あなたは、他の人が気に留めない耳障りな音が聞こえて悩まされることがありますか?
ここでいう耳障りな音とは、耳鳴りのことではありません。耳鳴りを抱える人も持続的な音に悩まされますが、それとは別に、大半の人が気に留めない高周波音が聞こえてしまう人がいます。
この現象は、モスキート音としても知られていますし、電化製品の場合は、一種のコイル鳴きとみなせるかもしれません。
大半の人は大人になるにつれ、高周波音は聞こえにくくなりますが、中には、子どものころからずっと、高周波音が聴こえ続け、耳障りに感じたり、うっとうしく思ったり、あるいはあまりにずっと聴こえるせいで慣れきってしまう人もいます。
わたしの身の回りにも そんな人がちらほらといて、どういうことなのか疑問に思っていたのですが、最近読んだ脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線という本に興味深いことが書かれていました。
それによると、高周波音が聞こえてしまう現象は、おそらくは感情表現の豊かさとも関係しているようです。そして、それとは逆の、細かい感情の読み取りが苦手で、冗談を真に受けてしまうようなアスペルガー症候群など自閉症の人たちについて知る手がかりにもなります。
なぜ高周波音が聴こえることが感情の豊かさと関わっているのでしょうか。「トマティス効果」というキーワードを通して考えてみましょう。
目次 ( 各項目までジャンプできます)
これはどんな本?
脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線は、カナダ・トロントに住む精神科医ノーマン・ドイジによる、脳の可能性を引き出す最新治療の取り組みを解説した本です。
前著脳は奇跡を起こすに続いて、脳は大人になっても配線を組み替える柔軟さを持っているという発見、神経可塑性(しんけいかそせい)に注目し、いかにすれば、難治性の脳疾患を改善できるのか先進的な医師たちの多彩な研究が紹介されています。
ノーマン・ドイジは医師であるだけでなく、作家また詩人でもあるそうで、ご自身もまた神経可塑性に富んだ脳を最大限に活用しておられるように思います。
「トマティス効果」―人は耳で歌う
高周波音と感情表現とのつながりを発見をしたのは、1919年にフランスで生まれた医師アルフレッド・トマティスでした。
トマティスは未熟児として生まれ、さまざまな体調不良を抱えていたこともあって、自分で原因を究明しようと医学の道に進みます。
医師になったトマティスは、航空機製造工場に務める人たちが、絶え間ない騒音によって、一部の音域に対する難聴を抱えるということに気づき、騒音による聴覚障害という先駆的な発見をしました。
その時期にトマティスは、歌手だった父の同僚たちの診察もしていました。そのオペラ歌手たちは、声のコントロールが難しくなったため、のどの治療を求めて、耳鼻咽喉科のトマティスのもとを訪れたのでした。
ところが、トマティスは、そのオペラ歌手たちの問題が、のどにあるわけではない、という意外な事実に気づきます。当時の通説とは異なり、彼らは声帯を損傷したせいで声の質が悪化したわけではありませんでした。
トマティスは、彼らに航空機製造工場の従業員のときと同じ検査をしてみて、共通点があることを発見しました。オペラ歌手たちもまた、騒音被害による難聴を抱えた人たちと同じく、特定の音域における難聴を抱えていたのです。
トマティスは、オペラ歌手たちの声の質の低下は、のどの声帯の問題ではなく、聴覚障害によるものではないか、と推察します。
つまり、特定の周波数のもとでは、歌手は、歌うことで頭蓋内に生じる音の強度のために、自らの聴覚能力を損なっているとも言える。
要するに、彼らの歌が劣化するのは聴覚能力が低下するせいだ。(p441)
オペラ歌手たちは、自分の大音量の声を聞くせいで、あたかも騒音被害のような形で、一部音域に対する聴覚障害を抱え、それが、歌の質を劣化させていたのです。
このことから、トマティスは「人は耳で歌うのだ」という前代未聞の主張を展開します。(p441)
そして、彼の発見はフランス医学アカデミーとフランス科学アカデミーで認められ、「トマティス効果」と名付けられます。
その意味するところは、次のようなものでした。
「発することのできる声の周波数は、耳が聴くことのできる周波数のみである」(p442)
耳と声、聴くことと話すことは、一見別のもののように思えますが、トマティス効果によればそうではありません。
そもそも、わたしたちが話せるようになるのは、耳で聴くことから始まります。母語を学ぶときも、第二言語を学ぶときも、まず話される言葉を聞いて、それを念頭に置きながら自分で発音することによって習得していきます。
トマティスは、さまざまな国籍の人が、自分の言語に合った音域の聴き取りに秀でていることも発見しました。わたしたちの耳は、それぞれの国の母語の音域に合わせて適応、発達していきし、それが発音の滑らかさにつながります。(p446)
裏を返せば、わたしたち日本人が英語を含め、他の言語の発音が難しいのは、単純に口に動きや声帯の機能によるものではありません。聴覚が日本語の音域に沿って発達するために、外国語の発音を十分に聞き取ることができず、その結果、声に出して発音することも難しくなるのです。
わたしたちは、耳で聞こえる範囲の音にしたがって、発音したり歌ったりすることができる、わたしたちの声の表現力は、聴こえる周波数の幅に依存している、これが「トマティス効果」なのです。
アルフレッド・トマティスは、そのほかにも興味深い発見をいろいろしていて、たとえば、パーティー会場などで、特定の人の声に注目できる「聴覚ズーム」、通称カクテルパーティー効果を見つけています。(p446)
また、耳が前庭系のバランス感覚に関係していることにも注目しました。これは自閉スペクトラム症の人たちが抱える身体感覚の異常、発達性協調運動障害とも関係しているようです。(p476)
なぜ感情がこまやかな人は高周波音に敏感なのか
トマティスの数々の発見の中でもとりわけ興味深いのは、音は周波数帯によって異なる役割を持っているということです。
特に、感情表現の豊かさに関わるのは高い周波数帯の音だといいます。
トマティスは、有名なオペラ歌手エンリコ・カルーソーの歌声を分析したところ、彼が最も華々しく美しい声で歌った期間の歌声は、高周波音に富み、低周波音に欠けていることを発見しました。(p443)
オペラ歌手としての美しい感情表現は、高周波帯域の音に依存していたのです。
これは、単に高い声は感情表現豊かで、低い声は単調だという意味ではありません。声には様々な周波数の倍音(基本の周波数を何倍かした周波数を持つ音。オクターブが上がった音が重なる)が混ざっています。
自身もトマティスによる治療を受けた心理士ポール・マドールはこう言います。
「音に生命を与えるのは高い周波数です。低くても、高周波数帯域の倍音に富んだ(……)生き生きとした声を出すこともできます。
逆に言えば、高くても倍音が貧弱で、か弱く魅力のない声も出せます。誰でも低音の〈オーム〉は発することができますが、高音なくしては平板に聴こえるのです」(p520)
オペラ歌手の歌声に美しさを与えるのが高周波音であるように、わたしたちの話し声を生き生きとしたもの、感情表現豊かで魅力的なものにするのもまた高周波帯域の倍音なのです。
倍音は楽器ごとの音色の違いとも関連していて、たとえば澄んだ音のフルートに比べ、ヴァイオリンが非常に味わい深い複雑な音色をしているのも、この高周波数帯域の倍音に富んでいるせいです。
高周波音が聴こえるから感情がこまやかに?
