ハイパーグラフィアの私は「書きたがる脳 言語と創造性の科学」について書かずにはいられない

はてなブックマーク - 慢性疲労症候群のわたしがブログを始めたわけ #myblogstart章が書けない人がいる一方で、文章を書きまくる人がいる。作文を描くよう言われると頭が痛くなる人がいる一方で、毎日日記やブログを書いていないと落ち着かない人がいる。

書きたがる脳 言語と創造性の科学はそんな脳の不思議を医学的に解説した書籍です。医学的には、書きたくてたまらない人の状態をハイパーグラフィア、どうしても書けない人の状態をライターズブロックといい、その2つは表裏一体の関係にあります。

このエントリでは、ハイパーグラフィアの人がハイパーグラフィアについて書いた本書きたがる脳 言語と創造性の科学について、いささかハイパーグラフィア的な傾向を持つ人間の観点からの書評を書きたいと思います。

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これはどんな本?

書きたがる脳 言語と創造性の科学は、自らも医師であり、躁うつ病の体験から、今まさにハイパーグラフィアの状態にあるアリス・W・フラハティが、なぜ人は書きたがるのか、という点について、思いつく限りの考察と推測を、自伝を絡めてひたすら書きまくった本です。

著者はあとがきでこう書いています。

わたしが書くのは、書かなければ窒息しそうだからだ。

わたしが書くのは、自分よりもっと大きな何かがわたしのなかに入ってきて、ページを、世界を意味で埋めさせるからだ。

以下に述べるハイパーグラフィアの定義のとおり、おそらく読む人のことなど考慮に入れていないとさえ思える、圧倒的な情報量と猛烈な勢いで、止まるところを知らず書かれたことが窺える書籍です。

ハイパーグラフィアとは?

ハイパーグラフィアと呼ばれる人たちは以下のような特徴を備えているそうです。(p41)

1.同時代の人に比べて、大量の文章を書く

2.外部の影響ではなく、内的衝動(特に喜び)に促されて書く。つまり報酬が生じなくても楽しいから、あるいは書きたいから、書かなくてはやっていられないから書く

3.書かれたものが当人にとって、非常に高い哲学的、宗教的、自伝的意味を持っている。つまり意味のない支離滅裂な文章や無味乾燥なニュースではなく、深い意味があると考えていることについて書く

4.少なくとも当人にとって意味があるのであって、文章が優れている必要はない。つまり感傷的な日記をかきまくる人であってもいい。文章が下手でもいい

この本では、ハイパーグラフィアだったと思われる作家の例が数多く挙げられています。

それにしても、なぜハイパーグラフィアが生じるのでしょうか。

本書では、書きたいという衝動が生じる背景に、側頭葉の問題があるのではないかとされています。例えば、側頭葉てんかんやゲシュウィンド症候群(ドストエフスキーやゴッホなど)の人はまさにハイパーグラフィアになることがあります。

てんかん患者は必ずしもハイパーグラフィアになるわけではありませんが、ハイパーグラフィアを併発したてんかん患者は、手紙の返事が平均5000語にも上ったという研究があるそうです。(p34)

側頭葉てんかん持ちだったフィンセント・ファン・ゴッホが平均すれば36時間ごとに新しい作品を描いていたとか、側頭葉の異常と多作を結びつけるエピソードは事欠きません。(p14)

側頭葉の異常は、しばしば作家を創作へと突き動かす「内なる誰か」の声が聞こえる、詩神のささやきが聞こえるといった解離的な体験と密接に関係しているようです。

最後に、詩を書く学生は書かない学生よりも「内なる声を聞く」体験が多く、これらの学生の側頭葉でも脳波に変化が起こっている。

したがって内なる声に最もかかわりの深い領域はハイパーグラフィアにとって最も重要な領域であり、たぶん文学的創造性一般についてもそうなのだろう。(p322)

