なぜ人は死の間際に「走馬灯」を見るのか―解離として考える臨死体験のメカニズム


恐れも、後悔も、混乱も、苦痛もなかった。たとえば、火事のさなかのような、ゆるやかな死の危険に伴いうる、身のすくむような恐怖は、誰一人として感じなかった。

思考の働きは通常の速さや激しさの100倍にもなった。客観的な明晰さをもって、出来事とその結果を眺めることができた。

時間は止まっていた。次いで、しばしば、自分の全過去が突然蘇ってきて、落下している者は最後に壮麗な音楽を聞く。(p328)

の間際に、これまでの人生のさまざまな思い出が映像として見える体験は、わたしたちがよく知っているとおり、日本では「走馬灯」と呼ばれてきました。

これは世界中のほとんどの地域の人が経験しうるもので、1928年、イギリスの神経学者S・A・キニア・ウィルソンによって「パノラマ記憶」(パノラマ体験、パノラマ視現象とも言われる)と命名されました。(p321)

人が死の間際に経験する現象には、ほかにも「あの世」や「三途の川」などの美しい風景を見たというものや、魂が抜け出たかのように感じる「体外離脱」などがあり、非常に多くの類似した報告があります。

たいていこれらの臨死体験は、オカルトやスピリチュアルなものとされがちですが、実際にはこのブログで何度も取り上げてきた脳の防衛機制「解離」と密接に関連した生物学的現象だと思われます。

そういえるのは、死に瀕した人が誰でもこの現象を経験するわけではないという事実、そして死に瀕さなくても、解離性障害てんかんの患者が非常に似通った経験をしているという事実があるからです。

奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)の巻末の解説で養老孟司先生が書いているように、臨死体験とは、脳が特殊な状態に置かれた場合に起こる現象であり、実験室で再現もできます。

いわゆる宗教体験、あるいは臨死体験が脳の機能であることは、いうまでもない。

しかしそれが世間の常識になるまでには、ずいぶん時間がかかっている。

神秘体験としての臨死体験が世間の話題になった時期に、私は大学に勤めていたから、取材の電話に何度お答えしたか、わからない。

あれは特殊な状態に置かれた脳の働きなんですよ。(p341)

この記事では、なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学などの本を参考に、「走馬灯」をはじめとする臨死体験の正体を探ってみたいと思います。

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これはどんな本?

今回、「走馬灯」ないしは「パノラマ記憶」について主に参考にしたのは、オランダの心理学者、ダウエ・ドラーイスマによるなぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学という本です。

本のタイトルとは裏腹に年齢による時間の認知の変化については、ほんの一部で扱われているのみなので、副題の「記憶と時間の心理学」のほうが、この本の内容をよく表していると思います。

記憶と時間について、サヴァン症候群、トラウマ記憶、デジャヴュ、離人症、コルサコフ症候群、などとても興味深い話題が数多く考察されている非常に面白い一冊で、そのうちのひとつとして「パノラマ記憶」が扱われていました。

また私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳という本では、最新の脳科学的研究にもとづき、体外離脱やドッペルゲンガーのような、自己所有感に異常が起こる奇妙な幻覚体験が考察されています。

「走馬灯」の5つの特徴

「走馬灯」体験の生物学的メカニズムについて考える前に、まず、それがどんな体験なのか知っておくことが肝要でしょう。

わたしたちは「走馬灯」についてマンガやアニメ、メディアなどを通して度々耳にしますが、実際に経験した人は決して多くないはずです。

1928年にウィルソンが「パノラマ記憶」という用語を作って以降、多くの研究者がこの不思議な体験について調査し、瀕死になったことのある人たちに質問し、統計をとってきました。

その結果、わかったのは、「走馬灯」「パノラマ記憶」の体験談には、いくつかの共通するパターンがあるということでした。

1.すべての人が見るわけではない

まず最初に注目したいのは、わたしたちのだれもが瀕死になれば「走馬灯」を見るわけではない、ということです。

心理学者ケネス・リングは、重病、事故、自殺未遂など死の一歩手前を経験して奇跡的に生還した102名にインタビューしましたが、そのうち「パノラマ記憶」を経験したと述べたのは12名のみでした。

そもそも瀕死状態を経験して生還するという経験自体が稀有なものですが、「走馬灯」を見て生還する人はさらにまれなのです。

さらに12名のうち、10名までが、故意でない突然死の危機にさらされた人たちでした。

つまり、自分の意思で飛び降り自殺を敢行した自殺未遂の人や、病気のせいでゆるやかな死に直面した人は、「走馬灯」を経験しにくかったのです。

パノラマ記憶のような体験は、急な、しかも自ら求めたのではない危険のときだけもたらされるようである。(p341)

と書かれています。

またアメリカの精神科医ラッセル・ノイス・ジュニアと臨床心理学者ロイ・クレッティが死の危険に瀕した200人以上の人たちからとったアンケートでは、さらに具体的な点も明らかになりました。(p341-342)

まず、死に瀕して「走馬灯」を見る人の多くは20歳以下でした。この本に載せられている体験談の文献も当時17歳や21歳だった人たちのものです。

次に、「走馬灯」を見た人のほとんどは、もうすぐ死ぬという確信を抱いていました。何も考えられなかった人や、大丈夫だと考えていた人に比べて、4倍も「走馬灯」を見やすかったそうです。

最後に、瀕死になった状況は、「溺死」の危険が最も多く43%を占めました。次いで自動車事故、そして転落と続きますが、「走馬灯」を経験する確率は低くなります。

それで、「パノラマ記憶」を経験しやすいのは、例外もあるとはいえ、次のようなまれな条件に遭遇した人たちであるようです。

■故意にではなく、突然、死の危険に直面する
■特に溺死や自動車事故、転落などの死の危機に瀕する
■比較的若く20歳以下で経験する
■危機的状況で、自分はもう死ぬのだ、と確信する

