その症状は劇的ではあるものの、解離性同一性障害に見受けられる内部分裂や異なる人格の出現は、幅広い精神生活の領域の極端な例にすぎない。
自分の中に相容れない衝動や部分がいくつもあるという感覚は誰しも抱いているが、トラウマを負い、生き延びるために極端な手段に頼らざるを得なかった人々には、とりわけ顕著なのだ。(p457)
解離性同一性障害(DID)、いわゆる多重人格は、映画やアニメなどのフィクション作品でセンセーショナルに扱われるせいで、はなはだしく誤解されてきました。
自分のうちに複数の人格がいるという現象は、ときに猟奇的な犯罪や、オカルトと結びつけられがちですし、詐病や演技だとみなす医師さえいます。
しかし、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ベッセル・ヴァン・デア・コークが述べているように、解離性同一性障害(DID)は、「幅広い精神生活の領域の極端な例に」すぎません。
近年の解離の理論からすれば、単一の人格しか持たない大多数の人と、複数の人格を抱え持つDIDの人は、ばっさりと二分して区別できるようなものではなく、グレーゾーンを介して連続してつながっていることがわかっています。
彼はこの本の中で、「解離がスペクトルの上で生じることに気づいた」と述べています。ちょうど虹のスペクトルのように、さまざまな程度また色合いの症状が連続して起こっている、という意味です。(p464)
たとえDIDと診断されるほど典型的ではなくても、自分の内に複数の人格が宿っているように感じている人は大勢います。そのような人たちは、「スイッチング」という軽度の人格の切り替わりを経験します。
たとえば、ついカッとなる傾向があったり、ぼーっとして無活動状態にはまり込んでしまったり、人前での自分と一人でいるときの自分にギャップがあったり、依存症や中毒、自傷行為をやめられなくなったりしている人は、人知れずスイッチングの問題を抱えている可能性があります。
この記事では、スイッチングとはなにか、人格の分裂がわたしたちの日常からそれほどかけ離れているわけではないといえるのはなぜか、そのとき脳科学的にはどのような状態にあるのか、といった点を考察したいと思います。
(※多重人格は解離性同一性障害の古い呼び名であり、あまり適切ではない名称です。しかし現在でも、多重人格という言葉は知っていても、解離性同一性障害という呼び名は知らない人も多いため、この記事では便宜的に この表現を併用しています)
目次 ( 各項目までジャンプできます)
これはどんな本?
この記事でおもに参考にしたのは以下の二冊です。
身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法は何度も参考にしているトラウマ研究の第一人者ヴァン・デア・コークの本で、トラウマ当事者に多いスイッチングや、分かたれた人格の治療法が載せられています。
臨床心理学博士であるサンドラ・ポールセンによる図解臨床ガイド トラウマと解離症状の治療―EMDRを活用した新しい自我状態療法は、DIDと診断されるほどではなくても、さまざまな程度の人格のスイッチングを見せる人が大勢いることが豊富な事例から解説されています。
「スイッチング」ー人格の分裂はスペクトラム
冒頭で引用したように、解離性同一性障害(DID)のような人格の分裂は「スペクトルの上で」、つまりさまざまな程度の連続性をもって生じます。
図解臨床ガイド トラウマと解離症状の治療―EMDRを活用した新しい自我状態療法によると、この概念は「解離性連続体」として知られています。
人格やアイデンティティが複数にわかれる解離という現象は、解離性連続体という一本のものさしに当てはめた場合、「左端のノーマルな役割や状態から、右へ進むごとに内面の葛藤や未解決のトラウマが増え、健忘をともなう解離性同一性障害に至る」とされています。(p50)
これまで、「多重人格」と呼ばれてきた解離性同一性障害の人たちは、この解離性連続体のスペクトルのものさしで言えば、右端に位置している人たちです。
たとえば、ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、そのような深刻なDIDを抱えていたリサという女性のエピソードについて書いています。
リサは小さいころに解離した記憶があったが、思春期になると症状が悪化した。
「目が覚めると切り傷があるということが起こり始めたのです。学校の人にいろいろなあだ名で呼ばれていました。
決まったボーイフレンドを持てませんでした。解離したときに別の子とデートしてしまい、しかもそれを覚えていなかったからです。
よく意識を失い、気がつくととんでもない状況になっていることがしばしばでした」。
深刻なトラウマを負った人にはありがちなことだが、リサも鏡の中の自分を認識できなかった。
私は人が、連続した自己感覚を欠くというのはどういうことかをこれほど明瞭に描写するのを聞いたことがなかった。(p529)
彼女の場合、人格が切り替わるごとに記憶や意識のつながりが途切れるので、一人の身体で、複数の人間の人生を送っているような状態にありました。
これほど深刻な解離性同一性障害の例を見ると、人格の分裂は、大半の人の日常からはかけ離れた奇病のように感じられるかもしれません。
しかし、解離性連続体のスペクトルとして考えてみると、ものさしの右端に位置するこのような人たちたちだけが人格の分裂を抱えているわけではないことがわかります。
虹のスペクトルの色合いがなだらかなグラデーションを描くように、解離性連続体の場合も、はっきりDIDと診断される右端の人たちだけでなく、そこに至るまでの中間部分に位置する人たちが大勢います。
国内の解離の専門家の一人である杉山登志郎先生は、子ども虐待という第四の発達障害 (学研のヒューマンケアブックス)のなかで、そうした人たちは「スイッチング」という現象を見せる、と述べています。
このような多重人格が明確に認められない場合においても、スイッチングと呼ばれる人格モードの切り替わりが認められる被虐待児は多い。
つまり、状況依存的な生理的状態や気分とワンセットになった特有の意識状態の間を、スイッチが切りかわるようにして移動するのである。(p92)
子どもの場合、解離性同一性障害の特徴は、部分人格が人間とは限らず、しばしば犬人格や猫人格をもつことである。(p89)
Hさんは、「ぼく」「うち」「あたし」と自己の呼称が状況によって変化していた。(p92)
はっきりDIDと診断されるほどではなくても、人格の分裂が生じているグレーゾーンの現象、それは「スイッチング」と呼ばれます。
杉山登志郎先生が診ている児童虐待のサバイバーの中には、解離性同一性障害と診断されないまでも、それに似た人格の切り替わりを見せる子どもたちが大勢いました。
スイッチングを起こす子どもたちは、先ほどの典型的なDIDのリサほど極端に、記憶や意識の連続性のつながりが失われることはありません。
しかし、「状況依存的」に、つまり場面によって無意識に人格モードが切り替わってしまい、あたかも別人のような性格や振る舞いを見せます。ときには動物のように振る舞ったり、一人称が変わったりします。
そのような子は、場面ごとに人格モードが勝手に切り替わるので、家でいるとき、友だちや先生と話しているとき、一人でいるとき、それぞれ専用の自分がいて、無意識のうちに別人のように振る舞ってしまいます。
こうしたスイッチングは、子どもだけの問題ではなく、大人にもよく見られます。ヴァン・デア・コークも、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、こう書いています。
そうした変化は臨床現場では「スイッチング」と呼ばれており、トラウマを負った人にしばしば見られる。
患者は話題が変わるたびに、まったく違う情緒的状態と生理的状態に入る。
スイッチングは声のパターンのはなはだしい変化としてだけでなく、表情や体の動きの変化としても表れる。
臆病な人から強引で攻撃的な人へ、心配症で他人の言いなりになる人からいかにも魅惑的な人へと、人格が変わるようにさえ見える患者もいる。(p396-397)
スイッチングが起こると、DIDの場合と同じく、声や表情、身体の動きのパターンが別人のように変化します。
例えば、テキサス大学オースティン校のジェイムズ・ペネベーカーの研究では、学生たちを対象に、人生で最悪のトラウマ体験についてテープレコーダーに吹き込んでもらう、という実験を行なったとき、スイッチングを起こす人たちが観察されました。
私は、ペネベーカーの研究の別の点にも注意を惹かれた。
参加者が、私的な問題あるいは厄介な問題について話したときは、声の調子と話し方が変わることが多かったのだ。
その違いがあまりにも著しいので、ペネベーカーは自分がテープを取り違えてしまったのかと思ったほどだった。(p396)
ペネベーカーの実験に参加した人たちは、決してDIDと診断されていたわけではありません。しかし、彼らは、トラウマ的な出来事を思い出すと、別人のような声や筆跡に変化するスイッチングを見せました。
たとえばある女性は、その日の計画について子供のような甲高い声で話したが、数分後に、開いたレジの引き出しから100ドル盗んだ話をしたときには、声がずっと低く小さくなったので、別人のように聞こえた。
情動の状態の変化は、参加者の筆跡にも反映されていた。参加者は話題を変えると、筆記体からブロック体へ、そしてまた筆記体へと変わることもあった。文字の傾きと筆圧にも違いがあった。(p396)
この報告は、DIDのような人格の分裂が決してわたしたちの日常からかけ離れているわけではないことを示唆しています。
人格交代をスイッチングという観点から見た場合、DIDは重度のスイッチングにあたりますが、もっと程度の軽いスイッチングを経験している人たちは、わたしたちの身の回りに大勢いるのです。
自分でコントロールできない条件反射
典型的なDIDであれ、スイッチングを起こす子どもや学生であれ、いずれの場合も共通しているのは、演技として「ふり」をしているわけではなく、勝手に人格が別人のように切り替わってしまう、ということです。
「スイッチング」という言葉から思い浮かぶのは、機械のスイッチを操作して、モードを切り替える様子かもしれません。
たとえば、わたしたちは、ドライヤーを使うとき、強い温風、弱い温風、冷風などのモードをスイッチで切り替えるかもしれません。さまざまなモードを使い分けられるのはとても便利です。
ではもし、ドライヤーのスイッチが自分で操作してもいないのに、勝手に切り替わってしまうとしたらどうでしょうか。冬の寒い日に早く髪を乾かしたいのに、勝手に冷風に切り替わってしまってコントロールできなかったら?
