成人型の慢性疲労症候群の文化が抱える「バラムとロバ」現象


の記事は解離と慢性疲労について考えた以下の記事の1つ目の補足です。

だから君は慢性疲労に閉じ込められた―生きるエネルギーを枯渇させる解離そして不動状態
解離と慢性疲労は深く関係していて、不動系という生物学的メカニズムによって引き起こされているという点を、不登校や小児慢性疲労症候群の研究と比較しながら分析してみました。

本文では、小児型の慢性疲労症候群に焦点を当てて扱いました。では、成人型の慢性疲労症候群はどうなのでしょうか。

子どもであれ、大人であれ、同じ慢性疲労症候群だ、とみなす人もいますが、わたしはそうは思いません。

根拠のひとつは、今回扱った本が述べているように、たとえばトラウマ障害の場合、子ども時代に発症した場合と、大人になってから発症した場合とでは、表に出てくる症状が異なるからです。

発達性トラウマ障害(DTD)の10の特徴―難治性で多重診断される発達障害,睡眠障害,慢性疲労,双極II型などの正体
子ども時代のトラウマは従来の発達障害よりもさらに深刻な影響を生涯にわたってもたらす…。トラウマ研究の世界的権威ヴァン・デア・コーク博士が提唱した「発達性トラウマ障害」(DTD)とい

特に、本文で扱っている解離や不動状態は、生まれつきの感覚過敏性や、幼少期の愛着の安定性が大きく関わっています。

おそらく、若くして、まだ元気なはずの子ども時代、学生時代に慢性疲労状態になってしまう人は、発達障害であれ、HSPであれ、無秩序型愛着であれ、ある程度そうなってしかるべき要素を持っているのではないかと思います。

そうであれば、少なくとも学生時代には不登校に追い込まれるほどの体調不良を発症するに至らず、学校社会を乗り切って成人することができ、大人になってから別の要因で慢性疲労症候群になった人とは、生来の性質が違うのではないかと思います。

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成人型の慢性疲労症候群の文化

わたしはもともと小児型の慢性疲労症候群も、成人型の慢性疲労症候群も、ほとんど同じものだろうと考えていました。このブログの初期の記事はそうした書き方をしていたものと思います。

しかし成人型の慢性疲労症候群の人たちと現実で知り合ったり、ネット上でその人たちのコミュニティのぞいたりするうち、どうにも違和感を感じるようになり、基本的にはまったく別の文化ではないかと思い始めました。

不可解に思ったことのひとつは、成人型の当事者の全員ではないものの、それなりの数の人たちが、何らかのこころの問題が併存しているのではないか、と指摘されることに強硬とも思える拒否感を示すことです。

慢性疲労症候群は、本当は体が辛いのに、こころの問題ではないか、と医者に言われることが多く、そのせいで精神科疾患に対して拒否的になってしまうのはわかります。わたし自身がそうだったからです。

しかしわたしの場合、無責任に心の問題という言葉が使われるのが嫌だっただけで、最初からこのブログの記事では、慢性疲労症候群は心の問題と体の問題が複雑に絡み合っているものとして扱ってきました。

わたしはウイルスだけが原因だと考えるのは望ましくないと思っています。その2番目の理由をお書きしましょう。

不登校や小児型の慢性疲労症候群の子どもたちを見ても、心の問題を指摘されることにそれほどまでの拒否感はないように思います。そうでなければ、不登校がこれほど精神科的な問題として扱われることはないでしょう。

三池先生も、不登校外来ー眠育から不登校病態を理解するの中で、不登校を「こころの問題」とすることに異議を唱えていますが、それはそうした言葉が逃げ口上として使われているからでした。

