慢性疲労症候群の文化が抱える「バラムとロバ」現象―身体と情動の関係を学ぶ

の記事は解離と慢性疲労について考えた以下の記事の1つ目の補足です。

だから君は慢性疲労に閉じ込められた―生きるエネルギーを枯渇させる解離そして不動状態
解離と慢性疲労は深く関係していて、不動系という生物学的メカニズムによって引き起こされているという点を、不登校や小児慢性疲労症候群の研究と比較しながら分析してみました。

本文では、小児型の慢性疲労症候群に焦点を当てて扱いました。では、成人型の慢性疲労症候群はどうなのでしょうか。

子どもであれ、大人であれ、同じ慢性疲労症候群だ、とみなす人もいますが、わたしはあまりそうは思いません。

根拠のひとつは、今回扱った本が述べているように、たとえばトラウマ障害の場合、子ども時代に発症した場合と、大人になってから発症した場合とでは、表に出てくる症状が異なるからです。

発達性トラウマ障害(DTD)の10の特徴―難治性で多重診断される発達障害,睡眠障害,慢性疲労,双極II型などの正体
子ども時代のトラウマは従来の発達障害よりもさらに深刻な影響を生涯にわたってもたらす…。トラウマ研究の世界的権威ヴァン・デア・コーク博士が提唱した「発達性トラウマ障害」(DTD)とい

おそらく、若くして、まだ元気なはずの子ども時代、学生時代に慢性疲労状態になってしまう人は、発達障害であれ、HSPであれ、無秩序型愛着であれ、ある程度そうなってしかるべき要素を持っているのではないかと思います。

そうであれば、少なくとも学生時代には不登校に追い込まれるほどの体調不良を発症するに至らず、学校社会を乗り切って成人することができ、大人になってから別の要因で慢性疲労症候群になった人とは、生来の性質が違うのではないかと思います。

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成人型の慢性疲労症候群の文化

わたしはもともと小児型の慢性疲労症候群も、成人型の慢性疲労症候群も、ほとんど同じものだろうと考えていました。このブログの初期の記事はそうした書き方をしていたものと思います。

しかし成人型の慢性疲労症候群の人たちと現実で知り合ったり、ネット上でその人たちのコミュニティのぞいたりするうち、どうにも違和感を感じるようになり、基本的にはまったく別の文化ではないかと思い始めました。

不可解に思ったことのひとつは、成人型の当事者の全員ではないものの、それなりの数の人たちが、何らかのこころの問題が併存しているのではないか、と指摘されることに強硬とも思える拒否感を示すことです。

慢性疲労症候群は、本当は「からだ」が辛いのに、「こころ」の問題ではないか、と医者に言われることが多く、そのせいで精神科疾患に対して拒否的になってしまうのはわかります。わたし自身がそうだったからです。

しかしわたしの場合、無責任に心の問題という言葉が使われるのが嫌だっただけで、最初からこのブログの記事では、慢性疲労症候群は心の問題と体の問題が複雑に絡み合っているものとして扱ってきました。

わたしはウイルスだけが原因だと考えるのは望ましくないと思っています。その2番目の理由をお書きしましょう。

不登校や小児型の慢性疲労症候群の子どもたちを見ても、心の問題を指摘されることにそれほどまでの拒否感はないように思います。そうでなければ、不登校がこれほど精神科的な問題として扱われることはないでしょう。

三池先生も、不登校外来ー眠育から不登校病態を理解するの中で、不登校を「こころの問題」とすることに異議を唱えていますが、それはそうした言葉が逃げ口上として使われているからでした。

“こころの問題”とはどのような問題であろうか。こころはどこにあり、どのように不登校と関連してるのだろうか。こころの持ち様は変えられるのであろうか。

何もかも曖昧で、明確な方向性を示すことができない医療現場の“逃げ口上”ともいえる。

不登校で苦しむ彼らを医学生理学的に明確に評価する方法を持たない医療は、漠然としてとりとめのない無責任な言葉“こころ”に逃げ道を求めたにすぎないのではないか。

現代の医療レベルの発展を考えるとき、医療に従事する者が“こころの問題”などと逃げること自体が許されないことだと考えている。

“こころ”とは何か、現代の医学のレベルで“こころ”に迫るには何をすればよいのか、どのようなアプローチが可能か、これらを追求することがこれからの医療に携わる者の務めといっても過言ではないと思う。(p12)

三池先生が言わんとしているのは、不登校が心の伴わない純粋な身体的問題である、ということではなく、「こころ」が関係しているのであれば、それがどのようなメカニズムで関係しているのかを研究する必要がある、ということでした。

現に三池先生の教え子であり、小児型慢性疲労症候群の研究者でもある友田先生は、“こころの問題”とは何かを脳科学で明らかにする道へと進み、愛着やトラウマに関する先駆的研究を成し遂げました。

他方、成人型の慢性疲労症候群(CFS)の人たちにしばしば見られる、精神科疾患への拒否感は、単にこころの問題と言われて傷ついたから、という言い方で説明できるレベルを越えているように思います。

「病は気から」を科学するには、ランセットに載せられた医師ピーター・ホワイトによる、認知行動療法(CBT)と段階的運動療法の研究に対するイギリス患者団体の激しい反発という、わりと有名なエピソードが載せられています。

ところが、患者グループはその研究結果を歓迎するどころか、反感を抱いた。「イギリス内外のほとんどすべての患者支援団体が、試験を失敗として受け止めた」とホワイトが言う。

こういった団体はCBTのような「心理学的」な治療がCFSの患者に有効だという考えにかなり懐疑的で、段階的運動療法のような活動目標は非常に危険だと考えていた。

彼らの主張は、「CFSは治療法のわからない純粋な体の病気だから、ホワイトの治療法のどれかが効いた人はこの病気ではない」というものだった。(p125)

