■しかし、わたしはその人から心理的暴力などで痛めつけられてきた
■そのことを周りに訴えても、だれも信じてくれず、かえってその人の味方をする
■その人はまったく家庭を顧みず、配偶者や子どもを物としか思っていない
■平気で浮気をして、いつ家にかえってくるかもわからない
■罪悪感や良心のかけらもない
あなたの身近に、このような人がいますか? もちろん判断には慎重になるべきですが、その人はもしかすると「サイコパス」と呼ばれる種類の人かもしれません。
サイコパスというと、テレビなどのメディアでは、連続殺人犯や精神異常者のように描かれがちです。
しかしその実態はまったく異なります。サイコパスは「いい人」という評判を得ていて、正義感があり、良識ある人とみなされていることさえあります。だからこそ、彼らに苦しめられている人が訴え出ても、だれもそれを信じてくれないのです。
この記事では、良心をもたない人たち (草思社文庫)という本などに基づき、サイコパスを見分けるのに役立つ10の特徴、そしてサイコパスが生じる原因や、身を守るのに役立つアドバイスをまとめました。
目次 ( 各項目までジャンプできます)
これはどんな本?
この本良心をもたない人たち (草思社文庫)はサイコパスについて解説した本です。著者のマーサ・スタウトはセラピストとしてサイコパスの被害者たちだけでなく、サイコパスの本人たちとも面識があります。
とても分かりやすい言葉遣いと、豊富な事例から、「良心を持たない人々」とはどういうものなのかが、具体的に説明されています。
Amazonでも100件を超えるレビューがついていて、とても評価の高い一冊です。
また、サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅は、脳画像を通してサイコパスの研究をしていた神経科学者ジェームス・ファロンが、なんと自分がサイコパス特有の脳を持っていることに気づき、自分の人生や考え方を分析した本です。
著書はあるとき殺人犯たちの脳スキャンを分析していて、「所見報告を書き上げていた画像の中でも、まさしくもっとも異常なもの」を見つけたので、名前を調べさせました。なんとそれは“健常人”の比較対象にするつもりで撮った自分の脳でした。(p8)
彼は意味がわかりませんでしたが、家系調査によって、自分の先祖に凶悪犯罪者たちが大勢いることを知ります。遺伝子調査では、危険因子を「ほぼ満額回答に近かった」というほど持ち合わせていました。(p76,122)
彼は自分の経験から、サイコパスの中には犯罪に手を染める反社会的なサイコパスだけでなく、一見社会に溶け込みながらも、人を物のように扱ったり精神的に傷つけたりする向社会的サイコパス(マイルド・サイコパス Psychopass Lite)がいることに気づき、自分はまさにそれだと実感しました。
著者が語る、自身の人との接し方や考え方などは、それを聞いた友人の精神科医が「明らかにショックを受けた」と著者自ら書いているほど常軌を逸するものですが、サイコパスの人たちの常識が、他の人たちとどれほど違うかがよく理解できる一冊です。(p217)
サイコパスとは?
冒頭で述べたように、一般にサイコパスというと、猟奇的殺人犯などの印象が強いかもしれません。
しかし実際には、サイコパスにも個性があり、色々なタイプがあります。高い社会的地位を得て、権威者として振舞っている人もいれば、普通の家庭を築いて子どもを持っている人もいます。殺人犯になるようなサイコパスはごくまれです。
むしろ、表向きは非常に良い人に見せかけながら、見えないところで弱い人、部下や家族などを異常なほど虐げ、精神的に支配している人たちこそがサイコパスなのです。良心をもたない人たち (草思社文庫)にはこうあります。
子どもを道具として利用する母親、弱い立場の患者の力を意図的に奪うセラピスト、誘惑して相手の心をあやつる恋人、あるいは銀行口座をからにして行方をくらますビジネスパートナー、人を利用したあと自分は何をしていないとうそぶく魅力的な“友人”だったりする。(p71)
彼らの手口はさまざまですが、ひとつのことが共通しています。それは「良心を持たない」ことです。
この記事のタイトルにあるように、サイコパスは、ある統計ではアメリカ人口の4%、つまり25人に1人を占めると考えられています。
およそ25人に1人の割合でサイコパス、つまり良心をもたない人たちがいる。彼らは善悪の区別がつかないわけではなく、区別はついても、行動が制限されないのだ。
頭で善と悪のちがいはわかっても、ふつうの人びとのように感情が警鐘を鳴らし、赤信号をつけ、神を恐れることがない。(p20)
しかしこれは、後で述べるとおり、反社会性パーソナリティ障害をサイコパスと同じものととらえた場合の数値であり、文化によっても割合が大きく違うと言われています。
サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅の著者は「100人も参加しているパーティーならば、おそらく一人くらいサイコパスがいるし、そいつは人の弱みを探し回っている」と見積もっています。(p235)
ですから、25人に1人という数字にはあまりこだわらないほうが良さそうです。
それよりも重要なのは、サイコパスを見分ける目を持つことです。そのために、サイコパスの10の特徴を紹介しましょう。
サイコパスの10の特徴
サイコパスの人たちは、普通の人たちの中に紛れ込んでいて、良い評判を得ていることも多いので、専門家でさえ、サイコパスを見分けるのに苦労し、だまされることもあります。
しかしもしあなたの身近な人がサイコパスだとしたら、そしてその身近な人の裏表ある言動によってだれよりも傷つけられてきたとしたら、あなたは以下の特徴を見て、その人がサイコパスかどうか見分けることができると思います。
1.すごく魅力的な人たち
サイコパスというと猟奇的殺人犯や精神病質者を思い浮かべるかもしれませんが、決して一目見て異常を感じるような人たちではありません。
サイコパスの最も大きな特徴は、意外にも、彼らが、非常に良い人、魅力的な人に思えるということです。良心をもたない人たち (草思社文庫)にはこう書かれています。
サイコパスは、それでほかの人びとの目をくもらせる―一種のオーラとかカリスマ性を放つのだ。
そのため彼らは、最初のうちは、まわりにいるふつうの人びとよりずっと魅力的でおもしろい人間に見える。
ほかのだれよりも気さく、真剣、“複雑”、セクシー、楽しい、といった印象を与える。(p16-17)
サイコパスは、「世界一感じのいい人」とさえ思えることがあると書かれていてます。最初に出会ったとき、またまだ深く関わっていなときには、親切で正直で、心優しく正義感の強い人にさえ見えるのです。(p94)
あるサイコパスの女性セラピストは、勤務していた病院で10年近く気づかれなかったそうです。しかし彼女のカウンセリングを受けた人たちは非常に巧妙な仕方で人生を破壊されていました。(p103)
著者はサイコパスの犠牲者たちについてこう述べます。
私が診療にあたった犠牲者の多くは、サイコパスとつきあいはじめたのも、苦痛を与えられながら関係をつづけたのも、相手があまりに魅力的だったからだと語った。
「彼女をずっと前から知っていたような気がした」「彼にはほかの人にないエネルギーが感じられたんです」人びとが首を振りながら、こんなふうに話すのを何度見てきたことか。(p117)
サイコパスの人たちは、その異常さが一見まったくわからず、むしろとても魅力的にさえ思えるので、多くの人を操り、自分の手駒として扱うことができるのです。
サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅によると、サイコパスの人は友人を見つけるのに苦労しませんし、自分を魅力的に見せかけるすべにたいへん長けています。
サイコパスは友人を見つけるのに困難を感じないことが知られている。〈サイコパスの〉殺人者たちが刑務所から出てくるのを待ち焦がれている女性たちが常にいることに気付かされる。
サイコパスにはしばしば嘘をつかれてもよいと思っているようなパートナーがいて、彼女らを優しく扱うことに長けている。(p234)
2.身体的な暴力は少ない
サイコパスというと、とても攻撃的かつ冷酷で、ドメスティックバイオレンスを働いたり、平気で人を殺したりする人を思い浮かべるかもしれません。
しかし良心をもたない人たち (草思社文庫)によると、そのようなサイコパスは少数です。
サイコパスの多くは殺人者ではない。少なくとも自分の手で殺すことはない。(p70)
サイコパスが、身体的な暴力を振るうことは比較的少ないと言われています。
むしろ彼らはもっと破壊的で巧妙な仕方を用います。つまり心理的な虐待や追い詰める言葉によって、周りの人の心を操り、ときには深い傷を刻むのです。
サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅の著者は、自分の復讐のやり方についてこう述べています。
誰かが私をひどく怒らせた時には、私は即座に怒りを押さえることはできる。もし私のことをよく知らない者なら、私が腹を立て、当人にひどい怒りを覚えていることには気づかないであろう。
怒りの噴出を押さえ、復讐心を隠してしまうことに私はひどく長けている。何年も復讐を先延ばしにすることもできる。
