いつも空が見えるから https://susumu-akashi.com 子どもの疲労と発達・愛着 Wed, 18 Jul 2018 19:17:12 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=4.9.7 39470257 カウンセリングではトラウマを治療できないのはなぜか―物語ではなく経験が必要な理由 https://susumu-akashi.com/2018/06/counseling/ Mon, 04 Jun 2018 17:12:06 +0000 https://susumu-akashi.com/?p=8495 続きを読む ]]>

セラピストは、話すことにはトラウマを解決する力があると考え、その力に絶対的な信頼を置いている。…残念ながら、事はそれほど単純ではない。(p379)

私たちの研究における最も重要な発見は、次の事実かもしれない。

1893年のブロイアーとフロイトの主張とは裏腹に、トラウマを、それと結びついた感情のいっさいとともに思い出しても、必ずしもトラウマは解消しないのだ。

私たちの研究は、言語が行動の代わりになりうるという考え方を支持しなかった。(p321)

代のトラウマ研究の第一人者である、ベッセル・ヴァン・デア・コークが、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で書いているこの説明は、いささか衝撃的かもしれません。

専門家も当事者も含め、これまで多くの人は、トラウマとは「心の傷」であり、傾聴によるカウンセリングや、認知行動療法のような、対話を軸とした治療が役立つと教えられてきました。

確かにカウンセリングを受けると、いくらか気分が楽になるかもしれません。しかし会話を中心としたセラピーには限界があり、ときには症状を悪化させることもあります。

この記事では、なぜ言葉を用いたセラピーではトラウマ症状をうまく治療できず、「トラウマ記憶を物語に変える」という手法では不十分なのか、近年の脳科学の発見に照らして考えたいと思います。

そして、行動や経験を重視する身体志向のセラピーになぜ効果があるのかを、意外な観点から考察してみました。

会話によるカウンセリングの限界

冒頭で書いたように、今や、トラウマというと「心の病」であり、その治療のためには会話形式のカウンセリングなどのセラピーが必要だという考え方が一般的です。

基本的に、世の中に出ている本の内容や、テレビの報道などは、すべてその前提にのっとっているので、わたしも最初のころはそう思いこんでいました。

トラウマの治療とは、辛い過去の話を傾聴してあげること、認知行動療法のような手法で過去の認知を修正すること、言葉のやりとりの中で心の傷を癒やしていくことだと見なされています。

身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法によれば、こうした考え方は、1893年のフロイトと、その師であるブロイアーの研究までさかのぼります。

フロイトは談話を中心とする精神分析療法の発案者であり、彼の考え方は、現代のさまざまな形式の心理療法へと受け継がれてきました。

今日では、精神分析は影が薄くなっているものの、「談話療法」は健在であり、トラウマの話を詳しく語ることが、それを過去のものにするうえで役立つと、精神療法家はおおむね考えてきた。

それは認知行動療法(CBT)の基本前提でもあり、この療法は現在、世界中の大学院の心理学講座で教えられている。(p301)

確かに、このような治療法は、ある一定の成果を挙げてきました。会話を中心としたセラピーが、心理的負担をいくらか取り除くのは事実ですし、認知行動療法によって過敏な反応を減らすことができます。

しかしトラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復に書かれているとおり、そうした言葉を用いたセラピーには限界があります。

現代の心理療法は、フロイトとその弟子たちの精神分析的アプローチか、認知行動療法的アプローチが主流となっている。

しかし、人間の苦痛を緩和するこれらの手段は、トラウマとその潜在的な記憶の刷り込みへの対処に関しては限界を持つ。

これら従来の治療法は両方とも、トラウマに関連する一部の機能不全には確かに対処しているが、原因の根本には到達していない。(p5)

それら言葉を用いたセラピーの限界を感じてきたのは、何をおいてもまず、トラウマを負った当事者たちでしょう。

身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法には、2001年のツインタワービルの同時多発テロ事件のときの、こんなエピソードがありました。

2001年9月、国立保健研究所、製薬会社ファイザー、ニューヨークタイムズ社財団といった組織が、世界貿易センターへのテロ攻撃によってトラウマを負った人々への最善の治療法を推奨するための、専門委員会を設けた。

…長々しい討議のあとに委員会が推奨したのは、たった二種類の治療法だけだった。精神分析を重視するセラピーと、認知行動療法だ。

…推奨された治療法が承認されると、私たちはニューヨーカーがセラピストの治療室を訪れるのを、ただ待った。だが、ほとんど誰もやって来なかった。(p378)

同時多発テロの直後、トラウマ治療の専門家たちは、重大なトラウマを負った人たちを治療しようと、会話形式の治療法の代表ともいえる精神分析と認知行動療法を引っさげて待ちかまえていました。

しかしその思惑とは裏腹に、トラウマを負った人たちは、そうした治療法を望んでいませんでした。彼らは認知行動療法や精神分析のセラピストのもとを訪れる代わりにどこへ行ったのでしょうか。

グリニッチヴィレッジの今はもうない聖ヴィンセント病院で精神科を取り仕切っていたスペンサー・エズ医師は、生存者たちはどこに助けを求めたのかに興味を持ち、2002年の初めに医学生たちとともに、ツインタワーから逃げ延びた225人に関する調査を行なった。

自分の体験の影響を乗り越えるのに何が最も役立ったかを訊かれた生存者は、鍼治療、マッサージ、ヨーガ、EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)を、この順番で挙げた。

…生存者の経験と専門家が推奨するものとに食い違いがあったことは、興味深い。

…トークセラピーへの関心が明らかに低かったことから、根本的な疑問が湧いてきた。(p378-379)

トラウマを負った人は、トークセラピーの専門家のもとへ行く代わりに、さまざまな身体志向の治療の専門家たちのもとに助けを求めていたのです。

それらの多くは、主流医学の専門家たちからは、効果の乏しい「代替治療」としか見なされていないものばかりです。しかし当事者たちは、「自分の体験の影響を乗り越えるのに…最も役立った」方法としてそれらを挙げました。

これは、トラウマの当事者たちが無学で愚かなだけなのでしょうか。本当はもっと効果的な専門医療を受けられたはずなのに、素人判断で怪しい代替治療に望みをかけ、たまたまプラセボ効果でよくなった例にすぎないのでしょうか。

もしそう考える人がいるとしたら、当事者たちを見くびりすぎです。

知識は経験に勝りません。教科書で知識を学んだだけの医者たちと違って、実際にトラウマを経験した当事者たちが、トークセラピーでは不十分だとみなすとしたら、それにはもっともな理由があるはずです。

これから考えるように、現代の脳科学は、この専門家と当事者の認識の食い違いにおいて、当事者の側の認識のほうが正しかったということを証明しています。

理解しても、感じ方は変わらない

なぜトラウマを経験した当事者たちは、会話を中心としたセラピーでは十分に効果がないと感じるのでしょうか。

その理由はたとえば、次の例からわかるでしょう。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際に出てくるミーガンは、過去の虐待のせいで、職場でちょっと注意されただけでも、無意識のうちに怖くなって萎縮してしまうことに悩まされていました。

ミーガンは、自分は危険ではないと「知って」はいましたが、身体は危険だと訴えていました。

…実際にトラウマをもつ人は、理性(mind)ではなく身体のリアリティーを体験する必要があります。

…ミーガンの場合には、単に認知的なアプローチだけでは、統合能力にある程度の変化をもたらすでしょうが、仕事で注意するたびに萎縮する反応が再活性化するならば、変化はその場限りのものになります。(p250-251)

ミーガンは「認知的なアプローチ」、つまり、従来の会話を中心にしたカウンセリングでは不十分でした。

彼女は、虐待は過去のもので、もう自分は危険ではないと認知できていました。言い換えると、頭ではわかっていました。それなのに身体が勝手に、同僚の前で萎縮するのを防げないでいたのです。

同様のことを、ヴァン・デア・コークも、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で書いています。

なぜ私たちは、ただ理性に従うわけにはいかないのか。理解は助けになるのだろうか。

理性的で実行機能のある脳が上手に手助けしてくれるので、私たちは自分の抱いている感情の由来を説明できる

(「男性に近寄るとおびえてしまうのは、父に性的虐待をされたからだ」「息子への愛情表現が下手なのは、イラクで子供を殺したことに罪に意識を持っているからだ」というように)。

とはいえ、理性脳は、情動や感覚や思考をなくすことはできない

(レイプされたのは自分のせいではないと理性ではわかっていても、漠然とした脅威を覚えながら生きていたり、自分は根本的にひどい人間なのだと感じていたりする)。

なぜそう感じるのかを理解しても、どのように感じるのかは変わらない。(p335)

先ほどのミーガンの例と同じです。トラウマを負った人が悩まされるのは、過去の辛い体験を理性的に考えられないことではないのです。

認知行動療法をはじめ、言葉を主体としたセラピーは、この「理性的」な部分を強化する治療法です。理性を強化すれば、感情的な反応を抑制できる、という考え方に基づくものです。

冷静に、理性的に、落ち着いて思考することができれば、感情的な「心の問題」に振り回されることがなくなる、と専門家たちは信じています。

しかし現実はそうではありません。トラウマを抱える人たちは、頭ではわかっているのに、身体が反応してしまうこと、つまり「なぜそう感じるのかを理解しても、どのように感じるのかは変わらない」ことに悩まされているのです。

以前の記事でも触れたように、ヴァン・デア・コークの患者のキャシーは、ネガティブな考え方を正すよう言われたときにこう訴えました。

そう、そのとおりですよ。私は周りの人に何か悪いことが起こると、本能的に全部自分のせいにします。

それが道理にかなっていないことは百も承知していますし、もっと道理をわきまえるように先生が説得しようとすると、私はなおさら寂しくて孤独に感じるだけで、私という人間がありのままの自分でいるのがどんな感じなのか、世界中の誰一人としてけっして理解してくれないだろうという思いが裏づけられることになります」(p213)

身体に刻まれた「発達性トラウマ」―幾多の診断名に覆い隠された真実を暴く
世界的なトラウマ研究の第一人者ベッセル・ヴァン・デア・コークによる「身体はトラウマを記録する」から、著者の人柄にも思いを馳せつつ、いかにして「発達性トラウマ」が発見されたのかという

キャシーは、自分が道理にかなっていない考え方をしていることを、頭ではわかっていました。しっかり認知していました。それなのに、どうやってもその傾向を変えられないことに苦悩していました。

これこそが、先ほど考えた専門家と当事者の認識の食い違いの根本原因です。

トラウマを実際に経験したことのない専門家たちは、言葉を用いたカウンセリングで混乱した感情を整理し、理性の働きを強化すれば、トラウマが引き起こす感情や苦痛はコントロールできるようになると考えるかもしれません。

しかし、実際にトラウマを経験した当事者たちは、いくら過去を冷静に認知し、考え方を変化させ、理性を強化したところで、「なぜそう感じるのかを理解しても、どのように感じるのかは変わらない」ことを身をもって体験します。

精神療法家はたいてい、人が洞察と理解に頼って自分の行動を管理するのを手伝おうとする。だが、神経科学の研究で明らかになっているように、理解の不足から生じる精神的問題はほとんどない。

…こんなコメディが頭に浮かぶ。怒りの管理プログラムに七度も参加した人が、自分の習った技法を絶賛する。

「見事といったらない。素晴らしい効き目がある―本当に頭にきていないかぎりは」(p108)

要するに、いくら認知を変えて洞察や理解を深めても、本当に必要なときには役に立ちません。本当に頭にきたときには、認知を修正して怒りを抑える方法などすっかり忘れてしまうように。

いくら考え方を変えるように言われても、うまくできないという経験を繰り返せば、自分がいかにどうしようもない意志薄弱なダメ人間かを思い知らされて落ち込むだけです。

けれども、それは実際には当人の意志が弱いせいではありません。間違っているのは、トラウマの性質を理解していない専門家のほうなのです。どういうことか詳しく見てみましょう。

無意識の身体の反応は意識よりも速い

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンスによる最新のトラウマ・ケアでは、トラウマの性質を考えるにあたり、有名なベンジャミン・リベットの研究が引き合いに出されています。

神経外科医でありカリフォルニア大学サンフランシスコ校医学部の神経生理学者でもあるベン・リベットが30年間にわたって行った一連の研究は、多くのことを示してくれているにもかかわらず、あまり知られていない。(p374)

このリベットの実験は、いわゆる「人間には自由意志があるかないか」という論争において、頻繁に引き合いに出されます。ネット上でも、「自由意志 リベット」で検索すれば、この実験の詳細な説明はごまんと出てきます。

この実験が「あまり知られていない」と言えるのは、それが自由意志の問題だけでなく、トラウマの性質を考える上でとても重要な事実を明らかにしている点です。

リベットは簡単に言えば、わたしたちの意志による決定と、身体の反応のどちらが先に生じているかを計測しました。その結果、何がわかったでしょうか。

脳の活動が、行動の決意を認識するよりも約500ミリ秒の(1秒の半分!)前に始まったのだ。

意識的な決意は、行動の原因となるにはあまりにも遅すぎる。

これはまるで、意識が単なる後知恵、つまり「自分に対する説明」の方法であって、行動は意識によって引き起こされるわけではないかのようだ。

…ヒトは、脳が無意識的に行動の準備を整えた後、ようやく行動を決意するのだ。(p375)

わたしたちは、まず自分の頭で考えて、それから体が行動している、と思い込んでいます。

しかし実験によると、それは逆でした。驚くべきことに、まず身体の生理的な反応が0.5秒先立っていて、それから意識が判断を下していたのです。自分の行動を内省できるようになるのはさらに後です。

トラウマの当事者たちが感じていた「なぜそう感じるのかを理解しても、どのように感じるのかは変わらない」理由がここにあります。

わたしたちは意識的に判断して行動しているわけではありません。理性で認知するよりも先に「脳が無意識的に行動の準備を整え」ています。

頭で考えるより身体が反応するほうが先なので、いくら理性的に認知したところで「あまりにも遅すぎ」て間に合わないのです。

別の記事で考えたように、今やトラウマとは、「心の傷」でも感情的な問題でもなく、身体に記録された条件反射だということがわかっています。

原因不明の身体症状に苦しむ人のための「記憶」の科学の10の考察
全身に散らばる原因不明の身体症状の謎を、記憶の科学から読み解きます

条件反射というと、パブロフの犬の研究が有名です。何か特定の刺激を感じると、意識するよりも早く、身体が無意識のうちに反応してしまう、という現象です。

わたしたちの身体は、ショッキングな体験をしたとき、そのときの反応を、この条件反射として記録します。それは次に同じ状況が生じても、とっさに身を守れるようにする、という生物的な理由からです。

しかし、この条件反射のせいで、うっすらとでも危険を感じるような状況に出くわすと、とっさに無意識のうちに身体が反応してしまうようになります。この無意識の反応に振り回されるようになってしまう状態が「トラウマ」です。

確かに、理性的思考を強化すれば、トラウマを負った人は、ある程度、不合理な行動や、過敏な反応を変えられるようになります。

わたしの友人が、認知行動療法とは、ネガティブな感情が湧いてきたとき、ちょうどキーボードの「変換キー」を押してポジティブな思考に変換するようなものだ、と言っていたのを思い出します。

たとえば、自分は無価値で惨めだ、というネガティブな感情が湧き起こってくるとき、そう思ってしまうのは子ども時代のトラウマのせいにすぎないのだ、と自分に言い聞かせて「変換」できるかもしれません。

また自分がだれかに殴りかかりそうになったら、衝動に身を任せるのではなく、その場から立ち去ることを理性的に選び、行動を「変換」できるようになるかもしれません。

しかしそれが根本的な解決にならないのは、おおもとにある感じ方そのもの、つまり理性的な思考よりも先立って無意識のうちに生じる、身体の生理的な反応を修正できないからです。

変換キーを押す以前に、毎度毎度、自動的にネガティブな感情が打ち込まれてしまうという不具合そのものは変えることができません。

ネガティブな感情が湧き起こってきたとき、理性的に合理的に考え直して、認知を修正できるようになるかもしれませんが、無意識のうちに湧き起こる無力感や衝動そのものは変えることができません。

その結果、理性的思考ができるくらい元気なときは、自分の行動を表向きコントロールできるかもしれませんが、いつも自分を監視する必要があるので、普通の人の何倍も疲弊していきます。

そして、いったん意志の力が途切れて、理性を働かせられなくなってしまうと、元のもくあみになります。

たとえば、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法が述べているように、ひとたび自宅に帰って緊張の糸が途切れると、荒れたり、落ち込んだり、自制心をなくしたりしてしまうかもしれません。

このシステムを常に制御しておくためには、厖大なエネルギーがいる。

…私がこれまで診た患者のうちには、卓越した技能を持つ教師や看護師が数多くいた。

そうした患者の同僚たちは、彼らを少しよそよそしい人、あるいは控えめな人だと感じていたかもしれないが、自分たちの模範的な同僚が自傷行為を行なったり、摂食障害を抱えていたり、異様な性行為を行なったりしていると知ったら、おそらく仰天しただろう。(p474-475)

こうしたトラウマのサバイバーたちは、人前ではある程度、意志の力で「まとも」に振る舞えるかもしれません。

しかし誰もが身をもって経験するように、意志力は無限ではありません。ダイエットに失敗する人も、ジム通いを続けられない人も、禁煙や禁酒しようとする人も、みな疲れると決意が鈍ること(自我消耗)を経験します。

いざ破壊的な衝動に屈してしまうと、とても惨めで、孤独で、情けなく感じることでしょう。トラウマにまみれた自分が何一つ変わっていないことを思い知らされるからです。

理性的な認知に先立って生じる、身体の感じ方そのものを変化させられない限り、意志の力だけで自分をコントロールしつづけるのは不可能です。

したがって、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際にこのように書かれているのは、脳科学に照らしてみてももっともなことです。

会話によるセラピーでは、今この瞬間に生じている適応不全な無意識 による行動傾向に直接アプローチすることができません。(p226)

物語を語っても、体験は変わらない

トラウマの治療として、トークセラピーが重視されている別の理由は、過去の混乱したできごとを整理して、物語として語れるようになれば、辛い過去を受け入れることができる、と考えられているからです。

たとえば、いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳にはこう書かれていました。

現在という時点から過去を振り返る形での虐待の「再」体験は、ただひたすら逃げたかった記憶を、現在の自分と関係付けてとらえる作業であり、それは記憶の整理へとつながる。

西澤はこの作業を「トラウマ記憶を物語記憶へ変える」と表現している。(p110)

カウンセリングのような会話形式のセラピーのほとんどは、この「トラウマ記憶を物語記憶へ変える」ことを重視しています。

過去の混乱した記憶は、すっきりと語れる物語に整理されて初めて、もう終わった過去のものとなります。

たとえば、今まさに戦争のさなかにある人は、自分の体験を「物語」として語る余裕はありません。それは「物語」ではなく、今この瞬間を取り巻く「現実」だからです。

でも戦争が終わった後は、自分の体験を「物語」として語れるようになるかもしれません。物語にするというのは、もう終わった昔話として受け入れるという意味でもあります。

しかし、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法には、こうした「トラウマ記憶を物語記憶へ変える」方法は、ある程度の効果はあるものの、トラウマの根本的な治療にはならないと書かれています。

従来の精神療法はおもに、なぜ本人がそのように感じるのかを説明する物語を構築することに的を絞ってきた。

…物語を語ることは重要で、物語がなければ記憶は凍りつき、記憶がなければ物事がどのように異なりうるのかを想像できない。

だが第4部で見たように、出来事についての話を語っても、トラウマ記憶を葬りされる保証はない。(p359)

冒頭で引用したように、ヴァン・デア・コークらの研究では、たとえ過去のトラウマを物語として語れるようになっても、トラウマの様々な辛い症状が緩和されない人が大勢いました。

研究参加者の大半は、筋の通った話を語り、そうした話と結びついた痛みも経験できたが、耐え難い光景や身体的感覚につきまとわれ続けた。

認知行動療法の柱である現代の曝露療法の研究からも、同様のがっかりするような結果が出ている。

この手法で治療を受けた患者の大多数が、治療の終了後三ヶ月の時点で、相変わらず深刻なPTSDの症状を見せるのだ。

いずれ論じるように、人は自分の身に起こったことを説明する言葉を見つければ、大きく変われるかもしれないが、必ずしもフラッシュバックがなくなったり、集中力が高まったりするわけではないし、人生に生き生きとかかわるよう促されたり、失望や自分が受けたと認識している心身の傷に対する過敏性が和らいだりするわけでもない。(p321-322)

なぜ、過去の辛い出来事を物語として整理しても、トラウマの辛い症状から解放されないのか。

ヴァン・デア・コークは、その理由は、トラウマ記憶の性質にあると述べます。

それには理由がある。人はありきたりの出来事を思い出すときには、その出来事と関連する身体的感覚、情動、光景、臭い、音、声も追体験するわけではない。

それとは対照的に、トラウマをそっくり思い起こすときには、その出来事を「経験する」。(p359)

先ほど触れたとおり、現代のトラウマ科学は、トラウマとは「心の傷」のようなものではなく、身体に保存された条件反射だということを明らかにしました。

以前の記事でも詳しく書きましたが、記憶には大きくわけて二種類あります。

「からだの記憶」の治療法―解離や慢性トラウマのための身体志向のトラウマセラピー
解離やPTSDは「からだの記憶」によって引き起こされる「からだ」を土台として生物学的な現象である、という理解にもとづき、身体志向のトラウマ・セラピーについて考察しました。

一つ目は宣言的記憶です。わたしたちが普段、「記憶」という言葉を使うときは、こちらの宣言的記憶のことを言っています。これは、言葉で表現できるタイプの記憶であり、「物語」のようなエピソードもこれに含まれます。

それに対し、二つ目は、手続き記憶です。これは、自転車の乗り方や楽器の演奏の仕方など、身体で覚えるタイプの記憶です。手続き記憶は、無意識のうちに自動的に再生されるので、言葉で説明できません。トラウマ記憶はこちらにあたります。

一つ目の宣言的記憶は、文脈や物語に当てはめて語れるのに対し、二つ目の手続き記憶のほうは、さまざまな自動的な身体の反応として、全身いたるところにバラバラに記憶されています。

たとえばそれは、ヴァン・デア・コークが述べていた「その出来事と関連する身体的感覚、情動、光景、臭い、音、声」などの断片的な感覚です。

彼は、トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復のまえがきでこう説明していました。

トラウマの痕跡は、物語や意識的な記憶とは異なり、感情、感覚および心理的な自動反応のように、身体が勝手に行っていく「手続き」の形をとって、密かに私たちを支配している。(p ix)

トラウマ記憶は、そもそもの性質が、物語に当てはめられるタイプの記憶ではないために、いくら言葉で整理しようとしても上滑りし、言葉足らずになってしまいます。そもそも物語にすることが不可能なのです。

ここでもまた、トラウマを実際に経験していない知識だけの専門家と、身をもってトラウマを経験した当事者とのあいだで、認識のギャップが起こっています。

教科書を読んだだけでトラウマを理解した気になっている専門家たちは、そうした辛い体験は、言葉で整理して説明できるものだと考えます。

しかし実際にトラウマを経験した当事者たちは、それは不可能だとすぐにわかるはずです。自分の体験を、苦痛を、混乱を、筋道立てて話せるでしょうか。ブログや自伝のような形で、すっきりと書けるでしょうか。

いいえ、そんなことは不可能です。どれほど文章に長けた人でも、どれほど表現力のある人でも、自分のおぞましい過去を言葉にしようとした途端、言葉では到底表現できないたぐいのものだと気づくでしょう。

「記憶の自己」と「経験の自己」

会話を中心とするセラピーの専門家たちは、この断片的で無秩序に散らばったトラウマ記憶を、会話を通して ひとつながりの物語に整理することに意味があるのだ、と考えています。

裁断されて、バラバラになった書物のページを、元通りの書物に編み直すかのように、バラバラになった記憶をつなぎ合わせれば、全体像が把握でき、トラウマを過去のものにできるのだと。

しかし現代の脳科学は、もう少し複雑な事実を明らかにしています。身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法ではこう説明されています。

その後、神経科学的な研究によって、人には二つの異なるかたちの自己認識があることが明らかになっている。

…一つ目の自伝的な自己は、経験どうしを関連づけて、首尾一貫した物語にまとめる。

このシステムは言語に根差している。私たちの物語は語ることによって変化する。物の見方が変わり、新しい情報が組み込まれるからだ。

二つ目の、その瞬間における自己認識システムは、おもに身体的感覚に基づいているが、私たちは、安全で、急き立てられないと感じていれば、その身体的体験を伝えるための言葉を見つけることもできる。

二つの認識システムは脳の別々の場所に局在しており、それらの領域どうしに接続はほとんどない。(p387-388)

わたしたちの脳には、二種類の異なる自己認識システムが共存しています。

先ほど考えた二種類の記憶システムは、そのままこの「二つの異なるかたちの自己認識」に対応しています。

そして、この二種類の「自己」は、「別々の場所に局在しており、それらの領域どうしに接続はほとんどない」のです。

このままだと わかりにくいので、もっと具体的な説明を見てみましょう。

この二種類の自己という概念は、別の分野でも研究されています。

たとえば、ノーベル経済学賞に輝いた認知心理学者のダニエル・カーネマンは、名著ファスト&スロー(下) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の中で、人間には「記憶する自己」「経験する自己」があると述べています。

二つの自己とは、「経験する自己(experiencing self)」と「記憶する自己(remembering self)」である。「いま痛いですか」という質問に答えるのは前者、終わってから「全体としてどうでしたか」という質問に答えるのが後者である。(p267)

これらは先ほどの、二種類の自己と同じものです。カーネマンは、こちらのTEDの中で、この二種類の自己の違いについて、とてもわかりやすく説明してくれています。

: ダニエル・カーネマン: 経験と記憶の謎 | TED Talk

ノーベル経済学賞・ダニエル・カーネマン氏が語る、幸福を妨げる“3つの罠” - ログミー

この話から 我々が自らを二つの自己として 考えているらしいとわかります。

経験の自己― これは 現在を生き 現在を経験し 過去にも戻れる自己です。でも基本的には現在しかありません。

例えば 医師が “ここを触ったら痛みますか?” と 尋ねる相手は 経験の自己です。

そして 記憶の自己というのがあります。記憶の自己とは 記録を残し 人生の物語を紡ぎます。医師が尋ねる質問を例に出すと “最近の調子はどうですか?” “旅行はいかがでしたか?” なんて質問です。

この二つは まったく異なるもので “経験の自己”と“記憶の自己”を 混同してしまうのは 幸福の観念に見られる混乱なのです。

二つの自己の違いがなんとなくわかってきたかと思います。

わたしたちの二種類の自己認識のうち「記憶の自己」は過去の物語を担当しています。対する「経験の自己」は、いま現在の感覚を担当しています。

この二つの自己は互いに連続しているようなものではなく、「まったく異なるもので」す。あたかも頭の中に二人の小人がいるようなものだと考えてください。

「経験の自己」の小人と、「記憶の自己」の小人は別人です。「経験の自己」の小人は常に今この瞬間の経験を担当していて、「記憶の自己」の小人はいつも過去の記憶を担当しています。

そして、重要なのは、トラウマというのは、この二人の小人のうち「経験の自己」の小人のほうが抱える問題だということです。

かつて味わったショッキングな出来事を、「経験の自己」の小人が手続き記憶として記憶し、今この瞬間も再生しつづけてしまっているのがトラウマだからです。

それなのに、会話を中心としたセラピーは、あろうことか宣言的記憶を担当している「記憶の自己」の小人のほうを対象にしてカウンセリングしています。

カーネマンが例として述べていた医師が、“最近の調子はどうですか?” “旅行はいかがでしたか?”などと尋ねて「記憶の自己」に語りかけていたように。

要するに、カウンセリングする相手が間違っているのです。

わたしたちの頭の中に、互いにほぼ隔絶されて住んでいる二人の小人のうち、実際にトラウマを負っているのは「経験の自己」のほうなのに、トークセラピーは「記憶の自己」のほうに働きかけているわけです。

そのせいで、ヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法で述べているような問題が生まれます。

一つ目のシステムが人に聞かせるための話を創作し、私たちはそれを何度も語ると、それが偽りのない真実を含んでいると信じるようになりやすい。

だが二つ目のシステムは、心の奥底でその状況をどのように経験するのかという、別の真実を認識する。

アクセスして、仲良くなり、和解しなければならないのは、この二つ目のシステムだ。(p388)

カウンセリングは、「一つ目のシステム」である「記憶の自己」の小人を対象に語りかけるものです。すると、その小人はもっともらしい物語を「創作し」て話します。

しかしその物語は、本当にトラウマを負った「二つ目のシステム」である「経験の自己」の小人の実感とはかけ離れたものです。

だから、言葉は上滑りして、トラウマの本質を伝えるにはまったく言葉足らずになってしまいます。(その結果、時として起こるのが、いわゆる「虚偽記憶」を創作してしまうという問題です)

トラウマを治療するセラピーが本当にしなければならないのは、二つ目のシステムのほうの小人と「仲良くなり、和解」することです。

そのためには、言葉を用いてカウンセリングしたり、過去の出来事の物語を編み直したりしても意味がありません。

「記憶の自己」の小人は過去の物語を担当していますが、「経験の自己」の小人は今この瞬間の身体感覚を担当しています。

それゆえ、ちょうどカーネマンの説明に出てきた医者が、“ここを触ったら痛みますか?” と言って「経験の自己」に語りかけていたように、今この瞬間の感覚に注意を向けなければなりません。

ヴァン・デア・コークは「記憶の自己」ではなく「経験の自己」にアプローチするこんな例を挙げています。

八歳のとき父が家族を捨てて出ていきましたと患者に言われたら、私はいったん彼を制止して、自分自身と対話するように促すだろう。

父親と二度と会うことのなかったその少年について私に語っているとき、彼の内部で何が起こっているだろうか。それは体のどこで認識されているだろうか。

腹の底で物を感じ、胸が張り裂けるほどの悲しみに耳を傾けたとき―内受容の経路をたどって心の奥底にまで行き着いたとき―変化が始まる。(p391)

患者が過去のトラウマを話し始めたら、それは「記憶の自己」の小人が語り出したということです。話を聞きたい相手はそちらではないので、「いったん彼を制止し」なければなりません。

そして過去に何があったのか尋ねる代わりに、今この瞬間に「内部で何が起こっているだろうか。それは体のどこで認識されているだろうか」と問いかけます。

そうやって今この瞬間の感覚に意識を向けて初めて、「経験の自己」のほうの小人に話しかけることができます。

言葉が上滑りするのを免れるには、自分を観察する、体に基づいた自己システムを稼働させるといい。

このシステムは、感覚や、声の調子や、体の緊張を通して語る。内臓で経験する感覚を知覚できるのが、情動的自覚のまさに基本だ。(p391)

前回の記事で詳しく説明したように、ソマティック・エクスペリエンスやセンサリーモーター・サイコセラピーのような身体志向の療法は、そうした方法に特化したセラピーです。

ソマティック・エクスペリエンス(Somatic Experiencing)はその名のとおり、経験の自己(Experiencing self)を扱うためのセラピーです。

ソマティック・エクスペリエンス(SE)を知る10ステップ―「凍りつき」を溶かすトラウマセラピー
近年注目されているトラウマの治療法「ソマティック・エクスペリエンシング」(SE)についてまとめました。

これらの治療法では、過去に何があったかを聞き出すことはしません。

トラウマを負っているのは雄弁な「記憶の自己」の小人ではなく、無言のうちに身体の症状をもって語っている「経験の自己」の小人のほうでした。

そのため、ひとまず「記憶の自己」の小人には黙ってもらい、「経験の自己」の小人の声にならない声に耳をすませるのです。

語るだけのセラピーは解離を引き起こす

身体志向のトラウマセラピーにおいて、「記憶の自己」に黙っていてもらい、過去の出来事についてあえて話させないことには、さらに重要な理由があります。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際の説明を見てみましょう。

クライエントやセラピストは、出来事の記憶に焦点を当てたり、そのことを話したりしたいと望むかもしれませんが、耐性領域を充分に広げるまでそうした取り組みは脇に置きます。

そうすることで、さらなる調整不全や不適切な代償行為や解離を引きおこさずに、トラウマ記憶に触れることができるのです。(p252)

従来のカウンセリングでは、過去の出来事について自由に話すのは良いことだとみなされがちです。

しかし、近年のトラウマ医学によると、まだ準備がしっかりできていない状態で、過去に何があったかを話そうとすることは、「さらなる調整不全や不適切な代償行為や解離を引きおこ」す危険があります。

会話によるカウンセリングは、トラウマを治療しようとして、実際には症状を悪化させてしまっている危険があります。

たとえば、子どものトラウマ・セラピー―自信・喜び・回復力を育むためのガイドブックではトラウマ的な事件のすぐ後で、恐ろしい出来事の内容を話させるという介入(デブリーフィング)の問題点について、こう危惧されていました。

従来の典型的な学校での緊急介入は、恐ろしさについて暴き、事実をもとにみんなを共通の理解へと導きます。

そしてトラウマへの反応を自然なものとしながらも、子どもに何が起きたのかを話させるように作られています。

緊急支援チームは、子どもに見たことや感じたことで最悪だったところを語らせることもあり、そして、そのまま去っていきます。

語らせられるだけのひどい体験には何の意味もありません。

私たち著者は、このようなトラウマのメカニズムを理解していない支援が、子どもに再トラウマを引き起こすことを確信しています。

子どもは(トラウマを受けた多くの大人もそうですが)従順になる傾向があるので、最初に対応した人は子供をさらなるショックによる停止状態や解離状態に追いやっていることにおそらく気付かないでしょう。(p268)

従来のカウンセリングは、過去の辛い出来事の詳細を語らせるという形式をとります。

しかし、そのようにして過去のショッキングな出来事を語るということそのものが、トラウマの再体験を生み、「さらなるショックによる停止状態や解離状態に追いやって」しまいます。

ここでもまた、実際にトラウマを経験したことのない専門家たちと、本当に身をもってトラウマを経験した当事者たちの間に、認識のギャップがあります。

トラウマを経験したことのない大多数の人は、専門家から一般人に至るまで、トラウマの症状とは、たとえばPTSDという概念で知られているような、激しいフラッシュバックや過覚醒や悪夢だと思いこんでいます。

当然ながら大学を出て医者になれる人たちの大多数は破壊的なトラウマなど経験したこともない人たちです。そのため主流の医学は、このトラウマを負ったことのない人たちの視点から研究されてきました。

しかし、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際に書かれているように、過覚醒やフラッシュバックと同じほど、いえそれ以上に深刻なのは、低覚醒や麻痺といった解離症状です。

症状誘発についての研究の多くが、患者の過覚醒やトラウマ再体験反応に注目してきました。

最近私たちの研究チームは、過覚醒や再体験反応を示す患者と、解離反応を示すトラウマ患者との脳活動を比較する研究を始めました。

例えば、Laniusらは、トラウマ経験を想起させる状況や出来事に対して、自律神経の低覚醒をともない、古典的な解離症状を示す患者がいることを見出しています。

多数ではありませんが、意味のある比率になっています。

トラウマ記憶に対するシナリオによるイメージ法の際に、患者は麻痺した感覚、身体から離れるような感覚、または「少し離れていた」ところからトラウマ記憶を体験するような感覚を報告しました。

このようなパターンは、フラッシュバックや再体験がおこるときとは明確に異なった脳活動の活性化を示しています。(p215)

こうした強い解離症状は、長期間の慢性的な逆境経験によって生じます。

あまりに強烈な、もしくはあまりに長い期間にわたるトラウマを経験したことで、神経系が麻痺し、シャットダウンしてしまい、過覚醒から低覚醒に反転する現象が解離です

軽度の解離症状は、だれもが日常生活の中で経験していますが、ほとんどの人は自覚していません。自覚できるほどの強い解離症状となると、慢性的なトラウマにさらされるなどしなければ生じません。

したがって、解離という現象は、実際にトラウマを負った当事者以外にはあまり理解できません。たとえば、解離性同一性障害(多重人格)がいまだに多くの医者から詐病扱いされていることからもそういえます。

当事者ではない医師たちは古くから、解離症状を理解できず、見当違いの治療を施すという過ちを繰り返してきました。

たとえば性的虐待のために解離性障害になった人たちは、性的な欲求不満とみなされて真逆の「治療」にさらされていた時代があったほどです。

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現代の「見たことや感じたことで最悪だったところを語らせる」ようなトークセラピーも、同じ轍を踏んでいます。

治療にあたる人たちが重篤なトラウマを経験したことがなく、解離とは何かわからないせいで、クライエントを「さらなるショックによる停止状態や解離状態に追いやっていることにおそらく気付かない」のです。

「距離を置くことで楽になる」ことの副作用

過去の辛い体験を語らせるような形式のセラピーが、このような解離症状を悪化させるといえるのはなぜでしょうか。

そもそも、言葉で語るというのは、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法に書かれているように、物事を客観的に見るための方法です。

言語が進化したのはおもに「そこにある物」について人に語るためであって、自分の内面の感情、自分の内面性を伝えるためではない

(繰り返しになるが、脳の言語中枢は、自己を経験する中枢から脳内で物理的に可能なかぎり離れたところにある)。

ほとんどの人は、自分のことよりも他者についてのほうがうまく説明できる。(p390)

「脳の言語中枢は、自己を経験する中枢から脳内で物理的に可能なかぎり離れたところにある」という説明からもわかるように、言葉で語るのと、身体で経験するのとは、ちょうど正反対のものです。

トラウマの出来事を物語にするというのは、いわば迫真性を伴っていた「自分」の体験を、だれか「他人」の物語のように整理しなおすことで、ショッキングな体験から距離を取る、ということを意味しています。

小人の例えでいえば、会話によるセラピーは、「記憶の自己」の小人と「経験の自己」の小人の間の距離を広げることで、圧倒されにくくします。

言葉によって語れば語るほど、自分の経験から距離を置いて、客観視できるようになります。しかし先ほど引用したように『「少し離れていた」ところからトラウマ記憶を体験するような感覚』は解離の特徴のひとつなのです。

ですから、言葉によって物語を語ったり、理性を強化したりすればするほど、「記憶の自己」と「経験の自己」のあいだの溝は大きくなっていき、解離は強化されます。

「経験の自己」を遠くに押しやって溝を広げたおかげで、確かにトラウマの迫真の経験には圧倒されにくくなります。

しかし、問題なのは、人生の喜びや楽しさ、満足を感じるのも、この「経験の自己」の役割だということです。

それゆえ、言葉でトラウマを語らせる治療法は、トラウマの過敏な症状を経験しなくすると同時に、人生におけるごく当たり前の幸福も感じられないように麻痺させてしまいます。

トラウマ性ストレスへの治療の取り組みの多くは、患者を過去に対して脱感作することに的を絞っている。

トラウマ体験に再びさらされれば、情動の突発的なほとばしりやフラッシュバックが経ることを期待してのことだ。

だが私は、これはトラウマ性ストレスにおいて起こることの誤解に基づいていると考えている。

…脱感作によって過敏な反応は減るかもしれないが、散歩をしたり、食事を作ったり、子供たちと遊んだりといった、日常のごく当たり前のことに満足を感じられなければ、人生に置き去りにされてしまうからだ。(p122)

トークセラピーがもたらすのは、「脱感作」、つまり“距離を置くことで楽になる”という効果であって、トラウマ記憶そのものの根本的な解決ではありません。

確かにトラウマの迫真性を経験しにくくなりますが、同時にごく当たり前の満足を感じる能力も麻痺するので、「人生に置き去りにされてしま」います。

本当に必要なのは、「経験の自己」と「記憶の自己」の距離を取ることではなく、両者が歩み寄れるようにすること、つまり解離によって遠く離れてしまった二つの自己を、もう一度 統合することです。

過去20年にわたって、心理学専攻の学生がいちばんよく教わる治療法は、何らかのかたちの系統的脱感作だった。これは、患者が特定の情動や感覚に過敏に反応しにくくなるように助けるものだ。

だが、これは正しい目標だろうか。課題は脱感作ではなく、統合だろう。(p364)

セラピーが目標とすべきなのは、「脱感作ではなく、統合」なのです。

最近のいくつかの記事で考えたとおり、近年の神経科学の研究からすれば、トラウマを負った人は、自分の身体感覚を、文字どおり他人のものとして処理しているようです。

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トラウマを負った人が、制御できないさまざまな感覚に苦しめられるのは、「経験の自己」が、自己のコントロールを外れて、だれか他人のように振る舞っているせいだとみなせます。

頭ではわかっていても、身体が無意識のうちに反応して破壊的行為を繰り返してしまうのは、いわば頭と身体が別人になって解離しているからです。

以前の記事で考えたように、トラウマを負った人がさまざまな奇妙な症状に悩まされるのは、自分の身体が複数の別々の他人として処理されているからだとみなせる根拠があります。

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言葉を用いた治療法は、他人になってしまった「経験の自己」とさらに距離を取ることで症状を和らげようとします。それによって、どんどん自分が自分でなくなっていきます。

だが、物語はもっと重要な問題を覆い隠しもする。

それは、トラウマは人をまったく変えてしまう、それどころか、人はもはや「自分自身」ではなくなるという問題だ。(p390)

「経験の自己」が自分自身でなくなればなくなるほど苦痛は感じにくくなります。しかし人生の喜びもまた遠のきます。

本当に必要なのは、他人になってしまった「経験の自己」を、もう一度自分の一部として統合しなおすこと、もう一度「自分のものにする」ことなのです。

統合とは「自分のものにする」こと

この説明だけでは抽象的すぎてわかりにくいので、感覚を統合し「自分のものにする」とはどういうことか、最後にもう少しだけ考えてみましょう。

注目したいのは、トラウマを治療するときに生じる、脳の機能の変化です。

以前の記事で詳しく取り上げましたが、トラウマを負った人は、脳活動のパターンが右半球寄りなのに対し、トラウマを治療するにつれ、左半球寄りになっていくという変化がみられます。

自分でも制御できないネガティブな感情に悩まされている人や、フラッシュバックなどの身体感覚に翻弄されている人は、脳の活動が右半球寄りですが、トラウマを治療できた人は活動が左半球寄りになっていくとのことでした。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際でも、セラピーの効果は、そうした脳活動のパターンの変化として現れるとされていました。

私たちは、この種の身体指向の感覚統合においては、脳活動パターンの変化がおきていると推測しています。

その変化とは、記憶の回想に関連した脳神経回路活性化のパターンが、主に右脳と後頭葉活性化から、左脳と前頭葉前部活性化パターンへと修正されるということです。(p214)

ではなぜ、トラウマが治癒するにつれて、このような脳活動の変化がみられるのか。

一般に左脳には言語中枢があり、言葉を用いた思考をつかさどっていると言われています。

他方、右脳は感覚的な記憶をつかさどっていて、断片的な五感による記憶をつかさどっています。

このことからすれば、トラウマ治療における右脳から左脳への活動の変化は、バラバラに散らばったトラウマ記憶を、言葉によって整理し、物語にすることによって生じた変化のように思えます。

トラウマの治療によって、脳活動が右脳優位から、言語中枢のある左脳優位へと修正されることは、言葉によって過去を整理し、「トラウマを物語に変える」という従来の心理療法の有効性を物語る証拠のひとつなのでしょうか。

スキルの熟達化とよく似ている

必ずしもそうではない、と言える理由があります。

この、右脳優位から左脳優位に変わるという脳活動の変化は、言語が関係していないまったく別の場合においても頻繁にみられるからです。

たとえば、芸術的才能と脳の不思議―神経心理学からの考察に載っている、音楽家の脳の使い方についての次の研究です。

訓練を受けた音楽家はメロディーを右耳で聴いたときのほうが成績が良く、訓練を受けたことがない非音楽家は左耳で聴いた場合のほうが成績が良かったのである。

この結果は、左右の半球がそれぞれ相反するかたちで音楽の処理に関与していることを示している。

訓練を受けた音楽家の場合は左半球が音楽処理に強く関与し、非音楽家の場合は右半球が強く関与しているのである(Bever & Chiarello,1974)。(p140)

音楽のメロディーの処理において、素人はおもに右半球を使っているのに対し、熟達したプロは左半球を使っているとのことです。つまり、音楽の技能に熟達するにつれて、脳活動が右半球優位から左半球優位に変化しているのです。

オリヴァー・サックスは、手話の世界へ (サックス・コレクション)の中で、こうした例が、もっと広く見られることに言及しています。大事な部分なので、少し長めに引用してみます。

「素人の目」や「凡俗の耳」から芸術家や達人の知覚器官への移行は、右半球優位から左半球優位への移行と並行して起こる。

ごく「単純素朴な」聴取者では主として右半球が音楽的知覚をつかさどるが、(その「文法」や規則を把握し、それらを複雑な形式的構造としてしまった)専門の音楽家や「達人の」聴取者では左半球が音楽的知覚をつかさどる。

…流暢なタイ語の使用者では(通常なら右半球がつかさどる)音色の識別を左半球がつかさどることが立証されている。

…数学的概念や数字の世界を、秩序だった広大な知的宇宙や知的体系の一部とみなせるようになった、数学や算術の「達人」にも同様の移行が見られる。

同じことは、空間や視覚的連関を「素人の目」にはできない仕方で見る画家や室内装飾家にもいえるかもしれない。これはまた、ホイストやモールス符合やチェスの名人にも当てはまる。

あらゆる高度な科学的知能・芸術的知能、あらゆる高度な日常遊戯の技能は、言語と似た機能をもち、言語と同様に発達する表象システムを必要とする。

これらはみな移行が起こって左半球の技能となるように思われる。(p204-205)

基本的にいって、言語でも芸術でも職人技であっても、どんな技能であれ、素人からプロへ熟達化するときには、右半球から左半球への活動の移行がみられるというのです。

興味深いのは、これは言語においても同様で、まだうまく外国語を習得していないときは右半球の技能であるのに対し、しっかり習得して「自分のものにする」と左半球の技能になるようです。(p153-154)

ということは、そもそも、わたしたちの多くが言語を使うときに左半球で思考しているのは、左半球が言語に特化しているからではなく、自分の話している言語、つまり母国語に習熟して「自分のものにしている」からではないでしょうか。

言語だから左半球優位なのではなく、熟達した技能だから左半球優位になるのです。つまり、左脳は言語の座というより、熟達化したスキルの座だということです。

オリヴァー・サックスが説明するように、右脳は まだ組織化されていない断片的な体験を処理し、左脳は秩序正しくまとめ上げられた技能を処理しているようです。

右半球は、まだ確立された記述体系あるいはコードが存在しない目新しい情況を処理するのに決定的な役割をはたすだけでなく、そうしたコードのまとめ役もはたしている。

そうしたコードがまとめられてその姿をあらわすと、機能は右半球から左半球へと転移する。

このような文法あるいはコードの形で編成されるプロセスは、すべて左半球がつかさどっているからである。

(目新しい言語課題は、言語的ではあっても、まず右半球でその大半が処理され、次いで左半球の機能として慣習化される。

これとは対照的に、視空間課題は、視空間的ではあって、表記法あるいはコードに埋め込まれれば、大半が左半球で処理されるようになる)(p150)

言語にしても、音楽にしても、ほかのどんな技能にしても、学びたての無秩序な断片的な経験だけで、まだ「自分のものにしていない」段階では右半球の技能です。

しかし、しっかり習得され「自分のものにする」ことができると左半球の技能になります。

これは、以前の記事で書いた、「内なる他人」は右半球に宿っているという研究と一致しています。

まだ「自分のものにしていない」技能は、内なる他人である右半球が管轄していますが、ひとたび「自分のものにする」ことができた技能は、自分すなわち左半球の管轄下に入るのです。

脳はどこから「もうひとつの世界」を創るのか―創造的な作家たちの内なる他者を探る
創造的な作家たちが思いつくアイデアは、「内なる声」の聴覚イメージや、「内なる別世界」の視覚イメージに支えられている、という点を脳科学の観点から考えてみました。

このことからすると、トラウマの治療で見られる、右半球優位から左半球優位への脳活動の変化は、言語を使う必要性を示唆しているわけではなさそうです。

そうではなく、素人がプロに成長するときに起こるスキルの熟達化のように、これまで他人のように無秩序に振る舞っていたトラウマの体験を、しっかり組織し統合することで「自分のものにする」必要があることを示しているのです。

身体で覚え「体得」する

トラウマ治療のプロセスと、素人からプロへのスキルの熟達化とが、同じようなものなのだとすれば、トラウマを治療するのに本当に必要なセラピーとはどういうものなのかがわかってきます。

芸術にしても外国語にしても職人技にしても、素人がプロへと熟達化するときに必要なのは、単なる知識でも対面形式の会話でもないことは、言うまでもありません。

絵の先生と会話するだけで、絵が上達する人がいるでしょうか。音楽の教科書を読んで、その内容を暗記するだけで、音楽のプロになれる人がいるでしょうか。

学校の教室で外国語を教えてもらうだけで、外国語を流暢に話せるようになる人がいるでしょうか。

本当に外国語を「自分のものにする」には、実際に現地に行って、ネイティブの人たちとやりとりする経験が不可欠なのではないでしょうか。

トラウマの治療もこれと同じなのです。

トラウマの治療とは、スキルの学習と同じものだと考えれば、従来の言葉を用いたセラピーに なぜ限界があるのかを、はっきり理解できます。

それは学校で英会話を倣ったときに、ある程度は話せるようになるものの、実用には程遠いのと同じ現象です。

あるいは、たくさんの絵を鑑賞し、絵の技術についての本をたくさん読み、いっぱしの評論ができるようになったにもかかわらず、自分では絵を描けない人のようなものです。

もしくは、ハワイに関する本をたくさん読んで、ハワイの地理や文化についてたくさん語れるのに、実際にハワイに行ったことのない人のようなものと言ってもいいでしょう。

いずれの場合も、決定的に欠けているのは、身体を使った実地訓練、つまり「経験」なのです。

言葉によるセラピーは、過去を語れるようにしてくれるかもしれませんが、「経験」を得させることはほとんどできません。

何せ、言葉によるカウンセリングは、「記憶の自己」を対象にしたものであって、「経験の自己」は蚊帳の外なのです。

外国語を習得するには丸暗記をするだけでなく、実際にネイティブのただ中で話すという経験を積まねばならないように、また絵を上達させるには描き方の本を読むだけでなく、自分の手を使って何度も何度も描かねばならないように、トラウマの治療にも経験が不可欠です。