“こころの問題”とはどのような問題であろうか。こころはどこにあり、どのように不登校と関連してるのだろうか。こころの持ち様は変えられるのであろうか。

何もかも曖昧で、明確な方向性を示すことができない医療現場の“逃げ口上”ともいえる。

不登校で苦しむ彼らを医学生理学的に明確に評価する方法を持たない医療は、漠然としてとりとめのない無責任な言葉“こころ”に逃げ道を求めたにすぎないのではないか。

現代の医療レベルの発展を考えるとき、医療に従事する者が“こころの問題”などと逃げること自体が許されないことだと考えている。

“こころ”とは何か、現代の医学のレベルで“こころ”に迫るには何をすればよいのか、どのようなアプローチが可能か、これらを追求することがこれからの医療に携わる者の務めといっても過言ではないと思う。(p12)

三池先生が言わんとしているのは、不登校が心の伴わない純粋な身体的問題である、ということではなく、こころが関係しているのであれば、それがどのようなメカニズムで関係しているのかを研究する必要がある、ということでした。

現に三池先生の教え子であり、小児型慢性疲労症候群の研究者でもある友田先生は、“こころの問題”とは何かを脳科学で明らかにする道へと進み、愛着やトラウマに関する先駆的研究を成し遂げました。

他方、成人型の慢性疲労症候群(CFS)の人たちにしばしば見られる、精神科疾患への拒否感は、単にこころの問題と言われて傷ついたから、という言い方で説明できるレベルを越えているように思います。

「病は気から」を科学するには、ランセットに載せられた医師ピーター・ホワイトによる、認知行動療法(CBT)と段階的運動療法の研究に対するイギリス患者団体の激しい反発という、わりと有名なエピソードが載せられています。

ところが、患者グループはその研究結果を歓迎するどころか、反感を抱いた。「イギリス内外のほとんどすべての患者支援団体が、試験を失敗として受け止めた」とホワイトが言う。

こういった団体はCBTのような「心理学的」な治療がCFSの患者に有効だという考えにかなり懐疑的で、段階的運動療法のような活動目標は非常に危険だと考えていた。

彼らの主張は、「CFSは治療法のわからない純粋な体の病気だから、ホワイトの治療法のどれかが効いた人はこの病気ではない」というものだった。(p125)

双子の遺伝子――「エピジェネティクス」が2人の運命を分けるによると、慢性疲労症候群を精神的な問題と関連づけると、一部の攻撃的な患者によって医師の身に危険が及ぶという話までありました。

IBSの患者の多くは、心身症という診断をきわめて不名誉なことだと感じている。

慢性疲労症候群を研究していた私の同僚の中には、患者から「殺すぞ」と脅されて研究領域を変更した人もいる。(p24)

それは極端な例であるにしても、「イギリス内外のほとんどすべての患者支援団体が、試験を失敗として受け止めた」という事実だけでも不可思議です。

こうした精神科疾患に対する拒否感は、海外の遠い世界の話ではなくて、ここ日本でもしばしば見られます。たとえば慢性疲労症候群には、何かしらの精神的な問題が絡んでいるはずはなく、ウイルス感染その他の身体的な、器質的な疾患である、という信念を持っている人もいます。

事実は、「病は気から」を科学するでピーター・ホワイトが述べるとおりであるとわたしは思っています。

その分け方にホワイトは異議を唱える。当然ながら心と体は相互にやり取りし、反映し合っている。

「心理的なものは身体的なものであり、身体的なものは体に対する心理的な感覚だ」。

…たとえば、CBTにより脳に測定できる増大が起こること、コルチゾールなどストレスホルモンの濃度が影響を受けることが、いくつかの研究で明らかになっている。

考え方を大きく変えれば、CFSの患者は、自分の病気は身体的要因と心理的要因が絡み合ったものだと受け入れられるようになるかもしれないと、彼は非難を恐れることなく主張する。

CFSは、体の病気でも、心の病気でもない。その両方なのだ。(p128)

人の体は心身相関の上に成り立っているゆえに、慢性疲労症候群(CFS)は、心と体の複雑な相互作用によって発症する病気であり、身体的なアプローチも精神的なアプローチも両方役に立つ、とわたしも考えています。