しかしある時点で、当人がまったく予期していないときに復讐してやる。…私にとってそれは面白いことである。
…私はされたことに見合う復讐をすることに細心の注意をはらっている。多くも少なくもなく、である。また誰に対しても身体的に傷つけることには私は関心がない。(p216-217)
また、彼は、サイコパスは自分の暴力的な衝動を自在に制御できてこそサイコパスなのであり、もし冷静さを失って暴力を振るうようなことがあるなら、サイコパス失格だとまで述べています。
私は歓喜を得るためにいかに人をひどい目に数多くあわせてきたのかを既に述べた。
しかし私は誰も殺害したり、傷つけたりしようとは思わない。盗みや嘘をつくことも好きではない。それは敗北者の行為である。
もしもそんなことをする羽目になったら、サイコパスとして失格となる。暴力は粗暴で、面白みを破壊してしまう。(p243)
怒りに我を忘れたり、カッとなって暴力を振るったりする人は、後で説明するようにサイコパスではなくADHDや自己愛性パーソナリティ障害など別の障害に当てはまるでしょう。
3.平気で嘘をつく
良心をもたない人たち (草思社文庫)によると、サイコパスの大きな特徴は、嘘をつくことに何のためらいもないということです。
特徴をあげると、彼らは人を惑わせて危険な冒険に引きずりこむ。共通して病的に嘘をつき、人をだます。(p17)
サイコパスが嘘をついていることは、普通まわりの人にはまったくわかりません。たとえ嘘で塗り固められていても、知能の高さゆえにそれを事実として相手に信じさせることもできるからです。
しかしサイコパスの人と親しくなった友人や、結婚した配偶者は、サイコパスの人が自分に言う言葉と、周囲の人に対して言う言葉にあからさまな違いがある、ということを知って愕然とします。
サイコパスは、人の信用を得たり、人に感銘を与えたりするためなら、ためらいなく嘘をつき、自分を偽ることができるのです。
サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅の著者もこう言います。
良心的な大半の人は彼らの考えと感情とに背いて正体を曝露してしまう。このことはなぜ大多数の人がポーカーゲームに弱いのかを説明してくれる。
しかしサイコパスは彼らの本当の意図を隠す名人である。彼らに安心感を与えるようで、その実は有害な性質の一つは嘘をついている時でも冷静でいられることである。(p233)
4.異常に自信家
サイコパスの人がはじめ魅力的に見える理由の一つには、彼らが自信に満ちあふれていて、強い意志を持っているかのように思える、ということがあります。
たとえば良心をもたない人たち (草思社文庫)に出てくるあるサイコパスの人は、このように述べて、心を動かそうとします。
「ぼくと君とは似た者同士だ」
「あなたとは心が通じあえるの」(p120)
そしてはっきりと成功を保証します。
突飛に聞こえるだろうけど、ぼくらが力をあわせればぜったいうまくいく。(p118)
いますぐ結婚しよう。この退屈な集まりから抜けだして、二人きりでどこかへ行こう。(p118)
こうした確信のこもった言葉を聞くと、多くの人は惑わされがちです。この人なら、本当に、わたしを幸せにしてくれるかもしれない。そう感じることさえあります。
しかし親しくなるうちに、誇大妄想的な言動にも気づくかもしれません。
「僕がどれほど特別な存在か、いつか世界中が知るようになるだろう」
「僕とつきあったら、もうほかの男じゃ満足できなくなるよ」(p17)
そのような言葉を聞いて、もし少しでも不信感を感じたら、すぐに関係を絶つべきです。
しかし多くの人は、自信に満ちあふれている魅力的な言葉にあざむかれ、誇大妄想的な言動に感じる少しの違和感は許容してしまいます。
5.家族は「もの」でしかない
サイコパスの人たちは、家族を持つことがよくあります。サイコパスの男性であれば、しっかりと妻も子どももいることがしばしばです。
しかしそれは、異性を愛して、幸せな結婚生活を送りたい、あるいは子どもを持ち、安定した家庭生活を築きたい、という通常の動機によるものではありません。良心をもたない人たち (草思社文庫)にはこう書かれています。
サイコパスは自分本位の理由で結婚することはあっても、愛のために結婚することはない。(p161)
サイコパスの人たちが結婚する動機は、自分の社会的なステータスとしての価値を高めるためです。配偶者や子どももいることで自分が一人前のしっかり自立した人間であることをアピールしようと思っているのです。
口では愛していると言いながら、その愛情は底が浅く、長続きせず、ぞっとするほどの冷たさを感じさせる。
…サイコパスにとって結婚相手が価値があるとすれば、それは所有物としての価値で、彼らは失うことに腹を立てるが、悲しんだり責任を感じたりすることはいっさいない。(p17-18)
サイコパスの人にとって、家族は、世間体を保つ、という名目のために服につける身分証明パッジにすぎません。
あるサイコパスの男性が結婚したのは、その女性なら、何十年も自分に連れ添い、自分のあやしげな行動に文句ひとつ言わないだろうとすぐさま見抜いたからでした。(p120)
彼の母親は無視されるか、なぶられる。彼の妹は苦しめられる。ほかの女たちは性的略奪の対象にすぎない。
…彼の部下は操作し利用する相手であり、友人たちも同様である。
妻も子どもも世間体のための存在であり、カムフラージュだ。(p64)
サイコパスの人は、家族を持つとしても、それは単なる所有物にすぎないので、家族に対する責任を果たそうとはしません。
家族を感情的に顧みることはありません。サイコパスの人に家族を愛するという概念はないからです。
彼は愛せないのだ。友人や家族が病気になったり困ったりしても、心配をしない。(p67)
サイコパスの人は、配偶者が入院しても一度も見舞いに行かないことがあります。(p188)
いつも家にいながら子どもにまったく興味を示さない場合もあります。(p145)
配偶者や子どもをトロフィーのように考えているので、家族がもし病気になったり、障害を抱えたり、落第したりしたら、もう何の価値も感じません。(p187)
ときどきすごく夜遅く帰ったり、週末いっぱいどこかへ出かけたりすることもあります。まともな家庭生活は送らないのです。(p190)
サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅の著者は、自分の振る舞いをこう振り返っています。
子どもたちが生まれた時、私たちは幸せに酔いしれていた。しかし子どもらが実際に出生してしまうとすぐに、外出し、幾晩も集まっては祝杯を重ねていた。(p149)
私はまたパーティー参加を続けていて、11時まで研究し、怪しげなナイトクラブに入り、ダンスコンテストに飛び入りし、賞金を幾らか得たりした。
朝の五時に帰宅していたが、ダイアンは、「あなたの仕事は11時で終わっているとばかり思っていたわ」と言うので、私は、「そうだとも、11時で終えて、それから出かけて、ほらごらん、ダンスで100ドル稼いだんだよ」と言ったことがあった。(p151)
彼は、子どもたちや家族に愛着を感じなかったので、ほとんど留守にして、普通の家庭生活を送らず、楽しいことばかり追い求めていました。彼にとって子どもたちはゲームの遊び友達でしかありませんでした。
6.人の感情は数学的ゲーム
サイコパスの人は周りの人を「人間」ではなく「物」として考えます。良心をもたない人たち (草思社文庫)によれば、それは実際に脳機能の測定によって確かめられているそうです。
サイコパスの被験者は、感情的な言葉をもとにした意思決定テストをあたえられたとき、ほかの被験者に比べて、側頭葉への血流量が増加した。
…サイコパスの人は、ふつうの人がほとんど反射的に解くような、感情的な言葉にもとづく問題をあたえられると、代数問題を解くときと同様な生理反応をするのだ、(p158)
彼らにとっては、「愛」について考えるのも、数独パズルを解くのも、まったく同じゲームでしかありません。区別がつかないのです。
サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅の著者は、自分が妻や子どもに特別な愛着を感じることはないと述べています。
こうして、私はいかなる意味でも隔てのある。冷たい、無関心な父親ではなかったが、子どもに私が魅力を感じ、これを支配していたのは、暖かさよりも、娯楽であり、知的関心であつた。(p150)
自分で思うに、他者との繋がりの私特有の欠如を特徴付けるもっともうまいやり方は、私は共感的に動きのない平地に住んでいる、という表現である。
私には少しの共感性はあるのだけど、家族だろうと、完全に赤の他人であろうと、誰でも同じように扱う傾向が私にはある。(p172)
サイコパスにとっては夫婦や親子の愛情の結びつきなどなく、ただ自分にとって面白いか面白くないか、役立つか役立たないかだけです。
7.支配することにしか興味がない
サイコパスの人の行動動機は、「愛」ではなく「支配」です。いかに多くの人を操り、自分の支配下に置くか、ということが彼らにとってのパズルゲームなのです。
ですからサイコパスの人は支配欲が強く、権威あるポストについていることがよくあります。
能力が高ければヒトラーやムッソリーニのように指導者となることもありますし、それほど能力が高くない場合は、少数の人々をそこそこ支配できる小さな会社の社長などの立場に身を置いていることがよくあります(p10)