アマチュアは身体を使った経験を積むうちに新しい技能を「体得」して、脳活動が右半球から左半球に移行し、やがてプロになります。

トラウマを負った人も、単なる言葉のやりとりではなく、身体そのもので安全だと「体得」して初めて、脳活動が右半球から左半球に移行し、トラウマから回復していくことができます。

結局のところ、「経験の自己」に訴えかけるには、「経験」しかないのです。

「経験の自己」が負ったトラウマを治療するには、新しいスキルを体で覚えるかのように、もう安全だということを身体で覚えるしかありません。

ひとたび身体で安全を体得し、自分のものにできれば、本当の意味でトラウマを過去の物語として語れるようになります。

ハワイに行ったことのない人がいくらハワイの生活について語っても、言葉がむなしく上滑りするだけですが、実際にハワイに行ったことのある人が語る物語は本物です。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際に書かれているように、まず身体的な経験が先です。過去の出来事を、すでに終わった物語として語れるようになるのはその後です。

Levineが述べたように、「潜在的な(手続き型)記憶が活性化し、身体的に完了されるとき、顕在的な物語を構築することができます。その逆ではありません」(p349)

何か新しいスキルを身につけるときには、必ず知識と経験が一致する瞬間が訪れます。ああそうだったのか!、と気づく瞬間、いわゆるAha!体験です。

トラウマから回復していくときもそうです。身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法に書かれているとおり、「腑に落ちる瞬間」が訪れ、「人に聞かせる物語と内部経験とが、ようやく一致」します 。(p381,390)

それこそが、「記憶の自己」と「経験の自己」のあいだの溝がなくなり、二人の小人がひとつに統合される瞬間なのです。

知識と経験が一致してはじめて、わたしたちは本当の意味で、安全であるとはどういうことかがわかります。単に知識として、頭で「知る」のではなく、身体で「味わい知る」ということです。

だからこそ、トラウマの治療には、身体で安全を体得できる身体志向のセラピーがどうしても必要なのです。

こうして、この記事の冒頭で引用した、ヴァン・デア・コークの言葉の正しさが裏づけられることになります。

私たちの研究における最も重要な発見は、次の事実かもしれない。

1893年のブロイアーとフロイトの主張とは裏腹に、トラウマを、それと結びついた感情のいっさいとともに思い出しても、必ずしもトラウマは解消しないのだ。

私たちの研究は、言語が行動の代わりになりうるという考え方を支持しなかった。(p321)

「言語が行動の代わりに」はならないのです。

「回復こそ出来事にみちているというのに」

この記事では、従来の会話を主体としたセラピーでは、トラウマを十分に治療できない理由を、脳科学的な研究に照らして考えてきました。まとめると以下のようになります。

■「なぜそう感じるのかを理解しても、どのように感じるのかは変わらない」
認知行動療法などによって考え方を変えても、依然として無力感や破壊的な衝動、侵入的な思考、不快な身体症状などに悩まされ続ける。

■「脳が無意識的に行動の準備を整えた後、ようやく行動を決意する」
リベットの有名な実験によれば、意識的な判断の前に身体が無意識のうちに反応している。トラウマは無意識の身体の条件反射であり、考え方を変えるだけでは間に合わない。

■物語を語ってもトラウマを葬ることはできない
わたしたちの記憶は二種類のシステムからなる。トラウマ記憶は言葉による物語とは記憶の形式が違うので、どれほどの言葉を弄しても、トラウマを語ることはできず、上滑りするだけ。

■「記憶の自己」と「経験の自己」
わたしたちの脳には二種類の自己認識があり、その二つはまったく別々のもの。従来のカウンセリングは「記憶の自己」を対象としているが、トラウマ記憶を抱えているのは「経験の自己」なので、治療すべき相手を間違えている。

■会話によるセラピーは解離を強化する
トラウマ経験を言葉にすればするほど、「経験の自己」から距離を置くことになる。トラウマの迫真性は薄れて過敏症状は減るが、同時に生きる喜びも麻痺してしまう解離状態になる。

■スキルを「自分のものにする」こととの類似性
必要なのは、トラウマ経験を麻痺させて距離を置くことではなく、自分の経験の一部に統合すること。そのときの脳の変化は、スキルに熟達して「自分のものにする」ときとよく似ている。それには身体で覚え「体得」することが不可欠。

この記事で考えたように、従来の会話を中心としたセラピーだけではトラウマを治療するには不十分です。トラウマを治療するには、身体で経験することが不可欠です。

とはいえ、これまで親身にトラウマサバイバーの話を傾聴し、ときに励まし、慰めを与えてきたセラピストたちの努力が無駄だったわけでは決してありません。そうしたセラピーを通してトラウマから回復し、癒やされた人たちがいるのは事実です。

誠実なセラピストたちは、少しでもトラウマを抱える人たちの力になりたいと願って、温かな癒やしの場を提供してきました。

そのような場で自分を認めてもらうことができ、関心を払ってもらえるのは、それ自体が安心感を体得する「経験」となるので、まぎれもなくトラウマの治療に役立ってきたはずです。

また、芸術療法などの手法も、それと知らずして、身体的な経験をトラウマ治療に組み込むことによって成果を挙げてきました。

芸術的表現は、言葉によらず身体の動きを通して、無意識の「経験の自己」にアプローチする手段のひとつだからです。

なぜ芸術療法(アートセラピー)は認知症や不登校の脳機能を回復させるのか
彫刻家、金子健二さんによる「芸術がなぜ認知症を改善するのか」という本の脳科学の研究を通して、なぜ芸術療法(アートセラピー)に効果があるのか、3つのポイントをまとめました。

ですから、この記事の主旨は、これまでのセラピーがまったく無駄だったとか、会話によるセラピーをすべて身体志向のセラピーに置き換えるべきだ、というものではありません。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際に書かれているように、従来のセラピーに、この記事で考えたような視点をプラスすれば、もっと治療が効果的になるはずです。

フロイトの時代から、たいていのセラピーのアプローチは、感覚運動よりも、認知と情動のプロセスに焦点づけてきました。そして、こういったアプローチはトラウマ症状の解消に成功してきました。

しかしながら、身体表現性(somaform)の症状が特にトラウマを抱えた人に顕著にみられるので、感覚運動プロセスを促進するような介入が付け加わることで治療はいっそう効果的になるのです。(p425)

特に、身体志向のセラピーという選択肢が増えれば、解離症状が強いクライエントに対して、より臨機応変に対応できるようになるはずです。

感覚運動的な技法は、トラウマ記憶の想起時に主として解離性反応をおこすクライエントに効果的です。

低覚醒をともなう解離性反応を扱う場合、セラピーの目標は身体感覚への気づきを増やすことにより、低覚醒状態を耐性領域におさめることになります。(p215)

今はまだ会話によるセラピーが主流ですが、今後、柔軟な考えを持つセラピストを中心に、もっと身体志向の技法が導入されるようになれば治療の幅が広がるでしょう。

そしてもちろん、今まさにトラウマの影響と戦っているサバイバーの当事者たちにとっても、従来の心理療法以外のトラウマ治療の選択肢が増えつつあることは助けになります。

トラウマ記憶についての正しい理解がもっと普及すれば、うまくいかないセラピーによって、不必要な劣等感を上乗せされることはなくなるでしょう。

理性的な考え方を強化したり、認知を変えたりする従来の心理療法でうまくいかなかったとしても、それは決してあなたの意志の弱さのせいではないのです。

確かに、トラウマから回復する過程は決して楽な道のりではありません。新しいスキルの習得や、アマチュアからプロになるような熟達化が楽な道のりではないのと同じです。

しかし、新しいスキルを身につけることが大きな達成感を伴う素晴らしい経験であるように、トラウマから回復するというのも、単なる回復を超えた達成感をもたらすはずです。

この記事で何度も書いてきたように、実際にトラウマを負った当事者と、トラウマを経験したことのない知識だけの専門家とのあいだには、大きな認識のギャップがあります。

数あるギャップの中でも、最も大きな認識の食い違いは、もしかすると、回復についての認識かもしれません。

トラウマを経験したことのない専門家たちは、回復とは、単に普通の状態に戻ることだと考えます。しかしこの記事で考えたことからすると、それはまったくの間違いです。

トラウマからの回復とは、脳科学的にいえば、素人がプロフェッショナルになるのと同じくらい素晴らしい成長なのです。

ですから、きっと、トラウマから回復する人は、オリヴァー・サックスが、左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)で書いたのと同じように感じることでしょう。

だから、こっそりのぞいたカルテに「特記すべき事なし。順調な回復」と書いてあるのをみて、私は思った。

「医者たちは頭がおかしくなったにちがいない。回復するということは、立派な出来事ではないか。思いがけない出来事の連続だ。

出来事というより〈出現〉、新しい、想像もできないような力の出現である。出来事、出現。それは誕生であり、復活なのである」(p188)

「順調な回復。特記すべきことなし」なんとナンセンスな表現だろう。

…それは、急激な、実存にかかわる変化である。まったく新しい、思いがけない、予測のつかない、計算不能な、驚くべき変化なのである。

「特記すべき事なし。順調な回復」だって?

回復こそ出来事にみちているというのに。(p196)

補足1 : フロイトは自分のトラウマを克服できなかった

本文中で書いたように、現代のトークセラピーは、ジークムント・フロイトの談話療法に源を発しています。理性を強化することに重きを置く、認知行動療法のような手法も、元をたどればフロイトの影響を受けています。

こうした治療法は、トラウマ経験から距離を置き、解離を強化することでトラウマの迫真性を和らげていました。同時に、人生の喜びをも感じにくくさせてしまいますが、それを「治療」とみなしていました。

この思い違いは、そもそもフロイト自身が、それと知らずして解離状態に陥っていたことから来ているようです。

オリヴァー・サックスは、音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々の中でこう書いていました。

フロイトのこととなると、問題ははるかに複雑だ。

彼は音楽の都ウィーンに住んでいたにもかかわらず、(話から判断するかぎりでは)自主的に、あるいは楽しみのために音楽を聴いたことはなく、音楽について書いたこともなかった。(p395)

サックスによると、フロイトは音楽に対して複雑な思いを抱いていました。彼は「ミケランジェロのモーセ」の序文でこう述べていたそうです。

私は芸術通ではない……にもかかわらず、芸術作品は私に強大な影響をおよぼす。とくに文学と彫刻にそれが言えるが、絵画はそれほどでもない。

……それを前にして長い時間、自分なりに理解しようとする。つまり、どんな影響があるはずかを自分に説明しようと試みる。

たとえば音楽のように、その試みがうまくいかないものには、喜びをまったく感じることができない。

私の合理主義的な性質か、ひょっとすると分析的な性質が、なぜ自分が感動するのか、そして何に感動しているのか、わからないままに感動することを嫌うのだ。(p396)

このフロイトの言葉から、フロイトは解離症状の一種であるアレキシサイミア(失感情症)に陥っていたのではないか、ということが読み取れます。

感動を誘うものに触れても「喜びをまったく感じることができない」のは、失感情症の特徴です。失感情症は、感情を切り離すことによって、自分を守ろうとする防衛の一種です。

以前の記事で書いたように、失感情症は、子供のころに回避型(拒絶型)と呼ばれる不安定な愛着を抱えた人に多い症状です。

このタイプの人は、痛みや動揺を切り離して、表面的には何も感じていないかのように振る舞うので、ヴァン・デア・コークはこれを「感じることのない対処」と呼んでいました。

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フロイトの研究に詳しい岡野憲一郎先生が、こちらの記事で指摘しているように、フロイトは「母親からかけられた強烈な期待に見合うことができない、劣った恥ずべき存在になるという恐れ」を生涯抱えていたようです。

このトラウマ的な感情に対する防衛として、彼が選んだのは、ひたすら理性的に、また合理的に思考することで、トラウマ的な過去から距離を置くという対処法でした。

サックスは、フロイトのことをよく知っていたセオドア・レイクが、『忘れられないメロディー(The Haunting Melody)』の冒頭で書いていた次のような観察を引用しています。

[フロイトの音楽に対する無関心は実際には] 拒否であり……自己防衛のための意志による行為であり……音楽が感情におよぼす影響が自分に望ましくないように思えれば思えるほど、強く激しくなった。

彼は理性を研ぎ澄まし、感情を停止させておかなくてはならないと、ますます確信するようになっていた。

そして音楽の闇の力に身を任せることを嫌がるようになっていった。このようにメロディーが感情に及ぼす影響を避ける態度は、自分の感情の激しさに危険を感じる人に見られることがある。(p397)

フロイトは、過去のトラウマ的な感情に圧倒されそうだったので、「理性を研ぎ澄まし、感情を停止させておかなくてはならないと、ますます確信するようになっていた」のです。

フロイトが言葉に偏ったトークセラピーを生み出したのは、自分自身が未解決のトラウマを抱えていて、感情を停止させなければやっていけなかったことから来ていた、ということになります。

フロイトにとっては、過去のトラウマ的な体験に動揺するのを防ぐ最善の方法は、人生の当たり前の喜びや満足感を麻痺させてでも、過去から距離を置くことでした。

フロイトが、同時代の精神科医ピエール・ジャネが作り出した「解離」という概念を認めなかったのは当然の成り行きだったのかもしれません。

もし理性を強化して感情を切り離す自分の治療が、実際には解離を強化して自己防衛しているだけだと認めてしまうなら、自分自身の生き方そのものを否定するようなものだったでしょう。

フロイトが「理性を研ぎ澄まし、感情を停止させ」た結果、「喜びをまった感じることができな」くなったことは、フロイト流の治療法によってトラウマに対処する人たちがどのような状態になるかを、疑問の余地なく物語っています。

フロイトはその絶大なカリスマ性をもって、医学の主流派の地位を獲得しましたが、彼の理論や治療法にバイアスがかかっていることに気づいた人は当時から存在していました。

フロイトの弟子だったヴィルヘルム・ライヒは意見を翻して身体志向のセラピーの礎を築きましたし、カール・グスタフ・ユングはフロイトと意見を違え、トラウマ治療における解離の重要性を訴えました。

以前の記事で触れたように、神経学者アントニオ・ダマシオらによる、自己意識の生成についての近年の研究は、ライヒやユングの観点が正しかったことを裏付けています。

プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちには、ダマシオの研究の意義がこう書かれています。

ダマシオの研究は、肉体的な情動がいかに必要かを明らかにした。…ダマシオの驚くべき発見の一つは、身体から発生する感情は、理性的な思考の最も重要な要素だということである。

ふつう、感情は理性の邪魔をすると考えられているが、ダマシオが研究した感情を持てない患者たちは理性的な決断ができなかった。…多くの患者は何時間も、的外れの些細な事柄をあれこれ考えていた。(p40)

ダマシオはさまざまな研究を通して、わたしたちの理性的な自己意識は感情から、そして感情は身体の感覚から生まれていることを明らかにしました。

例えるなら、身体、感覚、感情、理性は一本につながった川のようなものです。感覚や感情を無視して理性だけを扱うアプローチや、身体を無視して心だけを扱うアプローチは、あたかも川の下流だけ見て、上流を無視しているようなものです。

もし川の汚染が上流で起こっているなら、下流だけを浄化しようとするアプローチでは役に立ちません。フロイトのように感情をせき止めるなら、より下流にある理性もまたせき止められてしまうことになります。

感情を抑えて理性的な判断を重視しようとすれば、より冷静に判断できるようになるどころか、まったく懸命でない判断をするようになってしまいます。(これは理性的に患者と接しようとする医者の対応が的外れになりやすい理由でもあります)

本文中で引用したトラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復のこの言葉は、フロイトの生涯を思うとき、よりいっそう現実味を帯びます。

現代の心理療法は、フロイトとその弟子たちの精神分析的アプローチか、認知行動療法的アプローチが主流となっている。

しかし、人間の苦痛を緩和するこれらの手段は、トラウマとその潜在的な記憶の刷り込みへの対処に関しては限界を持つ。

これら従来の治療法は両方とも、トラウマに関連する一部の機能不全には確かに対処しているが、原因の根本には到達していない。(p5)

フロイトは理性的に思考することで、自分のトラウマから距離を置くことはできましたが、95歳の母親が死んだときもなお、母親の呪縛に囚われたままでした。

感情を麻痺させることでかりそめの安定は得ましたが、感情を揺さぶる芸術を危険な「闇の力」とみなして拒絶するしかなくなりました。

結局、フロイトは最期まで自分のトラウマを克服できませんでした。フロイトが編み出した方法でトラウマに対処する人たちは、川の上流、すなわち「原因の根本には到達」できないので、当然フロイトと同じ問題に陥ります。

言葉に重きを置いて理性を強化する治療法が、「トラウマとその潜在的な記憶の刷り込みへの対処に関しては限界を持つ」ことは、フロイト自身が、その生涯をもってすでに実証してしまっているのです。

補足2 : セラピストは「避難所」になるべきなのか

従来の言葉を用いたカウンセリングは、フロイトがそうだったように、クライエントとの間に壁を作って分析するか(認知的共感)、あるいは思いやりのある傾聴を通してクライエントに親身に共感するか(情動的共感)、のどちらかのスタイルをとります。

理論的で分析的なセラピストほど前者のスタイルになり、感受性豊かで共感的なセラピストほど後者のスタイルを選ぶかもしれません。

前者のやり方の場合、クライエントは、セラピストとの間に壁を感じ取ってしまい、先述の岡野憲一郎先生のフロイトについての記事の中でブルーチェックが指摘しているとおり、「患者の側に余計恥の感情を生むことに」なってしまいがちです。

つまり、あまりにセラピストがあまりに理性的な態度で距離を取って接するせいで、クライエントは心のうちを理解してもらったと感じられず、的外れな解釈に戸惑ったり落胆したりするだけになってしまいます。

では、後者のやり方がいいのかというと、確かにクライエントは癒やされるかもしれませんが、セラピストはクライエントを支えるために強い共感疲労にさらされて、弱り果ててしまうでしょう。

トラウマ当事者の凄惨な経験を傾聴するというのは、第一人者であるヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法で書いているように、感受性豊かなセラピスト側にとっても相当な負担だからです。

私は、帰還兵がヴェトナムで子供を殺したことについて語るのを、初めて聞いたときのことを覚えている。

そのとき私は、鮮明なフラッシュバックを経験した。…帰還兵の告白に対する自分の反応に耐えられなかったので、私はそのセッションを中止せざるをえなかった。(p401)

ヴァン・デア・コークは「トラウマは、それについて話す人だけでなく聴く人をも打ちのめす」と述べています。(p399)

実際、感受性豊かで共感的なセラピストは、ヴァン・デア・コークが続けて述べるように、自分自身も定期的にセラピーを受けることによって安定性を保たなければやっていけません。

だからこそセラピストは、自分自身のセラピーを徹底的に済ませておかなければならない。

そうすれば、患者の話によって憤激や嫌悪の感情が生じたときにも、自らその感情を処理して、情動的に患者の側に立ち続けることができる。(p401)

共感性豊かなセラピストの中には、クライエントの「避難所」になること、愛着理論における言葉を借りれば「安全基地」になることをモットーにしている人もいます。

安全基地は飛行場や港に例えられます。苦難のときに戻ってきて心身を休めることのできる場所、すなわち必ず親身に助けになってくれる存在があれば、人は自信をもって外界に出ていくことができます。

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しかし、ヴァン・デア・コークがトラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際のはしがきで書いているように、セラピストがクライエントの「安全基地」になるという方法には限界があります。

既存の言葉によるセラピーでは、体の感覚や生理的な調節不全、自発的でない体の動き、無力感、恐れ、恥、激しい怒り、などの過去からの非言語的な影響を解決する手段をもたないままで、トラウマに関する潜在的な記憶を呼び覚まそうとします。

そうするとトラウマを受けた人は安全でないと感じて、目の前の関係性に助けを求める傾向が生じます。

そしてセラピストは何もできないと感じて無力になっている命の避難所になってしまいます。(p xxvii)

以前の記事でも書いたように、本来、安全基地は共依存とは別のものです。しかし、自分をコントロールできない不安定なクライエントは、セラピストに依存してしまいがちです。

単に言葉によって悩みを聞くというやり方では、クライエントは何か問題が生じるたびにセラピストのもとに助けを求めに来て、苦しい感情を吐露する、ということを繰り返すサイクルに、延々とはまりこみます。

セラピストは「何もできないと感じて無力になっている命の避難所に」なりますが、セラピストも一個の人間です。大勢のトラウマ当事者たちの命の避難所として、ただひたすら自分を献身的に差し出すのは現実的とは思えません。

どこかでセラピスト自身が疲れ果てて限界を迎えてしまうか、あるいはフロイトのように、知らず知らずのうちに失感情症に陥ってしまい、患者から「距離を置く」ようになるかもしれません。

トラウマの話をひたすら聴くというのは、感受性豊かな人にとっては悲惨な物事を何度も何度も体験するも同じなので、代理トラウマを負ってしまい、自分自身がいつの間にか解離して、共感性が麻痺してしまう危険をはらんでいます。

フロイトが、初期のころの性的虐待の被害者に共感的に接していたセラピーのやり方を捨てて、極端に分析的・理性的なセラピーへと方針転換したのも、おそらく、トラウマの凄惨な話を聞かされることに対する防衛だったのでしょう。

カウンセリングによって恐ろしい凄惨な話を聴くことは、もともと感受性豊かな人だったと思われるフロイトには耐え難く、自身が抱える過去のトラウマを刺激するものだったので、クライエントから距離を置いて、分析するやり方にならざるを得なかったのかもしれません。

最初はトラウマ当事者に親身に寄り添いたいと思ってセラピストになった人でも、繰り返し繰り返し恐ろしいトラウマの話を聞かされているうちに次第に共感性が麻痺し、機械的になって、いつのまにかフロイトのように遠くから分析や解釈するだけになってしまう可能性があります。

これを避けるには、セラピストがクライエントの「安全基地」になるというやり方の限界を認める必要があります。セラピストは人間にすぎず、大勢の人たちの命の避難所になどなれないことを認めなければなりません。

ヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法で書いているこのことをわきまえる必要があります。

ジョーンが自分の窮状や苦痛に対処できるようになるためには、彼女自身の強さと自己愛の力を借りて、自ら立ち直っていけるよう仕向けなくてはならなかった。

これはすなわち、彼女のなかに眠る多くの資源に意識を集中することを意味した。

そして私は、子供のころに彼女が受けられなかった愛情や優しさを自分が与えることはできないのだと肝に命じておく必要があった。

セラピスト、教師、あるいは助言者として、幼いころの窮乏の穴を埋めてやろうとしても、自分が不適切なときに不適切な場所に現れた不適切な人物であるという事実を思い知らされるだけだ。(p473)

セラピストの役割は、クライエントの「安全基地」になることではなく、クライエントが「自ら立ち直っていけるよう」に助けること、言い換えれば、クライエントが自ら「安全基地」を獲得できるようにすることです。

愛着理論における安全基地という概念はもともと、だれか外部の人を「避難所」にして依存することを意味していません。

安全基地という概念を作ったメアリ・エインスワースは、安全基地とは外部の他人ではなく、内在化された安心できる感覚だと考えていました。

子どもは最初は他者である親に依存しているかもしれませんが、いずれ親の温かなイメージを内在化して、自分ひとりで外の世界に出ていけるようになります。

それゆえ、ヴァン・デア・コークは続けてこう書きます。

セラピーの重点は、ジョーンと私との関係ではなく、彼女と内部のさまざまな部分との関係に置かれることになった。(p473)

クライエントがセラピストを避難所としているようでは、問題は解決しないのです。クライエントが自分の内部に眠る資源を、自分で活用できる能力を育まないかぎり、独りで外の世界に出ていけるようにはなりません。

もう一度、ヴァン・デア・コークがトラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際で説明していたこの言葉に注目してください。

既存の言葉によるセラピーでは、体の感覚や生理的な調節不全、自発的でない体の動き、無力感、恐れ、恥、激しい怒り、などの過去からの非言語的な影響を解決する手段をもたないままで、トラウマに関する潜在的な記憶を呼び覚まそうとします。

そうするとトラウマを受けた人は安全でないと感じて、目の前の関係性に助けを求める傾向が生じます。

そしてセラピストは何もできないと感じて無力になっている命の避難所になってしまいます。(p xxvii)

セラピストが、クライエントの「命の避難所」になってしまうのは、言葉によるセラピーでは、生理的な感覚を自己調節する手段を身につけさせることができないからです。

自己調節の手段を身につけさせるとはつまり、問題が生じたときに、外部の他人であるセラピストのところに繰り返しやってこなくても、自分で「体の感覚や生理的な調節不全、自発的でない体の動き、無力感、恐れ、恥、激しい怒り、などの過去からの非言語的な影響」をコントロールできるスキルを身につけさせることです。

クライエントが自己調節できるスキルを身につけ、いわば自分の身体をコントロールする素人から、自分の身体を我が物として扱えるプロフェッショナルへと成長する必要があるからこそ、単なる言葉だけのやりとりではなく、身体を使ったトレーニングが必要なのです。

その意味で、セラピストは、迷える魂の「命の避難所」のようなものではなく、温かく励まし、スキルを体得させ、やがて一人でやっていける自信を持たせるスポーツ選手のコーチのようなものだといえるかもしれません。

クライエントの話をただ聴くだけでなく、自己調節の仕方を教える方法について、より専門的な説明については、セラピスト向けに書かれているトラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際がわかりやすくておすすめです。

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ソマティック・エクスペリエンス(SE)を知る10ステップ―「凍りつき」を溶かすトラウマセラピー https://susumu-akashi.com/2018/05/se/ Fri, 18 May 2018 04:45:15 +0000 https://susumu-akashi.com/?p=8290 続きを読む ]]>

子どもが逆境やトラウマを経験すると、闘争・逃走反応を起こすか「凍りつき」状態となり、体の感覚が鈍る。

…最も効果的な方法の一つに、身体感覚に注意を向ける「ソマティック・エクスペリエンス」というセラピーがある。(p258)

どものころに経験した逆境的体験が、生物学的な変化を脳や身体にもたらし、思春期以降、さまざまな精神的・身体的な病気を発症させていく。近年、トラウマは単なる「こころの病」ではなく、全身疾患であることが明らかにされつつあります。

ACE研究が明らかにした「小児期逆境後症候群」ーなぜ子ども時代の体験が脳の炎症や慢性疾患を引き起こすのか
17000人以上のデータから子ども時代の逆境体験と成人後の体調不良の関連性を導き出した画期的なACE研究の取り組みをもとに、幼少期の経験がわたしたちの一生にわたり、心身の健康にどん

そのことを説明した本、小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)には幾つかの有望な治療法が紹介されていますが、そのひとつは「ソマティック・エクスペリエンス」(SE)でした。

ソマティック・エクスペリエンスとは、字義通りには「身体の経験」という意味です。ここ日本ではまだあまり知られていませんが、ヴァン・デア・コークらトラウマ研究の第一人者たちから注目され、アメリカ航空宇宙局(NASA)でも活用されているようです。

ソマティック・エクスペリエンスは、従来のカウンセリングを主体としたセラピーとはまったく異なるアプローチで「こころ」ではなく「からだ」に働きかけます。

この記事で紹介するように、もともと原因不明の慢性疲労症候群や線維筋痛症、胃腸障害、パニック障害のような症状をきっかけに考案された治療法であり、特に子ども時代の逆境体験によって、慢性的に「凍りつき」に陥っている人に効果があると考えられます。

「凍りつき」とは、どのような生物学的現象なのでしょうか。トラウマ性の身体症状にはどんなものがあるでしょうか。ソマティック・エクスペリエンスはどのようにして身体に働きかけるのでしょうか。

この記事では、ソマティック・エクスペリエンス(SE)の理論を構築したピーター・ラヴィーンの本をはじめ、さまざまな文献を参考に、SEを理解するための10のステップをまとめてみました。

これはどんな本?

今回参考にした本は多数ありますが、おもに以下の三冊を中心としています。

身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法は、現代のトラウマ研究の第一人者ともいえる、ベッセル・ヴァン・デア・コークによる、非常に評価の高い一冊です。

とくに子ども時代に経験したトラウマは、従来のPTSDとはまったく異なる「発達性トラウマ障害」(DTD)という複雑な身体的・精神的な症状を引き起こし、治療するには身体的な経験が必要である、ということが様々な角度から書かれています。

身体に刻まれた「発達性トラウマ」―幾多の診断名に覆い隠された真実を暴く
世界的なトラウマ研究の第一人者ベッセル・ヴァン・デア・コークによる「身体はトラウマを記録する」から、著者の人柄にも思いを馳せつつ、いかにして「発達性トラウマ」が発見されたのかという

ヴァン・デア・コークは、この本の中で、特に身体に働きかける2つの治療法に言及しています。

私の友人であり師であるパット・オグデンとピーター・リヴァインは、この問題に対処するために体に働きかける強力なセラピーをそれぞれ開発した。

感覚運動心理療法(センサリーモーター・サイコセラピー)と、ソマティック・エクスペリエンス(ソマティックは「身体の」という意味)だ。

これらの治療の取り組みで重要なのは、何が起こったのかという物語ではなく、身体的感覚を探って、過去のトラウマが体に残した痕跡の場所と形態を発見することだ。(p356)

今回おもに参考にした残り二つの本は、この二人の著者によるものです。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際はパット・オグデンら複数の著者による感覚運動心理療法の詳細な解説書であり、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンスによる最新のトラウマ・ケアは、ピーター・ラヴィーンによるソマティック・エクスペリエンスの解説書です。

ヴァン・デア・コークがこの二人の治療法を並べて紹介していたように、センサリーモーター・サイコセラピー(SP)とソマティック・エクスペリエンス(SE)は、それぞれ少し違う流れをくむものの、類似した内容のセラピーになっています。

どちらも「こころ」ではなく「からだ」に働きかけることで、「身体的感覚を探って、過去のトラウマが体に残した痕跡の場所と形態を発見する」ことを目的としていて、最新の脳科学や神経科学に基づいた理論を構築しています。

今のところ、ここ日本ではソマティック・エクスペリエンスのほうが知られているため、この記事は主にそちらに焦点を当てますが、センサリーモーター・サイコセラピーの知見からも数多くを引用して、理解の助けにしています。

日本ではまだ耳慣れない概念を説明するため、この記事では少しでも理解しやすくするためのたとえや事例を含めていることもあって、かなりの長文となっています。

話題ごとに10のステップに区切っていて、冒頭の目次から飛べるようになっているので、読みきれない場合にご活用ください。

1.目的は「凍りつき」を溶かして動き出させること

冒頭で引用したように、ソマティック・エクスペリエンスは「凍りつき」を治療するための手法です

ソマティック・エクスペリエンスとは何かを知るには、まず「凍りつき」という生物学的現象について知る必要があります。

「凍りつき」とは何でしょうか。

これまで、トラウマは「こころの問題」とみなされていました。しかし、小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)によれば、近年の神経科学は、トラウマとは身体に起こる生物学的な現象であることを発見しました。

「脳は小児期から思春期にかけて発達しますが、子宮内や生後3年間に過ごす環境は、脳の基本的な構造や物質が形成される重要な期間です」とカー・モースは言う。

たとえば、赤ん坊が隣の部屋で言い争う大声を聞くと、脅威を感じて脳が警告を発する。

すると赤ん坊の鼓動は強まり、呼吸が速く浅くなり、汗をかき、酸素が手足に送られて無意識のうちに闘争・逃走反応が起こる。

だが、赤ん坊は闘うことも逃げることもできないので、「“凍りつき”と呼ばれる3番目の神経状態になります」とカー・モース。

赤ん坊は泣いたり叫んだりせず、麻痺したようになる。この凍りついた状態がトラウマだ。(p175)

最後の一文がとても端的に表現してくれています。

「この凍りついた状態がトラウマ」なのです。

人間も含め、生き物は身の危険を感じると、生物学的な防衛反応を開始します。

脳が警告を発すると、まずは「酸素が手足に送られて無意識のうちに闘争・逃走反応が起こ」ります。その名のとおり、戦ったり逃げたりすることで危機を脱しようとする積極的な防衛反応です。

しかし、「闘うことも逃げることもできない」と、「“凍りつき”と呼ばれる3番目の神経状態になります」。戦ったり逃げたりすることをあきらめて、身体を硬直させたり、死んだようにぐったりさせたりする反応です。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンスによる最新のトラウマ・ケアの中で、ピーター・ラヴィーンは、この反応は、多くの動物に共通している本能的な防衛反応だと述べています。

捕食者や攻撃者もしくはその他の危険に対するヒトの最初の防衛線は、一般的に積極的な防衛である。

…この闘争か逃走というよく知られている反応に加えて、あまり知られていない、脅威に対する第三の反応がある。

不動化である。

動物行動学者はこの麻痺の「初期」状態ほ持続性不動状態(TI)と呼ぶ。これはは虫類とほ乳類に備わる。(p61)

動物行動学者たちの研究分野では、第三の反応である「凍りつき」は「持続性不動反応」として知られていることがわかります。少し難しい言葉ですが、固まって動かなくなる状態が持続する反応、という意味です。

パット・オグデンもまた、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際の中で、こうした凍りつき反応は、動物たちに広くみられる生物学的な現象であると解説しています。

動物の赤ちゃんや弱くて群れる動物は、ある状況下で危機にさらされたとき、最初は助けを求めて鳴きだすかもしれません。

しかし、たとえ脱出ルートが利用可能な場合であっても、よく選ばれる防衛は凍りつき(freezing)防衛です。

…なぜなら、動物においては、動くことは活動的な捕食者の行動を刺激する合図となり、動かないことは発見されることを防ぐので、捕食者が他の動いている獲物に向かうかもしれないからです。

…この防衛に失敗した場合は、サバイバル反応の「最後の手段」として、ぐったりと動かなくなる「擬態死」が使われます。

…なぜなら、動かない、あるいは動けない動物は病気にかかっているかもしれないので、捕食動物は動かない獲物をむさぼらないようにプログラムされているからです。

こうした動物の防衛反応と同じことが人間にもみられることに注意すべきです。(p125)

ここでは、動物は逃げられないとき2つの種類の固まる防衛反応を示すとされています。見つからないように息を潜めて身体を固くする「凍りつき」や、死んだかに見せかけて窮地を乗り切ろうとする「擬態死」です。

最後の一文が示すとおり、「こうした動物の防衛反応と同じことが人間にもみられ」ます。

考えてみてください。学校でいじめられたり、先生に目をつけられるのを恐れたり、家庭で虐待的な親の怒りを買わないように常に気をつけている子どもは、捕食動物に見つからないよう、息を潜めて身を凍りつかせる草食動物とまったく同じ体験をしているのではないでしょうか。

自分には理解できない手術のために拘束され、わけもわからないまま痛みの伴う手術を受けさせられる子どもや、身体的・性的虐待にさらされる子どもは、捕食動物に今まさに食われようとしている草食動物と同様なのではないでしょうか。

けれども、動物の場合、たとえ肉食動物に襲われて「凍りつき」や「擬態死」に陥っても、危機が去れば回復するはずです。いつまでも仮死状態になっていれば自然界で生き抜くことはできません。

しかし、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンスによる最新のトラウマ・ケアによると、動物行動学者たちは、この凍りつきや擬態死が終息しない場合があること、つまり、常に凍りついたままになってしまうことがあるのを発見しました。

簡単にいえば、「繰り返し脅かされ、なおかつ繰り返し拘束された場合」、この凍りつき状態の自然終息は起こらなくなってしまいます。(p69-71)

たびたび同じような経験をしたり、慢性的に脅威にさらされると、身体にとって「凍りつき」や「擬態死」のままでいるのが当たり前だと認識されてしまい、いわばそれがデフォルトのモードになってしまって解除できなくなってしまいます。

自然界の動物たちが、肉食動物に襲われても一時的に凍りつくだけで済むのは、肉食動物はすぐに去っていくからです。もしも、何ヶ月も肉食動物と同じ檻に入れられて、常に捕食される危険にさらされているなら、凍りついたままになってしまうでしょう。

現に、コロラド大学の神経科学者スティーブン・マイヤーとペンシルヴァニア大学のマーティン・セリグマンは、犬を檻の中に閉じ込めて、繰り返し電気ショックを与えるという「逃避不能ショック」と呼ばれる実験を行ないました。

すると、その犬たちは、凍りついて虚脱したまま、動けなくなりました。なんと、檻の扉が開けられても、自分からは出ようとしないほど、固まってしまったのです。凍りつきがデフォルトになって、逃げたり動いたりできなくなった結果です。

ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、その実験の動物に起こったのと同じことが、トラウマを負った人に生じていると述べています。

私はマイヤーの説明に釘付けになった。彼とセリグマンが哀れな犬たちにやったのとまさに同じことが、トラウマを負った人間の患者たちの身に起こっていた。

私の患者たちも、恐ろしい害―避けようのない害―を彼らになす人(あるいはもの)にさらされたのだ。

私は自分が治療した患者たちのことを、頭の中でさっと思い返してみた。ほぼ全員が何らかのかたちで身動きがとれなくなり、行動を起こして状況を打破することができずにいた。

闘争/逃走反応が妨げられてしまい、その結果は極端な動揺あるいは虚脱状態だった。(p57-58)

自然界の捕食動物は、一時的に襲ってきてもすぐに去っていきますが、人間の子どもが経験する慢性的なストレスはそうではありません。

先ほど考えたような、学校や家庭、病院でさらされる身動きのとれない恐怖はときには何年ものあいだ、毎日休みなく繰り返されます。

その結果、ピーター・ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンスによる最新のトラウマ・ケアで述べているように、人間の子どもにも、「逃避不能ショック」を受けた犬たちと同じ、慢性的な凍りつき、擬態死状態が生じます。

トラウマは強烈に脅かされたとき、および物理的に拘束された、あるいは捕らえられたとヒトが知覚したときに生じる。

ヒトは麻痺して凍りつくか、または圧倒的な無力感で脱力し崩れ落ちるのである。(p61)

過去に何かしらの逃げられない脅威に直面した結果、筋肉が凍りついたままになって硬く張りつめたり、擬態死状態のままの身体が死んでいるかのように虚脱している現象が、トラウマなのです。

「凍りつき」としての身体症状

子どものころから、身を凍りつかせることで対処してきた人にとっては、その凍りつき状態はデフォルトの当たり前のものなので、本人すら自分が凍りついているとは気づいていないかもしれません。

トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復のまえがきでヴァン・デア・コークは、トラウマの凍りつきの影響は、「わずかに息をひそめたり、微妙に筋肉が緊張したり、括約筋が硬化するといった、微細な反応」として慢性的に現れていることをラヴィーンから教えてもらったと述べています。(p vii)

彼は、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、患者たちとレクリエーションを企画したとき、慢性的な凍りつきの影響をまざまざと観察することになりました。

レクリエーションのリーダーの役割を果たしているうちに、他にも気づいたことがある。

患者たちは総じて、はなはだ不器用で、動きがぎくしゃくしていた。

…チャールズ川では一度、突風に見舞われたときにヨットが転覆しかけた。位置を変えてヨットのバランスをとる必要があることを理解できず、身を固くして帆の陰に寄り集まっていたからだ。

バレーボールをすると、患者よりスタッフのほうがきまって身のこなしが良かった。

共通点は他にもあった。彼らにとっては精一杯くつろいだ会話でも、堅苦しく、友人どうしなら当たり前の自然な仕草や表情が見られなかった。

こうした観察結果の妥当性は、体に働きかけるセラピーを行なうピーター・リヴァインとパット・オグデンに出会って初めて明らかになった。(p50-51)

ヴァン・デア・コークが気づいたように、子ども時代から凍りつくことで対処してきた人たちは、「総じて、はなはだ不器用で、動きがぎくしゃくして」います。

以前の記事で書いたように、こうした凍りつきの影響は、生まれつきの不器用さや、発達障害特有の発達性協調運動障害(DCD)だと誤解されているかもしれません。

しかし実際には、子ども時代から慢性的に続く筋肉の凍りつきの現れであり、この慢性的な微細な緊張状態こそが、身体にダメージを蓄積させ、重大な身体症状へとつながっていきます。

明確な原因が見当たらない身体的症状は、トラウマを負った子供にも大人にも広く見られる。

腰や首筋の慢性的な痛み、線維筋痛症、偏頭痛、消化不良、痙攣性結腸/過敏性腸症候群、慢性疲労、喘息などが起こりうる。

トラウマを負った子供は、そうでない子供よりも、喘息を起こす率が50倍も高い。(p164)

常に身を凍りつかせ、緊張状態にあって息をひそめていたら、身体の筋肉が過緊張になり、のどや胃腸が締め付けられるのは当然です。それが何年も何十年もデフォルトの状態として休みなく続けば、激痛や窒息するほどの苦痛にも発展します。

ピーター・ラヴィーン身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンスによる最新のトラウマ・ケアでこう書いているように、慢性的な凍りつきは、時間の経過とともに線維筋痛症や慢性疲労症候群へと進行していきます。

かくして気まぐれな症状へと道筋が定まっていく。首や肩、背中の張りは時間の経過とともに線維筋痛症へと進行する可能性が高い。

また未解決のストレスによる身体的表現としてよく見られるものに偏頭痛がある。

胃腸のむかつきは、よく見られるような過敏性腸症候群やひどい月経前緊張症候群、またけいれん性結腸のような消化器系の問題へと突然変異的に進行してしまうかもしれない。

こうした状態は苦しんでいる人のエネルギー資源を枯渇させてしまい、慢性疲労症候群という形に進行する可能性もある。(p219)

人生の時間も凍りついている

トラウマを抱える人が経験する他の多くの症状は、この慢性的な身体の「凍りつき」の結果です。

「凍りつき」とは言い換えれば、人生の時間が停止することでもあります。

トラウマを負った人は、もうすでに危機的状況が去ったはずなのに、身体のほうでは、まだ危機のただ中にいると判断してしまい、いつまでも凍りつきや擬態死を終わりなく繰り返しています。

パット・オグデンは、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際の中でこう説明しています。

あたかも時間がそのときの脅威のまま止まったかのようであり、そして、身体はトラウマ時の出来事を再現し続けます。

すなわち、脅威が認められ、動きのある防衛システムが刺激され、それから突然停止して、持続性の調節不全の覚醒と、凍りつき防衛、虚脱と麻痺が続くのです。(p348-349)

身体が凍りつくということは、身体にとって「あたかも時間がそのときの脅威のまま止まったかのよう」なものです。

トラウマを負った人が経験する、さまざまな身体的・精神的な症状はすべて、身体がまだ危機のさなかにあり、時間が凍りついていることで生じています。

トラウマの解離という概念を作り出した先進的な精神科医ピエール・ジャネが100年前に指摘していたように、トラウマを負った人は、危機的状況で体験した「古い感情」をそのまま永久に体験しつづけている状態にあります。

「とても感情的にみえるクライエントは……すべての新しい感情に無関心で、いつも同じ少しの古い感情を自動的に誇張して再生させることばかりをしています。…」とJanetは述べています。

トラウマがもとになっている情動は習慣的であり、堂々巡りのように果てしなく続く、解消されません。(p370)

ある人は、危機的状況でパニックになったまま処理がフリーズします。すると、その後の人生では、常にパニック状態で混乱したままになります。

別の人は、危機的状況で感情を切り離してシャットダウンしたままフリーズします。すると、その後の人生で感情の色が失われたまま、失感情症状態になります。

いずれにしても、いつまでも同じ処理を繰り返してフリーズ状態にあるため、その凍りつきを解かなければ、人生の時間が進み始めることはありません。以前の記事で書いたように、実際に脳の時間管理領域が停止していることが確認されています。

いつまでもいつまでも、危機的状況のときの反応を繰り返し続け、原因不明の精神症状、原因不明の身体症状、そして原因不明の習慣や思い込みにはまりこんで、永久にループし続けてしまうことがトラウマなのです。

ソマティック・エクスペリエンスの目的は、この凍りつきを溶かして再び動き出させることに集約されます。

ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ピーター・ラヴィーンとパット・オグデンが開発した治療法の目的について、こう述べていました。

自我と主体性の神経科学的研究によって、私の友人のピーター・リヴァインとパット・オグデンが開発した身体療法の有効性が立証されている。

こういった感覚運動的な取り組みについては第5章で詳しく論じるが、本質的にはそれらの目的は3つある。

・トラウマによって遮断され、凍りついていた感覚の情報を引き出す。
・その内部経験によって解放されたエネルギーを、患者が(抑え込むのではなく)味方にするのを助ける。
・彼らが恐怖に閉じ込められたり、拘束されたり、動きの自由を奪われたりしたときに妨げられた、自己保存のための身体的行動をやり遂げる。(p161)

3つに分けられていますが、一言にまとめれば、凍りついたものを溶かして動き出させる、という目的に集約されるでしょう。

ソマティック・エクスペリエンスは、凍りついた感覚を引き出し、凍りついたエネルギーを呼び覚まし、凍りついた身体的行動をやりとげ、逃避不能な檻の中から、身体を脱出させるためのセラピーなのです。

2.どんな人に向いているか?