こうした側頭葉の異常というのが、はたして過活動なのか活動低下なのかは判然とせず、両方ひっくるめて不具合が生じているのかもしれません。

したがって側頭型認知症でも側頭葉てんかんでも、側頭葉の活動は低下していることになる。そうだとすれば側頭葉には気の毒だが、ここは創造的意欲の座と言うよりも創造的意欲を抑制する場所と言うほうが正確かもしれない。

実際には状況はもう少し複雑だろう。創造的活動の際には、側頭葉の活動の一部が低下し、一部は亢進しているかもしれない。

そう考えると、てんかんの治療のために側頭葉を手術で除去した人々が爆発的な創造力を示すわけではないことにも説明がつく、

ここは慎重を期して、創造性は側頭葉の活動の変化とつながりがある、と言うにとどめたほうがよさそうだ。(p102)

そのほかに、躁病が関係している場合や(p51)、内なる苦しみを抱えている場合、すなわち闘病や失恋について書かずにいられない場合があるとされています。苦しみは側頭葉の活動の引き金になるからです。(p65)

作家は一般人に比べて、双極性障害が10-40倍多いとか、単極性うつ病も8-10倍だとかいう調査結果は、こうした気分障害とハイパーグラフィアの関連を裏づけています。(p51)

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内向的気質と内省力、そして思考を書き表すこととは互いに関連しているのでしょうが、完全なうつだと創作できないことからして、どちらかというと双極性障害との関連が強いのでしょう。内向性と外向性、停滞と爆発がせめぎ合っている状態です。

それに加えドーパミンなど、神経伝達物質のバランスも関係しているかもしれません。ドーパミンは双極性障害の症状と関係しているだけでなく、思考の多動性がみられるADHDともつながりの深い神経伝達物質です。(p240)

こうした双極性障害、解離性てんかん、ADHDのようなドーパミン異常が、いずれも幼少期のトラウマによる愛着障害で生じうる症状なのは興味深く思えます。

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そもそも、内なる声が聞こえるのも、側頭葉が不安定なのも、アイデアが歯止めなく湧きすぎる思考促迫も、左右の脳の電気的な活動の不調和、つまり解離と関係しているようです。(p98,318)

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作家と愛着障害やトラウマを結びつけるエピソードは数多いので、もしかするとハイパーグラフィアの根っこはひとつなのかもしれません。ハンナ・シーガルの次の言葉はどうも意味ありげです。

シーガルに言わせれば、

「すべての創造はじつはかつて愛した、かつて完全であったがしかしいまは失われ、破壊されたもの、破壊された内的な世界と自己の再創造である。

自分の内なる世界が破壊されたとき、愛のない死んだ場所になったとき、愛する者が粉々になったとき、自分自身がどうしようもない絶望に陥ったとき―

そのとき、わたしたちは自分の世界を新しく再創造し、破片を集め、死んだかけらに生命を吹き込んで、生命を再創造しなければならなくなる」(p85)

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とはいえ、ハイパーグラフィアとふつうの人は明確な境界線によって定められるわけではなく、「書くことに関しては、あまり書くことを楽しんでいない一般人から創造的な作家、そしてハイパーグラフィアまでの連続的なスペクトルがあると見ていいだろう」とされています。(p69)

ライターズ・ブロックとは

ハイパーグラフィアの対極にあるのが、書きたいのにどうしても書けない苦しみ、ライターズ・ブロック、つまりスランプ状態です。

しかしハイパーグラフィアとライターズ・ブロックは相反するわけではなく、ハイパーグラフィアでありながらライターズ・ブロックであることもあります。一例としてジョゼフ・コンラッドの手紙が掲載されています。

彼はどうしても新しい小説を書けなかったので、友人に宛てて、その悩みを切々とつづった長い手紙を書いたのです。(p110)

つまりライターズ・ブロックとは、当人が望むよりはるかに少なくしか書けない状態、あるいは、当人が書きたい分野について書けない状態ということができます。ライターズ・ブロックは特定のジャンルやテーマに関して生じるので、失書とはまた異なります。書く能力ではなく創造性の問題なのです。(p115)