いずれにしても、良心をもたない人たち (草思社文庫)に書かれているように、彼らは権威をうまく用いて人を操ります。
生まれついての役者である彼らは、社会的・職業的役割をフルに活用する。(p122)
政治家、社長、教師、牧師、専門家などの権威をうまく使って、人に感銘を与えたり、自分の言いなりにならせたりするのです。サイコパスは人間が権威に弱いことをよく知っています。
サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅の著者は、こうまで言い切っています。
それというのも私が他人の気持ちへの感情的斟酌をほとんどせずに、勝利を得るためなら、あるいは自分が望むことなを相手にさせるためなら、私が何をしようとほとんとせ良心のうずきというものを感じないからである。
…人を欺くことが楽しいのではない。人を操作することの方がズーッと楽しい(サイコパスの主要な特徴)。(p165)
8.自分の健康を病的に気にする
サイコパスの人は、自分の魅力に気づいていて、それを武器として用いています。
身体的な魅力によって、人をたぶらかし、複数の人と性的関係を結ぶことは彼らの常套手段です。
良心をもたない人たち (草思社文庫)によると、彼らにとって、自分の魅力的な肉体という武器を保持することはとても大事なことなので、健康を病的に顧みることがあります。
サイコパスは完全に自己中心なため、体のあらゆる小さな痛みや痙攣に対して自意識が非常に強い。
…その不安と警戒はつねに例外なく自分自身に向けられるため、サイコパスは自分の健康を病的に不安がる心気症患者のようにもなる。(p241)
病気になることを恐れて、極端な健康食品などに手を出したり、美容や容姿に過剰なまでに気を使ったりします。
アドルフ・ヒトラーはがんになることを恐れるあまり、特別な治療薬を大量に服用し、その結果、本当に病気になったとも言われています。
またアドルフ・ヒトラーやドナルド・トランプは、一種の強迫症状である細菌恐怖症を持っていると指摘されていました。(もっとも彼らがサイコパスなのか、それとも自己愛性パーソナリティや他の類似した何かなのかは定かではありません)
とはいえ、サイコパスの人たちは、普通の意味でのストレスを感じないので、肉体的には普通の人たちよりも健康面で優れているようです。
サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅の著者も強迫症状やパニック障害を併発していましたが、それでもこう書いています。
サイコパスのように自然にストレスを感じることがほとんどない人間は、この免疫システムが常に最高の状態で機能しているので、その全人生において多くの病気を回避できる。(p234)
近年の強迫性障害の研究では、それは一種の免疫系の過剰反応ではないかと考える研究者もいます。そうだとすると、サイコパスの免疫系では、特定の脅威に対する免疫寛容が発達していないのかもしれません。
たとえば、幼いころ、あまりに清潔な環境で育つと、免疫系が細菌などに対するバランスの取れた反応(免疫寛容)を学べず、大人になってから本当は脅威でないものに対して過剰反応してしまい、アレルギーや自己免疫疾患になります。
サイコパスも、幼いころから普通のストレスを感じないせいで、ストレスを正しく見分けて処理する免疫系が正常に発達せず、本当は危険でないものに対して過剰反応を起こし、それが強迫症状として現れやすいのかもしれません。(この点については記事末尾の補足部分でも扱います)
9.同情心に訴える
サイコパスというと、一般に恐怖で人を支配するような独裁者が思い浮かぶかもしれません。ところが、良心をもたない人たち (草思社文庫)によるとそうではありません。
平気で悪事をする人びとのあいだでもっとも普遍的な行動は、ふつうの人が予想するように、私たちの恐怖心に訴えるものではない。私たちの同情心に訴えるものなのだ。(p136
サイコパスは、自分の演技によって、人を惑わすのが得意です。あまりに真に迫っているので、その演技を見て多くの人は、その人は本心から悪いことをしていたのではなかったのだ、と考えて同情します。
皮肉にも、自在な感情表現がサイコパスの第二の天性になる。相手の悩みや情熱にたいしする興味津々な態度、胸を叩いて訴える愛国心、正義感あふれる憤り、謙虚に赤らめる顔、悲しげなすすり泣き。思いどおりに流す空涙はサイコパスの得意わざだ。(p122)
サイコパスは、同情心をひき、言葉や演技で人を引き付けるので、何も知らない人たちは、サイコパスに同情し、味方になります。
家庭を持っているサイコパスの場合は、子どもを利用することもあります。何も知らない子どもを味方につけ、悪いのは配偶者の側だと思い込ませるのです。(p150)
もちろん、同情心を引こうとするだけでなく、相手が弱い立場の人であり、二人きりであるなどの状況の場合には、逆恨みをして怒りだしたり、権威によって相手を脅したりすることもあります。(p122)
アドルフ・ヒトラーの妻の生涯について書かれたこちらの記事は、何も知らずサイコパスによって振り回されてしまう人が、いかにして破滅に追い込まれるかを知る助けになると思います。
ヒトラーの妻、エヴァ・ブラウンにまつわる10の悲劇 : カラパイア
10.「おかしいのわたしのほうだ」と思い込ませる
サイコパスの人は、自分を魅力的な見せかけたり、同情心を引いたりするのがうまいので、深く知らない人たちは、すぐにサイコパスの味方をします。
その結果、サイコパスに痛めつけられてきた被害者がサイコパスの所業を訴えても、周りの人たちは、被害者ではなく、サイコパスの人のほうに味方し、サイコパスの人の言うことのほうを信じます。
良心をもたない人たち (草思社文庫)にはこう書かれています。
まず頭に浮かんだのは、「なぜあの人が、こんな恐ろしいことを?」という疑問だった。サイコパスの行動を知ったとき、人びとはつねにこの同じ疑問を抱く。
…多かれ少なかれ自分の精神状態を疑いはじめる。そしてサイコパスがなにをしたかを人に打ち明けると自分自身の正気が疑われるため、話すのをためらうようになり、口を閉ざしてしまう。(p126-127)
被害者がいくらサイコパスの人にされたひどい仕打ちを訴えようとしても、友人や親族、会社の同僚に信じてもらえないことがよくあります。
あんな「いい人」がそんなひどいことをするなんて信じられない。何かの間違いではないか。大げさに言っているだけではないか、と言われることもしばしばです。
もっとひどい場合には、反対に被害者のほうが「いい人」を中傷する悪者、精神異常者とみなされることもあります。サイコパスの人は、周りの人を味方につけ、被害者を集団で攻撃したり、迫害したり、追い詰めたりします。
「被害者みたいにふるまうんです。赤ちゃんが泣くと、耳をふさいで苦しそうな表情をつくって、部屋を歩きまわるの。まるで自分がひどい目にあわされているみたいに。私に同情してくれとでも言いたげでした」(p144)
サイコパスの原因は何か
このようなサイコパスの原因はどこにあるのでしょうか。彼らは複雑な家庭環境や虐待などの被害者なのでしょうか。
研究によると、サイコパスの原因には遺伝と環境が半々ずつぐらい関与しているそうです。
遺伝率は約50%
まず、良心をもたない人たち (草思社文庫)によると、サイコパス的な気質の遺伝率についていえば、どの調査でも、だいたい50%くらいとの結果が出ているそうです。
テキサス里親プロジェクトの報告によると、Pdに関しては、子どもは育ててもらった両親より、実際には会ったことのない実の母親と強い共通点があった。この研究では、遺伝率は54%と推測された。(p156)
Pdとは「サイコパス的逸脱」測定のことで、
■攻撃的
■衝動的
■経済的責任を果たそうとしない
■仕事のしかたにむらがある
■同時に複数の女性と関係をもつ
■良心の呵責を感じない
といった項目からなります。
もっとも、これらが全部サイコパスの人特有のものではありませんが、少なくともサイコパスの素質としては遺伝的傾向がある程度の役割を果たしています。
サイコパスの遺伝率が高い背景には、その遺伝子を持つ人が過去の歴史で成功を収めてきたという事情があるのかもしれません。
良心が欠けていて、平気で人殺しができる指導者や兵士は、戦争で勝者になりやすくなります。すると彼らが繁栄した結果として、子孫にサイコパスの遺伝子が受け継がれます。(p176)
たとえばモンゴルでは、8%の人にチンギス・ハーンの遺伝子が受け継がれているそうです。(p234) (チンギス・ハーンは、Wikipediaで引用されているC.M.ドーソン「モンゴル帝国史」の記述が事実であれば、かなりサイコパス的な人物だったといえそうです)
文化によって出現率が変わる
次に、環境の影響ですが、サイコパスに関係する環境因子は、社会文化的背景だといわれています。
サイコパスの人は、自己中心的な欧米社会では多く出現し、前述のとおり25人に1人と見積もられています。しかし日本を含め、協調性が重視されるアジアでは出現率がもっと低いそうです。
しかしこれは、サイコパスを発症しやすい文化がある、という意味ではないかもしれません。
むしろ、良心をもたない人たち (草思社文庫)によれば、文化の影響によって、サイコパスが目立つか、それともあまり目立たなくなるかが変化する、といった意味にすぎない可能性があります。