双子の遺伝子――「エピジェネティクス」が2人の運命を分けるによると、慢性疲労症候群を精神的な問題と関連づけると、一部の攻撃的な患者によって医師の身に危険が及ぶという話までありました。

IBSの患者の多くは、心身症という診断をきわめて不名誉なことだと感じている。

慢性疲労症候群を研究していた私の同僚の中には、患者から「殺すぞ」と脅されて研究領域を変更した人もいる。(p24)

これは極端な例であるにしても、「イギリス内外のほとんどすべての患者支援団体が、試験を失敗として受け止めた」という事実だけでも不可思議です。

こうした精神科疾患に対する拒否感は、海外の遠い世界の話ではなくて、ここ日本でもしばしば見られます。たとえば慢性疲労症候群には、何かしらの精神的な問題が絡んでいるはずはなく、ウイルス感染その他の身体的な、器質的な疾患である、という信念を持っている人もいます。

わたしはそうした観点を否定するつもりはありませんが、「病は気から」を科学するでピーター・ホワイトが述べるとおりであると思っています。

その分け方にホワイトは異議を唱える。当然ながら心と体は相互にやり取りし、反映し合っている。

「心理的なものは身体的なものであり、身体的なものは体に対する心理的な感覚だ」。

…たとえば、CBTにより脳に測定できる増大が起こること、コルチゾールなどストレスホルモンの濃度が影響を受けることが、いくつかの研究で明らかになっている。

考え方を大きく変えれば、CFSの患者は、自分の病気は身体的要因と心理的要因が絡み合ったものだと受け入れられるようになるかもしれないと、彼は非難を恐れることなく主張する。

CFSは、体の病気でも、心の病気でもない。その両方なのだ。(p128)

人の体は心身相関の上に成り立っているゆえに、慢性疲労症候群(CFS)は、心と体の複雑な相互作用によって発症する病気であり、身体的なアプローチも精神的なアプローチも両方役に立つ、とわたしも考えています。

身体的なアプローチであれ、心理的なアプローチであれ、回復する見込みがあるなら何でもやってみたらいいのではないでしょうか。世間一般で身体の病気とみなされているがん患者に、心身両面からのアプローチが役立つのと同じように。

それなのに、成人型の慢性疲労症候群の文化では、「CFSは治療法のわからない純粋な体の病気だから、ホワイトの治療法のどれかが効いた人はこの病気ではない」とみなされます。

彼らにとっては回復するかどうかより、精神的な疾患ではないと証明されることのほうが重要なのだとしか思えません。「心身症という診断をきわめて不名誉なことだと感じている」のです。

昨今の病名変更問題についてもそうで、わたしは慢性疲労症候群でも、全身性労作不耐疾患でも、いっそうつ病でも、治療や福祉につながればそれでいいと思うのですが(皮肉なことに、今のところ、慢性疲労症候群よりもうつ病などの精神科的な病名のほうが福祉の支援を受けやすいはずです)、ある人たちは「身体的な病気」だとはっきりわかる病名を望みます。

近年は、脳の炎症が見つかったことで身体的病気だと主張する人たちもいますが、そうした炎症はPTSDやうつ病などのいわゆる“こころの病気”とされるものにも見つかっています。人体の心身相関を考えれば当然ともいえます。

PTSDは「心の傷」ではなく脳の炎症を伴う全身の病気―トラウマ記憶の治療法をめぐる最近の研究
PTSDに脳の炎症が発見され薬物療法の臨床試験が計画されていることなど、最近のPTSDやトラウマ記憶の治療についてのニュースをまとめました。

失感情症と回避型愛着スタイル

このあまりに奇妙に思える考え方は、ヴァン・デア・コークの身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法に書かれている「失感情症」について知れば、納得がいきます。

失感情症の人は情動の言語に代えて行動の言語を使う。

…彼らは情動を、注意を払ってしかるべき信号としてできなく、身体的問題として認識する傾向にある。

腹立たしさや悲しさを感じる代わりに、原因不明の筋肉の痛みや、腸の不調、その他の症状を経験する。(p165)

「失感情症」とは、解離のうち感情だけが切り離された状態をいいます。(※上記の文章では「感情」ではなく「情動」という語が用いられています。この違いは非常に重要な点なので、追って説明します)

本文で見た慢性的な不動状態は、記憶や人格を切り離すような解離と関係していて、自分の体の外に出てしまうことを意味していました。

「失感情症」はそれよりも一段上にある軽い解離であり、自分自分を切り離すでもなく、ただ感情を切り離すことで対処します。

「失感情症」は、子ども時代に厳しく育てられた人、甘えを許されなかった人、ネグレクトされた人などに多い、「回避型」と呼ばれる愛着スタイルによく見られます。

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続 解離性障害―脳と身体からみたメカニズムと治療でも、解離性障害を診ている奥田ちえ先生が身体表現性障害(原因不明の慢性疲労や慢性疼痛の精神科的呼び方)について、それと一致した意見を述べています。

日本に戻る前の何年かは、behavioral medicine specialistとして、身体表現性障害の患者さんで慢性的なうつや機能障害を持つ患者さんを診るようになりました。

これらの患者さんのセラピーをしていると、相当な数の人に過去のトラウマの話が浮かび上がり、機能低下がトラウマに関係している印象を受けました。

特に、私からみると幼少期から慢性的なネグレクトと思われる環境で育ったけれど、自分はそう思わずにがんばってやってきた人などは、1つの典型的なタイプと思われました。(p205)