ですから、ライターズ・ブロックの治療法は次のような心理的な手法ということになります。

内なる批評家を黙らせて基準を下げること、完璧主義をやめること、アイデア出しを行うこと(個人的なブレインストーミング)、とにかくなんでもいいから書いてみて、身構えている自分をほぐすこと(フリーライティング)。

しかしハイパーグラフィアと同じく、ライターズ・ブロックも脳の作用だと考えるなら、事情は異なります。

ライターズ・ブロックは、おそらくは前頭葉に由来する創造性が妨げられていることと関係しているようです。(p163)

だがいろいろ調べてみると、ライターズ・ブロックのほうは側頭葉というよりは前頭葉のプロセスらしい(もちろんこの二つは互いに強く影響しあっている)。

ライターズ・ブロックにはブローカ失語症の窒息しそうな沈黙、柔軟性のない性向、それに書くという作業にだけ起こってストレスに関係する書痙と共通する点があるが、これらはどれも前頭葉の神経学的障害なのである。

さらにライターズ・ブロックに密接に結びついている精神的障害はうつ病と不安で、どちらも明らかに神経生物学的な仕組みがあり、とくに前頭葉を中心とする脳の活動低下が見られる。(p191)

そもそも心理的作用と脳の作用を分けることはナンセンスだとは思いますが、ライターズ・ブロックが脳の活動低下だということを認めるなら、ときには心理的な手法以外の対処法、たとえば脳科学に基づく医学的な手法も役立つだろうとわかります。

たとえば脳に電極を入れるパーキンソン病の治療法、脳深部刺激療法(DBS)や、磁気刺激を与えるうつ病の治療法、経頭蓋磁気刺激療法(TMS)が効果があることにもなります。

うすら恐ろしいことに、これらには意欲をコントロールする効果があることがすでに分かってきています。

「もうすぐ、テレビを見ているあいだに頭蓋の適当な位置にコイルを置いて、うつや少なくともある種のライターズ・ブロックを治すことができるかもしれない」のです。(p167)

それは病気か創造性か

ここにおいて、著者はジレンマに直面します。脳の働きがふつうでないという意味では、ハイパーグラフィアやライターズ・ブロックは病気である。しかしハイパーグラフィアがもたらす、極めて優れた創造性や溢れんばかりの喜びを、病気と表現してよいのだろうか、と。

ここまで見てきたことからすると、まず作家の創造性そのものは、おもに前頭葉を中心に宿っているのでしょう。

構造的で柔軟な創造的思考にとって最も重要だと思われるのは前頭葉だ。判断力、あるいは才能と動機という組み合わせりうちの才能にあたる。(p99)

「才能と動機」の「才能」にあたる前頭葉がブロックされたのがライターズ・ブロックというスランプだといえます。

しかしたとえ前頭葉の機能が優れていても、「動機」なくしては作家になることはできません。創造性に優れていても実際に作品を作りたいという意欲なくしては宝の持ち腐れです。

その「才能と動機」の「動機」、つまり意欲を生み出しているのが、側頭葉の不安定さ、さらに突き詰めれば、何かしらのトラウマのような破壊と喪失であり、それがあればこそ新しいものを創造したいという衝動に突き動かされるのでしょう。

側頭葉は文学だけでなく視覚的芸術や音楽の意欲もコントロールしているのだろうか? そうであることは側頭型認知症の患者を見ればわかる。

この人たちのほとんどは音楽や視覚的芸術の創造力が高まるからだ。また側頭葉てんかんや躁病の患者は視覚的表現や音楽的表現よりも書くという手段をとることが多いが、視覚的あるいは音楽的な芸術表現に意欲的になる人たちもいる。(p102)

むろん、ハイパーグラフィアというのは、必ずしも、これらの「才能と動機」、すなわち創造的な「才能」たる前頭葉の能力と、それを活用する「動機」たる側頭葉の不安定さを、両方とも持っていなくてはならないわけではありません。