サイコパスは自分のまわりの世界を気にしないが、その中にまぎれこむことは必要であり、まぎれこみたいと思っているのだ。(p174)
サイコパスは自分の姿をくらませて、「いい人」のふりをすることで人を惑わします。そのためには周囲の文化やルールにしたがうことが必要です。
協調性の強い文化のもとでは、自分の利得のために、法律やルールを進んで守ることもあります。もちろんそれは良心に促されて従っているわけではなく、そうするほうが都合がいいからです。
すると表面的には、社会的逸脱行為をするサイコパスの人は目立たなくなるかもしれません。目立たないことによって、彼らは別の巧妙な方法で支配ゲームを楽しむことができます。
サイコパスは愛着障害ではない
このブログでは、子どものころの虐待やネグレクトによって親との愛着関係が損なわれることにより、反社会的な性格が作られていしまう「愛着障害」について、繰り返し取り上げてきました。
サイコパスの人は複雑な家庭環境で育った被害者なのでしょうか。
良心をもたない人たち (草思社文庫)の著者マーサ・スタウトは、愛着障害とサイコパスの関係について、似ている部分はあるとしつつも、両者には明らかに別の特徴があると述べます。
だが、愛着障害とサイコパシーの因果関係で大きな問題は、科学的には両者の共通点に魅力があっても、サイコパシーの典型的な特徴と、明らかにずれがあるのを否定できない点だ。(p169)
愛着障害の人は、大きな苦悩や空虚感を抱えて生きています。人を操ろうとする統制的な性質を持つこともありますが、愛されたい、認められたいという気持ちを抱いています。
人の気持ちを汲み取れず、人の好意に逆説的な反応を示してしまうこともありますが、それは愛し愛される方法を親から正しく教えてもらえなかったからです。
愛着障害とは、愛着が歪んだ人だといえるでしょう。愛着は存在しているものの、普通の愛を示してくれない親のせいで、愛の正しい示し方、受け入れ方が混乱しているのです。
それに対し、サイコパスとは、愛着がまったく存在しない人であるといえます。愛される必要も、愛したい欲求もありません。愛という概念が欠落しています。
愛着障害の人は「お前は無価値な人間だ」と囁く自尊心の欠如や罪悪感に苦しむことがよくあります。しかし、サイコパスの人は、罪悪感のかけらも感じません。自分を責める良心がないからです。
すでに述べたように、サイコパスの人の脳には、愛について感じる感情的な反応が見られません。彼らにとって愛とは数学と変わらないパズル、単なる知識の一つであり、物より人に温かみを感じることもないのです。
サイコパスは養育環境によって生じる愛着障害ではなく、愛着に関する脳の機能の先天的な欠落だと思われます。
反社会性パーソナリティ障害との違い
サイコパスとの類似性が認められる概念に、反社会性パーソナリティ障害というものがあります。
反社会性パーソナリティ障害は、倫理に反する行動をためらいなく行える人たちであり、犯罪行為に手を染めることもまれではありません。
今回の本の25人に1人という統計は反社会性パーソナリティ障害に関するものです。反社会性パーナリティ障害が、サイコパスと同じものだという前提にもとづいていますが、この二つは互いに異なるものだと考える人たちもいます。
たとえば、カナダの心理学者ロバート・ヘアは著書診断名サイコパス―身近にひそむ異常人格者たち (ハヤカワ文庫NF)の中でサイコパスと反社会性パーソナリティ障害は似て非なるものだと断言しています。
サイコパスは文化によって出現率が変わるとはいえ、本質は遺伝的な脳の問題であるように思えるのに対し、反社会性パーソナリティ障害は、遺伝とも養育環境とも関係していると考えられます。
一般に、サイコパスの代名詞のように扱われている連続殺人犯や凶悪犯罪者の多くは、実際にはサイコパスではなく、幼いころに虐待など凄惨な経験をした結果、反社会性パーソナリティ障害へ成長してしまった人たちだと思われます。
良心をもたない人たち (草思社文庫)によると、虐待された子どもは反社会性パーソナリティ障害になるリスクが高いとされますが、サイコパスは、すでに述べたように、養育環境による愛着障害は関係ありません。
家庭環境のよしあしに関係なく、サイコパスと診断された服役囚が最初に裁判にかけられた年齢の平均は14歳だった。
…言い換えると、だれにも想像がつくように、劣悪な環境が犯罪行動をはぐくみ加速させているわけだが、サイコパスの場合は、犯罪行動が独自の時刻表にしたがって自然に花開くようなのだ。(p164)
サイコパスは、養育環境が良かろうと悪かろうと、時間とともにサイコパスとして目覚め、本性を現すのです。
一方で、VOICE新書 知って良かった、大人のADHDなどでは、ADHDは反社会性パーソナリティ障害になるリスクがあると書かれています。
子どものころADHDだった人が非行や反社会性パーソナリティ障害に発展してく過程を説明した、有名なDBD(破壊的行動障害)マーチという理論があります。
確かに、反社会性パーソナリティ障害やサイコパスには、ADHD的要素が見られます。先ほどのPd(サイコパス的逸脱)の指標は、衝動的であることや、むらがあることなど、ADHDの傾向とも重なっています。
しかしADHDの大半は良心を持ち合わせていますし、人への愛着も正常です。心が敏感で、とても傷つきやすかったり、思いやり深かったりする人もいます。
それで、サイコパス、反社会性パーソナリティ障害、ADHDは、それぞれ別の集団であるものの、一部重なりあうところがあるということなのかもしれません。
この点については後ほど改めて説明します。
自己愛性パーソナリティ障害との違い
反社会性パーソナリティ障害と並んで、サイコパスとの類似点を比較されやすいものに、自己愛性パーソナリティ障害というものがあります。
自己愛性パーソナリティ障害の人は非常に尊大で、人をモノ扱いするところにサイコパスとの類似性が見られます。
良心をもたない人たち (草思社文庫)によると、マーサ・スタウトはサイコパスと自己愛性パーソナリティ障害のようなナルシシズムは似ているものの、大きな違いがあると考えています。
ナルシシズムは、言ってみれば、サイコパシーを半分にしたようなものだ。(p161)
サイコパスの特徴は、恥という概念がないことです。サイコパスは、「どれほど自己本位な、怠惰な、有害な、あるいは不道徳な行為をしても、恥をもったく感じない」人たちです(p7)
それに対し、自己愛性パーソナリティ障害の人たちは、恥に強くとらわれています。恥を感じる気持ちがあまりに強いため、自分を強く、大きく見せる必要を感じ、尊大にふるまうのだと言われています。
自己愛性パーソナリティ障害の人は、批判されたり、プライドを傷つけられたりすると、攻撃的になったり、批判的になったりして、自分を守ろうとします。本人は気づいておらず、認めもしないでしょうが、それは恥の気持ちからくる自己防衛です。
サイコパスと違い、自己愛性パーソナリティ障害にはやはり、子どものころの養育環境、愛着障害が関わっているようです。親に認めてもらえなかった反動として、誇大自己が作られるのではないかとされています。
生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書)によると、自己愛性パーソナリティ障害や、先ほどの反社会性パーソナリティ障害は、愛着障害の中でも、回避型の愛着スタイルという、愛着に乏しいタイプがなりやすいようです。
幼い頃に認められる回避型は…自己愛性パーソナリティや反社会性パーソナリティ、シゾイドパーソナリティに発展する方が典型的である。
この三つのパーソナリティには、大きな共通項がある。それは、共感性が乏しく、クールで、相手の気持ちや痛みに鈍感だということだ。(p99-100)
回避型の愛着スタイルというのは、愛着システムの働きが弱くなっている状態なので、愛着システムが存在しないサイコパスと性質がよく似ているのもうなずけます。
しかし回避型の愛着スタイルの場合、もともと愛着システムは存在していて、環境のせいで働きが弱くなったにすぎないので、サイコパスとは違います。
ちなみに自己愛性パーソナリティ障害は、発達障害の一種で共感性に乏しく空気が読めないと言われるアスペルガー症候群とも混同されやすいですが、両者には明らかな違いがあります。もちろんアスペルガーとサイコパスもまったくの別物です。
むしろサイコパスが愛着障害を生み出す
このように、サイコパスの原因は愛着障害ではありません。
しかし逆に愛着障害の原因には、サイコパスが大いに関わっている可能性があります。
たとえば、ルーマニアのチャウシェスク政権のもとで生まれた「チャウシェスクの子どもたち」と呼ばれる孤児たちは、愛着障害の例としてよく引き合いに出されます。
その子どもたちは、チャウシェスクというサイコパス的指導者の政策に沿って家庭が破壊された環境で生まれたがために、不幸にも愛着障害になってしまったのです。(p167)
同様に、親がサイコパスであるために、子どもが愛着障害になる例もあるように思えます。
たとえば毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)という本では、常識では考えられないような心理的暴力を振るう親の家庭で育ったために、愛着障害を抱えてしまった人たちの例がたくさん出ています。
