オリヴァー・サックスが左足を取り戻したときの「畏怖の念」およびヨブ記から学べる教訓

の記事は、危機的状況下における凍りつきから回復するときに感じる畏怖の念について考察した以下の記事の補足です。長くなったので別記事として分割しました。

大自然から感じる「畏怖の念」を科学するー凍りついた人を生き返らせる逆PTSD効果
ポリヴェーガル理論など、近年の科学的研究に基づき、畏怖の念とは何か、どんな生物学的機能があるのか、大自然の中で味わう畏怖の念によってどのようにトラウマから回復できるかを考えました。

本文中で書いたように、わたしたちは生物学的な防衛反応として、危機的状況では凍りつき/擬死状態に陥って、あたかも死んだようになります。これが、野生生物にも人間にも見られるトラウマ反応です。

しかし、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているように、その死んだような状態から息を吹き返すときには、自発的な「身震い」が生じます。

この身震いとともに、凍りついていた神経系がリセットされ、生命力が復旧し、人はしばしば畏怖の念を覚えます。

地面に横たわっているときと救急車で搬送されているときに私が経験した、からだの震えやおののきは、神経系をリセットし、精神を全体性へと回復させてくれた生得的なプロセスの中心的部分である。

…中央アフリカのマラウィにあるムズズ環境センター所属の生物学者アンドリュー・ブァナリに、私自身のことや何千人ものクライアントがセラピーのセッション中トラウマから回復するときに自発的にブルブル震え、おののき、呼吸をするのだとかつて話したことがある。

アンドリューは興奮気味に頷き、そして急に大声で「そう……そう……そうです! まさしくその通りです。

捕獲した動物たちを野生環境に戻す前に、私たちは動物たちが今あなたがまさに言った通りのことをやり終えたかどうか確認するようにしているのです」と言った。(p19)

トラウマの凍りつき状態から復旧するときに身震いを通して「神経系をリセット」するのは、わたしたち人間を含め、動物たちに備わる生物学的なプロセスです。

脳神経科学者オリヴァー・サックスは、その著書、左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)の中で、自身の体験を通して、この死んだような凍りつき状態から息を吹き返すときに起こる現象について述懐しています。

この補足では、オリヴァー・サックスの実体験、および彼が著書で引用している古代の物語「ヨブ記」の記述などを通して、トラウマ状況下における凍りつきからの回復がいかにして起こるのかを、さらに調べてみたいと思います。

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大自然から感じる「畏怖の念」を科学するー凍りついた人を生き返らせる逆PTSD効果

2014年の夏、この峡谷をアメリカの帰還兵の一団が下っていった―こんどは全員が女性で、兵役中に心身に深い傷を負っていた。…彼女たちもまたアメリカの大自然を探検すべく川の旅を始めたのだ。

…畏怖の念にほんとうにPTSDとは反対の効果があるなら、そうした効果をもっとも必要としている人たちの脳にも効能はあるのだろうか? (p272-273)

「畏怖の念」と聞くと、あなたは何を思い浮かべますか? 大自然の中で感じる崇高な気持ちでしょうか? あるいは宗教体験における神に対するスピリチュアルな感情でしょうか?

自然を離れて都会で生きることが多くなった現代人は、今やめったに畏怖の念を感じるような体験をしなくなりました。

畏怖のは古来から重要な感情とみなされてきたらもかかわらず、どんな仕組みで感じるのか、なぜそのような感情が必要なのか、といった点は、「ごく最近まで、科学的な研究はほとんど行なわれてこなかった」ようです。(p262)

しかし近年、カリフォルニア大学のダチャー・ケルトナーやポール・ピフといった心理学者たちにより、この不思議な感情の効果が注目されています。

畏敬の念が生き方にプラスに作用 - WSJ

最近発表された研究調査結果から、実際に畏敬の念を覚えるような体験をすると、健康状態は良くなり人間関係も改善されるなどさまざまな効用があることが分かった。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方によれば、「数あるポジティブな感情のなかで、畏怖の念は唯一、IL-6の値を大幅に下げる感情と考えられて」いて、『「逆PTSD効果」があるかもしれない』とする専門家もいます。(p263-264)