「幼少期から慢性的なネグレクトと思われる環境で育ったけれど、自分はそう思わずにがんばってやってきた人」。それこそ失感情症に陥る、回避型の愛着の人たちの特徴です。

回避型の人たちは弱音を吐くことができなかったため、本当はだれかに頼りたい、優しくしてもらいたい、といった気持ちを解離させ、自分にも他人にも厳しく振る舞い、こだわりが強く完璧主義になりがちです。

ヴァン・デア・コークの身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法には、そのようなある男性についてこう書かれています。

ピーターはさらにメディカルスクール時代のローテーションで精神科を受診して、精神科医は今なお魔術まがいのことをやっていると確信し、夫婦療法を一度試してみて、この見方は一段と強まったと語った。

彼は自分の問題を親や社会のせいにする人々に対する軽蔑をあらわにした。

ピーター自身も、子供のころにそれなりの苦難を味わってきたが、自分を犠牲者とは考えまいと心に決めていた。(p486)

また失感情症を抱える自己免疫疾患の人たちについてはこう書かれてもいました。

多くのトラウマサバイバーと同じで、関節リウマチ患者もまた失感情症だった。

のちにナンシー・ソーウェルから聞いたのだが、患者たちはとても耐えられない状態にならないかぎり、苦痛や身体的な不自由についてけっして不満を訴えなかった。

いかがですかと問われると、「大丈夫です」と判で押したように答えた。患者たちの毅然とした部分が問題への対処に役立っているのは間違いなかったが、そうした管理者のせいで、患者は何でも否認する状態に陥っていた。

なかには、身体的感覚や情動を大幅に遮断していたため、医師とうまく協力できない人もいた。(p483)

失感情症の人たちは、自分は甘えずに強く生きてきたという自負があり、そう簡単に不平を言ったり、弱音をはいたりしない心が強い人間だという自信を持っています。

そのため、「こころの問題」があるなどと言われると、プライドを傷つけられたと感じます。

失感情症の人たちは、さまざまな身体症状があらわれますが、それが、何かしらのトラウマによるものではないか、感情的に無理をしてきたのではないか、子ども時代の出来事に原因があるのではないか、などと尋ねられると即座に否認します。

ヴァン・デア・コークの友人でもあるトラウマ研究者ピーター・リヴァインは、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーの中で、失感情症にともなう否認と、それに伴うさまざまな身体症状は解離の一種であるとはっきりこう書いています。

しかし、中にはそれが解離からきているとは分かりにくい症状もあります。それは以下のようなものです。

■否認はおそらくより低いエネルギーレベルの解離でしょう。否認では、人と、特定の出来事(あるいは一連の出来事)に対する記憶や感情との間に断絶が起こります。

私たちは、ある出来事が起こったことを否定したり、それが大して重要ではないかのように行動したりすることがあります。

…感情があまりに苦しいときは、否認は慢性化します―そんな事は決して起こらなかったという考えに石のようにしがみついてしまうのです。(p163)

■身体の不調はしばしば、身体の一部が他の部分から切り離されてしまうという、部分的な、または区分化された解離の結果起こります。

頭とそれ以外の身体との分離は、頭痛を引き起こすことがあります。

PMS(月経前症候群)は骨盤部の臓器と残りの身体部分とが分断された結果起こる場合があり、消化器系の症状(過敏性腸症候群)など、再発性の腰痛、慢性的な痛みなどは、狭窄によって悪化した部分解離が原因となって起こることもあるのです。(p164)

否認とはすなわち、記憶の解離に伴う反応だといえます。過去に強い感覚的苦悩を経験したにもかかわらず、その記憶や感覚があまりに苦しすぎたため、意識から切り離されて、本人は気づけなくなっているということです。

しかし、たとえ意識から切り離されていても、過去のトラウマは現実のものなので、からだの症状としてはっきり痕跡が現れます。たとえ戦争の歴史を「なかったこと」にしようとしても戦禍の爪痕が消えるわけではないのと同じように。

今回紹介した身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアのまえがきを担当しているガボール・マテも、別の著書で、こうした人たちが慢性疲労などの身体疾患に陥りやすいと述べていました。

病気の人が習慣にしがちな偽りのポジティブ思考とは何か
病気の人はポジティブシンキングを身につけるようよくアドバイスされます。しかし意外にも、ポジティブに見える人ほど病気が重いというデータもあるのです。「身体が「ノー」と言うとき―抑圧さ

失感情症の人たちが、心理的ストレスの影響を「否認」することは、極めて不可思議です。

たいていの人は多かれ少なかれ、さまざまな心理的ストレスを日々味わうので、たとえ身体的な病気でも、心理的な要因があると言われれば、そうかもしれない、と思ってしまうものです。

不登校と関わりが深いと思われる「恐れ・回避型」の人たちも失感情症にはなりますが、純粋な「回避型」の人たちより感情的な不安や過敏性が強いので、感情のみを器用に切り離すことはできず、もっと強い解離、たとえば自分が自分でないように思える離人症などを経験します。

感情を認識している人なら、体調が悪くなったとき、身体的な原因だけでなく、感情的な原因も結び合わせるものです。

それなのに、まったく心の問題ではない、絶対に身体的な病気だ、と言い切ることができてしまうのは、感情的なきっかけがひとつも思いつかない、つまり、普通の人が日々の生活で自然に感じているであろう心理的ストレスが解離されていて意識から覆い隠されているのだとしか説明がつきません。

そもそも、自分は失感情症である、ということも気づいていないでしょう。回避型愛着の人は、感情が満ち溢れる状態を、子どものころから経験したことがないからです。経験したことのないものを想像することはできません。

失感情症の人も、自分は怒りや悲しみや、そのほかの情動を普通に感じていると思っています。しかしそれは、本当に生き生きとした感情を感じている人に比べたら、ほんとのわずかしか感じていません。