しかし、こうした条件がすべて整っても、「走馬灯」を経験しない可能性は十分にあります。

「パノラマ記憶」は、「溺死寸前のような、パノラマ記憶が生じる可能性がもっとも高い状況でさえ、ごくわずかな人しか体験していない」のです。(p349)

2.パノラマ・レビュー

2番目に考えるのは、「走馬灯」や「パノラマ記憶」という名称が指し示している、この体験の視覚的な性質です。

「走馬灯」という言葉からわたしたちが連想するのは、次々に映像が移り変わっていく様子です。「パノラマ記憶」という言葉からは、さらに壮大な映画のようなスケールが連想されるかもしれません。

この経験をした人の多くは、自分の過去の様子や、あるいは未来の様子までもが、次々に目の前に映しだされたと述べます。ちょうど人生のフィルムを早送り、あるいは巻き戻しするかのように次々にシーンが切り替わるのだといいます。

さらに興味深いのは、その映像は、一つの大画面で見る映画のようなものではなく、複数のスクリーンで同時にさまざまな場面を見るような感覚が伴う場合がある点です。

その一例が、すべての記憶がいっせいに同時に現れたように見えるという感覚である。

この体験はド・クインシーの「鏡のなかに並べられた」記憶や、ビューフォートの「パノラマ・レビュー」には当てはまるだろうが、映画のような、逐次的な隠喩には当てはまらないのである。(p339)

人生のさまざまな記憶が次々に、あるいは同時にいっせいに映しだされ、ものすごい速さで再生されるのが「走馬灯」であるといえるでしょう。

また、「走馬灯」のほとんどは視覚的な体験ですが、冒頭で引用したように、壮麗な音楽を伴うこともあるようです。

3.第三者視点

3つ目の点は、「走馬灯」を体験している間、本人は映像の中に入り込むのではなく、ちょうど映画の観客のように第三者視点から眺めているということです。

どの被験者にとっても、パノラマ記憶は主として視覚的体験だった。

その映像は鮮明かつ詳細だった。誰もがその体験を「外から」見ていて、自分を観客のように感じた。(p342)

「走馬灯」を経験する人はあくまで傍観者です。次々と移り変わる映像の中に、子どものころの自分や、若いころの自分の姿を見ますが、意識は遠く離れたところからその光景を見つめています。

映像はちょうどスクリーンに映しだされているかのように、ひとりでに、自動的に変化していくのです。

4.考えの洪水

4番目は思考の速度が異常な速さになることです。

瀕死状態にある、あるいは死の危険に面しているのはほんのわずかな時間でしょうが、その間に通常では考えられないほどたくさんの思考が生じます。

1871年、雪山の急斜面から落下した21歳のアルバート・ハイムは、そのときの「パノラマ記憶」体験についてこう述べました。

前に述べた「考えの洪水」は落下の最中にはじまっていた。

その5秒から10秒の間に何を考えていたかは、その10倍の時間をかけても説明することはできないだろう。

私の考えたことはすべて筋が通っていて、鮮明で、夢のように忘れやすいものではなかった。(p323)

「走馬灯」を経験する人は、そのわずかな時の間、時間の長さが何倍にも引き伸ばされたように感じられ、明晰な思考力で、さまざまなことを思考するようです。

次々と現れる映像一つ一つについて、あれこれ判断を下したり、感慨にふけったりすることもあるといいます。

5.幸福感

最後の5番目の点は、「走馬灯」経験には、幸福感が伴う、ということです。

すでに考えたとおり、「走馬灯」は突然の瀕死状態で、しかも死を確信したときに生じやすいとされています。ですから、「走馬灯」を見ている人が、その間、安心感や幸福感を感じると聞くと、意外に思う人は少なくないでしょう。

ハイムはばら色の雲が浮かんだ青空を浮遊していると感じたのに対し、士官は天国のような景観のなかを通過しているように感じた。

どちらにも不安や悲しみはなかった。すべてが喜びに満ち、楽しかった。(p332)

「走馬灯」を見ている人は、極限状況にいるわけですが、不思議なことに、ひときわ平和で心配のなかった子どものころの映像を見て、美しい景色につつまれ、喜びや幸福感を感じるのです。

「走馬灯」や「パノラマ記憶」を経験した人たちの多くが、極楽浄土や天国を垣間見たと考えるのも不思議はありません。

「走馬灯」は解離性障害と似ている

このように「走馬灯」体験には、幾つかの本質的なパターンや類似点があります。

一見すると、「走馬灯」は科学の領域を超えたスピリチュアルな現象に思えますが、これら5つの特徴は、不思議な現象の背後に、脳の防衛機制である「解離」という犯人が関与していることを物語っています。

すでに登場した研究者のノイスとクレッティは、自分たちが導き出した統計のデータを見て、「パノラマ記憶」が解離性障害の症状の一つ、「離人症」とよく似ていることに気づきました。

彼らが、パノラマ記憶が生命維持に必要な生物学的構造を持っている証拠と考えたのは、映像と、死にかけているという現実との著しい落差だった。

その意味で、パノラマ記憶は「離人症」と似ている。離人症は、トラウマを残しそうな状況において、意識をパニックや分裂から守るための適応反応である。

離人症は、時間認知の歪み、思考の高速化、離脱感、そして突然現実から離れ、自分の行動を自分が見ている感じを伴う。

ノイスとクレッティは、類似点があまりにも示唆に富んでいたので、パノラマ記憶を離人症の特殊な例と見なした。(p343)

離人症については、このブログで過去に取り上げました。

現実感がない「離人症」とは何か―世界が遠い,薄っぺらい,生きている心地がしない原因
現実感がない、世界が遠い、半透明の膜を通して見ているような感じ、ヴェールがかかっている、奥行きがなく薄っぺらい…。そのような症状を伴う「離人症」「離人感」について症状、原因、治療法

解離性障害における離人症は、さまざまなストレスやトラウマ、生まれつきの解離しやすさなどが重なった結果、解離という脳の防衛機制が働いて、苦しく辛い現実から意識を逃避させることによって生じます。