この発見を、「トマティス効果」に照らすと、次のようなことに気づきます。
すなわち、感情表現豊かに話せる人は、もともと話し声のうちの、感情表現に関わる倍音、つまり、高周波帯域の音が聴こえるので、生き生きと話せるのではないでしょうか。
以前の記事で紹介したように、近年、とりわけ感情がこまやかで、繊細な感性を持つ人たちは、HSP (Highly Sensitive Person)、つまり人一倍敏感な人たちと呼ばれるようになっています。
「敏感すぎる自分」を好きになれる本によると、HSPの人たちの中には、音に普通以上に敏感な人もいるようです。
たとえば、聴覚であれば、ほかの人たちが気づかないような小さな音が気になりますし、突然大きな音がしようものなら、飛び上がるほど驚いてしまうはずです。(p38)
このような音に対する過敏さは、感情を揺さぶる高周波帯域の音が聴こえるという鋭敏な感覚とも結びついているのでしょう。
そして、ここまで考えてきた「トマティス効果」からすると、HSPの人の感情がこまやかで、人の気持ちを汲み取る能力に長けているのは、もともと感情が豊かだったというよりは、生まれつき聴覚の感受性が強かったことに由来するのかもしれません。
つまり、生まれたときから、あるいはお母さんのお腹の中にいたころから、感情表現に関わる高周波帯域の音に敏感だったため、感情表現が発達し、人の気持ちをより深く汲み取るようになり、こまやかで繊細な感性を発達させていくのではないでしょうか。
HSPだから高周波音に敏感だ、というよりは、生まれつき高周波音に敏感なせいでHSP特有の共感性豊かな性格が発達していく、ということではないでしょうか。
HSPの人の中には、文学や詩など、言語的な感性に優れた人も多いですが、高周波音は、右耳とそれに関連する左半球の言語領域で処理されるという点と関係しているのかもしれません。
わたしたちの脳は、多くの場合、左半球に言語機能に特化した領域が存在していますが、脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線によると、コミュニケーションの上手な人は、右耳で高周波音を聞いて、すぐさま左半球で処理することに長けているようです。(p451)
コミュニケーションの上手な人は、会話の中のちょっとした手がかりから、相手の心境に気づきます。この「ちょっとした手がかり」とは、言葉の端々に現れるちょっとした音域の変化なのではないでしょうか。
また、HSPの人たちの多くが抑揚豊かな話し方をし、朗読や演劇などで感情の機微に富む話し方ができるのは、一種の言語習得のようなものとみなせます。
外国語を流暢に話せる人が、外国語特有の音域の変化を聞ける耳を持っているからそれを習得できるのであれば、感情表現に富んだ話し方ができる人は、特定の感情に特有の音域の変化を聞ける耳を持っているからこそ、それを模倣できるのかもしれません。
冒頭で触れた、わたしの身の回りにいる、高周波帯域が聴こえる人たちも、考えてみれば、コミュニケーションに秀でたHSPや、感受性の強い傾向を持つ人たちばかりです。
わたしの身の回りの少数例だけで判断するのは早計ですが、このような他の人には聞こえない高周波音に敏感な人たちは、共感能力の高いHSPの人たちでもあるのかもしれません。
ちなみに、人によって敏感な周波数帯域が異なるらしいことは、ネット上で話題になった、人によって聞こえ方が「Yanny」か「Laurel」に分かれる音声からもうかがうます。
以下の記事で詳しく考察されているように、敏感な周波数帯によって、受け取り方が変わるようです。
人によってLaurelかYannyか聞こえ方が異なる音を分析する - 記憶は人なり
ということは、もしも、ある感情表現が特定の周波数帯域と関連している場合、同じ会話を聴いても、人によってニュアンスの受け取り方が違う可能性がある、ということになります。
言い換えれば、敏感な音の周波数帯の違いが、コミュニケーションの行き違いにつながることがありうる、ということです。
なぜ自閉症の人は平板な話し方をするのか
それでは、もし高周波帯域の音が感情表現のこまやかさと関係しているのだとしたら、その逆、つまり高周波数帯域が聞こえない場合は、どのような影響が生じるのでしょうか。
以前の記事で説明したとおり、感受性豊かなHSPと対極にあるのは、他の人の気持ちを読み取ることが難しいとされる、自閉スペクトラム症の人たちです。
自閉症の人たちの聴覚過敏には、以下のようなタイプがあり、HSPの人と一部似通った悩みを抱えている可能性があります。
{探る}自閉スペクトラム症(ASD)/特異な見え方疑似体験 砂嵐、白飛び・・・外出阻む : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
聴覚については、チームがASDの人に聞き取りをするなどして、どんなパターンがあるのか解明を進めている。これまでに、音が強く聞こえる、ピーという耳鳴りがする、テレビの砂嵐のような雑音が響くなどのパターンが判明している。
はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線によると、トマティスは、自閉症の子どもたちが他の人の気持ちを読み取るのが難しいのは、特に低周波数帯域の音が聞こえすぎて、高周波数帯域の音が覆い隠されてしまうせいではないか、としています。
トマティスの示すところによれば、自閉症、学習障害、発話や言語能力の発達の遅れを抱える子ども(および複合的な耳感染を抱える子ども)の多くは、中耳の筋肉によって低周波数帯域を抑制できないために、人間の音声の周波数に波長を合わせられない。
低周波数帯域の音が大きな音量で押し寄せてくると、高周波数帯域の音声は覆い隠され、自閉症の子どもを、音、とりわけ電気掃除機や警報などの持続音に対して過敏にする。(p495)