わたしは、自分が人の顔があまり覚えられない相貌失認だとなかなか気づけませんでした。わからないなりに髪型や服装などの手がかりから判断していて、他の人もそうしているのだと思っていたからです。失感情症の人も、そのようなものです。

「身体表現性障害」の概念の間違い

しかしながら、このように書くと、結局、慢性疲労症候群とは「こころ」のストレスが身体に転化されたものである、と述べているように感じられるかもしれません。

そのような概念は、精神医学では、先ほど出てきた「身体表現性障害」や、「転換性障害」、「心因性〇〇」といった病名で表現されてきました。簡単に言うと、本当の問題は「こころ」にあるのに身体症状に転換されているだけだという概念です。

しかし、わたしがここで説明しているのは、これらの概念と同じものではありません。むしろ、真っ向から対立する考え方です。

慢性疲労症候群の当事者は、「こころ」の問題が身体症状になって表れている、というこれらの概念にひどく違和感を覚えてきました。わたしもその点はまったく同じであり、このような概念に納得できた試しがありません。

そして、近年の医学と科学の進歩は、慢性疲労症候群の当事者たちの直観を裏づけています。「身体表現性障害」「転換性障害」「心因性〇〇」のような概念は、そもそもその根底からして間違っているのです。

そのヒントとなるのが、先ほど重要な点だと触れておきながら解説を後回しにしていた「情動」という概念です。

もう一度、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法に書かれている「失感情症」についての説明を読んでみましょう。

失感情症の人は情動の言語に代えて行動の言語を使う。

…彼らは情動を、注意を払ってしかるべき信号としてできなく、身体的問題として認識する傾向にある。

腹立たしさや悲しさを感じる代わりに、原因不明の筋肉の痛みや、腸の不調、その他の症状を経験する。(p165)

失感情症の人は、「感情を…身体的問題として認識する傾向にある」というようには書かれていません。この人たちは「情動を…身体的問題として認識する傾向にある」のです。

普段使いの日本語の場合、感情と情動は、ほとんど同じような意味で使われがちです。どちらも「こころ」の状態を指して使われがちです。

しかし、 私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳に書かれているように、神経医学でははっきりと区別されており、いま見た説明はそれを踏まえたものです。

現代の神経科学では、情動と感情は次のように定義されている。

まず情動とは、刺激に反応して起きる身体の生理学的状態だ。心拍数や血圧、身体の動き(脅威に反応して凍りつく、逃げだす)、さらにはそのときの認知(思考が冴えているか、鈍っているか)まで含まれる。

対して感情は、脳と身体をひっくるめて起きている情動の主観的知覚だ。(p184)

情動とはなんでしょうか。「刺激に反応して起きる身体の生理学的状態」です。はっきりと書かれているとおり、神経医学においては、情動とは「こころ」を意味しません。

情動は「身体」の生理的状態であり、感情は「こころ」の中の主観的な状態です。

この情動という概念は、19世紀の心理学者ウィリアム・ジェームズや、有名なチャールズ・ダーウィンの動物観察に端を発しています。

その後、しばらく研究は下火になりましたが、近年、神経学者アントニオ・ダマシオの理論によって再び注目を浴びています。

心は脳だけでなく身体全体から作られる―神経学者ダマシオの自己意識の研究を読み解く
心は身体を土台として生まれるという神経学者アントニオ・ダマシオのソマティック・マーカー仮説について、「意識と自己」という本から整理してまとめてみました。

ウィリアム・ジェームズやアントニオ・ダマシオの研究をひとことで要約すると、わたしたちは何か刺激を感じると、まず身体が反応し、続いて心が反応する、というものです。

言い換えれば、わたしたちがストレスを感じると、まず情動(つまり身体の反応)が起こり、次いで感情(つまり心の反応)が起こるということです。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアには、ウィリアム・ジェームズの次のような言葉が引用されています。

常識では、私たちはクマを見るとおびえ、恐怖に突き動かされて逃げると考えるだろう。しかし、注意深く思慮深い観察で、ジェームズは、怖いから逃げるというよりは、(クマから逃げようとして)走っているから怖いのだと結論づけた。ジェームズは次のように述べている。

私の理論では、身体的な変化は刺激因子を知覚した直後に起こる。それと同じ変化の感覚が感情である。

「常識」によれば、財産を失えば悲しくなり、涙を流す。クマに会えば怖くなり、逃げだす。ライバルに侮辱されると、怒りを感じて殴る。

ここで主張している仮定は、この順序は正しくないということだ。ひとつの精神状態が別の精神状態によって即座に引き起こされるわけではない。

その前に、まずからだの徴候が現れる。

より合理的な(正確な)説明としては、泣くから悲しくなるのであり、殴るから怒りを感じるのであり、震えるから怖いのだ。(p372-373)

ウィリアム・ジェームズは、さまざまな例を挙げていますが、すべていわんとしているのは、「まずからだの徴候が現れ」、それから精神状態が変化するということです。

ストレスは心で認知されるより前に、身体で無意識のうちに認知されるものです。ストレスのかかる状況に置かれると、情動、つまり「心拍数や血圧、身体の動き(脅威に反応して凍りつく、逃げだす)」といった「身体の生理学的状態」が反応します。

まず身体がストレスに反応したあとで、心がそれに気づき、心理的・感情的な問題が生まれます。ベンジャミン・リベットの脳科学的な実験によって、心は身体より0.5秒遅れて反応していることがわかっています。(p375)

たとえば、ショッキングなことにさらされると、まず内臓がねじれたり、手足が凍りついてわなないたりするような「身体」の反応が引き起こされます。それから、悲しみや恐れ、不安といった感情的な「心」の反応が引き起こされます。