離人症というと、現実感を喪失する病気なので、生き生きとしたリアルさを伴い、明晰な思考が伴うパノラマ記憶とは一見別物に思えます。

しかし上の記事で取り上げたとおり、解離性障害の離人症の特徴の一つは、夢が異様にリアルになることです。現実が夢のように感じられる反面、夢が現実以上にリアルに感じられるようになるのです。

解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)にによると、ある解離性障害の女性はこう述べています。

夢は現実よりもその画素が多い。あまりに鮮やかで綺麗で印象的。それに対して現実はあまりにぼんやりとしている。夢の方がずっと現実的なのです。(p61)

解離性障害の人たちが見る夢は、現実と区別がつかないほどリアルで、目が覚めたときに、現実なのか夢なのか混乱するほどだと言われています。

解離性障害の人たちが見やすい、解離が関係しているタイプの夢については、以下の記事でもまとめました。

解離しやすい人の変な夢ー夢の中で夢を見る,リアルな夢,金縛り,体外離脱,悪夢の治療法など
「解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病」など、さまざまな本を参考に、解離しやすい人が見る変な夢についてまとめました。夢の中で夢を見る、夢の中に自分がいる、リアルな夢

その特徴を調べていくと、解離性障害の人が見やすい夢は、危機的状況での「走馬灯」体験との類似点がとても多いことに気づきます。

解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)によると、まず、解離性障害の人の見る夢はスクリーンに映しだされた映画のような光景を、第三者視点で眺めていることが多いと言われています。

自分の姿を傍観者として見ることも多く、夢中自己像視と呼ばれています。(p59)

また、解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論によると、同時並行夢、つまり複数の夢を同時に見る現象も比較的解離に特有だと言われています。(p157)

五感を伴い、音楽が聞こえたり、匂いを感じたりする夢も、解離しやすい人に多いようです。

臨死体験にしばしば含まれる、自分が体から抜け出たように感じられ、第三者視点で傍観する体外離脱体験も、解離性障害にしばしばみられます。

たとえば、虐待されている子どもや、性犯罪の被害者などが、暴力行為の最中、意識を飛ばして、まるで他人を眺めるかのようにその様子を眺めていたという経験はよく聞かれます。その際、ひどい苦痛は感じず、感覚が麻痺しています。

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳 に書かれているように、出産など強烈な痛みの体験によって体外離脱してしまう人もいます。

ほどなくして陣痛が始まった。鎮痛剤はあえて飲まなかったので、いよいよ胎児を外に押しだすというとき、痛みも最高潮になった。この瞬間、ミケルは身体から出ていったという。

「天井の隅から全体の様子を眺めていました。身体はそこに残したままです。痛みが強烈すぎて上にあがってしまったんです。出産が終わると、すぐに身体に戻りました。あれはほんとに奇妙な経験でした」(p239-240)

ほかにも、解離性障害では、思考や映像がものすごい速さで脈絡なく湧き出る思考促迫自生思考と呼ばれる症状を伴うことがあります。それは「考えの洪水」と類似しています。

頭がさわがしい,次々と考えや映像が浮かぶ「思考促迫」とは何かー夏目漱石も経験した創造性の暴走
考えが次々に湧き上がる「思考促迫」「自生思考」とは何か、という点を、解離性障害、統合失調症、アスペルガー症候群との関わりなども含めてまとめました。また文学者夏目漱石が経験した、映像

解離という防衛機制は、危機的状況で脳を守るための機能なので、普段は精神的に健康な人であっても、命の危機に直面したときに強く働くことは十分に考えられます。

そうすると、危機的状況で意識を切り離して解離する人と、慢性的なストレス環境によって解離性障害になった人との主観的体験がよく似ていることは決して不思議ではありません。

解離という防衛機制の働きには個人差があり、犯罪に巻き込まれても、だれもが体外離脱を経験したり、解離性障害になったりするわけではありません。

同様に、危機的状況に直面しても、すべての人が意識の解離を経験するとは限らず、「走馬灯」を見るかどうかにも個人差があるのでしょう。

同じく解離が関係しているとされる遭難事故などの際の「サードマン現象」の場合も、遭難者全員が経験するわけではなく、経験する人にはいくつかの共通する特徴がみられると言われています。

脳は絶望的状況で空想の他者を創り出す―サードマン,イマジナリーフレンド,愛する故人との対話
絶望的状況でサードマンに導かれ奇跡の生還を遂げる人、孤独な環境でイマジナリーフレンドと出会い勇気を得る子ども、亡くなった愛する故人と想像上の対話をして慰めを得る家族…。これらの現象

臨死体験の原因は何か

このように「走馬灯」をはじめとする臨死体験は、解離との関わりが考えられる生物学的な現象です。

このとき、脳の中では何が生じているのでしょうか。

脳の血流障害

まず、「走馬灯」と関わりが深い臨死体験の一つであり、解離性障害でもよくみられる体外離脱現象は、危機的状況での脳血流の不足、そしてそれに伴う酸素不足との関連が指摘されることがよくあります。

神経学者V.S.ラマチャンドランは、脳のなかの天使の中で、体外離脱のメカニズムについて説明し、ケタミンという薬剤で再現できると述べています。

この抑制は、右の前頭頭頂領域の損傷、あるいは(その回路に影響を及ぼすらしい)ケタミンという薬剤を用いた麻酔によってはずされる。

その結果、あなたは自分の体から離れはじめ、自分の痛みを感じないところまでいく。

…ときには、ほんとうに自分の体から離脱して体の上に浮かび、自分自身を外側から見ているような感じがする。

もし、この「身体性」の回路が脳の酸素欠乏にとりわけ弱いとしたら、臨死体験のときに体外離脱がよく見られることも説明がつく。(p382)