これが、スイッチング、そして解離性同一性障害を抱えている人が陥っている状態です。
冒頭でヴァン・デア・コークが述べていたように、「自分の中に相容れない衝動や部分がいくつもあるという感覚は誰しも抱いて」います。つまり、自分の中に複数の異なる人格モードが存在しているのは、とても自然なことです。
ちょうど、ドライヤーに、温風の強弱や冷風など、さまざまなモードが備わっているように、わたしたちの場合も、だれでも複数の人格モードを抱え持っています。
わたしたちが誰でも持っている複数の人格モードは、解離の治療法のひとつである自我状態療法を開発したジョン・G・ワトキンズ博士によって「自我状態」と名づけられました。
図解臨床ガイド トラウマと解離症状の治療―EMDRを活用した新しい自我状態療法に例として載せられているフランクのように、わたしたちはだれでも、日常生活のなかで、多面的な自我状態を自然と使い分けているものです。
フランクは内科医で、普段は自分の患者を診察し治療している。しかし、自宅に帰って愛犬のウェルシュテリアとふれあうときは、赤ちゃん言葉を好んで使っている。
もちろん自分の患者に向かってそんな言葉遣いはしない。つまり、フランクは“愛犬のパパ”としての自我状態と、医師としての自我状態をもっているということだが、当然ながら、自己はこの2つだけで構成されているのではなく、そのほかの自我状態もある。(p31)
医師であるフランクは、職場で患者と接するときと、自宅で愛犬と接するときとでは、言葉づかいや態度がまったく変化します。
言葉づかいや態度が場面によって豹変する、というのは、先ほど見たペネベーカーの実験の参加者たちと同じです。ではフランクはスイッチングを起こしているDID予備軍なのでしょうか。
いいえ、そうではありません。フランクは複数の人格モードを持ってはいますが、自分の意思で、自由にそれを使い分けているからです。
ドライヤーに複数のモードが存在していることがまったく正常で便利であるのと同じく、わたしたちの内面に複数の人格モードが存在していること自体は何ら問題ありません。
むしろ、こうした複数の人格モードが存在しなければ、わたしたちはまともに社会生活を送れなくなるでしょう。
複数の人格モードがなければ、学校の先生に対して友だちに接するかのようにタメ口を利いてしまったり、職場に出勤しながら自宅にいるかのように無思慮にふるまったりしてしまうからです。
ですから、複数の人格モードを持っていることは、わたしたちの正常な精神生活の「多面性」にすぎません。それでは、正常な人格の「多面性」が、スイッチングやDIDになってしまうのはどんなときなのか。
それこそが、ドライヤーのスイッチが勝手に切り替わってしまうようなとき、つまり、自分ではコントロールできないままに、人格モードが独りでに切り替わってしまうときです。
ほとんどの人は、いま出てきたフランクのように、自分で意識的に人格モードを切り替えていますが、スイッチングを起こす人たち、さらにはDIDと診断されるような人たちは、いつの間にか、無意識のうちに人格モードが切り替わってしまいます。
この無意識のうちに、勝手にモードが切り替わってしまうという現象は、パブロフの犬と同じ、「条件付け」と呼ばれる仕組みで生じています。
有名なパブロフの実験に出てくる犬は、ベルがなるとエサが出てくることを学び、しまいには足音を聞いただけでよだれが出るようになりました。このとき犬は、自分でよだれを出そうと意識したわけではなく、無意識に反応していました。
同様に、今日では、トラウマの当事者たちが抱える、様々な制御できない症状は、条件反射として起こっていることがわかっています。
たとえば、トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復に書かれているように、PTSDを抱えた人は、過去を想起させるような感触、におい、声などを感じると、それが引き金となって、制御できないフラッシュバックが生じます。
「トラウマの記憶」は、感覚や感情、イメージ、匂い、味、思考などの意味不明な断片として沸き起こってくる。
たとえば自動車事故による火災から生還した人は、ガソリンスタンドで給油中にガソリンの匂いを嗅いだときに、突然胸がドキドキしはじめ、激しい恐怖および逃げ出したい衝動に襲われる。(p18)
そして、ここが重要なポイントですが、スイッチングによる人格の切り替わりは、これと同じメカニズムで起こっています。
解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中で岡野憲一郎先生が書いているように、人格の切り替わりとは、何かが引き金となって、人格がまるごとフラッシュバックする現象なのです。
フラッシュバックとは、PTSDの症状に特徴的とされ、ある種のトラウマをその時の知覚や感情とともにまざまざと再体験することである。
つまり、この子どもの人格部分の出現は、そのフラッシュバックが「人格部分ごと生じる」現象として理解することができるだろう。(p154)
ふつうの人たちは、たとえ複数の人格モードを持っていても、自分の意思で好きなときにモードを使い分けられます。
しかしトラウマを抱える人たちは、パブロフの犬のような条件付けによって、トラウマ的出来事と、特定の人格モードが紐付けられてしまっています。
その結果、少しでもトラウマを思い出させるような場面に遭遇すると、ペネベーカーの実験に参加した人たちのように、無意識のうちに、自分でも気づかないままに、声や筆跡を含め、人格モードが勝手に切り替わってしまうようになります。
たとえば、ふだんは冷静で穏やかなのに、ちょっとしたことがはずみとなって、カッとなって切れてしまい、暴れまわってしまう人がいるかもしれません。
しばらくしてからハッと我に返りますが、時すでに遅しです。もしかしたら取り返しのつかない暴力事件を起こしてしまったかもしれません。自分がやったとは到底信じられません。
子ども虐待という第四の発達障害 (学研のヒューマンケアブックス)では、そのような現象は、スイッチングの一種であり、解離性同一性障害ともつながっている、と説明されています。
よく認められるのは、ささいなきっかけで激怒やパニックが生じ、大暴れするといった、いわゆる「切れる」現象である。
これはスイッチングとも呼ばれ、そのまま治療が行われなければ、解離性の同一性障害(多重人格)へと展開していくこともある症状である。(p82)
最近話題になることが多い青少年の「切れる」現象などは、このスイッチングの別名にほかならない。
「切れる」ときは、ただ単に怒りで我を忘れた状態モードに入っているだけのこともある。しかし、背後に結晶化をいまだ果たしていない未成熟な部分人格が存在することもある。(p95)
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアには、これと似た次のような例も出てきます。
例えば、目覚めたときおびえる妻の首を締めていることに気づいたベトナム帰還兵は、その奇妙な行動や過剰反応を引き起こしたのは遠くを走る車のバックファイアーや幼い子どもが廊下をかける足音だということに気づかない。
彼が何年も前に竹やぶで眠っていてベトコンに発砲されたときは、即座に殺傷反応を起こすことが、命を守る大切な行動だった。
ほんの軽い刺激で、きつく巻かれたバネ(殺すか殺されるかの生存反応)が突然はじけ、制御できない激しい感情の爆発が起こることもある。(p378-379)
このような場合、DIDほどはっきりした人格交代ではありませんが、まぎれもなくスイッチングによる制御できない人格モードの切り替わりを起こしています。ふだんは表に出ない暴力的な人格モードへと一瞬切り替わるのです。
このような瞬間的に人格が変わるスイッチングは、境界性パーソナリティ障害の人にもよくみられます。
境界性パーソナリティ障害は、解離性同一性障害というよりPTSDに近い症状ですが、両者はスペクトラムとしてつながっています。
また、理不尽な悪癖にはまり込んでやめられない人や、自分でもどうしようもない気分の変動に悩まされる人なども、制御不能なスイッチングによって、人格モードが部分的に切り替わっているとみなせます。
本人は気づいていないかもしれませんが、こうした自分では制御できない人格モードの切り替わりは、無意識のうちにトラウマを想起させる「ほんの軽い刺激」が引き金となって起こります。
スイッチングとは、フラッシュバックと同様に、何かしらの気づかないようなトリガー刺激が引き金となって、わけもわからないままに無意識の条件反射として、人格モードが切り替わってしまう現象なのです。
ですから、解離性連続体のスペクトルというものさしで考えたように、ふつうの人たちの一つに感じられる自己と、DIDの複数に感じられる自己は、PTSDやスイッチングといった現象を間にはさみつつ、連続してつながっています。
正常な多面性…自分で人格モードを自由に切り替えられる
↓
内なる葛藤…相異なる複数の自分がいるような感覚
↓
PTSD…制御できないフラッシュバックが勝手に起こる
↓
中程度のスイッチング…制御できない人格モードの部分的な切り替わりが起こる。境界性パーソナリティ障害も含まれる
↓
DID(解離性同一性障害)…制御できない人格交代に振り回される
自分のなかに複数の人格モードを抱えているのはごく普通の状態ですが、トラウマによって厄介な条件付けが形成され、人格モードが勝手に無意識のうちに切り替わってしまうようになると、スイッチング、ひいてはDIDになってしまうのです。
無秩序型という生存戦略―なぜ勝手に切り替わるのか
それにしても、本来なら自分で自由に人格モードを切り替えられるはずなのに、状況に応じて、自分でもコントロールできないままに、勝手にモードが切り替わってしまうようになるのはどうしてでしょうか。
以前の記事で考えたように、解離の研究によると、同じようにトラウマ的な出来事を経験したとしても、すべての人が人格の分裂を起こすことはありません。
大人になってから初めてトラウマ的出来事に遭遇した人の場合、激しいPTSDを抱えるかもしれませんが、人格が複数に分裂するまでは至りません。
同じショッキングな体験をしたとしても、人格の複雑な内部分裂を起こすのは、幼少期から慢性的にストレスにさらされてきた人たちだけです。
解離性連続体のスペクトラムで考えるなら、大人になってからトラウマに遭遇した人はPTSDのあたりで止まるのに対し、子どものころから慢性的なトラウマにさらされてきた人たちだけが、その先のスイッチングやDIDへと進みます。
ですから、自分でもコントロールできないスイッチング、そして人格の分裂の原因は、大きくなってから経験した特定のトラウマ体験ではなく、もっと幼少期の体験、おそらくは本人も覚えていないような体験にある、とみるべきでしょう。
解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合に説明されているように、解離の人格の分裂とは、おもに生後2-3年間ごろに形成されるという、愛着(アタッチメント)による問題なのです。
解離性障害を「幼児期の(性的)トラウマ」によるものとしてみるのではなく、愛着の障害としてみることのメリットは大きい。(p17)
別の記事で詳しく論じましたが、重い解離を起こす人たちは、ほとんどの場合、幼少期に「無秩序型」と呼ばれる愛着パターンを身につけていることがわかっています。
ライオンズ=ルースの研究では、生後2年ほどの期間に無秩序型の愛着を抱えた子どもは、のちの人生で解離を起こしやすくなりました。
たとえ大人になってから解離性同一性障害を発症した場合でも、もともと無秩序型の愛着がベースにある場合に、PTSDではなく解離を発症する結果につながるようです。
なぜ、幼少期に無秩序型と呼ばれる愛着を身に着けると、のちの人生でスイッチングなど人格が複数に分かたれやすくなるのか。
上の記事でも説明しましたが、愛着というのは、つまるところ、親の養育態度に対する適応です。親の世話の仕方に合わせて学習される生理的な反応パターンなのです。