身体的なアプローチであれ、心理的なアプローチであれ、回復する見込みがあるなら何でもやってみたらいいのではないでしょうか。たとえもし本当にウイルス性であったとしても、がん患者がそうするように、心理的なアプローチは役立つはずです。

それなのに、成人型の慢性疲労症候群の文化では、「CFSは治療法のわからない純粋な体の病気だから、ホワイトの治療法のどれかが効いた人はこの病気ではない」とみなされます。

彼らにとっては回復するかどうかより、精神的な疾患ではないと証明されることのほうが重要なのだとしか思えません。「心身症という診断をきわめて不名誉なことだと感じている」のです。

昨今の病名変更問題についてもそうで、わたしは慢性疲労症候群でも、全身性労作不耐疾患でも、いっそうつ病でも、治療や福祉につながればそれでいいと思うのですが(皮肉なことに慢性疲労症候群よりもうつ病などの精神科的な病名のほうが福祉の支援を受けやすいはずです)、ある人たちは「身体的な病気」だとはっきりわかる病名を望みます。

近年は、脳の炎症が見つかったことで身体的病気だと主張する人たちもいますが、そうした炎症はPTSDやうつ病などのいわゆる“こころの病気”とされるものにも見つかっています。人体の心身相関を考えれば当然ともいえます。

PTSDは「心の傷」ではなく脳の炎症を伴う病気―トラウマ記憶の治療法をめぐる最近の研究
PTSDに脳の炎症が発見され薬物療法の臨床試験が計画されていることなど、最近のPTSDやトラウマ記憶の治療についてのニュースをまとめました。

失感情症と回避型愛着スタイル

このあまりに奇妙に思える考え方は、ヴァン・デア・コークの身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法に書かれている「失感情症」について知れば、納得がいきます。

失感情症の人は情動の言語に代えて行動の言語を使う。

…彼らは情動を、注意を払ってしかるべき信号としてできなく、身体的問題として認識する傾向にある。

腹立たしさや悲しさを感じる代わりに、原因不明の筋肉の痛みや、腸の不調、その他の症状を経験する。(p165)

「失感情症」とは、解離のうち感情だけが切り離された状態をいいます。

本文で見た慢性的な不動状態は、記憶や人格を切り離すような解離と関係していて、自分の体の外に出てしまうことを意味していました。

「失感情症」はそれよりも一段上にある軽い解離であり、自分自分を切り離すでもなく、ただ感情を切り離すことで対処します。

「失感情症」は、子ども時代に厳しく育てられた人、甘えを許されなかった人、ネグレクトされた人などに多い、「回避型」と呼ばれる愛着スタイルによく見られます。

きっと克服できる「回避型愛着スタイル」― 絆が希薄で人生に冷めている人たち
現代社会の人々に増えている「回避型愛着スタイル」とは何でしょうか。どんな特徴があるのでしょうか。どうやって克服するのでしょうか。岡田尊司先生の新刊、「回避性愛着障害 絆が稀薄な人た

続 解離性障害―脳と身体からみたメカニズムと治療でも、解離性障害を診ている奥田ちえ先生が身体表現性障害(原因不明の慢性疲労や慢性疼痛の精神科的呼び方)について、それと一致した意見を述べています。

日本に戻る前の何年かは、behavioral medicine specialistとして、身体表現性障害の患者さんで慢性的なうつや機能障害を持つ患者さんを診るようになりました。

これらの患者さんのセラピーをしていると、相当な数の人に過去のトラウマの話が浮かび上がり、機能低下がトラウマに関係している印象を受けました。

特に、私からみると幼少期から慢性的なネグレクトと思われる環境で育ったけれど、自分はそう思わずにがんばってやってきた人などは、1つの典型的なタイプと思われました。(p205)

「幼少期から慢性的なネグレクトと思われる環境で育ったけれど、自分はそう思わずにがんばってやってきた人」。それこそ失感情症に陥る、回避型の愛着の人たちの特徴です。

回避型の人たちは弱音を吐くことができなかったため、本当はだれかに頼りたい、優しくしてもらいたい、といった気持ちを解離させ、自分にも他人にも厳しく振る舞い、こだわりが強く完璧主義になりがちです。

