない治療を施されることで、かえって症状を悪化させられてきた。

子ども虐待のサバイバーたちがありとあらゆる点で偏見や攻撃にさらされ、決して理解されることなく、孤独のもとにさすらう運命を強いられているのは、このような生まれ育ちの違いによって、人種間のあつれきにも似た理解のギャップが生じてしまっているからです。

そして、子ども虐待のサバイバーたちが「世界でひとりぼっち」のように感じてしまう最大の原因は、サバイバーたちが、あたかも異なる人種のような存在である、というこの事実がほとんど気づかれていないことにあります。

自分の物差しで測るという間違い

冒頭で触れた ある講演者は、性的虐待のサバイバーの女性が感じた孤独感や憂うつさを、自分たち一般に当てはめ、だれでも多かれ少なかれ感じている気持ちだとみなしていました。つまり、自分たちの物差しで、サバイバーの苦悩を測ろうとしていました。

また医師たちも、自分の常識の物差しで、サバイバーたちの苦悩を測ろうとする間違いを犯しがちです。子ども虐待のサバイバーたちは、あまりに奇妙な症状を次々と訴えるので、医師はしばしば「気のせい」「詐病」「演技をしているだけ」とみなします。

この記事で見たように、子ども虐待のサバイバーは、生まれたときから、常識ではありえないような経験をしてきました。

当たり前でない世界に適応し、順応してきたサバイバーたちは、当然、自分自身もまた当たり前でない存在へと変容していきます。

子ども虐待のサバイバーたちは、理解できない無秩序な環境に対処するために、自らをも理解できない無秩序な存在へと変容させていき、その結果として、ありとあらゆる奇妙な症状を抱えることになります。

人への恐怖と過敏な気遣い,ありとあらゆる不定愁訴に呪われた「無秩序型愛着」を抱えた人たち
見知らぬ人に対して親しげに振る舞いながらも、心の中では凍てつくような恐怖と不信感が渦巻いている。そうした混乱した振る舞いをみせる無秩序型、未解決型と呼ばれる愛着スタイルとは何か、人

大人が子どもに異常な仕打ちを加えるという子ども虐待は、この世の中にある理解できない、理解しようがない物事のうちの最たるものだといえます。

この問題を長年扱ってきたヴァン・デア・コークでさえ、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、こう述べていました。

私はこの仕事を始めて40年になるが、患者が子供時代について話してくれているときに、「信じられない」と思わずつぶやいてしまうことが今でもよくある。

患者たちも、私に劣らず信じられないことが多い。

親が我が子にそのような非常な苦痛や恐怖を与えるなどということがどうしてありうるのか。

その体験は自分がでっち上げたに違いない、あるいは自分は誇張していると言い張る人もいる。

だが、全員が自分の身に起こったことを恥じており、自分を責める。自分がひどい人間だから、そのようなひどい目に遭ったのだと、ある次元で固く信じている。(p219)

そもそもの原因である子ども虐待そのものが、理解できない次元のものである以上、そこに適応し、順応していった子ども虐待のサバイバーたちの苦悩が理解されないのは、もはや必然であり、避けられないことです。

子ども虐待のサバイバーたちの苦悩が、人類の長い歴史を通して、いつの時代も誤解され、否定され、攻撃され、親や医師、社会からも理解されなかったのは、そして当事者たちでさえ、自分が何者なのか理解できず、「世界でひとりぼっち」のように感じるのは、彼らが生まれ育った文化そのものが理解できないほど異質なものだからなのです。

カルダーノの輪の中に吊るされている

こうした「常識を越えているために理解できない」ことを言い得た ひとつのたとえがアルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語に、載せられています。

そこでは、「カルダーノの輪」と呼ばれる、特殊な構造の輪っかのことが書かれています

16世紀イタリアのジローラモ・カルダーノは物理学者で天文学者で数学者だった。

発明家でもあった彼の名は、人名由来語である「カルダーノの輪」によって永遠のものとなった。

軸を中心にして自由に回転するひとつの輪が、第二の輪の中に吊るされている。第二の輪は、それに垂直な平面上を自由に回っている。

その結果、内側に吊るされているものはあらゆる方向に自由に動くことができる、というものだ。(p345)

カルダーノの輪(カルダーノ・サスペンションやジンバルとも呼ばれる)は、大きな輪っかの中に、小さな別の輪っかが組み込まれているという入れ子構造になっています。内側の輪っかは、自由に動くことができますが、外側の輪っかが制限する範囲を越えて動くことはできません。

わたしたちの理解できる範囲も、このカルダーノの輪の構造とよく似ています。

個々の研究者は時間の中に吊るされている。

カルダーノの輪の中の船の羅針盤のように、彼は最も適切と見なされる方法を用い、そのときに利用できる道具を使い、正しいとされている議論に挑戦し、同時代人たちと共有している。

したがって、ほとんど自分では気づいていない因襲に依拠している。

流布している見解とは合わない立場を選択し、自分のまわりの運動から独立しようとしても、気づかぬうちに、自分の生きている時代の考え方に囚われているものだ。(p345)