その人たちは、親に愛してほしいと願いつつも決して愛してもらえず、虐待やネグレクト、心理的暴力や、ののしり、こきおろしのもとで育ち、心に深い傷を負いました。
大人になっても、親は悪くなかったのだ、自分が何か親の期待にそえなかっただけなのだと思い込んでいて、深刻な自尊心の欠如に苦しんでいました。
しかし明らかに悪いのは親のほうです。それに気づいた人たちは、親と対決し、自分の気持ちを打ち明けますが、「毒になる親」の多くは悪びれるどころか、被害者のように振る舞ったり、同情を買おうとしたり、逆ギレしたりします。
それで多くの場合、「毒になる親」のもとで育った子どもたちは、親と決別し、永久に縁を切るという悲しい決定をするのです。
今思えば、これら「毒になる親」の態度は、サイコパスそのものです。彼らが子どもの辛い本心を聞いても、罪悪感をみじんも感じず、自分を正当化することさえできるのは、彼らが愛や良心という感覚を持ちあわせていないからではないでしょうか。
愛着障害はサイコパスをもたらしませんが、サイコパスは愛着障害を作ることがあるのです。
ではサイコパスとは何なのか
このように、サイコパスは、発達障害であるADHDや、愛着障害からくる反社会性パーソナリティ障害、自己愛性パーソナリティ障害などとよく似ていますが、まったく似て非なるものです。
どうして、それらは別のものなのに、よく似ているのでしょうか。
この点で、こころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害に載せられている国立精神・神経センターの松本俊彦先生の考察はとても参考になります。
先生はまず、虐待などの悲惨な養育環境で育った子どもが、ADHD的な性質を示し、やがて反社会性パーソナリティ障害へと発展していくことを説明しています。
虐待被害を受け、過覚醒と知覚過敏によって多動を呈する子どもは、解離することでつらい現実を逃れ、「消えたい」「いなくなりたい」という感情を意識から遠ざける。
その状態が注意欠陥として観察されるだろうし、うまく心が麻痺しないときには化学物質の力を借りるかもしれない。
…彼らは次第に「他者の痛み」にも鈍感な人間―反社会的なパーソナリティ―へと変化していく。筆者から見ると、そのような彼らの共感性や内省の欠如は、慢性解離状態にょってもたらされたものではないかと疑いたくなるほどだ。(p93)
この説明にあるとおり、悲惨な家庭で育った子どもは、感情や感覚を麻痺させる「解離」という防衛反応を見せます。
「解離」とは、強すぎる刺激から脳を保護するために、極度の感情や感覚、記憶などを切り離し、存在しないかのようにシャットアウトしてしまう脳の仕組みです。
このような子どもは、重度の愛着障害と診断されますが、過覚醒によって多動になったり、解離によって注意散漫になったりするので、見かけ上ADHDによく似ていて見分けがつきません。
先ほど、ADHDの人が反社会性パーソナリティ障害に発展しやすいという理論であるDBDマーチに言及しましたが、どうやら愛着障害とADHDが混同されているようです。
虐待による愛着障害と、生まれつきのADHD、そして両者の混在が非常に似た症状を呈し、専門家でも見分けにくいことは、こちらの記事に書いたとおりです。
重度の愛着障害を抱えた子どもは、感覚を麻痺させるために薬物依存に陥ったり、悪い仲間と関わって非行に走ったりして、やがて自分の痛みだけでなく、人の痛みを感じる感覚をも解離させ、反社会性パーソナリティ障害に進展してしまう場合があります。
このことから、反社会性パーソナリティ障害、愛着障害、ADHDが、一見したところ共通点を持っている理由がわかります。
生まれつき良心を「解離」させている
さらに、松本俊彦先生は、反社会性パーソナリティ障害とサイコパスの関係についてこう説明しています。
Mac Wiilliams も同様のことを指摘している。
彼によれば、サイコパシー(精神病質者:反社会性パーソナリティ障害に罹患する者のなかでも、特にその肥大した自己愛、虚言癖、操作性、共感性の欠如、冷淡さ、内省の欠如といった特徴が顕著な者)と解離は密接な関連があると述べている。
さらに、サイコパシーにおける、「だましたことではなく、捕まったことに対する後悔」という特徴的な責任回避の態度を、「個人的責任を解離している」と捉えて、「サイコパシーの解離性防衛」と呼んでいる。(p93)
この説明からわかるとおり、サイコパスとは、反社会性パーソナリティ障害の特徴をさらに極端にした状態です。究極の反社会性パーソナリティ障害がサイコパスです。
そして、両者にはおそらく「解離」という同じメカニズムが共通しています。反社会性パーソナリティ障害の場合も、サイコパスの場合も、人の気持ちを度外視した行動ができるのは、「解離」によって良心的な感情を切り離しているからです。
しかし、すでに考えたとおり、反社会性パーソナリティ障害(または解離性障害)が進展した結果、いずれサイコパスに成長するわけではありません。
誤解を避けるためにいっておくが、Mac Williamsは決して解離性障害とサイコパシーを同義と捉えているわけではない。
あくまでも「共通した部分がある」といっているに過ぎないが、その指摘には、解離性障害と犯罪のあいだをつなぐ秘密が含意されているように思えてならない。(p93)
あくまで、共通する特徴があり、一見見分けにくいせいで混同されているにすぎません。虐待によって、愛着障害→反社会性パーソナリティ障害(または解離性障害)→サイコパスと出世魚のように進展していくわけではありません。
反社会性パーソナリティ障害とは、遺伝の影響もいくらかあるとはいえ、おもに虐待のような不幸な「環境」のせいで、感情を麻痺させるために解離していくしかなかった人たちの結末です。
それに対し、サイコパスは、何らかの理由で、「生まれつき」、良心や人間味のある感情が解離されているのでしょう。
以下の記事の後半部分で詳しく扱っているとおり、凶悪犯罪者の中には、幼いころに凄惨な虐待やトラウマを経験したために、感情がシャットダウンしてしまった人たちが大勢います。
たいていの凶悪犯罪は幼いころから度重なる慢性的なトラウマにさらされて育ったことによる、複雑性PTSDの結果だとみなすことができます。
それに対し、サイコパスはトラウマ的経験をしても、PTSDになりません。PTSDというのは圧倒的な恐怖や恥の感覚によるものですが、サイコパスはもともと恥や恐怖を感じることができないので、トラウマ性の健康被害に陥らないのです。
サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅にこう書かれているとおりです。
しかもサイコパスたちは戦闘を生き抜くチャンスがより高く、家に帰還した後には、PTSDに罹患する危険がより低い。
…情動を感じることの少ないこれらの人々はこの種の外傷を体験する可能性がおそらくは少ない。(p241)
重要な点なので繰り返しておきますが、サイコパスは恥や恐れの感覚がないので、PTSDのようなトラウマ性疾患になりません。つまり愛着障害を含め、制御できないトラウマ性の体調不良に悩んでいるとしたら、その人はサイコパスではありません。
幼いころから他人の恐怖や悲しみがわからない
発達心理学者アリソン・ゴプニックによる哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)では、サイコパスで生まれつき人の恐怖や悲しみを感じる能力が解離されていることを示唆する研究が紹介されています。
神経科学者ジェームズ・ブレアは、凶悪犯用刑務所にいる囚人でその研究を行いました。その方法はぞっとするものでした。
殺人犯や強姦犯の中にも、はっきりタイプの違いがあって、熱情や誘惑に駆られ、衝動的に犯行に走った人たちと、もともと罪悪感がないサイコパスに分かれていたのです。
サイコパスはうわべは魅力的で口達者、人を操るのも巧みですが、他人を思いやらなければいけないことがわかりません。
まず、この記述から、サイコパスとは犯罪者の中でも一つの特別なグループをなしている、ということがわかります。
アリソン・ゴブニックは、こうした特殊な一団であるサイコパスを対象とした実験について、さらにこう続けて説明しています。
ブレアは、サイコパスの大人も、その傾向のある子どもも、平均的な幼稚園児とは非常に異なる反応をするのに気がつきました。恐怖や悲しみの表情―幼児でも心がかき乱されるような顔です―を見ても動じないのです。
サイコパスは、これらの表情の認識すら困難です。それでいて、怒りや軽蔑の表情はほぼ間違いなく認識できるのです。
彼らは脳の反応も違っていました。ほとんどの人は恐怖や悲しみの表情を見ると、脳の中にある扁桃体という部分が活性化されます。ところがサイコパスの扁桃体は同じような反応を示しません。(p302-303)
明らかに、サイコパスは、愛着障害とは別物です。幼児のころから、感情の反応が通常とは異なるからです。ひどい家庭環境のせいで成長とともに、感情を麻痺させていくわけではありません。
幼いころから脳の扁桃体における恐怖や悲しみといった反応が文字通りシャットアウトされているので、自分でそれらの感情を感じないだけでなく、人の痛みや苦しみも感じられず、理解することもありません。
最近のニュースによると、サイコパスは善悪を「感じる」機能が麻痺しているため、代わりに「考えて」判断しているとされています。