ほとんどの人がこれに気づかないのは、情動は無意識のうちに身体に現れ、すぐに感情へと変換されてしまうからです。

ショッキングなことにさらされたとき、まず反応するのは身体ですが、わたしたちは普通、それに気づきません。身体に情動が現れると、すぐにそれは感情に変換され、その時点でわたしたちはストレスに気づきます。

では、失感情症の人の場合はどうなっているのか。みたび、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の説明に注目してみましょう。

彼らは情動を、注意を払ってしかるべき信号としてできなく、身体的問題として認識する傾向にある。

腹立たしさや悲しさを感じる代わりに、原因不明の筋肉の痛みや、腸の不調、その他の症状を経験する。(p165)

失感情症の人が、原因不明の身体症状だと思っているのは、心の中の「感情」ではなく身体に現れている「情動」なのです。失感情症の場合、以下のような切り離し(解離)が起こっています

■通常の場合
ストレス→身体に情動が現れる→心の中の感情的苦痛に変換される

当事者は、おもに変換されたあとの心の感情の問題を認知する

■失感情症の場合
ストレス→身体に情動が現れる→(切り離し)→×感情に変換されない

当事者は感情を失うとともに、変換されないままの身体の情動を原因不明の何かとして認知する

本来なら、身体に現れた生理的徴候である情動は、感情に変換されて精神的なストレスとして認知されます。

しかし、その部分が切り離されて(解離されて)いるため、身体の情動が心の感情に変換されません。すると、変換されないままの情動が身体に現れているだけになります。それが、なんだかわからない身体症状として認知されてしまいます。

つまり、失感情症において、感情が乏しくなることと、原因不明の身体症状が現れることとは、二つで一つのセット、同じコインの裏表なのです。

腸と脳──体内の会話はいかにあなたの気分や選択や健康を左右するかという本で、トラウマと胃腸病を専門とするエムラン・メイヤーもそのことについて書いています。

たとえばストレスを受けると、心拍は高まり、首や肩の筋肉は緊張する。リラックスしているときには、それとは逆の反応が生じる。

しかし腸とのあいだに固定配線された結合を持つ脳は、腸との結びつきが非常に強い。

人はつねに腹部に情動を感じており、その事実は、「胃が締めつけられるような感じ(stomach tied up in knots)」「はらわたが引き裂かれるような経験(gut-wrenching experience)」「そわそわして落ち着かない(butterflies in your stomach)」など、言葉にも反映されている。

…腸に異常を訴えて病院に行っても、内視鏡検査で炎症や腫瘍などの重い症状が見つからなかった場合に、医師は患者の訴えをたいてい軽視する。

…胃腸こそ情動のドラマが上演される劇場であることを、もっと多くの医師や患者が知っていれば、そのドラマが患者を主人公とする悲劇と化す可能性を減らせるはずだ。

…驚くべきことに胃腸に障害を抱える患者の多くは、その問題が情動状態の反映であることをまったく知らない。

それどころか、その事実を知らない医師も多い。(p38-39)

ストレスを受けると、「心拍は高まり、首や肩の筋肉は緊張する」といった身体の情動が引き起こされます。とりわけ強い情動は内臓に起こります。日本語でも、「断腸の思い」という言葉があるように、ひどく悲しいときにはまず内臓に情動が起こります。

普通の人は、このような強い情動が身体に起こると、すぐに強い感情に変換され、極度の悲しみやうつ、恐れを経験します。これが感情生成のメカニズムです。

ところが、幼いころからの慢性的なストレスによって失感情症になっている人は、この情動が感情に変換される経路を、無意識のうちに解離させる(切り離す)ことで自己防衛しています。

回避型愛着の人たちは、身体が強いストレスを感じても、それを感情に変換しないことで冷静さを保ってきました。

過敏性腸症候群、慢性疲労症候群、線維筋痛症などの病気では、その戦略が裏目に出てしまいます。

ものすごく強いストレスにさらされたとき、身体に生じた情動を、感情に変換できないので、意味不明な生理的状態だけを感じます。

ひどいストレスを受けた場合、普通の人なら「断腸の思い」(極度の悲しみ)を感じるところで、失感情症の人は「断腸」だけを感じるといってもいいでしょう。感情にならない、感情の一歩手前の情動状態だけを感じてしまいます。

その結果、確かに「断腸の思い」(極度の悲しみ)に圧倒されることはありません。うつ病にはなりませんし、カウンセリングしてもらうような感情的苦痛も発生しません。

しかし感情に変換されない「断腸」だけが認知されるので、原因不明の身体疾患だと思いこんでしまいます。極度のストレスが、感情という主観的体験にまで変換されず、身体の情動反応のまま止まってしまっているということになります。

この仕組みは、身体表現性障害や転換性障害についての、精神医学の説明と真っ向から対立するものです。

精神医学では、原因不明の身体症状は、感情的ストレスが身体の問題に転化されたものだと教えます。まず「こころ」が先で、それから「からだ」の症状に変換されるのだと。

しかし、ウィリアム・ジェームズやアントニオ・ダマシオの情動の理論からすれば、これは真逆です。問題は、心理的ストレスが身体症状に転換されてしまうことではなく、身体の情動が心の感情に変換されないことで起こっています。

心のストレスが「身体表現性」になる障害ではなく、身体のストレスが「精神表現性」にならないことで現れているのが原因不明の身体症状です。概念が真逆なのです。

これは、「我思う故に我あり」と唱えたデカルト以来、「こころ」が先で、「からだ」が後だと教えてきた医学の間違った伝統によるものです。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアのまえがきで、カナダの精神科医ガボール・マテがこう書いているとおりです。