これまで、トラウマの症状は、おもに「こころ」の問題だと誤解されていたため、「こころ」に焦点を当てるカウンセリングなどのセラピーが主流とされてきました。それは、ひとえにフロイトの影響が強すぎたためでもあります。

しかし、実際にトラウマの治療に向き合ってきた医師たちは、従来の「こころ」を対象にしたセラピーでも、問題が解決しないばかりか、ときに悪化することも多いことに気づいていました。

たとえばヴァン・デア・コークは、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際のはしがきで、認知行動療法などの限界を感じ、別の方法を探し始めた、と述べています。

現在教えられている主要な心理療法である認知行動療法(CBT)と精神力動療法では、理解と洞察が中心となります。

…トラウマを受けた人は最初のトラウマを受けたときの感情や行動をプログラムのようにくり返しています。これを止めるには洞察と理解だけでは不十分だということを治療者は認識しました。

そして自動的な身体反応を引き起こす、このプログラムを書き換える方法を探し始めました。(p xxv)

身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価の著者である、カナダのトロントの精神科医、ガボール・マテも同様でした。

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彼は、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンスによる最新のトラウマ・ケアのまえがきに、次のような言葉を寄せています。

「ほとんどの人は」とラヴィーンが指摘するように「トラウマを〈精神的な〉問題、さらには〈脳の病気〉だと考えている。しかし、トラウマはからだの中にも生じる何かなのである」

実際に、トラウマが最初に、真っ先にからだに生じることをピーターは示している。トラウマに関連している精神状態は重要ではあるけれども、二次的なものである。

からだから始まりこころが後に続くのだ、と彼は言う。したがって、知性や情動さえも関与させる「対話による療法」では十分に深いところまで到達しないのである。(pxii)

従来の「対話による療法」は、トラウマがもたらす「凍りつき」という生物学的な現象に対しては十分な効果がありません。

なぜなら、「トラウマに関連している精神状態は重要ではあるけれども、二次的なもの」だからだといいます。トラウマは「こころ」の病ではなく、生物学的基盤をもった「からだ」の問題だからです。

「からだ」の凍りつき反応がもたらす多様な身体的・精神的症状を治療するには、「こころ」よりもまず「からだ」を対象に治療しなければなりません。

言うまでもなく身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法で書いているとおり、どんな治療法にも向き不向きがあります。ソマティック・エクスペリエンスも万能薬ではありません。

トラウマには、これぞという「選り抜きの治療法」はないし、自分の手法が患者の問題に対する唯一の答えだと考えているセラピストは、患者を本当に回復させることに関心を持っているのではなく、特定の観念を信奉しているだけである疑いがある。(p347)

では、ソマティック・エクスペリエンスはどんなタイプの人に向いているのでしょうか。

もちろん、実際にやってみなければわかりませんが、治療法の性質上、次のような傾向のある人が、より効果を実感しやすいと思われます。

原因不明の身体症状が強い人

ピーター・ラヴィーンは、子どものトラウマ・セラピー―自信・喜び・回復力を育むためのガイドブックの中で、自身がソマティック・エクスペリエンスの手法を構築するに至ったきっかけについてこう書いています。

ソマティック・エクスペリエンス(以降SEと表記)の開発が私、ピーター・リヴァインの仕事となったのは、1969年にナンシーという女性を診てほしいと頼まれたときからでした。

彼女は、偏頭痛、今では線維筋痛症と呼ばれている痛み、慢性的な疲労感、ひどい月経前症候群、そして過敏性腸症候群などの数多くの身体症状と共に、頻繁なパニック発作などの“心理的な”問題に苦しんでいました。(p244)

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンスによる最新のトラウマ・ケアによると、このナンシーという若い女性は 当時まだ大学院生でしたが、原因不明の身体症状に悩まされていました。「今日では、このような症状は線維筋痛症と慢性疲労症候群と診断されるだろう」と書かれています。(p24)

ラヴィーンは当時まだ手探りでリラクセーション技法を指導していましたが、セッションを続けるうちに、彼女の原因不明の症状は、4歳のころの扁桃腺手術のときの恐怖が、身体的に記憶されていた反応だと判明し、劇的な改善につながりました。

この経験から彼は、原因不明の身体症状と思われているものは、ずっと昔に経験した耐えがたい苦痛への防衛反応が、自動的に再生される身体的パターン、すなわち「手続き記憶」として保存されているのではないか、と気づきました。

そして、トラウマとは、精神的な「こころの」問題ではなく、身体を土台として起こる生物学的な現象なのではないか、と思い当たったのです。

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 トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復の翻訳を担当し、自らもソマティック・エクスペリエンスの資格を取得しているセラピストの花岡ちぐささんも、訳者あとがきの中で、自身の体験についてこう振り返っています。

当然のように私は愛着の問題を抱えることになり、幼いころから複数の疾患に悩まされることとなった。

10代から足掛け10年余り、傾聴をベースとした心理カウンセリングを受け、私は自分の身に起きたことを理解し、時系列で理路整然と語れるようになっていた。しかし苦しい身体症状は相変わらず続いていた。

ところが、SEのセッションを受けるうちに、それらの身体表現性疾患はすべて寛解した。「認知からのアプローチ」は私を支えてくれたが、「身体からのアプローチ」は私の人生を変えたのである。(p238)

ですから、ソマティック・エクスペリエンスは、その成り立ちから言っても、アプローチの特徴からいっても、原因不明の慢性疲労症候群や線維筋痛症、胃腸障害、パニック障害などを抱える人に効果を示しやすいといえます。

むろん、これらの病気の症状は、必ずしも幼少期の逆境体験によるものとは限りません。脳脊髄液減少症や、食生活の偏りなど、他のさまざまな原因で、同様の症状を抱えている人もいます。

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しかし、研究が示すところによれば、こうした原因不明の身体症状が過去のトラウマに由来しているケースは少なからずあるため、場合によってはソマティック・エクスペリエンスが有用な選択肢のひとつとなるでしょう。

感受性が強い人

ソマティック・エクスペリエンスは、自分の身体の反応を緻密に観察して、さまざまな変化を感じ取り、少しずつ理解を深めていく、という治療スタイルをとります。

わずかな変化に注目することが求められるので、ささいなことに気づける感受性の強さを持っている人のほうが馴染みやすい治療法だと思われます。

小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)には、うつ病や線維筋痛症に悩まされてきたジョージアという若い女性の経験が載せられています。

彼女は、「他人が気づかないことを敏感に察する力」がある女性でした。人並み外れた感受性のおかげで、子ども時代から過剰に周りに気を使うなどして「他人のストレスを取り込んでしまい」「スポンジのように苦しみを吸収」して体調を壊してしまいました。(p117-119)

しかしその同じ感受性は、ソマティック・エクスペリエンスのセラピーを受けたとき、「自分でも気づかないかすかな反応」を認識して変化していく助けになり、「精神的な苦しみや体の不調をコントロール」できるようになりました。(p260)

もちろん、セラピストはどんな人でも援助できるよう訓練されますし、こうした感受性はセラピーの中で徐々に養われ、強化されていくものです。

ですから、ささいなことに気づく能力が必須だというわけではありませんが、向き不向きでいえば、もともと感受性の強い人向きのセラピーでしょう。

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他方、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際に書かれているように、自分の身体に関心を持たず、観察しようとも思わないタイプの人は、この種の治療法に向いていません。

ときには、クライエントが身体を使うセラピーを望まない、あるいはできないということがあります。

身体感覚に近づくと、あまりにも悲惨で苦しいことがおきる、あるいは身体へのアプローチはつまらない、関心がもてない、あるいは役に立たないなどと考えている場合です。

そのような場合にセンサリーモーター・サイコセラピーは使えません。セラピストは他の技法を使用しなければなりません。(p220)

毎回のセラピーで起こる変化はちょっとしたものなので、自分の身体をじっくり観察しようと思わない人は、劇的な変化がないという理由ですぐ投げ出してしまうかもしれません。

有能なセラピストは、クライエントが自分の身体のちょっとした変化に気づくよう助けてくれますが、そもそもクライエントの側に真剣に自分の身体と向き合おうとする気持ちがなければ、治療として成立しないのです。

子どもの感性を持った人

ソマティック・エクスペリエンスをはじめとする、身体感覚に注目するセラピーは、大人より子どもに向いています。

大人はなまじ知識があるために、自分の身体の感覚を理性的な言葉に変換してしまいがちです。それによって、本当に身体が感じていることが覆い隠されてしまいます。

しかし子どもは、自分の身体の感覚を感じたままの言葉で表現します。それこそがソマティック・エクスペリエンスで求められることです。

従来、子どもは自分の状況をうまく言葉で説明できないとされてきました。たとえば、いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳にはこんな説明がされていました。

子どもはうつ病という事態に陥っても、大人のように抑うつ気分や抑制症状を自覚したり認識しないため、なかなか言葉で表現することは難しいといわれる。

はじめは身体症状(身体のだるさ、食欲不振、頭痛、腹痛など)が前面に出やすい。

大人のうつ病症状と共通する点もあるが、食欲の変化、睡眠の乱れ、からだのだるさを訴えることが子どもの場合多い。

また「集中力がなくなった」、「頭が働かない」、「気力が出ない」、「疲れやすい」、「食欲がない」、「途中で目が覚める」、「朝早く目が覚める」、「頭が痛い」、「お腹が痛い」などの症状がいくつか断片的に生じるために、小児型慢性疲労症候群との鑑別がなかなか難しいこともある。(p17)

この説明では、子どもは大人のようにうまく感情を自覚できないせいで、意味不明な身体の症状だけを訴える、と解釈されています。しかし現代の神経科学に基づけば、それは誤りです。

神経科医アントニオ・ダマシオらが、自己意識についての研究を通して明らかにしたのは、わたしたちはまず身体の感覚(情動)を感じ、それから無意識のうちにそれを感情へと変換しているということでした。

言い換えれば、先ほどガボール・マテが述べていたとおり、現代の神経科学は、精神的な症状さえも「からだから始まりこころが後に続く」ことを発見しました。

子どもはまだ「こころ」の感情に変換される前の、あるがままの「からだ」の状態を感じているにすぎません、

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンスによる最新のトラウマ・ケアでラヴィーンは、まったく逆に大人のほうが「感覚と感情と思考を区別するのが難しい」と述べています。(p351)

大人のほうがかえって、自分の身体感覚を無意識のうちに自動的に感情や思考へと変換することに慣れてしまっているせいで、身体が感じているありのままの感覚(情動)をうまく認識できていないことが多いのです。

子どもの体調不良に対して、従来のような感情や思考に注目するカウンセリングはあまり役立ちませんが、子どものトラウマ・セラピー―自信・喜び・回復力を育むためのガイドブックによれば、ソマティック・エクスペリエンスではもっと直接的なケアができます。

子どもには“身体で”どのように感じるかやさしく聞いてみてください。

応えてくれたら、それを繰り返して「身体では大丈夫って感じるんだね?」と言ってうなずきやほかの反応を待ってみましょう。

その次の質問ではもう少し絞って、「お腹(頭、腕、足、など)はどう感じているのかな?」と言います。

はっきりした感覚について言及したら、やさしくその位置、サイズ、形、“色”または“重さ”を聞いてください。

これらの感覚が何を意味するかは気にしてはいけません。大事なのは子どもがそれらに気付き話せるということなのです。

「その石(鋭さ、かたまり、恐ろしさ、ひりひり)」は今はどう感じる?」など、今この瞬間に留まる質問をしましょう。(p108)

先ほどの本のとらえ方とはまったく対照的なことにお気づきでしょう。ソマティック・エクスペリエンスでは、子どもが訴えるような身体感覚のほうを重視します。

このような取り組み方がなぜ大事であるかは、次の項目で説明します。

ここで考えてきたソマティック・エクスペリエンスに比較的向いていると思われる3つのグループは、すべてよく似通っています。

子どもは原因不明の体調不良を訴えやすいですし、感受性も豊かです。つまり、ソマティック・エクスペリエンスは、頭でっかちになってしまった大人ではなく、子どもや子どもの感性を持った大人に向いている、と言い換えることができます。

むろん、トラウマを負った人の中には、つらい経験のために、子どものような無邪気さを失ってしまっている人は少なくありません。しかし、セラピーを続けるうちに、必ず子どものような感性を取り戻せるはずです。

身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法に書かれているように「あなたの中の最も繊細で、創造的で、親密さを愛し、快活で、茶目っ気に富んだ無垢な部分」を解放することが、セラピーの重要な目的だからです。(p479)

3.「からだ」にカウンセリングする

ソマティック・エクスペリエンスの目的を確認したところで、ここからは、いよいよ具体的な治療方法を見ていくことにしましょう。

従来、トラウマの治療法はいずれも、カウンセリングなどの手法によって「こころに」語りかけることで、もつれをほどこうとしてきました。

しかしピーター・ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンスによる最新のトラウマ・ケアで述べているとおり、トラウマが凍りつきという生物学的現象であるなら、凍りついているのはまず「からだ」なので、「からだ」に語らせねばなりません。

「怯えによる硬直」もしくは「恐怖による凍りつき」、―あるいは崩れ落ちて無感覚状態に陥ることは―強烈な恐怖とトラウマの物理的、本能的、身体的経験を正確に表現する。

これらの生き延びるため選択肢はすべてからだが行うものである。

ゆえにこうした反応を理解しかつ起動させ、トラウマを変容させるためにセラピストが扱わなければならないのは、からだによる語りである。(p61)

厳密にいうと、「こころ」と「からだ」を別物として分けてしまうのは、神経科学的に正しくありません

とはいえ、ソマティック・エクスペリエンスの方法を理解するとき、従来の心理療法は「こころ」へのカウンセリングであり、ソマティック・エクスペリエンスは「からだ」へのカウンセリングであると対照関係でとらえてみるとわかりやすくなります。

先ほど、子どもに対するソマティック・エクスペリエンスの例を少しだけ引用しましたが、従来式のカウンセリングと、ソマティック・エクスペリエンスのセラピーの違いが際立っていました。

従来式のカウンセリングでは、起こった悲惨な体験を記憶を話させようとします。しかし、ソマティック・エクスペリエンスでは、今この瞬間に、身体にどんな症状を感じているかを聞き取ります。

小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)に書かれているとおり、ソマティック・エクスペリエンスでは、過去に何があったかを話す必要はありません。そうではなく、今の身体の感覚を観察するように求められます。

ソマティック・エクスペリエンス(SE)は…トラウマ経験の具体的な内容については話さなくても構わないが、体がストレスを抑える仕組みを学び、身体の感覚に注意を向け、どのような感情を考え、イメージが生じるのかを観察する。(p259)

過去の体験ではなく、今この瞬間のからだの状態を知るために、たとえばセラピストは、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際に書かれている、次のような質問から始めるかもしれません。

セラピストは、質問をすることによってマインドフルネスを教えるのですが、その質問とは、答えるためには今の瞬間の体験に気づくことを必要とするような質問です。

例えば次のような質問ができるでしょう。

「今のあなたの身体は何を感じていますか?」
「あなたの緊張は正確にはどのへんにありますか?」
「その緊張の大きさはゴルフボールくらい? それともオレンジくらい?」
「あなたが受けた虐待について話していると、どんな感覚があなたの足に感じられますか?」
「あなたが怒りを感じると、あなたの身体には何がおきていますか?」

的確な質問であればあるほど、クライエントはより深く「調律に合った状態」になるでしょう。そして身体に注意深く気を配るようになっていくでしょう。(p266)

この記事を読んでくださっているあなたも、ぜひ読むのを少し中断して、画面から視線をそらして、自分にこれらの質問で問いかけてみてください。

「今のあなたの身体は何を感じていますか?」
「あなたの緊張は正確にはどのへんにありますか?」

何を感じたでしょうか。もしかすると、なんとも言えない、身体の不快感をどこかに感じたかもしれません。普段から気になっている腰の痛みでしょうか、肩の張りでしょうか。あるいはもっと言葉に表現しにくい不快感でしょうか。

ここでのポイントは、何を感じてもいい、ということです、『「正しい」答えであるとか「間違った」答えであるということとは無関係な状態』で、身体に感じる感覚を無批判に観察します。(p268)

どれほど表現しにくくても、身体の感覚をそのまま感じるようにします。それがつまり、子どものようにありのままの身体を感じるということです。感情や思考に解釈してしまう前の、身体が本当に感じている情動です。

「気のせい」「思い込み」とされていた症状こそ大事

慢性疲労や慢性疼痛をはじめ、原因不明の身体症状を抱えてきた人なら誰しも、何かしらの身体の不快感を、内科や精神科の医者に打ち明けたのに相手にされなかったという経験をしたことがあるでしょう。

「目の奥が気持ち悪い」「手がねじれるような気持ち悪さがある」「ひねられるような痛み」「身体の中に鉛の固まりがある感じ」。何でも構いません。そうした言葉では表現しにくい症状を、なんとか伝えようとして、うまくいかなかった経験があるかもしれません。

ソマティック・エクスペリエンスで扱うのは、まさしくそんな、言葉で表現しにくい身体の不快感、今まで医者に伝えても頭ごなしに「気のせい」や「思い込み」と切り捨てられて、それ以上気にしないよう言われてきたような症状なのです。

主流医学において、トラウマの身体志向の治療が一向に発展せず、ヴァン・デア・コークほどの第一人者が途方に暮れて、「医学と心理学教育の外側」まで探しにいかなければならなかった理由はまさにここにあります。(p xxv)

大半の医者たちは、トラウマ治療において最も扱わなければならない、言葉で表現しにくい微妙で変幻自在な奇妙な身体の症状の意味を、まるで考えようともせずに、「気にしすぎ」と切り捨ててしまっています。

しかし、ソマティック・エクスペリエンスをはじめ、身体志向のセラピーでは、この最初の第一歩の時点で、伝統的な西洋医学の医者たちとは逆方向に踏み出します。

その奇妙な表現しにくい感覚を、頭ごなしに否定して脇に置いてしまうのではなく、セラピストの巧みな質問によって、とことんまで具体的に解き明かしていこうとします。

たとえば先ほど子どもを対象としたセラピーの事例として書かれていたように、身体の中に石のようなものを感じると言えば、「その位置、サイズ、形、“色”または“重さ”」などを尋ね、どんどん感覚を具体化させていきます。

従来の医学の教育を受けた医者たちは、こうした質問を“非科学的”で無意味なものとみなしがちです。MRIで映りもしない身体の中の「石」なんて気のせいにすぎない、想像上の思い込みにすぎないと決め込んでいるからです。

ところが、最新の神経科学は、こうした身体の中に感じる「石」のような奇妙な不快感が、現実の感覚であり、科学的に根拠のある現象であることを、すでに実証しています。

頭や内臓の異物感,手足を虫が這うような不快感の理由ー解離の体感異常を脳科学で分析する
頭や内臓に異物感や不快感を感じたり、手足など全身の原因不明のむずむず感を感じたりする、解離に伴いやすい体感異常(セネストパチー)についてまとめました。

そうした身体の奇妙な症状は、いずれも、物言わぬ身体が何かを訴えようとしている声のようなものです。

従来の「こころ」を対象としたカウンセリングが無視してきた「からだ」の声に真剣に耳を傾けるのが、ソマティック・エクスペリエンスです。

もはや科学の常識は変わりつつあります。身体の内部にある不快な感覚を気のせいだとみなす医者たちは、実際にはそれと知らずに、最新の神経科学の知見に付いていっていない、“非科学的”な対応をしているのです。

4.手続き記憶―トラウマの目撃証人

ヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で指摘しているように、身体の内部に感じる奇妙な感覚は、実際のトラウマ体験のなごりが、身体の各部に記憶されたものです。

無力感の記憶は、影響を受けた身体領域の筋肉の緊張や、各部がばらばらになった感覚として保存されることもある。その領域とは、事故の被害者では頭や背中や手足、性的虐待の被害者では膣や肛門だ。(p438)

一見すると、身体中に散らばる奇妙な感覚は、何の根拠もない「気のせい」の感覚に思えるかもしれません。

しかし、記憶の科学が明らかにしたのは、それらの感覚は実際には気のせいどころか、極めて真実かつ忠実な目撃証人たちである、ということでした。

記憶の科学によれば、わたしたちの記憶には、おおまかに分ければ、自分から思い出して言葉で表現できる記憶(宣言的記憶)と、無意識のうに身体に保存され、自動的に実行される記憶(手続き記憶)の二種類があります。

わたしたちが普段、「わたしは記憶力がいい」「物忘れがひどい」などと言うときに記憶だとみなしているものは、前者の言葉で表現できる記憶(宣言的記憶)のほうです。

しかし、わたしたちが生活の中でより頻繁に活用しているのは、後者の無意識に身体に保存される記憶(手続き記憶)のほうです。

この手続き記憶は、たとえば自転車に乗ったり、楽器の弾き方を覚えたりするときに用いている「身体がやり方を覚える」タイプの記憶です。わたしたちは気づいていませんが、わたしたちはこの手続き記憶をあらゆる場面で使っています。

歩いたり走ったりする際に、うまくリズミカルに手足を動かせるのはもちろん手続き記憶のおかげです。スポーツ選手はこれを強化して、さらに複雑な動きを身体に覚えさせていきます。

タイピングできるのも、自動車を運転できるのも、ものが飛んできたときにとっさに避けられるのも、階段を踏み外さないでいられるのも、ありとあらゆる身体の動きや反応は、手続き記憶としてコード化されています。

さらには、人間関係にみられるパターンもまた幼少期にコード化された手続き記憶です。それは愛着(attachment)として知られています。トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際にはこう説明されています。

愛着パターンは、早期の愛着を反映した長期にわたる身体的傾向(physical tendencies)の中にもあらわれます。

手続き記憶としてコード化されて、これらの愛着パターンは、親近さを求める行動(proximity-seeking)、社会的関わり行動(微笑む、相手に向かって動く、手を伸ばす、アイ・コンタクト)、防衛的表現(身体を引く、緊張のパターン、過覚醒あるいは低覚醒)としてあらわれます。(p63)

近年、愛着障害は「こころの問題」と誤解されていますが、その本質は生後すぐに受けた親の世話の手続き記憶であり、そのとき学んだパターンを良い悪いにかかわらず、後の人間関係で反復してしまう現象なのです。

心は複数の自己からなる「内的家族システム」(IFS)である―分離脳研究が明かした愛着障害の正体
スペリーとガザニガの分離脳研究はわたしたちには内なる複数の自己からなる社会があることを浮きらかにしました。「内的家族システム」(IFS)というキーワードから、そのことが愛着障害やさ

そして、トラウマ患者がいつまでも凍りついたままでいるのも、身体が永久にトラウマのときの手続き記憶を再生しつづけているからです。

身体のあちこちに経験する奇妙な症状も、トラウマ経験の際に身体に記録された手続き記憶の断片です。

ヴァン・デア・コークは、トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復のまえがきでこう書いています。

トラウマの痕跡は、物語や意識的な記憶とは異なり、感情、感覚および心理的な自動反応のように、身体が勝手に行っていく「手続き」の形をとって、密かに私たちを支配している。(p ix)

たとえば、トラウマ患者たちがみな不器用でバレーボールが苦手だったことを思いだしてください。それは、かつて四六時中 身を凍りつかせていた経験を、身体がそっくりそのまま手続き記憶として記録しているからです。

意識的な宣言的記憶のレベルではすっかり忘却しているようなことでも、身体は忠実に覚えています。

以前取り上げた私の中のわたしたち――解離性同一性障害を生きのびての著者オルガ・トゥルヒーヨは、原因不明の線維筋痛症の痛みを感じていましたが、それは子どものころ受けた性的虐待の痕跡でした。

意識の上ではあまりに辛い体験だったため解離性の記憶喪失が起こっていましたが、身体は正確に記憶しつづけていたのです。

解離性同一性障害(DID)の手記「私の中のわたしたち」―創造的な生存戦略の凄絶な記録
解離性同一性障害の当事者のオルガ・トゥルヒーヨによる体験談から、解離に伴う気づかれにくい心身症状や、解離のおかげで発達する優秀さについて考え、解離が病気ではなく創造的な生存戦略であ

手続き記憶の正確さは、わたしたちが普段感じている宣言的記憶の正確さとは比較になりません。宣言的記憶は簡単に忘れたり改変されたりしますが、手続き記憶は非常に正確です。

練習したこともない人が一輪車に乗れるでしょうか。 箸を使ったこともない外国人が、いきなり箸を手渡されてご飯を食べられるでしょうか。

いいえ、経験したことのないのに、身体の手続き記憶が形成されることは絶対にありえません。

つまり、記憶の科学からすれば、大半の医者たちが「気のせい」や「思い込み」だとみなしている奇妙な身体の不快感は、絶対に気のせいではなく、何の理由もなしに生まれるようなことは科学的に言ってありえないのです。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際によると、かのジークムント・フロイトはかつてこう書いていたそうです。

こころは忘れてしまう。でもからだは違うーありがたいことに。(p200)

フロイトは、からだの手続き記憶の正確さを認識していました。しかしその極めて正確な記憶が、よもやトラウマの原因だとまでは気づきませんでした。

「ありがたいことに」身体は一度経験した自転車の乗り方やボールの投げ方を忘れません。しかし「ありがたくないことに」過去に経験した辛い経験による凍りつきもまた決して忘れないのです。

身体に感じる様々な不快感や奇妙な感覚は、トラウマの物言わぬ目撃証人であり、言葉を使ってトラウマの苦しみを表現する代わりに、身体症状を通して苦しみを表現しています。

▼「からだは忘れない」他の例
スポーツ選手の場合、身体は練習の結果身につけたスキルを忘れませんが、過去に経験した緊張の伴うプレーのときの凍りつきを身体が忘れないせいでイップスを発症し、ときに引退に追い込まれることさえあります。

自分が体験したのでない出来事を見聞きしてトラウマを負ってしまう代理トラウマと呼ばれる現象もありますが、その場合も、他の人の衝撃的な体験を、自分のことのようにありありと感情移入し、その恐怖を身体的に感じたことで生じています。

化石を発掘するかのように

身体が記憶しているトラウマの断片こそがトラウマの本質なので、カウンセリングが必要なのは、「こころ」ではなく「からだ」です。

「こころ」を対象にしたカウンセリングをいくら続けても、少し気持ちが楽になることはあれど奇妙で頑固で意味不明な身体の記憶は消えません。

ソマティック・エクスペリエンスのような、「からだ」を対象としたカウンセリングによって、身体に記憶されている目撃証言をつなぎ合わせてはじめて、過去のトラウマを治療する手がかりがもたらされます。

セラピストの質問によって身体の感覚に気づくように促され、どんどん具体化させていくさまは、化石を発掘するようなものです。

ちょうど、はるか昔に実際に生きていた恐竜の化石が、砂漠のあちこちに散らばって埋まっているように、身体のあちこちに埋まっている不快な感覚もまた、過去に実際にあった出来事の断片的な化石です。

化石一つひとつは、まったく意味不明な「石」のようなものすぎないかもしれません。しかし慎重に発掘を重ね、多くの化石を組み合われば、ひとつの巨大な生き物の一部だったことが明らかになります。

身体の中に「石」のような異物感や不快感があると訴えても、大半の医者は関心をもちません。けれども、それは実際には、過去に牙をむいた、何らかの巨大なトラウマの記憶の一部なのです。

ソマティック・エクスペリエンスでは、長期間にわたるセラピーの中で、少しずつ慎重に化石を発掘していきます。時間がかかりますが、化石の発掘だと思えば当然です。

一つひとつの感覚の断片をより深く探るために、たとえばセラピストは、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際に書かれているように、色々と条件を変えて、感じ方の変化を確かめるかもしれません。

例えば、クライエントが自分の腕にチリチリ感を感じるようになったときに、セラピストは、次のようにたずねて実験を提案します。

「腕のチリチリ感だけに集中すると何がおきるでしょうか。何に気づくみたいですか?」

クライエントとが腕で押すようなしぐさをしたときにはセラピストはたずねます。

「腕でやっているそのしぐさを繰り返してみたときに何がおきるか、一緒に確かめてみるというのはどうでしょう? それをくり返したときに何がおきるかやってみましょう」

もしくはセラピストはこのように言ってもよいでしょう。

「もし、しっかりと立ってそのしぐさをやってみたら、何がおきるのかみてみましょうか」(p271)

立ったときと座っているときとでは感覚は変化するでしょうか。仕草を変えてみると、どう変わるでしょうか。意識を集中させる場所を変えてみると、感覚は変化するでしょうか。

ふだん一人でいるときにも、身体に散らばる不快な感覚を意識したことはあるでしょう。しかし、さまざまに条件を変えて、その感覚の変化を仔細に観察してみたことはないかもしれません。

さまざまに条件を変えて感覚の変化を探るのは、化石の断片を慎重に発掘するのと似ています。古生物学者は、地層に埋まった化石をさまざまな角度から眺め、適切に土を削ってはじめて、ようやくどんな形かを知ることができます。

過去のトラウマの手続き記憶の断片も、さまざまに条件を変えて試しているうちに、それが何の痕跡なのかが、少しずつわかってくることでしょう。

ずっと変わらない不変の不快感だと思われていたものが、じつは条件を変えると、より強く感じるときと、ほとんど気にならなくなる場面があることにも気づくでしょう。

こうした丁寧な発掘作業、からだのカウンセリングを通して、永久不変、原因不明だと思われていた症状は、じつは何かしらのトリガーに反応して再生されている特定のトラウマのなごりであることがわかってくるのです。

5.ソマティック・リソース―安心できる感覚を見つける

文字どおりの化石を発掘するときは、化石はもろいために、慎重に取り出さなければ、常に破損してしまう危険がつきまといます。

ソマティック・エクスペリエンスのセラピーも同様で、トラウマ記憶の断片という不安定な危険物を扱う作業なので、慎重に進めなければなりません。

過去のトラウマ記憶に早急にアクセスすると、感覚に圧倒されたり、フラッシュバックを起こしたりする、再トラウマ化の危険があります。

現在、医学の主流として行なわれている曝露療法は、こうした危険を顧みずに過去のトラウマを再体験させることにより、より症状を悪化させてしまっている、とヴァン・デア・コークはトラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復のまえがきで批判しています。

トラウマ体験からの生還者に、トラウマを繰り返し詳細にわたって再体験させ、彼らを恐怖と生理学的過活性の状態に留置し、当然のこととして過去の激しい苦痛がさらに強化される状態を生み出す危険を冒している治療方法が見受けられる。

このようなことをしてしまうと、トラウマの記憶は、新たな戦慄体験と結びついて固定化され、内面の世界によって圧倒されている感覚が強化されていく恐れがある。

SEは、これらの療法とは厳然として異なる。(p xii)

ソマティック・エクスペリエンスやセンサリーモーター・サイコセラピーでは、再トラウマの危険を避けるため、いくつかのポイントに注意して、セラピーが進められます。

まず大切なのは、トラウマのなごりではなく、安心できる感覚のなごりを発掘することです。

前述のように、過去の体験はみな手続き記憶として、わたしたちの身体の各所にコード化され、保存されています。

トラウマによる苦痛が身体のさまざまな場所の保存されているのはもちろんですが、どれほど辛い経験をしてきた人であっても、必ず望ましい体験の記憶を持っているものです。

身体は、良い体験も悪い体験も手続き記憶として保存します。恵まれた家庭で育った人の多くが、自尊心や安心感を抱けるのは、子どものころの親から受けた愛情ある世話の記憶が、心地よい手続き記憶として保存されているからです。

フロイトが述べていたように、「ありがたいことに」わたしたちは良い経験の手続き記憶も忘れません。

トラウマを負った人は、自分の身体の不快な感覚を意識するのは慣れていますが、安心できる感覚を見つけるよう言われると、途方に暮れてしまうかもしれません。自分の身体に安心できる気持ちよい感覚などない、と感じる人もいるでしょう。

しかし、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際に書かれているように、どれほど悲惨な人生を送ってきた人でも、必ず何かしらの好ましい記憶を持っています。

クライエントが自分には何のリソースもないと感じているとしても、最も深刻な調節不全を抱えているクライエントさえも、サバイバーとしてのリソースを使ってきていたことを私たちは発見しました。

セラピストが注意を向けるよう導くまでは、気づくことなく使ってきたのでしょう。

あなたはセラピーに来るのにいくつかのソマティック・リソースを使っていますよ、と伝えることそのものがクライエントを安定させます。

長期にわたってトラウマを抱えてきたクライエントにとって、これは今までとはまったく異なる考え方で、驚きとともに勇気づけになります。(p289)

そうした安心できる身体の感覚は、トラウマの記憶を治療していく中で、非常に重要な役立つ資源であり、「ソマティック・リソース」と呼ばれています。

では、自分が「気づくことなく使ってきた」かもしれない、安心できる身体の感覚、望ましい体験の記憶がどこにあるのかを知るには、どうすればいいのでしょうか。

ここでもセラピストはまず、身体に注意を向けて、身体に問い尋ねる質問を用いるでしょう。たとえば、次のような質問を使うかもしれません。

例えば今あるリソースについて知るために
「あの経験から得たことは何でしょう?」
「どうやってサバイバルしたのですか?」
「何があなたの助けになりましたか?」
などと質問します。(p289)

どれほど辛い体験をしてきた人でも、ひどい逆境を耐え抜くために、何かしら拠り所にしてきたものがあるはずです。

ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、まず一緒にいて安心できた人がいないかどうか尋ねてみると述べています。

子供のころに養育者から残忍な仕打ちを受けていた患者は、誰といても安全だと思えないことが多い。

私はよく患者に、児童期にいっしょにいて安心できた人を挙げてみるように言う。

多くの患者は、これまでただ一人だけ気遣いを示してくれた教師や隣人、店の人、コーチ、あるいは聖職者の記憶を、しっかりと持っている。(p348)

私の中のわたしたち――解離性同一性障害を生きのびてのオルガ・トゥルヒーヨは、子ども時代の壮絶な性的虐待のために、解離性同一性障害や線維筋痛症を発症しました。

しかしそれでも、近所に住んでいた一人の女性が、なんとかして少しでも力になろうとしてくれた記憶から、ずっと励みを得ていました。

ドニャ・グラシエラはやれることはすべてして助けてくれた。私は彼女のことも、一見普通に思える親切も忘れないだろう。

いまでも、ドニャ・グラシエラについて話したり、彼女と過ごしたことを書いたりすると、私の生活に彼女の愛の力が働いているのが感じられる。(p47)

また、強制収容所体験を生き延びた経験を「夜と霧」に記したヴィクトール・フランクルは、愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)によれば、愛する妻のことを思い出して正気を保ったとされていました。

ナチスによるユダヤ人迫害が厳しかった時代、アウシュビッツなどの強制収容所に閉じ込められた人たちは、いかにして精神の平衡を保ったか。

そのために大いに助けとなったのは、愛する人のことを回想することであったと、ヴィクトール・E・フランクルは『夜と霧』で述べている。

フランクル自身、妻があたかもそばにいて、ささやいてくれるだろう言葉を脳裏に思い浮かべることで、過酷な試練に耐え、生きながらえることができたのである。(p35)

もし、これらの人たちがソマティック・エクスペリエンスを受けるようなことがあったとしたら、セラピストは、きっとこう尋ねていたことでしょう。

「その人のことをイメージすると、身体のどこに、どんな感覚を感じますか、その安心感はどんな感触ですか、どのくらいの大きさに感じますか、どんな色ですか?」

こうした具体的な質問を投げかけられると、望ましい記憶を思い出してイメージしているときに、身体のどこかに何かしらの変化が起こるのを感じるはずです。

こうして、望ましい記憶を、身体で感じる安心できる感覚に変換したものが、「ソマティック・リソース」、つまりトラウマと取り組む上で大いに助けになる資源なのです。

最初に「安心の島」を確保する

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際の中で、ソマティック・リソースは、「身体的なアンカー」に例えられています。アンカーとは、船を安定させる錨(いかり)のことです。(p294)

ちょうど、嵐にもまれている船が、頑丈な岩礁にいかりを引っ掛けて船体を安定させるように、安心できる身体感覚は、不快感の嵐に呑まれそうになったときに安定を取り戻す助けになります。

健康な人を対象にしたマインドフルネスの場合、アンカーとして用いられるのは、たいてい呼吸です。注意がそれそうになったら、呼吸に注意を引き戻すことで、意識を今ここににつなぎとめます。

しかし、以前の記事でも考慮したとおり、トラウマを負った人の場合、呼吸に注意を向けると急速に不安定になりがちです。健康な人が自然に活用できるような身体的なアンカーを持っていないのです。

それゆえ、不快なトラウマの痕跡を本格的に発掘し始める前に、まず望ましい経験のなごりを発掘することで、一人ひとりがそれぞれ、自分の経験の中から、アンカーとして使用できる身体感覚を見つけなければなりません。

ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、そのような安心できる身体感覚を「安心の島」と表現しています。

私たちはまず、体の中に「安心の島」を確立する。

これは患者を助けて、身動きがとれなかったり、恐れおののいたり、激怒したりしたと感じたときにはいつも地に足の着いた心持ちになれるような、体の部位や姿勢、動きを突き止めてもらうことを意味する。

こうした部位は通常、パニックのメッセージを胸部や腹部や喉に伝える迷走神経が分布していない場所にあり、トラウマを統合する際に味方になってもらえる。(p403)

肯定的な安心できる手続き記憶は、身体の特定の部位の感覚や、特定の動作パターンとして記憶されています。

先ほど書いたように、何か望ましい安心感を感じられる過去の記憶から探り当てることもできますし、身体全体の感覚を概観して、特に不快感のない場所を用いることもできます。

そうした場所は、トラウマの痕跡である不快な手続き記憶が存在していない「安心の島」なので、トラウマ記憶の不快感の海に圧倒され、おぼれてパニックになりそうになったときに、戻ってこれる陸地になります。

たとえば私は患者に、手は何ともないように感じられますかと尋ねる。はいという答えがあれば、手を動かしてその軽さと暖かさとしなやかさを探ってくださいと言う。

そのあとで、患者が胸を締めつけられて息も絶え絶えになっているのに気づいたら、患者を制止して、手に意識を集中し、手を動かしてくださいと言う。

そうすると、自分がトラウマから切り離されていると感じることができる。(p403)

『まず、体の中に「安心の島」を確立する』ことがどうして必要です。この安心できる感覚の強化をすっとばしてトラウマ記憶の発掘に進んでしまうと、トラウマの無謀な再体験によってかえって悪化するという、曝露療法と同じ轍を踏んでしまいます。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際には、その順序をしっかりと守って、トラウマ治療に取り組んだひとつの例が載せられていました。

解離性同一性障害と診断されていたあるクライエントは激しい調子で、身体は汚いとさかんに腕や足をこすりながら答えました。

単に身体について質問したのでは覚醒亢進するとわかったので、セラピストは彼女に、現在であれ過去であれ身体の中にいい感じを感じたときを思い出せますか、と聞いてみました。(p294)

この解離性同一性障害のクライエントの場合、明らかにトラウマ体験の痕跡とおぼしき、身体の強烈な不快感を感じていました。

そのままトラウマの痕跡に注意を向けてしまうと、過覚醒になってより不安定になってしまいます。ことによっては、それが引き金となって過去の衝撃的なトラウマをまざまざと思い出し、再体験してしまうかもしれません。

そこでセラピストは、まず「安心の島」を確保することにしました。過去の肯定的な体験を尋ね、そのとき身体でどのように安心感を感じたか具体化していくことで、「肯定的な身体の経験」というソマティック・リソースを確保しました。

クライエントはすぐにブランコに乗っておじいちゃんに背中を押してもらったのを思い出しました、といいました。この記憶は肯定的な身体の経験を取り戻す出発点となりました。

セラピストはセッションで彼女にその記憶と関わりのある感覚を存分に感じてみるようにいいました―胸の内で笑いがこみ上げる感じ、「サーッ」と肌で空気を感じる感覚、足に力のある感覚―これらはみな、トラウマ後に感じている汚い感じを打ち消す働きをしました。(p294)

その肯定的なイメージは安全な陸地のような働きをしてくれたので、セラピーの中で、身体の不快感に圧倒されてパニックを起こしそうになったときに、注意を切り替えてリラックスする助けになりました。

こうして自分の身体に気づき、安心できる何かしらの身体的な感覚を確保できれば、いよいよトラウマの断片と向き合う用意が整います。身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法にはこうあります。

そしてその記憶はしばしば、物事にもう一度携わるための種となる。

私たち人間は、可能性に満ちた種(しゅ)だ。トラウマに対処するというのは、損なわれたものに取り組むだけではなく、どのように生き延びたのかを思い出すことでもある。(p348)

どれほど悲惨な人生を送ってきた人でも、今に至るまで生き延びてきた以上は、意識せずとも何かしらの支えを活用してきたはずです。

その安全な記憶、ソマティック・リソースという資源を見つけ出し、「どのように生き延びたのかを思い出す」こともまたセラピーの大事な一部です。

トラウマの治療とは、一般的には、曝露療法に代表されるように苦行のようなものとみなされがちですが、実際には、自分が生き延びてきた強さを見つけ出す場でもあるのです。

安全な感覚を見つけにくい場合

身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ヴァン・デア・コークは、「いっしょにいて安全だと感じた人がまったく思い浮かばない患者もいる」と述べています。(p348)

それは、幼少期から「基本的信頼感」がまったく育まれないような人生を送ってきた人に典型的でしょう。

誰も信じられない、安心できる居場所がない「基本的信頼感」を得られなかった人たち
だれも心から信じられない、傷つくのが怖い、安心できる居場所がない。そうした苦悩の根底にある「基本的信頼感」の欠如とは何か、どう対処できるのか、という点を「母という病」という本を参考

そんな場合、人間ではなく動物を思い浮かべることで安心できる人もいる、とヴァン・デア・コークは言います。

これはトラウマ治療にアニマルセラピーなど動物介在療法が効果的な理由のひとつでしょう。(詳しくは子ども虐待への心理臨床: 病的解離・愛着・EMDR・動物介在療法までという本を参照)

あるいは、解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論に書かれているように、現実世界の人間の代わりに、空想世界を避難所としている人もまた多いでしょう。

彼女たちにとってこの世界はいつ何時恐れていたことが起こるかもしれない緊張に満ちた世界である。

安心して落ち着ける居場所を見つけられず、じゅうぶんに包まれているという体験をすることがなかった。

周囲に包まれることを求めながらも、それが満たされることはない。そのために自らのまわりにヴェールを張りめぐらせ、空想の世界を思い描く。

…空想的世界は、現実の世界に安心できる居場所を見つけられなかった患者がかろうじて作り出した避難できる居場所である。(p221)

空想世界やイマジナリーコンパニオンを避難所としてきた人の場合でも、そのイメージを思い浮かべるときに、身体でどう感じるか確かめてみることによって、ソマティック・リソースを確保できます。

中には、身体の感覚が麻痺しすぎて、安心感を感じることが困難になっている人もいることでしょう。

トラウマを負った人は、身体に絶え間なく生じる不快な感覚のため、身体とのつながりを切って麻痺させていることが多いものです。自分の身体と疎遠になりすぎているため、「からだ」をカウンセリングしようとしても実感が湧きません。

それはすなわち、感情も感覚も感じないほどに「凍りついて」しまっている場合があるということです。その場合は、氷漬けになった身体を溶かし、少しでも何かを感じ取るところから始めなければなりません。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際によると、身体が完全に凍りついていて無感覚になっているときに役立つのは、自分で自分の身体に手を当てて、その部分にどんな感覚を感じるか意識を集中させてみることです。

もしクライエントが身体とのつながりを失いがちな傾向があるなら、また身体感覚への気づきが少ない場合には、クライエント自身で特定の場所に触れてもらうと、(例 : 首、肩、お腹)、身体への気づきを回復させることができます。(p278)

手を触れると感じやすくなるというのは、なにも手のひらから気のようなものが送られるというような、スピリチュアル的な意味ではありません。

身体が凍りついてしまっているというのは、身体が疎遠になって他人になってしまっているということです。

以前の記事で書いたように、これは比喩ではありません。現代の脳科学の知見からすれば、文字どおり他人の身体として処理されているものと思われます。

自分の身体が感じられない生ける屍になった人たちー感覚鈍麻とアイデンティティ喪失の神経科学
感覚過敏に比べて、あまり注目されず、深刻さが理解されにくい、感覚の鈍麻や麻痺、解離が引き起こすアイデンティティの障害について考察しました。

現実の人間関係では、他人に手を触れるのは関心を向ける行為です。友達から優しく手を握られたり、肩にそっと手を置かれたりすれば、誠実な関心を向けられていることがわかります。

身体の中で「他人」として処理されている部分も同様です。その部分にそっと手を添えることで、関心を向けていることが伝わり、他人になっている身体がいわば「話し」はじめるといえます。

失感情症に苦しんでいたあるクライエントは、自分の手で胸に触れ、さまざまな方法で関心を向けるうちに、凍りついた感覚が溶けて感じられるようになりました。

例えば、失感情症に苦しむクライエントが胸のあたり、特に心臓の周辺の無感覚を訴えたとき、セラピストはクライエントに自分の手をその場所に当ててみるように提案しました。

最初、クライエントは「何も感じない」と言いました。しかしセラピストが、身体のその部分を感じるのをサポートするような、ぴったりとしたやり方を自分で発見するまで、違った手の当て方を試してみるように提案すると、クライエントは的確な強さと自身の手の動きによって、本当に胸の感覚を促進させたのです。

クライエントは次のようにコメントしました。「自分の心臓を感じます。自分の心臓なのだ、と感じるのは初めてです」(p278)

もちろん、現実の人間関係と同様、いちばん効果が強いのは、文字どおりの他者から手を触れられることでしょう。

そもそもヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法で書いているように、生まれたばかりの赤ちゃんが自分の感覚を感じられるようになるのは、親が抱きしめてくれる経験のおかげです。

母親が子供をどのように抱くかが、「精神が宿る場所として体を感じる能力」の根底にある。

私たちの体がどのようにに接し合うかに関するこの内臓感覚と運動感覚が、私たちが「現実」として経験するものの基礎を築くのだ。(p187)

この身体的体験の手続き記憶と、そこから生じる安心感が、いわゆる愛着(attachment)です。こうした身体的なふれあいが経験されず、安心感を感じるための手続き記憶が形成されないのが愛着障害です。

長引く病気の陰にある「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」
愛着理論によると、子どものころの養育環境は、遺伝子と同じほど強い影響を持ち、障害にわたって人生に関与するとされています。愛着の傷は生きにくさやさまざまなストレスをもたらす反面、創造

トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復によれば、ヴァン・デア・コークがソマティック・エクスペリエンスの価値に気づいたのは、ラヴィーンから手を触れてもらったおかげでした。

ピーターが用いたタッチは、とてつもない助けになった。私の専門分野での教育では、タッチは厳しく禁止されており、また子供時代も身体接触はほとんどなかった。

ピーターが使ったタッチのおかげで、私は自分の内的経験に、よりよく気づくようになった。(pviii)

しかし他者から手を触れられるという体験は、非常に大きな意味を持つので、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際では、トラウマを抱える人の場合、刺激が強すぎることがあると書かれています。

身体接触は癒やしにもなりえますが、潜在的な危険があるので、できる限り用心深く思慮をもって使われねばなりません。(p276)

セラピストが手を触れると強い反応を引き出しすぎる恐れがありますし、異性同士の場合など、不適切な感情につながることもあるでしょう。まずは自分の手で触れて感覚を感じてみることが安全な方法だといえます。

6.ペンデュレーション―振り子運動で凍りつきを溶かす

ここまで見てきたようなステップは、ある程度なら、自分ひとりでできることかもしれません

しかし、ここまでは前準備でしかありません。セラピストの助けが本格的に必要なのは、これ以降のプロセスです。

安心できる感覚を見つけるのは心地よい経験ですが、いざ過去のトラウマ記憶の断片を発掘しようとし始めると、不快感にとらわれたり、圧倒されたりして、それ以上進めなくなりがちです。

トラウマを負った人の身体は、あたかも見知らぬ他人の身体のようなものです。トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際にあるとおり、トラウマを負った人は、自分の身体に対して怯えています。

多くのクライエントが身体に否定的な感覚をもってセラピーにやってきます。

感覚を体験することを恐れたり、麻痺や身体がバラバラになる感覚を感じたり、望んだように身体が動かないので身体は自分を裏切ると怒っていたりします。

…トラウマをもつ人は、しばしば身体の感覚を、怖くて、異質で、ぞっとする、つまらない、退屈な体験でありえないなどとみなしています。(p292)

自分の身体が他人のもののように感じ、ひどく奇妙で不快で気持ち悪い、と感じるのは、トラウマを解離という防衛反応によって生き延びてきた結果です。

以前書いたとおり、解離とは、自分の身体を他人の身体のように錯覚させて、痛みや苦しみを麻痺させる手段です。身体の所有感覚を手放して、「自己」ではなく「非自己」のタグを貼ることで、耐えがたい苦しみをやり過ごします。

その結果、感覚は麻痺するかもしれませんが、自分の身体が他人の身体だと認識されるため、強烈な違和感と不快感に襲われます。

頭や内臓の異物感,手足を虫が這うような不快感の理由ー解離の体感異常を脳科学で分析する
頭や内臓に異物感や不快感を感じたり、手足など全身の原因不明のむずむず感を感じたりする、解離に伴いやすい体感異常(セネストパチー)についてまとめました。

神経科学者ラマチャンドランは、脳のなかの天使の中で、そうした不快感を「ミスマッチ嫌悪」と呼びました。自分の身体のはずなのに、自分のものではない奇妙で不快なものだと脳が認識するのです。(p361)

この不快感や嫌悪感のため、トラウマを負った人は、極力 自分の身体の感覚と向き合わないように、無意識のうちに適応してきたはずです。

ヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法で述べるように、何か不快感を感じたら、感覚を麻痺させ、注意をそらしてしまうのを習慣にし、じっくり向きあうことを放棄してきたはずです。

多くのトラウマサバイバーは、望まない感覚的体験に備えて、それに影響を受けないようにすることを中心に毎日を過ごすようになるし、私がクリニックで診るヒトのほとんどは、そういうふうに自己を麻痺させることの達人になっている。(p438)

セラピーでは、これまで目を背け、極力 麻痺させようとしてきた感覚に向き合うわけですから、意識を向けようとするだけで圧倒されてしまい、投げ出したくなるかもしれません。注意を向ければ向けるほど、不快感が拡大すると感じるでしょう。

ここで必要なのが、セラピストのテクニックです。

セラピストは、ちょうどマラソンランナーに並走するペースメーカーのように、クライエントの様子を観察して、ペース配分してくれます。

セラピストは、ペンデュレーション(振り子運動)という代表的なテクニックを用いて、ペースを調整してくれます。

ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法で、ペンデュレーションとは何かをこう説明しています。

患者はトラウマそのものの徹底した探究に入る前に、セラピストの力を借りながら、トラウマを負ったときに自分を圧倒した感覚と情動への安全なアクセスを助けてくれるような内部の資源を蓄積する。

ピーター・リヴァインはこの過程を「振り子運動」(ペンデュレーション)と呼ぶ。

内部感覚へのアクセスと、トラウマ記憶へのアクセスの間を、ゆっくりと行ったり来たりするのだ。この方法によって患者は、耐性領域を徐々に広げられるようになる。(p356)

ペンデュレーション(振り子運動)とは、安全な場所の感覚(ソマティック・リソース)と、トラウマの痕跡である不快な感覚とのあいだを、振り子のように行ったり来たりするテクニックです。

パット・オグデンも、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際の中で、振り子運動について、こう説明しています。 

振り子的テクニックでは、マインドフルネスの状態でくり返し注意の方向を変えます。

穏やかで「リソース」となるような身体領域や経験や感覚と、痛みをともない不快な身体領域や体験や感覚を、行ったり来たりするよう指示します。

このような交互変化は、覚醒低下、覚醒亢進、いずれの覚醒状態のクライエントも助けます。(p303)

ペンデュレーションでは、「注意の方向を変え」「行ったり来たりする」ことによって、不快な感覚に圧倒されずに、自分の身体を感じる能力を強化していけるよう助けます。

そして、こうしたテクニックは「耐性領域を徐々に広げられるように」「覚醒低下、覚醒亢進、いずれの覚醒状態のクライエントも助け」ると書かれていました。これはどういう意味でしょうか。

耐性領域にとどまる訓練

不快な感覚に圧倒されることなく、効果的にセラピーに取り組めるのは、最適な覚醒状態にとどまっているときに限られます。

この最適な覚醒状態の範囲は「耐性領域」と呼ばれています。身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法では、こう説明されています。

私たちは、何かのきっかけで過覚醒や低覚醒の状態になるときには、「耐性領域」(最適なかたちで機能できる範囲)の外に押しやられている。

過覚醒の場合には、私たちは反応しやすくなり、混乱に陥る。フィルターが働かなくなるので、音や光に悩まされ、望みもいない過去の光景が心に侵入し、パニックになったり逆上したりする。

低覚醒の状態で機能停止に陥ると、心も体も麻痺しているように感じ、頭の働きが鈍り、椅子から立ち上がることも難しくなる。(p336)

