当事者研究や統計調査で気をつけたい「基準率錯誤」


たしがこのブログで空想の友だちの記事を書き始めたころに比べると、最近は当事者たちの情報発信が活発になっており、インターネット上で統計調査のアンケートをしている人も見かけます。

当事者研究は、特にアスペルガー症候群(自閉スペクトラム症)などの発達障害の研究で注目されてきました。

近年は、発達障害の人たちによるネット上での情報発信や当事者研究が活発で、社会にあまり馴染めない人たちにとっては、ネット上のコミュニティーが、交流の中心地となっている印象もあります。

他方、このブログでは過去の記事で、解離やイマジナリーコンパニオン(空想の友だち)の当事者研究が必要だと書きました。いまだ実態がよく知られていない少数派が多い分野です。

イマジナリーフレンド(IF)「私の中の他人」をめぐる更なる4つの考察
心の中に別の自分を感じる、空想の友だち現象について、子どものイマジナリーフレンド、青年期のイマジナリーフレンド、そして解離性同一性障害の交代人格にはつながりがあるのか、という点を「

この分野でも、近年は、ネット上の情報交換が活発になってきたように思います。おそらく、わたしの記事など関係なしに、時代の流れとして、当事者研究の活動が活発になってきているのでしょう。

そのようにして、これまであまり知られていなかった現象に光が当たるのは、とても有意義なことです。

しかし同時に、調査結果に対して、「基準率の錯誤」が入りこまないように注意することも必要です。

統計調査をするときにどうしても避けて通れないのが「基準率」(事前確率)の問題です。結果を受け入れる前に、サンプリングのレベルで、バイアスがかかっていないか吟味する必要があります。

この記事では、特に解離のような少数派や私秘性を特色とする文化について考える際、統計を読むときに注意したいことを考えてみました。

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これはどんな本?

話題の切り口に参考にしたのは、ノーベル経済学賞を受賞した、行動経済学の先駆者ダニエル・カーネマンによるファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)です。

わたしたちの意思決定やデータの見方に、いかにバイアスやヒューリスティック(無意識の偏りや安易な近道)が入り込んでいるかをさまざまな具体例を通してわかりやすく説明してくれます。

相応のボリュームがある本ですが、何かを考察、分析する人は、実践できるかどうかはともかく真っ先に目を通しておくべき教科書といえます。

「基準率」を意識する

冒頭に出てきた「基準率」とは何かを説明する前に、クイズに答えてもらったほうがわかりやすいでしょう。

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)にはこんな問いかけがあります。

たとえば、あなたがニューヨークの地下鉄の中で、ニューヨーク・タイムズを読んでいる人を見かけたとしよう。この人は、次のどちらである可能性が高いだろうか。

博士号を持っている。
大学を出ていない。(p223)

どちらが正しいと思いますか。

続く説明を見てみましょう。

代表性からすれば博士号を選ぶことになるが、その選択は必ずしも賢明とはいえない。

ニューヨークで地下鉄に乗る人は大学を出ていない人のほうがはるかに多いのだから、あなたは二番目の選択肢を真剣に考えるべきである。(p223)

あなたはこのクイズに正しく答えることができましたか?

この例では、新聞を読んでいる人が博士号を持っているか否かを判断する以前に、「ニューヨークで地下鉄に乗る人は…」という前提について考える必要がありました。

調査した場所がニューヨークの地下鉄の中なのか、大学のエレベーターの中なのかは、調査結果の解釈に大きな影響を及ぼします。

ニューヨークで地下鉄に乗っていたある人が博士号を持っている可能性より、大学の敷地内にいたある人がそうである可能性のほうが確率が高くなるでしょう。

こんな例も載せられています。

では、「内気で詩が好き」な女性が中国文学と経営学のどちらを専攻していると思うか、と訊ねられたら、どうだろう。

この場合、あなたはぜひとも経営学を選ぶべきだ。たとえ中国文学を学ぶ女子高生が全員内気で詩が好きだとしても、はるかに人数の多い経営学専攻の女子学生の中には、そういう乙女が中国文学学科よりずっとたくさんいるはずである。(p223)