興味深いことに、ここ最近のトラウマ医学の著しい進展によって、畏怖の念が持つ生物学的な役割のヒントが得られるようになりました。

もしかすると、ヒトを含めた動物が、はるか昔から恐ろしい捕食体験などのトラウマにさらされながらも生き延びてこられたのは、畏怖の念がトラウマ反応をリセットし、「逆PTSD効果」をもたらしてくれていたおかげだったのかもしれません。

この記事では、まず、トラウマ医学の生物学的な観点から、畏怖の念とは何かを調べます。次いで、大自然の中で感じる畏怖の念が、なぜ今のわたしたちに必要なのか考察したいと思います。

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本当は何も知らないことに気づけない―だれもが陥る「知ってるつもり」の認知科学

「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らない」。(新共同訳) 

およそ2000年前、新約聖書の筆者はそのように書いたそうです。

この言葉は、知識が飛躍的に進歩した今日でも真実であり、知ってるつもり――無知の科学の著者である認知科学者スティーブン・スローマンとフィリップ・ファーンバックは、次のように書いていました。

おそらくなにより重要なのは、個人の知識は驚くほど浅く、この真に複雑な世界の表面をかすったぐらいであるにもかかわらず、たいていは自分がどれほどわかっていないかを認識していない、ということだ。

その結果、私たちは往々にして自信過剰で、ほとんど知らないことについて自分の意見が正しいと確信している。(p12)

2000年前も、現代も、わたしたち人間は、ほんのわずかしか知らないことを「知ってるつもり」になる、という点で何ら変わっていません。

スローマンとファーンバックは、「さまざまな心理学的現象を研究してきたが、知識の錯覚ほど出現率の高いものにはめったにお目にかからない」とさえ述べています。(p33)

自分が本当は物事を知らないということに気づけない、という現象は、もちろんこの記事を書いているわたしも含め、あらゆる人が日常的に経験する普遍的な錯覚であり、人類社会の隅から隅にまで浸透しています。

しかも自分がその錯覚に陥っていると気づくことからして困難です。世の中にみられる極端な思想の対立は、本当はろくに知らないことをよく知っていると思い込み、自信満々に支持してしまうせいで生じていることが多い、と著者たちは述べています。

人はなぜ自らの理解度を過大評価してしまうのでしょうか。どうすれば自分が知識の錯覚に陥っていることに気づけるでしょうか。そもそもどうして人類という生き物は、知識の錯覚を抱くよう発達してきたのでしょうか。

この記事では、わたしたちを謙虚にしてくれる知ってるつもり――無知の科学の研究を紹介したいと思います。

また記事末の補足部分では、「知っていると同時に知らずにいること」と表現される「解離」との関係性についても考えます。

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植物もトラウマを記録する―逃げられない環境ゆえに発達する受動的な生き残り戦略

コセンダングサは針で刺されたという「トラウマ」的経験を何らかの方法で保存し、頂芽が切り取られたとき―それが何日もあとのことでも―過去のトラウマを想起するしくみをもっているに違いない、とテリエは考えた。

その後の実験は、コセンダングサの芽はどの葉が損傷したかを憶えている、という彼の推測を確定させた。(p144-145)

ロイトの時代以来、トラウマは「心的外傷」と定義され、精神科医によって研究され、メンタルヘルスの問題として扱われてきました。

しかし近年、トラウマを単なる「心の問題」とみなす治療は十分な成果をあげていないばかりか、そもそもトラウマは心の問題ではないことを示す科学的な証拠が増えてきました。

カウンセリングではトラウマを治療できないのはなぜか―物語ではなく経験が必要な理由
トラウマの治療において、従来の対話を中心としたセラピーに限界があり、身体志向の方法が必要な理由をさまざまな研究をもとに考察しました。
もはやトラウマは心の病ではなく内臓の微生物群集(マイクロバイオーム)を取り巻く生態系の問題だというパラダイムシフト
エムラン・メイヤーの研究から、トラウマ医学におけるマイクロバイオーム(体内の微生物群集)の重要な役割について考察しました。