ハイパーグラフィアというのは単に「書きまくる人」のことを指しているのであって「才能」の如何は問いません。ハイパーグラフィアに必須なのは、ただ「動機」の部分です。

つまり、ただひたすら、世の中の人にとって何の役にも立たない駄文(ただし自分にとっては意味のあるもの)を書きまくる人も、世の中で褒めちぎられる作品をひたすら書きまくる作家も、どちらもハイパーグラフィアです。

では、こうした様々なハイパーグラフィアの人たちは病気なのでしょうか。

この本の冒頭で、著者は「書くことは人間の至高の営みの一つである」と述べましたが、それでも不足を感じ、遠慮なく「書くことは人間の至高の営みである」と言い直しています。

あとがきでは、「創造活動がどれだけの喜びを」もたらすものか、わたしは知っているし、本書の読者の大半もご存知だろう」と朝の5時半(つまり徹夜明け)に書いています。

こんな本を読む人たちは(確かにそうなのですが)ハイパーグラフィア的な傾向を持っている人たちに違いないと言わんばかりの口ぶりで、理解を求めています。

著者の医師としての知識は、脳科学の観点から、朝5時まで書き続けるような異常行動は双極性障害の症状にすぎないとささやくのですが、作家としては、自分の幸福感を病気と定義することには抵抗を感じるわけです。

もし創造性が単なる脳の機能異常にすぎないのなら、創造性を引き出す最も簡単な手段は、極端な話、脳深部刺激療法(DBS)など、脳を操作する電気磁気治療、ということになってしまうでしょう。

脳科学が進歩した今、わたしたちはfMRIや近赤外光トポグラフィによって脳を観察できるようになりました。もしかすると脳の設定をコントロールできるかもしれない時代の入り口にいます。

当然、脳を都合よくコントロールしようと考える人はすでに現れているはずですが、脳はおいそれと理解できるものではありません。脳を科学や医学によってコントロールしようと試みるのは計り知れない危険と倫理的問題をはらんでいます。

著者は、科学や医学が発展しても、「人は自分自身の脳に起こることをできるだけ自分でコントロールすべきだ」と警鐘を鳴らしています。倫理的判断は、科学や医学に譲るわけにはいきません。創造性はあくまで作家のもの、あるいはその人自身のものなのです。

わたしはハイパーグラフィアなのか?

ところで、本書では、ほかにもハイパーレキシア(過読症)、ディスレクシア(失読症)、グラフォマニア(出版したがる人)などについても詳しい考察がなされています。

ハイパーレキシア(過読症)は自閉症に多く、百科事典までむさぼるように読み込みますが、反面読解力に乏しいと言われています。(p28,226)

ディスレクシアについてのこの本の考察は別の記事で扱いました。

時間知覚の問題としてのディスレクシア―脳のタイミング処理と読み書きの意外なつながり
ディスレクシア(読み書き困難)は、単に読んだり書いたりすることが難しいだけではなく、身体の動きや生活リズムにも関係する脳の時間知覚の障害である、という節を紹介しています。

グラフォマニアは、ブログ乱立の現代のインターネット事情を説明する手がかりです。

グラフォマニアは、書きたいというだけのハイパーグラフィアと違って、読んでもらいたい、人とつながりたい、という欲求を持っています。(p280)

社会が安定して、無用な活動にエネルギーが注げる余裕ができて、ひとりひとりが孤独になったとき、グラフォマニアは大量発生すると言われています。

このブログを書いているわたしはハイパーグラフィア、またはグラフォマニアなのでしょうか。

Google検索の「hypergraphia」で出てくる人ほど典型的ではありませんし、躁うつやてんかんもありません。

しかし、少なくとも、この本の定義からすればまごうことなきハイパーグラフィアですし、ハイパーグラフィアを一般人と連続して分布するものとみなした場合、大半の人より著しくハイパーグラフィア側に寄っていることは事実でしょう。

自分でこう言ってしまうと おこがましく滑稽ですが、わたしはGoogle検索ででくるような、ただ単に側頭葉の「動機」だけが突出しているハイパーグラフィアではなく、それなりに前頭葉の「才能」、つまり文章構成力を備えたハイパーグラフィアではないかと思います。