自閉症の人たちは、HSPの人たちとは別の意味での過敏性を持っています。
どちらも感覚過敏という言葉で一緒くたにされがちですが、実際にはかなり異なる性質を持っている、ということは以前に詳しく説明しました。
HSPの人たちの過敏性は、他の人たちが気づかないようなささいな感覚や、小さな違いに鋭敏であること、また受け取った感覚が増幅されてより大きく、より深く感じてしまうことでした。
それに対し、自閉症の人たちの感覚過敏は、情報が整理されず、ふるいわけられることもなく、洪水のように押し寄せてくることだと言われてます。
さまざまな自閉スペクトラム症の人たちの手記を分析した自閉症とサヴァンな人たち -自閉症にみられるさまざまな現象に関する考察‐では、彼らの感覚過敏の性質について、こう書かれています。
同時に入力された刺激の中からある刺激を選択して、状況に応じて適切に反応すること、つまり事態に即応した行動ができないばかりでなく、一層悪いことに激しい混乱状態に陥ることを示すこの記載は、自閉症に付随するいろいろな問題行動がさまざまなレベルの感覚異常によって生じている可能性があることを示唆している。(p211)
自閉症の人たちの感覚異常は多くの情報が選り分けられず押し寄せてくることであり、聴覚刺激の面でも同様のことが起こっているようです。
最近の国内の研究でも、自閉症の脳では音の信号を抑制する部分が働いていないとされていました。
三重大 自閉症に新診断方法 世界初、聴覚過敏の原因解明 | 伊勢新聞
江藤氏によると、自閉症のマウスでは、左右の耳から入った音の情報が集まる神経の集合体部分で、音の信号を抑制する神経経路に障害が見つかった。
「信号が脳に過度に伝わるため、興奮しすぎてしまう」と考え、聴覚過敏の原因は神経経路の障害と判断した。
自閉スペクトラム症の人は低周波音であれ高周波音であれ、あらゆる音を取捨選択できずに取り入れてしまい、その結果、必要な音が不要な音によって覆い隠されてしまうようです。
話し声が心地よく感じられない
では、押し寄せてくる低周波音の洪水のせいで、高周波音が覆い隠されてしまうと、どのような影響が生じるのでしょうか。
先ほどのポール・マドールの説明からすると、高周波音が聞こえないからといって、会話の声そのものが聞こえなくなることはありません。
しかし、高周波数帯域の倍音は「音に生命を与える」要素なので、それが欠けると、声には魅力がなくなり、平板に聴こえてしまいます。
もしも、生まれたときから、話し声がそのような聞こえ方をしていたら、子どもの感性はどのように発達するでしょうか。
耳にする話し声の魅力的な部分が削ぎ落とされていれば、そもそも話すことやコミュニケーションに魅力を感じないでしょう。
また、話し言葉のうちの微妙な感情を伝える部分が聞こえないなら、言葉の内容を超えた繊細なニュアンスに気づくことができないでしょう。
自閉スペクトラム症の中でも、言語能力に秀でた人たちは、アスペルガー症候群と呼ばれています。彼らは、話したりコミュニケーションをしたりすることはできます。
しかし、微妙な空気を読むことが難しく、冗談を真に受けてしまったり、抑揚のない無機質な話し方をしたり、言葉に込められた感情以外の要素、たとえば語呂やリズムを好んだりもします。
ひといちばい敏感な子には、そのような特徴についてこう書かれています。
アスペルガーの子は、コミュニケーションを取りたがりますが、人の話を聴いたり、話すタイミングを直感的に理解することができず、なかなかうまくいきません。
婉曲表現や皮肉を理解する、秘密を守る、顔色を読む、といったことも苦手です。誰も興味がないような事柄について、淡々と話すことがよくあります。(p66)
そうなってしまうのは、話し言葉のうち、感情やニュアンスを伝える高周波数帯域の音が聞き取りにくく、表面的な内容や字句通りの意味やリズムを伝える低周波数帯域の音によって覆い隠されてしまうせいなのかもしれません。
自閉症の原因については、これまで諸説唱えられていますが、中には他の人への共感性が欠如している「心の理論」の障害だという意見もあり、自閉症は、心の目が盲目である、という無思慮なレッテルを貼られてきました。
しかし、近年明らかになっているとおり、自閉症の人たちは、決して共感能力がないわけではなく、人の気持ちを理解できないわけでもありません。
ここまで考えてきたことからすると、他の人の感情をくみ取りにくくなるのは、自閉症の原因ではなく、感覚過敏のせいで会話が心地よく感じられないことからくる副次的な問題であるように思えます。
脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線はこう説明しています。
私の見るところ、トマティスやポージェスらは、自閉症の第一の特徴が、他者の心を認める能力や、他者に共感する能力の欠如であるとする、従来の見方を考え直すべきときがきたと考えているはずだ。
従来の見方はつねに正しいわけではない。
感覚刺激に圧倒され、つねに闘争/逃走モードに置かれている子どもは、社会参加システムを発達させてオンにすることができず、他者の心に気づかない。
この他者の心に気づく能力の欠如は、感覚刺激を処理する脳機能の障害によって引き起こされる二次的な問題である場合が多い。
ポールは次のように指摘する。
「感覚系の目的は、世界との接触を求めると同時に、感覚世界から自己を守ることにある。ところが感覚刺激に対して過敏に反応するようになると、その人は外界を遮断するメカニズムを発達させ始めるのだ」(p455-456)
ポール・マドールの説明によれば、自閉症におけるコミュニケーション障害は、「感覚刺激を処理する脳機能の障害によって引き起こされる二次的な問題」です。
