ADHDの「片付けられない」とアスペルガーの「捨てられない」の違い―脳の発達は視覚によって導かれる


溜め込み障害は強迫関連障害に属し、DSM-5で新たに登場した項目である。

これは子どもにないではないが、一般的には成人の問題である。それをあえてなぜ取り上げるのかというと、われわれ児童精神科医が遭遇することが稀ではないからである。

…われわれの経験では圧倒的にAD/HD(片付けられない)よりASD(捨てられない)のほうが目立つのであるが。(p55-56)

れは、臨床家のためのDSM-5 虎の巻という本で、児童精神科医の杉山登志郎が書いておられる「溜め込み障害」(Hoarding Disorder)についての一文です。

発達障害かどうかにかかわらず、部屋が散らかって片付けられないことに悩んでいる人は多いでしょう。本人よりも家族が頭を抱えることが多いかもしれません。

片付けられないことそれ自体は、病気や障害というほどではありませんが、ときどきメディアで報道されるゴミ屋敷のような、明らかに健康に支障を来たし、近隣の迷惑にもなるような状態は、医療の対象になるれっきとした病気です。

冒頭の説明が示すとおり、部屋が散らかるといっても、その原因には大きく分けて、どうやら2通りのタイプがあるようです。

きれい好きな人から見れば、概して同じに思えるかもしれませんが、かたやADHD(注意欠如多動症)に多い「片付けられない」と、かたやアスペルガー(自閉スペクトラム症:ASD)に多い「捨てられない」は、じつは別物なのです。

このエントリでは、「片付けられない」と「捨てられない」はどう違うのか。なぜそうなってしまうのか、という点を考えましょう。

そして、さらに視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)などの本を参考に、両眼視機能視覚性ワーキングメモリといった見る力が、発達障害のさまざまな個性が形作られていく上で、意外なほど大きな役割を果たしているということを分析してみたいと思います。

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これはどんな本?

今回の記事では、脳の発達と視覚に関する様々な本を参考にしていますが、その中でも特に拠り所としたのは、視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)という一冊です。

この本は斜視のために立体視ができなかった神経生物学者スーザン・バリーが、自分に立体視の能力が欠けていることに気づき、50代になってからの視能療法を通して、生まれてはじめて立体視を経験するまでの道のりをつづった自伝的な物語です。

斜視のせいで臨界期までに立体視を獲得できなかった人は、大人になってから立体視を獲得するのは不可能である、という通説に反して、少しでも両眼性ニューロンが存在していれば、脳の可塑性を引き出すことで立体視を獲得できる、ということが数々の論拠や実体験によって論証されています。

彼女の感動的な体験談は、脳神経科医オリヴァー・サックスの心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界や、精神科医ノーマン・ドイジの脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線、さらには国内の両眼視の専門家藤田一郎の脳がつくる3D世界:立体視のなぞとしくみ (DOJIN選書)の中でも紹介されていて、脳と視覚のつながりを知りたい人にとっては必読の本となっています。

「片付けられない」と「捨てられない」

「散らかってるから片付けなさい!」

片付けるのが苦手な人たちは、子どものときから、親や先生にさんざんそう言われて育ってきたことでしょう。

近年、その原因として、よく聞かれるようになったのは、もちろん発達障害です。発達障害のうち、特によく知られているのはADHDとアスペルガーですが、それらは両方とも、物があふれて雑然とする問題を抱えることがあります。

まず、ADHD(注意欠如多動症)という発達障害が知られるようになったきっかけには、サリ・ソルデンの片づけられない女たちという本の存在がありました。

マスメディアで汚部屋やゴミ屋敷の問題が知られるようになるとともに、片付けられない=ADHDという認識は、強く印象づけられたのではないかと思います。

一方で、アスペルガー症候群(自閉スペクトラム症:ASD)は、ひたすらマニアックに特定の分野のものを集めるオタクと呼ばれる人たちの代名詞として知られるようになりました。

普通の人は興味を持たず捨ててしまうような こまごまとしたものまで、山のように収集しているといったイメージです。

もちろん、こうしたステレオタイプが、ADHDやASDの人すべてに当てはまるわけではありませんが、どちらも一般の人たち(定型発達者)から見て、散らかった部屋に住んでいるように思われやすいのは確かでしょう。

ADHDやASDは、同じ「発達障害」、同じ「片付けられない」として一緒くたにされがちですが、冒頭で杉山登志郎先生が述べていたように、散らかる原因は別のものです。

ADHDの人の部屋が散らかってしまうのは「片付けられない」ためであり、持ち前の新しい物好きや衝動性によって買い込んでしまった大量の物を管理できなくなって、どこからどう手を付けたら片付けられるのかわからず、途方に暮れてしまいます。

一念発起して片付けようとしても、段取り力がなく、押入れを掘り返しただけで余計に散らかってしまったり、集中力が続かずに、いつのまにか別のことをしていたりして、お手上げ状態になってしまいます。

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他方、ASDの人の場合、「片付けられない」と言われるのは心外かもしれません。集めに集めたコレクションの良さがわからない人からすれば散らかっているように見えるのかもしれませんが、本人からすれば、それぞれがあるべきところへ収まっていて片付いてはいるのです。

どちらかというと、きちんと整理整頓して片付けることについては、ASDの人たちは杓子定規なほど厳格で、だれかが勝手に持ち物の位置を動かしたり、秩序を乱したりするのに我慢ならないこともあります。