「ほとんどの人は」とラヴィーンが指摘するように、「トラウマを〈精神的な〉問題、さらには〈脳の病気〉だと考えている。しかし、トラウマはからだの中にも生じる何かなのである」。

実際に、トラウマが最初に、真っ先にからだに生じることをピーターは示している。トラウマに関連している精神状態は重要ではあるけれども、二次的なものである。

からだから始まり、こころが後に続くのだ、と彼は言う。

したがって、知性や情動さえも関与させる「対話による療法」では十分に深いところまで到達しないのである。(p xii)

トラウマのような、これまで「こころ」の問題「精神的な」問題とされてきた病でさえ、生物学的にいえば、事実は真逆です。

まずショッキングな出来事やひどいストレスのために、身体が反応します。そのあとで、心の症状が現れます。しかし失感情症の人は、身体が反応するものの心は切り離されているので、原因不明の身体症状だけを認知します。

いずれにしてもストレスに対する反応は、「からだから始まり、こころが後に続」きます。これが生物学的な、また神経学的な今日の不変の法則です。

まずストレスの影響が心からはじまり、それから身体症状に転換されているという身体表現性障害や転換性障害、心因性〇〇といった病気の概念はもはや時代遅れです。この点では慢性疲労症候群の当事者たちの直観は正しかったのです。

盲視と失感情症の類似点

情動の理論からわかるのは、失感情症の人たちは、自分の身体が受けているストレスの意味を理解できなくなっているということです。

身体に現れる情動は、主観的な感情に変換されてはじめて、自分はいまストレスを感じているのだ、と認知され、対処できるようになります。

しかしそこが途切れていると、ただ意味不明な情動が身体に現れるだけなので、自分が強烈なストレスを感じていることを認知できません

そもそも回避型愛着の人は、ストレスを主観的に認知しないという戦略によって厳しい子ども時代を生き抜いてきたのです。

確かにその戦略は効果的ですが、「こころ」ではストレスを認知しない(感情的苦痛を感じない)のに、「からだ」のほうはストレスを認知して情動反応を起こしている、という点で問題が起こります。

失感情症の人の状態は、盲視と呼ばれる解離現象とよく似ています。盲視の人は自分は目が見えないと信じていますが、障害物を避けたり、質問されたものを適切に指差したりできます。

オリヴァー・サックスは道程:オリヴァー・サックス自伝でこんな例を紹介しています。

同様に、脳の一次視覚野への重大な損傷による完全な皮質盲の患者は、何も見えないと主張するが、不思議なことに、自分の前にあるものを「当てる」こともある―いわゆる盲視だ。

このようなケースでは、知覚と知覚上のカテゴリー化は保持されているが、高次の意識とは切り離されているのだ。(p444)

これは嘘をついているわけではなく、目という感覚器官は正常に働いているのに、それが意識から解離されているのです。「からだ」はしっかり見ているのに、「こころ」は見えていない、見えていることを認識できない状態にあります。

失感情症の人も、ストレスはしっかり存在しているのに、意識から解離されています。「からだ」はストレスを認識しているのに、「こころ」はストレスを認識できず、気づくことができません。

そうすると、盲視の人が自分では見えていないと言いながら、からだは視覚刺激に反応していたように、失感情症の人も自分では情動的ストレスはないと言いながら、からだは情動的ストレスに反応して、ときには慢性疲労に陥ります。

失感情症とは、ストレスを“見る”ことが意識から解離されている、盲視と同じカテゴリの解離現象であるといえます。

盲視の人たちは、実際には見えているはずだ、と指摘すると気分を害します。本人にとって見えていないのは事実なので、言い分を信じてもらえず、詐病と思われている気になるからです。

失感情症の人たちは、ストレスが「からだ」に現れていると指摘すると気分を害します。本人の「こころ」にとってはストレスが存在しないのは事実なので、やはり言い分を信じてもらえず、詐病扱いされている気になるからです。

意識から解離されている物事は、本人にとっては正真正銘存在していないように感じられるので、たとえからだに影響が現れるとしても、やすやすと信じることはできないのです。

「バラムとロバ」現象

サックスは道程:オリヴァー・サックス自伝でも別の類似した解離現象も挙げています。

神経の損傷のあとに、記憶と意識の解離が起こり、潜在的な知識または記憶だけが残ることがある。

そのため、私の患者で健忘症の船乗りのジミーは、ケネディー暗殺の顕在記憶はなく、20世紀に暗殺された大統領はいたかと訊くと、「いいえ、知りません」と言う。

しかし「それならもしもの話として、あなたの知らないところで大統領暗殺が起きていたとしたら、どこで起こったと思いますか、ニューヨーク、シカゴ、ダラス、ニューオーリンズ、それともサンフランシスコ?」と訊くと、彼は必ずダラスだと「当てる」。(p443)

この場合の解離は、知識の解離でした。この人は記憶喪失で意識の上では過去の歴史を知りませんでした。しかし、この人の無意識はそれを覚えていました。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、解離とは、次のような状態のことをいいます。

解離とは、知っていると同時に知らずにいることを意味する。(p200)

解離とは、「知っていると同時に知らずにいること」、つまり、「からだ」は自分自分が体験してきたストレスやトラウマの存在を知っていて反応しているのに、「こころ」はそれを知らずにいて存在が見えていないことを言います。

ちょうどそれは、古代ユダヤ人の物語「バラムとロバ」のようなものです。

バラムという預言者がロバに乗って道を進んでいたときのこと。ロバは前方に剣を持った天使が立っているのを見て恐怖を感じてうずくまりました。しかしロバに乗っていたバラムは天使が見えていなかったので、ロバが怠けていると思って打ち叩きました。