科学で迫る「善」と「悪」 鍵となる「共感」の能力 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
こうした結果からキールは、サイコパスの脳は、感情処理や意思決定、衝動の抑制や目標の設定を助ける、扁桃体や眼窩前頭皮質といった領域を結びつける機能に障害があると確信した。
その欠陥を補うため、彼らは本来、脳の感情の領域で処理することを、ほかの認知をつかさどる領域を使って冷静に処理しているように見える。
言い換えれば、私たちは善悪を「感じる」が、サイコパスは「考えて」判断していると、キールは述べている。
サイコパスの場合は感情的になって凶悪犯罪を犯すわけではありません。自制心がない粗暴な犯罪者と違って、彼らは自分の感情をコントロールしています。善悪を感じられないので、犯罪の動機もまた考えた結果です。
反社会性パーソナリティ障害の人が辛い感情を麻痺させようとして薬物や非行に落ちぶれるのに対し、サイコパスの人はもともとそれを感じないので、破壊的なことには手を出さず、良識ある社会人のように振る舞えます。
サイコパスを半分にしたようなものだ、と表現されていた自己愛性パーソナリティ障害の人のように、恥の気持ちにとらわれ、我を忘れて怒りをぶちまけることもありません。
上の記事で書かれているように、サイコパスが殺人や強姦のような凶悪犯罪に手を染めるかどうかは、ある程度、生育環境が関係しているようです。
生まれつきサイコパス傾向があっても、生育環境の中で、犯罪に手を染めないほうが得だと「考える」ことを学べば、たとえ良心がなくても、損得の計算から犯罪を避けるかもしれません。
最初に出てきたように「向社会性サイコパス」は精神的に人を追い詰めることはあれど、法を犯すへまは避けます。
他方、生育環境で凶悪犯罪を避けるべき理由を見つけられなければ、何のためらいもなく手を染めるでしょう。
先ほどサイコパスが一見、多動で衝動的なADHDに似ているということを述べましたが、サイコパスの場合の衝動性とは、ADHDのような自制心の弱さというよりも、良心の欠如ゆえにためらいもなく犯罪を犯したり、危険な行為を平気で実行したりすることを指しているのでしょう。
また、健全な人では、人との関わりを通して愛し愛されることから脳の報酬系が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出され、満足感が得られます。
しかし愛着システムが弱い愛着障害や、ドーパミン系の機能に問題があるADHDの人はそれが難しいため、依存行為などのもっと直接的な方法で報酬系を刺激し、ドーパミンを分泌させようとします。
サイコパスの場合も、愛着システムそのものが切り離されているので、やはり別のものによって満足感を得るしかありません。
そうすると、常に新しく面白いものを探し求めて飽きっぽくなったり、スポーツによるスリルや、奔放な異性関係を追い求めたりすることになるので、表向き多動なADHDに似て見えます。
何より、彼らにとって、ドーパミンを無限に放出してくれる究極のスリルが犯罪であり、法で裁かれないギリギリのところをやってのける快感ほど己を満たしてくれるものはないのです。
だからこそ、先ほどあったように『「だましたことではなく、捕まったことに対する後悔」という特徴的な責任回避の態度」』が生じるのでしょう。へまをして快感を得そこなったからです。
いずれにしてもこれは、表面上はADHDに似ていても、本質は愛着システムの欠如に起因している多動性だと思われます。
「心の理論」を使いこなす
さらに、サイコパスの特徴的なところは、人の苦しみや痛みがわからないとはいっても、感情がわからないわけではない、ということです。
人の気持ちがわからないと言われるアスペルガー症候群では、「心の理論」が弱いとされています。「心の理論」とは、他人の立場に立って考え、他の人の気持ちを想像する能力のことです。
アスペルガー症候群の人は、自分と同じアスペルガーの人の気持ちであれば想像することができますが、多種多様な、さまざまな背景の人の気持ちを想像し、汲み取ることは困難です。これは、子どものころから自他の区別が困難であることに原因があるようです。
しかしサイコパスにはそのような弱点はありません。アリソン・ゴブニックはさらにこう述べます。
赤ちゃんでさえ抱く他人への情緒的共感が、サイコパスにはありません。ただし、それらは彼らが他人を理解できないせいではありません。
彼らも、他人の願望や信念をいい当てる心の理論の課題はうまくやり遂げるからです。むしろ、この種の知識を利用し、人を巧みに操ろうとします。
彼らにできないのは、他人の恐怖や悲しみを取り込み、自分のものにすることです。このため、ふつうの人のような道徳的判断ができないのです。(p304)
サイコパスは、アスペルガー症候群のように自他の区別が困難で「心の理論」に弱いどころか、その正反対であり、「心の理論」が非常に巧みで、自分を魅力的に見せかけたり、心を操ったりすることに長けているのです。
正確にいえば、心の理論には、相手の気持ちを分析する「認知的共感」と、相手の気持ちを自分のことのように感じとる「情緒的共感」があります。サイコパスの人たちは「情緒的共感」が欠落していますが、「認知的共感」は極めて巧みです。
サイコパスはアスペルガー症候群と似ているどころか、むしろアスペルガー症候群の人を食い物にする人たちです。生真面目で物事を字句通りに受け止め、心の裏を読めないアスペルガー症候群の人はサイコパスにとって好都合だからです。
サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅の著者は自身の振る舞い方についてこう述べています。
多くの場合、私は共感的に振る舞える。私はよい聞き手であり、人々が何に関心をもってるのか聞くことが好きである。
しかし私がしばしばこうするのは、彼らを思い通りにする方法を見つけようとしているからである。
…このような接近をするには共感が大事だが、しかしそれはまさしく認知的共感であって、こころの理論に関係することなのである。(p174)
サイコパスがこれほど「心の理論」に巧みなのは、やはり生まれつき恐怖や悲しみを感じないという、強い解離傾向によるのでしょう。感情が解離されているので、常に冷静に他人を観察できます。
怒りにしても恐怖にしても恋にしても、激しい感情はときに人を惑わし、盲目にならせます。しかし、生まれながらにして感情の呪縛から解かれているサイコパスは、人の心のありのままの動きを観察し、得体の知れない掴みどころのないものではなく、理論的な枠組み、まさに文字通りの「心の理論」として分析できるのです。
あなたがサイコパスから身を守る方法
不幸にして、あなたの親が、配偶者が、親族が、友だちが、上司がサイコパスだとはっきりわかったなら、そして自分が彼らにいかに傷つけられてきたかを自覚したなら、どうすればいいのでしょうか。
良心をもたない人たち (草思社文庫)には、「良心のない人に対処する13のルール」というものが載せられているので、ぜひ読んでみてください。(p198-207)
ここでは、わたしが肝に銘じておきたいと思った4つの点だけを紹介します。
愛着システムがないサイコパスという存在を認める
まず必要なのは、サイコパスという種類の人間がいる、ということをはっきり知って、その存在を認めることです。
多くの人は、悪しき事件をサイコパスと結びつけて考えたがらない。特定の人間だけが根っからの恥知らずで、ほかの人たちはちがうと認めるのがむずかしいのだ。(p134)
わたしたちは、他の人はだれでも自分と同じだと考えます。身近な人がどんなにひどいことをするとしても、きっと、何か事情があるに違いない、わたしには彼を変える助けができるかもしれないと考えがちです。
それは、少なくとも世の中の96%か、それ以上の人に対する態度としては正しいものです。辛い生い立ちや、弱さのために、失敗したり、だれかを傷つけたりしてしまう人は多くいます。
しかし、人類の中には、わずかな割合、4%かそれ以下の割合で、それに当てはまらない人たちがいる、ということを知っておくことも必要です。
なかなか常識では理解できないことかもしれませんが、愛するという概念や、良心という機能が、生まれつき欠落している人がいるのです。
愛着を持たない人たちがいる、というのは自然界の例を見れば何の不思議もありません。
愛着崩壊子どもを愛せない大人たち (角川選書)によると、北アメリカに生息するハタネズミにはさまざまな変種がいることがわかっています。
そのうち、プレーリーハタネズミは、わたしたちと同じように、一夫一婦制をとり、家族を作って子育てします。
ところが近縁の種であるサンガクハタネズミは、不特定多数の相手と交尾し、つがいも家族も作りません。
研究によると、プレーリーハタネズミとサンガクハタネズミでは、脳内の愛着を育むホルモンであるオキシトシンの受容体の分布がまったく異なっていました。サンガクハタネズミには愛着を感じるシステムがなかったのです! (p111)
同じハタネズミの中に、愛着を感じるシステムを持っていない変種がいるという事実は、わたしたち同じヒトという種族にも、愛着システムが欠落している人たちがいても不思議ではない、ということをはっきりと物語っています。