ヴァン・デア・コークの身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法には、そのようなある男性についてこう書かれています。

ピーターはさらにメディカルスクール時代のローテーションで精神科を受診して、精神科医は今なお魔術まがいのことをやっていると確信し、夫婦療法を一度試してみて、この見方は一段と強まったと語った。

彼は自分の問題を親や社会のせいにする人々に対する軽蔑をあらわにした。

ピーター自身も、子供のころにそれなりの苦難を味わってきたが、自分を犠牲者とは考えまいと心に決めていた。(p486)

また失感情症を抱える自己免疫疾患の人たちについてはこう書かれてもいました。

多くのトラウマサバイバーと同じで、関節リウマチ患者もまた失感情症だった。

のちにナンシー・ソーウェルから聞いたのだが、患者たちはとても耐えられない状態にならないかぎり、苦痛や身体的な不自由についてけっして不満を訴えなかった。

いかがですかと問われると、「大丈夫です」と判で押したように答えた。患者たちの毅然とした部分が問題への対処に役立っているのは間違いなかったが、そうした管理者のせいで、患者は何でも否認する状態に陥っていた。

なかには、身体的感覚や情動を大幅に遮断していたため、医師とうまく協力できない人もいた。(p483)

失感情症の人たちは、自分は甘えずに強く生きてきたという自負があり、そう簡単に不平を言ったり、弱音をはいたりしない心が強い人間だという自信を持っています。そのため、「こころの問題」があるなどと言われると、プライドを傷つけられたと感じます。

失感情症の人たちは、さまざまな身体症状があらわれますが、それが、何かしらのトラウマによるものではないか、感情的に無理をしてきたのではないか、子ども時代の出来事に原因があるのではないか、などと尋ねられると即座に否認します。

ヴァン・デア・コークの友人でもあるトラウマ研究者ピーター・リヴァインは、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーの中で、失感情症にともなう否認と、それに伴うさまざまな身体症状は解離の一種であるとはっきりこう書いています。

しかし、中にはそれが解離からきているとは分かりにくい症状もあります。それは以下のようなものです。

■否認はおそらくより低いエネルギーレベルの解離でしょう。否認では、人と、特定の出来事(あるいは一連の出来事)に対する記憶や感情との間に断絶が起こります。私たちは、ある出来事が起こったことを否定したり、それが大して重要ではないかのように行動したりすることがあります。

…感情があまりに苦しいときは、否認は慢性化します―そんな事は決して起こらなかったという考えに石のようにしがみついてしまうのです。(p163)

■身体の不調はしばしば、身体の一部が他の部分から切り離されてしまうという、部分的な、または区分化された解離の結果起こります。

頭とそれ以外の身体との分離は、頭痛を引き起こすことがあります。

PMS(月経前症候群)は骨盤部の臓器と残りの身体部分とが分断された結果起こる場合があり、消化器系の症状(過敏性腸症候群)など、再発性の腰痛、慢性的な痛みなどは、狭窄によって悪化した部分解離が原因となって起こることもあるのです。(p164)

否認とはすなわち、記憶の解離に伴う反応だといえます。過去に強い感情的苦悩を経験したにもかかわらず、その記憶や感情があまりに苦しすぎたため、意識から切り離されて、本人は気づけなくなっているということです。

しかし、たとえ意識から切り離されていても、過去のトラウマは現実のものなので、からだの症状としてはっきり痕跡が現れます。たとえ戦争の歴史を「なかったこと」にしようとしても戦禍の爪痕が消えるわけではないのと同じように。

今回紹介した身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアのまえがきを担当しているガボール・マテも、別の著書で、こうした人たちが慢性疲労などの身体疾患に陥りやすいと述べていました。

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病気の人はポジティブシンキングを身につけるようよくアドバイスされます。しかし意外にも、ポジティブに見える人ほど病気が重いというデータもあるのです。「身体が「ノー」と言うとき―抑圧さ