この耐性領域に関する、過覚醒・低覚醒の関係を表にすると、以下のようになります。

【超限界段階】 限界に達するとシャットダウンし反転して低覚醒に陥る
   ↑
【過覚醒】 交感神経優位の「闘争/逃走反応」の興奮状態
—————————————————–
   ↑
【耐性領域】 副交感神経が働いているリラックスした状態
   ↓
—————————————————–
【低覚醒】 背側迷走神経優位の「凍りつき/擬態死」の解離状態

わたしたちは誰でも、落ち着いてリラックスしている時は、「耐性領域」の範囲中にとどまっています。

ところが、強い刺激に圧倒されてしまうと、神経が過剰に興奮して、過覚醒の状態になり、耐性領域の上側に飛び出してしまいます。過覚醒の状態では、落ち着いて思考できなくなり、パニックが引き起こされます。

そして、限界を越えると、今度は反転して低覚醒になり、耐性領域の下に飛び出してしまいます。そうすると、ぼーっとして集中できず、意識がもうろうとする解離症状が現れます。

健康な人は、耐性領域の範囲がかなり広いので、そうそう圧倒されることはありません。しかし、トラウマを負った人は耐性領域が非常に狭く、ジェットコースターに乗っているかのように、過覚醒と低覚醒を行き来しがちです。

先ほどヴァン・デア・コークが述べていたように、ペンデュレーションは、注意のコントロールを強化することによって、「耐性領域を徐々に広げられるように」するトレーニングです。

ソマティック・エクスペリエンスのセラピストは、過覚醒や低覚醒に関わるさまざまな身体のサインを読み取る訓練を受けています。(詳しくはスティーブン・ポージェスのポリヴェーガル理論(多重迷走神経理論)を参照)

セラピストは、クライエントの状態をよく見て、クライエントが今どの領域にいるかを判断します。不快な感覚に圧倒されて過覚醒や低覚醒に陥る兆候に気がついたら、安心できるイメージに注意を引き戻すことで、耐性領域内に戻れるよう導きます。

少しずつ水に慣れていく子どものたとえ

このペンデュレーション(振り子運動)のテクニックを理解するとき、ヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法で述べているたとえはわかりやすいでしょう。

混乱と緘黙症は、セラピーの場面でよく見られる。物語の細部を話すように無理強いし続けると、患者が圧倒されてしまうことは予期できる。

そのため私たちは、トラウマへの取り組みを(友人のピーター・リヴァインの表現を借りれば)「振り子のように行ったり来たりさせる」ことを学んだ。

物語の細部に直面するのを避けるわけではないが、片足の爪先を安全なかたちで水にそっと浸けてみて、それからまた引き上げるように、患者に教える。

そうやって、しだいに真実に近づいていく。(p402)

ペンデュレーションとは、いわば、「片足の爪先を安全なかたちで水にそっと浸けてみて、それからまた引き上げる」ことによって、少しずつ水に慣れて、深いところへ進んでいくようなものなのです。

興味深いことに、児童文学作家のエリナー(ネリー)・ファージョンは、ファージョン自伝―わたしの子供時代の中で、子どものころに、まさにそんな体験をしたことを回想しています。

「わたし、今日こそはきっと海に入るの」

毎日、ママはネリーの服を脱がし、海水着を着せてくれる。

そして、毎日ネリーは、いちばん下の段が、緑色をした海水の下に見えなくなっている移動更衣車の階段の上に立つやいなや、恐ろしさのあまり金切り声を上げてしまうのだった。

まだ階段の上に立って、緑色の海水に浸した自分の足が透けて見えているというのに、もう悲鳴を上げてママにしがみつき、出してちょうだいと喘ぐのである。そうすると、ママはすぐにネリーを引き上げてくれた。

「どうしてその子を海に入れないの?」マリー・バーンズおばさんは、いらいらするとばかりにたずねた。

「怖がっていることを無理にさせたくないのよ」と、ママは答えた。(p227)

繊細で敏感なHSPの子どもを育てるために親ができる8つのこと―児童文学作家エリナー・ファージョンに学ぶ
HSPの子どもが敏感さゆえに抱えることの多い8つの特徴と、それに対して親ができることをまとめました。

幼いネリーは、海に入るのが怖かったので、ちょっと足を浸すたびに、パニックになって泣き叫びました。すると、お母さんは、すぐに水の中から引き上げて、安全な場所に連れ出してくれました。

ソマティック・エクスペリエンスのセラピストの役割は、このお母さんの役割とまったく同じです。

トラウマを負った人は、自分の身体感覚という海に降りていこうとするとき、耐性領域が非常に狭いので、すぐに圧倒されてしまいます。海の中に入って感覚を探る以前に、そもそもちょっと足先を浸けただけでも耐えられなくなってしまうのです。

セラピストは、クライエントが、文字どおり悲鳴は上げないまでも、不快な感覚に圧倒されてしまう様子を目ざとく読み取り、安全な場所のイメージに注意を引き戻すことで、海から「引き上げて」くれます。

では、いつまでも行ったり来たりするだけなのでしょうか。いいえ、幼いネリーは時間はかかりましたが、徐々に水に耐えられるようになり、海の中へと進んでいくことができました。

ある日、ネリーは叫び声を上げる前に階段を二段おりることができた。またある日は、海に入って砂の上に立っていた。

海はネリーの頭のところまではこなかったし、のみこみもしなかった。すてき、すてき。(p228)

ネリーは水の中と安全な陸地を、少しずつ行ったり来たりすることによって、徐々に海の中に入っていけました。これはネリーの「耐性領域」が広がっていって、水に耐えられるようになったということです。

同様に、トラウマを負った人も、最初は耐性領域が非常に狭く、すぐに圧倒されてしまいます。

しかし、ペンデュレーションによって、身体の不快な感覚と、安全な場所(ソマティック・リソース)の感覚とを交互に行き来することで、徐々に耐性領域が広がっていきます。

不快な感覚が「変化する」ことに気づく

ネリーが、少しずつ海に慣れていった結果、「海はネリーの頭のところまではこなかったし、のみこみもしなかった」と気づいたのは、振り子運動がもたらすとても大事な感覚です。

ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンスによる最新のトラウマ・ケアの中で、ペンデュレーションがもたらす気づきについて、こう書いていました。

トラウマが凍りついた状態または固まった状態であるのに対して、ペンデュレーションは、収縮と拡張という生得的な生命体リズムである。

言い換えれば、いかに恐ろしく感じていたとしても、その感情は変化しうるし変化するだろうことをおそらく初めて知ること(内から感じること)によって、固まりが解けていくことだ。(p97)

トラウマを抱えた人は、自分の症状が永久不変の慢性的なものだと認知しています。慢性疲労にしても慢性疼痛にしても「慢性」と名付けられているのは、ずっと変化しないと感じられるからです。

しかし、すでに見たとおり、こうした症状が慢性的にずっと続いてしまうのは、過去の危機的状況で引き起こされた「凍りつき」や「擬態死」という生物学的な防衛反応が、終息せずにずっと続いてしまっているからでした。

本来、それらは危機が去ったら自動的に終息するはずのものですが、逃げることも闘うこともできない慢性的なストレス環境に繰り返しさらされたがために、身体のデフォルト反応になってしまっていたのです。

言い換えれば、耐性領域の外に飛び出して、常に過覚醒や低覚醒にいるのがデフォルトになっている、ということです。

耐性領域が狭すぎて、めったに耐性領域の中に戻ってこれないせいで、極端な疲労や痛みや凍りつきの状態が永久に続いているかに見えているだけなのです。

ペンデュレーションを繰り返して耐性領域を拡大させ、過覚醒や低覚醒から自力で抜け出せるようになってくると、常に凍りついたままではない、ということに気づくことができます

少しずつ海の中に入っていったネリーが、海は自分を呑み込まないことに気づいたように、ペンデュレーションによって耐性領域を広げていくと、自分の不快な症状は不変ではなく、コントロールできるものだ、と気づき始めます。

自分の慢性症状が変化すると言っても、今この記事を読んでいる人の中には、まったく想像もつかないという人もいることでしょう。それこそが「凍りついて」いる証拠です。

トラウマの凍りつき症状はあまりにも慢性的で、永久凍土のごとく氷漬けになっているため、ペンデュレーションによって耐性領域を広げた人は、それが「変化しうるし変化するだろうことをおそらく初めて知る」ことになります。実際に経験してみるまで想像できないはずです。

ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ペンデュレーションによって、この「変化する」という感覚に気づくこと、つまり不快な症状の数々は永久不変の手に負えないものではなく、自分で打ち消せるものだと気づけることが、トラウマ解決の第一歩だと述べています。

彼らは身体的感覚を生み出して、自分には手に負えないという気持ちを打ち消せることを体得し始める。これで、トラウマ解決の舞台が整う。

そして、探っている状態と安全な状態の間や、言語と体の間、過去の想起と現在に生きているという感覚の間を、振り子のように行ったり来たりするのだ。(p403)

▼注意の切り替えのトレーニングが大事な理由
以前に考察したところによれば、慢性疲労や慢性疼痛の原因のひとつは、注意力の切り替えができないことにあると思われます。不快な感覚に「過集中」して頭が占領されてしまうため、慢性的で耐えがたいものに感じられるのです。

以下の記事では、ADHDの人は注意の切り替えの難しさからくる慢性疲労や慢性疼痛が生じやすいのではないかと説明していますが、トラウマ障害ではADHDとほぼ同様の脳の変化が生じているので、同じことが当てはまるはずです。

そのような注意力の切り替えの困難による、不快な感覚へ「過集中」してしまう現象に対して、注意を振り子のように切り替えることを学ぶペンデュレーションの訓練は効果的だと思われます。

なぜADHDの人は慢性的な疲労や痛みを感じやすいのか―脳の注意配分能力とワーキングメモリー
注意力のコントロールが苦手なADHDなどの人では、痛みや疲労が強く感じられている可能性があります。その理由は、フロー状態・マインドフルネス・ワーキングメモリ・注意配分能力などの研究

野球選手の投球フォームのたとえ

セラピストの指示に従ってペンデュレーションを繰り返しているうちに、やがてセラピストに誘導されていた注意の切り替えを、自分でコントロールできるようになっていきます。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際にはこう説明されています。

身体への気付きを強調することで、クライエントは覚醒亢進や覚醒低下の身体的な兆候を認識することを学び、ソマティック・リソースを使って覚醒状態を耐性領域内に戻します。(p254)

最初は、自分でもわからない過覚醒や低覚醒の兆候に、セラピストが目ざとく気づいてペース配分してくれていました。

しかしやがて過覚醒や低覚醒の兆候に自分で気づけるようになると、圧倒されそうだと気づいたときに、安全な場所のイメージに注意を向けて、自分で自分を意識的にリラックスさせられるようになっていきます。

小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)に出てきた、子どものころから感受性が強く、線維筋痛症やうつ病を発症したジョージアは、一年間ソマティック・エクスペリエンスのセラピーを受けたあと、そこで学んだペンデュレーションを、日常生活の中で使えるようになりました。

彼女はソマティック・エクスペリエンスを通じて学んだテクニックを日常生活でも利用して、精神的な苦しみや体の不調をコントロールしている。

「感情が高ぶっているときは、まず心地よいと感じる状態を見つけてから、少しずつ苦痛に向き合うようにしています。

悲しいと感じたら、波長を合わせて体と会話をする。そして体が何を欲しているのかを尋ねます。

背中の痛みや胃腸の症状を感じたら、動揺する前に“腸の気持ち”に耳を傾けることを覚えました」(p261)

ジョージアは、過覚醒や低覚醒の兆候を察知して、安全な場所のイメージを活用することで、自分を耐性領域内に引き戻せるようになりました。

トラウマとは、体の凍りつきでした。かつて無意識のうちに身体を緊張させ、来る日も来る日も凍りつき状態で過ごした結果、それがデフォルト状態になって引き起こされるのがトラウマ性疾患の身体症状でした。

ペンデュレーションによって自分の注意の方向をコントロールできるようになれば、少しずつ身体の習慣が変化します。

最初は意識的にペンデュレーションしているでしょう。しかし、それを来る日も来る日も意識して繰り返せば、やがて習慣になります。習慣は、身体の手続き記憶を上書きし、書き換えていきます。

これはちょうど、野球の投手が誤ったフォームを修正するのに似ています。

子供時代の偏った練習のせいで、あまりにひどいフォームを身に着けてしまった選手がいるとしましょう。そのフォームのせいで、いつもボールのコントロールが定まらず四球だらけです。

自分はボールをうまくコントロールできないので、四球になるのは仕方ないとあきらめていたところで、有能なトレーナーと出会って、別のフォームを教えられます。

新しい投球フォームを意識的に試すと、ごくまれにうまくボールをコントロールできることに気づきます。最初は偶然か まぐれかもしれないと感じます。

しかし繰り替えすうちに、意識的に再現できるようになっていきます。自分でも、ボールをコントロールして狙ったところに投げられるのだ、と人生で初めて気づきます。

それから何度も何度もトレーニングして、新しいフォームを身体に覚えさせます。最初は意識的にフォームを修正していたのが、そのうち、その投げ方が当たり前になります。そして自動的に正しくボールをコントロールできるようになります。

ソマティック・エクスペリエンスによるペンデュレーションの効果もそれと同じです。

トラウマを負った人は、子ども時代のひどい環境によって「凍りつき」という、ひどい投球フォームを訓練し、身につけてしまったようなものです、

あまりにそれが当たり前なので、思ったように身体が動かすことができず、不快な感覚に満たされることが当たり前で永久不変だと思いこんでいます。

しかしセラピストという有能なコーチから、ペンデュレーションという新しいフォームを学び、訓練しているうちに、永久不変だと思いこんでいた身体感覚が変化しうるものだと気づきます。

そして来る日も来る日も、日常生活の中で意識的にペンデュレーションを実践しているうちに、身体が新しいフォームを記憶していきます。

やがて凍りつきという古いフォームの手続き記憶が上書きされ、意識しないでも自動的にペンデュレーションできるようになっていきます。そうすれば、凍りつきの結果 身体に起こっていたさまざまな不具合が解消されていくことになります。

ペンデュレーションという言葉で表現してしまうと、何か特別なスキルのように思えてしまいますが、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンスによる最新のトラウマ・ケアにあるとおり、生物にとって感覚が振り子のように揺れ動くのはごく普通の状態です。

ペンデュレーションは、困難な感覚や感情を切り抜けるために、すべての生物に備わっているものである。(p99)

ペンデュレーションを身につけるというのは、凍りついて揺らぎのない状態という、生物として不自然な状態から、振り子のように柔軟に揺らぎうる生物として自然な状態へと戻していく、ということです。

7.タイトレーション―少しずつエネルギーを解放する

ソマティック・エクスペリエンスにおいて必要なのは、一時的な熱意ではなく、長期間、根気強く取り組み続けることです。

習慣を置き換えるというセラピーの性質上、一週間や一ヶ月、徹底的に取り組んだところで効果は期待できません。むしろ、根を詰めすぎたり、成果を焦ったりすることなく、自分のペースで継続することのほうが大事です。

ずっと耐えがたい不調に悩まされている人が、早く解放されて自由になりたいと感じるのは当然ですが、トラウマ治療では逆に、少しずつ進むことが鉄則とされています。

先ほど出てきたネリーの場合、海に入れるようになるまでかなりの時間がかかりました。パニックになって圧倒されないために、一度に少しずつ進んでいったからです。

身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、ヴァン・デア・コークは性急なセラピーは大勢の人を脱落させるばかりか、症状を悪化させてしまうので、「ゆっくりと、多くの場合カタツムリのようなペースで進むことを学んだ」と書いています。(p452)

ピーター・ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンスによる最新のトラウマ・ケアの中で、そのプロセスを、「タイトレーション」という化学実験の用語で表現しています。

これは例えば、塩酸と苛性ソーダのような激しく反応する物質同士を混ぜ合わせるときに使われる手法です。

単に二つを混ぜ合わせると、激しい爆発が起き、あなたも実験室の他の人たちも視界を失ってしまうだろう。

しかし上手にガラス弁(栓)を用いれば、一方の物質をもう一方に一度に一滴ずつ加えることができる。

一滴ごとに「アルカセルツァー」[訳注:水に溶かして飲む頭痛、胃の薬。溶かす際に発泡する]のような発泡が起きるが、すぐに収まる。

一滴ごとに、ほぼ同じ最小限の反応が繰り返される。(p102)

一気に混ぜると爆発してしまうような物質同士でも、ちょっとずつ混ぜれば、反応を最低限にとどめて、安全に中和することができます。

一気に混ぜるか、ちょっとずつ混ぜるかで、結末がまったく正反対になります。実験室ごとだめになるか、安全な中和物が完成するかです。

ソマティック・エクスペリエンスなどのトラウマ処理においても同じことがいえます。

トラウマを負っている人が陥っている「凍りつき」状態とは、闘ったり逃げたりすることが失敗に終わり、防衛反応が中途半端なまま中断され、フリーズしている状態でした。

それはつまり、闘ったり逃げたりするために動員した強いエネルギーが、行き場のないまま、身体の中に閉じ込められてしまっている、ということを意味します。

ラヴィーンはそれを、目一杯引っ張られたまま静止しているバネに蓄えられた弾性エネルギーに例えています。(p114)

その閉じ込められたエネルギーを一気に引き出してしまうと、「激しい爆発」(カタルシス)が起こるのは当然です。

凍りついていた防衛反応が一度に再活性化されれば、トラウマを受けたときの感覚をまざまざと追体験するので、トラウマの再体験が引き起こされます。強烈な覚醒を伴うので、偽りの記憶が生まれるきっかけにもなりかねません。

凍りつきを安全に溶かすためには、身体に閉じ込められたエネルギーを少しずつ解放していくことが不可欠です。

それゆえ、ラヴィーンは、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーの中で、「癒やしのプロセスは、劇的でなければないほど、またゆっくりと起これば起こるほど効果的」だと書いています。(p40-41,88,96)

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際にも書かれているとおり、ゆっくり進んだほうが、実際には早く目的地にたどりつくことになります。

一部のクライエントは、実際のセラピー的な変化をもたらす唯一の方法は「記憶を取り戻す」ことであり、そこに早く到達しなければならないと強く信じている可能性があります。

しかし、もしクライエントが思い出した素材を統合する能力を欠いていれば、クライエントは急速に不安定になってしまいます。

そうではなく、クライエントは「ゆっくり進めば、早く目的地にたどり着く」というアプローチに専心するように奨励されます。(p338)

曝露療法とは正反対

一気に混ぜ合わせることで爆発するという誤りを犯しているのは、ヴァン・デア・コークやピーター・ラヴィーンが繰り返し批判している曝露療法(持続エクスポージャー療法)のような手法です。

ラヴィーンはトラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復で「元々単一の恐怖症治療のために開発された療法を、はるかに複雑なトラウマ治療に転用してはばからないというのは、思慮に欠ける」と指摘しています。

曝露療法は、さきほどのネリーの話に当てはめれば、何度も何度も海の中に突き落とせば、いずれ水に慣れて怖くなくなるだろう、という荒療治です。

確かに、何度も何度もそんな体験を繰り返せば、海に入るたびに泣きわめくことはなくなるかもしれません。感覚が麻痺してしまい、放心して解離状態に陥るからです。

同様に、曝露療法は、繰り返し再トラウマを経験させることで、患者の感覚を麻痺させ、解離症状を悪化させて、それを治療とみなしています。確かにパニックにはならなくなるでしょうが、患者を生ける屍のように麻痺させてしまいます。

ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、いまだに主流医学でこのような方法が行なわれているのは、トラウマの生物学的な仕組みが理解されていない誤解によるものだと述べています。

トラウマ性ストレスへの治療の取り組みの多くは、患者を過去に対して脱感作することに的を絞っている。

トラウマ体験に再びさらされれば、情動の突発的なほとばしりやフラッシュバックが経ることを期待してのことだ。

だが私は、これはトラウマ性ストレスにおいて起こることの誤解に基づいていると考えている。(p122)

ラヴィーンもまた、子どものトラウマ・セラピー―自信・喜び・回復力を育むためのガイドブックの中で、こうしたトラウマのメカニズムを理解していない手法を用いる治療者は、トラウマを治療しているつもりが、実際には悪化させていると非難しています。

語らせられるだけのひどい体験には何の意味もありません。

私たち著者は、このようなトラウマのメカニズムを理解していない支援が、子どもに再トラウマを引き起こすことを確信しています。

子どもは(トラウマを受けた多くの大人もそうですが)従順になる傾向があるので、最初に対応した人は子供をさらなるショックによる停止状態や解離状態に追いやっていることにおそらく気付かないでしょう。(p268)

なかには、突然水の中に突き落とすような体験も、少しずつ水に慣れていくような体験も、過程が違うだけで、結果は同じではないか、と言う人もいるでしょう。

しかし、それはまったくの誤りです。ここまで考えてきたことから分かるとおり、ソマティック・エクスペリエンスのペンデュレーションとタイトレーションが育むのは、自分で自分の症状をコントロールしていける、という自信です。

振り子運動で、少しずつ安全に進む経験を繰り返すことで、身体に閉じ込められたまま凍りついているエネルギーを、無理のない範囲で少しずつ溶かして解放していきます。そうすることで、自分でコントロールできるという感覚が養われます。

何度も何度もトラウマ体験に曝露させる手法は、まったく正反対の結果を生みます。ひたすら繰り返しトラウマにさらされたときに起こるのは、「逃避不能ショック」の動物実験が示したように、完全なあきらめという完全な無活動状態です。

どうあがいても逃げられないということを身体に叩き込まれた動物たちは、檻の扉が開けられても逃げようとしなくなりました。生物学的な凍りつき、そして擬態死反応が引き起こされ、動けなくなってしまいました。

病院の一室に閉じ込められ、曝露療法によって、繰り返し再トラウマに晒されるのは、この「逃避不能ショック」の動物実験の人間バージョンです。

どうやっても逃げられないということを叩き込まれた人間は、闘争/逃走反応を試みなくなります。つまり激しい症状は消えます。その代わり、完全に麻痺してしまい、人生の喜びや楽しさも感じられなくなります。

曝露療法のような体験からは、ネリーが徐々に水に慣れていった結果 感じたような「海はネリーの頭のところまではこなかったし、のみこみもしなかった。すてき、すてき」というような感想は絶対に出てきません。

現在に引き戻すか、過去に送り込むか

ソマティック・エクスペリエンスの手法と、従来の精神医学における手法には、ほかにも決定的な違いがあります。

ソマティック・エクスペリエンスは、今この瞬間の身体の感覚に焦点を当てているのに対し、従来のカウンセリングや曝露療法は、過去の出来事に焦点を当てているという違いです。

現在の感覚に注意を向けるセラピーは、意識を「今ここ」の現実につなぎとめるトレーニングになりますが、過去の体験に注意を向けるセラピーは、意識を「今ここ」から切り離すことを訓練してしまいます。

ソマティック・エクスペリエンスは意識を現在に引き戻し、身体に現れている記憶の化石を発掘する手法です。常にトラウマから隔てられた状態にあるので、圧倒されることはありません。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際にあるように、クライエントが過去の体験に圧倒されそうになったら、セラピストはすぐに現在に注意を引き戻すように務め、意識が「今ここ」から切り離される解離が起こるのを防ぎます。

覚醒低下のクライエントと取り組むとき、最初のステップで、セラピストは過去のものではなく、現在の環境の中にある対象にだけクライエントの注意が向くように導きます。

セラピストはクライエントに「あなたの過去がどれだけ困難だったか考えるのはちょっとだけ休んで、この部屋を見回して、赤いものを4つ見つけて私に教えてくださいませんか?」というかもしれません。

このテクニックは能動指向の反応を喚起し、覚醒低下と覚醒亢進どちらのクライエントも助け、覚醒状態が耐性領域の枠内に戻ります。(p302)

一方、暴露療法はあたかも過去の恐竜時代にタイムスリップさせるようなものでしょう。恐ろしい怪物を前にして、当然パニックになりますし、意識は「今ここ」から離れてしまい、解離症状が強化されます。

ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、注意を過去に向けるか、現在に向けるかという違いは、患者の将来に大きな違いをもたらすと述べます、

曝露療法の一形態である仮想現実セラピーでは、帰還兵がハイテクのゴーグルをつけて、ファルージャの戦いを細部まで現実であるかのようにやり直すことができる。

…問題は、彼らが祖国に戻ってからの暮らしに耐えられないことだ。

…トラウマを負った患者に、仮想現実セラピーよりも必要なのは、地元のスーパーマーケットで買い物をしたり、わが子と遊んだりするときに、バクダードの通りで感じたのと同じくらい生き生きとした気分になれるようにしてくれる「現実世界」セラピーなのだ。(p363)

過去のトラウマを語らせたり、それを再体験させたりするのは、過去への適応性を高める訓練です。まだトラウマが終わっていないという感覚が強まり、身体はもっと凍りつきます。

生物学的にいえば、中途半端に凍りついて苦しむくらいなら、完全に氷漬けにしてしまえば苦しみさえ麻痺してしまう、と言っているようなものです。

ソマティック・エクスペリエンスはまったく正反対に、過去のトラウマ状況下に適応していた「凍りつき」「擬態死」状態を溶かし、現在の日常生活に再適応させていくことを目指します。

必要なのは、過去に適応する能力ではなく、現在に適応する能力です。もう一度過去をやり直すことではなく、現在を生きるためのスキル、日常生活の中で不快な感覚に圧倒されそうになったときに役立つスキルを身につけることなのです。

踏み固められた道のたとえ

こうした説明からわかるように、ソマティック・エクスペリエンスのセラピーとは、つまるところ、過去に適応した凍りつきという手続き記憶を、現在に適応した新しい手続き記憶で上書きし、身体の習慣を書き換えることを目的としています。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際に書かれているように、ひとたび身体に染みついた自動的なパターンを、意識的に別のやり方を繰り返すことで修正し、新しいパターンに置き換えることを目指すものです。

FrifdbyとSrevensは、機能不全のパターンを変更するうえで、潜在的に手続き的に学んだことを無効にする方が、もともとの原因を語るよりもいっそう効果的であると示唆しました。

…変化を起こすためには、手続き的に学んだこと(特に身体傾向)を「無効にする」必要があります。洞察を得るだけでは不十分です。

古いパターンをソマティックに再演する傾向を変える必要があるのです。新しい行動によって古い行動を置き換える必要があります。(p335)

慢性的に耐性領域の外で凍りつくという手続き記憶を、自由に耐性領域の中に戻れるという柔軟な手続き記憶で上書きしていくことで、凍りつくことなく日常生活を送れるようトレーニングしていきます。

身体に染みついた古い習慣を新しい習慣で置き換えるわけですから、タイトレーションによって長い時間がかかるのは当然です。

山の中にいつも通っている獣道があるとしましょう。その道だけ土が踏み固められて、野草が生えていません。

習慣を変えるとは、別の道を開拓するようなものです。今まで通ったことのない雑草だらけの道を歩き始めます、一日や一週間、一ヶ月では雑草だらけなのは変化しないでしょう。

数ヶ月、あるいは年単位の時間をかけて、毎日その道を通っているうちに、いつしか以前の道には雑草が生い茂り、ずっと通ってきた道には草がなくなっています。それくらい続けて初めて、新しい習慣が身につきます。

ソマティック・エクスペリエンスにおけるタイトレーションも、何ヶ月も、何年もかけて、一滴ずつ慎重に処理を進めてやっと、トラウマが中和されて、凍りつきが解消されます。

過去の習慣をひたすら再体験するのではなく、日々現在の新しい習慣を繰り返すことで、過去の習慣が現在の習慣に置き換わっていくのです。

▼RPGのたとえ
若い世代の人の場合、ソマティック・エクスペリエンスの手法は、RPGにたとえてみれば、もっとわかりやすいかもしれません。(わたしも生まれた時からゲームに囲まれていた世代なのです)

曝露療法の手法は、かつてボコボコに全滅させられた強敵に、何度も何度も挑めば勝利できると言っているようなものです。実際には、数えきれない回数ゲームオーバーになって感覚が麻痺するだけです。

対照的に、ソマティック・エクスペリエンスでは、まず回復の泉や宿屋のような場所(ソマティック・リソース)を確保します。

そして、宿屋と近くの敵を繰り返し行き来して(ペンデュレーション)、少しずつ経験値を稼ぎ(タイトレーション)、レベルを上げます。

やがて十分にレベルが上がって、装備を整えてから、以前はかなわなかった強敵に挑みます。たくさんのスキルを覚えているので、以前の苦労が嘘に思えるほど簡単に攻略できます。

レベル上げは時間がかかってめんどくさいかもしれませんが、間違いなく「ゆっくり進めば、早く目的地にたどり着く」のではないでしょうか。

8.なぜエクスペリエンス(経験)が必要なのか

このように、ソマティック・エクスペリエンスのセラピーは、ペンデュレーションとタイトレーションの2つを軸にして進みます。

今まで注意を向けたことさえなかった身体の感覚に気づいたり、永久不変だと思いこんでいた不快感が変化するのを感じたり、注意の方向を変えて覚醒状態をコントロールできるということを実感したりしながら、少しずつ進んでいきます。

ソマティック・エクスペリエンスの治療において、最も意味があるのは、その名のとおり、身体的な「経験」です。

この種の「経験」は、ソマティック・エクスペリエンスについての書籍やブログを読んでも得られません。薬で症状を抑えたり、言葉で過去を整理するカウンセリングを受けたりしても、やはり身体的な「経験」は得られません。

「経験」とは、たとえば外国に旅行に行ったり、珍しい料理を食べたり、自分の足で岩山をクライミングしたり、珊瑚礁にダイビングしたりすることで得られるものです。

旅行代理店のカタログを眺めても、レシピ本を読み込んでも、絶景の写真をネットで検索したとしても、その種の「経験」は何一つ得られません。いずれも、自分の身体で経験してみた人以外には、想像すらできないものです。

トラウマの症状の治療に「経験」が必要なのは、動物行動学の実験から証明されています。

トラウマを負った人が経験する「凍りつき」は、マイヤーとセリグマンの「逃避不能ショック」実験で犬たちが経験した不動反応と同じものでした。

ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、その不動状態に陥った犬たちが、凍りついた擬態死の状態から、いかにして回復できたか、という研究に言及しています。

その日私は飛行機に乗りそこねた。どうしてもスティーヴン・マイヤーと話をしたかったからだ。

彼のワークショップは、私の患者たちの根本的な問題についての手掛かりばかりか、解決のための潜在的なカギまで与えてくれた。

たとえば扉が開いているときに電気ショックを与える檻から逃れることを、トラウマを受けた犬たちに教えるには、どうすれば逃げられるかを体で経験できるよう、檻から繰り返し引きずり出すしかないことを彼とセリグマンは発見した。

私も患者を手助けし、自らを守る手立てはまったくないという、彼らの基本姿勢を変えてあげられないだろうか。

私の患者たちも、自分に主導権があるという体の芯からの感覚を取り戻すには、身体的な経験が必要なのではないか。(p59)

逃げられない檻の中で、繰り返し電気ショックにさらされ、慢性的に凍りついた擬態死状態になってしまった犬たちが回復した方法、それは「どうすれば逃げられるかを体で経験でき」るよう教えてもらうという方法でした。

この研究からヴァン・デア・コークは、凍りついた犬たちと同様の状態になっている患者たちもまた「身体的な経験」によって回復できるのではないか、と考えました。

概念そのものが失われて想像できない

檻に閉じ込められて繰り返し電気ショックを受けた犬たちが、檻の扉が開いているにもかかわらず、まったく逃げようとしなくなったのはなぜでしょうか。

それは、あまりにも繰り返し慢性的に閉じ込められ、ひどい扱いを受けたせいで、自由に動きまわってもよいという概念が失われてしまったためです。

脳神経科学者オリヴァー・サックスは、左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)の中で、これと同じ現象が、人間にも生じうることを例証しています。

私は「覚醒」するまで何十年も病院に収容されている患者たちとよく話をしたものだ。

閉じこめられていると、強く感じているのではないか。無性に外の広い世界にでたいとは思わないのか。そうたずねると、彼らは物静かに「思わない」と答えた。

…今わかったことは、そのような退行が普遍的なものだということだ。それは、いかなる「移動不能状態」、病気、幽閉においても起こりうる。存在の自然な萎縮であり、避けることはできない。

そのうえ直接認識されないため、耐えることはできるが、治療することはできないのである。(p192)

狭い檻に閉じ込められた犬たちに起こったのと同じことが、難病のために何十年も病院に閉じ込められていた人たちにも起きていました。

この患者たちは、あまりに長い期間 閉じ込められていたために、外の世界に出て自由に動きまわれるという概念を失っていました。健康になって広い世界で自由に生きる、というのがどういうことなのか、想像すらできなかったのです。

サックスが『それは、いかなる「移動不能状態」、病気、幽閉においても起こりうる』と述べているように、幼少期からトラウマの檻に閉じ込められ、繰り返し「逃避不能ショック」にさらされてきた人にも同じことが起こります。

途中で触れたように、こうした人たちは、あまりにも凍りつき状態が当たり前になって、それが神経系のデフォルトのモードとなってしまっているがために、凍りついていない自分がどんなものかをまったくイメージできなくなっています。

トラウマを負った人が、永久に続く凍りつき状態から抜け出せず、精神的にも身体的にも、行動においても、ひたすら同じことを繰り返すループから自力では抜け出せないのは、そこから抜け出すことを想像すらできないためです。

ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、この状態を、コウテイペンギンの習性に例えています。

私は『皇帝ペンギン』という素晴らしい映画を観たあと、自分の患者の一部のことを思わず考えてしまった。

ペンギンたちは禁欲的でかわいらしい。だから、太古の昔以来、彼らが海から100キロメートル以上もとぼとぼと内陸に向かい、繁殖地にたどり着くために筆舌に尽くし難い困難に耐え、孵化できるはずの無数の卵を寒さで失い、さらにそのあと、飢え死にしかけながら、自分の体を引きずるようにして海まで戻ることを繰り返してきたのを知ると、哀れとしか思えない。

もしペンギンたちに私たちの前頭葉があったなら、小さな翼を使って氷の家(イグルー)を造り、もっとうまく分業を行ない、食糧供給を再調整するだろう。

私の患者の多くは、大変な勇気と粘り強さでトラウマを生き延びてきたにもかかわらず、同じ種類の厄介な状態に繰り返し陥ってしまう。

トラウマが、彼らの内なる羅針盤の機能を停止させ、もっと優れたものを生み出すのに必要な想像力を奪ってしまったからだ。(p161)

トラウマを負った人たちは「必要な想像力を奪」われてしまい、苛酷すぎるライフスタイルを繰り返すペンギンたちのような状態に陥っていると書かれています。

これは一見、比喩に思えるかもしれませんが、生物学的に言えばそうではありません。トラウマを負った人は、凍りつきという防衛反応のパターンに支配されてしまうので、動物と同様の存在、生き延びるだけの本能の塊になってしまうからです。

ペンギンは自分がひどく効率の悪いライフスタイルを送っているなどと思いません。別の生き方を想像するための前頭葉の機能がないからです。

トラウマを負った人も、やはり想像力が氷漬けになっているので、凍りついていない状態というものを想像することができません。

サックスが左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)で指摘するように、自分が想像もできないものについては、希望など持つことができません。

回復はなだらかな坂をのぼるようなものと考えるべきではない。急な階段をあがっていくようなものだ。

下段にいるときには、つぎの段について想像をすることはできないし、とうてい上にはあがれそうもない気がする。

希望さえもつことができない。

手元にあるものなら望みをかけることもできるが、想像もつかないことについては、まったく希望などもてない。(希望とは、いくらかは想像の産物なのだ)。

だから回復の階段を一段あがるのは奇跡のようなものだ。それも、他人から促されなければ、けっして実現しなかったことだろう。(p188)

わたしたちは、概念すらなく、想像もできないものについては、そもそも考えることさえできません。

生まれてこのかた一度も色を見たことのない人に、色とは何か どうやって説明できるでしょうか。一度も音を聞いたことのない人に、音とは何か どうやって説明できるでしょうか。

縄文時代にタイムスリップしたとして、この21世紀のデジタル化した社会での生活がどんなものか、当時の人にわかるように どうやって説明できるでしょうか。

いずれの場合も、本人が自分で経験する以外に、理解させる方法はほかにありません。千の言葉を弄しても、決して説明することができません。概念さえ存在しないものは「身体的な経験」を通して味わってみないことにはわからないのです。

概念さえないものは、そもそも考えることさえできないので、サックスが述べていたように「他人から促されなければ、けっして実現し」ません。

逃避不能ショックにさらされた犬たちに、檻から出るという行動を教えるには、誰かが「どうすれば逃げられるかを体で経験できるよう、檻から繰り返し引きずり出すしか」なかったのと同じです。

ソマティック・エクスペリエンスは、本人が想像すらしたこともない感覚を、「身体的な経験」を通してひとつずつ味わっていく治療法なので、ただ本で読んだだけではまったくわかりませんし、セラピストの手引きなしで経験するのは困難なのです。

いかに強い心、意志をもっていても、最初の一歩をふみだすとき、なにかを新しく、あるいはふたたびはじめようとするとき、すべての患者がおなじ困難に直面する。

新しい行為を想像することができない。「想像力が抑制されている」からである。

だから、それを理解して、だれかが患者を行為に放り込まなくてはならないのだ。(p222)

9.好奇心に導かれて自分を発見する道のり

ソマティック・エクスペリエンスは確かに時間がかかります。長期間続けなければ習慣は変わっていかないので、根気も必要です。

とはいえ、ソマティック・エクスペリエンスは臥薪嘗胆が求められるような苦行ではありません。

それどころか、身体的な経験を積み重ねて、新しい概念を獲得していく道のりは、オリヴァー・サックスが左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)で述べているように、どんどん世界が広がっていく楽しい経験です。

一段あがるごとに、水平線がひろがる。狭い世界から外へふみだす。それまでいた世界が、ひどく狭く、縮んでいたことにはじめて気づく。

生理学的にも。実存的な意味においても、あらゆる面でそうだった。(p188)

部屋、空間、広がり。自由になるということは、生理機能や世界がどんどん広がっていくことだ。個人的空間(社会的空間)もますます広がっていく。

それが病気が良くなる、回復するということなのである。(p191)

ソマティック・エクスペリエンスは、「あかの他人」になってしまった身体の声を聞き、再び友だちになるためのセラピー、もう一度はじめから関係をやり直して修復するセラピーです。

だれかと新しく友だちになるとき、仲が深まれば深まるほど、たくさん発見があるように、身体と友だちになる過程も、新しい発見の連続です。

セラピーの体験を通して得られる発見は、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際に書かれているように、セラピストもクライエントも予期しなかった、それまで想像もできなかった、びっくりするような気づきばかりです。

セラピーでの実験は、常に体験がどのように組織化されているかという発見へと導き、トラウマの影響への気づきと、次の行動傾向への気づきをもたらします。

…ジェニファーの例でも示されたように、セラピストとクライエントの両方が、予期せぬ体験の結果にしばしば驚かされます。(p269)

セラピーを受ける前は、自分の身体のことくらい、自分が一番よくわかっている、と思っているかもしれません。

ところが、いざやってみると、予期しない発見が次々に押し寄せてくるので、今まで何も知らなかったことに驚かされます。そして、新しいことを発見する、という体験は好奇心を呼び覚ましてくれるので、セラピーが楽しくなっていきます。

特に、セラピストは、害のない刺激でも覚醒してしまう防衛傾向を観察するよう、クライエントの好奇心と意欲を刺激します。それがトラウマの名残だからです。(p160)

ソマティック・エクスペリエンスを受けるうちに、これまで原因不明のものだった様々な身体症状や、医者から「気のせい」「思いこみ」と切り捨てられていた断片的な感覚が、すべて理由があって起こっていたものだということがわかってきます。

ときには、断片的な感覚をつなぎあわせていくうちに、期せずして、忘れ去られていた過去の衝撃的なトラウマ記憶を思い出してしまうこともあるかもしれません。

バラバラに散らばっていた小さな化石を、ひとつひとつ発掘してつなぎあわせていくうちに、恐ろしい肉食恐竜の全身像が復元されていくかのように。

それでも、そのころには、ペンデュレーションとタイトレーションによって、自分を「今ここ」につなぎとめ、いつでも安心できる感覚に立ち戻れるだけのソマティック・リソースを蓄えていることでしょう。

曝露療法のように過去に飛び込むセラピーなら、巨大な肉食恐竜に食われるかのような恐怖を再体験しますが、自分を「今ここ」につなぎとめるセラピーの場合は、どれほど恐ろしい肉食恐竜でも、もはや滅びた化石でしかありません。

そのとき感じるのは恐怖ではなく、ちょうど博物館に展示された恐竜の全身骨格を見上げるかのような気持ちでしょう。

この恐ろしいトラウマがもはや過去の遺物にすぎないという安堵や、自分の症状がどこから来ていたかをついに理解できた、という喜びが得られます。

凍りつきを終息させる喜び

ときには、身体に記憶された痕跡を探るうちに、過去の自分が、本当は何をしたかったのか、中断されたままに終わっている防衛反応のパターンに気づくこともあります。

たとえば、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際に出てくるマーチンは、過去の戦争体験で凍りついていました。

彼は、戦争体験について思いだしているとき、なぜか手の指が上向きにわずかに動き、腕が上方向に上がりたがっている、という衝動を感じました。セラピストがその衝動のままに従うようアドバイスすると、マーチンはかつて自分が本当にしたかったことを思い出しました。

この動きにとどまることでマーチンはわずかな変化に気づき始めました。

頭を腕でおおって、常習的な凍りつきによる防衛で凍りつく代わりに、腕は押しのけたがっている感覚があると言いました。

そしてマーチンがトラウマのときにはできなかった、この動きをともなう防衛を、ゆっくりと再現するのを励ましました。(p352)

マーチンは、戦争で敵に狙われているとき、本当は思い切り押し返して危険を遠ざけたかったのだと気づきました。その防衛反応が途中で妨げられてしまったがために、永久に処理中のままフリーズしていたのです。

マーチンは、凍りついたとき、実際に手で押しのける動きをすることで、凍りつきを終息させられることを発見しました。この安心感は彼のソマティック・リソースの一つになりました。

身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、ヴァン・デア・コークもまた、身体療法を通じて凍りつきを終息させることのできた人たちを幾度も目にしてきたといいます。

身体療法は、動いても安全だという経験によって、患者が再び現在に身を置くのを助けることができる。

効果的な行動をとることの喜びを感じると、主体感覚と、自分を積極的に防御して保護できるのだという感覚を取り戻せる。

すでに1893年に、トラウマの最初の偉大な探究者であるピエール・ジャネは、「行動を完遂することの喜び」について書いている。

私は、センサリーモーター・サイコセラピーとソマティック・エクスペリエンスを実践するときに、その喜びをいつも目にする。

反撃したり逃げたりしたら経験していたであろうような感じを身体的に経験できると、患者はリラックスし、微笑み、達成感を表現するものだ。(p356-357)

中断されたまま凍りつき、処理中のままフリーズしていた断片的な身体感覚が、どのようなトラウマ経験のなごりなのか気づくことができれば、本当に身体が求めていたことを実行することができます。

そうすれば、凍りついていた行動を完了させることができ、「行動を完遂することの喜び」を味わえます。中断された防衛反応という形で凍りついたままになっていたエネルギーを解放し、人生に活用できるようになるからです。

10.「あなたという人間をいっしょに探究する作業」

ソマティック・エクスペリエンスのセラピーが、探索と発見を繰り返す過程であることを思えば、最初に書いたように、子どものような感性を持っている人に向いている理由がよくわかります。

オリヴァー・サックスが左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)で書いているように、新しい経験を身体で学んでいくというのは、子ども時代にだれもが通ってきた道です。

たしかに子供時代のように学ぶ必要があるし、とつぜんつぎの段階へとすすむ点もおなじである。

下の段階ではその上を想像することはできない。生理機能、すくなくともより高次の生理機能は、経験と行為に依存している、いや記憶にとどめられているからである。

だから、経験と行為が可能にならなければ、神経系、生命体は成熟することも、癒えることもないだろう。(p222)

残念ながら、ひどい逆境のもとで育った人は、探索と発見に満ちた子ども時代を経験できなかったかもしれません。しかし、ソマティック・エクスペリエンスのセラピーは、子どものような感性と好奇心を呼び覚ましてくれます

それは、今まで知らなかった自分を発見する道のりです。不快な症状の寄せ集めでしかなかった自分が、幾多ものリソースを使って生き抜いてきた創造的な人間であることを発見していくセラピーです。

ヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法で書いているように、これは「あなたという人間をいっしょに探究する作業」なのです。

あなたが患者なら、重大な問いは、こうなる。あなたが何者であり、ただの一「PTSD患者」ではなくあなたが何を必要としているのかを、そのセラピストが突き止めたがっていると感じるかどうか、だ。

あなたは診断質問表に載っている症状のリストにすぎないのだろうか。

それともセラピストは、あなたが今しようとしているようなことをなぜして、考えているようなことをなぜ考えるのかを、じっくりと時間をかけて探り当てようとするだろうか。

セラピーは協働の過程であり、あなたという人間をいっしょに探究する作業なのだ。(p348)

この記事では、ソマティック・エクスペリエンスの特徴を、さまざまな資料を参考にまとめてきました。最後にもう一度要点を整理してみましょう。

■トラウマとは生物学的な凍りつき現象
子ども時代に慢性的なトラウマにさらされた人は、「逃避不能ショック」を経験した動物と同様、「凍りつき」や「擬態死」状態から抜け出せなくなってしまう。その結果、常に身体が緊張し、慢性的な疲労や痛み、消化器疾患や喘息症状、パニック発作などに発展する。

■必要なのは「こころ」ではなく「からだ」のカウンセリング
ソマティック・エクスペリエンスは「からだ」のカウンセリングのようなもの。これまで気のせいや思い込みとみなされてきたような、身体に散らばる断片的な不快感をトラウマの手続き記憶とみなして、具体化していく。

【たとえ】身体に散らばる不快感を探るのは、過去のトラウマの断片的な化石を発掘して、全体像を復元していくようなもの

■安全な感覚(ソマティック・リソース)を確保する
トラウマの手続き記憶の本格的な探索に入る前に、まず安心感を感じられる身体の手続き記憶を探す。そうした感覚は不快感に圧倒されてしまわないための「安心の島」となり、トラウマと取り組むための大切な資源となる。

【たとえ】嵐の中で船をつなぎとめて安定させるために、まずいかり(アンカー)を引っかける場所を確保する

■ペンデュレーションによる振り子運動
不快な感覚に圧倒されてしまわないよう、不快な身体の感覚と、安全な場所の感覚とを、交互に行ったり来たりすることを学ぶ。それによって耐性領域を広げ、過覚醒や低覚醒になりかけたら自分で引き戻してリラックスできるようにトレーニングする。

【たとえ】水に爪先を浸けては陸地に引き返すように、少しずつ海の中へ入っていける自信を身につける

■タイトレーションによって少しずつエネルギーを解放する
危険な化学薬品を一滴ずつ混ぜ合わせて安全に中和するように、身体に閉じ込められたまま凍りついているエネルギーを少しずつ安全に解放し、時間をかけてゆっくりとトラウマと向き合う。

【たとえ】今まで歩いていなかった山道を毎日歩いていると、数ヶ月、数年かけて雑草が踏み固められ、新しい道になっていく。

■目的は身体の手続き記憶を書き換えること
ペンデュレーションを繰り返すと、それまでは凍りついているのが当たり前だった感覚が、じつは変化しうるもので、コントロールできることに気づく。意識的にペンデュレーションを繰り返すうちに、身体は凍りつきではなく変動するほうが当たり前だと認識するようになっていき、習慣が書き換わる。

【たとえ】子どものころに身に着けてしまった偏った投球フォームを、コーチの指導のもとで修正していくようなもの。いずれ努力しなくても新しいフォームが自然にできるようになる。

■身体的な経験がなければ変化できない
逃避不能ショックで凍りついた動物は、実際に身体を使って教えられなければ動き出せなかった。凍りついた状態では、概念さえも失っていて、健康な状態を想像できない。自分の身体で体験してみるまでは変化しようがない。

【たとえ】色を見たことがない人に色とは何か説明できない。縄文時代の人は、自分で体験してみない限り、21世紀の生活を想像することもできない。

■好奇心を呼び覚ます発見の連続
ソマティック・エクスペリエンスのセラピーは時間はかかるが、決して退屈な苦行ではなく、新しい発見の連続なので、好奇心が呼び覚まされる。それは、「あなたという人間をいっしょに探究する作業」。

【たとえ】身体を探索して、断片的な感覚の意味に気づいていく過程は、だれかと新しく知り合って友だちになっていくようなもの。

この記事では、わたしの個人的な知識や経験、読んだ本などに基づいてソマティック・エクスペリエンスについてわかったことを、当事者目線でまとめました。

ソマティック・エクスペリエンスについてもっと知りたい場合は、たとえば、専門家による以下のような記事を読んでみるといいかもしれません。

SE™(Somatic Experiencing®)とは | SE Japan

連載 本気でトラウマを解消したいあなたへ 第一回 トラウマの鍵を握るのは、身体です。 – コ2[kotsu]

今のところ、ソマティック・エクスペリエンスは、まだ日本ではそれほど周知されておらず、経験を積んだセラピストが少なかったり、費用面での負担が大きかったりして、なかなかハードルが高い治療法かもしれません。

けれども、この記事で書いた内容に興味を引かれた人がいれば、思い切って体験してみると、世界が変わるかもしれません。

ソマティック・エクスペリエンスから得られるのは、ほかでは得がたい「経験」です。ソマティック・エクスペリエンスの体験は、旅行に行ったり料理を味わったりするのと同じです。

ポジティブ心理学の研究によれば、人は「もの」ではなく「経験」に投資したときにより大きな幸福感を味わえることがわかっています。

経験はわたしたちの人生や価値観を変えます。トラウマによって氷漬けにされた人生でさえも、ときに新たな経験に触れた温かさによって溶かされ、凍りついた時間が動き始めることがあるのです。

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なぜデジタル機器はADHD症状を引き起こすのか―脳はテクノロジーに適応する https://susumu-akashi.com/2018/05/technology/ Tue, 08 May 2018 08:00:20 +0000 https://susumu-akashi.com/?p=7699 続きを読む ]]>

シカゴ美術館付属美術大学の臨床部長として、学生の心のケアにあたるマイケル・ピートラスはADHD評価の専門家でもあり、テクノロジーが作業記憶(ワーキングメモリ)や情報処理の能力に影響を及ぼしているのはまちがいないと言います。

「テクノロジーとソーシャルメディアは、これらの能力に害を及ぼす恐れがある。

その結果、ADHDによく似た状態になるか、もともと患っていた注意力の欠如が目立つようになるんです」(p64)

ジタル機器の使用がADHD症状と関係している?

