心は脳だけでなく身体全体から作られる―神経学者ダマシオの自己意識の研究を読み解く


ラウマ研究の第一人者であるベッセル・ヴァン・デア・コークは、このブログで頻繁に引用している身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ある本のことを「私にとって最も重要な本」と呼んで紹介しています。

ダマシオは一連の見事な科学論文や書物の中で、体の状態と情動と生存との間の関係を明らかにした。

神経科医として、さまざまな種類の脳の損傷を負った患者を何百人と治療してきたダマシオは、意識や、自分が何を感じているかを知るのに必要な脳領域の確認に強い関心を抱くようになった。

彼は、私たちの「自己」の経験を司るものを精密に記すことに自分の職業人生を捧げた。

彼の著書のうち、『無意識の脳 自己意識の脳ー身体と情動と感情の神秘』は私にとって最も重要な本で、それを読んだときには目を開かれる思いだった。(p155)

ヴァン・デア・コークにとって「最も重要な本」、それは、アイオワ大学メディカル・センター神経学部のアントニオ・R・ダマシオ博士の、無意識の脳 自己意識の脳でした。

ダマシオは、意識や自己、人格、アイデンティティといった、これまで神秘に包まれていたテーマを、膨大な神経科学の証拠に基づいて考察したことで知られています。

そのおかげで、従来、心理学や精神医学の領域で扱われていたトラウマのような「こころの問題」を、実体のある神経科学的な「からだの問題」として研究することが可能になりました。

この本が、ヴァン・デア・コークにとって「最も重要な本」であるとすれば、このブログで取り上げているトラウマや解離の研究においても、極めて重要な一冊だといえるでしょう

ソマティック心理学のような、身体感覚から心にアプローチするセラピーに携わる人にとっても、このダマシオの研究について知っておくことは大いに役立つはずです。

また、わたしのように、専門家ではなくても、心、意識、人格といった つかみどころのない概念を、スピリチュアルな観点ではなく、現実的な観点から考察したい人にとっても、ダマシオの研究について知っておくのはとても大切です。

前知識がないとかなり難解な本ですが、この記事では、わたしのつたない読解力ながら、できるだけ易しい言葉を用いて、ダマシオの研究を解説してみようと思います。

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これはどんな本?

ヴァン・デア・コークが言及していた無意識の脳 自己意識の脳(原著は1999年)は、国内でも2003年に翻訳されていますが、先日、この本の文庫版である意識と自己 (講談社学術文庫)が出版されたので、この記事ではそちらを参考にしています。

もともとダマシオは、前著デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫)で「情動」とは何か、という理論を展開していたのですが、考察に行き詰まりを感じたことから、この本で「意識」というテーマを掘り下げたそうです。

ものすごく情報量の多い本なので、どれだけ平易に解説しようとしても分量が多くなってしまうのですが、この記事では三つのセクションに分けています。

(1)ダマシオの研究が意義深いのはなぜか、(2)意識とは何か、(3)情動とは何か、の三つです。

ダマシオの本だけでなく、ダマシオの研究を取り上げている幾つかの書籍も参考にしつつ、これらの研究がなぜ有意義なのか、考えていきます。

できる限り正確を期して書いているつもりですが、とても専門性の高い研究なので、わたしの理解力が追いついていない部分も多々あります。興味のある人は、ぜひ原著を読んで、より正確な理解を深めてほしいと思います。

セクション1 : ダマシオの研究が意義深いのはなぜか

ダマシオの研究の細部を調べる前に、まずダマシオの研究が意義深いのはなぜか、という要点を考えてみましょう。

冒頭で書いたように、これまで、意識や自己といったテーマは、スピリチュアルな「こころ」の領域で扱われていました。

ダマシオが意識と自己 (講談社学術文庫)で述べるように、「こころ」は科学が解明できない神秘として、いわば聖域に取り分けられてきました。

また意識の研究者ではない一般の人たちの間にも、意識の生物学的本質を明らかにすることの人間的意義に関して、これまでずっとある種の困惑や、場合によっては不安すらあった。

専門家でない人たちにとって、意識と心は実質的に区別できないこともあるだろうし、意識[consciousness]と良心[conscience]、意識と魂[soul]、意識と精神[spirit]もそうだろう。