ASDの人たちの場合、問題はものを捨てられず際限なくマニアックに溜め込んでしまうこと、つまり、こだわりが強すぎて「捨てられない」ことにあるのであって、決して「片付けられない」わけではないのです。

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ADHDやASDの人たちは、理由は違うとはいえ、どちらも部屋が散らかりやすいのは同じです。しかし、発達障害の傾向のある人が、いつも散らかった部屋に住んでいると考えるのは大きな間違いです。

杉山登志郎先生は別の著書、発達障害のいま (講談社現代新書)の中で、大人の発達障害の特徴について、こう説明しています。

このグループにおける周囲に迷惑なパターンとは、逆に代償的に極度の整理魔が誕生したときである。

継続的に自分がものを散らかすことが分かっている。それを克服しようとして、不要なものが少しでもあると混乱してしまう。

すると少しでも散らかった状況が自分の能力の欠陥のように感じられてしまい、強迫的な片づけを繰り返すようになる。(p227-228)

発達障害の人の中には、代償的に人並み以上に片付けに勤しむようになる人もいます。

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昔から一病息災などと言われますが、何か欠点があったほうが、人より余計に弱点に気を遣い、カバーしようと努力するものです。

いえ、欠点をカバーするくらいならともかく、子どものころからADHDやASDの傾向があり、さんざん「ちゃんと片付けなさい!」と怒鳴られてきたことで、逆の極端まで突っ走ってしまう人もいます。

「片付けられない」ADHDの人の中には、物が増えると管理できないことがわかっているので、物を持たない暮らしをしよう、ということで、シンプルライフやミニマリズムに凝って、極限まで持ち物を減らしてしまう人がいるかもしれません。

もともと、ADHDの人は騎馬民族や遊牧民族の血を引いていると言われますが、持ち物が少ない生活は遺伝子に刻まれたライフスタイルにもよく合っているのでしょうか。

持たない暮らしがあまりに快適なので、中にはそのままバックパッカーとして海外を放浪しはじめるワイルドな人たちもいます。

「捨てられない」ASDの人もやはり、極端なまでに質素な生活をするようになる人がいます。持ち物だけでなく衣食住を含めた生き方全体で、一種の精神修養として断捨離を追い求める人もいます。

片付け術で有名な人たちの中にも、もともと自分があまりに整理整頓ができないことに悩んだ結果、ある種の悟りの境地に達して、片付けの極意を習得して有名になった人がそこそこいるような気がします。

いずれにしても、発達障害の人たちは、どうやら、部屋が散らかりすぎるか、かえって整理しすぎる両極端な傾向があるようです。

しかし、なぜADHDの人は「片付けられない」問題に悩みやすく、ASDの人たちは「捨てられない」問題に悩みやすいのでしょうか。

両眼視機能で部屋の見え方が変わる

そもそも、「片付けられない」「捨てられない」といった性質が、発達障害者だけの問題かというと、わたしはそうではないように思えます。

最初に見たとおり、「片付けられない」「捨てられない」というのは、程度の差こそあれ、わたしたちのだれもが抱えうる、もっと身近な問題です。

単純に、ADHDだから「片付けられない」、ASDだから「捨てられない」とみなしてしまうと、本当の問題を発達障害という言葉にすり替えているだけで、なぜそうなってしまうのか、理由があやふやになってしまいます。

では、何が原因で、整理整頓が苦手になったり得意になったりするのか。

さまざまな理由が考えられますが、そのひとつは、意外にも、両眼視機能という目の機能にありそうです。

両眼視機能というのは、二つの目を協調して動かす能力のことですが、それは特に、両眼立体視、つまり、物を立体的に見る能力、3Dの奥行きを把握する能力に現れます。

わたしたちに目が二つあるのは、わずかに位置の違う2つの眼球に映る像の視差を利用して、物の立体感や距離感をとらえるためです。しかし、この両眼立体視能力は、人によって程度の差があります。

視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)によると、この立体感を認識する能力の強弱が、部屋の散らかり具合に大きな影響をもたらす可能性があります。こんな例が載せられていました。

先日、わたしは、車の事故で片目の視力を失った女性に会って体験談を聞いた。

彼女はいま、家のなかと机まわりがきちんと整理されて、ひとつひとつの物があるべき場所にないといやなのだと言う。

ある精神分析医から、極度のきれい好きは強迫症の一歩手前だと言われたそうだが、その心理学者は片目だけで物を見ることがどういうものか体験してはいない。

わたしは、この女性が極度のきれい好きになったのは、視力を失ったことへのひとつの順応ではないかと思う。(p120)

この女性の場合、事故で片目の視力を失った、つまり両眼立体視の能力を失ったことで、極度のきれい好きになりました。立体視が失われたことで、部屋の散らかり具合をより強く意識するようになったのです。

なぜ立体視がなくなると散らかり具合が気になるのか、例をひとつ考えてみましょう。

たとえば高層ビルが立ち並ぶ街を想像してみてください。その街を遠くから写した写真を見ると、ゴミゴミした都会で、ビルがひしめき合って、とても窮屈に感じられるかもしれません。

しかし、実際にその街の中を歩いて、空間の中に身を置いてみると、建物と建物のあいだにはスペース、つまり空間があるので、物が多いにしても、それなりにゆとりがあることを実感できます。

写真、つまり奥行きのない二次元の視覚情報では、空間を表現できないので、すべてがべったりと重なり合っているように見えてしまいます。一方、三次元の視覚情報では物と物の隙間が認識できるので、窮屈さが和らぎます。