これは文化によって違いがあるので、中国国内では当てはまらないかもしませんが、「内気で詩が好き」な人が中国文学専攻か、経営学専攻かを考える際、やはり学部での人数の割合という前提について考える必要がありました。

いずれにしても、サンプルを取ったグループの特色について考えないと、答えが変わってしまいます。

そもそもニューヨークの地下鉄に乗る人のうち博士号を持っている人がどれくらいいるか、女子学生のうち中国文学専攻の人はどれくらいいるか。

この前提となる確率が基準率(base rate)です。

この基準率の考え方は、イギリスの牧師また数学者のトーマス・ベイズによるベイズ統計学に基づいています。ベイズ統計学の手順では、統計結果に基準率(事前確率)を掛け合わせる必要があります。

かりにもし、「内気で詩が好き」な人の割合が、中国文学を専攻する人では100%、経営学を専攻する人ではたった20%だとします。これだけだと、「内気で詩が好き」な学生は、中国文学の学科に圧倒的に多くいるかのように思えます。

しかし、その学校の学生全体の人数のうち、中国文学を専攻する人数は1%、経営学を専攻する人が学生の人数は10%だ、という基準率があるとすればどうなるでしょうか。(あくまで仮の話です)

それぞれを掛け算すれば「内気で詩が好き」なのは、学生全体のうち、中国文学の生徒は100%×1%=1%、経営学の生徒は20%×10%=2%で、経営学の生徒のほうが多いことになります。

この基準率はどこの国のどんな分野の学校の学生からサンプリングしたかで容易に変動します。サンプルがどこから取られたかで基準率が変わるということは、調査した場所がインターネット上であってもまたしかりです。

インターネット上で回答を募った調査結果は、すべてのタイプの人をまんべんなく含むものではなく、少なくとも(1)インターネットに慣れ親しんでいる、(2)インターネットで見知らぬアンケートに答える積極性がある という条件を満たす人たちの意見の統計にすぎない、という点を覚えておかねばなりません。

またSNSや特定のサービスを利用して行われるアンケートについては、さらに(3)そのサービスの活発な利用者である、という条件を追加する必要があるでしょう。

現代では、インターネットの利用者は拡大してきたとはいえ、インターネットで積極的にやりとりしたり、SNSを活発に利用したりする層は、年齢層や学歴その他の偏りがあるとみていいでしょう。

たとえば家庭への電話で行われる世論調査、街角で行われるインタビュー、ネット上で行われるアンケートは、それぞれ重なり合いつつも、異なる層の意見を汲み上げているものです。

電話に出ない(そもそも固定電話を持たない)人、大都市に出歩かない人、ネットをやらないか見るだけの人、といった層の意見をそれぞれ度外視しているので、それぞれの統計を一概に平均的なものとみなすのは不合理です。

インターネットで日常的に情報発信したり、情報収集したりしている人たちは、インターネット上の意見 イコール 一般的な意見だと錯覚しがちです。

しかしネット上で多い意見が現実社会にも多い、とみなすのが錯覚であることは、最近SNSで話題になっていたニュースや、ネット社会では常識だとされている言葉について、身の回りの家族や友だちがどれほど知っているか試してみればすぐにわかります。

ネット上のレビューや口コミ、ブログの感想などを読む際にも、これはネットを利用できる層や、そのサービスを利用しやすい層の意見であって、一般社会の普遍的な意見を反映しているとは限らない、という基準率について考えてみる必要があります。

サンプリングレベルの誤り

教養としての認知科学にも、本当はサンプリングが特殊で、結果にバイアスがかかってるのに一般的だと誤ってみなされてしまっているを例が載せられています。

一部の論者がよく主張することに、昔はよかったというものがある。

その中でも、昔の母親は子どもの世話をきちんとしていたが、近頃の母親は自分の好きなことだけやって子どもを見ない、よって変なことをする子ども、犯罪少年たちが増えてきた(増えていない!)という話がある。(p189)