この説明によると、関係するのは、脳の前頭頭頂領域です。

また神経学者オリヴァー・サックスも、見てしまう人びと:幻覚の脳科学の中で同様の点をこう述べています。

体外離脱体験は、脳卒中や偏頭痛の最中に脳の特定部位が刺激されるときだけでなく、皮質を電気的に刺激することでも起こりうる。

さらには薬物経験や自己催眠状態でも起こるだろう。

体外離脱体験は、心停止や不整脈、またはショック状態が生じた場合、脳が十分な血液を受け取れないことによっても起こりうる。(p306-307)

これらの説明からすると、何らかの状況において、脳への血流が不足し、酸素供給が不足したときに、頭頂葉の機能が低下して、身体感覚に異常をきたすようです。

感覚遮断

続いて、「走馬灯」体験に特有の、さまざまな記憶の風景が見えるパノラマ視についても考えてみましょう。

「走馬灯」は幻視の一種と考えられますが、幻視の原因について、19世紀の終わりごろ、神経学者ヒューリングズ・ジャクソンは「感覚遮断」という要素を発見しました。

なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学にはこう書かれています。

人間の脳は感覚刺激のない状態にはほとんど対処できない。

もし単調な刺激によって感覚が機能を失ったり動かなくなったりして、外部からの刺激がとだえると、脳は緊急補給を思いつく。

過去に貯蔵されていた刺激に助けを求め、それを再処理するのである。(p344)

わたしたち人間は、視覚、聴覚などを通して、常に、外部からのさまざまな感覚信号を受け取っています。

しかしそれらの感覚器官に異常をきたして、感覚を受け取れなくなった場合、脳は勝手に感覚を作りだします。

見てしまう人びと:幻覚の脳科学によると、たとえば、視力が低下した年配の人はさまざまな豊かな幻覚を見ることがあり、シャルル・ボネ症候群として知られています。

牢屋に監禁されている囚人は、毎日ただ独房の壁を見つめているという感覚刺激に乏しい環境のせいで、幻覚が見え始めることがあり、「囚人の映画」として知られています。

視覚だけでなく聴力を失った人が幻聴を抱えたり、嗅覚を失った人が幻臭を感じたりすることもあります。

姿が見える,声が聞こえる,リアルな幻覚を伴うイマジナリーフレンド現象の研究
姿を見ることも、声を聞くことも、触ることもできる、というリアルなイマジナリーフレンド現象についてオリヴァー・サックスの「見てしまう人びと」などから説明しています。幻聴や幻覚は解離の

いずれにしても、外部からの感覚が途絶えると、脳はそれを補うため、記憶の中から幻を再生します。

1960年代には人為的に感覚遮断を経験できる感覚遮断タンク(アイソレーション・タンク)が開発されました。液体の中に体を浮かべることで、外部からの刺激を遮断し、幻覚を見るような変容状態を経験できるといわれています。

「五感を奪う」カプセルは、人類に何をもたらすのか - ログミー

「走馬灯」で生じる幻には、このような感覚遮断による幻覚と似たメカニズムが働いていると思われます。

なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学にはこう説明されています。

ブフィスターによれば、刺激遮断は生物学的な機能をそなえている。思考の超加速化によって恐怖や不安に対する通常の反応をかわし、それによって行動を麻痺させるのである。

考えが洪水のように押し寄せ、過去の人生を回顧するのは、落下したり、溺れたり、衝突したり、撃たれたりしている最中の人に、死が間近に迫っているという、トラウマを残すような現実を味わわせないためである。(p333)

ふつう、感覚遮断は、視力などを失ったり、特殊な機器や薬物を使用したときに起こるものですが、それを自然に生じさせる脳のシステムが、ここまで何度も登場している「解離」です。

解離は、危機的状況に直面したとき、外部からの感覚を遮断することによって痛みや苦痛を麻痺させる働きです。

解離性障害の患者が幻視や幻聴を経験しやすいのは、トラウマ経験の結果、自分を守るために外部からの刺激を遮断するようになり、それを補うために脳が内部から幻覚を再生しているとみなせます。

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳の中のリエージュ大学の神経学者スティーヴン・ローレイズの説明によれば、、わたしたちの脳において、外部から入ってくる感覚刺激と、内部から感じられる感覚刺激とは、互いにシーソーのような関係になっています。

意識的な自覚には二つの次元があるとローレイズは幻覚がしてくれた。ひとつは外の世界に対する自覚で、視覚、触覚、嗅覚、聴覚、味覚を通じて知覚されるものすべてだ。

もうひとつは内的な自覚で、自分の身体への知覚や、外的刺激とは無関係に生まれる思考、心象、白昼夢など、自己参照的な知覚だ。

…健康な人で調べると、二つの次元の自覚は逆相関になっていることがわかる。外部に注意が向いているときは、外的自覚のネットワークが活発になり、内的自覚のネットワークはおとなしくなるのだ。もちろんその逆もある。(p27-28)

外部からの感覚と、内部からの感覚は、互いにシーソーのような競合関係にあって、どちらかが増加するとどちらかが低下します。

解離状態では、外からの苦痛を遮断することで、外部から流入してくる刺激が減ります。すると、シーソーのように、逆に内部からの刺激が増加します。

この内部からの刺激は「自分の身体への知覚や、外的刺激とは無関係に生まれる思考、心象、白昼夢など、自己参照的な知覚」を生み出します。

つまり「思考」が過剰になって洪水のようになり、視覚や聴覚の「心象」という幻覚が生まれ、さらに「白昼夢」のような夢を見ているかのような状態になります。

外部からのリアルな感覚が減れば経るほど、脳の内部からの感覚で埋め合わせようとします。解離するとはすなわち、外部のリアルさを遮断することで、相対的に内部のリアルさが増す、ということなのです。