この本の著者スーザン・バリーは生後幼いころから斜視のせいで、両眼立体視ができませんでした。その結果、彼女は、散らかっているのが気になって仕方なかったと述べています。

わたしは自分の視覚の使いかたを意識しだしてから、人々を、“近くを見る人”と“遠くを見る人”に分けるようになった。

いまはかなり安定した視覚を持っているとはいえ、わたしはまだ近くを見る人だ。すぐ目の前の空間については認識力がきわめて高く、そこを秩序正しく整えようとする。

他方、正常な両眼立体視の能力を持つ夫のダンは、散らかっているのが気にならないようでした。

夫のダンは正常な視覚の持ち主だが、やはり遠くを見る人だ。…ダンは家のなかがおそろしく散らかっていても平気でいられる。

わたしは最初のうち、妻がきれい好きなのを知っているくせに散らかすなんて、と腹をたてていた。

ずいぶん経ってからようやく、雑然とした状態が目に入らないだけなのだと気がついた。

もちろん、散らかっているのは見える。ダンの視力はすばらしくいい。だが、注意を払うのははるか遠くの対象だけなのだ。(p120)

斜視のせいで正常な立体視能力を持たなかったスーザンは、二次元的な視覚情報に頼っていたので、先程の事故で片目の視力を失った女性と同じように、物の視覚的な重なりが気になって、ごちゃごちゃしているように感じられました。

しかし正常な立体視能力を持っている夫のダンは、奥行きを認識できるおかげで、物と物との間にある空間を把握できていたので、物がたくさんあっても、あまり散らかっているとは感じませんでした。

では、この例からすると、正常な両眼視機能があるとダンのように物が散らかってしまい、斜視などで両眼視機能が欠けているとスーザンのようにきれい好きになるのでしょうか。

「空間」を認識できないとどうなるか

物事はそう単純ではありません。

冒頭に出てきた杉山登志郎先生や室内装飾家の岡南先生らによるギフテッド 天才の育て方 (ヒューマンケアブックス)では、やはり、両眼立体視と部屋が散らかることには関係があるとされていますが、その説明は、まったくの正反対です。

聴覚言語優位性に偏った子どもの場合、奥行き感のない見え方をしていることがある。

…自分の部屋が散らかったままでも、全体の関係性が見えていないために、子ども自身はそれを「散らかった」とは感じていないこともある。

家族が「散らかっているから、片づけなさいと言っても、らちがあかないのである。(p84)

この説明では、立体視能力が弱い子ども、つまり、物の奥行きが見えにくい人は、部屋が散らかっているのがわからない、と書かれています。

先程の本では、スーザン・バリーの経験や事故で片目の視力を失った女性の例から、両眼立体視が欠けていると部屋の散らかり具合が気になりすぎると書かれていました。しかしこちらの説明では、両眼立体視の弱い子どもは、散らかり具合がわからなくなりました。

一見するとこの二つの説明は正反対でまったく矛盾しています。立体視が難しい人は、部屋は散らかるのか、それとも片付くのか、いったいどちらなのでしょう。

この見かけ上の矛盾は、両眼立体視ができなければ何が失われるのか、という観点を見落としているために生じるようです。

さっきのビルが立ち並ぶ街のたとえで、写真で二次元的に見た街と、現地に行って三次元的に見た街との違いは何だったでしょうか。

それは「空間」を認識できるかどうかでした。つまり、立体視の有無は、片付けられる、片付けられない以前に、空間を感じられるか感じられないか、ということに結びついています。

視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)を書いたスーザン・バリーは、 生後3ヶ月で斜視の兆候が現れ、立体視の能力を発達させられませんでした。

しかし、50代になってから検眼医(オプトメトリスト)による視能療法を受けて立体視能力を獲得することができました。そのときに感じた変化についてこう書いています。

視覚が変化しはじめてすぐ、わたしは日課のジョギングに出かけた。そして、近所の茂みの葉っぱに注意を引かれた。

葉っぱの一枚一枚が固有の空間を占め、自分のものにしている。二枚の葉っぱが同じ空間を占めることはない。

というか、ふたつの物体が同時に同じ空間に存在することはありえないのだ。(p138)

彼女にとって、立体視を獲得する以前は、「空間」という概念がよくわかりませんでした。頭では空間という概念を知ってはいましたが、実感として感じることはできませんでした。

立体視力のある人と立体視力のない人の違いは、身の回りのものすべてを、三次元的に認識しているか、それとも二次元的に認識しているかの違いです。

この点においては、ギフテッド 天才の育て方 (ヒューマンケアブックス)の説明も一致していて、立体視が正常でない人が、身の回りのものを認識する方法について、こう書かれています。

物の「奥行き」が見えていないとするなら、空間そのもののボリューム感が異なるということにほかならない。

物が多くひしめき合っている空間でも、奥行きのない見かけだけを意識するなら、狭さを感じないということが生じる。と同時に、自分に向いた面しか見えていないということにもなる。

奥行きが認知できなければ、体が触れて落としたり、倒したりすることにもなるが、本人にはそうした感覚が事前にもてないのである。(p76)

立体視のない人は「奥行きのない見かけだけを意識」していて、「空間そのもののボリューム感が異なる」とされています。

正常な立体視のある人は、部屋の中を見回すとき、奥行きのある正確な位置関係を認識することができます。見かけより散らかっていると感じるわけでも、見かけより片付いていると感じるわけでもなく、ありのままの空間的位置を読み取れます。