自閉スペクトラム症の子どもは、感覚過敏によって つねに危険を感じるため、交感神経がたかぶり、「闘争/逃走反応」が引き起こされます。闘争/逃走反応がオンの状態だと、副交感神経によるリラックスした状態にはなりません。
引用文中で名前が出ているスティーヴン・ポージェスのポリヴェーガル理論によれば、副交感神経が働かないと、人間は安全なコミュニケーションを楽しむことができないからです。
安全を感じると、副交感神経は闘争/逃走反応をオフにする。ポージェスがみごとに示したように、副交感神経系は「社会参加システム」と中耳の筋肉をオンにし、相手の話に聞き入り、コミュニケーションをとって他者とつながりが持てるようにする。(p495)
ものすごくシンプルに言えば、感覚過敏のせいで危険を感じているような状態では、人間は他者とじっくりコミュニケーションを取るような身体的余裕を持てない、という当たり前のことを言っています。
注目すべきは、音を聞くための「中耳の筋肉」を調整しているのが、どうやら、この副交感神経系らしい、という点です。
自閉スペクトラム症の人たちは、大勢の人の声の中から、特定の声に注意を向ける「カクテルパーティー効果」(「聴覚ズーム効果」とも)が苦手ですが、それはこの中耳の筋肉の調整が難しいことによる、と考えられています。
そして、中耳の筋肉の調整が難しいと、先ほども引用したように、特定の音の周波数を取捨選択できず、聴覚全般に対する過敏が生じます。
低周波音を抑制できないため他の人の声が心地よく聞こえず、聴覚的コミュニケーションは恐怖を引き起こす危険なものと認識されるようになります。
低周波数帯域の音が大きな音量で押し寄せてくると、高周波数帯域の音声は覆い隠され、自閉症の子どもを、音、とりわけ電気掃除機や警報などの持続音に対して過敏にする。
さらに言えば、人間においては、低周波数帯域の音は捕食者を想起させるがゆえに不安を引き起こす。(p495)
脳は、他の人の声という、この不快で危険な刺激を遠ざけるため、「外界を遮断するメカニズムを発達させ始め」ます。言い換えれば、これは、感覚を麻痺させる解離を発達させる、ということです。
実際に、自閉スペクトラム症の子どもでは、聴覚が過敏であるために、逆に遮断されて鈍麻しているという研究があります。
自閉症スペクトラムの子どもの聴覚過敏性は日常生活上で周囲から気づかれにくいことを明らかにしました| 国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センター
本研究では、弱い音に対する聴覚過敏性は、日常生活では気づかれにくく、一見感覚鈍麻のようにみえる場合でも実際は感覚過敏性が背景にある可能性も考えられることも分かりました。
自閉症の人たちに、解離傾向が強い人たちが多いのも、不思議ではありません。感覚の解離は、不快な刺激から、自らを守るための防衛手段です。
コミュニケーション障害は、自閉症の本質ではなく、自ら不快な感覚を麻痺させたことによって生じた、二次的な問題にすぎないのです。
わたしたちは、なんであれ心地よいと感じることを繰り返し行い、不快に感じるものからは遠ざかります。
HSPの人が、なぜ生まれつき他の人への深い興味を持っているのか、そして自閉症の人たちが、なぜ人よりも物に関心を持ちやすいのか、という点もしかりです。
そうした違いが生じるのは、話し声という聴覚刺激が心地よく感じられるか、それとも不快に感じられるか、という点に源を発している可能性があります。
最近、自閉症の人たちは、愛着や共感に関するホルモンであるオキシトシンが不足していて、オキシトシン点鼻スプレーによって症状が緩和されるのではないか、とする臨床研究が進んでいます。
脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線によれば、自閉症の人たちでオキシトシンが不足するのは、もしかすると、聴覚の過敏さによる二次的なものではないかと考えられています。
オキシトシンレベルの低下の原因は現在のところ不明だが、おそらく二次的なものではないかと思われる。
以下に述べるように、多くの子どもの場合、聴覚刺激に対する過敏さのゆえにリスニングが苦痛になり、そのために聴覚野と脳の報酬中枢の結合が低下した結果である可能性が考えられる。(p494)
実際に、自閉症の子どもたちの脳の画像検査によると、声を聞くことに関わる聴覚皮質と、快感を感じることに関わる報酬系とが十分に結合していないことが発見されたそうです。
近年、リスニングがいかに自閉症の影響をうけるかを説明する一助となる「脳の配線の問題」について、神経科学者たちの理解が進んだ。
2013年7月、ダニエル・A・エイブラムズとヴィノッド・メノンが率いるスタンフォード大学の科学者たちは、自閉症の子どもにおいては、人間の声を処理する聴覚皮質と皮質下の報酬中枢の結合が不十分であることを明らかにした。
…その結果、声を処理する脳領域を報酬中枢に結びつける能力を欠く子どもは、発話を快く感じられなくなる。(p492)
自閉症の子どもたちは、高周波数帯域の音が覆い隠されてしまう聴覚過敏のせいで、話し声を聞くことが心地よく感じらず、その結果としてコミュニケーションを好まなかったり、苦手になったりしてしまう可能性があります。
また、以前の記事で取り上げたように、聴覚だけでなく視覚の過敏性も、自閉症の独特な性格特性の発達に影響しているようです。
顔を忘れるフツーの人、瞬時に覚える一流の人 - 「読顔術」で心を見抜く (中公新書ラクレ)では、自閉症の子どもは、生まれつきの視覚の過敏性のゆえに、他の人と目を合わせるのが難しかったり、細部に過度に注目する認知特性を発達させたりするのではないか、とされていました。
興味深いことに、オリヴァー・サックスの手話の世界へ (サックス・コレクション)によると、自閉症の子どもたちが持つ視覚の鋭敏さは、生まれつき耳の聞こえないろう者たちが発達させる優れた視覚的思考力と類似しています。