ここでは「昔の母親はよかった」というよくある認識が取り上げられています。

しかし1950年、母親に対して行われた子どもの身売りに関する調査では、子どもの身売りを全否定する母親は20%しかいなかったそうです。特に農村部では弱い肯定も含めると半数近くが肯定側でした。

また少年犯罪が増えている、というのも、データからすれば誤りです。これは頻度が少ない凶悪な事件が連日繰り返しメディアで取り上げられるせいで頻度が多いと誤認される、「利用可能性カスケード」です。

なぜ人はテロに強い不安と恐怖を感じるのか―「利用可能性カスケード」という錯覚
最近、テロのニュースが頻繁に報道されています。ノーベル経済学賞のダニエル・カーネマンの本「ファスト&スロー」によると、こうした報道は利用可能性という落とし穴につながるかもしれません

この結果について、教育社会学者の広田先生はこう分析しているそうです。

こうしたことの背後には、サンプリングレベルの誤りがあると広田は述べている。

つまり、昔はよかったということをメディアを通して意見できる人は、ごくごく限られた人、知識人、有名人たちであり、多くはその時代であっても高いレベルの教育を受けられた、一部の富裕階級の出身である可能性が高い。

そうした家庭では母親は家庭内労働以外をする必要がない、つまり主婦であり、家にいつでもおり、子どもの帰りを待っている。

そうした家庭で育った人は、友人もそうである確率は高い。そして彼らは自分の周りだけからサンプリングを行い、自分とその周りの生活が一般的であるという誤った母親のプロトタイプを作ってしまい、それをメディアに載せてしまった可能性がある。(p190)

これと同様のことはインターネット上のサービスを用いたサンプリングでも生じえます。つまり、同じサービスを使っていて、互いに交流する人たちは、もともと、ある程度は似たような体験を有している可能性が高いでしょう。

「自分の周りだけからサンプリングを行い、自分とその周りの生活が一般的であるという誤った…プロトタイプを作ってしまい、それをメディアに載せて」しまうかもしれません。

インターネットを社会に例えれば、特定のポピュラーなサービスのような大通りの中心部ではなく、辺境の“農村部”のようなところに位置している人たち、つまり、他との交流が少ないか、あまり活発に活動していない人たちの意見は見逃されてしまうかもしれません。

以前の記事で書いたとおり、解離傾向の強い人たちは、私秘性の強い人たちでもあります。

解離と愛着から考える空想の友だち―イマジナリーコンパニオンに「出会う」人「作る」人の違い
学童期以降に、イマジナリーコンパニオン(空想の友だち)と無意識に「出会う」人、意識的に「作る」人の文化の違いを、愛着スタイルの違いという観点から考えてみました。

そうすると、ネット上で行われる不特定多数への調査では、より交流を求める人たちの意見が濃縮され、より解離傾向の強い私秘的な人たちの意見はそれほど反映されない傾向があるのではないか、と推測されます。

発達障害の当事者研究においては、現実世界に居場所を見いだせない人たちが、ネット上のやりとりには参加しやすく、より実情を反映しているのではないか、という感があります。

解離傾向の強い少数派の人たちも、ネット上では、あまり周囲を気にすることなく自由に発言できるのか、というと、わたしはそうである場合もあれば、そうではない場合もあると考えています。

たとえば、わたしは、解離やイマジナリーコンパニオンの記事を書き始めて以降、幾人かの当事者から、内密に感想をもらったことがありました。その人たちの中には、SNSなどではコミュニティーとのつながりをあえて持とうとしない人もいました。

たとえネット上であっても、見知らぬ他人に自分の体験に踏み込まれたくないと感じている人、自分の世界を共有することで、自分だけの体験の純粋さが喪われることを危惧している人もいました。