もし親が愛情深く世話をしてくれれば、赤ちゃんは親の愛情に応える「安定型」の反応パターンを身に着けます。しかし親がそっけないなら「回避型」、親がかまいすぎるなら「不安型」を身に着けます。
身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法に書かれているように、いずれの場合においても、赤ちゃんは、生き延びるための戦略としてこれらの愛着パターンを身に着けます、
どのような生理的な反応パターンをとれば、親の世話を引き出せるかを本能的に学習して、養育環境に適応していくのです。
愛着研究者は、「秩序型」に分類される三つの愛着戦略(安定型、回避型、不安型)が功を奏するのは、特定の養育者が提供できる最善の世話を引き出すからだと考えている。
一貫した世話のパターンに出合った赤ん坊は、それが情緒的に距離を置いたものであろうと、鈍感なものであろうと、養育者との関係を維持するよう適応できる。(p192)
ここまで見てきた三つのタイプ(安定型、回避型、不安型)は、いずれも「秩序型」に分類される愛着パターンです。どの場合も、親が示すある特定の秩序だった養育傾向に対して、最適化したパターンだからです。
愛情に満ちた親だけでなく、そっけない親も、かまいすぎる親も、秩序だった世話をしてくれる、という意味では同じです。いつも親の養育態度は一定なので、赤ちゃんの側も、ひとつの対応パターンさえ身に着ければいいからです。
ところが、子どもが「無秩序型」になるような家庭の場合はそうはいきません。子どもが無秩序型の愛情パターンを身につける条件、それは、親の養育態度があまりにも無秩序なことです。
たとえば、養育者が精神疾患を持っていて態度が豹変したり、養育者がひとりではなくころころと変わったり、たらい回しにされたりするような環境がそれに当たります。
そのような環境だと、親の養育態度には秩序がないので、赤ちゃんは、特定のひとつの戦略だけを身につけて適応する、ということができません。ではどうするのか。
親の世話の仕方があれこれと変化するのであれば、赤ちゃんの側も、ひとつではなく複数の態度を使い分けなければなりません。
といっても、当然、幼い子どもが意識して考えて人格モードを使い分けるということはありえないので、この使い分けは無意識の条件反射です。
講座 子ども虐待への新たなケア (学研のヒューマンケアブックス)の中で、杉山登志郎先生は、そのような子どもが身につける生存戦略についてこう説明します。
乳幼児期の発達過程において、安定した他者、一般的には父親や母親との間のアタッチメント形成をとおして自己イメージが形成される。
もし他者が七色に変化すれば、七色の自己が現れてくるわけである。まして、あるときは殴られ、あるときは抱きしめられるというような状態が続くとすれば、自己の核となるものは非常に不安定とならざるを得ない。
こうして生じるアタッチメント障害は、自律的な情動コントロール機能の脆弱さ、つまりレジリエンス(resilience)機能の不全として現れてくる。
その結果、容易に解離反応を生じ、スイッチング(人格交代)といった自我の分裂につながっていく。(p117)
秩序型の愛着パターン(安定型、回避型、不安型)が親の世話に対する適応だったように、無秩序型の愛着パターンもまた、親の世話に対する適応として身につける生存戦略です。
無秩序な親の世話に適応するには、自分もまた無秩序になるしかありません。親の世話が気まぐれに変化したり、複数の養育者をたらい回しにされたりするなら、子どももまた複数のモードを使い分けることによって対応するしかないのです。
七色の親に対応するために無意識のうちに形作られる七色の人格モード、条件反射によって無意識のうちに複数の親に対応できる生存戦略こそが、のちの人生において、制御できない人格のスイッチングに悩まされるようになる原因です。
以前の記事でまとめた過剰同調性は、このような無意識のスイッチングの典型例です。相手に合わせようと思っていなくても、その場その場で別人のような人格モードに切り替わってしまいます。
これは無意識の条件反射であって、決して精神異常や障害ではありません。もとはといえば、困難な幼少期を乗り越えるために身に着けた生存戦略だったのです。
図解臨床ガイド トラウマと解離症状の治療―EMDRを活用した新しい自我状態療法に書かれているように、スイッチングという現象は、まだ自分では判断できない子ども時代に、条件反射的に無秩序な世話に反応できるよう発達させた能力の名残りなのです。
混沌とした家庭で暮らしている子どもにとっては、ある自我状態から別の自我状態に切り替わる(スイッチする)こと、そしてスイッチしたあと、その前の状況をすっかり忘れてしまうことは、辛い現実を生きていく手立てになります。
そのようにして、異なる自我状態は異なる状況にうまく対応することを学ぶのです―たとえそれぞれがどれほど異なる状況であったとしても。(p41)
「表面的にノーマルな人格」(ANP)と「感情的人格」(EP)
図解臨床ガイド トラウマと解離症状の治療―EMDRを活用した新しい自我状態療法によると、スイッチングを起こす人に多いのは、「表面的でノーマルな人格」(ANP)と「感情的人格」(EP)に分裂することです。
子どもは世間的に好ましい顔として機能する“誤った自己”を作り出し、口では「大丈夫だよ」と言います。自己の内側に健忘というカーテンを下ろし、現実はその背後に押しやられ、意識の外に置かれます。
…Nijenjuis et al.(2004)の功績のひとつは“表面的にノーマルな人格部分(ANP)”という概念を打ち出したことです。
…Nijenjuis et al.(2004)はまた、適応的に解決されていないトラウマ体験を抱えている“感情的人格”(EP)についても述べています。(p39-40)
少し難しく感じるかもしれませんが、要点はシンプルです。スイッチングを起こす人たちは、ふだんは冷静で落ち着いているかに見えます。口では大丈夫と言います。これが「表面的にノーマルな人格部分」(ANP)です。
しかし、あくまでノーマルに“見える”だけであり、内側にはトラウマを抱えた感情的な人格モードがたくさんあり、コントロールできないままに切り替わってしまいます。これが「感情的な人格部分」(EP)です。
ANPは外界でふつうに暮らしノーマルに見えますが、“EP”は通常、未処理のトラウマ記憶に端を発する態度・感情・身体感覚・認識を備えた“子どものパーツ”です
心に重荷を抱えたEPのことを、苦痛の容器という意味を込めて、私は“コンテナ・キッズ”と呼んでいます。(p40)
表面的にノーマルな人格(ANP)は、冷静で理知的に振る舞える大人の人格モードで、日常生活の人間関係に対処するための表向きの顔として用いられます。
見かけ上、正常であるかのように振る舞い、なんとかして周囲に馴染んでいますが、あくまで「表面的にノーマル」なだけにすぎません。ごく普通の日常生活や会話でも消耗してしまい、芯からの喜びや幸せは感じられません。
感情的人格(EP)は、理性的なANPとは対照的に、衝動的に自分のしたいように振る舞ってしまう子どものような人格です。コンテナのように未解決のトラウマを封じ込めていて、激しい情動や苦痛を抱えています。
トラウマのスイッチングを抱える人は、ふだんは見かけ上ノーマルに見せかけることに成功しているかもしれませんが、膨大なエネルギーが必要なので、容易に疲れ果ててしまい、自己コントロールが効かなくなります。
職場から帰宅したり、休日になったりすると、意志力が途切れ、表面的にノーマルな人格(ANP)を保てなくなり、感情的人格(EP)が無意識のままにフラッシュバックしてしまいます。
そうすると、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法に書かれているように、人前では「まとも」な人なのに、家庭では「異常」な振る舞いをみせてしまうかもしれません。
このシステムを常に制御しておくためには、厖大なエネルギーがいる。
気を惹くような誘い言葉をたったひと言かけられただけで、一度にいくつもの部分が刺激されるからだ。
ある部分はひどく性欲を掻き立てられ、別のある部分は自己嫌悪でいっぱいになり、またある部分はカッティング(自分の体を切る行為)によって事態を収拾しようとする。
…私がこれまで診た患者のうちには、卓越した技能を持つ教師や看護師が数多くいた。
そうした患者の同僚たちは、彼らを少しよそよそしい人、あるいは控えめな人だと感じていたかもしれないが、自分たちの模範的な同僚が自傷行為を行なったり、摂食障害を抱えていたり、異様な性行為を行なったりしていると知ったら、おそらく仰天しただろう。(p474-475)
たとえ普段は「表面的にノーマルな人格」として模範的に振る舞えたとしても、少しでも緊張を途切れさせると、トラウマと紐付けられた「感情的人格」にスイッチングしてしまい、自分をもはやコントロールできなくなります。
会社では尊敬されている立派な人が、家庭ではすぐカッとなって妻子に暴力を振るうDV夫だったり、ふだんは真面目な聖職者が裏では性的虐待に関与していたりするのは、この一例でしょう。
こうした行為をやめられない人の中には、悪意を持ってやっているというより、やめたいと思っているのに理由もわからず行為に及んでしまい、なぜ克服できないのかわからない人もいることでしょう。
自分ではどうしても制御できない依存症や悪癖は、意志の弱さや自己管理能力の不足だと思われがちですが、実際には、幼少期からのトラウマに基づく、人格モードの強制的なスイッチングによる場合があります。
先に出てきたベトナム戦争の帰還兵のように、本人さえも気づいていない何かしらの刺激がトリガーとなって、過去のトラウマのときの人格がまるごとフラッシュバックしてしまい、理性を欠いた行為に及んでしまうということです。
こうした人たちに必要なのは、制御できない感情的人格、すなわち「コンテナ・キッズ」の中に封じ込められている未解決のトラウマと向き合い、もはや膨大なエネルギーを費やして見かけ上ノーマルに振る舞わなくてもよいように人格を統合することです。
依存症や自傷行為―冷蔵庫や電子レンジみたいなもの
普通の人たちは、自分でドライヤーのスイッチを切り替えるように、人格モードを自由に切り替えてコントロールできます。しかし、トラウマを抱えた人たちは、条件反射によって勝手にスイッチングしてしまい、うまく制御できませんでした。
これは、言い換えると、普通の人たちは、内側から自由に人格モードを切り替えることができるのに対し、トラウマを抱えた人たちは外部からの刺激によってしか人格モードを切り替えられない、とみなすことができます。
トラウマを抱えた人がひときわ苦労するのは、過覚醒や低覚醒になったときにどう対処するか、ということです。
ドライヤーのたとえで、強い温風、弱い温風、冷風の三段階のモードを考えましたが、人間の場合は、過覚醒、リラックス、低覚醒の三つのモードがあると考えてください。
これは、神経科学的な根拠のある分け方であり、図解臨床ガイド トラウマと解離症状の治療―EMDRを活用した新しい自我状態療法にはこう説明されています。
Porges(1995)の提唱したポリヴェーガル理論は、3つの神経系統がトラウマ治療にどのように関与するのかを説明するものです。
すなわち(1)交感神経の過覚醒―フラッディング、(2)腹側迷走神経の活性化―社会的関わりの促進、(3)背側迷走神経の刺激―解離の発症、です。
もっとも好ましいのが中度のレベルだというこの理論の重要な点を覚えておくのに便利なのは、Porgesの“おかゆ理論”です。
熱すぎる、冷たすぎる、ちょうどいい、という3種類のおかゆを想像してみてください。(p196)
(※おそらく「3びきのくま」に登場する熱すぎも冷たすぎもしないおかゆを食べる少女ゴルディロックスに暗に言及している比喩と思われる。ちょうどいい範囲を意味する「ゴルディロックス・ゾーン」という単語で有名)