自閉症の子どもたちには、視覚的コミュニケーション手段である手話の習得が役立つことも多いようです。
話せないあるいは話したがらない自閉症児の治療に〈手話〉が役立つとか、自閉症児のコミュニケーションを〈手話〉が見ちがえるほど向上させるとかいうのには、それなりの根拠がある。
レイピンは、その一因を、一部の自閉症児が、聴覚野に特異な神経系障害があっても、視覚野をほぼ無疵の状態に保っていることにもとめている。(p199)
ことによると、ろう者は先天的な聴覚の欠落により視覚的思考を発達させるのに対し、自閉症は不快な聴覚的刺激を後天的に自らシャットアウトした結果として、ろう者と類似した優れた視覚的思考能力を発達させているのかもしれません。
先天的か後天的か、全聴力の問題か、音の取捨選択の問題か、というさまざまな違いはあれど、どちらも聴覚に頼ったコミュニケーションが損なわれるという共通点があります。
不十分な聴覚という問題に適応するため、本来聴覚に振り分けられる脳の部位を視覚的な能力に転用した結果、これらの人たちは定型発達者が持たない優れた視覚的思考力を発達させるのではないか、という仮説を立てることもできます。
自閉スペクトラム症の人たちは、実際に、うまくいかない感覚の代償として、さまさせまな脳機能を発達させていることが指摘されています。
これはまた、裏を返せば、聴覚的コミュニケーション力に秀でた人たちの場合は、視覚的思考力や、細部の視覚情報を読み取る鋭敏さが発達しにくい、という意味かもしれません。
そうであれば、こと手話の習得のような視覚的なコミュニケーションにおいては、自閉スペクトラム症の人たちのほうが、かなり有利になる可能性があります。
聴覚的コミュニケーションを得意とする人は、高周波音の聞き取りがろう者コミュニティでは何の役にもたたないので、視覚的サインに気づきにくい「空気が読めない」人になってしまうかもしれません。
他方、自閉スペクトラム症の人たちは、視覚的な気づきが鋭いので、ある程度「空気を読む」ことができるばかりか、もともと苦手な聴覚的コミュニケーションの問題はまったく目立たなくなり、相対的にメリットのほうが大きくなります。
自閉スペクトラム症では、さまざまな感覚過敏の問題を抱えていますが、通常とは異なる感覚入力によって、通常とは異なる脳が発達していき、特有の傾向が形作られていくのではないでしょうか。
脳の慢性炎症が感覚統合を妨げる
ではなぜ、自閉スペクトラム症では、聴覚を含め、さまざまな感覚刺激が選り分けられず洪水のように押し寄せてくる感覚過敏が生じるのでしょうか。
まだはっきりとした結論は出ていませんが、この本では、近年、自閉症の脳に慢性炎症が発見されたことが取り上げられています。
2005年にジョンズホプキンス大学医学部のチームによって行われた研究によれば、自閉症者の脳は炎症を起こしている場合が多い。(p490)
2008年以来、五つの研究によって、かなりの数の自閉症の子どもは、子宮にいるあいだに脳細胞を標的とする母親由来の抗体を持つことが示されている。(p491)
このような慢性炎症は、脳のネットワークの発達に影響を及ぼし、感覚刺激の統合を難しくする場合があるようです。
慢性的な炎症は、神経回路の発達を阻害する。
自閉症の子どもにおいては、多くの神経ネットワークが「過少結合」され、脳の前面のニューロン(目的の追求や意図を理解する)と背後のニューロン(感覚を処理する)の結合が不十分であることが脳画像で示されている。
また、他の脳領域は「過剰結合」され、これは自閉症の子どもによく見られる痙攣発作の原因となっている。(p491)
脳に慢性炎症が生じる理由については、まだ十分解明されていませんが、おそらくさまざまな遺伝的要素や環境要因が絡み合っているのでしょう。
たとえば、その一つとして、以前の記事で紹介したような体内の免疫異常が大きな役割を果たしているのかもしれません。
近年の発見によれば、先進国を中心とする腸内細菌の多様性の減少が、自閉症を含む脳の慢性炎症や自己免疫疾患の増加と関連していることが示唆されています。
この点の解明には、さらなる研究の進展や治療法の開発を待つ必要がありそうです。
いずれにせよ、自閉症は心の理論や共感性の障害である、という古い観点ではなく、脳の慢性炎症とそれに伴う感覚過敏による症状である、という新しい観点が重要になってきそうです。
感覚刺激は脳の発達を左右する
この記事では、「発することのできる声の周波数は、耳が聴くことのできる周波数のみである」というトマティス効果をヒントにして、HSPや自閉スペクトラム症の人たちのコミュニケーションの違いを分析してきました。
どのような音が聴こえるか、という聴覚機能が、発する言葉や、感情表現を含めた脳の発達を左右する、という発見はたいへん興味深いものです。
モスキート音や他の人には聞こえないコイル鳴きが気になってしまう人たちは、じつはその敏感さが、自身の性格やコミュニケーションスキルなどにも影響しているかもしれない、ということを考えてみると興味が広がるかもしれません。
別の記事で紹介したように、聴覚の特性は、しばしばディスレクシアなどの学習障害とも関係しているようです。
この記事では、「トマティス効果」とその周辺の話題にしぼって取り上げましたが、今回紹介した本脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線は、こうした感覚器官からの入力によって脳が形作られていく事例が豊富に載せられています。
わたしたちは、脳はすべてをコントロールする司令官のようなものだと考えがちですが、実際はさまざまな感覚器官からの入力こそが、粘土のように柔軟な脳をさまざまな形へとこねあげていく陶芸家なのです。
