とくに脈絡のないかたちで人に会うと、たとえ五分前に一緒にいた人でも混乱してしまう。
ある朝、かかりつけの精神科医(その数年前から週に二度通っていた)の診察の直後に、そういう事態が起こった。
診察室を出て数分後、建物のロビーで地味な服装をした男性にあいさつされた。
見ず知らずの人がなぜ私を知っているのか、わけがわからなかったが、ドアマンが彼の名を呼んでようやくわかった―そう、彼は私の精神科医だったのだ。(p102)
これは、心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界という本の著者、オリヴァー・サックスの体験談です。
彼のような、顔が見分けられないという問題は、単なる記憶力の問題ではなく、れっきとした脳の機能障害であり、専門的に「相貌失認症」と呼ばれています。
相貌失認を抱えている人は、次のような日常生活の困りごとを抱えていて、それによって内気になったりコミュニケーションに問題を抱えたりすることが少なくありません。
■待ち合わせの場所に行ったのに相手を見分けられない
■知り合いと会っても分からず、無愛想な対応をしてしまう
■逆に知らない人に愛想よくして奇妙がられてしまう
■職場で会う仕事仲間など、普段会う場所が決まっている人と別の場所で会うとわからない
■顔以外の手がかりで見分けようと必死になるので疲れる
■大勢いる場所で親や友人とはぐれると見つけられない
このエントリでは、相貌失認を抱える4人の有名人のエピソードを例に挙げて、なぜ相貌失認が生じるのか、どんな原因があるのか、どうやって対処できるか、といったことをまとめたいと思います。
目次 (お好きなところから読めます)
これはどんな本?
今回取り上げる本はおもに以下の4冊です。
心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界は、神経学者オリヴァー・サックスによる、さまざまな視覚異常の症例がまとめられた本で、自身の相貌失認の経験談が含められています。
スルーできない脳―自閉は情報の便秘ですは自閉スペクトラム症(ASD)の翻訳家ニキ・リンコによる、自閉症の脳の解説書で、記憶の達人ソロモン・シェレシェフスキーの話が出てきます。
天才が語る サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界はサヴァンまたアスペルガーのダニエル・タメットが自身の特殊な脳機能を手掛かりにして、脳の秘密を探っている本です。
天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル (こころライブラリー)インテリアデザイナーの岡南が、アスペルガー症候群(AS)の有名人の認知特性について考察した本で、タイトルのとおり、ルイス・キャロルが相貌失認だった話が出てきます。
相貌失認を抱える4人の有名人たち
相貌失認とはどんなものかを知るために、まずは有名人の具体例を見てみましょう。
登場するのは、「不思議の国のアリス」の作家ルイス・キャロル、「偉大な記憶力の物語」のソロモン・シェレシェフスキー、サヴァン症候群のダニエル・タメット、そして神経学者のオリヴァー・サックスです。
作家ルイス・キャロル
天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル (こころライブラリー) では、「不思議の国のアリス」の作家ルイス・キャロルについて、相貌失認症を抱えていたと思わせるエピソードが紹介されています。
ルイス・キャロルはアスペルガー症候群(AS)でもあったと言われており、相貌失認とアスペルガーを併発していました。
キャロルの甥のコリングウッドによると、キャロルは記憶力はすばらしいのに、人の顔や日付が分からなかったそうです。
キャロルは少女と散歩するのが好きでしたが、必ず一対一で散歩しました。複数人を見わけるのが難しかったのかもしれません。
また突然知り合いから声をかけられると、混乱してしまった、というエピソードもあります。
さらに「鏡の国のアリス」に出てくるハンプティーダンプティーは、アリスの顔が、みんなと同じに見えて分からない、と苦情を言います。これはキャロルの体験談だったのかもしれません。(p274)
記憶の達人ソロモン・シェレシェフスキー
スルーできない脳―自閉は情報の便秘ですによると、人の顔が覚えられない相貌失認は、記憶力が悪いせいではない、ということを強力に示すエピソードがあります。
有名なルリヤの偉大な記憶力の物語――ある記憶術者の精神生活 (岩波現代文庫)に出てくる、あらゆるものを記憶でき、記憶術の分野ではひときわ有名になったユダヤ人ソロモン・シェレシェフスキー(シィー氏)は、超人的な記憶力の反面、人の顔は覚えられなかったそうです。(p159)
シェレシェフスキーは、記憶術について調べると必ず名前が出てくるほどの著名人で、場所法や共感覚を用いた記憶術の達人でした。それも訓練ではなく、生来の能力によるものでした。
シェレシェフスキーが人の顔を覚えられない理由は、その天才的な記憶力そのものにあるのではないかと推測されています。