人間には「おかゆ理論」の三つのモードが存在します。過覚醒が「熱すぎるおかゆ」、リラックスが「ちょうどいいおかゆ」、低覚醒(解離)が「冷たすぎるおかゆ」です。
幼少期に安定型の愛着を身に着けた人たちは、だれに言われるまでもなく、自分で自分の覚醒レベル、つまり“おかゆ”の温度をうまくコントロールできます。興奮してもクールダウンでき、ぼーっとしても意識を引き戻して集中しなおすことができます。
また、不安型の愛着を身につけた人たちは、いつも過覚醒ぎみで“熱すぎるおかゆ”寄りです。回避型の愛着を身につけた人たちは逆にいつも低覚醒ぎみの“冷たすぎるおかゆ”寄りになります。
これらはいずれも「秩序型」の愛着パターンでしたから、過覚醒寄りか低覚醒寄りの違いはあるとはいえ、それなりに安定はしています。
それに対して、「無秩序型」の場合はそうはいきません。トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際に書かれているように、過覚醒モードと低覚醒モードを無秩序に揺れ動き、しかも自分でそれを切り替えることができません。
トラウマ関連の疾患をもつ人は典型的に覚醒亢進(過剰な活性化の経験)や覚醒低下(少なすぎる活性化の体験)になりやすく、しばしば、両極端に揺れ動きます。
トラウマを再想起させる刺激で、両方の傾向が自動的に引き起こされ、クライエントは調整不全な覚醒状態のなすがままになります。(p35)
ひとたび過剰に興奮した“熱すぎるおかゆ”モードに切り替わってしまうと、あらゆる刺激に過敏になってしまい、リラックスできなくなります。
トラウマ当事者の多くが入眠障害に悩まされるのは、自分でスイッチを切り替えられず、おかゆを冷ますことができないからです。
他方、低覚醒の解離という“冷たすぎるおかゆ”モードになったときも、そこから抜け出すのは容易ではありません。
何も手につかず、生きているのか死んでいるのかわからない慢性疲労や引きこもり状態に陥る人もいるでしょう。
ずっと低覚醒のまま、あるいはずっと過覚醒のままではなく、何かのきっかけで自動的に違う覚醒レベルにスイッチしてしまうので、普段は無気力で動けないのに、場面によってはやたら活動的になったりします。
そのせいで、スイッチングを起こしている人は、家族や医者からは仮病を疑われることが多いでしょう。例えば、学校や職場に行こうとするととたんに調子が悪くなる不登校の子どもや新型うつ病の人がそうです。
しかしそうした不可思議な振る舞いは状況依存的なスイッチングだと理解すれば、何の矛盾もありません。低覚醒モードになっているときも、過覚醒モードになっているときも、自分でモードを切り替えられないことが問題なのです。
過覚醒の過敏なモードにしても低覚醒の無活動なモードにしても、勝手に状況依存的にスイッチングしてしまい、自分の意思とは無関係に振り回されてしまうのは、ひどく不快なものです。
過覚醒のときの自分は、我を忘れてパニックになるかもしれません。低覚醒のときの自分は頭が働かず麻痺しているかもしれません。覚醒レベルが異なると、人は別人のように振る舞います。(例えば寝ぼけているときの自分を想像してみてください)
ですから、ここまで考えてきた人格モードのスイッチングは、自分で制御できない覚醒レベルのスイッチングでもあるのです。
コントロールできないスイッチングに振り回されている人たちは、自分の意思で内側からモードを切り替えることができない代わりに、やがて無意識のうちに、外部の刺激を用いて、覚醒レベルを強制的に切り替えることを覚えます。
外部から強制的にスイッチを切り替える手段、それは、依存症や自傷行為です。身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法にはこう説明されています。
興奮しすぎたり、機能停止に陥ったりすると、注意力や集中力を維持できなくなる。
彼らは緊張を解くために、自慰や、身体を揺り動かすこと(ロッキング)、自傷行為(自分の体に噛みついたり、切り傷や火傷を負わせたり、自分を叩いたり、髪を引き抜いたり、血が出るまで皮膚を引っ掻いたり剥がしたりすること)に慢性的に耽る。(p264)
自慰、リストカット、抜毛、過食や拒食といった摂食障害、たばこ、アルコール、ゲーム中毒などはいずれも、無意識のうちに過覚醒や低覚醒の苦痛から逃れるための手段として利用されています。
別の記事で詳しく説明したように、依存症や自傷行為の多くは、過覚醒になったときに無理やり意識を飛ばして緊張を緩めたり、逆にぼーっとしているときに無理やり目を覚まさせたりするために行なわれています。
いわば、依存症や自傷行為は、冷蔵庫や電子レンジのようなものです。自分でモード切り替えができない人が、熱すぎるおかゆの過覚醒や、冷たすぎるおかゆの低覚醒を無理やり冷やしたり温めたりするための手段なのです。
彼らは肥満になったかと思うと拒食したり、あるいは運動や仕事に過度に熱中したりすることもある。
トラウマを負った人の少なくとも半数は、自分の内面世界の耐え難さを薬物やアルコールで紛らわせようとする。
麻痺させることと表裏一体になっているのは、刺激を追い求めることだ。
自分の体を切ることによって麻痺した感覚を追いやろうとする人も多いし、バンジージャンプをしてみたり、売春やギャンブルのような危険な行動を試したりする人もいる。(p438-439)
自分を傷つけて痛みをもたらす自傷行為や、中毒的な快感をもたらす依存症は、いずれも、外部から強い刺激を与える行為、ということで共通しています。
すでに見たとおり、トラウマを抱え、スイッチングを起こしてしまう人たちは、外部の養育環境に合わせて、「状況依存的」にモードを切り替える生存戦略を幼いころに身につけていました。
これはつまり、パブロフの犬と同様の現象でした。ベルの音や飼育員の足音を聞くたびに起こった条件反射のように、うまく外部の刺激と紐付けられれば、スイッチングを意図的にコントロールできるはずです。
依存症や自傷行為は、こうした無意識の自己コントロール手段として機能しています。たとえば、いつも過覚醒の“熱すぎるおかゆ”状態になって寝つけない人は、アルコールという手段で外部からスイッチを切り替えることを覚えるかもしれません。
作家ウィリアム・スタイロンは、 幼少期のトラウマ体験からうつ病を発症した経験を記した闘病記見える暗闇―狂気についての回想の中で、長年ずっとアルコールによって感情的苦痛を紛らわせていたと述べています。(p68)
この記事で書いてきた概念に当てはめれば、彼は、制御できない不安感に襲われたとき、アルコールによって外部から刺激を与え、強制的にスイッチを切り替えて安定性を保とうとしていたことになります。
しかし、やがて肝臓を壊してしまい、酒を飲めなくなったことで、自分でもどうしようもないうつ状態に呑まれてしまいました。アルコールという手段を失った彼には、もう感情的人格にスイッチングするのを食い止める方法は残されていなかったのです。
わたしたちの社会では、依存症や中毒に陥る人たちは意志力が弱い愚かな人たちだと見下されがちですが、トラウマを負った人にとって、依存症や自傷行為は電子レンジや冷蔵庫のような役割を果たしている、という視点はとても大切です。
身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法に書かれているように、子ども時代のトラウマの影響を研究したACE研究グループは、依存症や自傷行為は、ときに問題に対する解決策として機能していることに気づきました。
ACE研究グループは、こう結論した。
「[喫煙、飲酒、薬物摂取、肥満といった]適応のそれぞれは、健康に有害であると広く理解されているものの、やめるのがはなはだ難しい。
だが、長期的な健康への危険の多くが、短期的には個人的に有益であるかもしれないことは、ほとんど考慮されていない。
私たちは患者から、これらの『健康への危険』の恩恵を、繰り返し聞かされる。
問題が解決策になっているというと、多くの人が不審に感じるのはもっともだが、生物学的システムの中には相反する力が頻繁に共存するという事実と、間違いなく一致している
……人が目にするもの、目に見える主症状は、本来の問題の目印にすぎないことが多い」。(p247)
表面的な症状しか見ない医師や心理士は、依存症や自傷行為をすぐにでもやめさせようとするかもしれません。
しかし、本当はそれらは「本来の問題の目印にすぎ」ず、水面下に隠れている巨大な問題に対処するために無意識のうちに身に着けた、冷蔵庫や電子レンジのような便利な手段だとしたらどうでしょうか。
現代社会の都市で生活する人たちから、何の代替手段も与えず、無理やり冷蔵庫や電子レンジを取り上げたら、ひどく生活に困るはずです。
同様に、日々トラウマの破壊的な影響と格闘している人から、自傷行為や依存症だけを取り上げたら、うつ病に転がり落ちた作家ウィリアム・スタイロンと同様の悲劇が起こるでしょう。
それらの自傷行為や依存症は、自分ではコントロールできないスイッチングに無理やり対処して、なんとか生活を機能させるための手段として使われてきたものでした。褒められたものではないにしても、必要なものだったのです。
その手段だけを取り去ってしまうということは、かりそめにも ぎりぎりのところで自分をコントロールしていた方法を奪うということであり、制御できない過覚醒や低覚醒に振り回される生活に逆戻りするだけでしょう。
その意味するところを考えてほしい。誰かの問題解決策を、解消すべき問題であると誤解したら、依存症の治療プログラムにありがちなことだが、治療が失敗する可能性が高いばかりではなく、他の問題も起こりかねない。(p246)
依存症や自傷行為という、目につきやすい問題だけ槍玉に挙げるのではなく、その裏側にあるスイッチングに問題に目を留め、そうした行為に頼らなくても、自分をコントロールできる方法を身につけられるよう助けなければ意味がないのです。
▼管理者、追放者、消防士というスイッチング
今回の記事は、おもに解離の治療法のひとつである自我状態療法の知識をベースに書いていますが、以前の記事で詳しく扱ったように、自我状態療法と類似した治療法として、内的家族システム療法(IFS)というものがあります。
身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法によれば、IFSでは、いま扱ったような依存症や自傷行為のときのスイッチングを、「管理者」(manager)「追放者」(exile)「消防士」(firefighter)という3つの人格モードによって説明しています。
「管理者」は、普段の生活を取り仕切っている冷静で批判的な人格で、表面的にノーマルな人格(ANP)にあたります。
「追放者」は、トラウマ記憶をひとりで抱え込まされている感情的人格(EP)で、コンテナ・キッズに相当します。
そして「消防士」は、「追放者」にスイッチングしそうになると、なんとしてでも火消しをしようとして現れ、なりふり構わぬ行動に出る衝動的な人格部分です。
トラウマを負った人は、ふだんは「管理者」が生活を取り仕切り、見かけ上“まとも”に振る舞っていますが、疲れたり動揺したりすると、過去の記憶を封じ込めた「追放者」にスイッチングしそうになり、急速に不安定になります。
そのとき、トラウマに呑まれるのを防ぐため、「消防士」に衝動的にスイッチングして、どんな手段を使ってでも無理やり「追放者」を封じ込めて、火消しをしようとします。その方法が、依存症や自傷行為、中毒、さらには倒錯行為です。
ですから、IFSの考え方に基づけば、単純な依存症や自傷行為に思えても、そこには少なくとも3つの異なる生理的状態による、めまぐるしいスイッチングが起こっている、ということになります。
脳科学からスイッチングを分析する
ここまでのところでは、具体的な行動傾向に着目して、スイッチングとは何かを説明してきましたが、このとき、脳の中ではどんな不具合が起こっているのでしょうか。
脳科学の分野はまだ十分にわかっていないことが多く、現時点で確かなことは言えませんが、スイッチングに関係していると思われる部分が幾つかあります。
左右の脳が別々に働きやすい?