そしてそれは、裏を返せば、外部からの感覚入力を工夫すれば、脳に影響を及ぼせる、ということも意味しています。
たとえば、聴覚について扱った部分の続きには、特殊な音域を強調するフィルターを用いて自閉症や学習障害を治療するトマティス療法家の取り組みや、サウンドセラピーやニューロフィードバックによるADHDの治療などが紹介されています。
そのほかにも、光刺激によって細胞を活性化させる低強度レーザー、舌への電気刺激によって脳を刺激するPoNS、体の気づきを促すフェルデンクライス療法など、さまざまな方法による病気の治療が取り上げられているので、興味のある人はぜひ読んでみてください。
補足 : ポリヴェーガル理論から見た自閉症の聴覚過敏
この記事の内容は、本文でも言及したように、神経科学者スティーヴン・ポージェスのポリヴェーガル理論に基づいています。
この記事を書いてからしばらく経った2018年にこのポージェスの著書、ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」が邦訳され、改めて、自閉症と聴覚過敏の関係が、詳しく説明されていました。
ポージェスは、まず自閉症とトラウマは、「原因が同じであるとは言えない」ものの「この二つには共通した特徴があると言ってよい」と述べます。たとえば、どちらも強い聴覚過敏を抱えているという特徴があります。
聴覚過敏を起こす神経回路の潜在的な作用機序が明らかになりました。
そして聴覚過敏を持つ人は、同時に表情や声の韻律に乏しく、迷走神経による心臓のコントロールの抑制が弱いという共通項が見つかったのです。
トラウマを持つ人を注意深く観察し、話を聞いてみると、彼らは人が多いところに行くのを嫌がります。なぜなら、うるさいと感じるからです。
また騒音の中で人の声を聞き取ることが、とても難しいと感じています。
自閉症の人も同じことを言っています。自閉症を持つ人は、音に対して過敏であるにもかかわらず、人間の声を抽出し、理解することに関しては困難を抱えているという、聴覚的パラドックスに悩まされてきました。(p57)
トラウマ当事者と同様、自閉症の人たちは聴覚過敏を抱えていることが多いとう共通点があります。
ポージェスは、自閉症の聴覚過敏の割合は実際より低く見積もられているとも述べています。これは本文中で引用した国立精神・神経医療研究センターの研究とも一致しています。
約60パーセントの自閉症児は聴覚過敏を持つと言われていますが、この数字は低く見積もられている恐れがあります。
親たちは、自分の子供が耳に指を突っ込んでいないので聴覚過敏ではないと考えていることが多いからです。
かつて、自閉症児の親に、お子さんに聴覚過敏があるかと尋ねたところ、「息子は以前そうだったが、もう問題ではない」と答えました。
そこで不思議に思い、その問題をどうやって克服したのかと尋ねたところ、その親は、自分の息子に耳に指を突っ込まないように教えたというのです。
耳に指を突っ込むのは、聴覚過敏があることを示す行動であり、聴覚過敏の苦痛に適応するための反応です。しかし、この親は、その行動を訓練によって奪ってしまったのです。
…親と教師たちは、周囲はちっともうるさくないと感じていたので、子供たちが騒音に圧倒されていたとは考えていませんでした。
…他者の感覚の世界を尊重することは、医療や教育の世界ではあまり行われていないように見えます。(p214-215)
自閉症スペクトラムの子どもたちは、この例のように、幼少期は聴覚過敏であることがわかるものの、養育や教育の場で受けた誤った訓練のために、一見すると過敏ではなくなったかのように振る舞うようになることがあります。
これは聴覚過敏があまりに辛く、それを軽減する手段もないせいで、限界を超えてしまい、感覚を麻痺させること、つまり「解離」によって対処しているとみなせます。
感覚が麻痺して切り離される解離が起こると、周囲だけでなく本人さえも、自分の過敏性に気づけなくなってしまうことがありますが、決して過敏でなくなったわけではありません。
このような子どもたちは、幼少期からずっと続く慢性的な聴覚過敏のせいで、コミュニケーションの難しさも抱えるようになります。
ではなぜ、音に対して過敏であるにもかかわらず、だれかが話す内容や意味を理解することが難しくなってしまう「聴覚的パラドックス」が起こるのか。
その理由は、本文でも説明した、言葉の韻律、つまり高周波と低周波の音の役割の違いによります。
わかりやすく言うと、育った環境が危険であるとか、家庭が安全ではない場合に、子供の言葉の発達が遅れる可能性があります。
このような環境で育った子供たちは、通常であれば、捕食動物が出す声に注意を払います。
…内耳の神経が適切に調整されていないと、言葉の意味を理解することが難しくなります。
中耳の筋肉の緊張が弱い場合、子音によって表現される高周波の和音が聞き取れなくなります。
つまり、誰かが何かを話しているのはわかるのですが、その音が何を意味しているのかがわからないのです。(p61)
幼少期からトラウマ的な刺激にさらされてきた人たちは、常に神経系が警戒モードにあります。
これは機能不全家庭に育った人だけでなく、もともと過敏性が強いために普段の環境そのものが危険に感じられる自閉症の子どもの場合も同じです。
神経系が常に危険を感じていると、聞こえている音のうち、捕食動物の発する音、つまり低周波音に聴覚的な焦点が合わされます。
自分は危険な環境にいる、と神経系が認識するので、本能的に捕食者を警戒してしまうのです。この低周波音への敏感さが「聴覚過敏」として認識される部分です。
しかし、絶えず警戒モードになって低周波音に焦点を合わせていると、その代償として、韻律に富む感情表現に不可欠な、高周波の成分には気づけなくなってしまいます。