サンガクハタネズミは愛着を感じるシステムがないにも関わらず、生殖関係は結ぶこともサイコパスとよく似ています。愛情という概念がなくても、報酬系を刺激し、ドーパミンによる快感を得るために、性関係を含め、スリルある活動には貪欲なのです。
そのような人に対しては、なぜ良心に欠けた行いをするのか、と理由を推し量ったり、自分の働きかけ次第で愛情深い人になるかもしれないと期待したりするのは、まったく無意味です。
良心をもたない人たち (草思社文庫)によると、ロバート・ヘアは、自分の患者についてこう書いています。
「彼らには専門家もふくめてだれもがだまされ、あやつられ、甘言にのせられ、目をくもらされる。
優秀なサイコパスはどんな相手の琴線にもふれることができる…彼らから身を守る最良の方法は、この捕食者の性質を理解することだ」(p24)
愛着というシステムが、親や家族といった自分愛し守ってくれる存在を認識する機能であることを考えれば、そのシステムのない人が、生き残るために人をコントロールしていくよう適応するのは当然ともいえます。
彼らにしてみれば、人とのつながりは、愛し愛されるためにあるのではなく、利用するためだけに存在するのです。
戦っても勝ち目は薄い
サイコパスにひどい目に遭わされた人たちの中には、サイコパスの本性を暴露して事実を明るみに出そうとしたり、裁判を起こしてサイコパスの人を有罪にしようとしたりする人がいることでしょう。
しかしそれは多くの場合、さらに痛めつけられる結果を招きます。
ある心理学の実験が明らかにした人の性質に関し、良心をもたない人たち (草思社文庫)ではこう説明されています。
たとえば、話をわかりやすくするために、100人の成人でつくられた社会があったとしよう。そのなかにサイコパスは4人いる―彼らに良心はない。
それ以外の、良心をもつ96人のうち、なんの疑いもなしに権威にしたがう者が62.5%。その権威者は、攻撃的で支配的なサイコパスである可能性も高い。
残りの36人には良心と、自分の行動の重荷を背負う強さがある。割合は全体の3分の1強。勝ち目はゼロではないが、なかなかきびしい。(p91)
この割合はしっかりとした実験にもとづくものなのですが、ここでは詳細の説明は省きます。
重要なのは、何の疑問も持たずにサイコパスの人によって操られる人たちが、少なくとも6割以上いるということです。
ここまで見てきたように、サイコパスの人は一見、とても魅力的に見え、「いい人」という仮面をかぶり、同情心を買うのが得意で、さらにはお金や性的接触を通して、他の人を操ることを得意としています。
そのため、たとえ被害者がサイコパスの人の本性を暴露し、訴えても、サイコパスの味方となる人のほうが明らかに多いのです。そして被害者のほうが頭のおかしな人としてレッテルをはられ、追放されてしまうこともあるのです。(p120)
裁判に持ち込んでも、サイコパスの人が有罪になる確率はかなり低いと言われています。彼らは被告人になってさえ、同情を引く言い訳と態度によって哀れみを買うことに成功するからです。(p109)
ヒトラーをはじめ、歴史上のサイコパス的独裁者の政権のもとで起こった悲劇を少し振り返るだけで、世の中のほとんどの人間が彼らの巧みさにだまされ、操り人形となって、少数の良識ある人に対して牙を剥くことが理解できるのではないでしょうか。
逃げる! 手の届かないところへと
そのようなわけで、「良心のない人に対処する13のルール」の8番目にはこう書かれています。
サイコパスから身を守る最良の方法は、相手を避けること、いかなる種類の連絡も絶つこと。(p204)
争ったり、事態を正そうとしたりするのではなく、とにかく逃げることです。一切関わりを経ち、できるだけ遠ざかることです。
サイコパスの夫に長年傷つけられたある女性はこのような行動をとりました。
そのプールでのできごとから一年後、シドニーはフロリダと同地での大学のしごとを離れて、ジョナサンとともに姉の住むボストンに引っ越した。ルークから2400キロ遠ざかったのだ。(p151)
逃げること、遠ざかること、そしてもはや何一つ関わらないようにすることは、サイコパスの影響から逃れる最大の手段です。
そして幸せに生きる
「良心のない人に対処する13のルール」の最後はこうなっています。
しあわせに生きること。
それが最高の報復になる。
サイコパスの人と関わってしまった人は、確かに本当に不幸でした。
その人たちが、サイコパスの人に対して、何か見返すようなことができるとすれば、完全に関わりを絶って、新たな人生を歩みはじめることです。
サイコパスの人を訴えたり、サイコパスの人を更正させたりしようとして、関わり続けるなら、いつまで経っても不幸なだけです。そもそも不幸の源は、サイコパスの人と関わったことなのに、一体なぜ、さらに関わり続けようとするのでしょうか。
サイコパスの支配から逃れて、手の届かない場所に逃げ、新しい人生を始めることこそが、すべてを支配したいサイコパスの人にとって、何より大きな痛手となるのです。
サイコパスの末路
司法に訴えたり、復讐しようとしたりしなくても、サイコパスの人は、いずれ自滅していくと言われています。
規模はどうあれ、サイコパシーは最終的には負け戦になるのかもしれない。(p235)
サイコパスの人生には、他の人との愛や高潔な価値観といった、真に満足をもたらすものが何もありません。(p240)
飽くなき支配ゲームを楽しむことだけが彼らの喜びですが、いずれは、彼らが武器にしていた身体的な魅力は失われたり、敵を作って生活が破綻したりして、ゲームに負けるときが来るでしょう。歴史上の独裁者だちの多くは悲惨な死を遂げました。
あなたがサイコパスの手から逃れ、遠くで幸せな生活を送っているうちに、彼らはいつの間にか自滅して社会から消え去っているかもしれません。
わたしが今回の本を読み、こうしてサイコパスについての記事をまとめるに至ったのは、身近にサイコパスの人がいたからです。
はじめは自己愛性パーソナリティ障害を疑っていましたが、どうもしっくり来ない部分がありました。その人には自尊心の欠如や苦悩はなかったからです。
調べていくうちに、なんとなくこの本に行き着きました。そして読んで衝撃を受けました。今回書いた10の特徴が、一点の曇りもなく当てはまっていたからです。10の特徴はその人そのままでした。
それで、わたしにははっきりと断言できます。サイコパスとは、架空の存在や誇張ではなく、確かに存在する現実の捕食者なのだと。
もちろん、もしこの記事を読んで、身近な人がサイコパスかもしれないと思うことがあっても、早急には判断しないことをお勧めします。
愛着障害やADHD、またいろいな精神的問題のため、悪いことに手を出してしまい、助けを必要としている人は確かにいるからです。この記事で考えたように、彼らは一見サイコパスに似ているかもしれませんが、実際には別物です。
本当にサイコパスかどうかを判断するには、このブログ記事だけで判断せず、この本良心をもたない人たち (草思社文庫)を読んでみることをお勧めします。初版は2006年なので、古本で安く売っていたり、図書館においてあったりもすると思います。
この本では、豊富な具体的な事例、サイコパスの社長や、サイコパスのセラピスト、サイコパスの夫の例などが載せられていて、解説もわかりやすいので、それらと照らして考えれば、その人がサイコパスかどうか判断できると思います。
そしてもしサイコパスだとわかったなら、「良心のない人に対処する13のルール」にしたがうことを決して遅らせないでください。
補足 : サイコパス視点から見たこの世界
この記事では、人類の大多数を占める愛着システムを持つ人たちから見たサイコパスの異質さについて考えました。こうして概観すると、明らかにサイコパスは精神異常者であるかに思えます。
しかしそれは誤りです。身近にいるサイコパスと接していた経験から、はっきり書いておきたいのですが、サイコパスとわたしたちとの間に起きる問題は、文化の違いからくるすれ違いのようなものです。
それはちょうど、先ほど出てきた二種類のネズミ、互いへの愛着が深いプレーリーハタネズミと、愛着がなく家族生活も営まないサンガクハタネズミの文化の違いと似ています。
この二種類のネズミは、別々の群れで暮らしていますが、もし一緒の社会で暮らさないといけなくなったらどうなるでしょうか。
愛着を持たないサンガクハタネズミの厚顔無恥な行動に、プレーリーハタネズミは混乱させられ、苦痛を覚えるに違いありません。でも、サンガクハタネズミは、いつもどおり、自分の価値観にそって普通に行動しているだけなのです。
本文中でも紹介したように、サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅の著者ジェームス・ファロンは、サイコパスの研究者であると同時に、奇しくも脳画像や血統から自分もサイコパスだと証明されてしまった稀有な人物です。
彼は本の中で、自身の生い立ちについて語っていますが、それを読むと、サイコパス視点ではこの社会がどのように見えているのかがよくわかります。
まず、彼は子ども時代の経験として、次のようなエピソードを書いています。
第一学年の私にとって最初の聖体拝領儀式時に、私は周囲に冗談をまき散らし始めたので、教師は私を15分間お尻から屑箱に押し込めた。
級友の一部は空中に両足を突き出した私の姿を観て、恐怖を目に浮かべていたが、何人かのろくでなしは笑いをこらえるのに必死であった。