まず、スイッチングのような人格モードが複数に分裂する現象は、幼少期に無秩序型の愛着パターンを身につけた人たちに特有のものでした、
子ども虐待という第四の発達障害 (学研のヒューマンケアブックス)によると、人格が複数化してしまうことには、脳の左右をつなぐ脳梁という部位の発達不良が関係しているようです。
ド・ベリスらの研究では、脳梁体部から脳梁膨大部にかけての脳梁4~7の体積が、被虐待児では健常な対照群に比べて小さかったのである。
さらに脳梁の体積と子どもの解離症状とは負の相関を示していた。つまり脳梁の体積が小さいほど、強い解離症状が認められたのである。
脳梁という右脳と左脳をつなぐ橋の体積が小さければ、右脳と左脳の共同作業が滞り、別々に働く傾向が強くなると予想される。
従って、そのような脳の状態において、解離症状が強くなることは当然考えられることである。(p104-105)
虐待された子どもは無秩序型の愛着パターンを抱えていることが多いですが、そうした子どもたちの場合、脳の左右をつなぐ脳梁の体積の小ささが認められ、左右の脳が別々に働く解離傾向が生じるのではないか、とされています。
プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちに書かれているように、本来人間は複数の人格を抱えているのに、左右の脳をつなぐ脳梁のおかげで統合され、見かけ上一人だと錯覚されています。
脳梁のおかげで私たちは自分が単一の存在だと信じているが、じつはすべての私は複数である。
両断脳の患者は、私たちの内部にはさまざまな精神があることの生きた証拠である。
脳梁が切断されると、たちまち複数の自己が解放される。脳は内的矛盾を抑圧するのをやめる。
左半球で本を読んでいた患者は、自分の右半球が、読み書きができないために本の文字にひどく退屈していることに気づいた。
別の患者は、左手で服を着たのに、右手がさっさと服を脱がせた。
さらに別の患者の左手は妻に対して粗暴だった。妻を愛していたのは彼の右手(および左脳)だけだったのだ。(p264)
以前にまとめたとおり、神経科学者マイケル・S・ガザニガの分離脳研究によれば、わたしたちは統合された一人の人格ではなく、内なる家族のような集合体であり、もし脳梁が機能しなければ複数の自分が立ちどころに現れるのです。
さらに、別の記事で詳しく考えましたが、近年の脳科学によると、トラウマ記憶はおもに右脳に保存されていることがわかっています。
身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中でヴァン・デア・コークはこう書いています。
これらの画像からは、フラッシュバックの間、研究の参加者たちの脳は、右側だけしか活性化しなかったこともわかった。
今日、右脳と左脳の違いについては、厖大な数の科学的な文献がある。だが90年代初期には、私は一部の人が世の中を左脳人間(理性的で論理的な人々)と右脳人間(直感的で芸術的な人々)に分け始めていることを耳にしたものの、この考え方にはろくに注意を払わなかった。
ところが、私たちのスキャン画像は、過去のトラウマが脳の右半球を活性化させ、左半球を不活発にさせることをはっきり示していた。(p82)
トラウマのフラッシュバックが起こっているとき、脳の左右はうまく連携できていません。トラウマ記憶を保存している右半球だけが勝手に活性化し、左半球はそれをコントロールできなくなります。
前述のように人格モードの切り替えは、人格まるごとフラッシュバックする現象だとみなせました。ということは、制御できないスイッチングは、フラッシュバックと同様、脳の左右のつながりの弱さと関連していることは十分にありうるでしょう。
別の記事で取り上げた研究によれば、意識的な自己は脳の左半球に宿っていて、脳の右半球はほぼ無意識だともされていました。右半球は、いわば「内なる他人」だと言われています。
ふつうの人たちは、脳の左右のつながりが強いために、左半球の意識的な自己によって右半球の無意識の自己をコントロールでき、「内なる他人」を意識することなく、自分はひとつの人格だと認知できます。
それに対し、幼少期のトラウマのせいで脳梁が発達不良を起こした人たちは、左半球の意識的な自己によって、右半球の無意識の「内なる他人」をコントロールする能力が弱いため、自分は複数だと感じられるのかもしれません。
幼少期にトラウマを負った人の場合、なぜ脳梁が発達不良を起こすのかは不明ですが、ひとつはっきりしているのは、無秩序型の生存戦略が障害ではなく適応であったように、脳梁の発達不良も起こるべくして起こった適応だということでしょう。
スイッチングを起こす人は、無意識のうちに複数の人格モードを使い分けることが必要とされる状況で育ったために、あえて脳梁が発達しなかったのかもしれません。
あるいは、右半球に保存されたトラウマに圧倒されないよう、接続をしぼる方向で発達したのかもしれません。
この記事で考えたことに当てはめるなら、左半球は「表面的にノーマルな人格」(ANP)の座であり、右半球は「感情的人格」(EP)の座だということになります。
右脳の感情的人格は、「コンテナ・キッズ」と呼ばれていたように、トラウマ的記憶を封じ込める役割を果たしていますが、重篤なトラウマにさらされた人の場合、脳のなかで役割分担しなければやっていけなくなります。
図解臨床ガイド トラウマと解離症状の治療―EMDRを活用した新しい自我状態療法に書かれている次の例のように、けろりとして何事もなかったかのように日常に対応しながら、耐えがたいトラウマの記憶の墓守りをしなければならなくなります。
前ページのイラストに描かれたルースの場合、家族と朝食をとったり学校で勉強したりするとき、前夜に父親が彼女の部屋に入ってきて性的虐待をしたことをまったく覚えていない。
逆に、夜間父親から性関係を強要されているとき、ルースは日曜の教会で父の隣に座っている自分のことを覚えていないのかもしれない。彼女にとっては、思い出さないことが辛い現実を生きていく最善の方法なのだ。(p42)
ルースの自己同一性(アイデンティティ)と時間の連続性は犠牲になるが、「そんなことは私に起きていない」という幻想を信じ込むことで、彼女はなんとか苛酷な現実を生き抜いてきたのだった。(p40)
耐えがたいトラウマにさらされながらも最低限の日常を送っていけるようにするには、左右脳をつなぐ脳梁をあえて成長させないことによって、自己同一性を犠牲にしてでも、右と左で役割分担するしかない、ということなのかもしれません。
まだ未熟なバイリンガル話者と同じ?
もうひとつ興味深いのは、言語のバイリンガル能力と、人格のスイッチングの類似性です。
岡野憲一郎先生は、続解離性障害の中で、DIDの人格交代と、言語のバイリンガル能力の類似性に着目し、脳の尾状核の機能が関係しているのではないかと述べていました。
このバイリンガリズムの例は、DIDの際の人格交代のアナロジーとしても有用である。
なぜなら異なる人格は、幼児語や大人のしゃべり方、独特のアクセントなどを個別に備え、また時には別の言語で話し、通常はその混同が見られないからである。
そこで人格間の統御と、バイリンガリズムにおける言語のコントロールについては同様の脳の部位が関与している可能性が示唆されるのである。
ちなみに最近のバイリンガリズムの研究によれば、異なる言語はしばしば言語野の同じ部位が重複して用いられ、それらの使い分けや移行には優位(左)半球の尾状核の頭部が深く関与しているとされる。(p144)
詳しくは以前の別の記事で書きましたが、わたしたちが地元の方言や他の国の言語を話すときの思考パターンの変化は、解離性同一性障害の場合とよく似ています。
ペネベーカーの実験にあったように、トラウマを抱えた人は、場面によって無意識に言葉遣いやトーンが変化します。解離性同一性障害の人の中には、人格が変わると話す言語まで一緒にスイッチングしてしまう人もいます。
バイリンガルの話者もやはり、その場の雰囲気を無意識のうちに読み取って、話し言葉も思考パターンも変えられる人が多いでしょう。
方言を話す人もまた、都会に出てきたらおのずと標準語になるのに、同郷の人と会ったり、故郷に帰って家族や友人と会ったりすると、とっさに方言に切り替わるかもしれません。
こうした切り替え能力には脳の尾状核が関係していると書かれていましたが、興味深いのは、上の記事で書いたとおり、この尾状核の機能不全が、強迫性障害とも関係していることがわかっていることです。
強迫性障害は、ひとつの物事に固執して身動きがとれなくなる病気ですが、このとき尾状核のモード切り替え機能がロックされているそうです。
強迫性障害はしばしばアスペルガー症候群(自閉スペクトラム症)人にも見られます。アスペルガー症候群の人は場面に応じてモード切り替えするのが苦手なので、だれに対しても同じ態度で接してしまったり、目上の人にもタメ口で話してしまったりします。
別の記事で引用したように、専門家の中には、女性に多い解離性同一性障害と、男性に多い自閉スペクトラム症(アスペルガー症候群)は、ある部分では正反対の傾向を持っていると考えている人もいます。
モード切り替えという点で考えると、解離性同一性障害の人は空気を読みすぎて人格モードがめくるめく切り替わるのに対し、アスペルガー症候群の人は空気を読まなさすぎて人格モードが固定されている、とみなせるかもしれません。
とはいえ、まったく正反対というわけでもなく、どちらの場合も自分の意思で内側から人格モードを切り替えられなくなってしまっているという点では同じです。そのため、トラウマ患者に見られる依存症や自傷行為は、自閉症でもみられます。
こうした点からするに、スイッチングの問題には、何かしら尾状核などのバイリンガルのシステムが関わっている可能性が高そうです。
さらに、言語のバイリンガルの習得は、おそらく、前述の左脳と右脳の問題とも関わっています。岡野先生が書いていたように、スイッチングをコントロールしているのは「優位(左)半球の尾状核」でした。
先日の記事で書いたように、言語を含め、体で覚えることが必要なあらゆる技能は、まだ未熟なうちは右脳で処理されているのに対し、しっかり習得されて自分のものにできると、左脳の管理下に移るようです。
まだ学んでいる途中の言語がはじめは右脳によって処理されていることと、うまく制御できないトラウマ記憶が右脳に保存されていることには類似性があります。
そして、トラウマ記憶をうまく治療できた場合も、言語をしっかり習得して自分のものにできた場合も、左右脳がしっかり連携し、バランスとしては左脳が優位になることも共通しています。
おそらく、治療を通してスイッチングをうまくコントロールできるようになっていく過程は、外国語を学んで自在に話せるようになる過程と似ているのではないか、と思います。
コントロールできれば創造性になる?