数年前に初めてその話を聞いたときは驚きましたが、ADHDについて調べていくうちに、様々な要因でADHD症状が引き起こされうること、デジタル機器の使用もその要因の一つだということを知りました。

「私って大人のADHD?」と思ったら注意したいことリスト―成人ADHDの約7割は違う原因かも
大人になってからADHD症状を示す人の少なくとも7割近くは、子どものころにはADHD症状がなく、従来の意味での発達障害ではないと考えられます。近年のさまざまな研究から、大人のADH

冒頭に引用した退屈すれば脳はひらめく―7つのステップでスマホを手放すには、その根拠となる研究の数々が載せられていました。

はじめにことわっておきますが、この記事はデジタルデバイスが脳を破壊したり、発達障害を引き起こしたりする、と主張する内容の記事ではありません。デジタルデトックスの勧めでもありません。

わたしたち人類の脳は、いつの時代もテクノロジーの進歩に適応して変化してきました。現代の急激な環境の変化に対しても、やはり脳は何かしらの変化を遂げてしかるべきでしょう。

私たちは、人類が経験したことのない転換点にいます。これほどたくさんの情報にまみれた時代はありません。

スマホとタブレットが広まったことで、モバイル端末の利用時間は1日当たり平均して2時間57分、画面に向かって過ごすのは11時間にもなります。

これが健康に悪いかどうかはまだわからないものの、テクノロジーが私たちを変えつつあるのはたしかです(そして、それがいい方向へかどうかも、まだわかりません)。(p14)

この記事で考えるのは、デジタル機器に適応した脳の働きが、時として「ADHDによく似た状態になる」ということです。その変化はあくまで環境に脳が適応した結果であって、障害ではありません。

このデジタル時代に、わたしたち人類がどのように適応してきたか、そしてそれがADHDと似た状態をもたらすのはなぜなのか、調べてみることにしましょう。

これはどんな本?

この退屈すれば脳はひらめく―7つのステップでスマホを手放すは、ロイター通信の記者やラジオ司会者などを務めてきたマヌーシュ・ゾモロディによる本です。

ニューヨーク公共ラジオ局(WNYC)で人気番組を司会していた彼女は、リスナーからの反響は申し分なく仕事は順調であるにもかかわらず、心が疲れ、創造性が枯れているような気がしていました。

自分の生活を見直してみた結果、ひっきりなしにスマホの通知を確認し、スケジュールを詰め込んでいることに気がつきます。

様々な研究を調べてみてわかったのは、アイデアが生まれるのは、脳がデフォルトモード・ネットワークという休息状態にあるときだということでした。あまりに刺激が多すぎる日常は、かえって創造性を枯らすのです。

では、デジタル機器との付き合い方を変えれば、もっとアイデアが湧くようになるのだろうか。

2015年2月、彼女はラジオ番組の制作チームと共に、その疑問を調査・検証するため、「退屈すれば脳はひらめく」というプロジェクトを立ち上げます。1週間のあいだデジタル機器との付き合い方を見直し、創造性を高めてみよう、という取り組みです。

驚いたことに、このプロジェクトは熱烈な反響をもって迎えられ、全米各地の2万人以上が参加しました。予想以上に多くの人がデジタル機器の使用について、漠然とした不安を感じていたのです。

この本のタイトルは「スマホを手放す」となっていますが、デジタル機器のない時代を美化するような極端な内容の本ではありません。それは著者の次の言葉からよくわかります。

この本はテクノロジーに反対するものじゃありません。コンピューター、インターネット、モバイル機器は人と人とを結びつけ、私たちにより多くの情報と知識をもたらしてくれます。

そういう結びつけのおかげで、私はフルタイムで仕事をしながらふたりの子どもを育てることができている―これは本当にありがたいことで、世の中がもっとシンプルだった公衆電話の時代に戻りたいとは思いません(そんな時代があったのを覚えていますか?)。(p22)

この本の著者も、「退屈すれば脳はひらめく」プロジェクトの参加者たちも、スマホの利用をやめたわけではありませんでした。ただ、スマホとの付き合い方や距離感を見直すことにしたのです。

その結果わかったのは、デジタル機器の習慣的な使用には、メリットもデメリットもあり、ときにはADHDのような症状を引き起こすこともある、ということでした。

壮大な社会実験

冒頭で書いたように、スマホやゲームなどのデジタル機器は、しばしば子どもや若者の脳に悪影響を及ぼすと騒がれてきました。

そうした反応は、現代に始まったことではありません。いつの時代も、新しいテクノロジーが登場するたびに、危険を騒ぎ立てる人たちがいました。

ミシガン州立大学メディア情報学部教授のキース・ハンプトンは、ソーシャルメディアやデジタル機器、ゲームに対して不安を感じるのは、まえの世代がラジオやテレビ、自動車の発明に不安を感じたのとそっくりだと述べています。

「私たちは何世紀もまえから、新しいテクノロジーが登場するたびに大騒ぎしてきた」と彼は言います。

「14世紀のイスラム教徒の学者は、情報や本の氾濫について議論を交わしていました。

100年まえに父親が食卓で新聞を読むようになったときは、妻や子どもとの会話が減ると心配されました。

今の状況もほとんど同じでしょう。新たな技術が生まれると、必ずひと騒ぎあるものなんです」(p60-61)

テレビが子どもをダメにする、若者の学力低下はゲームのせい、スマホが脳を破壊する。いつの時代も、そんな極端な持論を振りかざしてテクノロジーに反対する人たちがいます。

けれども、歴史が示しているのは、そうしたテクノロジーの変化によって人類の脳が破壊的な影響を被ったことはない、ということです。その代わり、人類はテクノロジーの進歩に柔軟に適応してきました。

ダーウィンが観察したように、生物は環境の微細な変化にも敏感に反応して、自らを適応させていきます。ある能力を発達させる反面、別の能力は退化します。つまり、そこにはメリットとデメリットが共存しています。

テクノロジーの進歩も、人類に常にメリットとデメリットをもたらしてきました。人類はテクノロジーの進歩に適応する中で必ず、快適さや文明の進歩と引き換えに、代償もまた払ってきました。

印刷技術の登場によって本が各家庭にも普及したとき、人類は詳細な記憶力を失いました。本という外部メモリが普及したことで、歴史や物語を細部まで覚える能力が必要でなくなったからです。

記憶を強める3つのステップ 「ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由」
達人たちはどのような3つのテクニックを用いて、記憶しているのでしょうか。Googleで検索できる今の時代に、それは実用的ですか。記憶に関するさまざまなトピックスが凝縮されたとても楽

電球をはじめとする明かりの普及は、夜の眠りの時間をかすめ取り、潜在的な睡眠不足を蔓延させました。かつてはほとんど存在しなかった概日リズム睡眠障害のような病気が当たり前のものになりました。

睡眠の常識を根底から覆してくれた「失われた夜の歴史」―概日リズム睡眠障害や解離の概念のパラダイムシフト
産業革命以前の人々の暮らしや眠りについての研究から、現代人が失った「分割型の睡眠」とは何か考察しました。

スマホをはじめとするデジタル機器というテクノロジーの進歩も、過去の事例と同様のメリット・デメリットをもたらすと考えるのは理にかなっています。

今や印刷物や明かりが文明の進歩になくてはならない役割を担っているように、スマホなどのデジタルテクノロジーも、大きなメリットをもたらしています。

その一方で、必ず適応に伴う代償は生じます。ある特殊な環境に適応した生物は、特有の能力を発達させる反面、別の能力を失います。何かに適応するということは、別の何かに対しては不適応になる、ということです。

セントラル・ランカシャー大学のサンディ・マン博士をはじめ、退屈という心理状態にくわしい専門家によると、こうした不安は的外れではなさそうです。

とはいえ、スマホをはじめとするモバイル機器が脳にどんな影響を与えるかについては、まだ研究が始まったばかり。手元にあるデータはせいぜい状況証拠にすぎまません。

生涯にわたってスマホを使った人とそうでない人を比較する客観的な研究なんて、もちろんないんですから。

つまり、私たちは今、だれもが壮大な社会実験に参加しているわけで、結果を知るには、身をもって経験するしかない―その結果がいいか悪いかにかかわらず。(p19)

冒頭で引用したとおり、現代のわたしたちが時代の転換点にいるのは間違いありません。

証拠が指し示しているのは、人類の脳は確かに新しい環境に適応して変化しており、その変化が従来ADHDと呼ばれてきた症状とよく似ている、ということです。

予測不能な通知に最適化された脳

デジタル機器の習慣的な使用が、ADHDによく似た症状を引き起こす、というのは本当でしょうか。

この本では様々な専門家たちの意見が載せられています。その一人はスタンフォード大学の未来学者アレックス・スジョン=キム・パン博士です。

彼は、デジタル機器漬けの毎日を送っているうちに、自分が変わってしまったことに気づきました。

「テクノロジーのせいで大変なことになりました」と彼は振り返ります。

「シリコンバレーのテクノロジー予測者として、また未来学者として、私は一日中ネットにつながってます。たいていの人と同じく、一度にたくさんのことをしてます。

ひと息入れるひまもありません。そんにことを何年も続けているうちに、深く集中する能力が衰えてきたようなんです」(p98)

パン博士は、デジタル機器の使用が増えるにつれ、「深く集中する能力が衰えてきた」ように感じました。

もともと彼は、最先端の研究者として、「長時間にわたって難解な文書を読みこなし、複雑で深遠なアイディアと格闘できる」能力が自慢でした。

しかし、デジタル機器中心の生活を送っているうちに、そうした深い集中力が衰え、「部屋に何かを取りに行っても、着いたときには何を探しにきたのか忘れてしまう」ようになったといいます。(p98)

パン博士は、他にも奇妙な変化を自覚していました。その一つは、「ファントムガジェットシンドローム」(PGS)。

大げさな名前がついていますが、スマホが鳴っていないときも鳴っているように感じたり、バイブレーションの振動を感じたりしてしまうという、スマホ世代には馴染み深い現象です。

パン博士によれば「つぎの電話やツイートの受信にすぐ気づかなくてはと思うあまり、錯覚が起きる」現象で、着信音に気づくかどうかが生死を分ける研修医に多く見られるそうです。(p105)

前に紹介したように、見てしまう人びと:幻覚の脳科学では、同じ現象が「ベル錯覚」として紹介されていました。もうすぐ音が鳴るかもしれない、と身構えているときに、脳が架空の音を再生してしまう錯覚です。

脳はどこから「もうひとつの世界」を創るのか―創造的な作家たちの内なる他者を探る
創造的な作家たちが思いつくアイデアは、「内なる声」の聴覚イメージや、「内なる別世界」の視覚イメージに支えられている、という点を脳科学の観点から考えてみました。

パン博士はまた、メールをチェックするときや、画面を読み込んでいるときに、息を呑んで画面を見つめていることにも気づきました。

これはテクノロジーライターのリンダ・ストーンにより「電子メール無呼吸症候群」と名づけられているそうです。

メールばかり確認している人たちを揶揄する社会風刺的な名称に思えるかもしれませんが、有名な「エコノミークラス症候群」と同じように、わたしたちの時代特有の現実の健康問題の一つです。

「電子メール無呼吸症候群」は、どうやらトラに出くわすときに息をひそめる現象の現代版のようです。次に来るものに身構えているとき、わたしたちは無意識に不安や緊張を感じて息を殺します。(p105-106)

この習慣は健康に悪影響を及ぼすため、パン博士は、スマホのスクリーンセーバーに「呼吸を忘れない」というメッセージを表示させているそうです。(これは顎関節症の歯列接触癖の予防に使われる手法とよく似ています)

注意のリソースが奪われる

研究によると、スマホ利用者は、自分で思っている以上に注意力が奪われているようです。

ニューヨーク市立大学リーマン校が2015年に行った本格的な調査によると、マンハッタン区内の交通量の多い5つの交差点で、電子機器に気を取られて信号無視をした歩行者は半数近くもいました。(p53-54)

ここ日本でも歩きスマホは危険だと再三再四注意されていますが、電子機器に気を取られて交通法規を無視してしまう人がいかに多いかがわかります。

別の研究では、現代のデジタル機器に慣れた人たちは、仕事中に頻繁に注意力が途切れることがわかっています。

カリフォルニア大学アーバイン校の情報科学教授のグロリア・マークによれば、絶えず集中がさまたげられていると、かなりの悪影響があるそう。

「10年ほどまえは、人の注意は平均して3分ごとに、オンラインとオフラインのあいだを行き来していました。ところが最近のデータでは、オンラインでの作業中、45秒ごとに意識が途切れることがあきらかになっています

…だれかがワープロソフトを使って文章を書いているところを観察してみましょう。その人はやがて、これといった理由もないのにふと作業をやめ、メールを見たり、フェイスブックをチェックしたりします。

このような自己中断は、外部からの中断とほぼ同じくらいよく起きています」(p139-140)

10年前は平均3分間は保たれていた注意力が、なんと45秒で途切れてしまっているのだといいます。SNSの通知や新着メールを気にするあまり、自分から作業を放棄してさまよい出てしまう「自己中断のパターン」がみられるのです。

ほかにも、スマホなどのデジタル機器は、燃える場所に置かれているだけで、注意力を低下させてしまい、対人コミュニケーションの質を悪化させる、という研究まであります。

2014年に発表された「iPhoneの影響―スマホが存在する状況での対面による社会的交流」という研究で、ヴァージニア工科大学の研究者たちは、スマホがあるだけでふたりの知人のあいだに共感が生まれにくくなると報告しました。

たとえ、それがひっそりとキッチンカウンターに置かれているだけでも。(p88)

実験では、100組のペアに10分間の会話をしてもらい、スマホがあるときと無いときの会話内容の質を観察しました。するとどうなったでしょうか。

「年齢、性別、人種、民族、その場の雰囲気にかかわらず、スマホがないときの会話は、あるときに比べてはるかに上質なことがわかった」そうです。

「スマホが目に入らないところで会話をした人は、相手により強く共感していた。ところが、スマホがある状況で会話をした人は、親しい間柄でも、それほど共感しなかった。

さらに、あまり親しくないペアがスマホなしで会話した場合と比べても、共感の度合いは低かった」(p88)

スマホが目の見えるところにあると、SNSなどの反応を確認したくなってそわそわするのかもしれません。それはつまり、注意力のリソースがいつも奪われていることを意味しています。

手元にスマホがあるというだけで、慢性的に注意力散漫になり、目の前の仕事や対人コミュニケーションに集中しにくくなってしまうのです。

こうした注意力の低下は、デジタル機器を習慣的に利用している世代にとってはあまりに日常的なので、問題だと認識していないかもしれません。メールやSNSを確認することが生活に溶け込みすぎて、違和感を持たなくなっています。

その結果、仕事に集中できない、うっかりミスをしてしまう、対人コミュニケーションにおいて不注意が目立つ、といった症状だけを感じ取ります。そして、自分はADHDではないかと疑いはじめます。

でもそれは本当に生まれつきの発達障害なのでしょうか。

確かにADHDの診断を受け、薬を処方されれば、ADHD症状が改善するかもしれません。けれどもADHDの薬が効くからといって、先天的な発達障害である、ということにはなりません。

たとえ環境要因が原因で注意力散漫になっている場合でも、ADHDの治療薬がいわゆるスマートドラッグと同類のものであることを思えば、集中力が改善するのは当然です。(ADHDの代表的な薬のメチルフェニデートは、もともと「疲れた主婦症候群」の薬として宣伝されていたくらいです)

しかし原因となっている環境要因を取り除かず、安易に薬で処理能力を底上げしてしまうなら、短期的には効果があっても長期的には心身の負担を増やすかもしれません。

ADHD研究の混乱に埋もれてしまった、知られざる敏感な子どもたちの歴史
わたしたちが普段見かけるADHDの理解は、医学や教育にとって都合よく編集されたものであり、実際にはもっと複雑で多面的な性質がある、ということを歴史をひもといて考えます。

予測できないトラに身構えている

パン博士が悩まされてた「ファントムガジェットシンドローム」や、すぐ注意がそれる「自己中断のパターン」、対人コミュニケーションの質の低下などには共通点があります。

いずれも、予測不能なタイミングで生じるSNSの通知や、メールの受信、更新情報に身構えている、という点です。肌身離さず持ち歩いているスマホに、どのタイミングで新しい情報が飛び込んでくるかわかりません。

「電子メール無呼吸症候群」は、トラに出くわしたときに息をひそめる現象の現代版だとされていました。デジタル機器の通知は、いわば、いつなんどき野生動物に襲われるかもしれない現象の現代版だといえます。

もちろん、デジタル機器の通知に反応するかどうかで生死が分かたれるわけではありません。しかし、常に脳が待ち構えているという点では同じです。

SNSの人間関係に没頭しすぎている人や、仕事で緊急な連絡が舞い込む人にとっては、通知に反応するかどうかが、社会的な意味での生死をわけるほど重要な体験になっていることもあります。

現代風に言えば、予測不能な通知に備えるとは、脳に常駐プログラムを置いているようなものです。メモリの一部を割いて、バックグラウンドで通知を監視させています。

そのおかげで、友だちがSNSに投稿すればすぐ反応できますし、突然の仕事のメールにも対応できます。けれども、頭の中の常駐プログラムは、メモリを慢性的に圧迫しているので、注意力が欠けたり、忘れっぽくなったりします。

デジタル時代に適応した人たちにADHD症状が見られるのは、生まれつきの発達障害ではなく、ましてやデジタル機器で脳が破壊された結果でもありません。単に予測不能な通知に最適化して、注意力の一部を常に割り振っている結果なのです。

以下の記事の中では、アップルのクレイグ・フェデリギも次のように認めていました。

「スマートフォン中毒」に挑むアップルは、アプリの誘惑との矛盾を解決できるのか:総括・WWDC(5)|WIRED.jp

「わたしたちが別のことをしなければならないときでも『お願いだから携帯を使って』とせがんできます。

何かを見逃してしまうのではないかという恐怖に付け込んで、大量の通知を送ることで注意を引こうとするのです。

ユーザーはどれほど注意力が削がれているか気づいてすらいないかもしれません」

▼家庭内に予測不能なトラの脅威がある場合
スマホの予測不能な通知は命に関わりませんが、文字通り命の危険を感じさせるような予測不能なストレスにさらされて育つ人もいます。

いつ爆発するかわからないアルコール依存症の親や虐待する親など、家庭内における予測不能なストレスにさらされて育った人はADHDと類似した症状を抱えることが知られています。

よく似ているADHDと愛着障害の違い―スティーブ・ジョブズはどちらだったのか
アップルの故スティーブ・ジョブズはADHDとも愛着障害とも言われています。両者はよく似ていて見分けがつきにくいとされますが、この記事では(1)社会福祉学の観点(2)臨床の観点(3)
ACE研究が明らかにした「小児期逆境後症候群」ーなぜ子ども時代の体験が脳の炎症や慢性疾患を引き起こすのか
17000人以上のデータから子ども時代の逆境体験と成人後の体調不良の関連性を導き出した画期的なACE研究の取り組みをもとに、幼少期の経験がわたしたちの一生にわたり、心身の健康にどん

写真撮影による記憶の損傷効果

デジタル時代に適応した脳の変化として、もう一つ興味深いのは、本の登場がもたらした記憶力の衰えと同様の変化が、視覚的な記憶において生じていることです。

印刷物がほとんどない時代、人は聞いた事柄を記憶する必要がありました。しかし、なまじ文書として情報を保存できるようになると、本を読んだり情報を探したりする能力と引き換えに、正確に記憶する能力は退化し、衰えていきました。

(興味深いことに、目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)によれば、現代でも、失明した人たちは、文字情報に頼れなくなるために、優れた記憶力を発達させる場合があるようです)

画像についても、同じことが起こるのでしょうか。何年も前に読んだマイケル・J・フォックスのマイケル・J・フォックスの贈る言葉――未来へ踏みだす君に、伝えたいことの中に、こんなエピソードがあったのを思い出しました。

スナップ写真を撮るのがいやなのは、手が震えてその結果写真がぶれてしまうことと関係があるかもしれない。だが、それ以外にも理由がある。

カメラを持ち上げ、それを自分と被写体のあいだに構えることが、ぼくをその経験から切り離してしまう。

思い出は印刷紙の上に残るか、デジタル化されて保存され、いつでもダウンロードできる。だが、感情的な余韻は減ってしまう。

へんに聞こえるかもしれないが、カメラを手探りで取り出し(オーケー、この際パーキンソン病は関係ない)、ピントを合わせシャッターを切るまでに、自分がその瞬間から抜け出てしまうのがぼくにはわかるのだ。(p113-114)

「マイケル・J・フォックスの贈る言葉」に学ぶ、病気を受け入れ、今を生きるということ
若くして若年性パーキンソン病と診断されたマイケル・J・フォックスが今年ついに本格復帰を果たしました。彼が未来へと踏み出すことのできた秘訣は何でしょうか。書籍「マイケル・J・フォック

マイケル・J・フォックスは「へんに聞こえるかもしれないが」と言い添えていますが、さすが名俳優の感性と言うべきでしょうか。彼が感じていた懸念は、退屈すれば脳はひらめく―7つのステップでスマホを手放すによれば、確かに現実のものでした。

フェアフィールド大学の心理学教授のリンダ・ヘンケルは、写真を撮ることが経験や記憶にどんな影響を与えるか調べるため、美術館のガイドツアーで、写真を撮った場合と、写真を撮らなかった場合の記憶力の違いについて調査を行ないました。(p125)

調査の結果、なんと写真を撮った作品については、細部を覚えていないか、作品そのものさえあまり覚えていないことがわかりました。マイケル・J・フォックスの直感通りです。

この現象は、「写真撮影による記憶の損傷効果」と名づけられました。「カメラに仕事をアウトソースするため、複雑で感情のこもった情報処理がまったく行なわれない」ために、見てはいても、記憶が形成されないのだそうです。(p125)

かつて本の普及によって、物語の詳細を記憶する能力が衰えたように、写真の普及によって見た物の詳細を記憶する能力が損なわれていることがわかります。

興味深いことに、この「写真撮影による記憶の損傷効果」は、被写体をズームして撮ってもらったときには起こらなかったそうです。

それはつまり、問題は写真を撮る行為そのものではなく、今この瞬間の経験から切り離されてしまうことにある、ということを示しています。

マイケル・J・フォックスが述べていたように「カメラを持ち上げ、それを自分と被写体のあいだに構えることが…経験から切り離してしま」います。じっくり観察する代わりに、写真を撮るだけで終わり、になってしまいます。

これはデジタル時代のわたしたちにありがちな「あとで読む」と同じです。ちょっと記事を読んだだけで、ブックマークやクリップして、読むのを先送りしてしまい、結局読まないまま終わる現象です。

写真を撮るときも同様に、目を惹かれるものがあれば、じっくり観察することもなく撮影という形で「ブックマーク」しようとします。そして、いつでも見れるという安心感と引き換えに、じっくり観察するという体験を放棄してしまいます。

理由はどうあれ、「写真撮影による記憶の損傷効果」もまた、見たものを思い出せない、という点では、ADHDの症状とよく似ています。

この現象もやはり、テクノロジーに適応した脳の変化であるにもかかわらず、あやまって発達障害の症状と自覚されてしまっているケースがあるでしょう。

直線的ではない読み方

ADHDの人は見たものをよく覚えていないだけでなく、読み飛ばしが多いこともしばしばです。

この読み飛ばしという現象も、デジタル機器に適応した結果起こった、読書スタイルの変化かもしれません。

タフツ大学読書言語研究センター所長のメアリアン・ウルフによれば、デジタル機器に慣れた人と、それ以前の世代の人とでは、文書の読み方に大きな違いが見られました。

認知神経科学者の彼女は、マイクの事例やデジタル読書について分析しています。

「研究でわかってきたのは、インターネットやデジタル読書に費やす時間が長くなると、いろいろな点で読書に関わる脳回路に変化が起きるということです」(p74)

同じ内容を読んでいても、デジタル読書とアナログ読書とでは感じ方が異なっているというのは、かねてから様々な研究で言われていたことです。

たとえば、印刷された紙とデジタルディスプレイでは、情報が目に届く過程が異なっています。紙媒体の文書は光源からの光を反射したものですが、デジタルディスプレイで読む文書は光源からの光が透過したものです。

「紙媒体の方がディスプレーより理解できる」ことが脳科学実験で判明 - ITmedia eBook USER

ではKindleのような紙に近い電子ペーパーを使って読書すれば、アナログ読書と同じ体験ができるのか、というと、そう単純な話でもないようです。

ノルウェーのスタヴァンゲル大学のアンル・マンゲンの研究、50人の参加者にペーパーバックとKindleで同じ短編ミステリーを読んでもらった。

すると、物語に対する感情的な反応にはこれといったちがいはなかったものの、できごとの時系列については解答に大きな差がありました。

作品のなかの14のできごとを正しい順番に並べてもらうと、キンドル利用者の正答率がかなり低かったんです。(p74)

この研究では、Kindleとペーパーバックで同じミステリを読んだところ、Kindleの電子書籍で読んだ人たちは、「できごとの時系列」があいまいになっていた、とされています。

ペーパーバックの場合、手でページをめくる、という動作が場所や時系列の手続き記憶と結びついているのかもしれません。わたしたちは本を読むとき、どのくらい読み進めたかを目だけでなく、手を通しても判断しています。

デジタル機器で日常的に読書する人たちは、目の使い方それ自体が変化していることもわかっています。

インターネットが普及してから、読み方そのものが大きく変わったことがわかりました。かつて読むということは、ひとつの線に沿ってまっすぐに読む行為でした。

…ところがインターネットが広がると、ハイパーリンクや画面にスクロール、読みきれるはずのない膨大な情報を目の当たりにして、直線的ではない読み方をしないといけなくなりました。(p72-73)

従来のペーパーバックの書籍であれば、製本されたページに沿って、前から順に読んでいく体験が当たり前でした。小説にしても学術書にしても、順番に読み進めなければ、話の筋を追えなくなってしまいます。

フリオ・コルタサルの石蹴り遊びのような、本のあちこちを飛びながら読むことで異なった体験できるという斬新な本が登場したのは、本は前から順番に読む、という暗黙の了解があったからこそです。

しかし現代のデジタルデバイス上の読書では、石蹴り遊び式の読書こそがスタンダードで、前から順番に読むという体験は事実上存在しません。読者はハイパーリンクをたどって自由に読み進め、一人として同じ読書体験を持ちません。

脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線によれば、デジタル時代に適応した人たちの目の動きは、ペーパーバックで読書していたころの目の動きとは異なっています。

人類は、ハンターが遠くから獲物の様子を窺う、採集者が小さな種子を拾うなど、さまざまな距離で対象を見られるよう進化してきた。

今日人々は、コンピューターやスマートフォンで文字を読んだり、急いで読んだり、すぐ目の前にあるものばかりを見ることに一日のほとんどの時間を費やすようになりつつある。

急いで本や新聞を読む人は、「一目」で何行もの文章をとらえるためにすべての語をはっきりと見ているわけではない。それを何千回と繰り返せば、このような目の使い方を脳に配線する結果になる。(p328)

デジタル時代の読書は、情報があふれすぎているがために、じっくり精読する暇はありません。ざっと全体を概観し、重要そうな場所を飛ばし飛ばし読むという形式を取ります。

そういうデジタル的な読み方に慣れてくると、本や新聞を読む時にも同じ目の使い方をするようになります。じっくり時間をかけて情報を吸収するのではなく、手っ取り早く必要そうなところだけ斜め読みする読み方です。

その結果、重要な情報の読み飛ばしや、当てずっぽうの理解につながるのは言うまでもありません。読んだつもりが、肝心なところを見落としていた、ということが多くなりがちです。

説明書や指示書の大事な情報を読み飛ばすことが頻繁にあれば、もしかして自分はADHDのせいでうっかりミスが多いのだろうか、と思い始める人も当然出てくるでしょう。

しかし本当にそうでしょうか。情報にあふれた時代に適応するために、子ども時代から身につけた読書スタイルのせいで見落としが多い、ということは考えられないでしょうか。

もしそうならそれは発達障害ではありません。大量の情報をさばくという意味では、決して悪くない読み方、目の使い方なのです。しかしその代償として、重要な情報まで読み飛ばしてしまう確率が高まっているだけなのです。

「すばらしい召使だが、主人になるには不十分」

こうして様々な研究や事例を調べてみると、冒頭に引用した退屈すれば脳はひらめく―7つのステップでスマホを手放すの言葉の意味がよくわかります。

シカゴ美術館付属美術大学の臨床部長として、学生の心のケアにあたるマイケル・ピートラスはADHD評価の専門家でもあり、テクノロジーが作業記憶(ワーキングメモリ)や情報処理の能力に影響を及ぼしているのはまちがいないと言います。

「テクノロジーとソーシャルメディアは、これらの能力に害を及ぼす恐れがある。その結果、ADHDによく似た状態になるか、もともと患っていた注意力の欠如が目立つようになるんです」(p64)

ここで「もともと患っていた注意力の欠如」に言及されているように、デジタル機器の使いすぎには、生来のADHD傾向のドーパミンの不安定さからくる依存しやすさも関係しています。

しかし単純にもともとADHDだから依存しやすい、という因果関係だけでなく、デジタル機器を使いすぎているせいで、「ADHDによく似た状態」が強化されて「目立つようになる」ことも知っておく必要があります。

その理由は、ここまで見てきたとおり、予測不能なタイミングで入ってくる通知に常に脳が注意力を配分しているため、また見たものを「あとで読む」処理にまわしたり、大量の情報をうまく受け流す読み方をしたりしてしまうためでした。

どれも決して脳に障害が起こっているわけではなく、脳が破壊されたわけでもありません。デジタルテクノロジーの環境に適応しすぎた結果、日常生活において支障が生じているだけです。

症状だけ見れば、ADHDにそっくりかもしれませんが、決して先天的なものではありません。自分の生活を振り返って、原因をしっかり見極める必要があります。

集中するのに苦労している人は、根本的な原因を突きとめる必要があります。

原因が寝不足にあるのか、栄養不足なのか、テクノロジーの使いすぎなのか、精神的に不安があるのか、それとも本当にADHDなのか、それらによって治療方法がちがってくるからです (ADHDなら刺激薬が処方されます)。(p66)

もし環境要因が原因であれば、安易に薬物療法で解決しようとするよりもまず、普段の生活習慣を見直すべきでしょう。たとえ もともとADHD傾向がある場合でも、環境要因によって症状が増幅されている可能性を考えるべきでしょう。

テクノロジーに適応すること自体は悪くありません。しかしデジタルの世界に適応しすぎたあまり、現実の日常生活に対して不適応を起こしているとしたら、それは過剰適応であり、依存症にも足を踏み入れています。

Googleやピクサーなどに時間管理術をレクチャーしているコンサルタント、グレッグ・マキューンはこう言ったそうです。

「テクノロジーはすばらしい召使だが、主人になるには不十分」(p231)

もしデジタルの世界に気を取られるあまり、現実世界で不注意が生じ、仕事や人間関係がおろそかになっているのだとしたら、それはテクノロジーに振り回されすぎていることを意味しています。

テクノロジーが「主人」になり、自分が「召使」のようになっているとしたら、薬で不注意を抑えたところで、生きづらさは変わりません。

問題は、主体性をもってテクノロジーを活用できていないことから生じているからです。

デジタルテクノロジー開発の最先端にいる人たちが、自分たちの子どもに、テクノロジーを使わせるよりも、まず自己コントロール能力を育ませようとしている、というエピソードには考えさせられます。

テクノロジー業界のリーダーたちが、わが子には自分がつくった機器やソフトウェアを使わせないという話を聞くと、複雑な気分になります。

『ニューヨーク・タイムズ』は2011年のある記事で、イーベイの最高技術責任者をはじめ、グーグルやヤフー、アップル、ヒューレットパッカードの経営幹部やエンジニアが、カリフォルニア州ロスアルトスにある、テクノロジーとは無縁のシュタイナー教育の学校に子どもたちを通わせていると伝えました。

シリコンバレーのこの学校では、木製のテーブル(おもちゃから家具まで自然の素材を使う方針)を囲んで料理や編み物などをさせ、7年生(日本の中学1年生)になるまではコンピューターに触れさせない方針です。(p201)

続く部分によると、あのスティーブ・ジョブズもまた、子どもたちにテクノロジーの利用を制限し、食卓でのデジタル機器の使用を禁じていたそうです。(p201-202)

こうしたテクノロジー開発者たちは、いずれも、テクノロジーは主人ではなく召使として用いた時にのみ役立つということをわきまえていました。それゆえ、子どもたちにまず自己コントロール能力を身に着けさせようとしています。

主体性をもって舵取りする

この記事で見てきたデジタル機器に適応しすぎたことによるADHD症状の大半は、主体性をもってデジタル機器に接することで改善することができます。

予測不能な通知に脳が身構えてしまうことによる注意力の占領や自己中断のパターンは、通知をオフにしたり、デジタル機器の電源を切る時間を設けることで防げます。

歩きスマホによる信号無視や、手元にスマホがあることによるコミュニケーション能力の低下は、歩いている時やだれかと会話するときには、スマホをしまっておくという当たり前のマナーを徹底することで回避できます。

「写真撮影による記憶の損傷効果」はマイケル・J・フォックスに倣って「今ここ」の体験に集中することで避けられます。

この本でも紹介されている、チャディー・メン・タンが考案した、有名なGoogleのマインドフルネスのプログラムを参考にして、「今ここ」に自分をつなぎとめる練習をするのもいいでしょう。(p238)

読書体験が変わってしまったがために読み飛ばしが多くなる現象は、意識的に深い読書をする時間をとることで改善できるでしょう。大量の情報をさばくデジタル時代の読み方と同時に、昔ながらの熟読もできるバイリンガルを目指すということです。

理想を言えば、これからの世代は、熟読と流し読みの両方の能力を身につけるべきでしょう。文章を理解するふたつの方法を脳が同時に習得するという意味で、ウルフが「バイリンガル脳」と呼ぶものです。

…ウルフは『プルーストとイカ』にこう書いています。「したがって、いつでもワンクリックで得られる豊富な情報をうまく利用するには、しっかりと舵取りをして情報を解釈できるように、実行機能、体系化、批判的視点、自己監視の技能を駆使することが求められる」(p76)

ここでもやはりポイントは「しっかりと舵取り」をする能力、つまり、テクノロジーの召使となって振り回されるのではなく、自分が主人となってテクノロジーをコントロールし、デジタル世界に適応した脳と、日常世界に最適化された脳とを使い分けられるようになる能力です。

自己コントロール能力を育むことがADHD症状に効果があることは、近年の多くの研究によって裏づけられています。

たとえ自分には意志力がないと感じ、挫折を繰り返してきたとしても、適切な支援やツールの力を借りれば、自己コントロール力は強化できます。

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「親友でも恋人でもない、ただの道具に戻った」

この記事で考えたことを、もっとシンプルに言うとしたら、テクノロジーに気を取られるあまり、注意力散漫になっている人は、デジタル機器を「恋人」にしているようなものだ、ということです。

今回紹介した退屈すれば脳はひらめく―7つのステップでスマホを手放すの著者マヌーシュ・ゾモロディの「退屈すれば脳はひらめく」プロジェクトに参加し、デジタル機器との付き合い方を見直した参加者の一人は、次のような感想を送ってきたといいます。

シカゴのゾーイは、「スマホの存在感は薄れ、まえほど大切じゃなくなった。親友でも恋人でもない、ただの道具に戻った」と言っています。(p250)

昔から恋は盲目と言われますが、誰でも恋にのぼせると不注意になります。恋人のことしか見ておらず、それ以外のことは考えられないからです。テクノロジーに適応しすぎた人が不注意になるのもそれと似たようなものです。

今やデジタルテクノロジーの存在感は日ごとに大きくなり、インターネット上には魅力的なコンテンツが満ちあふれているので、いつの間にか現実の家族よりも、目の前の仕事よりも、日常の寝食よりも、デジタル世界の出来事が気になってしょうがなくなってしまうことはありえます。

なにせ、この本にこんなことが書かれているくらいです。

たとえば、ユーザーエクスペリエンス〔電子機器を使用したことで起こる反応(使用感、満足度など)〕の専門家で、現在グーグルでデザイン戦略を担っているゴールデン・クリシュナは、こんな皮肉を言っています。

顧客を「ユーザー」と呼ぶのはドラッグの売人くらい―それとテクノロジーの関係者、と。(p58)

デジタルテクノロジーの技術者たちは、ビックデータの傾向を分析し、より魅力的なコンテンツを作り出す専門家なので、まるで恋をするかのようにやみつきにならせる方法をよく知っています。

ユーザーがデジタル世界に夢中になり、恋に落ちるのは開発者の狙い通りです。

でも、どんなに楽しくても、どんなに魅力的でも、デジタルの世界は現実世界の代わりにはなりません。デジタル世界という「恋人」に熱を上げるあまり、現実世界の大事な人や仕事への注意がおろそかになったら取り返しがつきません。

シェリー・タークルは研究を進めるなかで、ある悪気のない父親のエピソードに出会いました。

その父親は娘とのきずなを深めたくて、学校の遠足に参加したそうです。ところがバスに乗るところから始まって、遠足のあいだじゅう写真を撮り、それをフェイスブックにアップし、みんなするように「いいね!」の数を確認していました―もう一時間以上も口をきいてないよ、と娘から言われるまで。(p120)

幸い、デジタル機器が原因で起こっている不注意やうっかりミスといったADHD症状は、デジタル機器との付き合い方を見直すことで十分に改善できます。

「退屈すれば脳はひらめく」プロジェクトの参加者たちが身をもって実感したように。

ディーンエージャーは授業をよく理解できるようになり、作家は原稿を書き上げ、会社員はストレスに強くなり、起業家は自分自身やビジネス上の難しい問題についてじっくり考える時間がとれるようになりました。

ブルックリン在住のカーターは「まるで長かった頭の冬眠から覚めたようだ」と言ったけど、これは多くの参加者の声でもある。

そして参加者たちは、スマホとの関係を見直しました。(p250)

恋が脳機能障害でないように、デジタル機器が「恋人」になることに起こる不注意も障害ではありません。生活を見直せば恋は冷めます。そうすれば不注意も収まります。

もし、デジタルデバイスが「恋人」のようになっていて、不注意やうっかりミスのようなADHD症状のために生活に支障をきたしている人がいたら、ぜひ一度この退屈すれば脳はひらめく―7つのステップでスマホを手放すを読んでみてください。

もしかすると、長いこと紙の本など読んでいないかもしれません。でも、この本はそんな人でも読みやすいように配慮された、親しみやすい書き方の本です。

「退屈すれば脳はひらめく」プロジェクトで用いられた7つのステップをはじめとする具体的なアドバイスや取り組み事例がたくさん載せられているので、きっとモチベーションが高まるはずです。

わたしはこの本を読んでみて、SNSに向けていた注意力のリソースを再配分し、もっと創造的な活動に充てたいと思うようになりました。

もちろん、デジタル機器との付き合い方を見直すといっても、必ずしもSNSをやめる必要はありませんし、スマホを手放す必要もありません。どんな付き合い方を選ぶかは一人ひとり異なります。

自分でデジタル機器との付き合い方を選ぶということ、自分なりの付き合い方を見つけるということこそが、主体性をもってテクノロジーと付き合う、ということだからです。

デジタル機器という「恋人」に気を取られすぎていた注意力を引き戻すことができれば、そのときこそ、現実の家族に、恋人に、友だちに、仕事に、趣味に、十分に注意を傾けて、存分に創造性を発揮できるようになるでしょう。

▼時間の余裕を持つ大切さ
この記事ではテーマからそれるので扱いませんでしたが、この本では、デジタルデバイスに時間を取られすぎて、休息のための時間が減り、創造性が低下することも指摘されていました。

スケジュールを詰め込みすぎるせいで、注意力や集中力が低下し、ADHDのような症状が引き起こされることについては、行動経済学の観点からも研究されています。

いつも時間がない人の処方箋―常に手術室が足りない病院が実践したたった一つのこと
いつも時間がなく、生活が混乱している人に本当に必要な処方箋は何でしょうか。行動経済学の本に基づき、スラック、トンネリング、処理能力という観点から、悪循環から抜け出す方法を解説します
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うつ病や自殺は心の弱さではない科学的理由―ウィリアム・スタイロンの闘病記から学ぶ https://susumu-akashi.com/2018/05/styron/ Fri, 04 May 2018 21:09:06 +0000 https://susumu-akashi.com/?p=8112 続きを読む ]]>

鬱病は偏りなく手を伸ばして来るが、かなりの信憑性で実証されているのは、芸術家的なタイプ(とくに詩人)がとりわけその病魔に弱いということだ。

そして、この病気が深刻な臨床的表われ方をすれば、犠牲者の20パーセント以上が自殺の形をとる。このようにして倒れた芸術家たちの例を現代と近代からほんのいくつか拾うだけで、悲しくもあるが、キラ星のような名簿となる。

ハート・クレイン、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、ヴァージニア・ウルフ、アーシル・ゴーキー、チェーザレ・パヴェーゼ、ロマン・ガリ、ヴェイチェル・リンゼイ、シルヴィア・プラス、アンリ・ド・モルテルラン、マーク・ロスコ、ジョン・ベリマン、ジャック・ロンドン、アーネスト・ヘミングウェイ、ウィリアム・インジ、ディアヌ・アルビュス、タデウシュ・ボロフスキ、パウル・ツェラン、アン・セクストン、セルゲイ・エセーニン、ウラジーミル・マヤコフスキー……とリストは続く。

…このように呪われたすぐれた創造的な男女の人物を思うとき、その幼少時代に注目しないではおれない。知られているかぎりでは、病気の種が強い根をおろすのは幼少時代なのだ。(p55-57)

れは、作家ウィリアム・スタイロンの闘病記、見える暗闇―狂気についての回想に載せられているリスト、悲しいことに自殺によって命を断った作家たちのリストです。もし日本人の名前も付け加えるとしたら、芥川龍之介や太宰治、三島由紀夫などが名を連ねることでしょう。

スタイロンは、自身がうつ病を発症したことをきっかけに、自殺した作家たちの苦悩に気づくようになりました。

そして、自殺が頻繁に心の弱さと結びつけられることに当惑し、自殺という形で命を奪われた人たちの名誉のために声を上げ、うつ病の苦しみがいかに健康な人たちの想像とかけ離れた、筆舌に尽くしがたいものかを描写しました。

この記事では、スタイロンの闘病記を紹介するとともに、自殺が心の弱さの表れではないと言えるのはなぜかを考えます。

そして、今や「精神疾患」「精神病」「心の病」といった概念は完全に時代遅れであり、うつ病もまた身体疾患とみなすべきである、という近年の科学的研究を取り上げたいと思います。

これはどんな本?