死に瀕した状況において、「走馬灯」が生じる条件の一つは、「自分はこれから死ぬのだ」という確信だったことを思い起こしてください。

今まさに死のうとしている、という恐怖や痛みを予期したとき、脳はそれに反応して、恐怖や痛みを感じないよう、感覚を遮断し、意識を解離させるのです。

そうすると、視覚や聴覚の入力が断たれ、失われた感覚刺激を補うために、走馬灯としての幻覚や、音楽が生じることになります。外部のリアルさが遮断されると同時に、内部からリアルな幻覚が生成されます。

また解離によって恐怖や痛みといった感覚も遮断しているので、その瞬間には苦痛を感じることもありません。

現在でも、感覚遮断を人為的に引き起こす 先ほどの感覚遮断タンクは、線維筋痛症による激しい痛みの治療などに応用されているそうです。

身体マップ(バーチャルボディー)のずれ

これら体外離脱体験と走馬灯はそれぞれ別のメカニズムで生じているかというと、そうではなく、お互いに関連性も多いようです。

体外離脱は体の位置感覚のずれですが、そのようなずれが生じる理由もまた感覚遮断と関係しています。

たとえば、有名な「幻肢痛」と呼ばれる症状があります。これは手や足を失った人が、失くなったはずの手足の感覚や痛みを感じるというものです。

すでに引用した脳のなかの天使の著者、V.S.ラマチャンドランは幻視痛の画期的な治療法を開発した人ですが、手足を切断したあとに、存在しないはずの手足の感覚をまだ感じるばかりか、むしろ感覚の位置がずれてしまった人たちのことを記しています。

動く幻視は奇怪だが、さらに異様な現象もある。多くの幻肢患者が、まったく反対に、幻肢が麻痺していると言い、「凍りついているようです、先生」、「コンクリートの塊のなかにあるみたいです」と言う。

なかには幻肢がねじまがって、非常な痛みをともなうおかしな位置に固定されてしまっている人もいる。(p57)

中には、手足の感覚の位置がずれすぎて、顔面から手が生えているかのように感じるようになってしまった人もいるといいます。

ヴィクターによると、彼はそのときまで、顔面に幻の手があるとはまったく気づかなかったが、そうと知ってすぐ、それをうまく活用する方法を思いついた。

幻の手のひらにかゆみを感じたら(かゆみはしょっちゅう起きて、頭がおかしくなりそうだった)、顔の手のひらに対応している場所をかくと楽になるのだという。(p51)

ラマチャンドランは、手足を失ったあと、見えない手足のイメージの位置がおかしくなってしまった人たちの原因を、感覚遮断と結びつけています。

本来、わたしたちが感じる体の位置についての情報は、GPSのように、手足から入ってくる感覚を通して、絶えず補正されていて、位置がずれないよう調整されています。

しかし手足を失うと、物理的な手足そのものはもはやないのに、そこに手足が存在するという感覚、すなわち位置情報(マップ)だけが残り、しかも肉体からのフィードバックがなくなったせいで位置がずれてしまうのです。

ラマチャンドランが開発した幻肢の画期的な治療法(MVF)は、鏡に健康なほうの手足を映し、あたかも失ったもう片方の手足があるように見せ、擬似的に感覚刺激をとりもどさせることで、脳がイメージする体の位置情報(マップ)を補正するというものでした。

体外離脱してしまう人の場合も、本来の物理的な体が位置する場所と、脳がイメージする体の位置感覚とがずれてしまうために、あたかも魂が体から抜け出たかのように感じられます。

解離によって外部からの感覚が遮断されてしまったり、脳への血流が不足したりした結果、感覚統合が乱れて、実際の体の物理的な位置と、脳が感じる体の位置情報(マップ)とがずれてしまいます

詳しくは、脳がイメージする体の位置情報(バーチャルボディー)の研究について解説した以下の記事をごらんください。

鏡が怖い,映っているのが自分とは思えない―解離や幻肢は「バーチャルボディ」の障害だった
わたしたちの脳は「バーチャルボディー」と呼ばれる内なる地図を作り出しているという脳科学の発見から、解離性障害、幻肢痛、拒食症、慢性疼痛、体外離脱などの奇妙な症状を「身体イメージ障害

リアルすぎて幻覚だとわからない

とはいえ、私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳から引用したエピソードにあったような、出産の際の強烈な痛みで体外離脱し、「天井の隅から全体の様子を眺めてい」たような体験はどのように説明できるのでしょうか。

単に身体のバーチャルボディーの位置がずれただけでなく、そのずれた位置から、つまり天井から自分の身体を見下ろしていました。これはつまり、人間には霊魂のようなものがあって、実際に身体から抜け出してその位置にいたことを示しているのでしょうか。

まずごく当たり前の生理学的な話からいえば、肉体から離れて、天井から見下ろす、という体験はできません。わたしたちの視覚は目という身体的器官で生まれているので、目を介してでなければ何かを見るということはできません。

もし霊魂のようなものがあって、肉体としての目を介さなくても何かを見ることができるのなら、目を失った視覚障害者は、肉体としての目が無くても視力を保っているはずです。そんなことは不可能です。

とすれば、この天井から見下ろしていた、という体験自体が、先ほどから考えているリアルな幻覚であるはずです。

文字どおりの視覚は、肉体としての目で外部の刺激を受け取らなければ機能しませんが、夢や心象や白昼夢は内部の刺激から生成されることはすでに見たとおりです。

解離状態では、外部からの刺激が遮断されることで、内部からの刺激が優勢になり、外部の世界のリアルさが麻痺する代わりに、内部の世界のリアルさが強烈になっていました。

つまり、現実のリアルさと、夢のリアルさが反転するといえます。完全に解離状態にある人は、ふだん現実を感じているのと同じくらいのリアルさで幻覚を体験するので、現実と幻覚を混同してしまいます。