シェレシェフスキーは、見たものを完璧に記憶できました。ところが、人の顔というものは、毎回表情など、微妙な点が異なります。それで細部まで記憶していればいるほどに、記憶と目の前の人の顔が一致しなかったのではないかというわけです。
人の顔を覚えるのは、「だいたいこういうもの」というある程度あいまいながら正確な記憶が必要です。しかし、超絶的な記憶力を持っていると、完全一致を脳が要求して、だいたい同じ顔を同一人物と認識できないのかもしれません。
シェレシェフスキーについて考察したニキ・リンコさんは、彼が自閉症的だったかどうかはわからないとしつつも、その相貌失認について、こう述べています。
シィー氏は完璧な視覚記憶と想起を駆使して記憶術の見世物で生計を立てていたにもかかわらず、解像度の高すぎる記憶が災いして、身近な知人の顔を覚えることができなかった。
…画像、それも、詳細かつ具体的な生の画像は、類似性を抽出する作業に向いていない。(p424)
ルリヤによると、ソロモン・シェレシェフスキーは比喩表現などの理解が難しかったらしいので、おそらくルイス・キャロルと似たとアスペルガー傾向があったのではないかと思います。
サヴァンの異才ダニエル・タメット
ソロモン・シェレシェフスキーと似たような能力を持つ現代の稀有な人物として、ダニエル・タメットがいます。
タメットはアスペルガー症候群であると同時に、数字が空間的に見えるなどの共感覚を有していて、円周率を22514桁暗唱したことで、サヴァン的能力の持ち主であることが広く知られるようになりました。また10ヶ国語以上を話す言語能力にも秀でています。
「サヴァン」とはいわゆる何かしらの弱点を持つ一方、特定の能力が異常に突出した人のことです。
たとえば何千冊もの本を一字一句暗記していたキム・ピークは「キムピューター」の異名をとっていました。先程のソロモン・シェレシェフスキーも、サヴァンの一人とみなしてよいでしょう。
ダニエル・タメットの経歴からすると、さぞかし記憶力がすばらしいのだろうと思わせますが、なんとシェレシェフスキーと同様、顔の記憶はてんで苦手だと著書天才が語る サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界の中で吐露しています。
ぼくの場合は、人の顔を覚えるのに大変な苦労をしている。何年もつきあっている人の顔ですら覚えられないのだ。(p77)
顔が見分けられない理由についてはシェレシェフスキーの場合とよく似た説明がされています。
人の顔の複雑さについてちょっと考えてみてほしい。
細かな部分がそれぞれ違っているばかりか、表情は一瞬たりとも固定しないで、絶え間なく動いている。
ぼくが友人や家族の顔を忘れないのは、最近撮った彼らの写真を思い出しているからなのだ。(p77)
彼は、自分がサヴァン的な能力を持っていることを認めつつも、顔を見分けられる普通の人たちの能力も十分すばらしいものであり、サヴァンと一般人は、能力の方向性が違うだけなのだ、とも説明しています。
ぼくが顔を覚えられないことは、ひとつの動かしがたい真実を示している。たいていの人が一生のあいだに苦もなくたくさんの顔(やその人に関するデータ、噂、他の細々としたこと)を見分けられることを考えると、大半の人は実に素晴らしい記憶力を持っている、ということだ。
サヴァンの人と一般の人の記憶力の違いは、どうやって覚えるかにあるのではなく、なにを覚えるかという点にある。
ぼくが覚えやすいのは数字と事柄で、一般の人たちが覚えやすいのは顔なのだ。(p78)
シェレシェフスキーとタメットは、いずれも強い共感覚と、それに裏打ちされた高い記憶力を有していて、顔を見分けるのが苦手という点でよく似ています。
また、ルイス・キャロルは数学者としての一面を持っていましたし、ソロモン・シェレシェフスキーやダニエル・タメットはふたりとも数字に親しみを感じていて、数字ひとつひとつに対応する異なるイメージを持っているので、おそらくはアスペルガー傾向も共通しているのでしょう。
神経学者オリヴァー・サックス
最後に、心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界によると、著者でもある神経学者のオリヴァー・サックスは、冒頭に挙げたエピソードのように、子どものころから中程度の相貌失認を抱えています。
中学校になると友だちに会ってもわからないことがしょっちゅうで、親しくなったのは、眉毛が太くで分厚いメガネをかけていたエリックと、背が高くてひょろっとしていたジョナサンだけでした。顔が分からなくても姿でわかったのです。
大人になっても、人の顔は見分けらないことによる失敗は多くあり、冒頭の精神科医とのエピソードはその一つです。あるときは、6年一緒に働いた助手のケイトと待ち合わせしましたが、顔がわかりませんでした。
パーティでは、「ぼんやりしている」「社会性の欠如」「アスペルガー症候群」などと、さまざまに言われてしまうそうですが、サックスはそれは誤解だとしています。
サックスは、別の著書の中で、アスペルガー症候群の有名人であるテンプル・グランディンについて詳しく書いていますが、自身がアスペルガーだとは述べておらず、むしろテンプル・グランディンを自分とは別のタイプの人間だとみなしているようです。