一方、両眼立体視の能力が欠けていたり、普通より弱かったりする人は、部屋の中を見回すとき、「奥行きのない見かけだけ」しかわからないので、物と物の正確な位置関係を認識することができず、どれくらい散らかっているかは推量で判断することになります。

正確な数字がわからない場合、多めに見積もってしまうこともあれば、少なめに見積もってしまうこともありますが、散らかり具合についても同じです。

「空間」としての物の配置を認識できず、写真のような二次元的な視覚に頼って判断していると、散らかり具合の感覚が、実際より多めにずれることもあれば、少なめにずれることもあるのでしょう。

そうすると、散らかり具合に対する感覚が鈍麻して、散らかっていることに気づかないようになる人もいれば、反対に感覚が過敏になって、散らかっていることに過度に敏感になってしまう人もいると考えられます。両極端になりやすいのです。

木を見て森を見ずなASD

部屋が散らかりすぎるか、あるいは片付きすぎるか、というこの両極端は、さっきの何かと似ているのではないでしょうか。

そうです。ADHDやASDの人たちの、整理整頓に対する両極端な反応です。

脳がつくる3D世界:立体視のなぞとしくみ (DOJIN選書)によれば、1970年代の米国の調査で、両眼立体視ができない人は2~4%、問題を抱える人はその倍とされています。筆者の体感では1割近くが立体視の難しさを抱えているのでは? とも書かれています。(p105)

発達障害の子どもの視知覚認識問題への対処法によると、発達障害や学習障害の人では、両眼視機能の能力が弱さが見られることが多い、ということがわかっています。

視覚の問題は注意欠陥多動性障害(AD/HD)、ディスレクシア(読み書き困難)や非言語性学習障害といった学習障害(LD)にもよく見られます。

読み書きをする時に文字を裏返す、右と左の区別がつきにくい、位置関係の認識や視覚記憶の弱さといった典型的な問題は、視覚を効果的に使えていないために起こります。

特に両眼視がうまくできず、近くのものに視点が合わない子どもが多いのです。(p10)

発達障害で見られやすい両眼視機能の異常のなかには、はっきりと外見からわかる斜視だけでなく、ときどき症状が表れる間欠性斜視や、はた目には斜視だとわからず、本人すら気づいていない斜位(隠れ斜視)なども含まれます。

ADHDでもASDでも、両眼視機能の弱さからくる空間把握能力の低さが、発達性協調運動障害(DCD)と呼ばれる運動能力の不器用さとして現れることがあります。

両眼視機能は、通常の学校での視力検査(単眼視力の検査)ではまったくわからないので、発達障害の人たちは、自分が立体視力の問題を抱えていることに気づいていないことが少なくありません。

その結果、整理整頓ができないのは、根気や集中力が足りないとか、こだわりが強いせいだとか考えて、発達障害のせいにしがちです。しかし、実は、両眼視機能の弱さからくる空間認識能力の低さがおおもとにあるのかもしれません。

視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)によると、スーザン・バリーは、立体視能力がある人と、立体視能力がない人は、まったく違う方法で、身の回りの世界を認識していると説明しています。

立体的な奥行きをもった世界をわたしが想像できなかったのと同じで、正常な立体視力がある人は、つねに立体視がない人の世界観を体験することはできない。

こう話すと、あなたは驚くかもしれない。ただ片目を閉じるだけで、立体視がもたらす手がかりを消すことができるのだから。

ところが、実のところ、多くの人は片目で見た世界と両目で見た世界に大きなちがいを感じない。

正常な両眼視力のある人が片目を閉じても、生まれたときから培ってきた視覚体験が、欠けた立体視の情報を再現してしまうのだ。(p146)

立体視力がない人の物の見方、というのは、健康な立体視力がある人が、片目をつぶれば体験できる世界ではないのです。

立体視のない人は、健常な人から立体視力を差し引いた人ではなく、ずっと二次元的な視覚の世界に慣れ親しみ、正常な立体視のある人とはまったく別の仕方で適応している人たちです。

驚くべきことに、スーザン・バリーは、立体視のある世界に生まれ育ったか、立体視のない世界で生まれ育ったかは、思考パターンの違いにさえ現れると述べています。

何よりも驚きだったのは、視覚の変化が考えかたにまで影響をもたらしたことだ。

いままではずっと、段階を追うようにして物を見て考えていた。片方の目で見て、次にもう片方の目で見るというやり方だ。

人がたくさんいる部屋に入ったときは、ひとりずつ顔を見ていく方法で友人を探した。どうやれば、部屋全体とそこにいる人間をひと目で頭に取り込めるのか、さっぱりわからなかった。

大学で講義を行なうときはいつも、AがBをもたらしひいてはCをもたらしというふうに説明していた。

子どもたちの成長を観察するまでは、細部を見ることと全体を把握することはべつべつの過程だと思いこんでいた。

というのも、自分は細部を見きわめたあとでそれらを足しあわせて、ようやく全体像を作り上げることができたのだ。ことわざにあるとおり、木を見て森を見ずの状態だった。

…息子と娘は幼いころから、細部と全体像を同時に把握することができた。わたしがそのやりかたをようやく理解したのは、中年になって、ふたつの目で同時に見るやりかたを学んだときだ。

これができてはじめて、森全体とそこにある木々を同時に意識できるようになったのだ。(p182-183)