体外離脱で「天井の隅から全体の様子を眺めてい」たというような体験は、あまりにもリアルなために現実と混同されてしまった幻覚です。これには二種類の根拠があります。

まず、によると、体外離脱した当事者が、自分が体外離脱中に見た光景について、事実と食い違っていることに気づいて、じつは幻覚だったとわかる場合があります。

認知科学者トマス・メッツィンガ―は、若い頃から何度も体外離脱した経験があり、それがオカルト的現象なのか、それとも科学的な現象なのかが気になって研究していました。

そして自分の体験をしっかり観察し、他の学者たちと徹底的に討論した結果、体外離脱中に見える光景は幻覚だと納得しました。

メッツィンガ―は他の研究者とも話をして、情報を交換した。そしてイギリスの心理学者スーザン・ブラックモアと激しい議論を重ねた末、ついにメッツィンガ―は自分の体外離脱は幻覚だったと納得するに至った。

…メッツィンガ―が幻覚だと確信できる不思議なことがあった。例によって体外離脱が起こったあと、自分の身体に戻った彼は、妹にこのことを伝えようとベッドを出た。

ところが妹は、「いま午前三時前よ。朝ごはんのときまで待てないの?」とにべもない―そのとき目覚まし時計が鳴って、メッツィンガ―はもう一度目を覚ました。

いま自分がいるのは、両親と妹が暮らすフランクフルトの家ではない。学生五人で共同生活をする家で、昼寝をしていただけだ。目が覚める夢を見るという「偽覚醒」を体験したのである。(p249)

メッツィンガ―の体外離脱は、別の種類のリアルな幻覚とセットで生じていました。現実と見まごうほどリアルでしたが、事実関係を確認すればそれは現実ではなく幻覚だったと証明できました。

生涯でたった一度だけ臨死体験で体外離脱したような人は、事実関係を確認するすべがないことも多いので、体外離脱中に見たリアルすぎる幻覚を事実だとみなしてしまいます。

しかし、何度も体外離脱するような人の場合、自分が見た光景と、事実関係とを突き合わせられる機会が訪れるかもしれません。そのときにはじめて、あれは現実にしか思えない幻覚だった、と気づくことができます。

ちなみにわたしも睡眠麻痺(金縛り)において同様の体験をしたことがあります。ナルコレプシーのような睡眠障害をもつ人は、金縛りや体外離脱を頻繁に経験します。

わたしもよく金縛りとそれに伴うリアルな幻覚を体験するのですが、中には、幻覚だとまったくわからないほどリアルな体験がありました。

夜寝ていたわたしは、夜中にふと目覚めて、寝る前に料理していたコンロの火をつけっぱなしだったと思い出して、慌てて飛び起きて消しに行きました。鍋の中では汁が蒸発したうどんが焦げ付いていました。

わたしは不可解なほど泥のように身体が重く、あまりに眠かったので、火を消すだけ消して、片づけは朝にすることにしてまたベッドに倒れこみました。

次の朝、片づけをしようと炊事場に行くと、焦げ付いた鍋などありませんでした。すべては現実と混同するほどリアルな幻覚、偽覚醒だったわけです。

「天井の隅から全体の様子を眺めてい」たというような体験が幻覚であるといえる第二の理由は、この感覚自体を、実験で誘発できるからです。

解離の舞台―症状構造と治療によれば、脳の側頭頭頂接合部への刺激によって体外離脱に関係する二種類の感覚を誘発できることがわかっています。

オラフ・ブランケは2004年に、体外離脱体験が見られる脳損傷患者は共通して側頭頭頂接合部(temporo-parietal junction : TPJ)近傍に損傷が見られると報告した。

右側のTPJを電気刺激すると体外離脱体験が生じるとされ、行為を自ら制御しているという感覚をもてない場合には、この脳部位の活動が増加することが知られている。(Blanke et al.2002)。

つまり右側のTPJは自己主体感(sense of self agency)の低下と関係している。

また左側のTPJの電気刺激によって誰かが自分の後ろにいるという「幻の影の人(illsory shadow person)」の感覚が生じるという報告もある(Arzy et al.2006)。

一般的に右側のTPJは他者視点でのイメージ生成に関わり、左側のTPJは自己視点でのイメージ生成に関わるとされる。(p74)

体外離脱に関係しているのは脳の側頭頭頂接合部(TPJ)という場所ですが、この部位は左脳と右脳で役割が異なっているようです。

側頭頭頂接合部は、身体の感覚の統合をしている場所です。先ほどの言葉でいえば、実際の肉体と、脳が作り出した仮想の身体であるバーチャルボディーとを統合しています。

そのため、この部位の電気信号が乱れると、身体が分離したように感じられ、体外離脱が引き起こされます。文字どおりの肉体と、仮想のバーチャルボディーの二つの分離したように感じられるわけです。

そしてこのとき、「右側のTPJは他者視点でのイメージ生成に関わり、左側のTPJは自己視点でのイメージ生成に関わる」ことがわかっています。

右側のTPJが乱れていると、「他者視点」つまりバーチャルボディー側から自分は見下ろしているような幻覚が生成されます。左側のTPJが乱れていると、「自己視点」つまり肉体側から背後にいるバーチャルボディーを意識するような幻覚が生成されます。

つまり、幽体離脱のように背後から見下ろしているタイプの幻覚は前者の現象であり、サードマンのような、だれかが背後にいると感じるタイプの幻覚は後者の現象だということです。

奇跡の生還へ導く人―極限状況の「サードマン現象」によると、この種の実験は、さまざまな研究者によって行われており、側頭頭頂接合部を刺激すると、体外離脱や見えない気配などの解離症状が誘発されることがわかっています。(p226-230)

どちらのタイプも、肉体とバーチャルボディーの位置合わせがずれてしまう同様の脳科学的現象であり、幻覚の視点が肉体側にあるか、バーチャルボディー側にあるか、という違いがあるだけなのです。

このように、当事者の事後判断、そして脳科学の実験という二つの証拠から、体外離脱体験は、どれほどリアルに思えても、外部の感覚を遮断したことで内部から生じるリアルな幻覚だとはっきり断言できます。