わたしたちは、自分が生きている時代の考え方という輪っかの中に閉じ込められています。どれほど自由な発想を持つ人であっても、その制限を抜け出すことはできません。

わたしたちはまた、自分が身につけてきた常識にもとらわれています。生まれ育った文化の常識という輪っかの範囲を越えた存在を理解することはできません。

ギリシャのヒポクラテスやプラトン、19世紀のフロイトのような偉人たちでさえ、カルダーノの輪の外にある子ども虐待のサバイバーたちの苦悩を理解することはできませんでした。

現在生きている大勢の人たちもまた、くだんの講演者や医師たちのように、自分の生まれ育ちの常識という、カルダーノの輪の外にある虐待のサバイバーたちの経験を理解することはできず、自分の物差しで測ることしかできていません。

ヴァン・デア・コークをはじめ、極めて洞察力に富み、トラウマの苦悩をよく知っている医師たちでさえ、思わず「信じられない」とつぶやかずにはいられませんでした。

何より、子ども虐待のサバイバーである当事者たち自身が、自分の身に生じたことを信じられず、自分が何者かわからず混乱していました。自分が経験してなお、その異常な出来事はカルダーノの輪の外にありました。

自分の経験が理解できず、理解できる範囲を越えているからこそ、子ども虐待のサバイバーは、トラウマ経験を解離させる、つまり理解できないことを自分から切り離すことで対処するしかないのです。

鏡が怖い,映っているのが自分とは思えない―解離や幻肢は「バーチャルボディ」の障害だった
わたしたちの脳は「バーチャルボディー」と呼ばれる内なる地図を作り出しているという脳科学の発見から、解離性障害、幻肢痛、拒食症、慢性疼痛、体外離脱などの奇妙な症状を「身体イメージ障害

理解を越えているということを理解する

結びにいえるのは、子ども虐待のサバイバーたちが「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる」とき、それを理解してほしい、同情してほしいといった、陳腐でありきたりの結論ではありません。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ヴァン・デア・コークの患者のキャシーが述べているように、常識の物差しにそってアドバイスされたり、共感されたりしても、サバイバーたちは慰められるどころか、孤独感を深めるだけです。

それが道理にかなっていないことは百も承知していますし、もっと道理をわきまえるように先生が説得しようとすると、私はなおさら寂しくて孤独に感じるだけで、私という人間がありのままの自分でいるのがどんな感じなのか、世界中の誰一人としてけっして理解してくれないだろうという思いが裏づけられることになります(p213)

必要なのは、理解することではなく、それが理解できる範囲を越えていること、カルダーノの輪の外にあることを認めることです。

常識を越えた信じがたいことが現に起こり、その世界に適応したがためにあまりに異質になってしまった人たちがいる、という現実を受け入れることです。

異なる人種間の橋渡しは、理解できない異文化を受け入れることから始まります。

理解できない習慣を無理やりあれこれと自分の常識に当てはめたりせず、自分の理解の外にあることをわきまえます。

自分の生まれ育った文化という物差しをいったん脇に置いて、ただ相手の生まれ育った文化を批判せず、受け入れることが第一歩です。

過去や未来の概念がない極めて異質な文化を持つピダハン族について研究したダニエル・エヴェレットは、彼らの文化に心を打たれ、自分が大切にしていた宗教的信念を捨て、数年間彼らとともに暮らしました。(その観察はピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観にまとめられました)

子ども虐待のサバイバーたちもまた、異なる文化を尊重し、理解できないものを受け入れ、異なる世界で生まれ育った人の気持ちを認めてくれる医師や支え手に出会うことができれば、わずかずつであれ心を開いていくことができます。

ジャネは、フロイトとは異なり、当時の常識では理解できなかったヒステリーの患者たちの体験を知るために、真剣に耳を傾けました。

ヴァン・デア・コークも、キャシーの言葉を聞いて、そうすることにしました。

私はこの告白に心から感謝し、それ以来、患者に、自分が感じているように感じるべきではないとは言わないようにしている。

私の責務がそれよりもはるかに深いものであることを、キャシーは教えてくれた。周りの世界を描いた心の地図を、患者が再構築する手助けを、私はしなくてはいけないのだ。(p213)

はじめの方に出てきた、誰にも助けを求めることのできなかった女性は、ヴァン・デア・コークのセラピーを受けた後、これまで誰に対しても固く閉ざしてきた心を開きかけていることに気づきました。

セラピーのセッションからの帰り道で、先生に心を開くことの危険についてじっくり考え始め、124号線に入ったときに、先生にも自分の生徒たちにも愛着を抱かないという規則を破ってしまったことに気づきました。(p222)

サバイバーたちが「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる」としても、またどれほど高い文化の壁、理解の壁があるとしても、互いの文化を尊重できる人たちにとっては、国境を越えて理解を深め、ほんの少しずつでも心を通わせていくことは可能なのです。

異文化間交流においては決して近道はありませんし、完全に理解しあえることもありませんが、お互いの文化に敬意を払い、耳を傾けることは不可能ではありません。

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