失感情症の人たちが、心理的ストレスの影響を「否認」することは、極めて不可思議です。

たいていの人は多かれ少なかれ、さまざまな心理的ストレスを日々味わうので、たとえ身体的な病気でも、心理的な要因があると言われれば、そうかもしれない、と思ってしまうものです。

不登校と関わりが深いと思われる「恐れ・回避型」の人たちも失感情症にはなりますが、純粋な「回避型」の人たちより感情的な不安や過敏性が強いので、感情のみを器用に切り離すことはできず、もっと強い解離、たとえば自分が自分でないように思える離人症などを経験します。

感情を認識している人なら、体調が悪くなったとき、身体的な原因だけでなく、感情的な原因も結び合わせるものです。

それなのに、まったく心の問題ではない、絶対に身体的な病気だ、と言い切ることができてしまうのは、感情的なきっかけがひとつも思いつかない、つまり、普通の人が日々の生活で自然に感じているであろう心理的ストレスが解離されていて意識から覆い隠されているのだとしか説明がつきません。

そもそも、自分は失感情症である、ということも気づいていないでしょう。感情が満ち溢れる状態を、子どものころから経験したことがないからです。

失感情症の人も、自分は怒りや悲しみや、そのほかの情動を普通に感じていると思っています。しかしそれは、本当に生き生きとした感情を感じている人に比べたら、ほんとのわずかしか感じていません。

わたしは、自分が人の顔があまり覚えられない相貌失認だとなかなか気づけませんでした。わからないなりに髪型や服装などの手がかりから判断していて、他の人もそうしているのだと思っていたからです。失感情症の人も、そのようなものです。

盲視と失感情症の類似点

失感情症の人の状態は、盲視と呼ばれる解離現象とよく似ています。盲視の人は自分は目が見えないと信じていますが、障害物を避けたり、質問されたものを適切に指差したりできます。

オリヴァー・サックスは道程:オリヴァー・サックス自伝でこんな例を紹介しています。

同様に、脳の一次視覚野への重大な損傷による完全な皮質盲の患者は、何も見えないと主張するが、不思議なことに、自分の前にあるものを「当てる」こともある―いわゆる盲視だ。

このようなケースでは、知覚と知覚上のカテゴリー化は保持されているが、高次の意識とは切り離されているのだ。(p444)

これは嘘をついているわけではなく、目という感覚器官は正常に働いているのに、それが意識から解離されているのです。からだはしっかり見ているのに、こころは見えていない、見えていることを認識できない状態にあります。

失感情症の人も、感情はしっかり存在しているのに、意識から解離されています。からだは感情を認識しているのに、こころは感情を認識できず、気づくことができません。

そうすると、盲視の人が自分では見えていないと言いながら、からだは視覚刺激に反応していたように、失感情症の人も自分では心理的ストレスはないと言いながら、からだは心理的ストレスに反応して、ときには慢性疲労に陥ります。

失感情症とは、心理的ストレスを“見る”ことが意識から解離されている、盲視と同じカテゴリの解離現象であるといえます。

盲視の人たちは、実際には見えているはずだ、と指摘すると気分を害します。本人にとって見えていないのは事実なので、言い分を信じてもらえず、詐病と思われている気になるからです。

失感情症の人たちは、こころの問題がからだに出ていると指摘すると気分を害します。本人にとってはこころの問題が存在しないのは事実なので、やはり言い分を信じてもらえず、詐病扱いされている気になるからです。

意識から解離されている物事は、本人にとっては正真正銘存在していないように感じられるので、たとえからだに影響が現れるとしても、やすやすと信じることはできないのです。