おそらく、そうした人たちは、解離傾向の強い人の典型であり、リアルでもネットでも、ごく一部の深い信頼関係を結んだ相手以外には、まったく体験を打ち明けないのでしょう。たとえだれかに打ち明けるとしても、ほんの一部だけかもしれません。

そもそも、どこにも居場所がないことが強い解離傾向の土台となっていますが、もしネット上の何らかのコミュニティーが居場所の役割を果たすとしたら、解離傾向はもっと安定化しているでしょうし、巨大な空想世界は必要ないはずです。

そのような人たちが現にいる以上、そして解離という文化は、典型的な人ほど、そうした性格傾向を示しやすいということを考慮すると、ネット上のアンケートや統計の分析には慎重になる必要があるでしょう。

おそらくは、ネット上で不特定多数の人を対象に調査した解離やイマジナリーコンパニオンについての統計と、病院や研究施設などの一対一の場で信頼できる相手とやりとりされた結果を集めた統計とでは、重なり合いつつも違う層の結果を反映するのではないかと思われます。

少数派の意見と「シンプソンのパラドックス」

当然のことながら、統計をとったり平均したりすると、多数派の意見が重視され、少数派の極端な体験は淘汰されます。他方、信頼関係が育った上で一対一の場面で得られた情報は、少数派一人ひとりの独特な経験に光を当てます。

以前に書いたとおり、統計が導き出す「平均値」や「中央値」はときには有用ですが、本来そこに含まれている両極端な多様性を「平均的人間」という幻想で希釈してしまいがちです。

ダニエル・タメットが語る「ぼくと数字のふしぎな世界」―人間の本質は無限の多様性の中にある
ダニエル・タメットのエッセイ集「ぼくと数字の不思議な世界」から人間が持っている多様性について考えてみました。

あるグループを全体として見た統計と、部分ごとに分割して見た統計とでは、まったく真逆の結果が出る場合があり、「シンプソンのパラドックス」と呼ばれています。

多数派を含むグループ全体で平均した場合に出る結果と、少数派だけ抜き出して平均した場合の結果とでは、異なる傾向が導き出される可能性があります。

身近な例で言うと、学習障害の子どもは時おりシンプソンのパラドックスで泣きを見ます。

彼らはある特定の分野では優れたスペシャリストの才能を発揮します。しかしすべての教科を平均するとオールマイティーになんでもこなせるジェネラリストの子どもたちに比べ、成績が極端に悪くなります。

狭い分野だけの成績でサンプリングした場合と、広い教科全体の成績でサンプリングした場合とでは、他の子より賢いとみなされることもあれば、逆に劣っているとみなされてしまうこともあるのです。

前の記事で説明したとおり、解離の分野では、より多数派であろう「弱い解離」と、少数派であろう「強い解離」では、正反対に近い傾向がみられます。

そうだとすると、それらの区別がなされないまま統計をとってしまうと、少数派の傾向が淘汰されて覆い隠され、シンプソンのパラドックスが生じるかもしれません。

このブログでは、主に医学的・心理学的な書籍を参考にして記事を書いているので、おそらくは、そうした少数派の人たちの例を多く含んでいるのでしょう。

わたしがよく参考にしているオリヴァー・サックスやV・S・ラマチャンドランといった神経科学者たちは、よくある普遍的な症例ではなく、極めて奇妙な症例の観察を通して、一般的な事実を解き明かしてきた人たちです。

脳は奇跡を起こすには、ラマチャンドランのこんなエピソードが載せられています。

こんな部屋が似合うのは、現代神経学のシャーロック・ホームズ、ラマチャンドランをおいてほかにはいない。

彼は、事件をひとつひとつ解決していく探偵なのだ。現代科学が、膨大な統計分析に頼っていることなど眼中にないようだ。

患者の個別の症例こそが科学に貢献すると信じて疑わない。彼はこんな例を挙げた。

疑い深い科学者にブタを差しだして、このブタは英語が話せると言ったとしよう。そして手で合図して、ほんとうにブタが英語を話したとき、こう応じることに意味があるだろうか。