読者もその一人かもしれないが、そういう人たちにとって、心、意識、良心、魂、精神は一つの大きな未知の領域を形成し、それが神秘なるものと説明可能なもの、聖なるものと俗なるものを分けている。

だから、人間の属性のこの崇高な領域にどう取り組むかはすべての良識的人間にとって大きな問題であり、その本性に対する一見尊大な説明には立腹する者がいるからといって、驚くにあたらない。(p42)

神秘的な「こころ」、また魂や精神のようなものを、科学的に解き明かそうする試みは、聖なる領域に土足で踏み込むかのような不敬なこと、あるいは科学者の無謀な試みだとみなされてきました。

確かに、わたしたちの精神世界については、まだうまく科学的に説明できないことはたくさんあります。ダマシオも、すべてが科学的に解き明かされたわけではないことを認めています。

認知科学と神経科学の歴史の現段階において意識の問題を「解く」という考えに、私は疑いをもっている。

私が望んでいるのは、本書で述べるアイディアが自己という問題を生物学的視点から明らかにする上で役に立てば、ということだけだ。(p22)

しかし、心の世界にはまだ解明できない領域がある、からといって、心という現象のすべてが未知に包まれたままだ、というわけではありません。一般の人々の考えとは裏腹に、すでに膨大な証拠が、心の構造に科学的なメスを入れています。

すでにわかっている科学的な事実、つまり単なる仮説ではなく事実として観察されている証拠を簡単に要約すると、こうです。

脳や身体の一部が損なわれると、部分的に意識が欠けて損なわれるという膨大な症例がある。ゆえに、人の心、また意識は、目に見えない何かではなく、わたしたちの肉体から生まれている

意識は肉体から生まれている、というのは、多くの人の直感に反する説明かもしれません。

たとえば、多くの宗教では、心ないしは魂という目に見えない何かが、肉体が死んだ後も残り続けると教えています。

アニメや映画などのフィクション作品では、登場人物は最後は心の力で劣勢を跳ね返します。すでに死んでしまった仲間が、精神体、思念体となって現れ、生きている者に力を貸す、というのはお決まりのパターンです。

こうした宗教上の教えや、創作作品の描写すべては、心の世界は、肉体の限界に縛られない、という認識の上に成り立っています。物質としての肉体には不可能なことでも、心や意思の力があれば奇跡を起こせる、というわけです。

このような考え方には夢がありますが、神経科学の膨大な症例とは相容れません。心が肉体を超えるのは、あくまでフィクションの中だけの話であり、現実世界ではそんなことはありえません。

死んだ人には何の力もなく、残された遺族を助けたりできませんし、どれだけ強靭な意思を持つ人でも病気になって死にます。意思の力で肉体の限界を超えるような奇跡は、現実世界では起こりません。

意識や自己、人格、アイデンティティといった「心」の中のものすべては、どれほど無限の可能性を持っているように見えるとしても、すべて肉体という有限のものから生じています。ですから、身体が滅びれば意識はなくなります。

ダマシオはこの本の中で、ノーベル賞を受賞した生物学者、ジェラルド・エーデルマンの理論に繰り返し言及していますが、エーデルマンは脳は空より広いか―「私」という現象を考えるの中でこう説明していました。

麻酔、脳外傷や脳卒中、あるいは睡眠中のある段階で脳の活動が低下すると、意識はなくなる。

死んだ後に身体や脳の働きが戻ってくることはないし、死後の体験などというものもありえない。

たとえ死んでいなくても、魂や意識が体外で自由に浮遊するといった話が科学的に証明されたことはない。

意識は身体化されている。意識が身体や環境を離れて存在することはないのである。(p17)

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ジェラルド・エーデルマンの神経ダーウィニズム(神経細胞群選択説:TNGS)の観点から、脳がコンピュータとまったく異なるといえるのはなぜか、「私」という意識はどこから生じるのか、解離

スピリチュアルな世界を誠実に信じている人は、このような考え方は受け入れにくく感じるかもしれません。ダマシオが述べていたように、尊大な説明だと感じて「立腹する」人もいるでしょう。

わたし自身、空想したり、創作活動をしたりするときは、心や精神の無限の可能性を思い描きます。厳密な科学的根拠など無視した、夢のあるファンタジーが好きです。

哲学や宗教、さらには創作の世界は、人間の無限の創造性が紡ぎ出す豊かな文化です。わたしは、必ずしも科学的な事実を信じるべきだとは思っていません。

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