 見える暗闇―狂気についての回想は、作家のウィリアム・スタイロンが、60歳ごろ、1985年6月から、1986年2月にかけて急性のうつ病にかかり、生死の淵をさまよった経験をノンフィクション文学としての振り返ったエッセイです。

スタイロンは、アウシュヴィッツでどちらかの子ども殺さねばならない悲痛な選択を強いられた「ソフィーの選択」や、奴隷反乱の主導者となった黒人男性の生涯を描いた「ナット・ターナーの告白」などで知られる小説家です。

この本も自分の体験を回想したものながら、小説家らしい筆致に満ちていて、そこかしこに文学への言及が散りばめられています。翻訳者の方によると、タイトルのDarkness Visible(見える暗闇)という表現も、ミルトンの「失楽園」第一部63行から取られているそうです。(p133)

この本を読もうと思ったのは、ポール・ボガードの本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかの脚注で紹介されていたからでした。

うつ病の凄まじい苦しさについて知りたいなら、ウィリアム・スタイロンの『見える暗闇』(大浦暁生訳 新潮社)は必読である。出版に先行してヴァニティ・フェア誌に掲載されたエッセイは、読者を夢中にさせた(http://www…)。

見事な表現で描かれたスタイロンの恐ろしい実体験には、他人からの共感を望む当事者本人、その家族や友人、またはうつ病を理解したいと願う誰もが引きずり込まれるだろう。(p377)

またオリヴァー・サックスも、音楽嗜好症: 脳神経科医と音楽に憑かれた人々の第25章「哀歌―音楽と狂気と憂鬱」の中で、この本の中のエピソードに触れています。(p402-403)

スタイロンのうつ病の体験は一時的なものだったので、何年も何十年も慢性的に闘病してきた人からすれば、本当の苦しみはこんなものではない、と思えるかもしれません。

とはいえ、それまでは健康だった人が突如として深刻なうつ病に陥ったからこそ、健康な状態とうつ病の落差をはっきり比較することができ、この本の「凄まじい苦しさ」についての描写が生まれたともいえます。

子どものころから長年、慢性的な疾患を抱えている人は、かえって感覚が麻痺してしまい、自分がどれほど恐ろしいものを背負っているかはっきり意識していないことが多いからです。

なぜ子ども虐待のサバイバーは世界でひとりぼっちに感じるのか―言語も文化も異なる異邦人として考える
子ども虐待のサバイバーたちが、だれからも理解されず、「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる」理由について、異文化のもとで育った異邦人として捉える観点から考察します

この記事ではもう一冊、小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)を繰り返し参照しています。

この本は、以前の記事でも紹介した、小児期の逆境的体験と成人後の様々な病気の関連性についての科学的研究を取り上げたもので、ウィリアム・スタイロンが経験したうつ病や自殺衝動を、最新の脳科学的研究に照らして分析するのに役立ちます。

うつ病に襲われた作家たち

スタイロンの闘病記が興味深いのは、大勢の作家たちとの交流が記録されていることでしょう。作家はおそらくその敏感な感性から、うつ病や双極性障害の比率が高いことが知られてます。

創造的な人がもつ複雑で多面的な人格の10の特徴―HSPや解離とのつながりを考察する
創造的な人は「複雑な人格」を持っている、という心理学者チクセントミハイの分析を手がかりにして、感受性の強さHSPや、自己が複数に別れる解離が、創造性とどう関係しているのかを考察しま

スタイロンの周りにいた人たちもそうでした。スタイロンが若い頃に惹かれた作家アルベール・カミュもその一人です。

スタイロンはカミュの著作に心酔し、「ナット・ターナーの告白」を書くときには、カミュの小説「異邦人」の主人公ムルソーの「宇宙的な孤独」の表現から、強く影響を受けたと回想しています。(p34)

やがてスタイロンの著作がカミュの目に留まり、共通の友人であった作家ロマン・ガリの手ほどきで、スタイロンはカミュと対面できる一歩手前までやってきました。

ところが、もう少しでカミュに会えそうだった矢先、カミュが46歳で自動車事故で死んだという知らせを受け取ります。1960年のことです。

スタイロンは、その訃報が頭から離れなくなり、カミュの事故を分析した結果、「自殺類似行為、すくなくとも死の遊戯の色合いをおびた向こう見ずの要素がある」ことに気づきました。(p36)

そして、カミュがかねてから、自殺願望を持っていたのではないか、と思い当たります。カミュが著作の中で自殺のターマを繰り返し取り上げていたことを思い出したからです。

この事件の推理には、カミュの著作にみられる自殺のテーマを振り返ってみることが避けられないだろう。

今世紀のもっとも有名な知的発言の一つが『シジフォスの対話』[シーシュポスの神話 (新潮文庫)のこと]の冒頭にある。

「真に重大な哲学的問題はただ一つしかない。それは自殺の問題だ。人生に生きる価値があるかないかを判断することは、哲学の基本的問題に答えることになる」(p36)

しかしながら、カミュに傾倒しているスタイロンにとっても、カミュが執着する自殺のテーマは理解しがたいものでした。

初めてこれを読んだときわたしは当惑して、そのエッセイを読みすすめながらほとんどそのことばかり考えていた。

エッセイの説得力のある論理と弁舌にもかかわらずわたしには理解できない部分が多く、たえず冒頭の命題に戻ってはそれに取り組んだが、うまくいかなかった。(p36-37)

カミュの友人だったロマン・ガリも、カミュがかねてから自殺をほのめかすのを聞いていました。ガリは、カミュはうつ病だったのではないか、と推測するようになります。自分と妻のジーンがうつ病になってカミュの気持ちがわかってきたからです。

1978年8月、ガリはふたたびカミュの鬱病に関する憶測をながながと論じることになる。

…ガリと話しながら感じたのは、繰り返し起こるカミュの絶望感がいかに深刻だったかを語るガリの想定のいくらかが、ガリ自身もまた鬱病に悩み初めているという事実のために重みを増している、ということだ。(p38-39)

しかしこの時もまたスタイロンは、ガリとその妻ジーンのうつ病の悩みを理解することができませんでした。

ガリはジーンも自分が苦しんでいるのと同じ病気の治療を受けていると言って、抗鬱薬の薬物治療にいくらか言及したが、こうした話はいずれもそれほど強く頭に残らなかったし、またあまり意味のある話でもなかった。

わたしが比較的無関心だったというこの記憶は重要で、本人以外の者がいかに病気の本質を把握できないかをこうした無関心は雄弁に物語っている。

カミュの鬱病、それにこんどはロマン・ガリの、そしてジーンも確実にかかっている鬱病は、同情を寄せていたにもかかわらず、わたしにとっては具体性のない病気だった。

精神が陰険な溶解を続けているときに多数の犠牲者たちが経験する苦痛の、真の形態や性質にうすうす気づくことさえなかった。(p40-41)

やがて1980年、カミュの死の20年後に、ロマン・ガリは頭をピストルで撃ち抜いて自殺してしまいます。スタイロンは、カミュとガリという、尊敬する作家仲間を相次いでうつ病で失うことになりました。(p44)

そしてついに1985年、今度はスタイロン自身がうつ病に襲われます。耐えがたい嵐のような苦痛にさらされ、スタイロンはそのとき初めて理解しました。

自分が尊敬する二人の作家を死に追いやったもの正体、それは「激しいかたちでそれを経験したことのない者にはほとんど理解できない」ものでした。(p14)

「あまりに異質なこの苦痛の形を…想像できない」

この本の中で、スタイロンは、うつ病の苦しみは実際にそれを味わった者でなければ理解することはできず、想像すらできない、と繰り返し語っています。

スタイロンは『鬱病を表す「デプレッション」という語に強い反対の意志を示す必要があると感じ』ました。そんな日常的な言葉では、到底表現できないような苦痛だからです。(p58)

落ち込み(depression)という日常的な言葉で表現されるせいで、健康な人たちは、うつ病の苦しみは、日常の憂うつな気分の延長線上のあるものだと安易に想像してしまいます。(これは慢性疲労症候群という病名が抱える問題点とよく似ています)。

しかし、その実態は、日常的な憂うつさとはかけ離れた、似ても似つかぬものであり、当事者さえも容易に表現できないほどの苦痛、健康な人からは想像すらできないほどの苦痛であることが、この病気の無理解につながっていると言います。

「表現できない」という言葉がおのずと出てくるのは偶然ではない。

強調しなければならないが、もしこの苦痛が容易に表現できるものであれば、古代からその苦しみに悩む無数の人びとの大部分は友人や愛する人たちに(医者にさえも)苦悩の実際的な広がりの一部を自信をもって描き出すことができ、一般的に欠けている理解をおそらく引き出すことができただろう。

このような無理解はふつう共感の欠如によるものではなく、健康な人びとが日常経験とあまりに異質なこの苦痛の形を、基本的に想像できないことによる。(p28)

うつ病の症状は、健康な人が想像できる憂うつさや落ち込みの極端なものなどではなく、「日常経験とあまりに異質な」想像の及ばない熾烈なものなのです。

スタイロンは、作家らしく、さまざまな語彙と比喩を用いて、自分が経験した苦痛をなんとかして言葉に置き換えようと試行錯誤しています。

それは「なじみ深い処理できる憂鬱の気持をはるかに超える落ち込み」であり、「極度の不快感の中に呆然自失して身をまかせ」る「生ける屍ゾンビ」のような状態です。(p14,28,30)

しかしどんな表現もこの病気の苦痛を伝えるには的外れで上滑りするだけです。「長年のあいだうつ病とたたかったウィリアム・ジェイムズは適切な描写をさがすのをあきらめ」たほどでした。(p28)

それでもスタイロンは、少しでもうつ病の苦痛を訴えるべく、二つのたとえ話を考え出しました。1つ目は、水没する町のたとえです。

その秋、病気がしだいに身体組織を完全占拠しようとしていたとき、わたしは精神自体が洪水によって少しずつ水没してゆく小さな町の旧式電話交換機のようなものだと思いはじめた。

一つまた一つと正常な機能が水に沈みはじめ、肉体機能のいくつかと本能や知性の機能のほとんどすべてをゆっくりと切断していく。(p75)

うつ病というと、その名前のせいで、気分の落ち込みや精神的な苦痛が主な症状だと誤解されがちです。

しかし実際には、精神だけでなく肉体までもが、つまり全身の機能すべてが、徐々に侵食され、水に飲まれていくような恐怖、生きながら水没していく体験なのです。うつ病の洪水はやがて首元まで迫り、他の人とつながるための機能を切断していきます。

2つ目のたとえは歩行傷兵のたとえ、つまり大怪我を負ったまま歩き続けなければならない兵士の苦痛のたとえです。

わたしは軍隊用語を借用してこれを歩行傷兵の状態と呼んできた。

実際ほかの重病だったら、同様の荒廃状況を感じる患者はベッドにじっと寝たままだ。おそらく鎮痛剤を与えられた生命維持装置の管や線につながれているが、それでも最低限、休息の態勢にあり隔離された位置にいる。

患者の病気状態は疑問の余地も恥ずべきこともなくもたらされた当然のものだ、

しかし、鬱病の患者にはこのような特権が与えられず、したがって、歩行する戦争犠牲者のようにきわめて耐えがたい社会的過程的状況の中ら投げ込まれる。

そこでは脳をむさぼり食う苦悶にもかかわらず、日常の行事や仲間づきあいと結びつく顔とあまり変わらない顔を示さなければならない。(p97)

この比喩は、わたしたちの社会における、うつ病を取り巻く偏見を浮き彫りにしています。

ガンのような「身体的」だとみなされている重病や、文字通りの肉体の損傷が見た目にはっきりとわかる病気であれば、患者は病人として思いやりのある扱いを受けられます。

しかしうつ病は「精神的」な病気とみなされていいて、さらには外から苦痛が見えない病気であるがために、患者は周囲から理解されず、病を隠したまま日常生活を続ける歩行傷兵の苦しみを負わされるのです。

この2つのたとえが言いたいのは、当人は生きながら喰われるかのような「脳をむさぼり食う苦悶」苦痛を味わっているのに、周囲から理解も尊重もされず、助けを求めることさえできなくなってしまう、ということです。

それは、スタイロン自身の経験から明らかでした。スタイロンは友人としてロマン・ガリのうつ病を気にかけていましたが、その苦痛をわずかほどにも理解できず、ガリはやがて自殺しました。

そのガリ自身も、友人だったカミュの自殺願望の裏にある深刻さを理解できず、カミュの死後、自分がうつ病になって初めてカミュの苦しみに思い当たりました。

スタイロンも自身がうつ病になってようやく、彼らが何と戦っていたのかを知りました。どれほど聡明で感受性の鋭い人でも、実際に経験してみなければこの苦痛は理解できないのです。

「彼を実際の中に投げ込んでごらん」

こうした敏感な作家たちですら仲間の苦痛を理解しにくいのであれば、病気を経験したこともなく、ただ机上の空論をもてあそんでいるだけの医師たちともなればなおのことです。

スタイロンは、自分が助けを求めて門戸を叩いた医者が、当事者の苦しみを何一つ理解していないことを嘆きました。

その瞬間まで、わたしは博士の人格にいくらかの難点があるとはいえ、洞察力をまったく欠いているとは思わなかった。だがいまやこの点もすっかりあやしくなった。(p94)

多くの精神科医は患者の苦しみの性質の深さをほんとうに理解できないらしく、薬物にかたくなな忠誠を誓って、結局は薬剤が壁を破り患者が応答して病院の陰気な環境に入らなくてすむ、と信じているようだ。(p106)

うつ病を実際に経験したこともなく、医学の教科書を学んだだけで、何もかもわかったような勘違いをしている医者たちは、「洞察力をまったく欠いて」います。

オリヴァー・サックスが左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)の中で引用しているモンテーニュの言葉のとおり、無思慮な医者という問題は、人類史の古くから当事者たちにつきまとい、苦痛を増し加えてきました。

現に医学は、常に経験をその実施の試金石にすると公言している。

同じようにプラトンも、「真の医者になろうとする者は、なおそうと思うあらゆる病気や、診断しようとするあらゆる症状と、それに付随する症状を前もって経験しておかなければならぬ」と言ったのはもっともである。

……本当にそういう医者なら私も信頼しよう。実際、他の医者どもは、海や岩礁や港を描いて、自分は机の前に座って、何の危険もなく船の模型を動かす人のようにわれわれに指図する。彼を実際の中に投げ込んでごらん。どうしていいかわからなくなるから。ーモンテーニュ『エセー』第三巻十三章(p14)

うつ病の苦しみは、実際に海の中に投げ込まれ、生きながら水没していく苦しみを味わった者にしか理解できません。

もしも、医学の教科書に忠誠を誓い、机上の空論で患者を治療しようとする医者たちを「実際の中に投げ込ん」だなら、そのとき初めて教科書の知識など水没していく嵐の中では何の役にも立たないことに気づくでしょう。

当事者が求めているのは芸術的な感性をもつ医者―鈍感な医者はもういらない
鈍感な医者が、いかにさまざまな害を患者にもたらすか、芸術的感性をもつ医者はどのように一人の人間としての尊厳を強めてくれるか、という点ほ考えました。

自殺は心の弱さではないといえるのはなぜか

実際に経験した者でなければ、その苦痛を想像することも理解することもできない。

このうつ病の本質が、最も厄介な誤解を引き起こしているのは、自殺をめぐる問題だとスタイロンは気づきました。

冒頭で挙げたリストのように、スタイロンの職業世界には、自殺によって命を断った作家たちが少なからずいました。

スタイロン自身、アルベール・カミュの自殺に近い死に方や、ロマン・ガリのピストル自殺を見てきましたし、自分もうつ病のただなかで、一時期自殺すれすれまで行ったことを記しています。

そんな中、1987年、67歳で投身自殺したプリモ・レーヴィを取り巻く世論は、スタイロンを困惑させ、とりわけ大きな問題提起につながりました。見える暗闇―狂気についての回想にはこうあります。

わたしは普通以上にレヴィの死に関心を抱いていたから、1988年の末、ニューヨーク大学で開催されたその作家と作品に関するシンポジウムの内容を『ニューヨーク・タイムズ』で読んだとき、強い魅力を感じたが最後には恐ろしくなった。

その記事によると、世界的な作家や学者を集めたこのシンポジウムの出席者の多くはレヴィが自殺した理由がわからず、残念な謎の死としているように思われた。

自分たちみんながこれほどにも賞賛していた作家、ナチスの手中であれほどにも耐えた人、しなやかさと勇気の模範だった人が、自殺によって心の弱さを示した―容認したくない性格のもろさをさらけ出した、といったふうなのだ。(p51)

プリモ・レーヴィは、悪名高いアウシュヴィッツ強制収容所の生存者であり、その忍耐力と勇気を絶えず賞賛されてきた作家でした。

ところが、彼が自殺した後になってみれば、手のひらを返した批評家たちによって、「自殺によって心の弱さを示した―容認したくない性格のもろさをさらけ出した」人であるかのように扱われてしまっているのです。

うつ病の苦痛を実際に身をもって体験したスタイロンにとって、これはあまりに理不尽かつ不当な非難でした。スタイロンは批評家たちに反旗を翻し、プリモ・レーヴィの尊厳を擁護する記事をニューヨーク・タイムズに寄稿します。

その記事でスタイロンは、「激しい鬱病の苦悩はそれに悩まされた者でなければまったく想像がつかず」「自らを破滅させるほかなくなった一群の悲劇的な人びとに対しては癌の末期にある患者と同じで、非難を負わせるべきではない―」とはっきり主張しました。(p52)

スタイロンは義憤に促されてその記事を書いたにすぎませんでしたが、ほどなくして反響の大きさに驚くことになります。スタイロンと同じように感じていながら、声を挙げることのできなかった当事者たちが大勢いたのです。

この『ニューヨーク・タイムズ』への寄稿では、自分の考えをどちにかといえば自然発生的に急いで書きとめたのだが、反響も同時に自然発生的で、しかも多大だった。

自殺と自殺への衝動について率直に発言するのは、自分にとってとくに独創性や勇気を必要とする事柄ではないと思っていたが、この問題はタブーで秘密と恥辱の事柄だとしている人びとの数を明らかに過小評価していたのだ。

圧倒されそうな反響を前にして、わたしははからずも密室の扉をあけ、自分もまたわたしの述べる感情を経験していると外へ出て叫びたい多数の魂を解き放つ助けをしたと感じた。(p53)

激しいうつ病の苦痛は、経験した人以外には理解できず、自殺した人を責めるべきではない、と感じていたのはスタイロンだけではありませんでした。同じ経験をした人すべての共通認識でしたが、彼らは社会のタブーゆえに発言できないでいたのです。

スタイロンが、仲間の作家たちの死と、それを取り巻く世論を観察して気づいたように、自殺した人は他の死に方をした人とは異なるレッテルを貼られます。

自殺それ自体の事実の受容を拒否する否定の反応があって、事故死や自然死と対立するこの自発的な行為にまるで非行でもあるかのような色彩がつけられ、人物と人格がいくらか低くされてしまったのだ。(p47)

事故死や自然死であればただ悔やまれるだけであるのに、自殺の場合は「まるで非行でもあるかのような色彩がつけられ、人物と人格がいくらか低くされて」しまいます。重罪を犯した愚か者であるかのようにみなされます。

その非難は、自殺を止められなかった家族や周囲の友人にまで及ぶので、「自殺者にごく近い人びとがしばしば熱心に大急ぎで真実を否定しようとする」ことにもつながります。(p48)

近年であれば、俳優のロビン・ウィリアムズの自殺がそうかもしれません。残された家族は、もっともな納得のいく理由を提示するよう求められてしまいます。

ロビン・ウィリアムズさんの自殺、妻が明かす「本当の原因」とは

それどころか、自殺という事実さえも否定しようとする人々もいます。故人の名誉を回復するためには、死因が自殺であってはならず、他の理由で死んだ可能性を証明せねばならない、と考えるのです。

自らに死を課した汚名はどのような代償を払ってでも抹消しなければならない憎むべき汚点だ、という人たちも存在する。

(ジャレルの死後20年以上もたった『アメリカン・スカラー』誌1986年夏号で、もとジャレルの学生だった人がジャレルの書簡集を書評しているが、文学的伝記的な評価というよりは、書評の場をかれて自殺の悪い幻影を追い払う努力をつづけている。)(p50)

自殺という行為は、故人にとってもその信奉者にとっても、永久につきまとう汚点であり、なんとしても別の可能性を示して払拭しなれければならない、とまで思われている社会的タブーなのです。

自殺は「自分で自分の命を奪う行為」ではない

なぜ、自殺にはこれほど否定的でネガティブな反応がついてまわるのでしょうか。どうして事故死や自然死の場合は惜しまれるのに、自殺による死は忌避されるのでしょうか。

それは間違いなく、大半の人たちが、自殺とは「自分で自分の命を奪う行為」だという思い違いをしているからでしょう。親から、あるいは神から与えられた命を、自分で取り去るという行為は、文化的タブーなのです。

しかし、自殺は「自分で自分の命を奪う」ことだという認識は、うつ病を経験したことのない人が、その実態を想像できないことからくる誤解の一部だとスタイロンは言います。

健康な人たちは、自分の行動は自分でコントロールしているという自由意志の幻想を抱いています。

近年の科学によって、実際にはわたしたちの行動のほとんどは無意識のうちに行なわれていることが実証されていますが、それでも大半の人たちは、自分の行動は自分で決めていると思い違いをしています。

「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果|WIRED.jp

だから、だれかが自殺した場合でも、自殺した人たちは、自由意志で自殺を「選んだ」と勘違いされます。自分で自分の命を断つことを「選ぶ」など、なんという不届き者だ! というわけです。

しかし、スタイロンら、実際にうつ病を経験した人たちの認識は異なります。その破壊的な衝動は、自由意志を超えたところにあり、本人も制御できないままに、自殺へと追いやられてしまいます。

スタイロンはそうした例として、 ソ連の詩人マヤコフスキーを挙げます。

ソ連の詩人マヤコフスキーは自らの死の数年前になされた偉大な同時代人エセーニンの自殺を激しく批判していた。

このことは自己破滅を非難する人びとすべてへの警告となろう。(p57)

マヤコフスキーは、当初、健康な人の観点から、自殺を激しく批判していました。ところがいざうつ病になると、自分の衝動を制御できず自殺してしまいました。明らかに自殺は理性的判断で行われるものではないのです。

まっくらやみで見えたものの著書アンナ・リンジーは、そのことを示すひとつのエピソードを書いています。

友人は話を続ける。「ブリストルでは、橋までバス一本で行ける地域の自殺率が、橋まで行くのにバスを乗り継いでいく地域よりずっと高いって、知ってた?」

「えっ! そうなの?」。わたしはその話をとても面白がり、若気の至りから軽い気持ちでこう言った。

「バスを乗り換えなくちゃ、自殺できないんだったら、そこまでして人は自殺したいとは思わないのね」

だが、それは的を射た発言だった。考え直す機会があれば、気が変わってしまうのは、それが衝動によるものだからだ。

これを裏付ける別の統計もある。解熱鎮痛剤パラセタモールの過剰摂取は、個包装の錠剤を1錠ずつ指で押し開けて服用するのではなく、がぶ飲みできる大きな瓶入りで起きている。(p167)

アンナ・リンジーは、以前の記事で紹介したように、全身の光過敏症のため、ほとんど外出できないまま過ごしています。あまりに制限された生活のせいで、ときには死をうらやむこともあります。

真っ暗闇の中で輝く人生を生きる、全身が光過敏症の女性アンナ・リンジーの物語
光過敏症の日常を文学的につづったアンナ・リンジーの「まっくらやみで見えたもの」の感想。

しかし、死をうらやむことと、本当に自殺することとはまったくの別物です。健康な人でも、辛い時は「もう死んでしまいたい」と漏らすかもしれませんが、自殺という行為はそうした気持ちの延長線上にあるわけではありません。

アンナ・リンジーが挙げている二種類のデータが示すように、ほとんどの人は自由意志から自殺を望んで決行するわけではありません。衝動に突き動かされ、本人ですらわけもわからないままに自殺してしまいます。

その意味では、自殺という行為は「自分で自分の命を奪う行為」ではないのです。自殺とは、制御できない破壊衝動によって内から喰われること、内側に巣食ううつ病という殺人者が引き起こす、一種の他殺である、とみなすことができます。

自殺において本当に非難されるに値するのは、当人の心の弱さでも周囲の人のサポート不足でもなく、殺人者であるうつ病であるべきなのです

それゆえに、スタイロンは、見える暗闇―狂気についての回想の中で、自殺に関する最大の間違いは、自殺の原因探しだと述べています。

自殺に関する最大の誤った考えは、なぜその行為がなされたかについて一つの直接的な解答(あるいはおそらく複数の組み合わさった解答)があると信じていることなのだろう。

だれかが自殺したとき、その周りにいる人たちやマスメディアは、こぞって自殺の原因探しを始めます。気持ちに折り合いをつけたいがためであれ、単純に好奇心から行われるものであれ、そうした原因探しはどれも的外れだとスタイロンは指摘します。

「なぜあの人は自殺したのだろう?」という避けられない問いは、ふつう奇妙な憶測をよぶ。その憶測のほとんどが、それ自体誤った考えだ。(p62)

たとえばアビー・ホフマンの自殺の際には、自動車事故の後遺症や、最近の著書が不評だったことや、母親の重病など、さまざまな自殺の原因が推測されました。

ランダル・ジャレルの場合は、詩人として限界を迎えた苦悩だとみなされました。

プリモ・レーヴィの場合は、母親の介護がアウシュヴィッツの苦痛にも勝る負担になっていたとうわさされました。

しかしスタイロンは、そうした一つ一つの出来事がまったく無関係だとは言わないものの、自殺の本質的な原因からは程遠い、と指摘します。

しかしほとんどの人びとは、事故での負傷や仕事の凋落や意地悪な書評や家族の病気などに相当するものを静かに耐える。

アウシュヴィッツの生存者の大部分が、かなりよく耐えているのだ。

人生の暴虐によって血にまみれ頭をおさえられても、人類の大多数は実際の鬱病に傷つくことなく、いまなお道をよろめきくだって行く。

なぜ一部の人たちが鬱病のきりもみ状態で落下していくのか、それを見つけ出すためには明白に表われた危機のかなたを探らなければならない。(p63)

大多数の人はマスメディアが原因探しで取りざたするようなストレスに直面しても自殺などしないのです。アンナ・リンジーが述べていたとおり、人は「死にたい」と思うことはあっても、実際に死ぬ人はめったにいません。

わたしたちの大多数が、どれほど辛い経験をしたとしても自殺には至らないこと、そして誰かが自殺したとき、その原因がはっきり分からないことは、どちらも自殺は通常の自由意志の結果ではないことを証拠づけています。

「病気の種が強い根をおろすのは幼少時代」

スタイロンが冒頭で述べていたように、近年の研究が示唆しているのは、「病気の種が強い根をおろすのは幼少時代」だということです。

言い換えれば、だれかが自殺した場合、そのきっかけは著書の評判や母親の介護や仕事の不調のような 直近の出来事にあるのではなく、はるか昔の出来事、周囲の人もマスコミもおそらく本人さえも思い至らない幼少期の出来事にあります。

そのことをはっきりと示しているのは、このブログで以前に詳しく取り上げた、ACE研究(逆境的小児期体験研究)の大規模な統計です。この統計では、大人になってからの様々な症状と、幼少期の出来事の相関関係が調査されました。

ACE研究が明らかにした「小児期逆境後症候群」ーなぜ子ども時代の体験が脳の炎症や慢性疾患を引き起こすのか
17000人以上のデータから子ども時代の逆境体験と成人後の体調不良の関連性を導き出した画期的なACE研究の取り組みをもとに、幼少期の経験がわたしたちの一生にわたり、心身の健康にどん

小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)によれば、子ども時代にどれほど逆境的経験をしたかを数値化したACEスコアは、成人後のうつ病の発症や自殺未遂と、信じがたいほど明確な相関関係を持っていました。

まずうつ病に関しては、小児期逆境の程度が一段階増えるごとに、罹患率が大幅に上昇することがわかりました。

フリエッティとアンダのACE研究では、ACEスコアが「1」の人のうち18パーセントが臨床的うつ病にかかっており、スコアが1点上がるごとに確率は大幅に増える。

ACEスコアが「3」では30パーセント、「4」以上では50パーセント近くの人が慢性的なうつ病を患っていた。ちなみにACEスコアが「4」以上の人は全回答者の12.5パーセントを占めている。

…成人期のうつ病の最も強い前兆は、「小児期の心理的虐待」である。性別に関係なく、小さいころに親を亡くすと成人後にうつ病を発症する確率は3倍になる。(p80)

子ども時代に経験した逆境の頻度が高ければ高いほど、うつ病になる確率が引き上げられることがわかります。ACEスコアが特に高く、逆境にまみれた子ども時代を送った人の場合、その後の人生でうつ病を発症するのはほとんど予定調和的な現象です。

とりわけ子ども時代の心理的虐待親の死が強い関係を持っているとされていますが、スタイロンも、見える暗闇―狂気についての回想の中で、自分のうつ病の原因はそこにあると考えました。

わたしの病的な状況はごく幼いころから進行していた、といまは信じている。父から受けついだものだ。

…しかしいっそう重要な要因は13歳のとき母が死んだことだと納得している。

この心の乱れと幼い悲しみ、思春期中かそれ以前に親の、とくに母親の死亡や失踪に遭遇したことは、ほとんど回復不可能な情緒的大混乱をつくりだすときもあるような傷として、鬱病の文献にくりかえし現れる。(p123)

スタイロンは自分と同様の例としてアメリカ合衆国大統領のアブラハム・リンカーンを挙げます。リンカーンは終生うつ病に悩まされ、一時は自殺すれすれまで行きましたが、9歳のときに母ナンシー・ハンクスを亡くしていました。(p124)

こうした子ども時代の喪失体験は、かつては「心理的」な逆境だとみなされていました。しかし、小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)に書かれているように、現代の脳科学はそうした解釈を否定しています。

子どもが精神的な逆境やストレスに直面すると、実際に脳の細胞から発達段階の海馬を縮小するホルモンが分泌され、感情を処理してストレスを管理する力が弱まる。

磁気共鳴画像(MRI)検査を行うと、小児期のトラウマのスコアが高いほど、意思決定や自己調節に関わる前頭前皮質、不安を処理する扁桃体、感情や気分の処理、調整に影響を及ぼす感覚連合野や小脳といった脳の重要な処理領域で灰白質、すなわち脳の容積が明らかに小さい。(p81)

こうした研究が明らかにしているのは、うつ病は、従来思われていたような「こころの病」ではない、ということです。

うつ病は、心や精神、感情といったつかみどころのない領域の障害ではなく、明確な生物学的基盤の上に引き起こされる身体疾患です。

「意思決定や自己調節に関わる」脳の領域に影響が及んでいるということは、うつ病の自殺は、自由意志で選ばれるような決定の結果ではないことを雄弁に物語ります。

スタイロンが述べていたように、周囲の人やマスコミによって行われる自殺の原因探しについての「憶測のほとんどが、それ自体誤った考え」である最大の理由はここにあります。

自殺する人は、脳の状態からして、すでに健康な人とは異なっています。健康な人がときおり感じる「死にたい」という気持ちとはまったく異なる生物学的過程が、幼いころの逆境の結果として見えないところで進行しているのです。

ACE研究は、子ども時代の逆境とうつ病の関係について、ほかにも手がかりを与えています。たとえばうつ病の発症には性差があります。

女性の場合、相関関係はより深刻だ。ACEスコアが「1」の人のうち、臨床的うつ病の患者は男性が19パーセントであるのに対し、女性は24パーセントだった。

同様に、「2」では男性が24パーセント、女性が35パーセント。「3」では男性が30パーセント、女性が42パーセント、「4」以上では男性が35パーセント、女性が60パーセントという結果になっている。(p80)

女性のほうがうつ病にかかりやすい理由についても、かつては女性のほうが精神的に弱いからだ、といった性差別的な説明がまかり通っていたかもしれません。しかし脳科学の研究が進んだ今、生物学的な理由があることがわかっています。

たとえばそれは、CRH受容体1というホルモン調節遺伝子の働きにあります。この遺伝子は、ストレスの反応に関わるホルモンであるコルチゾールの分泌の調整に関係しています。

条件に「性別」を追加したところ、驚くべき結果が表れたのだ。CRHR1の対立遺伝子「A」を持つ男性は、「小児期に虐待を受けても、かなりの割合でうつ病の発症から守られていた」

…もちろん、うつ病にかかる若い男性も多い。だが、運がよければ、CRHR1が小児期の逆境がうつ病へと発展するのを防ぐテフロン遺伝子の役割を果たすかもしれない。(p159)

この遺伝子の影響以外にも、小児期の逆境がもたらす影響が男女によって異なる様々な理由が明らかにされています。

むろん、そこには感受性の強さなどの生まれながらの遺伝要因も関与しています。

多種多様な要因が複雑に絡み合いながら、小児期の逆境は成人後の病気へとひそかに進展していくのです。

「それは何十年ものあいだわたしのドアをたたいていた」

ACE研究の統計は、何より、この記事のテーマである自殺についても、衝撃的なデータをはじきだしています。

最も衝撃的なのは、自殺に関する統計だ。ACEスコアが「0」で自殺未遂を起こした人は1パーセントに過ぎないが、「4」以上では5人に1人が経験している。

統計上は、ACEスコアが「4」以上の場合、「0」の人にくらべて自殺未遂の件数は12.2倍という結果となっている。(p80)

自殺という行為が、健康な人の「死にたい」という気持ちの延長線上にあるものでないことは、この統計から明らかです。小児期の逆境を経験していない普通の人たちは、めったに自殺未遂をしないのです。

自殺という行為は、「死にたい」という軽はずみな気持ちから引き起こされるものではなく、子ども時代に仕掛けられた時限爆弾が起爆するかのように、脳と肉体に刻まれた小児期の逆境の後遺症が、何十年もの時を経て明るみに出た現象だといえます。

スタイロンも、そのことに気づきました。彼がうつ病を発症したのは60歳のときであり、それまでは、カミュが書いた自殺をテーマとした弁論を読んでも、ガリが訴えるうつ病の苦痛を聞いてもピンときませんでした。

しかし、スタイロンが自分の著作を分析してみたところ、うつ病は60歳で突然発症したものではありませんでした。見える暗闇―狂気についての回想の中にこう書かれています。

自分自身が鬱病の猛攻撃を受けそれを降伏させるまでは、わたしは潜在意識と結びつけた形で自分の作品を考える、つまり文学的推理に属する探究の領域に踏み込むことはあまりしなかった。

しかし、健康にもどり自分の試練にてらして過去を反省できるようになると、いかに鬱病が長年にわたって生活の外辺近くにしがみついていたか、はっきりと見えはじめた。

自殺はわたしの小説の中で執拗なテーマであり、主要人物のうち三人が自殺している。

何年かぶりかで自分の小説の物語をたどり、呪われた運命に向かってヒロインたちが道をよろめきくだってゆく文章を読んだとき、この若い女性たちの精神のなかに自分がなんと正確に鬱病の風景をつくりだしていたかを認めて愕然とした。(p122)

スタイロンはまったく気づいていませんでしたが、彼の作品には、有名な「ソフィーの選択」をはじめ、主人公が自殺に至るテーマが繰り返し織り込まれていました。

小児期の喪失体験は、スタイロンの気づかないところで身体をむしばみ、脳の構造を変容させていましたが、その脳の思考形態の変化は、潜在意識を通して、創作の内容にに反映されていました。

気分の混乱によってすでにかき乱されていた潜在意識から、本能でしかありえないものを働かせて、ヒロインたちを破滅に導く精神のアンバランスを描いてきたのだ。

こうして鬱病はついにわたしのところへ来たとき事実上見知らぬ存在ではなく、まったく不意に訪れた訪問者でさえなかった。それは何十年ものあいだわたしのドアをたたいていた。

わたしの病的な状態はごく幼いころから進行していた、といまは信じている。(p122)

一見突然の出来事であるかに思えたうつ病の発症は、よくよくつぶさに調べてみれば、突然でもなんでもなく、幼少期から少しずつ進行していたのです。

うつ病は「まったく不意に訪れた訪問者でさえ」なく、「何十年ものあいだわたしのドアをたたいて」いました。

このことからわかるのは、多くの人たちの命を奪う自殺もまた、直近の何らかの出来事が引き金となるような軽はずみなものではない、ということです。カミュもまた、シーシュポスの神話 (新潮文庫)の中でこう書いていました。

自殺というこの動作は、偉大な作品と同じく、心情の沈黙のなかで準備される。当人自身もそれを知らない。ある夜、かれはピストルの引き金を引く。あるいは身を投げる。

…これは内部に穴があきはじめるということだ。…蝕み喰い荒らしてゆく虫は、外部の社会にではなく、ひとの心の内部にいる。(p14)

近年の研究がはっきりと示しているように、希死念慮には明確な生物学的変化が伴っており、本人も気づかないところで症状が進行した結果起こる、内なる殺人者による他殺なのです。

抑うつ感や自殺念慮・罪悪感には、それぞれ血液中の異なる物質が関与している(九州大学の研究)
九州大学などの研究によって、うつ病のさまざまな症状ごとに異なる血中代謝物が関係していることがわかりました。

もはやデカルトの心身二元論を捨て去るべき

スタイロンは、見える暗闇―狂気についての回想の中で、自身の闘病生活を具体的に回想していますが、そこに描写されているのは、現代の精神医学が、うつ病の実際の闘病に対してはいかに無力か、ということです。

ともかく、鬱病状態が和らいでありがたくも集中力が回復する数時間のあいだ、そのころのわたしはかなり大量の読書でこの空白を満たし、多くの魅惑的な事実や心配な事実を吸収したが、しかしその知識を実地に応用することはできなかった。(p17)

重症の鬱病に苦しむ一般患者は、市販されている多くの書物を何冊か読んでみて、基礎理論や症候学の方面では多くのことを知るが、急速な救済の可能性を筋道だてて示唆するようなものをほとんど見つけることができない。

たやすく抜け出る道を実際に説いているものは口実だけで、まずはほとんどまやかしと見ていい。(p18)

当事者たちがよく知っていることですが、いまだに医学はほとんど無力です。市販されている書物を何冊か読んだところで気分転換以外の効用はなく、かといって医学論文に目を通したところで何ら実地に応用できるような知識は得られません。

薬物療法はうつ病の症状をある程度和らげることもありますが、根本的な解決策はもたらしません。スタイロンの場合、自殺衝動が増し加わった原因は、睡眠薬として服用していたハルシオンでした。

潜在的な危険性を持つこの種の睡眠薬をこのように乱雑に処方し、いたるところで患者たちに被害を与えているかもしれないと考えると、身のすくむ思いがする。

わたしの場合、もちろんハルシオンだけが悪者ではなかった。わたしは奈落の底へと突進していたのだが、しかしハルシオンがなければそれほどまでに低く落ち込むことはなかったかもしれないと信じている。(p11)

患者の自己調整の能力を育むわけでなく、単純に化学物質を投与して問題を解決しようとする短絡的な治療法が、一時的には効果を示しても、ときとして重大な副作用をもたらすのは当然のことです。

皮肉にもスタイロンは、精神医学の専門家より、精神医学の知識を持たない妻の献身的な支えのほうがよほど意味があったと述べていました。

わたしという存在に対して岩のように堅固な集中力を持つ相談相手で、その知恵はゴールド医師をはるかにしのぐ。

妻がわたしに与えたような援助をもし患者が受けたら、鬱病の結果起こる多くの惨事は避けられるかもしれない、とあえて意見を述べておこう。(p89)

スタイロンは幸運にも最終的にうつ病から回復し、その要因として妻や友による支えのほか、入院による安心感などを挙げていますが、すべての人がそのようなサポートを受けられるわけではありません。(p89,119)

スタイロンが患者になってみて気づいたのは、精神医学の分野がいかに派閥主義で混乱しているか、「単純な心の持主」である医者がいかに薬物療法を妄信しているか、そしていかに病気の実態について何一つわかっていないか、ということでした。(p80)

今日の精神医学界に存在する激烈で滑稽なほどのきしみを持つ派閥主義(精神療法を信奉する者と薬物療法に固執する者との分離対立)は、18世紀の医学的抗争(血を抜くべきか抜くべきでないか)にも類似していて、そのこと自体が鬱病の説明しがたい性質とその治療法のむずかしさを定義していると言ってもいい。

その分野のある臨床医が正直に語った次の言葉は、衝撃的なほどたくみな比喩だと思う。

「もし現在の知識をコロンブスのアメリカ発見にたとえるなら、アメリカ大陸はまだ知られていない。いまだにバハマ諸島のあの小さな島にいるということですね」(p19)

なぜこうもうつ病はいまだに神秘のヴェールに包まれたままなのか、いつまでも派閥主義の中で患者の実益に結びつかない不毛な議論が行なわれているだけなのか、そして、うつ病や自殺は心の弱さの現れだとみなされたままなのか。

その理由の一つは、この記事で書いてきたように、うつ病がいまだに「こころの病」また「精神病」とみなされ、精神科医たちの領分だと誤解されているからでしょう。

最先端の科学的研究からすれば、もはやうつ病は「こころの病」でも精神病でもありません。「気分障害」などと呼ばれる感情調節の問題ですらありません。

証拠が示すところによれば、うつ病は全身疾患とみなすべきものであり、もはや精神科やメンタルヘルスの領域だけで扱われるべきものではないのです。

うつ病やストレスが「老化の加速」につながる=研究

 科学者は加齢とともに染色体に起こる変化と同じものが大きなストレスやうつ病を経験した人にも起こることを発見している。

「老化の加速」として知られるこの現象は、ストレスやうつ病を単に精神的な状態としてではなく、からだ全体の病気(といっても、最もわかりやすい症状は「気分」だけかもしれないが)としてとらえ直そうという動きをもたらしている。

 カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)の精神医学教授、オーウェン・ウォルコウィッツ氏は「知識を深めるにつれて、私たちはうつ病を『精神疾患』や、まして『脳の病気』と考えることは少なくなり、むしろ全身的な病気と考えるようなった」と言う。

うつ病やPTSDは老化の加速を伴う「全身の病気」である
うつ病はこころの病気、脳の病気ではなく、老化の加速を伴う全身の病気なのだそうです。

スタイロン自身、見える暗闇―狂気についての回想の中で、うつ病の兆候は、まず身体に現れたことを回想しています。

その年のたぐいまれない美しい夏のあいだ、わたしは1960年代以来毎年かなりの期間をすごしてきたマーサズ・ヴィニヤードにいた。

しかし、その島の楽しみに無関心な反応を示しはじめた。一種の感覚麻痺と気力喪失、もっと特定すれば奇妙な脆弱さを感じる。

まるで肉体が実際にもろくなり、神経過敏でなんだかからだがバラバラにされてうまく動かず通常の調和がとれない、といった気分だ。

そしてまなく、広汎なヒポコンデリア、つまり心気症の激痛に襲われはじめた。

肉体面の自己があまり正常な気がしない。ときには断続的に、多くは持続的らしく痙攣や苦痛が訪れ、あらゆる種類の病気衰弱の前兆かと思われる。(p70)

スタイロンのうつ病の兆候は、単なるdepression(落ち込み)でもなければ、憂鬱な気分でもなく、「肉体が実際にもろくなり」「肉体面の自己があまり正常な気がしない」こととして感じられました。

スタイロンは「この肉体的状態は精神の防衛装置の一部だ」とみなして、感情の問題が肉体にも波及していたのだと結論していますが、現代の脳科学からすれば、それは逆です。(p70)

うつ病における感情面の問題と思えるものは、脳を含めた肉体そのものに生じた異変の氷山の一角にすぎないのです。

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳に書かれているように、うつ病が「こころの病」とみなされてしまうのは、心と身体は別物だと分ける、デカルトの心身二元論の考え方に源を発するものです。

たいていどこの国でも、「精神病」は狂気と同義語だ。患者はそういう烙印を押されてしまう。ガン患者は同情を集めるのに、精神病患者は恐怖心を呼び起こす。

…精神を身体より上に位置づけていることも、恐怖を感じる理由のひとつだろう。それはある意味でデカルトのせいだ。彼は「我思う、ゆえに我あり」で二元論の形を定め、身体と精神を分けてしまった。

でもデカルトひとりが悪いのでもない。私たちは精神と身体が別個のもので、精神が身体をコントロールしていると直感的に思っている。だから身体ではなく精神が病むことを恐れるのも無理はない。(p312-313)

デカルトの考え方は、わたしたちが直感的に陥りやすい誤りでもあります。身体を別にした精神や思念といったつかみどころのないものが存在している、という誤りです。

うつ病をはじめとする「精神病」は、そうしたつかみどころのない精神の領域の問題だと誤解されているせいで、いまだに神秘のヴェールに包まれた謎多きものとみなされ、狂気と同義のものとして恐れられています。

たとえば、慢性疲労症候群の当事者たちは、自分は感情の障害を抱えているわけではないのでうつ病と混同されたくないと訴えていますが、それはうつ病を「こころの問題」とみなす誤った前提がまかり通っていればこそです。

慢性疲労症候群の文化が抱える「バラムとロバ」現象
慢性疲労と解離についての記事の補足1

実際には、慢性疲労症候群は「身体の病気」、うつ病は「こころの病気」などと分類できるようなものではなく、どちらも全身の疾患であり、単に生物学的特徴が異なっているだけにすぎません。

慢性疲労症候群とうつ病の14の違い―見分けるための類似点と相違点
慢性疲労症候群とうつ病の違いをわかりやすく説明しています。3つの類似点と14の相違点をさまざまな資料から解説します。

心の病でも脳の疾患でもなく、全身の病気

この心と身体を分けようとする非科学的な見方は、科学が発展する以前の霊魂や悪霊が恐れられていた時代の名残りでもあります。

たとえば、現代の脳科学は、かつて悪霊憑きや幽体離脱などと恐れられていた現象は、脳科学的な解離現象であることを明らかにしました。

人々が恐れていたものは、得体のしれぬ精神世界の現象などではなく、肉体に根ざした生物学的現象だったのです。

鏡が怖い,映っているのが自分とは思えない―解離や幻肢は「バーチャルボディ」の障害だった
わたしたちの脳は「バーチャルボディー」と呼ばれる内なる地図を作り出しているという脳科学の発見から、解離性障害、幻肢痛、拒食症、慢性疼痛、体外離脱などの奇妙な症状を「身体イメージ障害

同様に、今日の科学は、すでにデカルトの心身二元論のような、心とは身体とは別に存在する得体の知れないものであるという迷信を打ち崩し、その神秘のヴェールを取り払っています。

それでも精神病を神経心理学的な視点から見ていくと、身体と精神の二分法は誤りであり、誤解を生じさせることがよくわかる。

自己感覚を構成するさまざまな側面は脳にある。もしくは精神に属するものだとふつうは思われているが、実は身体とも密接に結びついているのだ。(p313)

別の記事で詳しく書いたとおり、アントニオ・ダマシオなど、意識や自己の感覚を専門とする現代の科学者たちは、感情とは身体の状態から生じるものだということを明らかにしました。

自分の身体が感じられない生ける屍になった人たちー感覚鈍麻とアイデンティティ喪失の神経科学
感覚過敏に比べて、あまり注目されず、深刻さが理解されにくい、感覚の鈍麻や麻痺、解離が引き起こすアイデンティティの障害について考察しました。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているように、神経生理学者たちの研究に基づけば、わたしたちの感情は、身体を土台として生じているのです。

この有機的な見方は、「高次」の脳が消化系など「下位」の機能をコントロールするというデカルト的なトップダウンのモデルを覆すものだ。

思考と感情は、内臓の活動から分離した新しい独立したプロセスではない。私たちは、内臓で感じ、考えている。

例えば消化のプロセスは、まず身体的な感覚(純粋な空腹)として、次に感情(攻撃としての空腹)として経験され、最後に大脳で洗練され新しい知覚と概念(新しい知識への飢えやその消化として)が取り込まれる。

人間の自己中心主義にとってはあまりうれしくない話だが…私たちがこれほど夢中になっている、いわゆる高次の思考プロセスは、主人というよりはむしろ従者なのだ。(p302)

「私たちは、内臓で感じ、考えて」います。言い換えれば、身体が感じたことが、感情へと変換されています。

例えば、米国科学アカデミー紀要に載せられているBodily maps of emotions(感情の身体地図)の研究が示しているように、わたしたちの多種多様な感情は、身体全体のサーモグラフィーの地図と連動しています。

Bodily maps of emotions | PNAS

わたしたちが実体験から知っているとおり、ゆったり身体を温めれば、安心感や幸福感が生じますし、寒い戸外で冷え切ると心細くなり気分が落ち込みます。

こうした単純な例を挙げるだけでも、感情の障害とみなされているうつ病のような病気は、実際には身体を土台として生じる身体疾患であることが類推できます。

そして、私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳 によれば、こうした科学的な理解を土台に思考することが、うつ病から神秘のヴェールを取り去り、精神科医たちの狭い領域から引きずり出して、全身の疾患として研究していくための第一歩だとされています。

私たちの直観に反して、精神と物質の区別はそれほどはっきりしていないし、精神が物質の上に君臨しているわけでもない。私たちの自己感覚(とその混乱)は、身体という土台があって成りたっている。

そんな認識から出発すれば、精神病の治療に身体的要素を導入する試みもできるだろう。

何より精神病に貼られているレッテルをはがすことができる。精神病といえども、ほかの病気と変わらないということだ。(p314)

改めて強調しておきたいのは、うつ病は心の病気ではなく脳の病気である、というありきたりな表現もまた誤りである、ということです。

心の病気を脳の病気だとするモデルは、精神疾患に貼られたレッテルを払拭できません。精神疾患は脳の病気だ、と言い換えたところで「頭がおかしい人」だとみなされるのは同じです。

身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、トラウマ研究の第一人者であるヴァン・デア・コークがこう書いているとおり、精神疾患が脳の病気だとするモデルでさえ、もはや時代遅れです。

精神的な問題を脳の疾患として捉える脳疾患モデルは、人々の運命の主導権を本人の手から奪い取り、彼らの問題の解決を医師と保険会社に委ねる。

過去30年間に精神科の薬は、私たちの文化にとって不可欠になったが、その結果は心もとない。

抗うつ薬の場合について考えてほしい。もし私たちが思い込まされているほど抗うつ薬が有効なら、うつ病は私たちの社会では今ごろ些細な問題でしかなくなっていたはずだ。

ところが、抗うつ薬の使用は増え続けているというのに、うつ病の入院患者は減ってはいない。

…薬から多額の利益が挙がるようになったので、主要な医学専門誌は、メンタルヘルス上の問題のための非薬物治療に関する研究はめったに掲載しない。

さまざまな治療法を探求する専門家は、主流から外れた「代替療法」(オルタナティブ)としてたいてい無視されてしまう。非薬物治療の研究はほとんど資金提供を受けることはない。(p69-71)

この明快な説明が示すように、うつ病は脳の病気であるというモデルは、うつ病は心の病気であるというモデルを現代風に言い換えただけにすぎず、薬物療法だけを不当に優遇する結果を招いています。

心の病気や精神疾患を定義している壁を打ち壊せれば、「精神病の治療に身体的要素を導入する試みもでき」ます。精神科医たちが信奉するような薬物療法だけでなく、脳の可塑性を引き出すような身体的治療の可能性に目を向けられます。

そうした治療法こそ、身体を通して、自殺衝動の原因となる脳の領域に働きかけ「人々の運命の主導権」を取り戻させることを目的とするものなのです。

光や音の「感覚過敏」を科学する時が来た―線維筋痛症や発達障害,トラウマなどに伴う見えない障害
線維筋痛症に極度の明るさ過敏「眼球使用困難症候群」が伴いやすいという記事をきっかけに、さまざまなタイプの感覚過敏の原因とメカニズムを考察してみました。 、
ソマティック・エクスペリエンス(SE)を知る10ステップ―「凍りつき」を溶かすトラウマセラピー
近年注目されているトラウマの治療法「ソマティック・エクスペリエンシング」(SE)についてまとめました。

精神科を隔てるベルリンの壁を打ち崩す

うつ病をはじめ、これまで精神科的なものだとみなされてきた病気に対する偏見を払拭するには、当事者レベルで認識を変えていくことが不可欠です。

小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)に書かれているとおり、今や精神科とそのほかの病気とを隔てている壁を打ち壊す必要があります。

さらに変革を妨げているのは、身体疾患と精神疾患の成人向けの薬が依然として異なる分類に属していることだ。

「医療行為の行い方」にACE研究を利用するには、従来の医療における「身体」と「精神」「心理」のあいだの壁を撤廃することが必要となる。

といっても一筋縄ではいかないだろう。内科医は手で触れられるもの、目に見えるもの、顕微鏡やスキャンで検査できるものだけを扱うように訓練されてきたからだ。

だが、現在では小児期の体験が脳の遺伝子に変化を及ぼすという科学的根拠があるため、もはや境界線を引くことはできない。

小児期の逆境が心身の健康を損ない、学習障害、心疾患、自己免疫疾患、うつ病、肥満、自殺、薬物乱用、対人関係の破綻、暴力、不十分な子育て、早死にのリスクを高めることは、数えきれないほどの研究で証明されている。(p312)

今は、当事者たちがベルリンの壁を打ち壊すときです。

スタイロンが述べていたように、医学の世界は派閥主義が幅を利かせ、もはや互いに相容れないまでの高い壁で仕切られています。それによって、壁の向こう側の世界は、神秘のヴェールに包まれたままになっています。

個々の当事者は、上辺だけつくろった医者たちが、大衆向けの本やメディアで発信している時代遅れの情報からではなく、日夜進歩している最先端の脳科学や神経心理学から学ぶべきです。

これまで「こころの病気」とみなされてきたものが「全身の病気」であり、身体に刻まれた幼少期の後遺症や長年にわたる脳の変化の上に成り立っているという認識を当事者自らが深めていけば、「何より精神病に貼られているレッテルをはがすことができ」ます。

やがて精神疾患と身体疾患を隔てているベルリンの壁が完全に崩壊すれば、もはやスタイロンが苦しんだような歩行傷兵の苦しみ、すなわち精神疾患だから人目を気にしなければならないといった苦悩も過去のものとなるでしょう。

逆にこれまで身体の病気とみなされてきた内科的疾患もまた、心や感情と密接に絡み合っていることが明らかになり、心身相関を前提にしたケアを受けられるようになるでしょう。

今やデカルトの心身二元論の名残りを捨て去り、精神と肉体を隔てている壁が撤廃されるべき時代が来ているのです。

「見える暗闇」の先へ進むために

この記事では、ウィリアム・スタイロンの見える暗闇―狂気についての回想をもとに、うつ病や自殺を取り巻く、本人以外には理解できない問題について考えてきました。

うつ病は「こころの病気」とみなされ、自殺は「心の弱さ」だとみなされる、それゆえに当事者や周りの人たちが形見の狭い思いをしなければならない。それがスタイロンの闘病記から30年近く経った今も変わらぬ現実です。

世間の認識はほとんど変わっていないとはいえ、この30年のあいだに、脳科学は急速に進歩しました。今や、30年前には確認することさえできなかった脳の萎縮や炎症を、画像データとして視認することさえ可能になりました。

心、そして感情や精神とみなされてきたものは、身体を土台として形成されている身体感覚の一部であることが明らかになり、小児期逆境が肉体に生物学的な禍根を残していることも白日の下にさらされました。

スタイロンの時代、うつ病の研究が「いまだにバハマ諸島のあの小さな島にいる」ようなものだったとすれば、いまやわたしたちは、いよいよ新大陸に上陸する転換期にいます。

当事者たちが実体験から見ていただけだった「見える暗闇」が、いまや科学的に視認できるようになりつつあると言ってもよいでしょう。

ガリレオが初めて自作の望遠鏡で月を視認したとき、月は完全な球体であるという常識が覆されたように、あるいは星雲を視認したとき、星雲は雲ではなく星々の集まりだと判明したように、科学のレンズは古い常識を覆していきます。

わたしたちはそうした新しい科学の発見についていく必要があります。

そうすることで、今まで太刀打ちできなかった神秘のヴェールを剥がし、自分を取り巻いていた暗闇の本質を初めて見つめることができます。「見える暗闇」の向こうへ、その先へと一歩一歩進んでいくことができるのです。

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頭や内臓の異物感,手足を虫が這うような不快感の理由ー解離の体感異常を脳科学で分析する https://susumu-akashi.com/2018/04/cenestpathie/ Sun, 29 Apr 2018 14:14:44 +0000 https://susumu-akashi.com/?p=7822 続きを読む ]]>

解離のある人は、頭や体の中の異常な感覚にひどく悩まされることがあります。このような感覚の異常を「体感異常(セネストパチー)」といいます。

…感覚の異常は、主に頭部や脳、皮膚、手足の指などに感じることが多いといえます。体の深部、内臓に異常を感じることもあります。

…触覚や皮膚感覚、体内の深部感覚に違和感や異常が現れることもあります。なにかが見えるわけではなく感覚だけなのですが、その気持ちわるさや不気味な状態に本人は苦しみ、もがいています。(p30)

感覚はさまざまです。むずむず動く感じや引っ張られる感じ、つまっている感じ、かきまぜられる感じなどで、不快な感覚に悩まされます。(p31)

離の当事者は、「体感異常」(セネストパチー)と呼ばれる、奇妙で慢性的な身体の不快感や異物感に悩まされることがあります。解離は様々な慢性疾患で起こる現象ですから、解離の診断を受けていない人にも、体感異常に悩まされている人は多いでしょう。

冒頭の解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)が物語るように、体感異常はあまりに不快で、本人にとっては切実な問題です。

にもかかわらず、医者たちから、しばしば検査で異常が出ないことを理由に、「思い込み」「気のせい」「神経質」、さらには「妄想」などとみなされてきました。

わたし自身、10代のころからひどい体感異常に悩まされてきたので、前々から記事にしたいと思ってはいましたが。最近読んだ幾つかの本のおかげで、ようやく理解がまとまり形にできました。

これまで誰にも理解されない原因不明の不快感を独りで耐え忍んできた人にこそ、この記事を読んでいただければと思います。

はっきり言えるのは、間違っているのは不勉強な医療関係者のほうであり、あなたではない、ということです。どれほど奇妙に思える感覚であっても、体感異常は脳科学から説明できる現実の感覚であり、決して妄想ではありません。

周りの人たちが何と言おうと、自分は正当な苦痛を訴えてきたのだ、という自尊心を取り戻す助けになれば幸いです。

これはどんな本?