立体視がうまく機能せず、空間という概念を実感できないままに育ったスーザン・バリーは、「細部を見ることと全体を把握することはべつべつの過程だと思いこんで」いました。正常な眼球運動が難しく、遠くへ近くへ自在に焦点を変えることが難しかったからです。

一方、正常な両眼視機能を持っていた子どもたちは、「細部と全体像を同時に把握する」ことができました。

先に見たとおり、「空間」という概念がはっきりしていないと、物の見かけ上の位置しかわからないため、散らかり具合に対する感覚が麻痺したり、逆に過敏になったりします。

それは、周囲をバランスよく把握できず、細部に注意が向きすぎる(木を見て森を見ず)か、全体に気を取られすぎる(森を見て木を見ず)か、という偏りと言い換えることができます。

両眼視機能が十分でないために、全体が見えず細部に注目してしまう人たちは、ちょっとした物の重なりや汚れが気になって、実際より余計に散らかっているように見えていまい、きれい好きになりすぎるでしょう。

興味深いことに、以前の記事で紹介したように、近年の研究では、ASDの人たちは、赤ちゃんのころから、細部が見えすぎる視力を持っていることがわかっています。

顔を忘れるフツーの人、瞬時に覚える一流の人 - 「読顔術」で心を見抜く (中公新書ラクレ)にはこう書かれていました。

そこで自閉症がある程度遺伝するという前提のもと、その妹・弟を対象にした赤ちゃんの研究が行われるようになった。

その中でわかったことは、この子たちの生後6ヶ月時点の視力が通常よりもよいことだった。

ちなみにこうした「グレーゾーン」と呼ばれる子がほんとうに自閉症になるのは3割強程度であることから、その他はこの特徴を持つものの自閉症にならない子たちであるということだ。

つまり、自閉症特有の見方は、逆説的にも見えるが、通常よりも視力がよいことにありそうだ。これが顔全体よりも細部に注目しがちな見方を生み出し、顔認知を疎外している可能性がある。(p149)

自閉症の人たちは、幼い時期は、他の子よりも視力が鋭い傾向があります。これはおそらく、自閉症の特徴である、早期に見られる脳の過成長と関係しているのでしょう。

自閉症は脳の過成長、ADHDは脳の成熟の遅れー脳画像研究による発達の違い
自閉症やADHDの脳の発達の特徴を調べた脳画像研究のニュースについてまとめました。

本来なら、視覚の発達は、全体をおぼろげに認知するようになってから徐々に細部が見えてくるという段階を経て進むものです。

しかしASDの赤ちゃんは、早期の脳の過成長のために、おぼろげに全体を見るという過程をすっとばして細部が見えるようになってしまうため、全体を見る力が養われないのかもしれません。

この本では、自閉症の子どもは乳幼児期から細部が見えすぎるせいで、人の顔のうち、特に白黒のコントラストの強い部分、つまり「目」がはっきりと見えすぎるため、過剰なコントラストから目をそらすようになり、視線が合わなくなるのではないか、とも推測されています。

そして、その結果、ASDの主症状である特定の狭い分野の物に対する強いこだわりや、場の全体に注意を向けられない空気の読めなさが生じるのではないか、ともされています。

なぜアスペルガー症候群の人はポケモン博士になれるのに人の顔が覚えられないのか
自閉スペクトラム症(ASD)の人が持つ「細部に注目する」脳の傾向が、どのようにマニアックな記憶や顔認知と関係しているのか、という点を「顔を忘れるフツーの人、瞬時に覚える一流の人 -

ASDの人たちは、絵を描くときにも、細部から全体へ向かう傾向が見られる場合があるそうです。

絵の描き方から分かる自閉症スペクトラムの4つの特徴
アスペルガーを含め自閉症スペクトラムの芸術家は大勢います。その独特な認知特性は、絵を描くときにも表れるそうです。「芸術と脳: 絵画と文学、時間と空間の脳科学 」という本に基づいて、

一般に、ASDの人たちは、ものごとを視覚的に把握して、細部から全体へと向かうボトムアップ思考に秀でているとされています。有名なテンプル・グランディンも、「私は絵で考える」と述べました。

自閉スペクトラム症(ASD)の子どもの視覚的思考力とボトムアップ処理のメカニズムが解明!
自閉スペクトラム症の子どもの視覚的思考力の強さやボトムアップ処理の脳活動を金沢大学が明らかにしました。

天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル (こころライブラリー)では、アントニ・ガウディのような視覚優位のアスペルガー症候群の人たちが紹介されていますが、視覚優位であるからといって、必ずしも両眼視機能が優れているというわけではないことがわかります。(p82)

ガウディのような認知の偏りがある、あるいは発達障害を持つ人たちのたいへんさの一つに、健康の問題があります。

…眼球周辺の筋肉の弱さにより、机上の本の文字に焦点を合わせ続けることや、動くものを追い続けることが難しいといった眼球運動周辺の問題を抱えていることもあります。(p82)

こうした両眼視機能の問題は、スーザン・バリーのような、立体視ができない、という程度まで強いものでなくとも、スムーズに全体を把握することを難しくし、細部へと意識を向かわせるのかもしれません。

ASDの人たちのマニアックな収集癖は、周りの人からはごちゃごちゃして物があふれているように見えても、本人視点では整理整頓されて片付いている、ということをすでに考えました。

ASDの人は、全体像が見えず、一度にわずかな範囲にしか注意を向けられません。すると、彼らの見えている範囲、つまり部分部分だけ見れば片付いてはいるのに、彼らが見落としている部屋全体としては物があふれているという状況になりやすいのかもしれません。