てんかん患者の夢幻状態

最後に、ここまで考えてきた「走馬灯」や「体外離脱」、あるいは解離性障害の「離人症」なと似た感覚は、てんかん発作でも生じることが知られていて、「夢幻状態」と呼ばれています。

今見たオラフ・ブランケの実験は、もともとはてんかん発作の幻覚を再現するために行われたものでした。

なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学にはこうあります。

特殊なてんかん、すなわち側頭葉てんかんの場合、発作の前兆として、パノラマ記憶と非常に共通した現象が現れることがある。

その現象とは、時間の歪み、幻覚、自分を外部から見ている感じ。親近感、フラッシュバックである。(p347)

側頭葉てんかん患者の夢幻状態では、鮮明な幻覚や既視感(デジャヴュ)など解離性障混乱多く生じます。

夢幻状態では、美しい幻覚や恍惚感が生じるため、かつては神からの啓示だとみなされていた時代もありました。

しかし1994年、パリのサンタンス病院で行われた研究では、夢幻状態を経験する16人のてんかん患者の脳に電極を取り付け、脳の働きが記録されました。

すると、夢幻状態では、不安や安心など感情に関係する小脳扁桃と、記憶に関係する海馬、そして感覚情報を統合する側頭葉などの部分と密接な関わりがありました。(p219)

これはすなわち、夢幻状態では、脳が強い感情に満たされ、記憶の貯蔵庫である海馬から自発的にイメージを生成し、幻を見せている、ということです。

てんかん患者の夢幻状態が脳科学的な現象である以上、それととてもよく似ている臨死体験のパノラマ記憶もまた、脳の電気的乱れによる現象だとみなすことができます。

さらに私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳によると、オラフ・ブランケは、体外離脱の感覚は、脳に電気的な刺激をしなくても誘発できることを発見しています。

数年後、ブランケらはさらに踏み込んだ実験を行なった。被験者はヘッドマウントディスプレイを装着して脳スキャン装置に入る。うつぶせになった被験者の背中をロボットアームがなで、その様子がディスプレイに映されるのだ。

ここでもリアルタイム映像と、時間差映像の二種類が用意された。すると一部の被験者では、位置感覚と身体所有感覚の混乱が生じた。

なかにはスキャン装置内で、顔だけ起こしてうつぶせになっているにもかかわらず、「自分の身体を上から見ている」という報告まであった。異常

「これには興奮しました。古典的な体外離脱体験にきわめて近い状態だったからです」と語るのはレンゲンハーガーだ。…実験中の被験者の脳スキャンから、体外離脱には側頭頭頂接合部の活動と連動していることがわかった。(p252)

つまり、てんかん患者が経験するような側頭頭頂接合部の電気的異常による体外離脱は、脳に病変がなくても、また直接脳を刺激したりしなくても、外部の環境次第で起こりうることがわかったのです。

これはつまり、てんかんを抱えているような人でなくても、通常とあまりに違う場面では、てんかん患者が経験するような体外離脱や夢幻状態を経験しうる、ということです。

幻覚、幸福感、身体マップのずれなどの臨死体験は、危機的状況に面したときに、脳が感覚遮断し、こま苦痛は自分の苦痛ではない、と錯覚させるときに生じる、互いに関連したもの脳科学的現象であるといえるでしょう。

心を守ろうとする脳の不思議な機能

これら幾つかの「走馬灯」の原因、すなわち脳血流の不足や、感覚遮断、身体マップのずれ、そしてリアルな幻覚や、夢幻状態を、すべてまとめてみるとどうなるでしょうか。

なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学ではそのプロセスが、こう描写されています。

ショックや恐怖を感じた最初の瞬間、大量のアドレナリンが放出される。

脳は極度の活性化状態に投げ込まれ、思考と反応がお互いに高速で次々と繰り返されるので、時間が長くなったような気になる。

次に、ストレス、痛み、酸素欠乏など、死の危険という特定の状況がもたらされ、…エンドルフィンが痛みを和らげ、感覚を抑制し…記憶と時間感覚に関する脳の部位の働きを止めてしまう。

海馬のニューロンや扁桃や側頭葉のほかの部位が自発的に働いて、意識のなかに最高速で供給され、不注意に集められた一連の映像を映し出す。(p348)

死の危機を意識したとき、脳の酸素欠乏などが起こり、脳は非常事態を感じ取ってショックや痛みに備えて外部からの感覚を遮断します。

外部からの感覚が遮断されると、痛みや苦しみが麻痺すると同時に、ちょうどシーソーのようにして、相対的に内部からの感覚が増加します。

その結果、内部からの思考が超高速化し、海馬の記憶から視覚イメージや音楽が再生され、不安が鎮まって安心感や幸福感がもたらされます。

そして外部からの感覚で位置合わせができなくなったことで、体の位置感覚のずれが引き起こされ、傍観している感覚や体外離脱が生じるでしょう。

こうして、今まさに死のうとしている人は「走馬灯」ないしは「パノラマ記憶」を伴う臨死体験を経験します。

たいていの場合、その人はそのまま、過去の幸せな頃の幻影に囲まれながら、最期の瞬間の痛みも感じないまま、死の眠りにつきます。

ほんの少数の人は、幸か不幸か死を免れて、意識が戻ったときにひどい痛みや苦痛を味わう代わりに、死後の世界を垣間見た手土産でもあるかのように特異な体験談を持ち帰ります。

これがおそらくは、「走馬灯」をはじめとする臨死体験の真実なのでしょう。

しかし疑問も残ります。なぜ「走馬灯」による映画の内容は、人生のさまざまなシーンのアラベスクと決まっているのでしょうか。なぜこの世のものとも思えぬ美しい風景を見るのでしょうか。

霊的な体験と片づけてしまうのは簡単ですが、同様の経験が解離性障害のリアルな夢や側頭葉てんかんの夢幻症状でも生じることを考えると、さらに多様な観点からの研究が必要なのではないかと感じられます。