「バラムとロバ」現象

サックスは道程:オリヴァー・サックス自伝でも別の類似した解離現象も挙げています。

神経の損傷のあとに、記憶と意識の解離が起こり、潜在的な知識または記憶だけが残ることがある。

そのため、私の患者で健忘症の船乗りのジミーは、ケネディー暗殺の顕在記憶はなく、20世紀に暗殺された大統領はいたかと訊くと、「いいえ、知りません」と言う。

しかし「それならもしもの話として、あなたの知らないところで大統領暗殺が起きていたとしたら、どこで起こったと思いますか、ニューヨーク、シカゴ、ダラス、ニューオーリンズ、それともサンフランシスコ?」と訊くと、彼は必ずダラスだと「当てる」。(p443)

この場合の解離は、知識の解離でした。この人は記憶喪失で意識の上では過去の歴史を知りませんでした。しかし、この人の無意識はそれを覚えていました。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、解離とは、次のような状態のことをいいます。

解離とは、知っていると同時に知らずにいることを意味する。(p200)

解離とは、「知っていると同時に知らずにいること」、つまり、からだは自分自分が体験してきたストレスやトラウマの存在を知っていて反応しているのに、意識はそれを知らずにいて存在が見えていないことを言います。

ちょうどそれは、古代ユダヤ人の物語「バラムとロバ」のようなものです。

バラムという預言者がロバに乗って道を進んでいたときのこと。ロバは前方に剣を持った天使が立っているのを見て恐怖を感じてうずくまりました。しかしロバに乗っていたバラムは天使が見えていなかったので、ロバが怠けていると思って打ち叩きました。

失感情症の人のからだは、剣を持っている心理ストレスやトラウマが“見えている”ので、それに反応して、さまざまな身体症状を示します。しかしその人のこころには何も“見えていない”ので、なぜからだがうずくまっているか原因不明になってしまいます。

失感情症の人にとって、こころの問題を指摘する精神科医は、何もない空間を指指して、「ここにいる剣を持った天使のせいで、あなたのからだは怖がって慢性疲労や慢性疼痛を抱えているのですよ」などと言っているようなものです。

失感情症や盲視といった解離のまやかしについて知らなければ、どう考えてもその精神科医がペテン師だとしか思えないでしょう。

当然ながら、そのような人は、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にあるように、心理的なストレスがからだにどんな影響を及ぼすかを学んだり、精神科のセラピーを受けたりすることはまずありません。

失感情症の人は、自分の身体的感覚と情動の関係に気づくことを学ばないかぎり、回復できない。

色覚異常の人が、灰色の色合いを区別できるようにならないかぎり、色のある世界に入れないのと同じことだ。

…彼らはたいてい、それを学ぶことに乗り気ではない。彼らの大半は、さまざまな医師を訪ね、癒えることのない病気を治療し続けるほうが、過去の魔物たちに立ち向かう、つらい課題をこなすよりもましだという、無意識の決定を下してしまったように見える。(p167)

成人型の慢性疲労症候群の人たちが、効果があるという報告されている心理療法を拒み、治る可能性を求めて心を探ることよりも、あくまで身体的な病気であるということのほうに固執しがちなのは、これとよく似ています。

もっとも、現代の精神科の多くが解離やトラウマをまっとうに扱えず、不登校やヒステリーの原因を理解できていない現状からすれば、おいそれと無闇に精神科に行かないのは正しい選択であるともいえます。

サイコロジカル・トラウマの中でベッセル・ヴァン・デア・コークは、失感情症の人たちには精神科でよく行われるカウンセリングのような言語的心理療法は効果がないと述べています。

アレキシチミアの人には言語的心理療法は一般的に無効なものと考えられる。

というのは、彼らは内的環境を伝えるための言語を持たないからである。(p192)

慢性疲労症候群に対して効果があるとされる運動恐怖に対する認知行動療法や段階的運動療法は、言語的心理療法というよりは、身体志向のセラピーに近いといえます。

必要なのは精神科医にかかるかどうかではなく、失感情症によって覆われている本来の情動の存在に気づくことです。ちょうど、もの言わぬロバの言い分を聞こうとするかのように、言葉によらずして「からだの声」に耳を傾けることが必要です。