ASDに限らず、先ほど出てきた事故のせいで立体視力を失った女性も、細部に関してはきれい好きなものの、全体のバランスは見えていなかったため、強迫的に片付けすぎていた可能性があります。

スーザン・バリーの場合も、おそらく細部に注目しすぎる視覚特性のせいで、実際よりも物が散らかりすぎているように見えていたのでしょう。

彼女は夫のダンが、なぜこんなに散らかった部屋で過ごせるのかイライラしていましたが、正常な立体視能力を持っていて、細部も全体も意識できるダンからすれば、ほどほどに物が点在しているだけだったのかもしれません。

森を見て木を見ずなADHD

他方、立体視力が十分でない人たちの中には、全体像はわりと意識できるのに、細部がおろそかになる、おおざっぱな認知に偏りすぎる人たちもいると考えられます。

そうした人たちの場合、部屋が雑然としていても、散らかっているという感覚が乏しくなるかもしれません。そもそも片付ける必要があることに気づかない人たちです。

細部が意識できないせいで、ごちゃごちゃしていて汚い部屋でも気にならず、まだ余裕があるように思えてしまうおおざっぱなタイプは、どちらかといえば、ADHD傾向を持つ人たちに多いのではないかと考えられます。

有名な認知神経科学者マイケル・ガザニガは、右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -の中で、自分はADHDだったかもしれないと述べています。

彼の部屋が散らかっていたかどうかはわかりませんが、「ひとつの課題に集中するのが私の性分に合わない」のに対し、「私は大局観のある人間」で、「詳細に圧倒されると抽象に立ち返る」傾向があるのだそうです。(p267,376)

ADHDの人たちは、視覚が鋭いどころか、「見落とし」の常連です。目が「節穴」だと言われてばかりです。細かい違いには無頓着で、うっかりミスだらけの不注意傾向を示します。

子どものPTSD 診断と治療によると、ADHDの原因のひとつと考えられるドーパミン関連の遺伝子の変異は、短期記憶(ワーキングメモリ)の容量と関係しているようです。

このドパミンによって、ヒトは注意が喚起されワーキングメモリーに貢献するといわれている。

ワーキングメモリーは、ある思考を保持し、行動に結びつけるまでその思考を慎重に分析する役割をもつ。

ある考えに基づいて推理し計画を立て実行することにはドパミンD2受容体の活動が必要とされる。

ADHDでは、このD2受容体遺伝子の変異やドパミントランスポーター遺伝子の変異により、ワーキングメモリーが十分に機能せず症状が起こるとされている。(p115)

興味深いことに、教養としての認知科学によると、短期記憶(ワーキングメモリ)には、聴覚性のワーキングメモリとは別に、視覚性のワーキングメモリが存在しています。

では、なぜ節穴になるのだろうか。これについては、視覚性のワーキングメモリが限定されているからという説明がある。一度にワーキングメモリ内に貯蔵できる視覚情報はどうやら四つくらいしかないと言われている。

つまり、いっぱい見てもどうせ保持できないから、限定されたところしか見ていないというわけである。(p110)

視覚系の情報と聴覚系の情報は独立して保持されるために、聴き取りで数字を覚える際に、視覚情報を使った処理課題を行っても、あまり干渉を受けないこともわかっている。(p79)

一般に、人のワーキングメモリの容量は、7つプラスマイナス2つほどで、「マジカルナンバー7±2」というインパクトある有名な論文のタイトルでよく知られています。

対して、視覚性ワーキングメモリの容量は、それよりも少なく、一度に4つほどしか覚えられません。

すると、ワーキングメモリが通常より限られているADHDの人の場合、細部か全体か、になると、見たものををおおざっぱに認識する「節穴」のほうに偏りがちなのかもしれません。

細部が意識できないので、こまごまとした片付けは苦手ですが、全体の空気感は読み取れるので、ものが増えすぎると余計に落ち着かなくなり、その反動で物を持たないシンプルライフを始める人もいるのでしょう。

たまに自分の興味のあることだけ脇目も振らずに過集中しますが、そのときもまた、一つのことしか見えなくなってしまうのはのは致し方なし、といったところでしょう。

ちなみに、先ほどのマイケル・ガザニガも、自分は大局観があるが詳細に圧倒される傾向があると述べている文脈で、「ワーキング・メモリに入る項目を増やす余地を作ること」に四苦八苦していました。(p376)

ここまでのところで、木を見て森を見ずの傾向に偏った結果、細部にこだわって「捨てられない」ようになる人と、森を見て木を見ずの傾向に偏った結果、全体をおおざっぱにしか見ずに「片付けられない」ようになる人がいるのではないか、と考えてきました。

けれども、この2つが同時に存在しないというわけではなく、「捨てられない」し「片付けられない」人も当然いるのでしょう。

問題となっているのは、木と森を同時に見られないことです。ある時は木だけに注目し、別の時は森だけに注目し、結局どちらか片方しか見ていないというバランスの悪い人もいるのではないかと思います。

スーザン・バリーの正常な子どもたちは「森全体とそこにある木々を同時に意識」できたわけですが、部屋が散らかる人は、一度にどちらか一方しか注意を向けられないことが問題なのです。

愛着障害と病的な溜め込み症

ところで、いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳によると、視覚性ワーキングメモリの容量低下は、虐待の後遺症として生じる視覚野の萎縮で引き起こされることもあるようです。