今回の記事では、以下のいくつかの本を中心に、多様な文献を参考にしています。

まず、さまざまな体感異常の症例や、基本的は概念については、解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論など柴山雅俊先生の臨床的観察から引用しています。わたしの考察の出発点であり、当事者の言葉に真摯に耳を傾けて書かれた貴重な資料です。

自分の身体の中に異物があると感じたり、異常な感覚に悩まされたりするメカニズムについては、前回の記事でも大いに参考にした 私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳から考察しています。

そのほか、このブログで何度も引用している、トラウマ医学の専門家たちの本も参考にしました。

今回の記事の内容は、単独でも読めるように構成していますが、ひとつ前の記事の内容を発展させたものなので、そちらも併せて読んでいただくとわかりやすくなります。

前回の記事で取り上げた、自分の足が異物に感じる症状や、自分の内臓が腐敗しているかのように感じるコタール症候群、身体の中に藁が詰まっているだけのように感じる離人症は、いずれも今回の記事で考える解離の体感異常と同じものです。

自分の身体が感じられない生ける屍になった人たちー感覚鈍麻とアイデンティティ喪失の神経科学
感覚過敏に比べて、あまり注目されず、深刻さが理解されにくい、感覚の鈍麻や麻痺、解離が引き起こすアイデンティティの障害について考察しました。

身体的症状としての解離

解離の症状のなかに、原因不明のさまざまな身体症状が含まれることは、これまでも、さまざまな専門医たちが注目してきました。

たとえば、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際では、解離の身体症状について、こう説明されていました。

これらの解離症状は心理的、または精神表現的(psychoform)であり、同時に、感覚運動的または身体表現的(somatoform)になることで、さらに複雑化します。

精神表現性の症状は心的機能の解離であり、圧倒的感情、集中困難、健忘、記憶の混乱、信念体系の変化として表出してきます。

身体表現性の解離症状は、身体感覚、運動、および五感についても、感覚のゆがみ、生理的覚醒の不調、身体感覚的断片としてのトラウマの再体験として表出します。

Van der Hartらは、精神表現的および身体表現的症状は同じコインの裏表としてとらえるべきであると指摘しています。

「(なぜなら)それらはともに、心(psyche)と体(soma)という不可分の統合体の根底でおこっている解離過程のあらわれだからです」。

身体表現的症状および精神表現的症状の複雑な混合は、トラウマによる心身両面への影響を直接に扱う治療的アプローチを必要としています。(p5)

少し眺めの引用でしたが、要点はシンプルです。

一般に、精神科的な問題と思われがちな解離は、「身体感覚、運動、および五感についても、感覚のゆがみ、生理的覚醒の不調、身体感覚的断片として」の身体的症状も伴います。

こうした身体的症状は、心の問題が体に出ているにすぎない、いわゆる身体表現性障害のようなものではありません。

解離の研究の第一人者であるヴァン・デア・ハートが引用文中で述べているように、心と体は「不可分の統合体」であるがゆえに、解離の身体的症状は「同じコインの裏表」なのです。

最後の一文に示唆されているように、解離とは単なる心理的な問題ではないので、たとえば従来の心理カウンセリングのような心を対象にした治療法ではなく、「心身両面への影響を直接に扱う治療的アプローチ」が必要とされています。

解離の身体症状を理解するには、デカルトの心身二元論的な、心と身体は別物だとする時代遅れの精神医学のことは忘れ、心と身体は切っても切り離せない不可分の統合体であるという現代の脳科学に根ざして考えなければなりません。

さまざまな当事者の声を聞く

しかしながら、解離の当事者が訴える身体的症状の多くは、一般的な検査のほとんどで異常が出ないものだったせいで、安易に心理的な問題だとみなされてきました。

実際のところは、慢性疲労症候群や線維筋痛症がそうだったように、科学技術の限界や、検査の側の不備のために具体的な異常が見つかりにくかっただけですが、残念ながら、医師たちは、当事者の訴えより不完全な検査結果のほうを信頼してきました。

解離の身体症状についての研究が遅れていて、いまだに医者たちから詐病や演技のようにみなされてしまうのは、そもそも大多数の医者たちが、当事者の声を話半分にしか聞かなかったり、頭ごなしに否定してきたりして、取り合わなかったせいです。

わたしが解離の身体症状について初めて知るきっかけになった柴山雅俊先生の解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論では、序文に次のように書かれています。

これまで解離の症候学はその外的な眼、すなわ観察者的眼差しをもとに作られてきたように思う。

たとえば、行動にわざとらしいところがあるとみなされ、しばしば安易に疾病利得とか虚偽的などと修飾されることも多かった。

そこにある種の偏見がまとわりついていたであろうことは否定できない。そのような考え方は外部からの観察者の眼差しによって構成されたところが大きかったであろう。

私はむしろ疾病利得や虚偽性などは解離のどのような構造を背景に観察者がそれを感じるのかという点に関心があった。

これまでは、医療者の観察者的視点に対して、患者の当事者的視点すなわち主観的体験についてはあまり注目されてこなかったように思う。(p v)

柴山先生が指摘しているとおり、これまでの医学的研究のほとんどは、当事者の主観を軽視した医療者目線の解釈でした。あたかも実験動物を観察するようにして、医療者の独断的な推測で、病気の実態が品定めされていたのです。

患者が訴える奇妙な内容が、医者にとって意味不明だったり、検査によって証明できないことであれば、それは精神に異常をきたした患者の妄想だとみなされてきました。

当事者が求めているのは芸術的な感性をもつ医者―鈍感な医者はもういらない
鈍感な医者が、いかにさまざまな害を患者にもたらすか、芸術的感性をもつ医者はどのように一人の人間としての尊厳を強めてくれるか、という点ほ考えました。

しかし、今回取り上げる体感異常と類似性もある、むずむず脚症候群(レストレスレッグス症候群、エクボム病)の発見者であるカール・エクボムが半世紀以上も前に気づいていたように、そうした理解しにくい奇妙な訴えにこそ真実が隠されています。

理解できない症状をすぐ精神ストレスと決めつけてはならないーむずむず脚の発見者エクボム博士の警告
「精神的なもの」と誤解されたり、病名ゆえ軽く見られたりしてきたレストレスレッグス症候群の歴史から学べることを「むずむず脚のカラクリ-ウィリス・エクボム病の登場」に基づいて紹介してい

当事者たちが言えなかった症状

解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論によれば、体感異常(セネストパチー)という言葉が提唱されたのは、今から100年以上も昔、1907年のことでした。

1907年にデュブレDupre.E.らは一般感覚や体内の感覚の障害を主に訴える病態をセネストパチー(cénestpathie)と名づけた。

その感覚は、異様(étrange)で、得体の知れない(indéfinissable)、痛みというよりは辛い(pénible)感覚であった。(p110)

「異様」「得体の知れない」「痛みというよりは辛い」という表現は、体感異常の特徴をよくとらえています。体感異常の中には痛みを伴うものもありますが、大部分は言葉に表現しにくい、奇妙な不快感として現れます。

この奇妙な不快感を、当事者の実感がこもった具体的な表現に言い換えるとどうなるでしょうか。

柴山先生の別の著書解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)によると、解離の当事者たちへの聞き取り調査から、たとえば次のような訴えがあることがわかりました。

ふるえる…頭の中で脳がふるえる
つまる…血管の中に虫がつまる
固まり…頭の中に固まりがある
グチャグチャになる…頭の中がかきまぜられて
もれる…水や虫が体の穴からもれる
しびれる…脳がしびれたりゆるんだ感じがする
ねじれる…手がねじれているような気がする
はう…虫やアリが皮膚の下をはう
からまる…頭の中でつり糸がからまっている(p31)

たやすく表現できないような、ありとあらゆる奇怪な感覚に悩まされていることがわかります。無神経な医者たちを擁護するわけではありませんが、こうした症状がこれまでまともに取り合ってこられなかったのもうなずけます。

解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論によると、体感異常がこれまで注目されてこなかったことには、当事者の側が、こうした症状をめったに口にせず周囲から隠してきた、という理由も関係しています。

これらの症状は多くの解離症状とともにみられるのが通常であって、体感異常のみを訴えるものではない。

またこれらの症状を自ら訴えることはほとんどなく、こちらが問診してはじめてその痛みを語ってくれることが多い。

身体の異常性について妄想的確信に至ることはなく、あくまで「そのような感じがする」といった程度にとどまる。(p112)

解離を含め、客観的な内省力を保っている体感異常の当事者たちは、気が狂っているとか、頭がおかしいと言われることを恐れて、自分の奇妙な身体経験についてほとんど話題にしようとしません。

はじめのうちは必死の思いで医師に打ち明けたとしても、否定的な反応が帰ってきたら、もしかするとこれは現実の身体の問題ではなく、自分がそう思い込んでいるだけなんだろうかと感じ、しだいに悩みを一人で抱え込むようになるでしょう。

もともと解離の当事者は、他者への強い不信感や、強い過剰同調性があるので、人から変だと思われたり批判されたりしそうなことは決して口にせず、自分の内部にしまいこんでいく傾向があります。

わたし自身、長年の信頼関係がある主治医に打ち明けたことがありましたが、言葉を選んでもあまりに奇怪な表現しか出てこなくて、主治医にうまく伝わっていない様子がすぐに見て取れたので、話すのを自分から諦めたことがありました。

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体感異常が妄想と関連づけられるようになってしまったことには、もともと妄想的で他の人の顔色を気にしない人たちほど臆面なく不快感を医師に訴え、そうでない冷静な人たちほど頭がおかしいと思われるのを恐れて口に出すのをためらってきたという事情が関係しているはずです。

つまり、体感異常の当事者は、これまで医師が認知してきたよりも、はるかに多く存在しているはずです。事実、柴山先生が患者と信頼関係を築いた上で尋ねたところ、かなりの頻度で経験されている症状だとわかりました。

体感異常を解離の患者が自ら訴えてくることは稀であるが、解離の患者のうち約4割が体験している症状である。(p111)

体感異常の2つのタイプ

解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論によれば、柴山先生は、さまざまな当事者から症状を聞き取った結果、解離の体感異常は大きく二つにわけられる、と考えています。

それは、主に頭部や内臓に症状が出る「器官体感型」と手足に症状が出る「四肢知覚型」です。

そこで従来報告されてきた体感異常を身体部位によって器官体感型と四肢知覚型に分類することができる。(p111)

…ベリオスBerrios.G.Eは体感の異常を、内部器官が引っ張られたり、捩[ねじ]れたり、引きちぎられ、痛みを伴う「疼痛型」と、かゆみ、知覚過敏、感覚異常を呈する「感覚異常型」に分けているが、これも深部感覚の異常型と触覚の異常型ととらえることができ、われわれの分類に類似している。(p112)

この分類の妥当性を検証する前に、まずは、これら2タイプそれぞれの当事者の訴えを見てみましょう。

器官体感型ー頭や内臓の内部に感じる異物感

まず1つ目は、器官体感型です。柴山先生は、解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論の中で、このタイプについて、こう説明しています。

器官体感型は頭部、腹部、胸部などにみられ、多くは身体の中心、中軸、中枢部分が冒される。

体内器官が大きくなったり、小さくなったり、捩[ねじ]れる、引っ張られる、緩むなど多彩な異常体感がみられ、ときにありありと視覚イメージを伴う。(p111)

器官体感型の体感異常の症状は、おもに、頭と内臓に表れます。身体の表面や皮膚ではなく、奥深く、手で触れることのできない深部に起こる症状です。

内臓が大きくなったり、小さくなったり、ねじれたり、引っ張られたり、緩んだりといった、さまざまな異物感や不快感に悩まされます。

しかし、そうした症状を訴えて内科的検査を受けても、検査結果は正常なので神経症だと判断されます。旧来の精神医学的な知識しか持っていない医者からは、気のせい、思い込み、妄想だと言われてしまうわけです。

柴山先生は、器官体感型の体感異常のうち、特に多いのは、頭に生じる違和感についての訴えだといいます。

器官体感型では頭部内に何か詰まったような感じがみられる。多くは固体であるが、液体や気体であることもある。それが大きくなったり小さくなったりする。

あるいは引っ張られたり、脳が掻き混ぜられたりするような感じがする。

…頭の中に感じる固まりは一個であることも複数個であることもある。固まりは膨らんだり、縮んだり、引っ張られたりする「薄い膜が張っている」と表現するものもいる。

また小石が転がるように固まりが動いたり、脳がグルンと回ったり、プルプルと動くなど運動感が表現されることもある。

ときに頭の中に液状のものを感じ、「頭の固まりの中から、シュワーッと炭酸水みたいなものが出てくる」と述べるものもいる。(p113)

頭の中に感じる異物感といっても、じつに様々な不快感があり、千差万別だということがわかります。

頭の中に固まりがあったり、液体を感じたり、しかもそれらが大きくなったり小さくなったり、流れたり漏れ出したり、膜で隔てられたりしているように感じます。

もちろん、こうした症状を訴えるとしても、文字通りそうなっていると確信しているわけではありません。あまりに不快で奇妙な感覚があるけれども、もし何とかして言葉で表現するとしたら、こんな表現になる、ということなのでしょう。

どれだけオブラートに包んで慎重に表現しようが、これほど常軌を逸した表現に聞こえてしまうのですから、解離の当事者が、信頼関係のない医者に体感異常を打ち明けるのをためらうのも当然です。

この頭の内部の極めて不快な異物感は、解離の他の症状とも関連性が見られるとされています。

「掻き混ぜられている」とか「グチャグチャになっている」などと訴える時には、思考促迫などの症状がみられやすい。

また脳が痺れた感じがしたり、緩んだ感じがしたりするなどの場合には、思考不全感や離人症状を伴いやすい。(p113)

まず、かき混ぜられている、グチャグチャになっている、といった比喩で表現される場合は、「思考促迫」、つまり以前にこのブログで紹介したような、ひっきりなしに考えやイメージが浮かび上がってくる思考の多動状態が多いようです。

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他方、脳がしびれて麻痺している、緩んでいる、といった表現のときは、思考が働かず、脳に霧がかかったような状態(いわゆる「ブレイン・フォグ」状態)や、現実感が失われる離人症が見られやすい、とされています。

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頭がグチャグチャとか脳がしびれている、といった表現だけ聞くと異様ですが、次から次に思考が湧き出るような状態に脳が掻き混ぜられているような感覚が伴い、思考が働かない状態に脳が麻痺しているような感覚が伴う、というのは、それほど健康な人の感覚からかけ離れた表現ではないはずです。

また、頭部だけでなく、内臓に出現する違和感も、同じ器官体感型の体感異常とみなせる特徴を有しています。

この本では、特に具体的な事例は挙げられていませんでしたが、内臓に違和感や不快感、異物感を感じる体感異常は、まったく珍しいものではないでしょう。

おそらく、かえってありふれすぎているがゆえに、精神科の臨床では、過敏性腸症候群や機能性ディスペプシア(いわゆる原因不明の胃腸症状につけられる病名)とみなされてしまっているだけです。

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トラウマ専門医のヴァン・デア・コークが、 身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で書いているように、トラウマ患者が訴える多様な身体症状の中には、高い確率で胃腸をはじめとする内臓の違和感が含まれています。

明確な原因が見当たらない身体的症状は、トラウマを負った子供にも大人にも広く見られる。

腰や首筋の慢性的な痛み、線維筋痛症、偏頭痛、消化不良、痙攣性結腸/過敏性腸症候群、慢性疲労、喘息などが起こりうる。トラウマを負った子供は、そうでない子供よりも、喘息を起こす率が50倍も高い。(p164)

彼らは情動を、注意を払ってしかるべき信号としてではなく、身体的問題として認識する傾向にある。

腹立たしさや悲しさを感じる代わりに、原因不明の筋肉の痛みや、腸の不調、その他の症状を経験する。

神経性無食欲症(拒食症)の人の4分の3と神経性大食症(過食症)の過半数は、自分の情動的感情に当惑し、その説明にはなはだ手を焼く。(p165)

消化不良、痙攣性結腸、過敏性腸症候群、拒食症、過食症の人たちが、それぞれ多種多様な内臓の違和感や不快感に悩まされていることは言うまでもありません。

そうした不快感は、あくまで内科的にはこうした消化器疾患の過敏性の一部だとみなされがちですが、解離やトラウマ医学の観点からは、全身に現れる体感異常が胃腸に現れている例だとみなせます。

トラウマを負った子どもは、「喘息を起こす率が50倍も高い」という研究結果にも注目できます。喘息がすべてトラウマに由来しているわけではありませんが、原因不明の息苦しさは、胃腸症状と並んでトラウマ障害の主要な兆候のひとつです。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアので説明されているとおり、解離を引き起こすようなトラウマ的状況では、内臓の反応もセットで生じるからです。

避けがたく致死的な状況では、は虫類の脳である脳幹が内臓に強い信号を送り、その結果、一部の内臓は過剰作動(胃腸系など)に陥り、他は収縮して停止(肺の細気管支や心臓の拍動など)する。

最初の例(過剰作動)では、胃けいれんや締め付けるような痛みまたはゴロゴロいう制御不能な下痢といった症状が現れる。

肺の場合は、苦しく息の詰まる感覚が現れ、慢性化すると喘息の症状になる場合がある。(p155)

「苦しく息の詰まる感覚」は、別の言い方をすれば、肺やおなかの中に異物感や固まりを感じて、息を吸っても奥まで入っていかない感覚、と表現されるかもしれません。漢方ではいわゆる「胸脇苦満」と呼ばれるものです。

また、息苦しさに伴う喉の異物感は、これまで「ヒステリー球」(ヒステリーとは解離の古い呼び名)とみなされてきましたし、漢方では「梅核気」と呼ばれてきました。のどに梅の種のような固まりを感じるつっかえ感のことです。

これら古くから医学のさまざまな分野で原因不明の訴えとされてきた異物感、不快感は、いずれも解離の研究からすれば、全身に表れうる体感異常が、局所的に表れた例であり、もっともな理由で説明できます。

四肢知覚型ー手足の表面を虫が這ったりねじれたり

ここまで見てきたのは頭や内臓の深部に不快感を感じるタイプでしたが、解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論によれば、臨床的にはもう一つ別のタイプが観察されると書かれていました。

それは、おもに手足にや体の表面に不快感を感じるという、四肢知覚型です。

それに対して、四肢知覚型は身体の抹消部分、つまり四肢の表面周辺に「虫が這っている」とか、「虫が動いているのがわかる」と訴えることが多く、ときにそれが全身に広がる。(p112)

こちらのタイプは、おもに手足の表面付近に、虫が這っているような不快感を伴います。

虫が這っているような不快感というと、近年よく知られるようになってきた、むずむず脚症候群(レストレスレッグス症候群、あるいは改名後の名称ではウィリス・エクボム病)の症状とよく似ています。

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むずむず脚症候群も、足だけでなく全身のさまざまなところに出る例が報告されているので、両者を症状だけで見分けるのは困難です。おそらく、原因は違えど、脳の似た部分の異常が生じている可能性があります。

しかしながら、先ほど引用した文中で柴山先生が述べていたように、解離の体感異常は「多くの解離症状とともにみられるのが通常であって、体感異常のみを訴えるものではない」ことから区別できるでしょう。

その一例とみなせるのが、解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論で紹介されている16歳の少女バーベルの例です。

ドイツのツィリンガーZillinger,G.は、「慢性幻触症の問題について」と題する1961年の論文で16歳のバーベルの症例を報告しており、参考になる。

彼女の母親は夫に対して攻撃的で、両親は不仲であった。バーベルは母親との関係も悪く、幼少時から孤独な生活を送っていた。

16歳頃からバーベルは胸痛、動悸、めまい、発汗、腹痛など多彩な身体症状がみられるようになった。虫垂炎の術後には「体中のいたるところがムズムズ、チクチクする。皮膚の下に虫がいる」と言うようになった。

彼女の意識は清明であったが、大声で泣き叫び、興奮するようになった。ときには体をくねらせ、ひどい過呼吸とともに大声で叫ぶこともみられた。

…この症例は皮膚寄生虫妄想のように虫の存在を確信するといった妄想的態度は目立たず、不快な痛みや痒み、不快感などの苦悩が目立つ病態であり、「慢性幻触症」と診断することの妥当性はある。

しかし一方で、その病像と経過から、ヒステリー圏の病態とみなすこともできよう。(p117)

バーベルの場合、特徴的なさまざまな身体症状や、幼少期からの家庭背景などからして、解離の体感異常によるむずむず感だったと思われます。症状は一過性で、妄想的になったりはせず、三ヶ月で退院できたそうです。

文中にあったとおり、こうした症状は、古くは「寄生虫妄想」や「慢性幻触症」といった呼び名で、奇病として扱われてきましたが、その中には、ヒステリー圏の、つまり解離症状による病態が含まれていたはずです。

その場合、虫が這いずり回っているような感覚は、時代と文化によって表現には差があるので、いわゆる文化結合症候群、つまり文化の影響を反映して特徴が変化する解離症状の一種だとみなせます。

たとえば、15世紀から17世紀ごろには、自分の体がガラスのようだと感じる人たちがいたようですが、現代では同じ違和感を別の物質に例える人が多いでしょう。

前回の記事で見たとおり、オリヴァー・サックスは、自身の左足の感覚が変容したとき、大理石やチョークのようだと感じました。

何か不快極まりない感覚が生じているのは時代や文化を問わず本物ですが、その不快感をどのような表現で説明するかは、生まれ育った文化の概念や価値観が影響している、ということです。

心と身体をつなぐトラウマ・セラピーには、そのことがわかりやすくこう説明されていました。

有機体は [つまりわたしたちの身体は]、体験を説明するのに、すでに知っている言葉を使います。それを文字どおりに受け取らないようにしましょう。

それはぼんやりとした感覚かもしれないし、とがった感じがしたり、ガラスや木やプラスチックのように感じられたりすることもあります。明らかに「そのような感じがする」というのが、説明のポイントです。

あなたの中には、実際にぼやけたりとがったりしているものは何もありません。…感覚はただ、それらのものがあるような感じがしているだけです。それはメタファーです。(p97)

わたしたちの身体に生じる、多種多様な不快感は本物で、何かしら理由があって生じています。しかしそれをどう解釈し、どのような言葉で表現するかは、その人がこれまでの人生で学んだ身体経験の語彙によって変化します。

自分の体が腐っているとか、朽ち果てている、死んでいる、などと感じるコタール症候群でも、その「妄想」の内容は、時代の文化の影響を受けている、と私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳に書かれていました。

妄想の具体的な内容は、患者本人の生育歴や文化的背景が関係しているというのが、コーエンの指摘だ。(p22)

エクセター大学のアゼム・ゼーマンも、同様の印象をグレアムに対して持っていた。グレアムの妄想は、精神は生きているが脳は死んでいるというものだ。

「コタール症候群に特徴的な妄想が、現代的にアップデートされているのです。脳だけが死んでいるという発想は……医療現場で最近出てきた脳死の概念に関係しています」(p23)

ここでは「妄想」と表現されていますが、これらの研究者たちは、自分の体が変質しているというコタール症候群の患者の訴えは、ただの思い込みだと考えているわけではありません。

脳の正中溝近辺の代謝が低下したために自己経験が変容した。おそらく自己感覚も大幅に失われたことだろう。

ただしそれだけなら、変容したなりに自分の言葉で語れるはずだが、代謝低下が前頭葉の他の領域にまで拡大したせいで、それもできなくなった。だからグレアムは脳が死んだと思い込んだのではないだろうか。(p30)

コタール症候群では脳の自己感覚に関わる領域の異変が見られるので、患者は間違いなく、奇妙で変質した現実の感覚を感じ取ってます。

コタール症候群以外の、解離や統合失調症や、他のさまざまな病気における体感異常の場合も同じです。その奇妙で不快で形容しがたい感覚自体は、思い込みでも気のせいでもなく、間違いなく本物、実態のある異常なのです。

しかし、コタール症候群や統合失調症、寄生虫妄想の場合は、理性的、客観的な判断をつかさどる脳の領域まで異常が及んでいるので、身体の奇妙な感覚は、文字通り寄生虫が這い回ったり、文字通り体が死んだりしている証拠だと信じきってしまいます。

「体内に虫」妄想の難病、10万人に約27人も、米国 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

何もないところから思い込みが生まれるようなことはなく、まず奇妙で不快な感覚異常という事実があります。その上で、客観的思考力が欠けていて、その奇妙な感覚は絶対に寄生虫によるものだ、と確信している場合だけ妄想になります。

多くの医療関係者たちは、この区別がついておらず、妄想的な思い込みの部分だけを見て、そのきっかけとなっている体感異常まで心理的な妄想の産物だと早とちりしてしまうのでしょう。

しかし時代や文化によって表現の仕方が変わろうが、時には思い込みが強すぎる人がいようが、何とも形容しがたい不快感自体は本物であり、決して気のせいではありません。

変だと思われるのを恐れて、自分から感覚異常を打ち明けるのをためらう解離の当事者たちのように、感覚異常だけが生じている人たちも大勢いるはずです。

ポリヴェーガル理論から体感異常を読み解く

では、こうした得体のしれない体感異常は、どんなメカニズムで生じているのでしょうか。

まず、柴山先生が分類していた2つのタイプ「器官体感型」と「四肢知覚型」の妥当性を判断するカギとなるのは、近年のトラウマ医学の基礎をなしていると言える、スティーヴン・ポージェスが提唱した、「情動のポリヴェーガル理論」(polyvagal theory of emotion)です。

ポリヴェーガル(多重迷走神経)理論については、このブログの過去記事で何度も説明してきました。トラウマ研究の第一人者であるヴァン・デア・コークをはじめ、ピーター・ラヴィーンやパット・オグデン、日本の岡野憲一郎先生のような、解離の専門家の著書で繰り返し取り上げられている神経生理学の概念です。

以前にも引用しましたが、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際によれば、ポリヴェーガル(多重迷走神経)理論は、自律神経系の複雑な相互作用が明らかにした理論です。

Porgesが「多重迷走神経理論」として述べたのは、副交感神経系と交感神経系間の複雑な相互作用でした。

それは、自律神経系に対して、それ以前の覚醒状態の議論より高度で総合的な見方をとるものです。

以前の覚醒状態の理論は、覚醒状態のすべての場合を交感神経系の関与するものとしていました。

Porgesの理論が示唆するのは、神経系は、バランスの観点より反応の階層性の観点からよりよく説明できるということです。(p38)

これまでの自律神経の理論では、よく知られているように、積極的な活動に関わる交感神経と、リラックスさせる副交感神経の二種類の「バランスの観点」しか考慮されていませんでした。

しかし、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、ピーター・ラヴィーンが説明しているように、ポリヴェーガル理論では、三種類の神経系が互いに作用しあう、「階層性の観点」から自律神経の働きを説明しています。

簡単に言うと、ポージェスの理論では、ヒトの場合、3つの基礎的神経エネルギーのサブシステムが神経系とそれに相関する行動、情動の総合的状態の素地になるとしている。(p118)

3つのサブシステムのうち、まず1つ目は「不動系」または背側迷走神経と呼ばれる、最も原始的だとされるシステムです。

この原始的システムの機能は不動化、代謝維持、シャットダウンである。活動の対象は内臓である。(p118)

このシステムは、内臓の基本的な代謝維持に関わっていて、無顎魚類、軟骨魚類、硬骨魚類、両生類、爬虫類、哺乳類といった幅広い種の生物にわたり、普遍的に存在しています。

2つ目は、よく知られた「交感神経系」です。

その機能は可動化および活動亢進(闘争か逃走など)であり、対象とするからだの部位は四肢である。(p118)

交感神経系は、活発な活動を促すシステムであり、手足の活動に関係しています。そのため、手足としての機能が存在する硬骨魚類、両生類、爬虫類、哺乳類などの種に存在します。

最後の3つ目は、これもよく知られている「副交感神経系」で腹側迷走神経とも呼ばれます。

この神経サブシステムが最も洗練されているのは霊長類であり、複雑な社会的、愛着行動を支配する。

これはいわゆる哺乳類の、または「高等な」迷走神経を調節する副交感神経系の分岐であり、神経解剖学的には、表情および発声を支配する脳神経に接続している。

最後に獲得されたこのシステムは、他者や自己に情動を一体となって伝えるのど、顔、中耳、心臓、肺の筋肉を無意識的に支配する。(p118)

副交感神経は、リラックスする以外にも、社会的コミュニケーションや親子の愛着行動に関わっており、特にコミュニケーション時に使われる顔やのど、さらには呼吸筋を調整しています。

難しく感じるかもしれませんが、要点を簡単にまとめるとこうなります。

■不動系(背側迷走神経)…内臓が対象
■交感神経系手足が対象
■副交感神経系(腹側迷走神経)…顔のどの筋肉、呼吸筋が対象

手足の不快感は交感神経の「凍りつき」

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際でによると、わたしたちは、この三種類の神経系のバランスを調節することによって、さまざまな局面に対処することができます。(p124-134)

まず、日常生活のちょっとしたいざこざに対しては、「副交感神経系」が対処し、顔やのどの筋肉を自由に動かしてコミュニケーションすることで、円満に問題を解決します。呼吸もとても落ち着いてリラックスしています。

大きな危険にさらされると「交感神経系」が活性化し、手足が興奮し、戦ったり逃げたりできるように闘争・逃走反応が引き起こされます。

しかし危険から逃げられないことがわかると、最も原始的な「不動系」が活性化し始めます。不動系はいわば生体の急ブレーキであり、「凍りつき」「擬態死」状態に持ちこむことで、万が一にも生き残れる可能性に賭けようとします。

「凍りつき」の状態では、交感神経系がまだ活性化していているところへ不動系が活性化しはじめます。アクセルとブレーキが両方かかっているようなものなので、筋肉は硬く張り詰めて、「恐ろしくて動くことができず、息をすることもできません」。(p132)

完全にブレーキがかかると、不動系が身体を支配しきってしまい、「擬態死」に陥ります。「心臓の拍動は減速して遅くなり、血圧は急激に低下し、筋肉の緊張は弱まり静止したように」なります。(p133)

この不動系が働き始めた後に起こる、「凍りつき」と「擬態死」が、解離の当事者が慢性的に陥っている状態です。

そして、ここまで見てきた、体感異常の2つのタイプは、「凍りつき」と「擬態死」のそれぞれに対応しているのではないか、と思われます。

体感異常のうち、「四肢知覚型」は、おもに手足の表面付近に不快感が現れるという特徴がありました。手足の感覚をつかさどっているのは交感神経系ですから、このタイプの体感異常は交感神経が活性化しているときに起こるはずです。

解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論では、四肢知覚型の体感異常の特徴についてこう書かれていました。

器官体感型とは異なって離人症状を伴うことは少なく、異常体感は触覚、痛覚領域に加え、虫がありありと見えるなどの錯覚・幻視がみられ、概してより知覚的である。(p112)

ここでは四肢知覚型の体感異常には、意識が鮮明でなくなる離人症のような強い解離症状が伴うことは少なく、「より知覚的」、つまり過敏性が強いとされています。これは、アクセルである交感神経系の関与を示唆しています。

また、症例として載せられている30歳の解離性同一性障害(DID)の女性はこう述べていました。

18歳頃から手足に虫のような生き物が侵入してきて、それが振り払えないので、ムズムズする部分を切り落としたくなる感じがしていた。

指の中に虫がつまっている。湧いてくる。動いている。増殖してくる。蟻が行列をつくって上がったり下がったりする。興奮している時や血が頭に昇ったときに多い。(p116)

虫が這っているような鮮烈な感覚を伴う体感異常は、「興奮している時や血が頭に昇ったときに多い」とされています。これもまた、交感神経系のアクセルの関与を示しています。

こうした観察から、四肢知覚型の体感異常は、同じ解離でも、おもに交感神経系のアクセルと不動系のブレーキが拮抗して、筋肉が硬く張り詰めて緊張しているような「凍りつき」反応寄りの症状だとみなせるでしょう。

ピーター・ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、解離性のむずむず感を、レストレスレッグス症候群と誤診されていた例を紹介しています。

ミリアムは、結婚生活でも職場でも不満なことだらけで怒りでいっぱいだと話しだした。

「しょっちゅう機嫌が悪く」、熟睡できないことがとても多いのだという。腹痛や脚のムズムズ感で目が覚めてしまうのだ。

「夜中に誰かが私を蹴飛ばして起こしに来るみたい」と、この侵入的な経験について彼女はブツブツ文句を言うように説明した。

かかりつけの医師は「レストレスレッグス症候群」もしくは抑うつ状態ではないかと考え、彼女に抗うつ薬の服用を勧めた。(p187)

彼女は一見、レストレスレッグス症候群のような症状を抱えていました。しかし「心拍数の上昇ならびに抑制された早くて浅い呼吸」の状態にあり「からだの内側が震えている」のも感じていました。感情がピリピリしていて、不眠状態にあることを含め、いずれも交感神経の興奮が読み取れます。(p190-191)

セラピーを通して、彼女は「否認という凍りつき」状態にあったことに気づき、少しずつ身体の感覚に気づいて自己調節を学ぶことで、体感異常が減っていきました。(p196)

頭と内臓の不快感は背側迷走神経の「擬態死」

一方で、体感異常のもう一つのタイプである「器官体感型」についてはどうでしょうか。

先ほどの説明では、この器官体感型の体感異常は、現実感を喪失する離人症や、思考が次々と湧き出る思考促迫を伴うことが多い、とされていました。

こうした意識の変容は、交感神経系と不動系が拮抗して筋肉が張り詰めている「凍りつき」ではなく、その一歩先の、不動系のブレーキが交感神経系を抑え込んでしまった「擬態死」寄りのものです。

解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論に載せられている別の例では、このタイプの体感異常は「落ち込んで動けないとき」に起こるともされていました。

頭が脳じゃない感じで、ものが考えられない。脳が他のもの、たとえば虫だとか鉱物のようなものに取って代わられて、それに侵食される。考えがまとまらない。

脳が実際にスカスカになってくるように感じる。頭の中の虫がザワザワ言っている。

落ち込んで動けないときにそうなる (p116)

この「落ち込んで動けないとき」という表現は、先ほどの四肢知覚型の「「興奮している時や血が頭に昇ったとき」という表現と非常に対象的です。落ち込んで動けなくなる虚脱状態は、まさに擬態死状態の特徴です。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際では、擬態死状態について、こう説明されていました。

一言でいえば、この反応は、交感神経がほとんど、あるいはまったく覚醒しないことと連動した、自発運動の重大な抑制によって特徴づけられます。

劇的な背側迷走神経の緊張、極度の覚醒低下、そして重大な無力状態が生じます。…凍りつきのように筋肉が緊張し固くなるのではなく、むしろ柔らかくなります。

また、これは「ぐったり動かないこと(floppy immobility)」と呼ばれ、こま虚脱状態で「凍りつき反応でおこるアドレナリンの爆発とぱちょうど反対に、筋肉は弱くなり、生気のない、とろんとした目つきになり、そして心拍数はゆっくりと下降します」。

呼吸は浅いかもしれません。クライエントは、「トランスのような」と、この状態を説明します。この反応は、人の痛みの感覚を鈍感にする内因性オピオイド(訳注:いわゆる脳内モルヒネ)のレベル増加が関係しているようです。(p133)

凍りつき状態では交感神経系のアクセルと不動系のブレーキが拮抗していますが、擬態死状態では、ブレーキが完全にアクセルを押さえ込み、「交感神経がほとんど、あるいはまったく覚醒しない」状態にまで抑制されます。

その結果、「ぐったり動かない」「生気のない、とろんとした目つき」「トランスのような」と言われる状態になります。言い換えれば、半分眠って夢の中にいるかのような状態になる、ということです。

器官体感型の体感異常に多い現実感が失われる離人症は、脳が半分眠っている状態だとみなせますし、次々に思考が取り留めなく出てくる思考促迫は、半分起きながら夢を見ているような状態だと解釈できます。

別の記事で考えたように、勝手に湧き出てくる思考は内受容性の感覚刺激から作られます。解離によって外受容性の感覚刺激が遮断されると、相対的にシーソーのように内受容性の感覚が優位になり、離人症や思考促迫が起こっているようです。

器官体感型の体感異常で、おもに頭と内臓という内部に違和感が生じるのも、擬態死状態の特徴と一致しています。このとき身体を支配しているのは、内臓をコントロールし、意識の切り離しとも関係している不動系の背側迷走神経だからです。

興味深いことに、柴山先生の解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論によると、この器官体感型の頭や内臓の違和感はどうやら症状の出方に性差があるようです。

とりわけ頭部体感異常は離人症状や思考不全感を伴うことが多い。グラッフェルらのEJAVSや渡辺らの青年期セネストパチーが代表的病態である。

頭部セネストパチー(cénesthopathie céohalique)は概して若い男性に多いとされている。(p111)

頭の中に異物感を感じる体感異常は、若い男性に多い解離症状だとされています。

わたしの個人的の知り合いでも、二人ほど、頭の中の異物感に悩まされている男性がいました。

一人は強いアスペルガー傾向があり、子どもの頃から複雑性PTSDを抱えてきた若い人で、脳がぐにゅぐにゅするとか、かき回されているといった体感異常をしきりに訴えていました。

もう一人はわたしよりかなり年上の壮年の男性ですが、10代のころに思考不全感を発症して、頭が固まって動かないというイメージを伴っていますが、身体は元気で働けるといいます。

これはおそらく、解離症状の性差によるものだと思われます。以前の記事で詳しく考察したように、男性は生物学的な身体のつくりや、社会文化的なストレスの違いから、女性とは異なる解離症状を発症することが多いようです。

女性の場合、全身を巻き込む重篤な解離に至りやすいのに対し、男性の場合は、思考や感情(つまり頭部の感覚)だけが解離して、思考は働かないのに身体は動く状態になりやすく、たとえば解離性遁走(いつの間にか知らないところにいた)のような症状が多いとされていました。

おそらくこれは、現代社会において、男性は感情を殺して社会の歯車となることを求めるストレスにさらされやすく、一方の女性は、性被害など全身を脅かされるストレスにさらされやすいことが、解離症状の性差に反映されているのではないかと思われます。

器官体感型の体感異常のうち頭部の体感異常が男性に多い一方で、内臓など身体の内部に違和感を感じるタイプは、かえって女性の解離に多いのかもしれません。

前述の胃腸の違和感や、それに伴う慢性疲労や慢性疼痛のような全身の違和感は、男性より女性のほうがはるかに発症しやすいことが知られています。そうした症状の中には解離による体感異常が含まれているかもしれません。

このように、ポリヴェーガル理論における交感神経系と不動系の役割から考えれば、同じ解離といっても、「凍りつき」と「擬態死」の二種類のレベルがあり、体感異常もそれぞれ異なることがわかります。

交感神経系の活性化が強く「凍りつき」寄りのときは、手足などの表面に不快感が生じる四肢知覚型の体感異常が起こり、不動系が交感神経系を抑え込んで「擬態死」に近いときは頭や内臓内部に違和感が生じる器官体感型の体感異常が起こる、とみなせます。

男性の場合は主に頭部に症状を訴える部分的な解離症状が起こりやすいのに対し、女性の場合は内臓を含め、全身を巻き込む広範囲の解離症状が起こりやすい、という違いもみられます。

内受容感覚とは何か

ここまでのところで、体感異常が起こる部位の違いについて説明することができました。

しかし、まだ一番大きな疑問点が解けていません。なぜ、手足、あるいは内臓や頭に生じる感覚が、本人にとってあまりに不快で奇妙なものに感じられるのか、という点です。

それについては、実は前回書いたとおりなので、一つ前の記事を読んでくだされば事足りるかと思います。とはいえ、せっかくこの記事では体感異常という観点から考察しているので、前回の記事とは違うアプローチでもう少し考えてみましょう。

まず、柴山先生は、解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論の中でほとんど体感異常の原因については述べていませんが、次のような鋭い指摘を含めていました。

体感という言葉は歴史的に共通感覚や一般感覚と密接な関係を持っており、ほぼ体性感覚(触覚、皮膚感覚、深部感覚に内臓感覚を加えたもの)を指しているとみなしてよい。

そのような観点からすれば、体感異常という症候名に身体内部、深部の異常感覚に加えて、触覚、皮膚感覚の異常を含めることは自然であろう。(p111)

ここでは、体感異常の源として、「体性感覚」に注目されています。これは、前回の記事で説明した、人間の五感に加えるべき六番目の感覚とも言うべき、内受容感覚のことです。

改めて、センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際の説明を見てみましょう。

ある種の感覚的な感受性は、〈第六感〉として1800年代の初期のCharls Bellが最初に描写して、のちにWilliam Jamesによって1889年に発表されました。

今日では、第六感は「内受容器」(interoceptors)によるものであると理解されています。

身体内部からくる刺激を受けとめ伝達する、感覚神経受容体によるものだということです。(p19)

内受容感覚とは、「身体内部からくる刺激を受けとめ伝達する、感覚神経受容体によるもの」です。

言い換えれば、五感のほとんどは身体の外側からの感覚を受け取っているのに対し、六番目の感覚とも言える内受容感覚は、身体の内側からの感覚を受け取るものだ、ということです。

身体の外部から受け取る感覚に五感と分類されるような多様な感覚が含まれているように、身体の内部から受け取る内受容感覚も、たくさんの種類に分類することができます。

少し長めの引用になりますが、続く説明をみてましょう。

内受容器には多くの異なる種類があります。

身体全体の動きにかかわる筋肉的感覚は、「自己受容器」(proprioceptors)に対応しています。それは関節、筋肉、腱につながっている感覚神経です。

自己受容器は空間における身体の位置の感覚を、身体位置に関する視覚的感覚に依存しないで、与えてくれるのです。

…自己受容器の下部組織である前庭システムは内耳機能の一部であり、身体と重力の関係および身体のバランス感覚について情報を与えてくれます。

…内臓感覚は「内受容(enterception)」とよばれ、私たちの内部臓器でおこる動き、すなわち心臓のドキドキ、腹部のそわそわ感、吐き気、空腹感、または虫のしらせ、直感などを伝達します。

また、私たちはさまざまな「侵害受容器(nociceptors)」をもっています。それらの大多数は皮膚内にあり、また、腱、関節、諸器官にもかなりの数の侵害受容器があり、いろいろな身体的痛みを伝達しています。

「温感受容器(thermoceptors)」は温度に反応します。

私たちは通常、内受容器からの情報には気が付かないのですが、意図的にこれらの情報に注意を向けて身体感覚を探索することができます。たとえば、多くの人は数分注意すれば、心拍や内臓感覚に気づけるようになります。(p20)

色々と出てきましたが、簡単にまとめると、わたしたちの身体の内部の関節、筋肉、腱、内臓、皮膚などは、常に、身体の内部の大量の情報を、わたしたちに伝えているということです。

けれども、それほど大量の情報が送られてきているのに、「私たちは通常、内受容器からの情報には気が付かない」のはなぜでしょうか。

そもそも、五感に比べて、内受容感覚が最近に至るまでほとんど知られていなかったり、「第六感」のような怪しげな言葉で呼ばれたりしていたのも、わたしたちがほとんどそれに気づかないからです。

感情や自己意識は何から生まれるか

では、内受容感覚は無意識のうちに気づかれないところで処理されているだけなのか。

いいえ、そうではありません。わたしたちは、内受容感覚をほとんどいつも意識しています。ただ、それが身体の内受容感覚だとは気づいていないだけなのです。

ヴァン・デア・コークは、 身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法のなかで、アントニオ・ダマシオの有名な実験に触れています。

ダマシオとその共同研究者たちは2000年に、世界でも一流の科学専門誌「サイエンス」に論文を発表し、強い否定的情動を追体験すると、筋肉や消化管、皮膚から神経信号を受け取る脳領域、すなわち、基本的な身体的機能を調節するのに不可欠な領域に、重大な変化が起こることを報告した。

過去の情動的な出来事を想起すると、その出来事のときに感じた内臓の感覚を現に再体験することを、ダマシオのチームの脳スキャン画像は示していた。(p158)

アントニオ・ダマシオの実験が示したのは、わたしたちの感情は、「筋肉や消化管、皮膚から」の内受容感覚と連動しているということです。

古くからどんな国のことわざにもあるように、強烈な感情とは、心ではなく身体で感じるものです。

従来、情動は大脳辺縁系に割り振られてきたが、私たちは強い情動を体と結びつける、ありふれた言い回しを使うたびに、これらの脳領域が関与していることを認めている。

「あなたはむかつく」「そのせいで背筋がぞっとした」「私はすっかり胸が詰まった」「がっかりした(英語では「My heart sank」で直訳すると「私の心臓が沈んだ」)」「彼のせいで髪の毛が逆立つ」という具合だ。(p158-159)

日本語にもある「断腸の思い」という言葉がまさにそうですし、ヴァン・デア・コークが挙げている「むかつく」「背筋がぞっとする」「胸が詰まる」などもそうです。こうした身体と感情を結びつける言葉には、文化を超えて共通する表現が多くあります。

なぜ様々な感情と内臓などが発する内受容感覚とには密接なつながりがあるのか。それはそもそも、この二つが別物などではなく、同じものだからです。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中でピーター・ラヴィーンが述べるように、わたしたちの身体の中には、内臓から脳に向けて巨大な直通経路が通っており、脳は届けられた内受容感覚をさまざまな感情や思考に解釈しています。

第6章では、脳幹と大半の内臓を結ぶ迷走神経について述べた。この巨大な神経よりニューロン総数が多いのは脊髄のみである。

またこの神経繊維の90%以上が求心性である。つまり迷走神経の主機能は、内臓からの情報を脳に向かって届けることである。

したがって、「本能的直感(はらわたの本能)」「勘(はらわたの直感)」、ひいては「はらわたの知恵」という表現には、確固たる解剖学的、生理学的根拠がある。(p166)

温泉にゆっくり浸かると、とても心地よくなってリラックスするのはなぜでしょうか。冷たい屋外を凍えそうになりながら歩いていると心細く孤独に感じるのはどうしてでしょうか。

リズムよく身体を動かすと気分が爽快になるのはなぜでしょうか。ずっと閉じこもって運動不足だと気分が沈むのはどうしてでしょうか。

答えは簡単です。そもそも、わたしたちが感情だとみなしているものは、身体の内受容感覚なのです。身体全体の筋肉や腱や内臓からひっきりなしに送られてくる内受容感覚を脳が解釈したものが、感情なのです。