この状況は面白いと私は感じていたことをはっきりと覚えている。そこで私は級友たちにふざけた表情をして見せてやったところ、さらに罰が15分延長されてしまった。(p29)
クラス全体の前で罰を受けるというのは、普通の子どもなら、恥ずかしくてトラウマになりかねない状況です。しかし彼は、「この状況は面白いと私は感じていたことをはっきりと覚えて」いました。
本文で見たとおり、サイコパスの人は、幼いころから恐れや恥に関わる神経が機能していないので、そもそも人前で緊張したり恥ずかしい思いをしたりすることがありません。それゆえサイコパスはトラウマを抱えませんし、兵士や外科医のような仕事にも向いています。
興味深いのは、中学時代に強迫性障害(OCD)の症状を抱えていたことです。彼は何度も、自分はひどい罪を犯したという悩みにさいなまれました。一見すると、激しい良心の呵責を感じているように見えますが、その内容はとても奇妙でした。
私の比較的奇妙な(強迫的)衝動の一つは無限に広がる空間の私の右側よりも左側に注意が向いてしまうことであった。
私のこころの中で起こるこの空間づけの時間を測ることがよくあり、こころの中の計算は10から20秒ほどで終わったが、一方に注意をより強く向けているこの時間が、一秒だけ多かったことに気づくことがあった。
これが(私の言う)大罪であった。このような目算の誤りはそれぞれが一つの大きな罪になると私は決めつけていた。(p35)
普通の人の感覚なら、これのどこが罪なのかまったくわからないでしょう。彼はこの「大罪」を教会で懺悔していましたが、司祭も困惑していたようです。
しかも、この強迫観念は養育環境から生じたトラウマの影響などではありませんでした。
すべてこれらのことは、家族や友人、教会関係者とかの外からの圧力がまったくない状態で起きていた。
そのような外的影響があるとしても、それは私から不安を取り除こうとする彼らの努力でしかなかった。(p35)
これは何を意味しているのでしょうか。サイコパスでも、少なくとも何かしら良心があることを示唆しているのでしょうか。
わたしにはその逆に思えます。良心とは、いわば、人類に普遍的に備わっている善悪についての規準のようなものです。
たとえばどの文化でも、殺人や盗みや近親相姦を禁じる法律があるのは、そういた行為を直感的に悪いとみなす良心が普遍的に備わっているからでしょう。
良心があればこそ、わたしたちは何が罪で、何がそうでないかを、ある程度、直感的に判断して、他の人の権利に配慮することができます。
おそらく、善悪を見分ける良心の機能は、愛着システムによって育まれるのでしょう。家族や周りの人たちとの安全な関係を築けるかどうかを手がかりにして、何が良く何が悪いかに関する良心が発達していくのです。
しかし、その善悪を判断するコンパスのような良心がなければどうなるか。善悪を判断できなくなるせいで、本来なら罪ではないことに悩む一方で、かえって他の人の権利を侵害するようなことは平気で行うようになります。
ジェームス・ファロンは、心の中で時間を数え間違うような、罪ではないはずのことを罪と考えていた反面、娘や妹から彼に傷つけられたと手紙で打ち明けられた時には、なぜそれが悪いのかさっぱり検討もつかなかったことを記しています。
娘からの手紙を受け取った時に、「そんなことをいつ私はしたか?」と考えたが、その答えが見つからなかった。
妹について、考えてみた。「いったい私は何をすると期待されているのだろう? とても忙しいが、家族があることは確かだ。もし十分におまえにしてやれないとすれば、非常にすまないことだ。
しかし、助けになってやりたいと思っているが、おまえの要求に応えるような者になろうとしているのではない」と。(p212)
ただいつもどおり振る舞っていただけなので、悪いことをしたという認識がかけらもなく、思いもよらないことを非難されて、かえって当惑したことがうかがえます。
ジェームス・ファロンが、娘や妹からの手紙の意味を理解したのは、10年後、自分がサイコパスだと気づいた後だったといいます。(当然ながら、こうした気づきに至ることができるサイコパスは極めてまれです)
良心という機能がない人間が認識している善悪と、良心を持っている人が感じる善悪とが違うものなのかもしれない、と彼は初めて思い当たったのです。
一つの重要な問題が発生する。いかにして人は自分には共感が欠けているかどうか知るのか、という問題である。
もしあなたにこれが欠けているのなら、「これ」がなんなのかわからないのだから、欠けているこれについて考えようがないということは大いにありえる。
…青色色弱の人に青色とはどのようなものですか、と尋ねることにそれは同じかもしれない。当人は青色の物が見えるが、この青色の物体は緑色と同じように見えるかもしれない。(p162)
それは脳の構造が違う人が交わることで引き起こされる、文化間ギャップでした。
良心という機能がある人が世の中を見るのと、良心が欠如した人が世の中を見るのとでは、同じものを見ていても、まったく違う認識になってしまうのは当然なのです。
そして、その視点の違いが両者のすれ違いを生みます。サイコパスからすれば悪いとも思わない普通のことをやっているだけなのに、そうでない人たちはひどく傷つけられた、と感じてしまう、ということです。
けれども、平気で嘘をついたり、だましたり貶めたり、ときには人を殺したりするようなことを、悪いともなんとも思わず、悪意もなくやってしまうようなことがありうるでしょうか。
この点は、本文中でも触れたような、次のようなサイコパス特有の感覚から説明できるでしょう。
読者が推察するように、私は負けず嫌いである。スクラブルゲームをしているとき、相手をやっつけるために相手をだまし、自分がどのようにするのかについて嘘をつく。
相手に一杯食わせるとは考えていない。人を欺くのが楽しいのではない。人を操作することの方がズーッと楽しい(サイコパスの主要な特徴)。
私はフェアに公明正大に勝利を得ようとするが、これを相手にも押しつける。子どもたちにはゲームは冷酷無慈悲にやるのがベストだと教えた。それが勝利の美学のすべてである。
…幸いにも私の周りの人間に対しては、私は悪意をもって事に当たることは稀である。言い換えれば、相手を傷つけて楽しむということはない。
自分の目的、愉しみごとでさえも追い求めている時には誰かを傷つけることがたまたまあったとしても、悪いと感じるようなことは私にはないことははっきりしている。(p166)
サイコパスの人たちは「悪意をもって事に当たる」ようなことはありません。ただ、冷酷無慈悲にゲームを楽しんでいるだけなのです。
サイコパスの人たちが認知している世界、つまり良心というメガネを通さずに見たこの世界が、ゲームのようなものに映っているのだとすれば、彼らの奇妙で厚顔無恥な行動のすべてに説明がつきます。
ゲームをプレイする人は、嘘をつくことに抵抗があるでしょうか。いいえ、興味本位からどんな選択肢でも好き勝手に選ぶでしょう。自分が選んだ選択肢の結果、ゲーム内の登場人物が苦悩したり死んだりしても、ほとんど気にかけないでしょう。
他人を傷つけることに抵抗があるでしょうか。よほど敏感な人でない限り、出てくるモンスターであれ兵士であれ、ときには民間人であれ平気で殺し、狩猟し、経験値やお金へと変えます。ただのザコキャラ、モブキャラだからです。
一夫多妻のような逸脱した恋愛行動を気にするでしょうか。もしそうなら、恋愛シミュレーションゲームがこれほど世の中に出回ることはないはずです。ゲームの中でなら、人々は浮気をしようが家族をないがしろにしようがあまり気にしません。
サイコパスは、現実世界という「ゲーム」をこれと同じ感覚でプレイしています。愛着システムがなく人をモノのように扱うというのは、ゲームの登場人物のように扱う、というのと同じ意味だからです。
良心とは、多数の人が生きる社会のための交通法規のようなものです。もし世界に自分しかいないのであれば良心は必要ありません。それがまさしくゲームの中の世界です。
彼らにしてみれば、経験値やお金、達成感を求めて純粋にゲームを楽しんでいるような感覚なのでしょう。わたしたちは、サイコパスが楽しんでいるゲームの中の登場人物です。しかし、現実はゲームではなく、登場人物それぞれに心が存在するのです。
ファロンが縛られていた奇妙な強迫症状も、もしかするとゲームのプレイヤーが、やりこみプレイや縛りプレイで自分に理不尽なルールを課すのと似ているのかもしれません。ある意味、究極の自己満足的な「俺ルール」なのです。
おそらく、すべての人間がサイコパスだったら、ちょうどサンガクハタネズミの社会のように、この世界はそれほど問題なくまわるのだと思われます。オンラインで戦うゲームにおいて、やられてもやり返すだけなのと同じです。
問題は、愛着システムを有するプレーリーハタネズミのような人たちが大多数を占めている社会に、少数のサンガクハタネズミのようなサイコパスが共存していることであり、互いの認識の違いが悲劇を生んでいるのでしょう。
もちろん、かといって、サイコパスに同情すべきだと言っているわけではありません。ゲームの中の登場人物に同情されても、プレイヤーは何とも思わないのですから、歩み寄ろうとするのは無駄な労力です。
サイコパスから逃れる方法は、この記事で書いたとおりであり、彼らがプレイしているゲームの画面内から逃げる、ということに尽きるのです。