フリーサーファーで得られた結果は、性的虐待を受けた群が健常群に比べて左半球の視覚野の容積が8%も減少していた。…また右半球の視覚野の容積も5%減少していた。(p73)

オランダのアムステルダム大学のSuperは、外部からの視覚刺激を一番に取り入れる場所である一次視覚野は、視覚的な知覚(見ることで入ってくる外界からの情報)やワーキング・メモリなどの認知のプロセスに重要な役割を果たしていることを報告し、筆者らが行った視覚タスクによる記憶力の課題で、虐待歴のある者だけでなく、虐待歴のない対照群でも視覚タスクによる記憶力のスコアと一次視覚野の容積に強い関連が認められた。

このことから考えると、一次視覚野の容積は単に虐待による病的な結果と関連しているだけはなく、外界からの視覚的な知覚の許容量と何らかの関連があることが示唆された。(p77)

この記述によると、虐待歴があると、一次視覚野が萎縮する場合がありますが、それは視覚性ワーキングメモリの減少とも関連していることがわかります。

同様の結果は、国内における愛着障害の研究でも報告されていて、視覚野の萎縮は、視覚的な注意力や顔を見分ける能力に影響してくるようです。

愛着障害の子どもの脳の2つの特徴―左脳の視覚野が減少,ADHDより線条体が働かない

虐待の後遺症としての愛着障害は、ADHDと症状がよく似ていて、脳科学的にも見分けるのが難しいとされています。

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おそらくADHDでは、生まれつきのドーパミン関連の遺伝子変異のせいでワーキングメモリの容量が少ないのに対し、愛着障害では過酷な環境に対する適応のせいで、後天的に視覚性ワーキングメモリが縮小するのでしょう。

いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳では、虐待を受けた子どもの場合、なぜ視覚野が萎縮するのか、こう説明されていました。

これらの事実から、性的虐待を受けた被虐待児の脳、とくに視覚野の部分は細かい詳細な像を無意識下に“視ない”ようにするように適応していったのではないかと私は推測している。

残酷な性的虐待を繰り返し受けてきた子どもたちが、トラウマ的な出来事の詳細を“視る”ことに“ふた”をした表れではないだろうか?(p76)

愛着障害では過酷な虐待のせいで、物事の細部を見ないように適応してしまい、視覚性ワーキングメモリが弱くなってしまうのです。

そうすると、虐待などのせいで愛着障害を抱え、細部を見ることにフタをした人たちは、部屋が散らかっていても、散らかっていることに気づけず、「片付けられない」タイプへと発展していくかもしれません。

冒頭で、「片付けられない」や「捨てられない」は、ある程度はだれにでも見られる特徴ではあるものの、極端な汚部屋やゴミ屋敷の場合は、「溜め込み障害」のような治療を要する障害になりうる、ということに触れました。

臨床家のためのDSM-5 虎の巻で杉山登志郎先生は、そのようなケースには、単なる発達障害ではなく、幼少期の虐待など、愛着障害との合併例が多いことを指摘しています。

現在のところ、典型的な病理をAD/HD×虐待的育ち×強迫性と説明されているが、われわれの経験では圧倒的にAD/HD(片付けられない)よりASD(捨てられない)のほうが目立つのであるが。

自閉症スペクトラムの親が、虐待の既往と強迫性を抱えているときにしばしば溜め込み症の並存があるのである。(p56)

虐待による愛着障害は、ADHDに合併する場合もあれば、ASDに合併する場合もあります。

どちらの場合にしても、単なる生まれつきのADHDや、生まれつきのASDよりも、より重く混乱した症状が見られるため、「第四の発達障害」や「発達性トラウマ障害」として知られています。

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ADHDにしろ、ASDにしろ、極端な「片付けられない」や「捨てられない」、さらにはその両者が混合して、生活が立ち行かなくなるような場合は、生来の脳機能だけでなく、愛着障害も含めた脳機能の問題として捉える必要があるかもしれません。

混乱した視覚情報に適応する

注目したいのは、愛着障害の子どもが正常な視覚能力を発達させられないのは、過酷な環境に適応するために、細部を見ないように適応した、言い換えれば、衝撃的な視覚情報が入ってこないように抑制した結果として、視覚野が十分に発達しなかった、という点です。

視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)を見ると、脳が自分を守るために視覚情報を意図的に抑制する、というのは、愛着障害に限らず、斜視でも似たような現象が起こっているようです。

どうして、斜視の乳児はたいてい、外に目を開くのではなく内に寄せているのか。

当時、ファザネッラ医師はこの問いに答えを与えられなかったが、最近の研究で、ごく幼い乳児は、たとえ正常な視覚を持っている場合でも、目を外に開くより内に寄せるほうがはるかに得意なことが判明した。

つまり、情報を抑制するために片目の位置をずらす必要がある場合、固視していない目を外側ではなく内側に向けるほうが簡単に行なえるというわけだ。

片目を内に向けることで、わたしは像のひとつを無視し、ひとつだけの世界を見ることができた。

この方法は問題のひとつを解決したが、代わりにべつの問題をもたらした。立体視に頼らずに奥行き感覚を発達させざるを得なくなったのだ。(p52)

斜視の子どもは、もともと生まれつき目の位置がずれているわけではありません。斜視が現れやすい時期は二回あり、 生後2~3ヶ月と2~3歳ごろ だとされています。(p45)