「でもたった一匹のブタじゃないか。もう一匹話せたら、信じてもいいぞ!」

ラマチャンドランは、統計分析による平均化よりも、個々の特殊な症例を重視します。そして、特殊な症例に基づいた推理こそが、真実を明るみに引き出すと信じています。

神経学的な「特例」を説明することこそ、健全な脳の機能に光をあてることにつながると、ラマチャンドランは再三示している。

「わたしは、みんながやっている分野が嫌いなんだ」彼は言う。それに、大規模な学会のようなところも好きではない。

「学生にはこう言っている。ああいった学会に行ったら、みんながどっちに向かっているか見なさい。そして、だれも行かない方面に進みなさい。大派閥の下っ端になってはだめだってね」。(p207-208)

いかにもあまのじゃくに思えるラマチャンドランの態度ですが、わたし自身は彼の考え方に一理あると感じますし、彼ほどの才能はどこにもないとはいえ、このブログの内容もラマチャンドランの思考法をいくらか踏襲しています。

もちろん、ラマチャンドランのような帰納法的な考え方が、いつも役立つとは限りません。帰納法は事例が少なければ、より極端な結論にたどりつきがちです。それは「少数の法則」と呼ばれています。

このブログの記事もまた、ある点ではサンプリングのバイアスを含んでいるはずですが、それはたぶん少数派寄りのバイアスです。

それゆえに、インターネット上のアンケートでは、このブログの内容とは、いくらか違った結果が出ると予測されます。

では、どちらかが間違っていてどちらかが正しいのか。

両者はサンプリングと基準率が異なる、という点を思い出す必要があります。またシンプソンのパラドックスではサンプリングレベルが異なれば、ときとして真逆の結果が見られることにも留意すべきです。

どちらの結果も貴重な情報であることには変わりありません。何かしらの集団の実情を反映してることは確かなのです。問題なのは、どちらかだけを絶対とみなし、他方を誤りだと無視してしまうことです。

違う場所で行なった調査は、違うサンプルを含みます。解離のような私秘性そのものが性格特性に含まれている事象を扱う場合は、特にそういえます。

どちらの結果も、ある特定の層の実情を反映しているのでしょうが、サンプリングする段階で、ある程度ふるいにかけられており、全体像を中立的に反映しているとは言いがたいのです。

「解離屋」になりかけているけれども…

サンプリングのバイアスは、どんな統計にでも入り込みうることからすれば、必要なのは、より広い視野を持ち、異なる母集団からの情報収集を怠らない態度でしょう。

すなわち、インターネット上の情報だけでなく、さまざまな書籍、特に国内外の著者によるものを読み込むことが不可欠です。さらに、特定の分野にこだわらず、広い知識を得ることが大切です。

世の中は細分化、カテゴリ化されていて、さまざまな専門的コミュニティが乱立していますが、どれか一つか二つにこもっているなら、必ず強いバイアスに侵食されます。

わたし自身、自分の視野が広いと思ったことはなく、いまだに井の中の蛙です。正直いって、岡野憲一郎先生が 続解離性障害で言っている「解離屋」とか「解離論者」の領域に半分以上足を突っ込んでいます。

岡野:はい、私は実は自分のことを「解離屋」と呼んでいます。何でも物事を解離として考えてしまう。私は自分はそれじゃないかと思うんです。

柴山:ああ、ああ。僕はようやく抜け出しましたけど。(笑)(p174)

解離というのは、あまり主流から見向きもされない分野である反面、一度興味を持てばずぶずぶとはまりこんでしまう底なし沼のような雰囲気があります。ラルフ・アリソンあたりは完全に呑み込まれてしまった例かもしれません。

最近は自分の視野の狭さを痛感して、もっと多様な世界に目を向けたいと意識しているにもかかわらず、気づくと解離の話題に戻ってしまっていて、呪いめいたものを感じることがあります。この記事もそうです。