サックスは本の執筆時点で75歳ですが、相貌失認のひどさは変わっていないそうです。ただ、家族など本当に親しい人は見わけることができ、脳の別の経路を使っているか、訓練によって弱い紡錘状回がかろうじて働いているのだろうと考えています。
相貌失認に関わるさまざまな症状
このように、相貌失認を抱える人たちには、似通っているところもあれば、異なっている部分もあります。
オリヴァー・サックスの心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界には、相貌失認の神経学的な根拠や、疾患としての歴史についても書かれています。
相貌失認を初めて報告した医学文献は、イギリス人医師のA・L・ウィガンによる1844年のものだそうです。
1872年には、ヒューリングス・ジャクソンが、脳卒中後に顔と場所がわからなくなった人について書いています。
「相貌失認症」(prosopagnosia)という言葉は、1974年、ドイツ人神経科学者ヨアキム・ボーダマーによって初めて作られました。それ以来、「失顔症」(失読症や失語症に対応する呼び方)とも呼ばれ、脳の機能異常として知られるようになっています。
相貌失認の人は、人の顔が見分けられず、覚えられませんが、程度には個人差があり、数回会えばなんとか覚えられる人もいれば、自分の子どもや配偶者さえ見分けがつかない人もいます。
先天性の相貌失認
相貌失認には、先天性の相貌失認と、後天性(脳損傷)による相貌失認とがあります。
先天性の相貌失認を抱えている人の割合は、広く見積もれば人口の10%ほど、つまり10人に1人の割合であり、その中でも重度の人は2%、つまり50人に1人だとされています。(p126)
先天性の相貌失認の人は、脳に大きな病変があるわけではありませんが、脳の顔認識領域にわずかながらはっきりした変化が見つかっています。(p124)
また、相貌失認と場所失認(道や家の場所が覚えられない)といった症状は併発することもあり、似たような脳の部分が関係しているのではないかと推測されています。
先天性の相貌失認はある程度家族性があり、おそらく遺伝的な影響があると思われます。
先天性の相貌失認は、「発達性」の相貌失認とも呼ばれます。というのは、生まれつきの遺伝的な顔認識の能力が低いため、幼少期に顔を見分ける能力をうまく発達させることができず、結果として、大人になってから改善しようとしてもできないからです。
子どものときに言語を学んだり、愛着を形成したり、立体視視力を発達させたりできなかった人は、大人になってからそれらを学ぶことが難しいですが、顔の認識能力もそれら同様に、子ども時代のインプットが大きな意味を持っているようです。(p118)
後天性の相貌失認
脳損傷などの後天性の相貌失認では、脳の右の視覚関連野の、特に後頭側頭皮質の下側に病変があり、ほとんどの場合、「紡錘状回」に損傷が見られるそうです。脳の紡錘状回や内側側頭葉は、顔の認識能力に関係しているとされています。(p116)
アスペルガー症候群との違い
人の顔が分からないという相貌失認を持つ人は、サックスが述べるように、他の人から「アスペルガー症候群ではないか」と言われることがあります。コミュニケーションに問題を抱え、適切な親しみを示せないように見えるからです。
しかし、相貌失認とアスペルガー症候群は別物です。
相貌失認の人は、顔の表情には敏感なので、相手がだれだかわからなくても、幸せそうか悲しそうか、親しげか冷淡か、といった感情は読み取れます。しかしアスペルガー症候群の人は、逆に顔を見分けることができるのに、表情を読み取ることはできません。
オリヴァー・サックスの母は医師でしたが、内気で、人づきあいも少なく、人が大勢いる場所が苦手でした。しかし、彼女はコミュニケーションに問題のあるアスペルガー症候群ではなく、相貌失認のため、内気になってしまったのではないか、と書かれています。(p128)
相貌失認を抱えることを公表した俳優のブラッド・ピットも、自身の苦労についてこう語ってました。
「顔を覚えられない」ブラッド・ピットが失顔症を激白 | ニュースウォーカー
この世界では、何度も同じ人に会う必要があるんだ。それなのに顔を忘れてしまうから、人に会う度に不快な思いをさせるのではないかって、いつも心配しなくちゃいけない。
だから、家にいる方が気が楽なんだ。子供の世話で家から出られないって思われているみたいだけど、実際には全くその逆だよ。そろそろ検査をする必要があると思っている
しかし、アスペルガー症候群と相貌失認の両方が併存していて、顔を見分けられず、表情も読み取れない人たちがいることも確かです。(p129)
前述のルイス・キャロルやダニエル・タメットをはじめ、顔認識に苦労するアスペルガーの人は決して少なくないようです。
スルーできない脳―自閉は情報の便秘ですによると、有名な自閉症スペクトラム(ASD)の作家グニラ・ガーランドは、相貌失認も併発していました。
学校でいじめられたとき、いじめっ子の顔がわからないので、いろんな子が日替わりでいじめに来ているように感じられ、自分はひときわ目立って異常なのだと思ってしまったそうです。(p14)