ヒトは血管からも、環境に関するその他あらゆる情報を受け取っている。

血管がクラゲのようにゆったりと拍動し、温かさと良好さの感覚がからだ中に行き渡ると、ヒトはリラックスし開放的な気分になる。

血管と内臓が収縮していると、寒く不安に感じる。(p166)

そして、前回の記事で詳しく書いたように、内受容感覚は、感情どころか、わたしたちの自己意識そのもの、アイデンティティを形作る源でもあります。

言い換えれば、もし内受容感覚が失われれば、わたしたちは感情を感じられなくなるだけでなく、自分が誰かわからなくなってしまい、自己意識そのものが失われてしまう、ということです。

現代の脳科学からいえば、デカルトの心身二元論的な、身体を別にした心などというものは存在しえません。肉体を離れた魂や思念のようなものが単独で存在することもできません。(詳しくは前回の記事の補足を参照)

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳にはこう書かれていました。

離人症性障害になると、自分のことが知らない他人に思えてくるし、情動を感じる能力も低下する。

このことは、「私は誰?」という謎にどんな手がかりを与えてくれるのか。

それは自己をつくりあげるうえで「いちばん重要なのは物理的な感覚と内部感覚」だということ。メドフォードはそう話す。

「感情は体性感覚情報で構築されるというダマシオ的観念ですよ」

「感情は体性感覚情報で構築される」、つまり、内受容感覚がなければ、感情や自己意識は失われてしまうのです。

解離の当事者の中には、感情が感じられない失感情症や、現実感が感じられない離人症の人が大勢いますが、それは、それらの感覚のもととなっている内受容感覚が減少しているからだ、ということになります。

私たちは気づいていないが、刺激には身体の内部、とくに内臓から発信されるものがある(心拍、血圧、胃腸の状態など)。

こうした内部刺激は情動や感情には欠かせないもので、その経路がふさがれると離人症になって、自分が他人のような感覚に陥る。(p254)

「非自己」に分類された内受容感覚

では、解離の当事者の場合、内受容感覚が文字通り消えているのでしょうか。

そんなはずはありません。内受容感覚が何もない、ということは、内臓や筋肉が完全に活動停止していることを意味します。それは死んでいる、ということです。

しかし、解離の当事者は、どれほど自分で生ける死体のようだと感じていようとも、間違いなくまだ生きていて、食べ、飲み、日常の活動を行ない、身体を動かしています。

つまり、明らかに身体は内受容感覚を生み出し続けているはずです。それなのに、なぜ、内受容感覚が、感情や自己意識に変換されず、失感情症や離人症に陥るのか。

その理由は、前回の記事で詳しく説明した、私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳に書かれているこのメカニズムによります。

あくまで推測だと前置きしたうえで、セスはこうしたエラーが、解離を引き起こすのではないかと言う。

自分の身体と情動に現実感が失われ、身体が分離したり、自分自身が他人みたいな感覚に襲われるのだ。

エラーに見舞われている脳が、それでもがんばって予測を行なった結果、内受容信号の発信源は自己ではなく非自己だと仮定するのだろうか。(p193)

解離の当事者にも、内受容信号は存在するのです。ところが、「内受容信号の発信源は自己ではなく非自己だと仮定」してしまうので、それを自分の感情や自己意識に変換できないのです。

解離の当事者は、さまざまな内受容感覚、つまり内臓の信号や、筋肉や腱から送られてくる信号などを、「自己」ではなく「非自己」に属するものとみなしています。

なぜそんなことが起こってしまうのか。

ヴァン・デア・コークは、 身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で次のように説明していました。

だが、トラウマを負った人々は、自分の体の内部で絶えず危険に感じている。過去が、心を苦しめる内部の不快感として生き続けているからだ。

彼らの体は、内臓の危険信号をひっきりなしに浴びせかけられ、それを制御しようとするうちに、腹の底で感じるものを無視し、内部で起こっていることの自覚を麻痺させるのが得意になってしまう場合が多い。彼らは自己から隠れることを学ぶのだ。(p162)

先ほど見たとおり、わたしたちが感じる強い感情は、内受容感覚と密接に結びついていました。というよりも、内臓で感じる感覚が、わたしたちの感情そのものでした。

では、トラウマによって、強烈な恥や恐れ、圧倒されるような悲しみや恐怖を感じたら、人はどう反応するでしょうか。

自分では耐えきれない感情を感じたときに、それを切り離してしまい、まるで他人の感情のようにみなすことで生き延びようとするのが解離という防衛機制です。

たとえば、前回の記事に出てきた9.11の同時多発テロの生存者であるシャロンは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによると、当時の体験を次のような態度で振り返りました。

私が自己紹介をしようとしたときに、彼女は平然とした様子でまるで他人事のように恐ろしい出来事について話し始めた。私にはそれはとても不気味に感じられた。

彼女が発する言葉を私がよく聞いていなければ、死そのものやバラバラになった死体に遭遇した自分の体験ではなく、職場のつまらないパーティのことを彼女が話しているように思ったかもしれない。

情動が切り離された状態で語られる彼女の話を聞くうちに、私は居心地悪くなり、立ち上がって部屋を出たい気持ちになった。(p206)

シャロンは、身の毛もよだつほど恐ろしい出来事を「まるで他人事のように」語りました。これが解離の本質です。解離とは、自分が体験した耐えがたい恐怖を他人のもののように処理することです。

しかし、感情が内臓などの内受容感覚から生まれるものだとすれば、彼女は実際には、何を他人事として処理していたのでしょうか。

そうです、自分の身体の内受容感覚です。

解離の当事者が、失感情症や離人症に陥って、自分の恐ろしい体験を他人事のように処理しているとき、実際には、身体が内部から送っている内受容感覚そのものに「非自己」のタグを貼って処理しているのです。

解離の当事者たちの場合、身体の内受容感覚は決してなくなったわけではありません。むしろ、圧倒されるような経験をしたがために、内臓はひどい恐怖や苦痛を味わっており、健康な人たちよりも大量の内受容感覚を発しています。

しかしヴァン・デア・コークが言っていたとおり、「内臓の危険信号をひっきりなしに浴びせかけられ」るからこそ、「内部で起こっていることの自覚を麻痺させるのが得意になってしまう」すなわち内部の感覚を「非自己」とみなすようになるのです。

ヴァン・デア・コークが、失感情症や離人症の患者について書いていた次の説明を思いだしてください。

彼らは情動を、注意を払ってしかるべき信号としてではなく、身体的問題として認識する傾向にある。

腹立たしさや悲しさを感じる代わりに、原因不明の筋肉の痛みや、腸の不調、その他の症状を経験する。(p165)

解離の当事者が失感情症や離人症になるのは、自分の身体の内受容感覚が非自己に分類されていて、感情や自己意識に変換できないからです。

さまざまな感情を感じる代わりに、彼らは変質した内受容感覚そのもの、つまり「原因不明の筋肉の痛みや、腸の不調、その他の症状」を経験しているのです。

それでは、その「非自己」だと分類されてしまった内受容感覚が、本人にとって、あまりに奇妙で不快に感じられるのはどうしてなのか。

いささか回りくどく説明してきましたが、続く部分がこの記事のポイントです。

身体完全同一性障害(BIID)ー「外国の手足」

自分の身体にさまざまな奇妙な不快感を感じるという症状は、これまで医学のさまざまな分野で別々に研究されてきました。前述のとおり、過敏性腸症候群や寄生虫妄想、ヒステリー球などはその一例です。

なかでも、とりわけ注目されてきたのは、自分の手足の一部が、明らかに自分のものではなく、異質なものだと感じられ、強迫的な切断願望に悩まされる人たちです。

かつてはこれもまた精神病や妄想の一種だと思われていましたが、現在ではれっきとした身体的基盤を持つ病態だとわかっています。それは、身体完全同一性障害(BIID)と呼ばれています。

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳によると、この病態は、「外国の手足」を意味する「ゼノメリア」(xenomeria)と呼ぶほうがふさわしいと感じる人もいます。(p87)

確かに、「ゼノメリア」という呼称のほうが、この症状を抱える人たちの苦痛をよく言い表しているかもしれません。BIIDの当事者たちは、自分の身体の一部が、他人の身体だと感じられるからです。

彼にとって足は異質な部分であり、まがいもの、侵入者だった。起きているあいだは、足から自由になる想像で頭がいっぱいになる。

立つときも、「良い」ほうの足にだけ体重をかけた。自宅では片足飛びで移動し、座っていてもつい手で足を押しのけようとする。この足は断じて自分の足ではない。(p85)

この、自分の足が「異質」「まがいもの」「侵入者」のように感じられる不快感は、この記事で見てきた、解離の当事者たちが感じる体感異常とほぼ同じものです。

細かく言えば、原因は異なります。BIIDの人たちの場合は、おそらく先天的に右上頭頂小葉の働きが弱く、手や足の一部から送られてくる内受容感覚が「他人」とみなされるようになってしまうようです。

他方の解離はトラウマ的経験を生き延びるための適応として、脳が自ら、身体から送られてくる内受容感覚を「他人」とみなすようになります。BIIDの症状が固定しているのに対し、解離のほうは脳の状態に応じて変化します。

しかしながら、当事者の感覚はよく似ています。BIIDの場合は、強烈な違和感のある手足を切断して取り除きたいと願います。普通の身体感覚を持つ人には想像もつかないでしょうが、気が狂わんばかりに切実な願いです。

その後もパトリックは、自分の足をどうにかしたい欲求に悩まされた。

「この足とおさらばするためにはどんな方法がある? 何を、どうすればいい? でもそのために命を落とすのはいやだ」

切断者の写真を見たり、道で切断者を見かけたりすると、衝動が高ぶってしかたがない。

「そのことで頭がいっぱいになる。数日間は、どうやって足をなくすかということしか考えられない。」

とうとうパトリックは神や悪魔頼みにまでなり、「私の足を奪って、ほかの誰かの足を救ってください」と祈りをささげた。

彼は45年間、そんな悩みを誰にも言えずにいた。それは耐えがたい孤独だった。(p93)

解離の体感異常も、ときに同じほど切実な苦痛を生じさせます。前述の16歳の少女バーベルは、全身のムズムズ感のために大声で泣き叫び、ベッドの上を転げ回りました。

彼女は本当に虫がいると確信していたわけではありませんが、それでもあまりに強烈で耐えがたい不快感のため、皮膚をメスで切ってほしいと要求することもあったそうです。

また、30歳の解離性同一性障害(DID)の当事者が述べていたことも思い出してください。彼女は「18歳頃から手足に虫のような生き物が侵入してきて、それが振り払えないので、ムズムズする部分を切り落としたくなる感じがしていた」と述べていたのではないでしょうか。

わたしも当事者として包み隠さずに言えば、身体の中に感じる異物を、できることならえぐり出したいと思うほど悩んだことは数知れません。10代のころは、あまりに不快で何も手につかず、先ほどのBIID当事者パトリックのように感じていました。

わたしの場合、えぐりだしたかったのは例えば眼球でした。ずっと以前に書いた記事ですが、今になってようやく、あの感覚が何なのか説明できるようになったのです。

目の裏側がむずむずする不快感の謎―ドーパミンが関係?
目の裏側がむずむずする、なんとも形容しがたい不快感に悩んでいる人がわたし以外にもいるようなので、文章としてまとめました。

ほかにも、わたしの体感異常は全身さまざまなところに発生していますし、内臓や頭に強烈な異物感を感じることもあります。

解離の当事者が感じる奇怪な異物感が、BIID当事者と同じ原理で生じているというこの説明には、幻肢をはじめとする身体イメージ障害の研究で名高い神経科学者V.S.ラマチャンドランのお墨付きがあります。

脳のなかの天使の中で、ラマチャンドランは、BIIDの切断願望について論じ、その後、離人症やコタール症候群の自分の身体への強烈な違和感について考察し、これらには脳科学的な共通性があると述べています。

ここで注目してほしいのは…離人症(「私が現実のように感じられない」)という奇妙な状態に根底に、それほど極端ではないタイプのコタール症候群が存在する可能性が容易に見てとれるという点である。(p394)

このようにとらえると、コタール症候群は、腕や脚だけではなく、自己全体におよぶ [BIIDのような] 切断願望であり、自殺は成功した切断手術だと言える。(p395)

ラマチャンドランの洞察に基づけば、手足が他人のものに感じるBIIDと、全身が死体のように感じるコタール症候群は、症状が出ている場所が異なる同じ現象であり、離人症のような解離症状はその一歩手前ということになります。

BIIDの人たちは、自分の手足のいずれかに強烈な不快感を感じ、それを切断したいと願いますが、離人症やコタール症候群の人は一部というよりもっと多彩な領域に異常な不快感を感じ、それを取り除きたいと願うのです。

警戒レベルが上がりっぱなしになる

この自分の身体の一部を切断したい、切り離したい、えぐり出したい、という強迫観念は、妄想でも思い込みでもないことを、ラマチャンドランは実験で証明しました。

ラマチャンドランらは、BIID当事者たちを対象に、自分のものだと感じる身体の部分と、まったく異質で他人のものだと感じられる部分をそれぞれピンで軽く突き、その瞬間の皮膚コンスタンス反応(SCR)を記録しました。

SCRとは、皮膚の発汗の高まり(電気皮膚反応)のことで、自分の意思で変えられるようなものではありません。通常、ストレスを感じたときにSCRが高まります。

実験では、自分のものではないと感じる手足を触られたとき、BIID当事者のSCRは急激に高まりました。

ここは少し意外かもしれません。自分のものでないと感じているのに、なぜより強いストレスを感じるのか。

その理由について、私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳にはこう書かれています。

マッギーオとラマチャンドランを中心とする研究グループは、簡潔ながら的を射た実験でそのことを確かめた。

…二つの実験から、所有感のない手足のほうが感覚過敏であることがうかがえる。まるで脳が異質な部分ばかりに注意を向けているようだ。

「その部分がやたらと活発で注意を集めるため、側頭葉での扱いが優先されている印象です。なるほどと思います」ブルッガーはそう話した。(p104)

自分のものでない手足、というのは、つまるところ「異質な部分」なのです。

メッツィンガーの理論で考えれば、BIIDの患者が自分の手足を切り落としたくなる理由も推測できる。

…自分と非自分の線引きをきっちりしておかないと、いろんな機能に支障が出てきます。

モデル内の表象がゆがんで、この手足は自分のものではないと判断されると、警戒レベルが上がりっぱなしになるのです。(p103)

「自分のものではない」と判断されるというのは、すなわち「他人のものだ」と判断されるということです。

ラマチャンドランは自著 脳のなかの天使で、これを「ミスマッチ嫌悪」と呼んでいます。自分の身体ではないというミスマッチな感覚に対して、人は嫌悪、つまり激しい不快感を抱くということです。

しかしなぜそうなるのか。なぜ患者は、その腕や脚に無関心なだけではないのだろうか? 腕の神経が損傷されて感覚が完全に失われてしまった患者たちは、腕をとってほしいとは言わない。

この疑問の答えは、ミスマッチ嫌悪という概念にある。この概念は、あとで取り上げるように、多くのタイプの精神疾患において決定的に重要な役割をはたしている。概略的に言えば、脳のモジュールの出力のあいだに一貫性の欠如もしくはミスマッチがあると、疎遠感、違和感、妄想、パラノイアなどが生じるという考えである。

脳は内部の異常(たとえば、カプグラ症候群に見られる情動と同定とのあいだのミスマッチなど)を忌み嫌い、しばしばそれを否認する。…内部のミスマッチがどこで検出され、不快を生じるのかは明らかではないが、私はそれを島(とくに右半球の島)でなされていると考えている。(p361)

ラマチャンドランは、自分の身体に感じる違和感は、おそらく脳の島皮質という場所で検出されるミスマッチによるものであり、それがしばしば妄想とみなされていると述べています。

自分の身体ではない、と感じるミスマッチが、いかに強い不快感を引き起こすかは、前回の記事で取り上げた、左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)に出てくるオリヴァー・サックスや、彼の患者だった若い男性の例からよくわかります。

彼らは共に、事故や病気のせいでBIID当事者と同様の苦痛を一時的に感じましたが、そのとき、「解剖用の死体の足」が体にくっついているとか、「石膏でかためられた筒」が身体から突き出ていると言ったのではなかったでしょうか。

「これを見てください」嫌悪感もあらわに彼は叫んだ。「こんな、身の毛もよだつような恐ろしいものを見たことがありますか? 解剖用の死体の足。まったくぞっとする。どういうわけか私のからだにくっついているみたいだ」

彼はそれを両手でしっかりつかむと、ものすごい勢いで、自分のからだからもぎとろうとした。それができないとわかると、今度は怒り狂ったようになぐりつけた。(p86-87)

まさにこれと同じなのです。自分の身体の中に、「自己」ではなく「非自己」とタグ分けされてしまった部分があるというのは、いわば、身体に「解剖用の死体の手足」がぶら下がっているようなものです。

そんな「身の毛もよだつような恐ろしいもの」が四六時中身体から突き出てくっついているとしたら、それをなんとしても切断したい、もぎ取りたいと感じて、昼も夜も切実に苦悩し続けるのも当然ではないでしょうか。だれだってそうなります。

 私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳で引用されているドイツの哲学者また精神科医であるカール・ヤスパースの言葉が思い出されます。

妄想を正しく把握するには、その根底に知性の貧困があるはずだという先入観から自由になることが最も重要だ。(p120)

自分の身体を切断したいとか、内臓をえぐりだしたい、眼球をくりぬきたいと思うほどの強い自己破壊的な衝動や強迫観念があっても、それは知性の貧困が引き起こすような気が狂った妄想だとは限らないのです。

自分の身体に明らかに「非自己」と分類されるものが埋め込まれていて、寝ても覚めてもそれから逃れられず、あまりに奇妙で不快でぞっとして耐えがたいなら、そう感じないほうが不自然です。

本田 慎一郎先生の豚足に憑依された腕 - 高次脳機能障害の治療 -には、本のタイトルにもなっているように、自分の腕に豚足がくっついているかのような強烈な不快感を感じるようになった人の例が出てきます。

決して妄想的な人ではなく、自分の感覚について打ち明けるのをためらっていたほどです。しかし、いくら冷静に、客観的に考えても、まるで腕に豚足がくっついているとしか思えないような不快感がある、ということでした。

この人が語るところによると、骨がむき出しになったかのような豚足に対して、もともと強い不快感を持っていたそうです。

この記事で考察してきたことからすると、おそらく事故のときの痛みを解離させた結果、腕の一部が非自己と分類され、強烈な違和感が伴うようになったのでしょう。

そのとき、強烈な不快感を感じる「非自己」である腕の感覚と、やはり強烈な不快感として記憶されていた豚足の感覚とが、脳の中で不幸にも結びついてしまった(条件付けされた)のだといえます。

すでに考えたとおり、形容しがたい解離性の不快感は、その人の価値観やその時代の文化によって、さまざまな言葉で表現されます。この人の場合はぴったり当てはまってしまったのが豚足のような不快感だったのです。

なぜあなたの身体はあなたのものなのか

自分の身体を切り離したいとまで悩むBIIDや、自分の内臓が腐っていくように感じるコタール症候群、そしてさまざまな体感異常に悩まされる解離の当事者は、身体の一部に「非自己」のレッテルが貼られるせいで寝ても覚めても不快感につきまとわれます。

しかしながら、もっと奇妙なのは、むしろそうした不快感に付きまとわれない、健康な人たちのほうです。

わたしたちは普段まったく意識していませんが、なぜわたしたちは自分の身体が異物だと感じないでいられるのでしょうか。

考えてみてください。あなたの身体は、生まれたときのままの材料でできているわけではありません。

身体の構成物質は、刻一刻と代謝され、生まれたときのあなたの細胞は、もうすでにまったく別のものに入れ替わってしまっています。

身体は当然、毎日食べているものによって形作られますが、ステーキをナイフで切るとき、自分の身体の一部のように感じて躊躇するような人はいません。

ところが、それら食べたものから形作られる自分の身体については、それが自分の身体の一部だと認識します。

もっと奇妙なことを言えば、あなたの体は9割が細菌: 微生物の生態系が崩れはじめたという本のタイトルにもなっているように、近年のマイクロバイオーム(体内の微生物の集合)の研究によれば、わたしたちの身体を構成する細胞のうち、かなりの割合は微生物です。

心を操る寄生生物 : 感情から文化・社会までに書かれているように、わたしたちの身体の表面、そして内部には、数えれないほどの共生細菌などがうごめいています。

人間の体に住んでいる微生物の大規模な調査は2005年にはじめて行なわれ、異なる生きものの遺伝子パターンを区別する超高速の遺伝子配列解析マシンが開発されたことが追い風となった。

…さらにコンピュータを用いて分析結果から微生物相全体の規模を計算した―私たちひとりひとりに住みついているウイルス、細菌、菌類、原生生物、その他すべての生物を合計した数を求めたのだ。

最終的な集計は100兆個を超え、人体のすべての細胞を合わせた数はそれより一桁少ない。

微生物起源の遺伝物質の総量は、人間自身がもつ遺伝物質の150倍にもなる。

簡単に言えば、自分の90パーセントは、実は自分ではない。(p134)

とすると、ある意味、自分の身体の中をそこらじゅう虫が這い回っていると感じる寄生虫妄想の人たちが正しいのではないでしょうか。大多数の人が意識していないだけで、本当は身体中を異物がうごめいているのですから。

奇妙なのはむしろ、身体のあちこちを虫が這い回っているという感じている人たちではなく、自分の身体には這い回る虫のようなものは存在しないと感じている他の大多数の人なのではないでしょうか。

大半の人が、自分の身体を自分のものと認識できるのは、わたしたちの知らないところで、自分の身体を自分のものだと認識させる機能、つまり体中の細菌や細胞に「自己」のタグを貼る驚異的なメカニズムが存在しているからです。

子どもが学校に持っていく自分の所有物すべてに名前を書くように、わたしたちの脳は、身体を構成する要素にいわば名前を書いて、単なる有機物の固まりを、自己として所有しています。

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳にこう書かれてとおりです。

視覚情報と触覚情報、さらには関節や腱、筋肉から得られる内的感覚で身体の各部分の相対的な位置を把握した結果(神経科学ではこれを固有受容感覚と呼ぶ)、身体所有感覚ができあがる。(p97)

わたしたちの脳は、視覚や触覚、そしてさまざまな内受容感覚をもとに、自己と非自己を区別するための「身体所有感覚」を生み出してます。

そして、解離とは、小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)で説明されているように、この身体所有感覚(身体帰属感)を手放すことで、苦痛をやり過ごそうとする脳の防衛本能です。

たとえば、身体的虐待を受けた場合は前頭前皮質および島皮質に萎縮が見られた。「島皮質は身体帰属感や個人の主体性と関わりがあります」とブラムバーグ。

「この発見は、身体的虐待を受けた子どもがしばしば訴える解離症状がこの部位の萎縮に関連している可能性を示しています」。

子どもが自分の心と身体を切り離そうとするのは、それが自分の身に降りかかる恐怖から逃れるための唯一の方法だからだ。

そうした子どもは心の中で「どこにでも行く」。ひねられているのは自分の腕ではない、叩かれているのは自分の顔ではない、性的虐待を受けているのは自分の体ではないと言わんばかりに。(p155)

解離に関係している脳の「前頭前皮質および島皮質」は、まさにラマチャンドランが述べていたミスマッチ嫌悪と関係している部位です。

解離とは、あえてミスマッチを引き起こすことで、すなわち、あえて自分の身体や感情を、他人のものだと錯覚させることで、苦痛をやり過ごす防衛反応です。

確かに、自分の体は自分のものではなく他人のものであり、「自己」ではなく「非自己」だと錯覚させることは、圧倒されるようなトラウマ体験をやり過ごすには効果的な方法でしょう。

けれどもあまりにも長く逆境にさらされるなどして、トラウマが去った後も、自分の体が「非自己」のままになってしまっていたら、脳は安心することができなくなります。

「自己」の一部だと判断された部分については、脳は自分の所有物として安心して受け入れますが、自分の持ち物ではない「非自己」だと判断された部分については危険だとみなして警戒レベルを上げます。

この自己と非自己を区別するための身体所有感覚(身体帰属感)とは、以前の記事で詳しく説明した「バーチャルボディ」や「身体イメージ」と呼ばれる仮想の脳内地図のことです。

わたしたちの脳は、有機物と細菌の寄せ集めにすぎない肉体に、自分の持ち物だと名前を記すための仮想の脳内地図を重ね合わせることで、それが自分の身体であると認識させています。

たとえば切断された手足が切断後も存在するように感じる幻肢は、文字通りの肉体が無くなったのに、自分のものだという名前を記したネームプレートだけが残っている状態です。

幻肢はこの脳内地図の存在で説明できるだろう。手足を失っても、脳内地図は残っているのだ。

地図は元のままのこともあれば、断片化していたり、変更されていることもある。

この脳内地図が、失われた手足を認知させ、あまつさえ痛みまで感じさせるのだ。(p99)

逆に、肉体としての手足はちゃんと存在しているのに、ネームプレートの部分がなくなって、だれのものかわからず「非自己」だとみなされてしまっているのが、BIID当事者たちの手足です。

「逆のことが起きているんです。つまり魂のない肉体がBIIDということ」とブルッガーは言う。

身体は完全に発達しているのに、脳内表象が不完全で、脳内地図で手足のとこころだけ白くなっている。(p99)

そして、解離の当事者たちの体感異常もまた、これと同じく、肉体としての身体や内臓はそのまま存在しているのに、自分のものだというネームプレートがないせいで、身体所有感覚(身体帰属感)が失われ、異物感や不快感が生じているのです。

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終わりなき冷戦

食べたステーキであろうが、寄生虫であろうが細菌であろうがウイルスであろうが、体内に取り込まれて共生関係になったものは、自己の一部として登録されます。

そのおかげで、免疫系は自分の身体を異物として攻撃しなくてすみます。「非自己」は身体から排除しなければなりませんが、「自己」は安全なので免疫系からスルーされます。

自分の身体の内部の「自分と非自分を区別する」システムは、病気に対処するのに役立ちます。わたしたちが病気になったときに気づけるのは、身体が、明らかに異常な部位を「非自己」認定して、異物だと知らせてくれるからです。

ところが、特に異常もないのに、身体の一部が「非自己」認定されると、脳はそこから送られてくる内受容感覚を、病気のシグナルと勘違いします。

そのため、解離の当事者は、自分の異様な体感異常を何らかの病気だと錯覚して、病院に検査を受けに行くかもしれません。

しかし検査結果は正常と出ます。本当に臓器に異常があって「非自己」認定されているのではなく、脳が自己防衛のために「非自己」のレッテルを貼っているだけだからです。

とはいえ、「非自己」認定された身体の一部が、いつまでも無事だとは限りません。ラマチャンドランが観察したように、身体は異物認定された場所に対して皮膚の発汗の高まり(SCR)を見せ、警戒していました。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているように、本来、「自己」の一部に「非自己」のタグを貼り、身の毛もよだつような恐ろしい体験を他人事のようにスルーする解離という防衛機制は、短期的に見れば、重大なトラウマによって人格が崩壊するような危機をやりすごす有効な手段です。

しかし、一時的に「非自己」のタグを貼ってやり過ごすはずだったのに、トラウマが去ってもずっと「非自己」のままになっていると、この記事で見たような問題が引き起こされます。

脅威を原因とする激しい内臓反応は通常は急性で一時的であるべきものである。

危険が去れば、(交感神経系による胃の運動の阻害であれ、原始的な迷走神経による猛烈な運動性の過剰刺激であれ) この反応は停止して、生体を今ここによどみなく流れる平衡状態に戻す必要がある。

平衡が回復しないと、急性の、ひいては慢性的な苦痛の中に取り残されることになる。(p148-149)

もしずっと内受容感覚に「非自己」のタグが貼られたままだと、内受容感覚から生じている感情が実感できない失感情症や、内受容感覚によって形作られる自己意識が希薄な離人症につながります。

内受容感覚は、本来、内臓や腱や筋肉の情報を脳に伝えるためのものなので、それが「非自己」認定されていれば、自分の内臓が異物のように思える違和感や、腱や筋肉の動きが虫の這いずり回るかに感じられる不快感が生じます。

自分の身体に異物があると感じられれば、ちょうど「解剖用の死体の足」がぶら下がっているのと同じく、相当なストレスが引き起こされ、免疫系は警戒を強め、こうして長期的には、さまざまな慢性疾患の温床へと変容してしまいます。

解離によって自己の一部が「非自己」認定されてしまった人たちは、免疫系が自分の身体の一部を異物として危険視する状態に陥ります。

幼少期に慢性的なトラウマを経験して解離状態になった人は、その後の人生で「小児期逆境後症候群」と呼ばれるほどの多種多様な自己免疫疾患その他の病気に見舞われます。

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ヴァン・デア・コークも 身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、トラウマのサバイバーが、関節リウマチをはじめ、身体的な自己免疫疾患になりやすいことを指摘しています。(p91,482)

アレルギーや自己免疫疾患は、マイクロバイオーム(体内の微生物群集)の乱れとの関わりが強いことが知られています。共生関係にあるはずの腸内細菌や寄生虫を安全な味方だと学習できず、警戒してしまうことから起こるようです。

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トラウマとマイクロバイオームの問題は、まったく別々の分野で研究されてきましたが、従来の定義や概念にとらわれずに研究していけば、仕組みの上でオーバーラップしているのかもしれません。

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身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、ピーター・ラヴィーンが書いているように、不動系の迷走神経が慢性的に作動し、内臓が凍りついたり擬態死状態になっている人たちは、自分の内部にある「非自己」という仮想的と永久に戦い続けています。

内臓が迷走神経によって持続的に過剰な刺激を受けると、より大きな苦痛を感じることもある。

内臓がねじれるような吐き気を催し、筋肉の力が抜けてエネルギーがなくなったと感じると、無力感と絶望感に襲われるー実際には破壊的な脅威がなくとも。

つまり、現在のところ何も悪いことがなくてもー少なくとも外的にはー、むかつき自体が重大な脅威と恐怖の信号を脳に送るのである。(p148)

解離の当事者が、全身いたるところに感じる得体の知れない異物感や不快感は、全身のいたるところに「非自己」と分類された身体が散らばっていて、脳が自分ではない異物を危険視して警戒し続けている、終わりなき冷戦のしるしだったのです。

自分の内部感覚と友達になる

解離のさまざまな異常が、本来「自己」のタグが貼られるべき身体の一部に「非自己」のタグが貼られ、自己所有感が失われて異物になってしまうことから来ているとすれば、その治療法はどのようなものなのでしょうか。

まず、内部の変質した感覚に悩む人たちは、前回の記事の補足で書いたように外的刺激を与えて注意を内部から外部にそらすことで、体感異常を緩和させる自己治療的な試みを習慣にしています。

どんな外的刺激を用いているかは人それぞれですが、たとえばヴァン・デア・コークが、 身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法に書いているような仕方で、内部の不快感から注意をそらしている人がほとんどでしょう。

彼らは肥満になったかと思うと拒食したり、あるいは運動や仕事に過度に熱中したりすることもある。

トラウマを負った人の少なくとも半数は、自分の内面世界の耐え難さを薬物やアルコールで紛らわせようとする。

麻痺させることと表裏一体になっているのは、刺激を追い求めることだ。

自分の体を切ることによって麻痺した感覚を追いやろうとする人も多いし、バンジージャンプをしてみたり、売春やギャンブルのような危険な行動を試したりする人もいる。(p438-439)

しかしながら、こうした外的刺激を与える依存症や中毒、自傷行為などによって、内部の違和感や不快感から目をそらす試みは、一時的な対処療法にしかなりません。

これらはいずれも、変質した内部の感覚から注意をそらしているだけであり、問題の解決を先送りしているともいえます。

では本当に有益な対処法とはどのようなものなのか。ヴァン・デア・コークは、 身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で次のように書いています。

トラウマの犠牲者は、自分の体内の感覚になじみ、その感覚と仲良くなって初めて回復が可能になる。

…私の治療の場合には、患者を手助けし、彼らが体の中の感じにまず気づき、次にそれを説明できるようにするところから始める。

体の中の感じとは、怒りや不安や恐れのような情動ではなく、圧力や熱、筋肉の緊張、疼き、へたばり、空虚さといった、情動の土台となる身体的感覚のことだ。(p169)

ヴァン・デア・コークは、この本の中で、さまざまな解離の治療法を紹介していますが、この記事で考えた観点から見れば、その多くは、「非自己」になって敵対してしまった「自分の体内の感覚になじみ、その感覚と仲良くなる」ことに集約されます。

たとえばヴァン・デア・コークは、内受容感覚を取り戻し、自己所有感を培うための方法として、ヨーガなどのボディワークの効果も紹介しています。

失感情症の人は、身体的な不快感を抱きがちだが、何が問題なのかをはっきりと説明できない。その結果、曖昧な身体的苦痛をあれこれ訴えるのだが、医師は診断名をつけられない。

さらに彼らは、どのような状況に置かれても、自分が本当はどう感じているのかや、なぜ気分が良くなったり悪くなったりするのかがわからない。これは、体の通常の要求を、穏やかに、注意深く予期したり、それに応えたりできなくさせる、麻痺の結果だ。

…内部の世界との関係を(再度)築き、それとともに、自己との思いやりにあふれた、身体的感覚を伴う関係を復活させるには、ヨーガは素晴らしい方法であることがわかった。(p449-450)

ヨーガにもさまざまな形態がありますが、ここで言われているのは宗教的背景をもつヨーガではなく、ボディワーク寄りのセラピーとしてのヨーガです。

私たちは、瞑想そのものは教えないが、いろいろなポーズをしながら体のさまざまな部位で何が起こっているのかを観察するように参加者に促すことによって、マインドフルネスを育んでいる。(p446)

さまざまな姿勢による、体の微細な変化に気づくことは、非自己に分類され、自分のコントロールを外れてしまった内受容感覚に気づき、「内部の世界との関係を(再度)築」く助けになります。

従来のセラピーの大半は、内部の感覚世界における一瞬一瞬の変化を軽視、あるいは無視している。だが、こうした変化にこそ、生体の反応の本質がある。

その本質とは、体の化学的な特徴と、内臓と、顔や喉や手足の横紋筋の収縮に刻まれている、情動の状態だ。

トラウマを負った人は、自分の感覚に耐え、内部の経験と友達になり、新たな行動パターンを培う能力が自分にはあることを学ぶ必要がある。(p450)

この記事で見たとおり、「内臓と、顔や喉や手足の横紋筋の収縮に刻まれている、情動の状態」こそが、解離の体感異常の原因そのものでした。これらが発する内受容感覚が「非自己」に分類されたことで、さまざまな異物感や不快感が起こっていました。

ひとたび「非自己」に分類されたこうした感覚を、再び「自己」の分類に戻すには、体が、それらの感覚に触れても安全だということを、身を持って繰り返し体験する必要があります。

トラウマを負った人は、自らの内部の不快感や異物感に直面したとき、反射的に反応し、とっさにその感覚を退け、敵対的なものと認識してしまう傾向があります。たまらなく不快なので、それも致し方ないことです。

しかし、ボディワークのセラピーでは、徐々に海に入って水に慣れるかのように、時には回り道をしながらでも、少しずつ自分の内部の感覚に親しみ、最終的には「自分の感覚に耐え、内部の経験と友達にな」れるよう助けます。

「内部の経験と友達にな」るというのは、自分の中に「他人」として存在している内受容感覚を文字通り擬人化して友達になるようなものです。

たとえば、この本の中でヴァン・デア・コークが紹介している内的家族システム療法(IFS)は、その名のとおり、自分の内側で家族療法をするようなセラピーでした。

心は複数の自己からなる「内的家族システム」(IFS)である―分離脳研究が明かした愛着障害の正体
スペリーとガザニガの分離脳研究はわたしたちには内なる複数の自己からなる社会があることを浮きらかにしました。「内的家族システム」(IFS)というキーワードから、そのことが愛着障害やさ

まず自分の内部の得体の知れない不快で異物感に覆われているような感情また感覚と向き合い、それを具体的なイメージ、ひとつの人格へと置き換えていきます。その上で、セラピストと共に、その人格とコミュニケーションし、仲良くなっていきます。

まるでままごとのような子供じみた遊びだ、と思うかもしれません。実際この本に出てくる患者のピーターは当初そんな見下した態度を取っていました。しかし、紆余曲折の末、セラピーを続けることにして頭の違和感が緩和されていきました。(p485-491)

この記事と前回の記事で考えたとおり、そもそもわたしたちの自己意識とは、身体の内受容感覚から生まれているものです、だとすれば、非自己に分類されてしまった内受容感覚を見つけて、それを一種の人格として扱うのは、しごく当たり前のことだといえます。

別の観点から言えば、解離によって人格の多重化が生じるのもしごく当然なのです。人格とは内受容感覚から生じているものなので、内受容感覚の一部が非自己になるというのは、別の人格になるも同然だからです。(別の記事で引用しましたが、柴山先生は、体感異常で生じた内臓や頭の中の異物が別人格としても感じられる例を複数挙げています)

もしIFSがままごとのように感じられるとすれば、いまだに幅を利かせているデカルトの心身二元論、つまり身体と心は別物だという概念にとらわれてしまっているせいでしょう。

この本で説明されているように、自己免疫疾患のひとつである関節リウマチの治療に9ヶ月のIFSを取れ入れたランダム化研究によると、関節痛や身体機能にさえ改善が見られ、苦痛の知覚や抑うつ症状の改善は1年後も持続していました。(p484)

内的家族システム療法が教えてくれるのは、自分の変質した内部感覚と「仲良く」なるプロセスは、文字通りの人間関係において誰かと友だちになろうとするのとほとんど変わらない、ということです。

文字通りの人間関係において、ほんの数日で誰かと友達になれるはずはありません。押しが強すぎるなら嫌われて拒絶されるだけです。相手のプライベートを尊重し、こちらの限界をわきまえて、徐々に友情を深めることが大事です。

トラウマや解離を対象にしたセラピーの場合も、これまで自分が反射的に退けてしまっていた内受容感覚に少しずつ気づき、少しずつ触れ、ときには不快な感覚だけでなく心地よい感覚にも親しむよう務め、こうして他人と認識されていた感覚を、徐々に自己の一部へと統合していきます。

今回引用した身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの著書のピーター・ラヴィーンは、そのプロセスを「振り子運動」(ペンデュレーション)と表現していました。

トラウマが凍りついた状態または固まった状態であるのに対して、ペンデュレーションは、収縮と拡張という生得的な生命体リズムである。

言い換えれば、いかに恐ろしく感じていたとしても、その感情は変化しうるし変化するであろうことをおそらく初めて知ること(内側から感じること)によって、固まりが解けていくことだ。

この知識(体験)がなければ、「固まった」状態にある人が、自らのからだに宿りたいと思うことは難しい。(p97)

水の中とプールサイドを行ったり来たりするかのように、少しずつ、少しずつ自分の内部感覚と、安全な場所とを行き来するのが、振り子運動(ペンデュレーション)です。

前述のヨーガにしても、その他のボディワークにしても、いきなり苦行のようにして不快な感覚に耐えるようなことは絶対にしません。それでは、暴露療法のようなトラウマの再体験を生み、解離を悪化させるだけです。

原因不明の身体症状に苦しむ人のための「記憶」の科学の10の考察
全身に散らばる原因不明の身体症状の謎を、記憶の科学から読み解きます

ピーター・ラヴィーンが『この知識(体験)がなければ、「固まった」状態にある人が、自らのからだに宿りたいと思うことは難しい』と述べていたのは、まさしく真実です。

わたし自身も体験してみた今だから言えますが、こうした「経験」を積み重ねていくタイプのセラピーは、どれだけ本を読んでも把握できません。

レシピをいくら読んでも料理の味はわかりませんし、インターネットでどれだけ写真をサーチしても旅行で実際に味わう感動のほんの1ミリも味わえないのと同じです。知識は理解や把握にしか役立ちませんが、経験はトラウマを書き換えます。

もし、この記事を読んで、さまざまな体感異常についての説明が自分の場合にも当てはまる、と感じた人がいれば、ここで書いた内容を読むだけでなく実践的な体験してほしいと思います。

今回紹介した  身体はトラウマを記録する身体に閉じ込められたトラウマトラウマと身体 といった本には、治療の助けになる専門的情報がたくさん載せられています。日本ではまだ一般的でない治療法も多いですが、探してみれば資格ある専門家やセラピストがいるものです。

この記事に書いたことは、わたしがそれら様々な本を読んで、また幾つかのセラピーを体験して、ようやく今になって理解してきた内容です。

どれほど真実に迫っているかはわかりませんが、ラマチャンドランが脳のなかの天使の中で、BIIDの手足の異物感についての考察に添えているこの言葉と同じ気持ちです。

もちろん以上はすべて推論にすぎず、現時点では、[BIIDの] 四肢切断願望についての私の説明が正しいかどうかさえわかっていない。

だが私の仮説は、多数の脳障害を説明するのに必要な論理的思考のスタイルを例示するものである。

そうした障害を「精神的」もしくは「心理的」な問題として片づけ、無視するだけでは何にもならない。

そのようなレッテルを貼るだけでは、正常な脳機能をあきらかにすることもできないし、患者を助けることもできないのである。(p371)

この記事が、人知れず悩んでいる当事者の苦痛を少しでも和らげる助けとなり、共に解決策を探してくれる誠実な医師たちが一人でも増え、メカニズムや治療法の研究がさらに前進することを願ってやみません。

補足 :しびれやねじれの体感異常を手続き記憶から考える

この記事では、おもに身体の異物感について考えました。しかし、解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)に載せられていた体感異常のリストの中には他にも多種多様な感覚が表現されていました。

例えば、しびれ感やねじれ感を伴うケースについては、文中で述べた不動系(背側迷走神経)による筋肉の「凍りつき」や「擬態死」に伴う、筋肉の過剰な緊張や弛緩から説明するほうがわかりやすいかもしれません。

「凍りつき」は、行動を起こそうとする交感神経系と、急ブレーキをかけようとする不動系が同時に働き、筋肉が両方向に引っ張られて硬直する現象です。

たとえば、身体はトラウマを記録する身体に閉じ込められたトラウマトラウマと身体 では、相反する強烈な衝動を経験したまま凍りつきを起こしてしまったヴィンスという消防士の男性の例が出てきます。

ヴィンスが大破した車の乗客を救助しようとしたとき、そこには二つの同時の、しかし相反する生存のための反応があった。

一つは女性の命を救うためにはどんなことでもやるというもの。そしてもう一つは、恐怖から退くことである。

この強烈な葛藤状態で、ヴィンスの神経系と筋肉は身動きがとれなくなり、肩が凍りついた。(p234)

彼はショッキングな事故の現場に居合わせました。消防士としての使命感から自動車の中の女性を助けようとしましたが、頭部がちぎれた子供の遺体を目にして恐怖にさらされ、救助したいという衝動と逃げたいという衝動を同時に経験しました。

この相反する強烈な衝動の手続き記憶(身体の動きのパターンの記憶)が、未完了のトラウマとして身体に残ったままだったので、事故の現場を離れてからも、肩の筋肉は引き裂かれるように痛み続けました。

もう一つ、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際に載せられているラッセルという男性の例も見てみましょう。

セラピストはラッセルに、立って、セラピーのオフィスにあるものの中から父親をあらわすものを選ぶようにいいました。

ラッセルが対象物を選んだときに、セラピストは実験してみようといい、最初はその対象を避けるようにして、次にゆっくりと向きを変え対象に向き合い、身体の内で何がおきるか気づくように言いました。

ラッセルの動きはぎくしゃくしだしました。背骨はたわみ、身体の上部はねじれて、あらぬ方向を向きました。

向きを変えて、「父」に顔を合わせようとしていたのに、です。彼の動きは無力な、打ち負かされた姿勢の典型でした。(p320)

ラッセルは、子ども時代に何度も父親に殴られていました。大学生になってからのセラピーで父親がそこにいるかのようにイメージしたところ、彼の身体は無意識のうちにねじれてぎくしゃくした姿勢になりました。

子供のころ、父親に痛めつけられていたとの身体の姿勢が、強固な手続き記憶として身体に保存されていたので、父親を少しでも思い出させるような刺激にさらされたとき、彼の身体は無意識のうちにねじれる動きを再現してしまったのです。

どちらの場合も、かつてトラウマを経験したときに生じた筋肉の凍りつきやねじれる動き、麻痺などが、未完了の手続き記憶としてそのまま残っていたせいで、その後の日常生活の中で、時を超えて無意識のうちに再現されました。

本人も気づかないような場面で、トラウマの手続き記憶が再活性化し、トラウマの瞬間の身体の奇妙な緊張を再現してしまうのですから、原因不明のしひれ感やねじれ感のような体感異常とみなされる場合もあるでしょう。

本文中で書いたような、胃腸系の症状や、のどの違和感もまた、そうした手続き記憶として説明したほうがわかりやすいかもしれません。

たとえば、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際によると、解離の概念を構築した先駆者であるジャネは、性的暴行の被害者が下腹部の筋肉の収縮に悩まされることがあるという観察を残しています。

もしある人が襲われ、反撃したいと感じても相手の力に圧倒されてしまうと、可能な一連の防衛行動がゆがんだ形で残ってしまうかもしれません。

たとえば、筋肉の慢性的に緊張したパターンとか、急な攻撃が引き出されたるという極端な傾向とか、特定の筋肉群における緊張や感覚の慢性的欠如などです。

Janetは「レイプや強制的な性行為の記憶による、下腹部筋肉(処女性の守護者)の収縮」の症状をもつクライエントの例を示しました。(p27)

これも、先ほど引用した2つの例と同じく、トラウマ経験のときの手続き記憶が未完了のまま身体に保存されていた例とみなせます。強制的な性行為の際に下腹部筋肉が過度に緊張して凍りついたのがそのままになってしまったのです。

性行為のみならず、さまざまなトラウマ経験から、腹部の筋肉が慢性的に過緊張状態になった場合、内臓にさまざまな体感異常が生じたとしても不思議ではないでしょう。

また 身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアには、似たような例として、性器を口に含ませられる虐待を受けつづけた結果、過敏性咽頭反射を発症し、何も飲み込めなくなって、経管栄養状態になってしまった少女の例が出ていました。(p393)

これほど悲惨な例でなくとも、たとえば子供のころに、しつけと称して嫌いな物を無理やり繰り返し食べさせられるような経験を繰り返せば、似たようなのどの筋肉の異常が引き起こされることは考えられます。

そもそも不動系の背側迷走神経は、顔やのどの筋肉、呼吸筋を凍りつかせるので、慢性的な解離に陥った人ならだれでも、無表情化や声のでにくさ、慢性的な息苦しさなどを経験しがちです。

こうした筋肉の過緊張症状は、いずれも、文中で考えたような「自己」が「非自己」とみなされることによる体感異常というより、凍りつきの手続き記憶から生じる体感異常とみなすほうが理解しやすいかもしれません。

とはいえ、この二つは、別々のものを言っているわけではなく、同じものを別の観点からみているだけかもしれません。

身体の筋肉が無意識のうちに勝手に収縮してねじれたりしびれたりするのは、トラウマの際の耐えがたい苦痛から、その部分が「非自己」として切り離されてしまい、「自己」の意思とは別に、トラウマ記憶を延々と再現し続けている状態だとみなせます。

本文中で書いたように、解離とは内受容感覚を「非自己」とみなす反応だと考えられますが、トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復によると、そもそも手続き記憶は内受容感覚によって構成されています。

この視床皮質、島皮質、前帯状皮質および内側前頭前皮質の回路は、内受容性の情報、つまり不随意の体内感覚を受け取り、錐体外路運動系を介して行動を準備する。

これがまさに、手続き記憶を構成している基礎構造である。(p105)

手続き記憶=内受容感覚の集合体、であるなら、結局のところ、本文中で説明した内容と、この補足で説明した内容は、まったく同じことを別の観点から説明しているにすぎない、ということになります。

脳科学的には「視床皮質、島皮質、前帯状皮質および内側前頭前皮質の回路」が、内受容感覚を手続き記憶へと構成すると書かれていますが、前回の記事で書いたように、この経路は「自己」と「非自己」の分類をしている場所でもあり、やはり同じシステムを異なる観点から表現しているにすぎないようです。

おそらく、本文中で書いている身体の「自己」と「非自己」を区別するための脳内地図(バーチャルボディ)といういう仕組みも、手続き記憶の空間的情報によって構成されているように思われます。

自分の体を動かすと、そのときに生じる空間や位置についての感覚が、手続き記憶(体の運動パターンに関する記憶)として保存されます。その手続き記憶をもとにして、どの部分が自分の体であるかを特定するのが、「自己」と「非自己」の区別なのでしょう。

解離するということは、特定の体の部分に対応する手続き記憶を「非自己」とみなして、体の所有権を手放してしまうことだとみなせます。

「非自己」とみなされた手続き記憶は、「自己」のコントロールが及ばなくなり、勝手に延々と再生されつづけます。所有権の失われた体は、この補足で説明したように、不随意のねじれやしびれや緊張などを慢性的に繰り返してしまうのです。

解離の研究では、さまざまな専門家が、それぞれの専門分野から考察を深めていますが、まったく別々のことを言っているようで、実は用語が着眼点が違っているだけのことが多いのではないでしょうか。

トラウマの原因不明の身体症状を、手続き記憶の観点から考察した説明については、こちらをご覧ください。

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全身に散らばる原因不明の身体症状の謎を、記憶の科学から読み解きます
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