それにはたとえば、本文で紹介した気づきを鍛えるマインドフルネスやソマティック・エクスペリエンスの手法などが役立つでしょう。

「とてもうまく変装」する

不登校の子どもたちには、自分自身に起きたことを説明できない混乱状態に陥る、という不可思議な共通点がありましたが、それには経験の解離という重要な意味がありました。

同様に、成人型の慢性疲労症候群でしばしばみられる、こころの問題への忌避感という不可思議な共通点にもまた、感情の解離という重要な意味があるのではないかと思います。

世の中の不思議で奇妙な出来事の裏には、必ずといっていいほど解離のまやかしがあるものです。

先に出てきたピーターは、心理的な問題を絶対に認めない人でしたが、不平を言いながらもヴァン・デア・コークのセラピーに来るようになり、内的家族システム療法を通して「からだの声」を聞き、幼少期に父親から厳しい扱いを受け、感情を麻痺させていたことに気づきました。

過去の傷ついた自分を受け入れ、弱さを認めない厳しい自分の態度を変えていくことで、感情を感じ取れるようになり、片頭痛などの身体的な問題が解消されました。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによると、未解決のトラウマは片頭痛をはじめ、さまざまな身体疾患として表面化します。

かくして気まぐれな症状へと道筋が定まっていく。首や肩、背中の張りは時間の経過とともに線維筋痛症へと進行する可能性が高い。

また未解決のストレスによる身体的表現としてよく見られるものに偏頭痛がある。

胃腸のむかつきは、よく見られるような過敏性腸症候群やひどい月経前緊張症候群、またけいれん性結腸のような消化器系の問題へと突然変異的に進行してしまうかもしれない。

こうした状態は苦しんでいる人のエネルギー資源を枯渇させてしまい、慢性疲労症候群という形に進行する可能性もある。(p219)

成人型の慢性疲労症候群の場合も、もしかすると、原因の根は意識されていないこころとからだのストレスや、抑圧された過去の記憶にあるのかもしれません。

口で「ノー」と言えなければ身体が「ノー」と言うようになる― 抑圧された感情が招く難病と慢性疾患
ガンや自己免疫疾患、慢性疲労症候群(CFS)を含む多くの難病は、突然発症するのではなく、子どものころから抑圧してきた感情が関係している。患者の気持ちに配慮しつつ、ガボール・マテ博士

もちろん、成人型の慢性疲労症候群の中にもさまざまなタイプが含まれているのでしょう。ウイルス感染や、その他さまざまな要因が関わっているケースを否定するわけではありません。

こころとからだは密接に関係しているがゆえに、ピータ・ホワイトが述べていたとおり、「心理的なものは身体的なものであり、身体的なものは体に対する心理的な感覚」でもあります。

たとえば近年、慢性疲労症候群に腸内細菌の異常がみられるとされていますが、腸は第二の脳であり、腸脳相関によってこころとからだは連動しているので、互いが互いに影響を及ぼします。

ピーター・ホワイトが述べていたとおり、「CFSは、体の病気でも、心の病気でもない。その両方」なのです。

それで、もし精神的な疾患か身体的な疾患かという区分けに対するこだわりを捨て、どんなアプローチであれ治療する方法を探すことを優先したい、という気持ちになることができるなら、次のことばに心を向けるのは、きっと無駄なことではないと思います。

多くの場合、このような人たちは、複数の症状を抱えた病人となる。

救いを求めて医師から医師へとたずね歩くものの、自分たちを苦しめているものに対する解決策をほとんど得ることができないのだ。

トラウマは病人を苦しめる多くの症状や「不調」としてとてもうまく変装し、またそうした症状を作りだす。

現代の人類がかかる病気の大部分は、未解決のトラウマに原因があると推測してよいのかもしれない。(p219)

だから君は慢性疲労に閉じ込められた―生きるエネルギーを枯渇させる解離そして不動状態
解離と慢性疲労は深く関係していて、不動系という生物学的メカニズムによって引き起こされているという点を、不登校や小児慢性疲労症候群の研究と比較しながら分析してみました。

 

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