それでもできるだけ様々な分野に目を向けることで、解離や愛着についての理解が深まってきたと思っています。

国内の解離の専門家の本、たとえば解離の舞台―症状構造と治療などと、国外の専門家の本、たとえば 身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法などは、解離に関する限り、まったく観点が違いますが、互いに相補的なので両方読むべきです。

また、一見、解離とは分野が少し異なるかと思われた発達や愛着についての書籍は、いずれも解離を知るためのキーポイントを与えてくれました。ときには児童文学の本が型にとらわれないインスピレーションを与えてくれることもあります。

わたしは、世の中にあふれている発達障害や愛着障害の本またサイトを読むとき、解離についてまったく触れずに説明しているものが多いことがいまだに信じられませんし、逆に解離を説明する記事が発達や愛着を度外視している場合が多いことも不思議に思っています。

加えて、文化人類学の観察、たとえば少数派の特殊な言語や文化も、深いところでつながっています。近年、発達障害や愛着障害が社会的な少数派の文化として考えられるようになってきたことを思えば当然です。

しかし単なる少数派という比喩だけでなく、文化というレベルでも両者は相似形をなしています。そもそも解離は、生物学的により原始的な反応であり、文化結合症候群やシャーマニズムの形で、古くから人類の文化に根づいているものです。

つまり、解離という現象は、個人の発達に組み込まれているだけでなく、人類の文化そのものの発達にも組み込まれてきたので、個人にみられる解離という現象が、ある社会全体をひとつの人間としてみなしたときにもみられるフラクタル的な構造があります。

なぜ子ども虐待のサバイバーは世界でひとりぼっちに感じるのか―言語も文化も異なる異邦人として考える
子ども虐待のサバイバーたちが、だれからも理解されず、「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる」理由について、異文化のもとで育った異邦人として捉える観点から考察します

解離が生物学的な現象である以上、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアのような本を通して、生物学に目を向けることも大切です。

まったく別の分野で、それとは意図されずに解離が研究されていることもあります。たとえば、疲労研究におけるマスキングやブレイン・フォグ、心理学でいうフロー体験、物理学の引き込み現象などは解離と関係していると個人的に思っています。

あるいは、解離という枠組みにとらわれず、まったく別の分野のほうに軸足を置いて、解離とは何かを分析してみるべきなのかもしれません。

解離は創造性や空想傾向と縁が深い現象なので、芸術に関する情報にも能動的に触れる必要があるでしょう。芸術家や詩人の言葉を調べると、解離性障害の当事者が言いそうな名言を残していたりするものです。

要するに、解離について知りたければ、統計やサンプリングを分析するのはもちろんのこと、解離性障害や多重人格の本やサイトを読む以上のことが求められると、わたしは思っています。

この不可思議な現象は、それだけ多方面から煮詰めるだけの価値があるものであり、そうしてはじめて、真実を探る果てしない道のりにおいて、ほんの数歩たりとも前に進むことができるのだと折に触れて思います。

とりあえず、統計調査をはじめ、何かを考察、分析したい人は、この記事でも取り上げたダニエル・カーネマンのファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)を読むことから始めるのがいいかもしれません。

わたしはまだまだカーネマンの言うバイアスやヒューリスティックにこれでもかと絡みつかれて地面に縛りつけられています。鳥のように舞い上がって、空の高みから全体像を見渡せたらどんなにかいいことでしょう。

そもそもわたしはバイアスとヒューリスティックを頼りにものを書いているような人なので、ニュートラルな見方をするのはとても苦手なのです。だからこそこのブログのプロフィールには、「あまり信用するな」と意味の但し書きをしてあります。

それでもそうした落とし穴の存在を知っているかどうかで、世の中の見え方がずいぶんと違ってくるものです。少なくとも、自分の意見が絶対だ、というこだわりにとらわれて他者を批判してしまうことだけはなくなるのではないかと思います。

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