こうした脳の変化は、ここまで考えてきたとおり、逆境に対する適応として起こっていると思われるので、一概に脳の病気や障害であるとは言えません。
以下の記事でも書きましたが、左右の脳をつなぐ脳梁が小さい人は創造性が高いという研究もあります。
左右の脳の接続が弱いというのは、右脳の無意識の自己を縛らずに自由に泳がせている、ということでもあるので、ふつうの人たちが気づかないようなアイデアを拾いやすくなるのかもしれません。
名を馳せた芸術家の中には、シェイクスピアのように、一人の人とは思えないほど多面的なで複雑な自己を持っていた人が多くいました。
自己意識や人格についての研究で名を馳せる神経科学者アントニオ・ダマシオは意識と自己の中で、シェイクスピアの創造性の源は、多元的な内なる自己の感覚を、一つの調和のとれた自己のもとで、うまく使いこなしていたことだったと述べています。
シェークスピアのような天賦の才の持ち主なら、自己の内的な闘いを使って西洋の戯曲の登場人物を創造することもできるだろうし、フェルナンド・ペソアの場合なら、同じペンで四人の傑出した詩人を創造することもできるだろう。
しかし最終的には、ストラドフォードへ静かに引きこもるのは同じシェークスピアであり、飲み過ぎてリスボンの病院で忘れられるのは同じペソアである。(p297)
たくさんの人格モードに振り回されてしまうスイッチングも、言語の習得過程と似たようなものであるとすれば、一概に病的なものだとは言えないでしょう。
多言語をしっかり習得し、コントロールできるようになったプロのバイリンガル話者が創造的な才能を発揮できるように、たくさんの人格モードをうまく制御できるようになれば、創造的に活躍できる可能性があります。
解離性障害の専門家の柴山雅俊先生は、解離の当事者の中には演劇の才能をもっている人が多い、と述べていますが、それも多様な人格モードを抱え持っているからこそでしょう。
役者にとっては舞台に立ったら条件反射で人格が変わるのは必須の才能です。自分で制御できないままにスイッチングしてしまうのは生活に支障を来たしますが、ある程度自分の意思で使いこなせるようになれば、才能になりえます。
解離傾向の強い人は、文章を書く才能があることが多いとも言われます。小説を書くような場合、多彩な人物の生い立ちや人となりを想像しなければならないので、幼少期に空想の友だちという形の別人格を有していた人に向いているようです。
さらに、並外れた成功を収めるほどに仕事や芸術的活動、そのほかの趣味に一心に打ち込むためには、ある種の強迫的な熱心さが必要です。
わたしたちはゲームであれ趣味であれ、何かに没頭して我を忘れているときは、「フロー」という、よどみない集中状態にあると言われています。これは外部の刺激に完全に集中し、悩みや不安、痛みなどをまったく気に留めなくなった状態です。
トラウマを抱える人にとって中毒や依存症は、問題に対する解決策として機能していますが、芸術などの分野で成功する人のなかには、仕事に一心不乱に打ち込むことで、トラウマの影響を封じ込めている人もいることでしょう。
仕事依存や飽くなき反復練習も一種の中毒や依存症に近いものですが、それが生産的な活動につながっている場合は、ときに才能にもなりうる、ということです。
どうやってモード切り替えをコントロールするか
では、複雑な生いたちによって、人格が分裂して、予期せぬスイッチングに振り回されるようになってしまった人の場合、人格モードの切り替えをコントロールするにはどうすればいいのでしょうか。
まず、依存症や自傷行為に頼って強制的にスイッチを切り替えてきた人の場合、自分の問題は依存症や自傷行為そのものではなく、モード切り替えの弱さのほうなのだ、ということを意識する必要があるでしょう。
ただ依存症や自傷行為をやめようとするだけだと、過覚醒や低覚醒から抜け出せなくなってしまい、元のもくあみです。
しかし、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際に書かれているように、自分を安定させる別の方法を学んで置き換えることはできます。
感覚への気づきと新しい身体的動きへの学びを通して、覚醒状態の調整と反射的で自己破壊的な行動のコントロールを育成します。
激怒して子どもを叩いてしまったと、あるクライエントが動揺してセラピーにやってきました。そして、攻撃の前に先立つ身体感覚を見きわめることを学びました。
その感覚がおきたら、呼吸してセンタリングし、散歩することを練習しました。
緊張や寒気、重さ、しびれやぞれぞれするなどの身体内部の感覚をキャッチし、どのように見きわめるかを学び、クライエントはトラウマ的な覚醒状態の前兆を認識し、代替的な対処戦略を計画できるようになります。(p304)
ここに出てくる人の場合、衝動的にスイッチングして切れる傾向を持っていましたが、自分をよく観察して、スイッチングしそうになる前兆に気づき、「代替的な対処戦略」を用意して自分をコントロールできるようになりました。
無性にたばこやアルコール、自傷行為などをやりたくなったときも、いま自分は過覚醒や低覚醒の状態にあり、この不快感をなんとかしたいせいで依存症や中毒に陷っているのだ、ということに気づければ、もっと健全な代替手段を用意できるかもしれません。
ドーパミン系の不調が関係?
自分で内側からスイッチを切り替えられず、自力でのモード切り替えが難しい、けれども外部からの刺激には条件反射によって反応してしまう、という問題は、トラウマを負った人だけでなくパーキンソン病やADHD、トゥレット症候群などでも起こります。
これらはいずれもドーパミン系の不調と関係しているので、モード切り替えの困難には何かしらのドーパミン調節異常、そして生物学的な迷走神経の凍りつきが関わっているのかもしれません。
近年パーキンソン病のメカニズムには胃腸と脳幹をつなぐ迷走神経の障害が関係していることがわかってきており、これは原因こそ違えど解離の凍りつきのメカニズムと類似しています。
また、モード切り替えに関連している前述の尾状核は、どうもドーパミン系によって制御されており、ADHDとパーキンソン病双方に関連しているらしいという研究が最近ありました。(トラウマ障害の人はADHD類似の衝動性や不注意症状をみせる)
不適切な行動を抑制する脳のメカニズムを発見 ~ドーパミン神経系による行動抑制~
以上の結果から、黒質緻密部のドーパミン神経細胞から線条体尾状核に対して、不適切な行動を抑制するための神経シグナルが伝達されていることが示唆されました(図3)。
今回の発見は、注意欠陥多動性障害やパーキンソン病などで見られる不適切な行動を抑制できない症状の治療ターゲットとして、黒質‐線条体ドーパミン神経路が有力な候
補であることを示しています。
レナードの朝 〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)に書かれているように、パーキンソン病やパーキンソン症候群の特徴は、「凍りつき」「麻痺」であり、自分から能動的に動作を開始できなくなることです。(p150)
たとえば、自分からはうまく歩行できないパーキンソン病の人の場合、リズミカルな音楽を聞きながらだと歩けたり、平地ではなく階段だと昇降できたり、白線のような視覚的刺激があると歩きやすくなったりします。(p149)
ふだん自分から自由に動き出せなくても、ボールを投げられるととっさにうまく条件反射で受け止めることができたりします。
脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線には、次のような話が書かれています。
神経学者のオリバー・サックスが指摘するように、患者が凍りついて棒立ちしているように見えても、誰かが刺激を与えれば、いとも簡単にその患者に新たな動作を開始させることができる。
サックスは、パーキンソン病に罹患したサッカー選手のよく知られた症例を報告している。このサッカー選手は、普段は一日中すわったままじっとしていたが、ボールを投げられると、手でキャッチして立ち上がり、走りながらドリブルした。
ときには音楽のリズムによって、凍りついたパーキンソン病患者に動作を開始させることもできる。
サックスの指摘によれば、パーキンソン病患者は話しかけられない限りおし黙り、動かされなければ動かない(動かされればうまく反応する)ように見える。(p187)
サックスによれば、「パーキンソン病のあらゆる症状の核心的な問題は受動性」です。「凍りつき」状態にあるために、自分から能動的にスイッチを切り替えることは難しいのに、外から刺激を与えられたら受動的に反応することはできるのです。
ADHDや、それに併発しやすいトゥレット症候群などのチック症状を抱える人も、自分で自分の行動をコントロールするのは難しい反面、外部からの刺激に対しては条件反射的に反応しやすいという特徴があります。
興味深いことに、火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)によると、トゥレット症候群の人たちは、外的刺激によってスイッチングしたとき、別人格になり変わったかのように感じるようです。
ペネット博士の手術は、リズム、メロディ、「流れ」、それに行動や役割、別人格を演じること、アイデンティティといったトゥレット症候群にともなうあらゆる問題を浮き彫りにしている。
…わたしはトゥレット症候群の俳優に同じ変化を見たことがある。その性格俳優は舞台以外では激しいトゥレット症候群を示すのだが、演技中は完全に役になりきり、トゥレット症候群は消えてしまう。
ここでは単なるリズムや自動的に運動パターンの共振というよりももっと高度なレベルのなにかが働いている。
このときには(今後、心理的あるいは神経的レベルで明らかにされるべきものだが)、変身あるいは別人格化が起こり、そのパフォーマンスが続くかぎり、他者の技能や感情、神経レベルでの記憶痕跡が脳を占拠して、人格も神経システム全体も組み替えてしまう。
このようなある役割、ある人格から他の人格へのアイデンティティの変化、人格の組み替えは、毎日の暮らしのなかで誰にでも起こり、親から職業人へ、政治家へ、エロティックな人間へ、その他のさまざまな役割へと変身している。
だが、神経的、心理的な症候群のあるひとの場合、それにプロの演技者や俳優の場合、この変化がとくに劇的なのである。(p154)
手術刀を握ったり、舞台に立ったり、さらには楽器を手に持ったりしたトゥレット症候群の人たちが、ふだんのチックがまったく消失して、あたかも別人格のように振る舞うのは、この記事で考えてきたスイッチングとよく似ています。
トゥレット症候群の人もまた、自分ではモードを切り替えることができないのに、外部からの刺激があれば、状況依存的に劇的なスイッチングを見せます。
トゥレット症候群に併発しやすいADHDと、トラウマ当事者の愛着障害とが脳科学的に酷似していることからしても、原因は違えど両者にはメカニズムの部分に共通性がありそうです。
これらの疾患に何かしら共通していると思われるドーパミンは、意欲に関わる神経伝達物質ですが、活動を切り替えて新しい動作を始めることに関係しています。
ドーパミンを適切なときにうまく利用できないと、外部からの刺激による受動的なスイッチングは保たれるのに、自分の意思で内部から能動的にモードを切り替えることに困難が生じるのかもしれません。
凍りついたモード切り替えスイッチを解凍する
パーキンソン病の人は、ドーパミンを増加させるLドーパという薬を使うと、自分から動き出せるようになり、生気を取り戻します。色のない島へ: 脳神経科医のミクロネシア探訪記 (ハヤカワ文庫 NF 426)にはこんな事例が書かれています。
「二時よ、薬の時間ですよ」と修道女が彼女に声をかけた。ディ・ルームの椅子に戻ったユーフラシアにL-DOPAの小さな白い錠剤と水を持ってきたのだ。
彼女が薬を服用すると、私たちはまるで化学反応を待つかのように時間を計測した。すると、14分後に、彼女が突然ものすごい勢いで立ち上がったので、椅子は後ろにひっくり返ってしまった。