スーザン・バリーの説明によると、最初から目の位置がずれていることが斜視の根本原因なのではなく、目の位置がずれるのは、赤ん坊なりの適応戦略だということになります。

つまり、何かしらの原因で、両目を協調して動かすのが難しい赤ちゃんは、右目と左目の像が一致しない「視覚混乱」と呼ばれる状態に陥ります。二つの目が違う像を捉えるので、どちらが正しい情報かわからなくなってしまいます。(p47)

すると、その状況に適応するため、片目からの情報はわざとシャットアウトして、どちらか片方だけの情報を頼りにするようになります。その結果、抑制されたほうの目の位置がずれるので、「斜視」として認識されるということです。

ということは、愛着障害における適応も、斜視における適応も、種類は違えど、混乱するような視覚情報から脳を守るために、目から入ってくる情報を抑制した結果、という意味では共通しています。

もっと言えば、先ほど見た自閉症の赤ちゃんの場合もそうです。普通よりも早期に視覚が鋭く発達してしまうために、赤ちゃんの目にとってコントラストの刺激が強すぎる他人の目から視線をそらすようになり、表情の認識が難しくなります。

典型的な斜視の症状が現れるほど、両目の協調運動に問題があるわけではない人の場合も、似たような理由で、視覚情報の抑制が生じているのかもしれません。

たとえば、間欠性斜視では、疲れたときや集中力が切れたときなどに目の位置がずれます。また斜位では、目の位置はそろっていますが、常に努力して方向を揃えている状態なので、正常な両眼視機能を持つ人よりも疲労がたまります。

そうすると、通常よりもノイズが多い視覚情報にさらされるため、脳が刺激を抑制しようと適応した結果、一般とは異なった視覚認知、ひいては細部か全体かに偏った、発達障害特有の思考パターンへと発達するのかもしれません。

脳の発達は視覚によって導かれる

この記事では、部屋が散らかってしまう「片付けられない」「捨てられない」問題から始まり、その原因の一端が両眼視機能の問題にあるのではないか、ということを考えてきました。

通常より視覚が鋭かったり、眼球運動の協調が難しかったり、さらには虐待によって衝撃的な場面にさらされたり、といった例外的な状況に対して、脳が自己防衛のために適応していった結果、定型発達者とは違う物の見方が育っていきます。

そして、その延長線上に、それぞれの発達障害の特徴である、こだわりが強い、空気が読めない、見落としが多い、おおざっぱといった思考のくせが作られ、最終的に「片付けられない」や「捨てられない」といった行動問題へとつながっている可能性があります。

もちろん、ASDやADHDの症状がすべて視覚の問題から来ているわけではありません。すべての発達障害者に両眼視機能の異常が見られるわけではありません。明らかに、別の原因も絡んでいます。

たとえば、以前の記事で紹介したように、耳を通して入ってくる聴覚的な情報もまた、脳の発達や思考パターンの形成に大きな役割を果たしているようです。

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しかし、よく言われるように、人が受け取る情報の大部分は視覚に依存しています。わたしたちが何かを認識し、注意を向け、考えるきっかけをもたらすのは、たいていの場合、目から飛び込んでくる視覚情報です。

脳の可塑性に詳しい精神科医ノーマン・ドイジは、脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線の中で、スーザン・バリーの視覚はよみがえるを紹介したあと、次のような研究を紹介しています。

私たちが目を使ってすることは脳を形作り、その発達を導く。目には、脳の神経可塑性をオンにしたりオフにしたりする力がある。

事実最近の注目すべき研究で、視覚系における神経可塑的な変化は、脳ではなく目から始まることが示唆されている。

ハーバード大学医学部のタカオ・ヘンシュと、フランス高等師範学校に在籍するアラン・プロシアンツ博士の報告によれば、生まれたばかりのマウスの網膜は、Otx2と呼ばれるタンパク質を脳に送ることで学習を促進し、可塑的変化を可能にする段階に入るよう指示する。

ちなみに彼らは、ラベリングの技術を用いて、網膜から送り出されるタンパク質を追跡することができた。

ヘンシュが述べるように、基本的に「目は脳に可塑的になるタイミングを指示している」のである。(p345)

発達障害と呼ばれる人たちの脳機能が、定型発達者と異なる独自の方向へ形作られていくのは、「目を使ってすることは脳を形作り、その発達を導く」との言葉からすれば、脳そのものがそう発達していったというより、視覚に導かれてそう発達したのではないでしょうか。

外部からの情報の大半を受け取る視覚という窓から、普通とは異なる光が差し込んできたために、脳の神経系が普通と少し違った別のかたちへと成長していく、と考えるのは理にかなっているように思えます。

ADHDだから「片付けられない」、ASDだから「捨てられない」、と思っている人の中には、自分が気づいていない視機能問題に対する適応のせいで、そうした認知パターンに陥っている人が少なからずいることでしょう。

その場合、ちょうどスーザン・バリーが、視能療法を通して立体視を獲得した際に、「何よりも驚きだったのは、視覚の変化が考えかたにまで影響をもたらしたことだ」と述べたように、視覚に注目したアプローチによって、生まれつきの性格だと思っていたものが変化する可能性もあるのではないでしょうか。

発達障害の診断を受けている人は、一度、両眼視機能の検査を受けてみて、自分が正常な両眼視能力を持っているのかどうか、また自分の物の見え方は、他の人とどう違っているのか、という点を調べてみるなら、自身の特性に向き合う意外な道が開けるかもしれません。

一般的な検査でわかりにくい両眼視機能について知るには、今回紹介したスーザン・バリーの経験談視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)や、以下の記事で紹介している書籍をご覧ください。

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