話し声のうち低周波の成分だけに過敏で、高周波の成分には鈍感になるので、捕食動物の唸り声のような危険を感じる一方、言葉の意味をつかむことはできなくなってしまいます。
話し言葉のうち、感情表現を担う高周波の成分が取り除かれるとどのような話し方になるか、ポージェスは具体的でわかりやすい例を挙げます。
[歌手ジョニー・マティスのような] 韻律に富んだ歌声は私たちの心を虜にしますが、対照的に大学の教授が一本調子でしゃべっているところを想像してみてください。…一本調子の声を聞いていると、退屈で眠たくなります。…声の抑揚がない人は、どんなことを言っているのか聞き取ることが難しいのです。
聞き手は、そういう話し方では話に引き込まれません。なぜかと言うと、声に魅力がなく、そこから情報を抽出したいと思わせないからです。(p79-80)
この大学教授のような平板な話し方は、自閉症スペクトラムの人たちによく見られるものです。抑揚のない、一本調子で、淡々とした平板な話し方をします。
なぜ自閉症スペクトラムの人たちは、そのような話し方をするのでしょうか。
本文で書いたように、わたしたちの言語習得は耳に依存しています。聞こえるようにしか話せないからです。
自閉症スペクトラムの人たちが韻律のない話し方をするのは、もともと自分の耳に聞こえる声が韻律のないものであることを物語っています。
感情表現に富む高周波の成分が聞こえないので、感情が読み取れないコミュニケーションの難しさを抱えるだけでなく、自分もまた平板な話し方になってしまうのです。
聴覚過敏は自閉症のメカニズムの大きな部分を占めると思われますが、残念ながら、これまでのところ、自閉症の聴覚過敏の研究はほとんど進んでいませんでした。その理由としてポージェスはいくつかの点を挙げています。
たとえば、「研究資金を提供する機関が、聴覚過敏についての研究にはお金を出したがらないこと」があります。
聴覚過敏は自閉症だけでなく、さまざまな疾患に見られる特徴です。しかし、研究資金を提供する団体は、自閉症に限定された「神経生物学的な特徴や遺伝的な特徴の発見を期待して」いるので、聴覚過敏はふさわしい研究対象とみなされてきませんでした。(p216)
また、これまで医療や教育の場では「他者の生理学的状態を尊重すること」、言いかえれば、「他者の感覚の世界は自分のそれとは違うのだということを理解すること」が、まったく無視されてきました。(p215)
人間はみな、鋳型で量産されているかのように同じ神経系を持つという考え方が一般的だったので、大半の人が「ちっともうるさくない」と思うような環境で聴覚過敏を訴える人は、気のせい、気にしすぎ、神経質などと無下に扱われてきました。(p215)
さらに、自閉症の研究が、「病院や医院、研究室」など一定の環境でのみ行われてきたこともポージェスは指摘しています。
病院や研究室は、過敏な人にとっては警戒モードになりやすい場なので、患者の症状が「その環境に対する防衛反応によるものなのか、あるいは本当にその患者の固有の特徴なのかの判別をつけること」ができないはずです。
区別をつけるには、病院や研究室で症状を観察するだけでなく、自宅の落ち着いた馴染みある環境でも同じ症状が出るかを観察する対照研究が必要です。そうしなければ、症状が環境のせいなのか本人の固有の問題なのかがわかりません。
例えば、ポージェスはMRI研究の例を挙げています。自閉症児は、「多くが聴覚過敏を持っており、当然拘束されることを嫌う」ので、MRIの中に入ることは相当なストレスなはずです。(p217)
では、自閉症のMRI研究によって確認され、論文によって報告されている「異常」とは、本当に本人の脳が抱えている異常なのでしょうか。それとも、拘束され、ガンガン響く音を長時間聞かされたことによる防衛反応なのでしょうか。
私的な体験ですが、以前に終夜睡眠ポリグラフ検査という、一晩かけて睡眠の特徴を調べる検査を受けたことがありました。
病院のベッドは固く、狭く、寝心地は最悪でした。体中に電極をつけられてかぶれ、寝る時間になっても機器のLEDライトが点滅してて、ずっと物音が聞こえている部屋で検査を受けました。
わたしも敏感なタイプなので、当然、そんな環境でまともに寝られるはずがありません。
検査の結果は、不眠でまともに睡眠がとれていないというものでしたが、それがふだんのわたしの睡眠状態をまったく反映していないことは明らかでした。
しかし現代の医学は、このような環境で取られたデータの蓄積によって作られた学問なのです。過敏性を考慮に入れずに研究しているせいで、本来は環境側の問題を個人の問題にすり替えている研究がたくさんあるはずです。
ポージェスは、このような現状を打開すべく、これまで主観的にしかわからなかった聴覚過敏を、客観的に測定する検査方法を開発することにしました。
聴覚過敏の作用機序を明確化し、介入の効果を定量化するために、私たちの研究チームは、中耳の構造の機能を客観的に評価する方法を開発する必要がありました。
…その結果、中耳の伝達関数を計測し、どのような音が中耳を通り、実際に脳に到達するのかを同定することに成功しました。
私たちはこの機器を「中耳吸音システム(MESAS)」と名づけました。(Porges &Lewis,2011)
…これは画期的なことです。なぜなら、この機器が開発される前は、聴覚過敏を評価するには単に主観的な感覚に頼るしかなかったのです。(p74-75)
MESASによって、聴覚過敏を客観的に計測できるようになったおかげで、聴覚過敏が現実の問題であることが明らかになったばかりか、聴覚過敏を治療するための手法を評価することもできるようになりました。
ポージェスが開発した治療法は、LPP(リスニング・プロジェクト・プロトコル)と呼ばれており、感情を伝える高周波の韻律を強調し、危険を伝える低周波の音域を取り除いた音源を繰り返し聞くことで、神経系のエクササイズを行います。