ユーフラシアは廊下を突進し、筋肉が固縮していた間は話したくても話せなかった事を、収拾がつかないほどの勢いで一気にしゃべり始めた。
それは単にパーキンソン病による運動障害が緩解しただけでなく、彼女の感覚、感情、振る舞いの変容だった。…約20分後、ユーフラシアは何度かあくびをしたかと思うと唐突に静止し、もとの状態に戻ってしまったのだった。(p200)
内側からスイッチを切り替えられないパーキンソン病の人でも、薬を使えば、一時的に切り替え能力を取り戻すことができます。
もちろん、単純にドーパミンを補えばいい、ということではなく、L-DOPAの使用には大きな副作用も伴い、やがて薬のオンオフが極端になっていきます。
火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)によると、トゥレット症候群の場合は、逆にドーパミン受容体を遮断するハロペリドールという薬がしばしば用いられます。
トゥレット症候群は臨床的に明らかにされてからも長いあいだ、器質的障害ではなく「道徳的な病」だと思われてきた。原因は意志の面でのゆがみや弱さにあり、意志を鍛えて矯正すべきだという扱いをされてきたのである。
…1960年はじめに、ハロペリドールの投与で症状が劇的に軽くなることが明らかになり、風向きがとつぜん変化して、トゥレット症候群は脳内の神経伝達物質であるドーパミンのアンバランスによる化学的な障害だということになった。(p129)
この場合も、自分の意思ではどうにもならなかったスイッチングの問題が薬の効果で解消され、自分である程度コントロールできるようになります。
トラウマ障害の場合、これらと同等に考えるわけにはいきませんが、過覚醒状態ではドーパミンやノルアドレナリンが過剰になり、低覚醒状態では逆にそれらが遮断されてしまって身動きがとれなくなっているようです。
ドーパミンやノルアドレナリンが低下する低覚醒状態に陷っている人は、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際に書かれているように、自分で内側からモード切り替えできず、動き出すことができなくなり、凍りついてしまうことがよくあります。
一方、子どもの頃の性的虐待に苦しむビクトリアは、引きこもり、「ボーッとして」、身体と情動を感じることができないという、長年のパターンを訴えました。
…ビクトリアが発達させてきた行動傾向は、彼女を低覚醒ゾーンに留めていました。
すなわち、彼女は自分を「受動的」で行動をおこすことが難しいと説明し、そして「ボーッと」ソファに座って長時間を過ごしていると言いました。(p51)
トラウマの当事者は、こうした低覚醒の“冷たすぎるおかゆ”状態に陥ったとき、たいてい自傷行為や依存症によって無理やり外部から刺激を与えて温めようとします。それでも、生ける屍状態から抜け出すのは容易ではありません。
近年、セロトニンやドーパミンなどの神経伝達物質を大幅に増加させる麻薬であるMDMA(エクスタシー)が、こうした生ける屍状態にあるトラウマ当事者に役立つとして臨床試験が行なわれているという話がありました。
また、以前書いたように、境界性パーソナリティ障害の治療において、ドーパミン系やノルアドレナリン系に作用するADHDの薬が効くケースがあるようです。
このような薬は問題の根本を解決するものではないので、トラウマ症状を薬だけで治療することはできません。
しかし、パーキンソン病に対するLドーパのように、一時的にモード切り替えする能力を回復させ、動けないほど凍りついていた人が動き出し、なんとかしてセラピーに取り組めるよう手助けするようです。
同じような効果は、薬よりももっと安全性の高い音楽セラピーにも認められます。音楽セラピーは、パーキンソン病やADHDなどを対象に行なわれることもあります。
モード切り替えが苦手なADHDの人の中には、特定の作業に気持ちを切り替えるときなど、音楽の力を活用している人も多いでしょう。
音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々によると、音楽は、やはりドーパミン系を刺激することで、薬と同じような効果を一時的ながら生じさせるようです。
音楽は、のちにLドーパがやったのと同じこと、それ以上のことをやっていた―が、その持続時間は音楽が奏でられている短い時間と、そのあとの二、三分程度だけである。
比喩的に言えば、音楽は聴覚のドーパミンのようなもの、損なわれた大脳基底核を補う「人工器官」のようなものだ。(p352)
音楽はトラウマによる凍りつきを溶かすこともあり、ヴァン・デア・コークは身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、凍りついて生ける屍のようになって、身動きが取れなくなってしまったトラウマ当事者が、音楽の力によって動き出す様子を描写しています。
私は無力感というおなじみの感覚を味わい、虚脱状態の人々に囲まれて、自分自身も精神的に虚脱するのを感じた。
そのとき一人の女性が、体をそっと前後に揺らしながらハミングをし始めた。ゆっくりとリズムが生まれてきた。他の女性たちも少しずつ加わっていく。
まもなくグループ全体が歌い、動き、立ち上がって踊りだした。それは驚くべき変化だった。人々は生命を取り戻し、表情は同調し始め、生気が体に蘇った。
私は、ここで目にしているものを応用すること、そして、リズムと歌と動きがトラウマの治療にどのように役立ちうるかを研究することを誓った。(p350)
音楽の効果は一時的なものですが、自傷行為や依存症、中毒などで強制的にモード切り替えをしている場合の代替手段にはなりうるでしょう。
むろん、もっとも望ましいのは、自分でモード切り替えをコントロールできるよう訓練することです。
身体感覚をベースとしたセラピーは、過覚醒や低覚醒にはまり込んでいるときにそれに気づく能力を養い、自然な仕方で過覚醒や低覚醒から抜け出す方法を訓練してくれるかもしれません。
そのような手法のひとつであるソマティック・エクスペリエンスについて解説しているトラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復によれぱ、こうしたセラピーもやはり、脳のドーパミン・ノルアドレナリン系の働きを刺激することによって、自分でスイッチをコントロールする能力を育むようです。
モチベーションは脳のドーパミン系によって、また行動システムはノルアドレナリン作動性システムによって機能している。
大いなる困難に目的意識をもって対処するためには、治療過程において、両方のシステムを刺激していくことが必要である。
これは過去の悪魔に立ち向かい、それを変容させ、なすすべもなかった状態から、完全に自分の人生を把握している状態へと変容するための必要条件である。(p xi)
やはり身体志向のセラピーであるセンサリーモーター・サイコセラピーの場合も、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際によれば、目標はドーパミン系システムの安定であると書かれていました。
Janetがいったように、うまくいっている治療では、クライエントが生活の中で楽しむ能力が増していくという特徴があります。楽しむ能力は「どんなに困難であろうと、最大限の努力をして得なければならない」ほど重要なものです。
…トラウマに関連した症状を持つ人は、楽しさの体験をする能力を著しく損なっています。…脳のドーパミンシステムの混乱がこの困難の根底にあるという論拠もいくつか存在します。
…一般的に、トラウマをもつ人は、痛みと恐れを避けるよう行動したり、回避を目標とすることに慣れてしまっていて、楽しさをともなった肯定的な感情を見出すことには慣れていません。
…そういうクライエントは自分の好みがわからない、といいます。…何を面白いと思い、興味をもち、どんな感覚刺激が自分にとってよい感じをもたらすのか、わからなくなってしまうのです。(p415-417)
トラウマの影響で生活が受動的な条件反射に支配されている人は、ドーパミンシステムが安定し、自分の意思で能動的に行動を選べるようになって初めて、楽しさや心地よさを味わえるようになることがわかります。
より人格のスイッチングが顕著で、自分のうちに複数の人格が混在している、という感覚を強く意識している場合は、それ専用に特化した自我状態療法や内的家族システム療法について知ると役立つかもしれません。
これらは、内なる複数の自分のあいだに生じた葛藤を治療することを目的とした療法で、自分の心をひとつの内なる家族とみなし、それぞれの人格部分同士の関係を修復することで問題をほぐしていきます。
どちらも日本ではまだ専門的なセラピストが少ないのが残念ですが、今回紹介した 図解臨床ガイド トラウマと解離症状の治療―EMDRを活用した新しい自我状態療法は自我状態療法について、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法
は内的家族システム療法について、具体的な事例も含めて解説してくれています。
制御できないスイッチングから、魅力的な多面性へ
この記事で見てきたように、解離性同一性障害(DID)のような人格が複数に分かたれる現象は、恐ろしい奇病でもなければ、オカルトでもありません。
冒頭で引用したヴァン・デア・コークの言葉のとおり、一般の人たちが経験している感覚から決してかけ離れているわけではないことがわかります。
解離性同一性障害に見受けられる内部分裂や異なる人格の出現は、幅広い精神生活の領域の極端な例にすぎない。
自分の中に相容れない衝動や部分がいくつもあるという感覚は誰しも抱いているが、トラウマを負い、生き延びるために極端な手段に頼らざるを得なかった人々には、とりわけ顕著なのだ。(p457)
複雑な環境で生まれ育った人の場合、生き延びるためにより多くの人格モードを用意して、条件反射的に使い分けなければならなかった、ただそれだけのことなのです。
最後に、この記事で考えたことを簡単にまとめると以下のようになります。
人格の分裂を含め、解離はスペクトル(連続性)をもつ現象。「解離性連続体」というものさしに当てはめると、普通の人は左端、そして解離性同一性障害の人たちは右端に位置し、そのあいだには様々な程度のグレーゾーンの人たちがいる。
■スイッチング
解離性同一性障害と診断されるほどではなくても、「スイッチング」という形で無意識の人格の切り替わりに振り回されている人たちがいる。性格や筆跡、声のトーン、一人称などが切り替わってしまう。
■無意識の条件反射
だれでも多面的な自己を持っているが、ほとんどの人は自分で意識して使い分けることができているため、自分は一人だと感じる。
しかしスイッチングを起こす人は、パブロフの犬の条件反射の原理で、状況依存的に人格モードが勝手に切り替わってしまうので、自分の内部に相異なる複数の人格があるように感じる。
■無秩序型という生存戦略
ほとんどの人は秩序だった親のもとで育つので、それに対応した特定の愛着パターンを身に着けて適応する。
しかし無秩序で予測不能な養育環境で育つと、異なるさまざまな状況に対応しなければならないので、子どもは複数の人格モードを無意識のうちに使い分ける、無秩序型の愛着パターンを身につける。
■表面的にノーマルな人格(ANP)と感情的人格(EP)
スイッチングを起こす人は、ふだんの社会的な人付き合いでは「表面的にノーマルな人格部分(ANP)を使っている。
しかしトラウマを思い出させる場面に遭遇したときや、疲れて自己コントロールできなくなったとき、自宅にいるときなど、無意識のうちに感情的人格(EP)に切り替わって、衝動的に行動してしまうことがある。
■中毒、依存症、自傷行為
自分でモード切り替えできない人は、過覚醒や低覚醒に陷ったとき、外部から強制的にスイッチを切り替える手段として、依存症や自傷行為を利用している。仕事などの生産的な活動の中毒になって成果を挙げる人もいる。
■スイッチングの脳科学