失感情症の人の「からだ」は、剣を持っているストレスやトラウマが“見えている”ので、それに反応して、さまざまな身体症状という情動を示します。

しかしその人の「こころ」には何も“見えていない”ので、なぜ「からだ」がうずくまっているか原因不明になってしまいます。

失感情症の人にとって、こころの問題を指摘する精神科医は、何もない空間を指指して、「ここにいる剣を持った天使のせいで、あなたのからだは怖がって慢性疲労や慢性疼痛を抱えているのですよ」などと言っているようなものです。

失感情症や盲視といった解離のまやかしについて知らなければ、どう考えてもその精神科医がペテン師だとしか思えないでしょう。

当然ながら、そのような人は、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にあるように、ストレスがからだにどんな影響を及ぼすかを学んだり、精神科のセラピーを受けたりすることはまずありません。

失感情症の人は、自分の身体的感覚と情動の関係に気づくことを学ばないかぎり、回復できない。

色覚異常の人が、灰色の色合いを区別できるようにならないかぎり、色のある世界に入れないのと同じことだ。

…彼らはたいてい、それを学ぶことに乗り気ではない。彼らの大半は、さまざまな医師を訪ね、癒えることのない病気を治療し続けるほうが、過去の魔物たちに立ち向かう、つらい課題をこなすよりもましだという、無意識の決定を下してしまったように見える。(p167)

成人型の慢性疲労症候群の人たちが、効果があるという報告されている心理療法を拒み、治る可能性を求めて心を探ることよりも、あくまで身体的な病気であるということのほうに固執しがちなのは、これとよく似ています。

そのような人たちが感じている「自分の身体症状はこころの問題ではない」という直観は正しいものです。しかし、だからといって、身体症状がストレスと無縁であるわけではありません。

この記事で書いてきたような、「自分の身体的感覚と情動の関係に気づくことを学ばないかぎり」、自分がどんなストレスを抱えているのかまったく気づけないので、的外れの医療ばかり求めてドクターショッピングを繰り返すことになるでしょう。

もっとも、現代の精神科の多くが解離やトラウマをまっとうに扱えず、不登校やヒステリーの原因を理解できていない現状からすれば、おいそれと無闇に精神科に行かないのは正しい選択であるともいえます。

前述のように、精神科医たちは、もはや科学的には正確とはいえないデカルト式の概念(症状はこころからはじまり、からだが後から続く)に基づいて、身体表現性障害など時代遅れの診断を下すことがほとんどだからです。

サイコロジカル・トラウマの中でベッセル・ヴァン・デア・コークは、失感情症の人たちには精神科でよく行われるカウンセリングのような言語的心理療法は効果がないと述べています。

アレキシチミアの人には言語的心理療法は一般的に無効なものと考えられる。

というのは、彼らは内的環境を伝えるための言語を持たないからである。(p192)

現に、先進的な研究を行うトラウマ専門医たちが発見したのは、ストレスやトラウマによって生じる情動(原因不明の身体症状)には、これまで有効と思われていた「こころ」を対象にしたセラピーは役立たないということでした。

カウンセリングではトラウマを治療できないのはなぜか―物語ではなく経験が必要な理由
トラウマの治療において、従来の対話を中心としたセラピーに限界があり、身体志向の方法が必要な理由をさまざまな研究をもとに考察しました。

代わりに、そうした医師たちが注目したのは、身体の繊細な感覚を呼び覚まして、解離状態を治療するマインドフルネスや、太極拳やヨーガなどボディーワークと呼ばれるタイプのセラピーでした。

必要なのは精神科医にかかるかどうかではなく、失感情症によって覆われている本来の情動の存在に気づくことです。ちょうど、もの言わぬロバの言い分を聞こうとするかのように、言葉によらずして「からだの声」に耳を傾けることが必要です。

それにはたとえば、本文で紹介した気づきを鍛えるマインドフルネスやソマティック・エクスペリエンスの手法などが役立つでしょう。

ソマティック・エクスペリエンス(SE)を知る10ステップ―「凍りつき」を溶かすトラウマセラピー
近年注目されているトラウマの治療法「ソマティック・エクスペリエンシング」(SE)についてまとめました。

近年、トラウマも慢性疲労症候群もマイクロバイオーム(腸内の微生物)とのつながりが指摘されていますが、腸と脳──体内の会話はいかにあなたの気分や選択や健康を左右するかによると、マインドフルネスのようなトレーニングは、腸の内臓感覚に脳が気づけるようにし、情動と感情の切り離しを回復させるためにも重要です。

もはやトラウマは心の病ではなく内臓の微生物群集(マイクロバイオーム)を取り巻く生態系の問題だというパラダイムシフト
エムラン・メイヤーの研究から、トラウマ医学におけるマイクロバイオーム(体内の微生物群集)の重要な役割について考察しました。

すでに少し触れた認知行動療法や段階的運動療法は、言語的心理療法というよりは、こうした身体志向のボディワークに近いものですが、ボディワークそのものではありません。

わたしは、認知行動療法や段階的運動療法が効果がなく、むしろ悪化するだけ、という意見にも根拠があると思っています。

これらの治療が、慢性疲労症候群の患者に効果があるかどうかは、トップダウン型の心理療法のように実施されるか、あるいは、ボトムアップ型のボディワークのように実施されるかで、結果が変化するのではないか、という気がしています。

おそらく、トップダウン型のやり方、理性の力で、認知を変えたり、機械的に運動をしたりするよう努力してもらうやり方では、病状が悪化するだけです。身体が苦しいのに無理やり理性を働かせて動こうとするならより認知の疲労が貯まるだけです。