いずれにしても、現時点で明らかなのは、人間の脳には、危機的状況において脳を守ろうとする高度な機能が備わっていて、それがあるときは「走馬灯」、あるときは「体外離脱」、またあるときは「解離性同一性障害」や「サードマン現象」のような特殊な現象を生み出しているということなのです。

補足 : 臨死体験を体験した科学者たち

本文中で、認知科学者トマス・メッツィンガ―は、自分が体外離脱を体験したことがきっかけで、体外離脱という現象を科学的に研究するようになった、ということを書きました。

このブログでよく取り上げる脳科学の研究者たちの中にも、事故などの緊急事態に見舞われて、体外離脱をはじめとする臨死体験を経験した人がいます。

一般の人が臨死体験をすると、オカルトやスピリチュアルな現象だと早計に判断してしまいがちです。

わたしは超自然的なものを全否定する立場ではありませんが、科学的に説明できるものを安易にスピリチュアルな現象とする態度は好ましいとは思いません。

ノーベル賞科学者が語る宗教という思考停止、科学という妄信―「神のせい」と「進化論」
ノーベル賞受賞者の益川敏英博士と山中伸弥博士の対談について書いた、『「大発見」の思考法 iPS細胞 vs. 素粒子』という本から、「神のせい」にするという短絡的な思考や、「科学」を

その点、自らも脳科学者でありながら臨死体験を味わった人たちは、最新の脳科学や認知科学の知識に通じていたおかげで、自身の体験を科学的に説明できる立場にいます。

その中には、たとえば、トラウマ研究の第一人者であるベッセル・ヴァン・デア・コークがいます。彼は身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中でこんな体験を書いていました。

私はある晩遅く、自宅近くの公園で強盗に襲われた。そのとき私はその場の上方に漂い、頭に小さな傷を負って雪の中に倒れている自分を眺めていた。

その自分を、ナイフを手にした三人のティーンエイジャーが取り巻いている。私は両手に負った刺し傷の痛みを解離させ、少しも恐れを感じずに、空にされた財布を返してもらおうと、冷静に交渉していた。

私がPTSDを発症しなかったのは、一つには、他者を対象にそれまで注意深く研究してきた経験をすることに、強烈な興味を掻き立てられたからであり、また、強盗たちの似顔絵を描いて警察に見せられるだろうという思い違いをしていたからでもある。(p167-168)

彼は、もともとトラウマ研究の第一人者だったので、自分の体外離脱をスピリチュアル現象ではなく、解離した人が誰でも経験しうる脳科学上の特殊な現象だと認識できました。

似たような例に、やはりトラウマ研究の専門家であり、NASAのストレス・コンサルタントも務めたことのある神経生理学者ピーター・ラヴィーンがいます。彼も身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中でこんな経験を書いています。

親友バッチの60歳の誕生日をお祝いしに出かけようと楽しい期待に満ちながら私は歩いていた。交差点に差し掛かって……。

……次の瞬間、麻痺と無感覚状態で私は路上に横たわり、動くことも呼吸することもできなかった。何が起きたかすら理解できなかった。どうして私はここにいるのだろうか?

…意識は奇妙に分離し、私は奇怪な「自失状態」を経験した。それはまるで自分が自分のからだの上に浮かび、事態の展開を見下ろしているかのようであった。(p4-5)

彼は不慮の交通事故で体外離脱を経験しましたが、やはりもともとトラウマの専門家だったので、その経験がスピリチュアル的なものではなく、解離現象の一種だと理解していました。

そしてこの不幸な実経験をもとに、トラウマ体験の脳科学的な考察をより深めることができました。

もう一人、脳神経科学者のオリヴァー・サックスも、左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)の中で、ノルウェーの山中で大怪我を負ったときのことを書いています。

左足に大怪我を負って歩けなくなった彼は、死の淵に瀕しながら、下山を敢行しました。そのさなか、彼は走馬灯を経験します。

私はかつて、トルストイの『ハッジ・ムラート』の結末があまりに単純なのでおどろいたことがあった。理解できなかったといってもいい。

ムラートが射たれて致命傷をおったとき、どうして過去の情景が感情もともなわずに彼の心に浮かんできたのだろう?

しかしそのとき、私自身に同じことが起こったのである。(p26-27)

ちょうど岩から岩まですすむあいだに、おびただしい思い出が浮かんでは消えていった。どれも単純だが十分豊かで完全だ。けっしてせきたてられるようにすぐ消えてしまうことはなかった。

顔や声がつぎつぎとあらわれては消えるというのでもない。情景全体が会話までそっくり再現される。…このような考えやイメージは、すべて無意識のうちに喚起され、心にうかんでは消えていった。それらは本質的にたのしく心地よいものだった。

しかしのちに、この気分はいったい何だったのだろうと自問してはじめて、私はそれが死への準備であったことを悟った。「最後にはすべてに感謝せよ」というオーデンの言葉どおりだったのである。(p34-35)

彼は、走馬灯についてトルストイの本で読んだことはありましたが、そのときはピンと来ませんでした。しかし、実際に自分で体験したことで、それが自分の専門分野と関係した一種の脳の現象であり、死への準備だったと気づきました。

体外離脱や走馬灯のような臨死体験は、経験した者でなければ決して実感できません。同時に、科学的な知識を持った人でなければ、その意味を決して正しく説明できません。

ですから、臨死体験の意味を本当に知りたければ、そのような体験をしたこともない専門家の説明に耳を傾けても無意味です。彼らはただ「非科学的なオカルト現象だ」と言うだけでしょう。

また、実際に体験したことはあるものの、学問的素地のない人たちの説明に耳を傾けるのも無意味です。彼らはその体験を、スピリチュアル的な啓示や、死後の世界を垣間見た体験だと解釈するだけだからです。

実際の体験と十分な科学的知識、この二つを兼ね備えた専門家の説明を読んではじめて、臨死体験とは本当は何なのか知ることができます。臨死体験は、人体や脳という複雑なブラックボックスの内側を垣間見れる貴重な現象なのです。

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