このブログではこれまで、トラウマという概念の中核にあるのは、人間にしか当てはまらない心理学・精神医学的な現象ではなく、人間以外の動物にも普遍的に観察される、生物学や動物行動学の分野の現象であることを、さまざまな記事で説明してきました。

そんなわたしでも、植物はそこまで知っている (河出文庫)という本を読んでいて、植物もトラウマを記録する、という研究を目の当たりにしたときは、いささか驚きました。

しかもこれは比喩や誇張ではなく、人間のトラウマと共通するメカニズム(手続き記憶やエピジェネティクス、マイクロバイオームなど)によるものなのです。

しかし、よくよく考えてみれば、これは何ら不思議なことではありませんでした。トラウマとは、逃げられない環境でのストレス(「逃避不能ショック」と呼ばれる)に対処するための生物的な生き残り戦略ですが、土に根を張った植物ほど典型的な「逃げられない」環境で生きる生物はいないからです。

この記事では、脳すら存在しない植物でもトラウマを記録しているという研究から、わたしたち人間が経験するトラウマとはいったい何なのか、改めて探ってみたいと思います。

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もはやトラウマは心の病ではなく内臓の微生物群集(マイクロバイオーム)を取り巻く生態系の問題だというパラダイムシフト

たいていの患者と同じく、ジェニファーは、身体や情動に関する一連の症状が相互に関連している可能性や、幼少期のストレスに満ちた暮らしに結びついている可能性を、まったく考えていなかった。

まして、幼少期の経験が、腸と腸内微生物と脳の関係を不健康な方向にプログラミングしたなどとは、彼女には思いもよらなかった。

だが、最新の科学の目覚しい進展を考慮すれば、この知見を医療に取り入れるべき時はとうに来ている。(p116)

前わたしは、さまざまな証拠からするに、現在「トラウマ」として研究されている問題は、マイクロバイオーム(体内の微生物群集)の問題と深くオーバーラップしているはずだと書きました。

愛着やトラウマをめぐる物語の主役は腸内細菌かもしれないという意外すぎる話
神経寄生生物学の知見から、愛着やトラウマの問題を腸内細菌を中心に読み直してみました。

その証拠としては、まず子ども時代のトラウマによって発症率が跳ね上がる病気の種類と、マイクロバイオームの混乱によって発症率が高まる病気の種類がまったく同じであることが挙げられます。たとえば、喘息、うつ病、自己免疫疾患、消化器系疾患、慢性疲労症候群、線維筋痛症などです。

また、動物実験レベルでは、腸内細菌を入れ替えると性格やトラウマ反応までが入れ替わることも重要な点でした。トラウマに特徴的に闘争/逃走反応や、凍りつき/擬態死反応は、あたかも腸内細菌によってコントロールされているようにさえ見えます。

そして、何より、近年、ヴァン・デア・コークやピーター・ラヴィーンのようなトラウマ専門医が、トラウマの“震源地”は内臓であり、迷走神経を通して腸から脳にトラウマ反応が伝えられる、と主張していたことがあります。

これだけの証拠がそろっているのですから、遅かれ早かれ、トラウマの研究にはマイクロバイオームという視点が導入されねばならない、と切実に感じていましたが、わたしが気をもむまでもなく、すでに研究が始まっていました。

今年5/31に発売されたエムラン・メイヤー医師の腸と脳──体内の会話はいかにあなたの気分や選択や健康を左右するかはまさにこのテーマに関する本で、トラウマがいかにして脳-腸-マイクロバイオーム相関という三位一体のネットワークで繰り広げられるかを扱っています。

今後のトラウマ研究は、もはやメンタルヘルスの研究であってはならず、脳だけの学問であってもならず、腸脳相関、そして何よりマイクロバイオームという視点が絶対に必要だ、とはっきり感じさせてくれるこの本を紹介したいと思います。

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