反対に、ボトムアップ型のやり方、患者が自然に取り組める場合、無理に認知を変えようとするのではなく自然な気づきを感じる場合や、いつのまにか運動を楽しんでいるような場合は、効果が出るのではないか、と思います。

言い方を変えれば、自分から努力して病気を治そう、というアプローチはより病状を悪化させ、感覚のままに自然に動き方を思い出せるようにする、というマインドフルネスなアプローチなら回復していくのではないでしょうか。

下記記事の補足部分に書きましたが、もしも、認知行動療法や段階的運動療法そのものに効果があるのではなく、自然な感覚に気づくボトムアップ型のアプローチに効果があるのだとしたら、もっと別の手段がたくさんあるかもしれません。

ヨーガで身体の声を聞く―トラウマや慢性疼痛に身体セラピーが役立つ理由
ベッセル・ヴァン・デア・コークらのトラウマ・センターで実践されている、トラウマの身体症状に対するヨーガ・プログラムを参考にして、身体的な気づきを促すボディワークがなぜ原因不明の身体

「とてもうまく変装」する

不登校の子どもたちには、自分自身に起きたことを説明できない混乱状態に陥る、という不可思議な共通点がありましたが、それには経験の解離という重要な意味がありました。

同様に、成人型の慢性疲労症候群でしばしばみられる、こころの問題への忌避感という不可思議な共通点にもまた、感情の解離という重要な意味があるのではないかと思います。

世の中の不思議で奇妙な出来事の裏には、必ずといっていいほど解離のまやかしがあるものです。

先に出てきた失感情症のピーターは、心理的な問題を絶対に認めない人でしたが、不平を言いながらもヴァン・デア・コークのセラピーに来るようになり、内的家族システム療法を通して「からだの声」を聞き、幼少期に父親から厳しい扱いを受け、感情を麻痺させていたことに気づきました。

過去の傷ついた自分を受け入れ、弱さを認めない厳しい自分の態度を変えていくことで、感情を感じ取れるようになり、片頭痛などの身体的な問題が解消されました。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによると、未解決のトラウマは片頭痛をはじめ、さまざまな身体疾患として表面化します。

かくして気まぐれな症状へと道筋が定まっていく。首や肩、背中の張りは時間の経過とともに線維筋痛症へと進行する可能性が高い。

また未解決のストレスによる身体的表現としてよく見られるものに偏頭痛がある。

胃腸のむかつきは、よく見られるような過敏性腸症候群やひどい月経前緊張症候群、またけいれん性結腸のような消化器系の問題へと突然変異的に進行してしまうかもしれない。

こうした状態は苦しんでいる人のエネルギー資源を枯渇させてしまい、慢性疲労症候群という形に進行する可能性もある。(p219)

成人型の慢性疲労症候群の場合も、もしかすると、原因の根は意識されていないこころとからだのストレスや、抑圧された過去の記憶にあるのかもしれません。

口で「ノー」と言えなければ身体が「ノー」と言うようになる― 抑圧された感情が招く難病と慢性疾患
ガンや自己免疫疾患、慢性疲労症候群(CFS)を含む多くの難病は、突然発症するのではなく、子どものころから抑圧してきた感情が関係している。患者の気持ちに配慮しつつ、ガボール・マテ博士

トラウマというと、虐待や機能不全家庭を思い浮かべる人は多いですが、近年の研究でいうトラウマは、災害や犯罪や医療措置、さらにはごく幼い時期の記憶に残っていない体験も含む生物学的現象だと考えられています。

原因不明の身体症状に苦しむ人のための「記憶」の科学の10の考察
全身に散らばる原因不明の身体症状の謎を、記憶の科学から読み解きます

もちろん、成人型の慢性疲労症候群の中にもさまざまなタイプが含まれているのでしょう。ウイルス感染や、腸内微生物、その他さまざまな要因が関わっているケースを否定するわけではありません。

というより、ピーター・ホワイトが述べていたとおり、「CFSは、体の病気でも、心の病気でもない。その両方」です。「心理的なものは身体的なものであり、身体的なものは体に対する心理的な感覚」です。

あそもそも身体と心は同じ生物的基盤を持つ現象であり、分離して考えることなとできません。ウイルスや腸内微生物といった生物学的問題は、ストレスのような従来心理的問題とされていた領域とひとつであり、区分することはできません。

“心理的な”ストレス下にある人は、身体の情動状態が変化するゆえにウイルスの影響を受けやすくなったり、腸内細菌の組成が変わったりします。ウイルスに感染したり、腸内細菌が変化したりすれば、性格などの“心理的な”部分が影響を受けます。

愛着やトラウマをめぐる物語の主役は腸内細菌かもしれないという意外すぎる話
神経寄生生物学の知見から、愛着やトラウマの問題を腸内細菌を中心に読み直してみました。

それで、もし精神的な疾患か身体的な疾患かという区分けに対するこだわりを捨て、どんなアプローチであれ治療する方法を探すことを優先したい、という気持ちになることができるなら、次のことばに心を向けるのは、きっと無駄なことではないと思います。

多くの場合、このような人たちは、複数の症状を抱えた病人となる。

救いを求めて医師から医師へとたずね歩くものの、自分たちを苦しめているものに対する解決策をほとんど得ることができないのだ。

トラウマは病人を苦しめる多くの症状や「不調」としてとてもうまく変装し、またそうした症状を作りだす。

現代の人類がかかる病気の大部分は、未解決のトラウマに原因があると推測してよいのかもしれない。(p219)

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解離と慢性疲労は深く関係していて、不動系という生物学的メカニズムによって引き起こされているという点を、不登校や小児慢性疲労症候群の研究と比較しながら分析してみました。

 

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