自分でコントロールできないスイッチングには、左右の脳をつなぐ脳梁が小さいことや、尾状核のバイリンガル能力の機能不全が関係しているかもしれない。しかしそれらは、一概に障害とは言えず、創造性ともつながりがある。
■モード切り替えする能力を訓練する
無意識にやってしまう依存症や自傷行為を別の無害な代替手段に置き換えたり、音楽の力を活用したり、身体感覚を養うセラピーで切り替え能力を訓練したり、自我状態療法、内的家族システム療法などで各人格が抱えるトラウマそのものに取り組んだりすることが役立つかもしれない。
この記事で扱ったスイッチングの問題は、おそらく極めてありふれたものであり、かなりの数の人たちが人知れず悩んでいるはずです。
表面的にノーマルな人格部分を使いこなしている人たちの場合、社会的にはうまくやっていて、ときには模範的であるかにも見えるため、見かけ上は、他の人たちから問題に気づかれません。
しかし、だからといって問題が軽いわけではなく、人前での自分と一人でいるときの自分のギャップに苦悩し、だれにも相談できないでいるかもしれません。ときには自制しきれなくなって、いざこざを引き起こしてしまうこともあるでしょう。
問題なのは、スイッチングを抱えている人は世の中にありふれているにも関わらず、ほとんどの医者や支援者が、スイッチングについて理解していない、あるいは理解しようとしていないことです。
ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、スイッチングについてのペネベーカーの実験に触れたあと、次のような問題点を指摘しています。
そうしたまったく異なる状態を示す患者が、仮病として扱われたり、気まぐれに迷惑行動をとるのをやめるように言われたりしたなら、口を閉ざしてしまいやすい。
彼らはおそらく助けを求め続けるだろうが、黙らされたあとでは、助けを求める叫びを、言葉ではなく行動によって伝えることになる。それが、自殺企図や、抑うつ状態や、憤激の発作だ。
第17章で見るように、本人が生き延びるためにこうした異なる状態が果たしてきた役割を、患者とセラピストの両者が認めたとき初めて、患者は改善に向かう。(p398)
解離性同一性障害やトゥレット症候群、さらには不登校や新型うつ病などを取り巻く問題とも共通しますが、スイッチングによる人格モードや覚醒レベルのコントロールの難しさは、仮病や詐病、さらには本人の努力不足だとみなされがちです。
本当の問題は、強固に紐付けられた条件反射によって、本人も自覚できないままに、勝手に生理的なモードが切り替わってしまうところにありますが、スイッチングを理解できない専門家から、軽くあしらわれてしまいやすいのです。
ヴァン・デア・コークが述べるように、そうしたコントロールできないスイッチングは、仮病や気まぐれではなく、本人が生き延びるために身につけてきた生理的な生存戦略だと理解してはじめて治療の道筋が開けます。
そのためにはまず、当事者自身が、自分の抱えている問題の正体を知る必要があります。今回の記事で引用したような本は、スイッチングという現象について学び、今までどうやっても克服できなかった問題と向き合うのに役立つでしょう。
制御できない人格モードのスイッチングは極めてやっかいでエネルギーを消耗させますが、ひとたびコントロールできるようになれば、それは魅力的な多面性へと育てていける可能性を秘めています。
自己の複雑な多面性をうまく活用できるようになれば、あたかも多国語を自由にあやつる人のように、多面的な才能を発揮して、創造的な方向へとエネルギーを向けることができるようになるでしょう。
補足 : 人間は一貫した人格を持っているわけではない
この記事では、人はみな多面性があるのが普通である、という点について考えました。
たとえば職場では厳格な上司である男性が、自宅ではルーズな夫であり、子どもにはたいそう甘い父親である、という例のように。
多重人格というと現実とかけ離れた異常なものに思えますが、誰もが持つ多面性がコントロールできなくなっている状態だとみなせば、それほど日常からかけ離れた現象ではありません。
わたしたちの誰もが、場面ごとに多面性のある人格を有している、というのは近年の心理学の研究からも明らかです。
たとえば、自制心についての専門家である心理学者ウォルター・ミシェルのマシュマロ・テスト:成功する子・しない子で次のように書いています。
西洋では、人の特質や本質を考えるとき、自制や、欲求充足を先延ばしにする能力は個人の一貫した特徴であり、さまざまな場面や状況で行動に反映されるというのが、昔から前提になっていた。
だから、有名な指導者や芸能人、社会の柱石の人生の隠れた一面が暴かれ、判断と自制のとんでもない誤りと思える行状が明らかになるたびに、マスメディアは大きな衝撃と驚きを示すのだ。
…それを理解するために、さまざまなときに、さまざまな状況で、彼にの言葉だけでなく行動も注意深く眺めてみる。
誠実さや正直さ、攻撃性、社交性といった特性はそれぞれ、一貫した表われ方をする。だがそれは、特定の種類の状況下にだけ当てはまる一貫性だ。
ヘンリーは職場ではいつも誠実だが、家庭ではそうではない、リズは親しい友人といるときには温かく愛想が良いが、大きなパーティではそうではない、あの知事は州の予算を扱っているときには信頼できるが、魅力的なアシスタントに囲まれているときにはそうではないといった具合だ。
したがって私たちは、人が将来しそうなことを理解したり予想したりしたければ、その人がどういう状況で誠実だったり、愛想が良かったりするか、あるいはそうではないかを見てみる必要がある。(p112)
ウォルター・ミシェルが説明しているように、日々新聞やニュースを賑わすスキャンダルを見れば、人が一貫した生き物ではないことは明白ではないでしょうか。
わたしたちはみな一貫した人格を持っているわけではなく、場面や状況によってコロコロと節操なく変化してしまうほど不合理です。おかげで、教会指導者のような聖職者が児童虐待で告発されるような事態も後を絶ちません。
でも、一貫した人格ではないおかげで、「人間味がある」とみなされる場合もあります。たとえば、厳格でストイックな姿勢で知られたスポーツ選手が、テレビに出てみると気さくで親しみやすかったりするように。
よくも悪くも、わたしたちはみな、一貫していないからこそ人間なのです。
ところが、古くからの心理学では、「人の特質や本質を考えるとき、自制や、欲求充足を先延ばしにする能力は個人の一貫した特徴であり、さまざまな場面や状況で行動に反映される」という前提がなぜか信じられてきました。
そうした例のひとつが、性格傾向についての心理テストかもしれません。心理テストで判断された性格は、いつもその人に一貫してみられるものだとみなされます。でも本当にそうでしょうか。
たとえば自動車学校に行ったことのある人なら、適性試験という心理テストを受けたかもしれません。適性試験は、その人の性格傾向を分析して、危険運転の可能性を自覚するためのものだとされています。
しかし、ただのペーパーテストけ結果が、本当にその人の運転の特徴を示しているのでしょうか。
ミシェルは、「人が将来しそうなことを理解したり予想したりしたければ、その人がどういう状況で誠実だったり、愛想が良かったりするか、あるいはそうではないかを見てみる必要がある」と述べていました。
もしその人が本当に危険運転をするような性格かどうかを見極めるには、運転していないときの性格を調べても意味はなく、運転しているときにどんな傾向を示すかを見てみる必要があります。
昔からよく言われるように、「ハンドルを握ると性格が変わる」人の危険は、心理テストでは何もわからないでしょう。
人間はどんな状況でも一貫したものだと思いこむ似たような例は、心理学だけでなく経済学でも生じてきました。
かつて主流だった経済学では、人間は、どんな状況でも、合理的、理性的な決定を下すとみなされていました。
しかしリチャード・セイラーは、行動経済学の逆襲の中で次のように書いてそれに異を唱えています。
このように人は、経済モデルが想定する人間像から大きくかけはなれたふるまいをする。
…ただし、人々の行動はどこかがまちがっていると思っているわけではない。
私たちはただの人間、つまりホモサピエンスである。問題はむしろ、経済学者たちが使っているモデルのほうにある。
そのモデルでは、ホモサピエンスの代わりに、「ホネエコノミカス」と呼ばれる架空の人間が設定される。「ホモエコノミカス」というのは長ったらしいので、私は「エコン」と短く略して呼ぶようにしている。
エコンのいる架空の世界と比べると、ヒューマンは誤ったふるまいをたくさんする。(p22)
古くからの経済学では、人(エコン)はいつも合理的で一貫した振る舞いをすると考えられてきました。しかし、現実の人間(ヒューマン)はもっと不合理なふるまいをたくさんします。
リチャード・セイラーは、人間は場面や状況によって振る舞いや嗜好が変化することに注目し、従来の経済学とは違った分野から経済をとらえる行動経済学という分野の研究を推し進めています。
この行動経済学によって考案された概念のひとつに「メンタルアカウンティング」(心理会計)というものがあります。これは、人はアカウントを使い分けるように、場面や状況によってお金の使い方を変える、という概念です。
だれでも普段の生活と旅行の最中ではお金の使い方がまったく変わったり、いつもは節約している人なのに、不労所得を手にしたとたん後先考えず使ってしまったりするものです。
ファスト&スロー(下) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)ではこう説明されています。
リチャード・セイラーは、会計の世界とメンタル・アカウンティングとの類似性に長いこと魅せられてきた。
メンタル・アカウンティングとはいわば心理会計のことで、わたしたちの日常の生活を切り盛りするためにこの会計方式を活用している。
…合理的経済主体モデルに登場するエコンは、メンタル・アカウンティングとは無縁だ。エコンは何事も総合的に判断し、外部のインセンティブも考慮する。
一方、ふつうの人であるヒューマンにとって、別々の勘定に仕訳するのは一種の狭いフレーミングであり、限られた思考力で管理できる範囲に考慮の対象を制限している。
メンタル・アカウンティングは、金銭に限らず幅広く応用できる。(p201)
経済学の従来のモデルに出てきた合理的人間(エコン)と違って、わたしたち(ヒューマン)は、一貫したお金の使い方をせず、場面によって、ときには不合理にも思える判断をしてしまいます。
「メンタル・アカウンティングは、金銭に限らず幅広く応用できる」と書かれているように、わたしたちはお金以外のことを決定するにも、やっぱりアカウントを使い分けるかのような振る舞いをするものです。
たとえば家と職場でぜんぜん態度が違う前述の男性は、あたかもSNSのアカウントを複数持っていて、場面によって使い分けているようなものではないでしょうか。
その複数の心のアカウントが、うまくコントロールできず、互いに隔絶されてしまったり、思わぬ仕方で切り替わってしまう現象が、この記事で考えたスイッチングや解離性同一性障害だといえます。
スイッチングや解離性同一性障害が異常な心理現象だと見なされてきた背景には、さまざまな学問分野で、人間は一貫した人格を持っているという考えが誤って広められてきた事情があります。
しかし、身の回りのさまざまな例をよく見ればわかるとおり、人間はもともと一貫した生き物ではないのです。
多面性があったり、ある程度の裏表があったり、状況や場面によって態度を変えたりするのは間違ったことではなく、むしろごく普通のことです。
セイラーが言うように「私たちはただの人間、つまりホモサピエンスである」ことを示しているにすぎません。
ごく正常な心の多面性と、解離性同一性障害のような人格のスイッチングがつながっている、という観点がもっと一般的になれば、このような人たちが異常な精神病患者とみなされることがなくなるでしょう。
そのような無意識のスイッチングに振り回される状態は、誰でもなりうるものであり、回復することも十分可能な、「幅広い精神生活の領域の極端な例にすぎない」のです。