この介入方法を、自閉症を持つ子供たちに試験的に実施しました。すると驚くべき結果が得られたのです (Porges et al.,2013,Porges et al.,2014)。
この10年間で、200人以上の子供と、数人の大人が聴覚刺激の介入を受ける研究に参加しました。
その結果、聴覚過敏が改善し、社会的な行動を自発的にとることが増加し、RSAとして計測される、心臓に対する迷走神経の制御が増加しました。(p72)
このLPPプログラムは、Intergated Listening System社からSSP(Safe and Sound Protcol)という名称で、臨床家向けに提供されているそうです。
ポージェスは、ほかにも聴覚過敏や視覚過敏に配慮した環境をつくることで、自閉症スペクトラムをもつ子どもたちが、より学びやすい教室を作るプロジェクトに協力しています。
この学校には、様々な特徴がありますが、特にその中でも注目すべきなのは、教室を静かに保とうとしているという点です。
背景の雑音を減らすとともに、ギラギラとまぶしい電灯ではなく、自然の光をなるべく多く採光するように努めています。窓は床から1.5メートルの高さで、気が散るような視覚刺激を排除しています。教室にはまぶしくならないように間接照明が施されています。
音を吸収する天井とカーペットが敷かれた床が配され、音の刺激を完璧に取り除けるようになっています。(p212)
わたしたち現代人がごく当たり前だと思っている都市や学校の環境には、自分たちでも気づいていない、さまざまな強すぎる刺激が蔓延しています。たとえ社会によって普通だとみなされている環境であっても、過敏性を持つ子どもは警戒モードに追い込まれ、さまざまな症状を誘発してしまいます。それを防ぐには、もっと「神経生物学的に配慮された」自然な環境づくりが必要です。
この列車の音は、私たちの神経系に対して、警戒し危険に備えるよう物理的な合図を与えています。
私たちの環境中に、神経系に防衛を促す合図がどれほど溢れているか、私たちはたいてい気づいていません。
「神経生物学的に配慮された」環境にいられれば、私たちは警戒したり防衛したりする必要なしに、生活し、働き、あそぶことができます。
こうした音の刺激を取り除くことによって、神経系が捕食者や危険に対して警戒する必要が減少します。
こうした形の刺激が取り除かれた状態であれば、もっと容易に機能的にリラックスし、人々に関心を向け、社会的交流によって得られるあらよる良いものを享受することができるのです。(p244)
ポージェスは聴覚過敏のような問題は、「ただ単に、社会交流システムが抑制されているということであり、適切な刺激が加えられれば再びこのシステムがいきいきとか活動を始める可能性があ」るという、楽観的な見方をしています。(p83)
つまり、まずは環境内の自動車、列車、電化製品などによる低周波の音をできるだけ取り除き、警戒モードを解除すること、次にLPPのような神経系エクササイズによって聴覚ズーム能力を訓練することによって、聴覚過敏を改善できる、と考えられています。
聴覚過敏に対する神経科学的な研究や治療はまだ始まったばかりですが、研究が進むにつれ、自閉症スペクトラムやトラウマ障害に伴う過敏性がよりよく理解され、治療法も確立されていくことでしょう。
また、聴覚的な特徴においては、自閉症とは逆に、高周波の成分に注目しすぎていると思われるHSPについては、この本では特に何も書かれていません。しかし、ポージェス自身による興味深い経験談がありました。
ポージェスは、自分が開発したLPPを、通常よりも長時間聴くとどうなるかを調べてみたくなり、自分で試してみたそうです。
すると、「高周波数の音に大変過敏になりました」。
その結果、パソコンのファンの音がうるさすぎて、パソコンの前に座っていることができなくなってしまったのです。
短距離を移動するだけで、通常はすぐに消えてなくなってしまうような高周波数の音を、私は聞き分けることができるようになっていたのです。
子供が家の反対側にいても、彼らの声が聞こえるようになっていました。私の耳が、人間の声の周波数帯に極端に焦点を合わせるようになってしまったのです。
通常の状態に戻るまでに、二週間かかりました。それ以来、私は感受性や疲れやすさに関する個人差を尊重し、慎重に対応するようになりました。(p81)
もともとLPPは、高周波の成分に対する感受性を高めることを目的としたプログラムですが、自閉症ではないポージェスが長時間利用したことで、自閉症とは逆の極端に至ってしまったのかもしれません。
この「人間の声の周波数帯に極端に焦点を合わせるように」なった状態が、コミュニケーションに非常に強い関心があり、ちょっとしたニュアンスや感情表現に対して敏感すぎるHSPの人たちの状態だと思われます。
この状態でもやはり、「パソコンのファンの音がうるさすぎ」るといった聴覚過敏性が生じますが、自閉症の聴覚過敏とは別のものであり、HSPの人にはLPPは逆効果になるおそれがあるということかもしれません。
現在は臨床家向けに公開されているLPPが一般的な治療法として導入されるのはまだ先のことと思われますが、MESASによる客観的な検査と合わせて、このあたりの適性の研究も進めてほしいところです。
この記事で紹介できたのは内容の部分的な要約にすぎませんので、この分野の研究に興味のある人は、ぜひ今回の記事で紹介した、脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線やポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」
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