わたしは日記を書かずにはおれませんし、書くことには自伝的な意味、つまりライフログとしての意味があると考えています。

内なる声がきこえるとか、小学校のころから詩を書いていたとか、手紙や文章がやたらめったら長いとか、著書が言うハイパーグラフィアの事例そのままです。

CFSを発症してからは書く量は減りましたが、病気になる以前から書くことを愛していて、病気になっても書くことをやめませんでした。CFSの一因は脳機能異常とされていますから、もともと脳にアンバランスなところがあり、発症しやすい素因があったのかもしれません。

事実、CFSの子どもは、ドーパミントランスポーターなどの分子遺伝的な資質が関係しているかもしれないというデータがあります。治療に少量の抗ドーパミン薬が用いられる点も、それに関係しているのかもしれません。

他方、冷静に考えて、わたしはグラフォマニアではありません。このブログは読み手のことをあまり考えていないからです。読み手のことを考えていれば、各記事はもっと短くして、読みやすく整えたことでしょう。コメントやSNSで人とつながろうともするはずです。

しかしわたしは、自分が書きたいことを書ければいいのであり、自分の検索しやすさや、書きやすさを考えて、書いたことをブログで公開することにしたにすぎません。

また、すでにネット外の人間関係に満足しているので、だれかに読んでもらいたい、だれかの感想を聞きたい、という興味はあまり感じません。わたしはあくまで「自分のため」、それも自分のストレス解消のためにブログを書いているのです。

ただ本来、わたしのような病気を抱えている若い人たちは孤独な状態にあるので、同じ病気の人同士でつながれるフォーラムがあればよかっただろうとは思います。コミュニケーションを願う人は大勢いるからです。

そのような場を作るかどうかという問題が個人的な選択であることは確かです。しかし、この病気について書いている人が少ない以上、わたしのブログがその役割を果たせないのは申し訳なく思っています。まあ、そのうちわたし以外のだれかがやってくれることでしょう。

ちなみにわたしはハイパーレキシア(過読症)でもありません。材料を仕入れないことには文章の質を保てないので、それなりに本を読むよう心がけていますが、真のハイパーレキシアの人の10分の1も読んでいないでしょう。

わたしが好きなのはあくまでも「書くこと」、あるいは「創ること」なのです。「読むこと」や「評価されること」などは、はっきり言ってどうでもいいですし、ほとんど興味がありません。

このエントリでは、ハイパーグラフィア的な傾向を持つ人間としてハイパーグラフィアの本の感想を書いたので、いつも以上に(いつもと同様に?)書きたいことをだらだらと綴ってきました。本来10行そこそこでやめておこうと思っているのに、いつも記事が長くなるのです。

とりあえずブレーズ・パスカルに倣って、次のように言い訳をしておきたいと思います。

時間がなくて短くすることができなかったためこの手紙はいつもより長くなってしまった

書きたがる脳 言語と創造性の科学は、確かに書きたいことがひたすら書かれた、分厚く少々読みにくい本です。しかしこの本には、感想を書きたいと思わせるだけの、脳を刺激する燃えるような魅力があることは、確かに間違いありません。

▼書くことを愛したオリヴァー・サックス
わたしが敬愛するオリヴァー・サックスは、この本の中でも何度か言及されています。書くことをこよなく愛した彼は「十万語の本を書くのに二百万語を書いては消したという苦しい体験」をしたのだとか。(p115)

オリヴァー・サックスが、ハイパーグラフィアばりに、どれほど書きまくることを愛していたかについては彼の自伝についての感想に含めたので、そちらもご覧ください。

独特すぎる個性で苦労してきた人の励みになる脳神経科医オリヴァー・サックスの物語
書くことを愛し、独創的で、友を大切にして、患者の心に寄り添う感受性を持った人。2015年に82歳で亡くなった脳神経科医のオリヴァー・サックスの意外な素顔を、「道程 オリヴァー・サッ
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